【第83回定例記者レク概要より抜粋】
次に、今回の事件を通して見た政治、検察、メディアの関係についてお話をしてみたいと思います。まず政治です。
これほど政治が検察、メディアに対して、まったく無力であるということをさらけ出したと思います。昨年の西松事件のときも含めてです。政治が政治として、政治の内部における自浄作用もほとんど発揮できない。そして、検察の捜査に対しては、まったく無批判にそれをそのまま受け入れる。その中で、中には民主党の石川議員の同期の中には逮捕事実をもっときちんと明らかにしようじゃないか、みんなでちゃんと理解しようじゃないか、そこを検証しようじゃないかという動きがあっても、結局それはメディアから批判されるとその動きはあっという間に吹き飛んでしまう、という状況で、結局、検察に対しても、メディアの報道に対しても、主体性をほとんど発揮することができなかった。
そしてそれは、捜査の対象になっていない自民党などは、もっけの幸いとばかりに、検察やメディアの報道の尻馬に乗って、自分たちが政治的に優位な立場に立とうとする。こんなことが今後も繰り返されていったら、恐らく二大政党制は全然日本に根付かないと思います。二大政党制というものがきちんと日本に根付くためには、まず、政治家が政治家たる自覚を持たないといけない。その自覚のなさをさらけ出してしまったのが今回の問題に対する各政治家、政党の対応ではないかと思います。
そして、メディアの問題ですが、今回のメディアの問題が、検察の情報漏洩だとか、検察リークを垂れ流しただとか、そんなような薄っぺらな形で問題にされていること自体、まったく本質をとらえていないと思います。今回の問題に関するメディアの問題は、司法クラブメディアは検察と一体化している、そして非司法クラブメディアは独自の視点からいろいろな問題を報道してきてはいても、情報量や視聴者層が限られてしまって、世の中の人はほとんど司法クラブ系のメディアの情報一色になってしまった。それは、まさに、検察という1つの権力とメディアとの関係という構造的な問題であって、独立した機関が情報を特定のメディアにリークして、情報漏洩して記事を書かせたという矮小な問題ではないと思います。
一番問題なのは、検察が向かっている方向と常に司法クラブ系のメディアが同じ方向を向いてしまっている。だから批判、検証ができないわけです。基本的に、心情的に同じ方向を向いているのはいいんですが、その中にやっぱり立ち止まって考える、立ち止まって疑問を持つという冷静さがなければメディアではないと思います。今までいろいろな問題を指摘してきました。西松事件でもそうだし、今回の問題についても指摘してきました。それについて、メディアの方で、郷原はこんなことを言っているけどもこれはおかしいという話を聞いたことがありません。そこは、基本的に一体関係でもいいんですけども、ある面では検察の捜査に対して権力、権限の行使ですから、冷静に客観的に冷めた目で見ることができる、そういう余地を残しておかないといけないのではないかと思います。
それから、今日の新聞などでしきりに書かれているのが、まだ小沢氏が不起訴になったといっても検審がある、検審で2回起訴相当議決が行われたら、起訴強制されるんだ、まだ小沢氏は罪を免れたと思うのは早いぞ、というような言い方の記事がけっこう出ています。
私は、少なくとも検察がそういうことを念頭に置いて、最後は検審が判断してくれるという考え方を持って処分をすることは絶対にあってはならないと思います。
そもそも、検察審査会法が改正されて議決の拘束力が与えられたのは、今までの検察の捜査のあり方、処分のあり方に対していろいろな不信が生じてきたからです。とりわけ最大の原因になったのは福岡地検の次席検事の問題です。ああいったことを機に、検察が不信感を持たれたから、それに対して検察の処分権限に例外を求めようということで、例外的に検察審査会の議決に強制力を持たせる話になったわけです。
検察が行うべきことは、そういう実態になってしまつたことについて謙虚に反省して、自分たちの処分権限をもっともっと国民が信頼してくれる努力をすることではないかと思います。そういう意味で、とりあえず被害者がこう言っているから、遺族がこう言っているから、
あるいは世の中がこう騒いでいるから不起訴にするけれども、検審でひっくり返ったらまた考え直そうというようないい加減なことを考えていたら、検察はそのうち組織として消滅してしまうと思います。
私は、刑事司法の中核としての検察の役割は決して変わることはないし、今後も世の中がますます複雑多様になるに従って、罰則適用という形での制裁を検察が適切に運営していく、適切に行っていく必要性は、これまで以上に高まっていくと思います。そういう面で、これから、検察はもっともっと世の中に対して、社会に対して、開かれた目を持って、社会の実態に本当に適合した重大性、悪質性の判断を適切に行っていく。そのために検察はもっともっと進化しなければいけないと思います。
私も、そういう観点から今回の問題について、一検察OBとして発言してきたつもりです。今後も、まずは石川議員、現職の議員でありながら10万を超える十勝、帯広の有権者の人たちの支持を得て、これから通常国会に出席しようとするときに、それを阻まれてしまった石川議員が、一体どんな事実で、どんな証拠で、政治資金規正法違反とされたのか、起訴されたのかを、今後の刑事公判の中でしっかり見ていきたいと思います。私が今考えている事実関係とか、証拠関係だと、本当に石川公判はどうなるんだろうかと思います。
通常の特捜事件であれば、問題事件であっても、半年や1年は検察官の立証の段階で一応公判は順調に推移して、弁護人立証の段階でおかしくなっても世の中人はだいたい忘れているということで済むわけです。しかし今回の問題はそんなレベルではないのではないか。本当に、この事実関係のもとで悪質重大な政治資金規正法違反と言えるのかどうか。冒頭から、第1回公判からしっかり、検察の立証と、弁護側の反証を見ていく必要があるのではないかと思います。
問題は、事件の重大性・悪質性だけではありません。そもそも、意図的な収支報告書の虚偽記入や不記載に当たるか、犯罪が成立するのか、という問題です。定期預金の名義を小沢氏個人にしておけば何の問題もなかったわけで。要するに、自白の内容が小沢氏から現金が入ってきたことを隠したかったから書きませんでしたという自白が、果たして客観的な事実に符合しているのかどうか。そうしたかったんなら別に名義を小沢氏名義にすればよかったわけです、定期預金を。それをやらないで、定期預金の名義を陸山会にし、なおかつ不記載にして隠すということが、どうやったら合理的な説明がつくのでしょうか。
ですから、そういう自白調書になっているかどうかは、第1回公判でだいたいわかるのではないかと思います。そこがクリアされていれば、その次に重大性、悪質性の問題になるけれども、私はまだそこのところが全然自分で理解できないので、はたして第1回で納得できるような立証ができるのだろうかということも疑問です。
若干、感想めいた話になりますが、西松事件のときの世の中の雰囲気、検察の捜査に対する見方と、今回の捜査に対する見方はずいぶん違いました。私は基本的に同じスタンスでものを言ってきたつもりですが、西松事件のときは国策捜査というフレーズがあったために、世の中の人がその国策捜査というものに対する反発、批判というものを検察にぶつけた。ですから、私がやってきた検察批判も受け入れられやすかった。今回はそうではありませんでした。今回は国策捜査というフレーズがなかったために、捜査や事件の中身の問題だけです。しかし、その中身の問題は西松事件よりもはるかに問題のレベルは大きかった。それを私はずっと、この問題を1カ月以上ずっと言い続けてきましたが、はっきり言って、西松事件のときよりも非常につらかったことは間違いないです。本当に、事務所なぜ小沢の肩を持つのか、というようなご批判とか、不満の声も届きました。しかし、一方では本当に勇気づけてくれた、支援してくれた人たちもたくさんいました。そういう人たちのことを思って、これからも同じスタンスでこの問題について意見を言っていきたいと思っています。