「強運」と「不運」の“光と影”

40年近く前、司法試験に合格した後、司法研修所に入所するまでの期間、司法試験受験生の指導をしていた時に、しばしば、理学部卒・独学で2年で合格した「運の強さ」の秘訣について聞かれたとき、次のように話していた。

世の中には、運に恵まれることと、不運に見舞われることがある。運に恵まれた時には、自分は強運の人間だと思って、その強運に自信を持てばいい。不運に見舞われたら、人が一生に与えられる運の量は同じ、不運に遭ったということは、その分、運を将来に蓄積したと受け止めれば良い。

運不運の受け止め方は、その後の私の人生でも、基本的に変わらなかったと思う。

そういう私にとって、「不運」の極限だったのが、カープファンとして、東京で「広島・巨人戦」を応援した際の戦績だった。

半世紀にわたるカープファンである私は、後楽園球場の時代も含め、東京で、「広島・巨人戦」に行って、一回も、広島の勝利を目にしたことがなかった。その「不運」の連続は、3年前から一転して「強運」そのものとなり、それ以降、私が東京で応援に行った際、一度もカープは巨人に負けていない。

その「強運」が極端な形で表れたのが、昨日(7月31日)の東京ドームでの「広島・巨人戦」だった。

交流戦最下位で一気に順位を落とした後、復調し9連勝を遂げたカープは、カード初戦の前日に敗れ、連勝がストップしてしまっていた。その直後の重要な一戦。一方の巨人にとっても、一時は首位独走状態だったのに、3カード連続負け越しで、2位との差が3.5ゲームまで縮まった。その後の連勝で一機に首位固めを狙うために、極めて重要な試合だった。

結果は、3-2とカープが接戦に勝利し、巨人との差を5ゲームに縮めた。

ちょうど3年前、カープの17年ぶりのリーグ優勝が現実のものとなりつつあった時期、それまで41年間続いていたジンクスを打破すべく苦悶していた時期とは、全く正反対だ。

長年にわたって、私が「広島・巨人戦」でのカープにもたらしてきた「不運」から、今、一転して「強運」をもたらすようになった経過を振り返ってみると、そこに、「強運」と「不運」の“光と影”が、鮮やかなコントラストをなしている。

まず、3年前にツイッターにアップし、かなりの反響を呼んだ【ある不幸なカープファンの物語】を、そのまま引用する。

カープファンとしての私の歴史は、昭和40年前後、広島で過ごした小学生時代に始まる。父に連れられ、広島市民球場で、カープの試合を観戦した。

当時、広島カープは「万年最下位」と言われた弱小チームだった。

巨人戦以外では、観客の殆どがカープファンだが、現在のような、お揃いのユニフォームや鐘、太鼓、ラッパによる秩序だった応援などというものとは全く異なって。カープの攻撃で凡退する度、敵の攻撃で失点する度、ため息とヤジと怒号が飛び交い、グランド内に、物が投げ入れられたり、観客が乱入したりしてゲームが中断する。

中盤までに失点を重ねると、決まって、カープファン同士の「喧嘩」が始まる。

「今日のカープは、はあ(広島の方言で「もう」という意味)だめじゃあ」と言う諦めの早いファンと、「逆転するんじゃ」と反発するファンとの間で、言い争いになり、時にはつかみ合いになる。

期待はいつも失望に変わり、さらには味方選手への不満につながる。負け試合では、ヤジの大半は味方選手をヤジり倒すものだった。そういう屈折したカープファンの心理が渦巻く広島市民球場の雰囲気は、何とも殺伐としたものだった。

当時、プロ野球ファンの中では、最も恵まれない存在だったカープファンだったが、それだけに、「悲願の初優勝」は、ファンすべての夢だった。

私は、父の転勤に伴って、中学校3年になった年に、島根県松江市に転居、その後高校まで松江市で暮らした。周囲がみなカープファンだった広島時代とは異なり、松江にはカープファンは全くいなかった。テレビのプロ野球中継は巨人戦ばかりなので、「プロ野球は巨人」と思い込んでいる人間ばかりだった。

そのような環境での孤立感もあって、私のカープへの思い入れは一層強くなった。毎年、プロ野球開幕から1、2か月ほどは、「今年こそ初優勝」と、毎晩、カープ戦のラジオ中継に聞き入った。そのラジオは、広島市の中国放送が中国山地を超えて微かに届く電波、ラジオを耳に押し付けてボリュームを一杯に上げて、雑音の中からかすかに聞こえるアナウンサーの声で戦況がようやくわかる程度だった。それを試合開始から終了まで聞き続けた。しかし、この頃のカープの弱さはセリーグの中でも際立っており、「鯉のぼりの5月」を過ぎると負けがこみ、優勝は絶望的となって私はカープのラジオ中継から解放される、ということが続いた。

大学に入学して東京に暮らすようになってからは、広島の中国放送を聞くこともなくなり、カープファンとしての意識が若干希薄になっていった。

そして、大学3年の1975年、ルーツ監督・古葉監督の下での「赤ヘル軍団」カープの快進撃が始まった。カープの勢いは、例年のように「鯉のぼりの5月」では終わらない。一方、前年にV10を逸して、長嶋茂雄氏が引退し、監督に就任して初めての年となった巨人は開幕から負け続け、早々に優勝は絶望的になっていた。

かつてのカープと巨人の関係が逆転したような状況に気を良くした私は、当時、住んでいた本郷三丁目から後楽園球場まで歩いて広島・巨人戦の観戦に出かけた。

しかし、なぜか、私が後楽園に行くと、必ずカープは負ける。長嶋巨人を応援する巨人ファンがはしゃぐのを横目に、悔しさを噛みしめながら球場を後にするということが、3回ぐらい続いた。

私は考えた。「今年は、これほどカープが勝ち、巨人が負けているのに、自分が球場に行くときだけ広島が負けるというのは、どう考えてもおかしい。3連戦のうち1試合だけ行っているから、たまたま負け試合に当たるのだろう。3連戦全部行けば、さすがに全部負けることはないはずだ。」

そう思って、6月末頃の巨人・広島3連戦、3日続けて後楽園球場に行き、外野席の立見席で観戦した。しかし、何と、カープは巨人に3連敗してしまった。

さすがに、それ以降、後楽園球場に行くのはやめた。

すると、カープは、その後快進撃を続け、10月の後楽園球場での巨人戦に勝って、とうとう悲願の初優勝を果たした。私は、球場には行かず、初優勝の喜びを一人かみしめた。

こうして、カープが「悲願の初優勝」を果たしたことで、長年の私の夢は実現し、それ以降、カープへの思い入れは次第に沈静化していった。

初優勝を遂げた後のカープは、チームのイメージも変わった。女性、子供のファンが圧倒的に多くなり、球場での応援も、屈折した殺伐とした昔の広島市民球場とは全く違う、秩序立った、華やかなものになっていった。

1979年、80年とカープは2年連続でリーグ優勝し、80年には、初の日本シリーズ優勝も果たした。1975年のリーグ初優勝の後、1991年までに合計6回リーグ優勝した時代のカープは、もはや、昔のような万年最下位のカープではなかった。初優勝を夢見ていた頃のようなカープへの情熱は少なくなり、むしろ、私にとっては、「巨人が負けること」の方が重要だった。私が「万年最下位」のカープを応援し続けていた間、圧倒的な強さを誇っていたのがV9時代の巨人だった。カープはいつも巨人に打ち負かされていた。その巨人は、「いくら負けても、まだまだ負け足りないチーム」だった。そのV9時代の巨人の中心選手が長嶋であり、その長嶋が率いる巨人には、もっともっと負けてほしかった。

しかし、長嶋監督就任後最初の昭和50年、カープの初優勝の年に最下位に終わった巨人は、翌年には息を吹き返しリーグ優勝し、その後も、優勝を繰り返した。それは、私にとって不愉快極まりないことだった

しかも、「権威」や「権力」に対して対抗意識が強かった私にとって、プロ野球の世界の「権力」そのものである巨人が勝つこと、シリーズや日本シリーズで優勝することは不愉快なことだった。私にとって、プロ野球は「巨人の優勝を阻止するチームを応援すること」が中心だった。もちろん、その巨人の優勝を阻止するチームになってほしいチームのナンバーワンが広島カープであったことに変わりはなかったが、カープは、91年以降、リーグ優勝から遠ざかり、「巨人を倒すチーム」にはなり得ていなかった。

 そういう私にとって、1996年のセリーグペナントレースは生涯忘れられない悲しい結末になった。この年のカープは、前半戦、好調に勝ち続け、7月には、2位の巨人に11.5ゲームを付けて独走していた。しかし、その後、不調に陥って、巨人に追い上げられ、とうとう最終戦で逆転されて、巨人のリーグ優勝に終わった。

この時、私以上に熱烈なカープファンだった母が、末期の大腸がんで広島市内の病院に入院していた。病室のテレビで懸命にカープを応援する母の願いもむなしく、巨人とのゲーム差は悪夢のように縮まっていった。巨人の「奇跡の逆転優勝」という、考えたくもない、忌まわしい事態が、「メークドラマ」という言葉で徐々に現実化していった。東京ドームでの最終戦、カープが逆転された試合をテレビで見ていた母は悲鳴を上げていた。二ヶ月後、その病室で母は息を引き取った。

この出来事以降、私の巨人に対する感情は、反感から憎悪に近いものになっていった。

 

その後長らく、優勝争いとはほとんど縁がなかったカープが、久々に巨人を倒すチームになる期待を感じさせてくれたのが2014年だった。3位でペナントレースを終えたカープは、クライマックスシリーズファーストステージで阪神に快勝、その勢いで、ペナントレース優勝の巨人とのファイナルステージに挑む。若手選手中心のはつらつとしたチームに、絶対的エース前田健太もいる。私は、久しぶりに球場でカープを応援することにした。チケット屋で定価の数倍もするチケットを買い、第2戦の東京ドームに乗り込んだ。

しかし、前田は打たれ、カープの強打線は、菅野投手の前に手も足も出ず惨敗した。やはり、「私が東京で広島・巨人戦を観戦に行くと必ず広島が負ける」というジンクスが、40年近くを経た後も変わっていないことを再認識した。そのシリーズ、結局、カープは巨人に1勝もできなかった。

久々に東京ドームで味わった悔しさで、私のカープファン魂は強烈に蘇った。翌2015年、アメリカ大リーグで活躍した黒田の復帰で期待が高まるカープの応援に神宮球場に出かけた。

多くの「カープ女子」を含む真っ赤なスタンドでのカープファンの応援は、かつての広島市民球場の殺伐とした、すさんだカープファンとは全く対照的だった、私も、真っ赤なカープ帽、応援グッズを携え、神宮球場に通った。しかし、この年のヤクルトは強かった。黒田が登板した試合でもヤクルトの強打線に打ち込まれた。結局、私が神宮球場に行った5戦すべてで、カープはヤクルトに敗れた。

そして、今年(2016年)のペナントレースが開幕、広島は開幕から打線が好調、4月16日、初めて東京ドームでの広島・巨人戦、予告先発は、昨シーズン巨人に負けがなかった黒田。東京での広島の巨人戦勝利を目にする最大のチャンスが訪れたと思った私は、東京ドームに出かけた。

しかし、黒田は不調、序盤から打ち込まれる。広島も追い上げたが、結局1点差で負けた。球場を埋め尽くす巨人ファンがオレンジのタオルを振り回すという「おぞましい光景」を見せつけられ、「やはり東京ドームになど来るべきではなかった」と反省した。

東京ドームでの巨人戦はダメでも、神宮でのヤクルト戦なら、と思って、その翌週、神宮球場に応援に行ったところ、カープはヤクルトに快勝、新井が2000本安打を達成した記念すべき試合だった。

勢いに乗るカープは、4月29日からの中日戦で、打線が爆発して3連勝、その間、貧打の巨人はヤクルトに3連敗、勢いの差は歴然としていた。ゴールデンウィークの5月3日からの東京ドームでの広島・巨人3連戦、初日の予告先発は、カープが巨人キラーのジョンソン、巨人は4月16日に先発して広島に打ち込まれた田口。「東京での巨人戦のジンクス」を覆す最大のチャンスだと確信した私は、自信を持って東京ドームに乗り込んだ。

予想どおり、ジョンソンは上々の立ち上がり、カープは田中、エルドレッドのホームランで4回までに2点を取った。ジョンソンなら、この2点を守り切ってくれるだろうと思い、「やはり、今日は応援に来てよかった」と思った。

ところが、4回裏、ツーアウトから、好守備を誇るショート田中が信じられないタイムリーエラーを犯したことをきっかけに、2点をとられて同点にされる。7回表、カープは、ノーアウト2、3塁という絶好の勝ち越しのチャンスを迎えたが、次打者のショート正面のゴロでエルドレッドが無謀にもホームに突っ込んでアウト、1、3塁となった後、ショートゴロ併殺で無得点。8回裏に1点をとられて逆転され、9回は澤村に抑えられて万事休す。まさかの敗戦だった、カープを負けさせる方向に、何か不思議な力が働いているとしか思えなかった。

翌4日の試合、カープは野村が先発、打線も順調に得点を重ね、難なく6対1で快勝した。私がいないと、どうしてこんなに簡単に勝つのか。

どうしたら、このジンクスの泥沼から抜け出せるのか、そう考えた時、私の頭に「逆転の発想」が浮かんだ。「カープが勝てそうな試合に来てジンクスを破ろうとするから、ジンクスでカープが負ける。むしろ、勝てなさそうな日に行けば、ジンクスが逆に働いて勝つのではないか」、5日の試合は、巨人の予告先発は菅野、広島は先発投手の谷間のため未勝利の九里。常識的には、ほとんど勝ち目のない試合だった。私は、「逆転の発想」にかすかな望みを持って、また、東京ドームに出かけた。

その試合、九里は好投し、5回まで零点に抑えた。天谷が菅野から2ランホームランを打って一点差に迫るという意外な健闘は見せた。しかし、結局、カープは4対2で負けた。当たり前の結果だった。また、オレンジのタオルを振り回す巨人ファンを横目に球場を後にすることになった。

その巨人は、翌5月7日からの東京ドームでの中日との3連戦で3連敗した。4月29日から5月9日までの、対ヤクルト、広島、中日の9試合で、巨人は2勝7敗。勝ったのは、5月3日と5日の2日だけ、いずれも私が東京ドームに行った日だった。それ以外の7試合は全部負けたのだった。

私は、「自分が東京での巨人戦でカープの応援に行くことは、カープに禍をもたらし、巨人を利するだけだ」と深く肝に銘じ、それ以降、球場に足を運ぶことは控え、テレビでの応援に徹した。すると、その後のカープは快進撃を続け、一時、二位の巨人に11.5ゲーム差をつけて首位を独走。後半戦に入って、4.5ゲーム差まで追い上げられ、1996年の悪夢を思い出したが、また、突き放し、現在、8ゲーム差。本日、8月23日からの東京ドームでの広島・巨人3連戦を迎える。

広島が勝てば、巨人の自力優勝は消滅、ついに広島に25年ぶりの優勝に向けてのマジックが点灯する。それを、どうしても、この目で見たい、という思いを抑えることができない。カープファンには誠に申し訳ないが、私は、本日の広島・巨人戦、東京ドームでカープの応援に加わる。

今日こそ、「東京の巨人戦でカープを応援に行くと必ず負ける」というジンクスが、41年ぶりに破られることを確信して。

そして、その8月23日の「広島・巨人戦」の結末を書いたのが、【ある不幸なカープファンの物語・2016年8月23日篇~「不幸」は続く】である。

カープが巨人に勝てばマジックが点灯する8月23日。「東京で広島・巨人戦に行くと広島が負ける」というジンクスが41年ぶりに破られることを夢見て、カープファンの皆様には申し訳ないと思いつつ、覚悟を決めて東京ドームに向かう。

数日前、ネットオークションで、ネット裏のチケットを、驚くほど安い価格でゲット。「これは何かが変わる前兆か」と、かすかな期待を持って球場に乗り込む。席は、実況席のすぐ下。グラウンド全体が良く見える位置。

カープの先発は、絶対的エースで巨人キラーのジョンソン、打線も好調。対する巨人の先発はマイコラス、前回の広島戦では6回で5点とられてKOされている。どう見ても、カープ有利に思える。唯一の不安材料は、私が球場に来ていることだけ。

試合は、ジョンソンとマイコラスの投手戦。両チーム無得点が続く。と言っても、ジョンソンが、8回まで散発3安打。3塁も踏ませない危なげない投球であるのに対して、マイコラスは、4回、無死1、3塁、5回、一死2.3塁、7回一死3塁と再三にわたってピンチを招く。しかし、カープ打線にあと一本が出ない。

両チーム無得点のまま迎えた9回、カープは、2死満塁のチャンスを逃し、その裏、巨人が、さすがに疲れの見えるジョンソンを打ち込んで1死満塁のチャンスを迎えた時点で、「やはり今日もダメか」と天を仰いだ。しかしカープの好守で内野ゴロ併殺に切り抜け、胸をなでおろす。

10回裏、カープの投手はジャクソンに変わる。巨人は脇谷から始まる下位打線、この回は問題ない、次の回が勝負だ。ジャクソンも簡単に2ボール2ストライクと追い込む。

そこで信じられないことが・・・。

脇谷が打ったライトへの打球が、何とスタンドに飛び込んだのである。それを呆然と見届けた私は、その瞬間、脱兎のごとく球場の外に駈け出した。出口に近い席だったので、幸い、「オレンジのタオルを振り回す巨人ファン」の忌まわしい光景を見ることだけは免れた。

今季50試合以上に登板して、ホームランを2本しか打たれていないジャクソンが、どうして、一本もホームランを打っていない脇谷などに打たれるのか、全く信じられなかった。自宅に帰った後、テレビのスポーツニュースで、そのシーンを見ると、何と、脇谷が打った球は、高めの「クソボール」、まともな打者なら、見送ってスリーボールにするところだ。脇谷が「吊り球」に手を出して振ったバットとボールが「空中衝突」したようなもの。だから、スタンド中段にまで飛んだのだ。

どうして、私が東京ドームで見ていると、こういうことが起きるのか。

「40年以上のジンクス」を破るのは、やはり容易ではない。

しかし、私はめげない。この後も、そのジンクスが破られる夢への挑戦を続ける。

それ以降、カープは順調に勝ち星を重ね、同年9月28日の東京ドームでの「広島・巨人戦」でセリーグ優勝を決めた。

私は、その翌日。優勝決定後の9月29日、東京ドームでの最終戦にカープの応援に行った。「優勝決定後のゲーム」なら、それまでとは違うのではないかという思いもあった。しかし、カープの選手たちは、前日夜の祝勝会の疲れが残っているのか、なかなかエンジンがかからず、0-2でリードされたまま終盤に入ったが、「やはり、消化試合でもだめか」と思っていたら、カープは、6回から反撃開始、5点をとって逆転、5-3でカープが勝った。

私は、東京で、初めてカープが巨人に勝つ試合を目にすることができた。

それが、私にとっての「広島・巨人戦」での「不運」の流れを大きく変えることになった。

それ以降、東京でも、広島でも、私が応援に行った「広島・巨人戦」で、カープが巨人に負けたことは一度もない。

そして、昨日の試合である。

初回、カープは、西川が先頭打者ホームラン、続く2番菊池もホームランで2点、3回には、鈴木誠也のタイムリーで3点をリードした。

一方の巨人は、ジョンソンの巧みな投球にほとんどまともな当たりはなく、ランナーもほとんど出ず、沈黙したが、球数が多く、6回が限度だろうと思えた。案の定、7回からは、リリーフの遠藤が登板したが、ゲレーロに2点ホームランを打たれて1点差となった。

その後も、ヒット、四球などで二死満塁のチャンスでバッターは坂本、ほとんど祈るしかない場面だったが、ライトのフェンス際まで飛んだ大きなフライで、何とか1点差を守った。

そして、8回裏、カープは今村が登板したが、無死から亀井に二塁打を打たれ、バッターは長打の岡本。ところが、原監督の岡本へのサインは1球目からバントだった。2球目でバントは成功し、一死3塁となり、バッターは前の打席ホームランのゲレーロ。カープはフランスアが登板。打った当たりは3塁ライナー、ランナー亀井は戻れず併殺打となり8回が終了。9回裏も、先頭バッターの炭谷の当たりが3塁ライナー。後の二人は、フランスアが三振に仕留めて試合終了。

まさに、痺れるような接戦だったが、カープにとっては、本当にラッキーだった。

初回の西川のホームランは、ライトフェンスを僅かに超えた当たり、菊池は、直球を狙っていたのか「出会い頭」のようなホームラン、鈴木誠也のヒットも会心の当たりではなかったが、ショートの左を際どく抜けた。いずれも、ラッキーな得点だった。

一方の巨人の攻撃は、ジョンソンには手も足も出なかったが、降板後は、チャンスの連続だった。満塁からの坂本のライトフライも、ゲレーロの3塁ライナーも、まさに紙一重であり、大量点につながっていてもおかしくなかった。

2016年5月3日、絶好調のカープが絶不調の巨人に信じられない敗戦を喫したのとは真逆の方向に、「カープを勝たせる方向への不思議な力」が働いていたとしか思えない。

40年にわたる「不運」のジンクスで貯めこんだ「運」は、まだまだ強烈に残っているようだ。

一時は12ゲーム差まで広がっていた巨人とのゲーム差も5ゲームまで縮まった。1996年の怨念を晴らす「逆メークドラマ」に向けて、今後も、東京ドームでの「広島・巨人戦」に、可能な限り、応援に行きたいと思う。

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弁護士
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「強運」と「不運」の“光と影” への2件のフィードバック

  1. 柴田@広島 より:

    これから、ですよ。自信をもって、巨人戦に行ってくださいね。

  2. 秋沢陽吉 より:

    本当に感動して読みました。安易なまとめなどできませんでした。寺山修司の競馬観戦記、小説家井上光晴の広島に寄せる文章を思い起こしました。巨人憎しと裏側の広島愛は私も同じですが、足元にも及びません。運と不運が何か人生そのもののように感じました。これほど野球に打ち込むのであれば、弁護人として精一杯打ち込むことと推察しました。であれば、正しくとも敗北もある裁判の不条理さをどのように感受するのだろうとも想像しました。

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