2026年1月22日、「五輪汚職事件」で東京地検特捜部に逮捕・起訴され、一貫して無罪を主張してきたKADOKAWA元会長・角川歴彦氏に対する一審判決が言い渡された。226日にわたって身柄拘束され、生命の危機にまで瀕した経験を綴った著書【人間の証明】の出版、人権侵害の違憲性を訴える国賠訴訟の提起など、徹底して「人質司法」と戦ってきた角川氏に対して、東京地裁(中尾佳久裁判長)が言い渡した有罪判決には愕然とした。その中で、「被告人供述の信用性」に関して「矛盾」という言葉が使われている。「同一人物の発言相互の食違い」という一般的な意味と、「共犯者らとの供述との相反」という通常とは全く異なる意味とが混在している。そこには、「有罪の結論ありき」で突き進んだ裁判所の姿勢が表れている。
「矛盾」で斬り捨てられた「被告人供述の信用性」
裁判において「被告人の供述は信用できない」と切り捨てる際に使われるのが「矛盾」という言葉だ。一般的な日本語では、「同じ人物が前に言ったことと、後に言ったことが食い違っている」或いは「発言内容と前提事実が一致しない」「発言内容と行動とが一致しない」などの場合に用いる。
「矛盾」は、論理学的にいえば「Aかつ非A」の関係、つまり片方が真であればもう片方が必ず偽になる(論理破綻している)状態を指し、一つの供述の中で前後の論理が通っていない場合(自己矛盾)や、供述と客観的事実(前提事実や帰結となる事実等)とが両立しない場合に使われる。
「矛盾している」というのは、同一人物の言動自体に対する評価において信用性を否定する方向で決定的に重要な要素となる。刑訴法上も、ある人物の供述が証拠とされているときに、同じ人物がそれと異なる供述をしていれば、「信用性を争う証拠」にすることができるとされているのも(328条)、信用性評価において「自己矛盾」は無視できないからだ。
一方、特定の人物の供述が、他の人物の供述と異なる場合は、供述の「対立」「相反」であって、「矛盾」ではない。論理的に両立しないのではなく、「記憶の差異」「立場の違いによる認識の相違」「意図的な虚偽」等によって食い違っている状態にすぎないからである。したがって、実務上、通常このような場合は、供述の「不一致」「相反」「対立」などと表現する。このような場合、どちらの話が正しいのかを、供述内容自体や関係証拠との整合性などから慎重に検討し、判断するのが裁判の事実認定における重要な要素だ。
角川氏に対する判決では、被告人である角川氏の「供述の信用性」について、以下のように述べ、「信用することができない」との結論を導いている。(太字と(ア)~(オ)は、筆者が挿入)
(1) 被告人は、平成26年に常務会で東京2020大会のスポンサーに立候補することを承認した後は、決裁権限がなく、報告ラインにもいなかったため、スポンサー案件について報告を受けておらず、コモンズ2への支払の件についても報告を受けたことはなかった、スポンサー案件の交渉に高橋理事や深見が関与していることは知らず、本件で検察官の事情聴取を受けるまで、高橋理事がみなし公務員に当たることは知らなかったし、深見のコモンズ2という会社も知らず、KADOKAWAがコモンズ2にコンサルタント料を支払うことも知らなかった旨供述する。
(2)しかしながら、スポンサー案件について報告を受けていないという点は、芳原証言や馬庭証言と大きく矛盾する(ア)内容である。被告人は、10月報告や、その頃、深見又は高橋理事について何か聞かされたかについて「記憶にはない」旨述べるが、10月報告の内容が、通常とは異なる特異な内容であることからみて、全く「記憶がない」というのも不自然である。
また、被告人は、4月4日会談及び5月19日会食について、高橋理事が出席することは知らず、出席していたとの認識もなかったかのような供述をする。しかし、高橋理事が出席することを伝えている旨の芳原証言や馬庭証言と矛盾する(イ)上、被告人のスケジュール表を見ると、各日程には「五輪森・高橋、講談社野間」、「五輪森委員長・高橋、コモンズ2 深見、講談社野間、芳原」との記載がある上、4月4日会談後は高橋理事や深見らとカフェで打合せもしており、5月19日会食では、講談社への不満を露わにする森会長を高橋理事が取りなすという相当に印象深い出来事があったにもかかわらず、被告人において、高橋理事が出席することを知らず、当日出席していたことも認識していなかったとは考え難い。そもそも、4月4日会談及び5月19日会食は、KADOKAWAが高橋理事の助力を得ながら、講談社との 2 社協賛でスポンサーになる話を進める中で、出版業界、特に講談社への悪感情を抱いている森会長から2社協賛の同意を引き出すことに主眼があり、高橋理事の強い働きかけにより実現したものである。そうだとすると、KADOKAWAの代表としてその会談及び会食に参加する被告人が、高橋理事の存在や役割等について全く知らされていないというのは、余りに不自然であるし、捜査段階では、4月4日会談及び5月19日会食について高橋理事に挨拶に行くためなどと述べ、その会談や会食前に高橋理事を知っていたことを前提とする供述をしていたこととも矛盾する(ウ)。このように、4月4日会談及び5月19日会食において、高橋理事が出席することを知らず、実際に出席していたことも認識していなかった旨の被告人の供述は、不自然かつ不合理というほかない。
さらに、被告人は、本件打合せについても、文化オリンピックに関する話のほかに、東京2020大会のスポンサーのお金の流れについて馬庭から説明を受けたことはない旨、N証言やT秘書の証言と矛盾する(エ)供述をしている。
(3) このように、被告人の供述は、芳原、馬庭、N氏及びT秘書のいずれの証言とも矛盾し(オ)、曖昧かつ不自然、不合理な内容を述べるものであって、信用することができない。
「矛盾」という言葉の使い方
この中に、「矛盾」という言葉が5回出てくる。(ウ)は、被告人の公判供述と捜査段階の供述との関係で、同じ人物の供述が前後で食い違っているという本来の「矛盾」の趣旨だが、一方で(ア)(イ)(エ)(オ)は、共犯者、関係者など、被告人以外の人物との供述との関係であり、本来は「対立」「相反」と表現すべきであり一般的な意味の「矛盾」とは異なる。
「矛盾」という言葉を、一般的な日本語の意味で用いる一方で、あえて、それとは異なる意味で用いているのは、単なる語彙力の問題でも、「誤記」や「勘違い」でもなく、裁判所の「思考の枠組み」そのものによるものだ。(ア)(イ)(エ)(オ)で、「共犯者や関係者の供述との相反」なのに、(ウ)と同様に「矛盾」という言葉を用いているのは、以下のような裁判所の思考の枠組みが前提となって生じたものと考えられる。
- 共犯者らの証言は、最初から「絶対的な正解」であり、客観的事実であるかのように固定。
- その正解と一致しない被告人の供述は、「論理的破綻」と同様に「誤り」と評価。
判決が、この「被告人供述の信用性」の判断に先立って、共犯者、関係者の供述が「絶対的に信用できる」「事実であることが客観的に明らか」という判断と根拠を示し、客観的事実としても認定しているのであれば、それと相反する被告人供述を「矛盾」と表現することも、理解できないわけではない。
しかし、判決を見る限り、それとは真逆である。
共犯者、関係者4名の証言の信用性の評価
芳原氏、馬庭氏、N氏、T秘書の証言について、弁護人が様々な根拠を示して信用性を否定する主張をしているのに対して、判決は、それらの弁護人主張を排斥し、4名の信用性を認めている。しかし、その理由は、客観的な裏付けや絶対的な根拠があるというものではなく、微妙な主観的判断であることは、判決からも明らかだ。
共犯者として起訴され、公判で事実を全面的に認め有罪判決が確定している芳原氏・馬庭氏のうち、芳原氏については、弁護人は、
「取調官から繰り返し追及され、録音内容やメールを示されているうちに、取調官の示唆していることが真実であり、それに適合するように供述を変える必要があると思い込み、変容した記憶に基づき証言した疑いが濃厚」
と主張した。これに対して、判決は、
「取調官から資料を示されて記憶を喚起し、その後も、自分の弁護人とともに時系列を整理して記憶喚起すること等を繰り返したことなどから、当初の供述と公判証言では異なっているところがある旨説明している」
と認めた上で、
「芳原が取調官の示唆によって変容した記憶に基づき、ありもしない事柄を証言しているとはみられない。」
として、
「芳原証言の重要部分についての信用性は肯定することができる」
と結論づけている。
馬庭氏の証言の信用性について、判決は、
「相応に具体的な証言をしており、その内容に不自然と思われるところはない。」
としているが、馬庭氏が、贈賄の共謀があったとする「本件打合せ」(平成30年12月17日にKADOKAWA社内で行われた会議。馬庭氏も出席していたこの会議で、角川氏にコモンズ2への支払のスキーム等について説明した、というのがN氏の証言=筆者注)においてN氏が角川氏に説明したことについて「記憶がない」と証言していることについて、
「本件打合せに関する馬庭証言は信用できないものの、これにより馬庭証言全体の信用性が直ちに揺らぐことにはならない」
としている。
N氏は、本件打合せの前に資料を準備した状況やその資料の内容、本件打合せ時の馬庭氏と被告人とのやり取りや被告人からの問いかけに対する馬庭氏の反応等について具体的に証言しているが、弁護人は、「N氏のメールや印刷履歴等からすると、そもそもN氏が本件打合せの場に同席した事実はない」と主張した。
これに対して、判決は、本件打合せに際しN氏が作成したとする説明資料やそのデータが存在せず、そのような意味で客観的証拠の裏付けを欠くことは認めた上、
「虚偽証言をする動機はうかがわれない上、Nが、本件打合せの場に同席すらしていないのに、その場にいたとして、その状況を含めて虚偽の事実を作出したと見るのは、いかにも無理がある。Nが殊更虚偽の証言をして被告人を陥れようとしたとは考えられない。」
と述べて、N氏証言は信用することができると結論づけている。
T秘書についても、本件打合せに同席した際の状況について、一部N氏の証言に沿う証言を行っているが、判決は、
「本件打合せにNがいたかどうか記憶が曖昧である、被告人の問いかけに馬庭がどう答えたのか記憶がないと述べるなど、本件打合せに関する記憶に欠落あるいは曖昧なところがある」
としている一方で、被告人を尊敬していると述べていることなどから、
「殊更虚偽の証言をして被告人を陥れる理由は見当たらない。」
として、証言の信用性を認めている。
「検察側のシナリオ=正解」、「被告人供述=排除」の前提
以上のとおり、共犯者と関係者の4人の証言は、それぞれ信用性に関して多くの問題があることは判決も認めており、信用性を認めているのも、最終的には、「一部は信用できないがそれ以外は信用できる」「作り話をしているとは思えない」などの、微妙な判断に基づくものであり、「絶対的に信用できる」などと言えるものではない。
だとすれば、それらと被告人供述が「対立」「相反」する場合、それら証言の信用性と被告人の供述の信用性とを比較し、いずれが信用できるかを判断するのが当然だ。
ところが、判決は、被告人の供述が4人の証言と「相反」していることを「矛盾」と表現して、それ自体が信用性を否定する決定的な要素であるかのように述べている。
その上で、被告人供述の内容について、「不自然」「不合理」などと述べて信用性を否定しているのであるが、ここにも、共犯者らの証言に基づく検察のシナリオを「絶対的な正解」として固定する姿勢が表れている。
被告人供述が「不自然」「不合理」との評価の前提とされているのは、上記の4人の供述の都合のよいところだけで組み立てられた「検察のシナリオ」だ。そこでは、被告人の角川氏が公判で述べたことも、それに沿う関係者供述も全て無視されている。それが端的に表れているのがT秘書の証言との関係だ。
角川氏は、オリンピックのスポンサーになることには、当初話が持ち上がった時点は相応の関心を持っていたが、その後文化オリンピックに熱意をもつようになり、オリンピックへの関心は薄れていったと述べている。
2018 年頃の角川氏のオリンピックに対する関心の程度については、当時秘書だったT秘書が、「2016年頃は、KADOKAWA社が国家的イベントに協力できるとしてオリンピックスポンサーになることに関心が高かったが、スポンサー活動は制約が多く事業上の利益が見込めないことが判明するにつれ、角川さんのオリンピックスポンサーになることへの関心は、2018年頃には薄れていった」と証言している。
オリンピックのスポンサーになることへの関心の程度は、被告人供述の信用性の判断において重要だったはずだが、その点について、判決は、角川氏自身が公判で述べたことも、T秘書の証言も無視している。
一方で、上記のとおり、T秘書の証言のうち、「本件打合せ」の場面に関するN氏の証言に沿う部分だけを切り取り、その証言との「矛盾」を被告人供述の信用性を否定する根拠にしている。
本来、裁判所の役割は、検察官と被告人・弁護人の主張の双方を公平に客観的に見極めることにあるはずだ。ところが、今回の判決は、その役割を放棄し、「検察側のシナリオ=正解」という前提に立ち、それと「相反」する被告人の供述を、最初から「排除すべきもの」として扱っているのである。
多くの人は、裁判所が「厳密な論理」に基づいて判断を下していると信じている。しかし、この判決では、その裁判所の判断を表現する「言葉」によって、実は、最初から公正な判断を放棄していることがあからさまに示されているのである。
「人質司法」がもたらした公判での争点の限定
もう一つ、今回の判決に強い違和感を持ったのは、角川氏が贈賄罪を全面的に争っている事件にしては、判決で判断の対象とされた争点があまりに狭いことだ。その背景に、226日に及ぶ勾留という「人質司法」が影響しているように思える。
贈収賄罪は対向犯であり、収賄・贈賄双方に犯罪が成立する場合でなければ、いずれの犯罪も成立しない。
角川氏に贈賄罪が成立するのであれば、収賄側とされた高橋氏、深見氏の側も犯罪が成立することになる。逆に言えば、収賄側の犯罪が否定されれば、贈賄罪の成立も否定される。
この事件の贈収賄罪の成否については、むしろ、高橋理事・収賄側について多くの問題がある。受託収賄罪の「請託」や「便宜供与」が、組織委員会理事の権限に関するものか、電通元専務としての民間企業電通への影響力に関するものかがまず問題になる。請託や便宜供与が、電通という民間会社の業務に関するものではなく「組織委員会の理事の権限」に関するものでなければならない。
それに加え、KADOKAWAからのコンサルタント料は、高橋氏ではなく深見氏が代表を務める「コモンズ2」に支払われており、それだけでは「みなし公務員」の高橋氏に金銭が供与されたとは言えないので、「コモンズ2」が賄賂の受け皿とされ、高橋氏・深見氏の2人が、「KADOKAWA側から、組織委員会の理事の職務に関して、請託を受けて賄賂を受領する」という犯罪について共謀したことが立証されなければならない。
角川会長を贈賄罪に問うためには、こういう受託収賄罪の要件が立証され、その一つひとつについて、角川氏がそれらを認識した上で、コモンズ2に対するコンサルタント料の支払に関わったことが立証されなければならない。
これまでの五輪汚職事件の贈賄側の公判は、すべて、公訴事実を争わない「自白事件」で、検察の主張がそのまま判決の認定になり、有罪が確定しているので、贈賄側の公判では、収賄側に関する問題が公判の争点となることはなかったが、一方で、収賄側は高橋氏・深見氏ともに収賄の事実を全面的に争っており、一審公判が係属中である。
角川氏は贈賄を全面的に争っているのであるから、その公判でも、収賄者側(高橋・深見)に組織委員会の理事としての権限に基づく便宜供与の対価としての「賄賂の認識」や、それをコモンズ2で受領することの「共謀の有無」など収賄者側の成立要件が立証できなければ、法的には贈賄罪の構成要件を欠くことになるはずだ。
ところが、判決は贈賄についての共謀の有無に関する前記の4人の証言と被告人の角川氏の供述の信用性を判断しているだけだ。上記のような収賄側の問題への言及は全くなく、それらについて角川氏の認識も、全く問題とはされていない。
この点に関して、判決後の記者会見で、主任弁護人の弘中惇一郎弁護士は、角川氏が226日も勾留され、保釈を得るために、証拠を同意せざるを得ず、保釈を得るための条件をのんだことが判決に影響を及ぼしたのではないかと問われ、
「無罪主張立証の大きな妨げになるところまで譲歩するということはできないので、尋問しなくてはいけないと思った人は全部不同意を通した。同意したから裁判が決定的に不利になったわけではない」
と言いつつも、
「組織委員会とか電通とか、あるいは高橋さん深見さんといった、直接、角川さんの共謀とは結び付いてない部分は、全部同意しておさめた」
と述べた。
高齢で持病が悪化した角川氏を長期勾留から解放するため保釈を優先せざるを得なかった弁護団が、贈賄の共謀以外の点に関する検察官請求証拠に同意することを余儀なくされたようであり、それが、角川氏の一審公判で、収賄側の犯罪成立要件や、それに関する角川氏の認識・犯意の点が争点とされないこととにつながった可能性がある。
「人質司法」は、無実を訴え、無罪を主張しようとする被告人に主張自体を断念させる方向に強烈に働くだけでない。無罪を主張するための武器が限定されてしまうこともある。人質司法によって、保釈を得るために、争点が事実上限定され、その結果、公判の「土俵」は、検察の意図どおりの狭いものとなる。そこで現れる「行司」の裁判官が、「検察側のシナリオ=正解」という前提に立ち、それに沿う共犯者、関係者の供述を「絶対正解」として固定し、それと「相反」する被告人供述を「矛盾する」という言葉で斬り捨てる。
それは、立ち合いの前に行司が「軍配」を検察に上げているに等しい。憲法37条1項が保障する「公平な裁判所」による裁判」とは到底言えないものだ。
「言葉」によって露呈した“裁判の不公正”
裁判は「言葉」により行われ、「言葉」で判断が示される。その「言葉」によって公正・公平な裁判に対する重大な疑問が生じたのが今回の判決である。
「僕の矜持が許さない」
60年の出版人生で「言葉」を何より重んじてきた角川氏が判決の認定事実について発した言葉だ。そこには、「矛盾」という粗雑な「言葉」で斬り捨てられたことへの無念も込められていたのではなかろうか。