安倍政権下で進んだ「法令遵守と多数決による“単純化”」への危機感

拙著【単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】(朝日新書)が、5月12日に発売になった。

8年近くの第二次安倍政権の間に、「安倍一強体制」と言われるほどに権力が集中し、自民党内でも、政府内部でも、安倍首相と側近政治家や官邸官僚には逆らえず、その意向を忖度せざるを得ない状況になった。安倍支持派と反安倍派との対立は激しくなり、「二極化」が進み、両者の対立は、妥協の余地どころか、議論の余地すらないほど先鋭化した。

こうした中で、安倍政権側、支持者側で顕著となったのが、

「法令に反していない限り、何も問題ない」

「批判するなら、どこに法令違反があるのかを言ってみろ。それができないないなら、黙っていろ」

という姿勢だった。

その背景には、「法令」は、選挙で多数を占めた政党であれば、どのようにも作れるし、変えることもできる、閣議決定で解釈を変更することもできるし、憲法違反だと指摘されれば、内閣法制局長官を、都合のよい人間に交代させて憲法解釈を変更すればいい、という考えがあった。

このようにして、多数決で選ばれた政治家が「法令」を支配し、そこに「法令遵守」が絶対という考え方が組み合わさると、すべての物事を、「問題ない」と言い切ることができる。「法令遵守」と「多数決」だけですべて押し通すことができるということだ。

これが、本書の主題の「『法令遵守』と『多数決』の組合せですべてが解決する」という「単純化」だ。

そういう「単純化」が進んでいった第二次安倍政権の時代には、森友、加計学園、桜を見る会問題など、多くの問題が表面化したが、安倍批判者が追及を始めると、安倍氏本人から、或いは、安倍支持派から、決まって出てくるのが、「何か法令に違反しているのか。犯罪に当たるのか」という開き直りのような「問い」だった。

黒川検事長定年延長問題での「検察庁法に違反する」との指摘に対しても、

「閣議決定で法解釈を変更した」

ということで押し通した。

「法令遵守」という言葉自体の問題を指摘してきたのが、これまでの私の“コンプライアンスへの取組み”だった。

2004年、検察に在籍中に兼職していた桐蔭横浜大学大学院特任教授として、六本木ヒルズの同大学のサテライトキャンパスの中にコンプライアンス研究センターを開設して以降、日本社会の法令や規則と社会の実態が乖離し、経済社会にさまざまな混乱不合理が生じていることを指摘してきました。

形式的な「法令遵守」から脱却して「社会的要請への適応」をめざすコンプライアンスの啓蒙活動を展開し、『法令遵守が日本を滅ぼす』(新潮新書)『思考停止社会』(講談社現代新書)などの著作群で、「歪んだ法」や「歪んだ法運用」にひれ伏す日本人の有り様、それを生む構造を指摘してきた。

そこで訴えてきたのが、

「コンプライアンスは、法令遵守ではなく、社会の要請に応えること」

「『遵守』という言葉で法令規則等を『守ること』が自己目的化してしまうことで思考停止に陥る」

ということだった。組織論としてのコンプライアンスは、単に不祥事防止だけでなく、経営とコンプライアンスが一体化することで、組織の活動を健全なものとし、一層発展させていこうとする「前向きな考え方」だった。企業・団体などで多数の講演を行う中でも、「法令遵守」の弊害を説く私のコンプライアンス論は注目され、共感を得た。

しかし、第二次安倍政権に入り、権力が集中し、「長い物には巻かれろ」という風潮の下で「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」が進むと、「法令遵守」を絶対視する人達に対して、法令遵守の「弊害」を指摘し、「脱却」を訴えても、聞き入れられる余地はなかった。「多数決の論理」と結びついた「法令遵守」は、彼らに政治的優位と安定的な利益をもたらすドグマなのであり、それに疑問を差し挟む意見を受け入れる余地はない。

そういう考え方の集団に権力が集中するにつれ、官僚組織には権力者に阿る「忖度の文化」がはびこり、世の中の価値観もコンプライアンスの考え方も全体として「単純化」していった。

日本社会にとって、今、重要なことは、第二次安倍政権以降に「法令遵守と多数決による単純化」が進んだ経緯を改めて辿ってみることだ。

第一次安倍政権とは異なり、第二次政権で「単純化」が進んでいった背景に何があったのか。森友学園、加計学園では、本来単純ではないはずの問題が「単純化」され、安倍批判者、支持者の議論は全く噛み合わない状況になった。そして、それ自体が単純な「弁解の余地のない違法事象」であった「桜を見る会問題」では、安倍首相が国会で度重なる虚偽答弁まで行って問題の隠蔽が図られた。こうして安倍政権下で進んでいった「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」は、菅政権、岸田政権にも引き継がれ、安倍氏銃撃事件以降も、国葬実施をめぐる問題などで同様の事態が生じている。

単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】では、このような経過を振り返り、日本社会における「単純化」の本質に迫る。

多くの国民が「法の素人」という意識を持つ日本では、 “お上”によって「法」は正しく運用されていると無条件に信じ、「法」にひれ伏してしまう傾向がある。法の内容或いはその運用に「歪み」が生じていても、国民にほとんど知られることなくまかり通っている。そこでは、政治権力が集中することによって「法令遵守」のプレッシャーの弊害は一層顕著になり、「法令遵守と多数決による単純化」による弊害がさらに深刻化する。そういう「歪んだ法」とその運用の実態を、具体的な事件、事故等を通して指摘したのが、今年3月に上梓した【“歪んだ法”に壊される日本  事件・事故の裏側にある「闇」】(KADOKAWA)だ。

この2冊の拙著に込めた、日本の政治と社会への危機感が、少しでも多くの人に共有されることを願っている。

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岸田首相襲撃事件で再燃した「犯人の思う壺」論、どこがどう間違っているのか

4月15日に、和歌山市で選挙演説中の岸田文雄首相が、手製の爆弾のようなもので襲撃される事件が起きた。昨年の7月8日、安倍晋三元首相が選挙演説中に自作銃で銃撃されて死亡する事件が起きてから9か月余りで、首相本人が、選挙演説中に現職の首相が襲撃される事件が起きたことは、社会に衝撃を与えた。この事件を我々はどう受け止めるべきか、そこには多くの困難な問題がある。

安倍元首相銃撃事件は、首相退任後も大きな政治的影響力を保持していた政治家が突然亡くなったということに加えて、事件の動機・背景に関連して様々なことが明らかになり、それが日本の政治、そして社会に極めて大きな影響を及ぼした。

山上徹也容疑者(既に起訴されいるので「山上被告」)の犯行の動機は、母親が統一教会にのめりこんで多額の献金をし、それによって家庭が崩壊したことへの恨みを、統一教会と関係が深いと思われた安倍元首相に向けたものだった。

この事件を機に、旧統一教会をめぐる問題に大きな関心が集まった。

とりわけ自民党の政治家と統一教会との関係に注目が集まり、連日大きく報道された。

そして、反社会的な活動を繰り返してきたとされる旧統一教会に対して解散命令請求をすべきだという声が高まり、それまで一度も使われたことのなかった宗教法人法に基づく質問権も行使され、旧統一教会の被害を救済する立法も成立した。

統一教会への恨みによる殺人という刑事事件を機に、その犯罪者が意図していた方向に、その問題提起を受けた形で世の中が動き、その動きがどんどん活発になっていった。このような、安倍元首相銃撃事件以降の社会の動きに関して、「犯人の思う壺にするな」ということが声高に言われていた。

私はそれを「犯人の思う壺」論と言って、Yahoo!ニュース【“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り】などで批判してきた。

その安倍元首相銃撃事件から1年も経たないうちに、今度は現職の首相を狙った襲撃事件が起きたことで、また「犯人の思う壺」論が、声高に唱えられるような状況になってきている。

犯罪者の意図を実現するような方向に社会が動くと、模倣犯が現れて、同じような犯罪が繰り返される、だから犯罪の動機・背景は一切取り上げるべきではない、というのが「犯人の思う壺」論の人たちの主張だ。

彼らは今回の事件について、

安倍元首相銃撃事件の際に、山上容疑者の犯行の動機に関して、統一教会問題などを取り上げ、自民党と統一教会の関係を問題したことで、「犯人の思う壺」になった。それが、今回の岸田首相襲撃事件という模倣犯につながった、

と言っている。

それが果たして正しいのかどうか。

刑事事件における「同種犯行の防止」と犯罪の動機・背景の報道

重大な犯罪が発生した場合、それがどう報じられ、社会の反応はどうあるべきなのか、犯罪の背景になった事象に我々はどう目を向けるべきなのか。犯罪を防止することと、犯罪の背景にある問題に目を向けていくことの、両面から考えなければいけない問題だ。

犯罪には通常何らかの動機がある。まったくの衝動的、偶発的犯罪というのでない限り、何らかの意図で犯罪が行われるのが大部分だ。殺人事件であれば、例えば被害者に対する恨みが動機になって「人を殺す」という行為が行われる、それによって恨みを抱く相手が死亡する、それによって、その犯罪の最大の目的が実現されることになる。

そして、殺人事件に関して動機が報じられることによって、動機の背景に、被害者の側にも落ち度があったとか、批判・非難されるべきことをしていた、という事情があったことが明らかになることもある。それは、殺人の犯罪者にとって、もう一つ別の形で犯罪の目的を実現することにもなる。

日々、様々な刑事事件の報道が行われることは、そういう犯罪が実際に起きていることについて、世の中に警鐘を鳴らす面もある。

しかし、事件の詳細が報じられることは、犯罪の抑止、再犯防止、模倣犯の防止にマイナスになる面もある。

特に、政治家を狙った襲撃事件、テロのような事件が起きた時に、その原因・背景や政治家の側にどういう問題があったのかを報じることは、犯罪者の目的を実現することになり、それが同種の犯行を招く可能性を高める。だから社会は、犯罪の動機・背景には一切反応するなという考え方が出てくる。

犯罪に関しては、世の中がその犯罪の発生を知ること自体が重要な社会の要請だ。それと同時に、模倣犯を含めて同種の犯罪を抑止することももちろん重要な要請だ。犯罪と社会の関係は、この両面から考える必要がある。

犯罪を抑止するために、主としてその行為の責任に見合う厳正な処罰を行い、それによってその犯人が再犯を行うことを防止する、それを「特別予防」という。そして、犯罪者を処罰することによって、同じような犯罪が繰り返されることを防ぐことを「一般予防」という。これが、犯罪を抑止する基本的な手段だ。

そして、犯罪の動機・背景が報じられ、犯人が問題にしたかったことが取り上げられて意図のとおりになると、その分、一般予防の効果を弱めるだけでなく、同じような結果を狙う犯罪を誘発する可能性がある。そこで、もし、犯罪者の意図を一切実現させてはならない、その目的が達せられる方向、犯人の意図する方向には一切反応するなというのであれば、一切殺人事件の報道などは行わず、粛々と裁判をやって犯罪者を処罰すればよいということになる。しかし、果たしてそれが、刑事事件の報道として、それに対する世の中の反応として正しいと言えるだろうか。

それは、その国の社会で一般的に犯罪報道がどのように行われているかということも関係する。

安倍元首相殺害事件や岸田首相襲撃事件に関連して、ジャーナリストの窪田順生氏は

海外では、このような事件が起きた際に、テロ実行犯や集団無差別殺人犯などの人柄や、犯行にいたるまで考え方、思想などはなるべく報じないように「自制」をするのが常だ。アメリカでは「No Notoriety(悪名を広めるな)」という団体が発足して、その名の通り、事件を起こした人間にフォーカスせず、有名人にしない事件報道をメディアに求めている。模倣犯やさらに過激な犯行の「呼び水」になるからだ。

と指摘している(【山上被告を「同情できるテロ犯」扱いしたマスコミの罪、岸田首相襲撃事件で言い逃れ不能】)。

「No Notoriety」は2012年、銃乱射事件の被害者の両親が始めた運動で、テロというよりも、銃の乱射などによる大量殺戮を防止するための運動とされている。

軍保有の物を除いても3億丁を超える銃が存在し、人口100人当たりの銃所有数は120.5丁、2022年1月から5月末までの間に、銃による死亡者は8031人、負傷者は15119人に及び、発砲事件は231件発生しているというアメリカ(【相次ぐ銃撃事件、なぜ米国では銃規制が進まないのか?】)と、犯人が数か月にわたる作業で散弾銃を自作し、山中で試射を繰り返した末に行った銃撃が、警備体制上の不備等のいくつかの偶然が重なって安倍元首相に銃弾が命中した事件、管の中に火薬などを詰め込んだパイプ爆弾が投擲され、岸田首相や聴衆が退避後に爆発した事件という二つの元首相、現首相を狙った事件が続いたという程度の日本とは、殺人、テロの脅威のレベルが全く違うので、同列に論じるのは適切ではない。

しかも、陪審制の歴史が長いアメリカでは、もともと、事件報道が陪審裁判に与える影響が強く意識されており、刑事事件の発生時に事件の内容についてはある程度報道されるものの、被疑者が捜査機関によって特定された後は、事件の「動機」「背景」についての報道は、ほとんど行われないようだ。

アメリカでは、司法手続や陪審制と表現の自由との関係で、1976年の連邦最高裁のNebraska Press事件判決で基本的に後者が優先され、報道機関が把握している事実関係の報道を裁判所が禁止することはできないとされているが、それ以前の取材制限命令については頻繁に発せられ、裁判所侮辱による処罰や拘束ということも生じ得る。それもあって、法廷で明らかにされたことは別として、被疑者の犯人性や、犯人であることを前提にするような不確かな報道が行われること自体がほとんどないというのが実情のようだ。

そもそもアメリカでは、事件報道で「人格報道」を行うこと自体が、テレビや代表的な新聞等ではほとんど行われないという点で、被疑者が逮捕された途端に、生い立ちや人物像も含めた人格報道が氾濫する日本とは、前提条件に大きな違いがあるということを見過してはならないと思う。

日本のように、一般的には、殺人事件などの場合、犯人が逮捕されると、犯罪の動機・背景、犯人の生い立ち、性癖まで報じられること自体が異常なのであり、それを容認し、一方で、政治的目的による犯行の場合だけ、動機・背景を一切報じるなという話は通らない。

「犯人の思う壺」論は、外国との比較を持ち出しても、それによって正当化されるものではない。

安倍元首相襲撃事件後の「統一教会問題」をどう見るか

安倍元首相銃撃事件後の日本の社会の反応に関して、その背景となった統一教会問題が大きく取り上げられたことに特に問題があるとは思えない。

本来、統一教会問題は、それ以前に世の中で問題にされ報じられるべきであったのに、それが異常に問題にされてこなかったことの方が問題だ。

あの銃撃事件以降、世の中の多くの人が「統一教会問題」を具体的に認識した。

高額献金、霊感商法的なもの、マインドコントロールにかかった状態で全財産を収奪された人たち、宗教2世3世の問題など、いろいろな深刻な問題が発生していることについて、元首相銃撃事件という犯罪が発生したことが契機となって、社会的に重要な事実を知ることになったというのは、我々が受け止めなければいけない一つの事実だ。

それ以前にあまりに社会が、そしてマスコミが、その問題に対して目を向けてこなかったことをまず反省すべきだ。そのうえで、知るべきことは知り、報じるべきことは報じ、そしてそれに対して行うべき対応は社会としてしっかりやっていかなければならない。

もちろん、マスコミには、統一教会問題が大きな社会的な関心を集めたから、これをやればやるほど視聴率が稼げるというような安直な動機で統一教会問題に追従するという動きも確かにあったと思う。しかし根幹のところにある、これだけ重大な社会的問題をもっともっと社会が目を向けて報じるべきだという地道な活動を続けてきた、例えば鈴木エイト氏や全国弁連の弁護士の人たちなどの活動すら、あの事件までは社会に知られていなかった。そのことをまず反省しなければいけない。

そういう意味で、安倍元首相銃撃事件に対する社会の反応に大きな問題があったとは言えない。

今回の岸田首相襲撃事件についても、安倍元首相銃撃事件の模倣犯だと言って、動機になったと思われる選挙制度の問題など一切論じるべきではない、という「犯人の思う壺」論を声高に唱えている人がいるが、根本的に間違っているように思う。

岸田首相襲撃事件をどう受け止めるべきか

今のところまだ木村容疑者は完全黙秘ということで犯行の動機等詳しいことは全くわからない。ただ、これまで報じられたところでは、木村容疑者は日本の選挙制度に大変不満を持っており、被選挙権が自分にないことが憲法違反だと主張し、国賠訴訟を起こしている。それが動機になったのではないかと言われている。

そういう木村容疑者の動機と推測される選挙制度の問題について、日本では国会議員の衆議院が25歳、参議院が30歳、地方議員が25歳、知事が30歳、首長も知事以外だと25歳、と被選挙権に制限がある。今回改めて海外の選挙制度で被選挙権がどう扱われているのか、供託金制度がどのようになっているのか調べてみたが、日本の現行制度は、国際的にみてかなり特異だということがわかった。

まず被選挙権年齢だが、多くの国が18歳以上、選挙権年齢と被選挙権年齢が変わらない。

アメリカは国会議員が下院が25歳、上院が30歳で日本の衆議院参議院と同じだが、アメリカの場合も、地方の政治家、公職者については21歳と低い年齢が定められている。

供託金制度は、最近は殆どの国で廃止されており、韓国はまだ供託金制度を維持しているが、それも国会議員で500万ウォン、日本円で約45万円、それと比べると日本の選挙制度は本当に特異だということは間違いない。

私は、これまで公職選挙法に関する問題は、記事やYouTubeでも取り上げてきたし、公選法改正の提案などもしてきた。その私ですらこの問題に気付いていなかったわけだから、国民の大部分に知られていなかったと思う。

このことに関連して、4月21日の朝日新聞朝刊で、【「首相襲撃余波で中傷 選挙制度改正求める人へ 容疑者と同じ」団体が声明、暴力断固反対】という記事が出ている。

これは、上記の日本の選挙制度の問題を社会的運動として指摘していた人がいて、それが今回の首相襲撃事件の木村容疑者と同じことをやっているではないかといって誹謗中傷されていることを報じる記事だ。

これまで言ってきた「犯人の思う壺」論からすると、今回の事件を機に日本の選挙制度の問題を指摘するとか、そういう動きを紹介することは「犯人の思う壺」だ、ということになり、この朝日のような記事を出すこともけしからんということになる。

しかし、犯罪の抑止ということと、犯罪を契機にその背景にあるものを社会として認識し、それを受け止めてしっかり世の中を良い方向に持って行く、これは同時実現していかなければならない問題だ。今回、木村容疑者がどのような動機で岸田首相を襲撃し、その犯罪がいかに厳正に処罰され、同様の犯罪を防止していくかということと、その背景にある問題をどう認識し、どう対応していくのかとは別の問題だ。我々は、この選挙制度の問題について、日本の民主主義を本当に機能させるためにも、制度を改めることに取り組んでいくことが必要だと思う。

日本の公職選挙の現状と、それをどう是正していくか

統一地方選挙の後半戦で市町村議会議員選挙や首長選挙などが行われたが、市町村長、市町村議会のかなりの部分が無投票で、選挙が行われずに決まってしまった。

これで地方自治を含めた民主主義が機能していると言えるのだろうか。

今回の事件を機に、被選挙権年齢と供託金制度の問題に気づき、それを検討していくことは重要である。しかし、それに関する木村容疑者の主張を正当なものと評価すべきかどうかは別の問題だ。

木村容疑者は、参議院議員の被選挙権が30歳以上であることに不満を持ち、そのために昨年7月の参議院選挙に立候補できなかったのは「年齢による差別」だとして憲法違反を主張しているようだ。

しかし、日本では1925年の普通選挙制度開始当時から25歳以上という定めがあり、その後に制定された日本国憲法でも、44条は当該資格を法定事項としており、同条も14条も「年齢」を差別禁止の対象として掲げていないので、違憲の主張は難しいだろう。

供託金について国際比較を行う際には、日本の場合、本来候補者が負担すべきポスター代等を公費負担とするかわりに、公費負担枚数以上のポスター等を禁止するなど、貧富の差によって選挙運動に不公平が生じないように、選挙が半ば公営で行われていることとの関係を無視することはできない。特に、国政選挙の場合、政見放送が公費で行われることも300万円という高額の供託金制度が維持される理由の一つだろう。

そのような選挙の公費負担が、果たして、国民の政治参加の場としての選挙の機能を高めているのかどうかを、改めて考えてみる必要がある。公費負担があったとしても、それだけで当選できるほど、選挙運動の機会が公平になるわけではない。そうであれば、むしろ、選挙の公費負担も供託金も大幅に下げて、立候補自体がしやすくなるようにすべきではなかろうか。

被選挙年齢に関しては、木村容疑者のように、国政選挙権での被選挙権、供託金を問題にするより、当面は、若者にとってもっと身近な地方議員選挙における被選挙権の制限を撤廃することの方が現実的だ。それは、若者の政治参加にとって意義があるだけでなく、地方議員の人材を確保するという面でも、有益だろう。

20歳前後の人も含めて、若い世代の人たちが被選挙権を与えられて、どんどん地方レベルの政治に参加することが重要なのではないか。それを阻んでいるのが被選挙権の制限、供託金による制限ではないか。

木村容疑者の犯罪は、その刑責に応じて厳正に裁かなければいけないし、同様の犯罪が繰り返されないようにいろいろ対策を講じ、要人警護も考えなければならない。

しかし、岸田首相襲撃事件の発生を機に、明らかに国際的にも特異な日本の選挙制度を改めていくこと、地方も含めた民主主義を機能させていくことにも、まったく別の問題として取り組んでいくべきだ。

安倍元首相銃撃事件、岸田首相襲撃事件という、要人を狙った犯罪が相次いだことを、日本社会がどのように受け止め、どのよう対応していくか、ある意味で日本社会は岐路に立っていると言える。

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”日露戦争由来「必勝しゃもじ」ウクライナ持参”に見る岸田首相の戦争への「無神経」

先週、岸田首相が突然ウクライナを訪問、首都キーウまで行ってゼレンスキー大統領とも会談した。その際、お土産に、宮島の「必勝しゃもじ」を持って行ったことについて、国会でも議論が行われたりしている。

私自身、広島は小学校3年から中学2年まで暮らした地であるし、そのあと両親は広島に住み着いたこともあり、私にとって広島は郷里だ。その私が、この「必勝しゃもじ」の話を聞いた時にどう思ったか。

広島人にとって、この「必勝しゃもじ」が一番多く使われるのは、高校野球などで広島のチームの応援をするときだ。まさに「応援グッズ」である。このしゃもじで「飯を取る」ということから、「敵を召し取る」という意味で応援に使う、というのが一番馴染みがあるもので、そのほかに、店などに商売繁盛などを願う「縁起物」として飾ることもある。

そういう高校野球などの応援グッズのようなものを、ロシアと戦争を行っている当事国のウクライナに持って行くというのは非常に違和感がある、とまず思った。

戦争と高校野球などのスポーツの応援とでは全然意味合いが違うではないか、というのが最初の率直な印象だ。そういう最初の印象をツイートしたところ、それに対して、以下のようなツイートで反論があった。

必勝とは文字どおり必ず勝て、という意味で、これは「日本がウクライナを支持し勝利を願う」という強いメッセージです。必勝しゃもじの由来は日露戦争ですから、尚更です。これをさりげなく縁起物を装ってウクライナに渡すというのは、この上なく見事な外交だと思います。

私は、正直なところ、「必勝しゃもじ」の由来が日露戦争だということは知らなかった。改めて調べてみると、確かに日露戦争の時に、戦勝を願う兵士たちが宮島にこのしゃもじを奉納した、そして実際に日露戦争で日本が勝ったということで、必勝を実現する、敵を召し取る「必勝しゃもじ」ということになった、というのが由来だったことが分かった。

もともと、そういう由来で「必勝しゃもじ」になったことは今の広島人にはあまり認識されることなく、「応援グッズ」や「縁起物」として使われてきたというのが、実際のところだろう。

では、岸田首相は、多くの広島人の感覚と同様に、「応援グッズ」「縁起物」として、ウクライナに「必勝しゃもじ」を持っていったのか、それとも、日露戦争での兵士の戦勝祈願と実際に勝利したことに由来するということで、今ロシアと戦争を行っているウクライナに持っていったのか。

もし、前者だとすれば、悲惨な戦争の最中に、応援グッズをウクライナにもっていくというのはあまりに軽薄だ。一方、先程のツイートで書かれていたように後者だとすると、ぞっとする程恐ろしい行動だ。それを知れば、広島人は、どう受け止めるだろうか。

多くの日本人にとって、広島の過去については、終戦の直前の忌まわしい原爆投下で膨大な人が犠牲になった時点以降の認識しかないだろう。それ以前の広島がどういう都市として発展したのか、戦前の日本にとって、広島がどういう位置づけだったのか、ということを知る人はあまりいないだろう。

広島は、日清戦争の時代、戦争の最高指導機関である大本営が東京から広島に移され、明治天皇も滞在した。日清戦争の戦費を審議する臨時帝国議会を広島で開催するため、仮の国会議事堂も建てられた。日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、広島はまさに、戦争に向けての拠点である「軍都」として発展したのだ。

そういう広島の宇品港に陸軍の船舶司令部があり、上陸用舟艇などをそこで建造していたのだが、それがいかに陸軍にとって重要な拠点であったか、そこでの司令官たちの苦悩を描いた【暁の宇品】という本がある。ジャーナリストの堀川恵子さんが書いた大変優れたノンフィクションだ。

私の両親が住んだ、そして、私自身も司法試験受験生時代を過ごした実家が宇品にあったこともあって、この本のタイトルに関心を持って読んだ。陸軍船舶司令部が、太平洋戦争においても重要な位置づけであったことがよく分かった。

そして、軍都広島からは、日清・日露の戦争を始め、大陸での戦争へも多くの出征兵士が送り出されていった。そのような軍都広島の歴史の結末が、あの忌まわしい原爆投下だったのだ。

アメリカが日本に原爆を投下するにあたって、投下地の候補がいろいろあり、最初は京都も候補地の一つだったと言われている。実際に原爆が投下された広島・長崎のうち、長崎は、もともと小倉に投下する予定だったのが、天候の関係で急遽長崎になったという経緯があったと言われている。しかし、広島はそうではない。

広島は最初から原爆投下の地として選ばれていた。それは、広島が重要な軍の拠点だったからであろう。

そういう意味では、広島にとって、広島市民にとって、原爆投下という悲惨な戦争の結末の起点となったのが、日清日露の戦争であり、それ以降の「軍都」としての発展だったのだ。

日露戦争での「必勝しゃもじ」が、出征する兵士の必勝祈願の奉納で使われたのが起源だとすると、被爆地広島にとって、その「必勝祈願」は、まさにそういう広島の悲惨な戦争への道を象徴するものだったことになる。そいういうことはあまり認識されていないから、「必勝しゃもじ」を「応援グッズ」として、カチカチと無邪気に打ち鳴らすこともできるのだ。

岸田首相が、日露戦争での「必勝しゃもじ」の由来を知った上で、敢えてそれを当時ロシアと戦った日本と重ね合わせて、今ロシアと戦っているウクライナに持参したとすれば、私は、無神経さに唖然とする。

しかも、日露戦争でロシアと戦った日本と、今、ロシアと戦うウクライナを同じように考えること自体も、全く理解できない発想だ。

ウクライナを支持する国際世論というのは、ウクライナはロシアから一方的に侵略された、武力によって国土を侵奪された。そのロシアと戦うウクライナは正義だ、だから全面的に応援すべきだ、というものだろう。

日露戦争でロシアと戦った日本は今のウクライナとは全く違う。日露戦争の当時、日本は朝鮮半島を侵略して植民地にしようとし、それに関してロシアと対立していた。まさに帝国主義的な野望がぶつかりあったことで日露戦争に至ったのだ。

その戦争は、第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となったことで、ポーツマス講和条約締結で終戦になった。しかし、この日露戦争では、多くの日本の若者たちが戦死した。大きな犠牲を代償にして、日本の勝利で終わったのだ。

歌人・与謝野晶子が、日露戦争の激戦地にいる弟を思って詠んだ歌がある。

『君死にたまふことなかれ』

ああ、弟よ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ。

末に生れし君なれば

親のなさけは勝りしも、

親は刄をにぎらせて

人を殺せと教へしや、

人を殺して死ねよとて

廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの

老舗を誇るあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家の習ひに無きことを・・・

日露戦争は、日本人が「不敗神話」を信じることにつながり、日本海海戦での大勝利は、日本海軍に、その後、時代遅れの「大艦巨砲主義」をはびこらせた。そして、それが無謀極まりない日米開戦に導き、沖縄戦への戦艦大和の「特攻出撃」、神風特攻隊による多くの若者達の犠牲、そして、広島・長崎の原爆投下という悲惨な結末につながっていくのである。

そういう歴史からは、広島人の意識としては、日露戦争の出征兵士の必勝祈願に由来する「必勝しゃもじ」という発想は出てこない。単なる「縁起物」「応援グッズ」だからこそ、広島人の生活習慣に溶け込んでいるのだ。

岸田首相が、帝国主義的な領土拡大の最中にあった日本がロシアと戦った日露戦争での「必勝祈願」に重ね合わせ、同じようにロシアと戦っているウクライナに「必勝しゃもじ」を持参したのだとすれば、岸田首相の無神経さは、原爆投下の被害に晒された広島人の「平和を祈る心」とは凡そ相容れないものである。

広島市民に選挙で選ばれながら、広島市民とは全く思いを共有していない「東京出身の政治家」だからこその発想なのではないだろうか。

このような首相に国を委ねていくことが、今後の日本にどのような将来をもたらしていくのか、まさに背筋が凍る思いだ。

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「組織的証拠捏造」可能性認める袴田事件“再審開始決定”、検察の特別抗告は許されない

3月13日、袴田事件で、東京高裁(大善文男裁判長)で再審開始決定が出された(以下「大善決定」)。捜査機関によって、確定判決で有罪の決め手の一つとされた証拠について「捏造された可能性が極めて高い」との判断まで示された。検察は、法的には特別抗告を行うことが可能だ(期間は、決定の翌日から5日、土日を挟んで20日が期限)。

しかし、死刑判決の確定から43年、静岡地裁の再審開始決定からも9年を経過しており、87歳という袴田氏の年齢、健康状態を考えれば、これ以上の審理の遅延は、到底許容し難い。検察は特別抗告を行う方針と報じられているが、袴田氏の冤罪救済を求める支援者のみならず、社会全体からも、特別抗告を断念し、一日も早く再審を開始するよう求める声が検察に押し寄せている。

以下に述べるような再審請求審の経過と実質的な争点を考えれば、大善決定に対する検察の特別抗告は許されるものではない。

静岡地裁の再審開始決定

確定した有罪判決に対して裁判のやり直しを求める再審が開始される要件には様々なものがあるが、その多くは、無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した」(刑訴法435条6号)と認められた場合、つまり新規性、明白性を充たす証拠とされた場合である。

2014年3月に、静岡地裁(村山浩昭裁判長、以下、「村山決定」)で再審開始決定が出されたが、そこで、「明らかな証拠」とされたのは、以下の2つだった。

(1)袴田氏が逮捕・起訴され公判審理が行われていた最中に味噌樽の底から発見され、袴田氏が犯人であることを裏付ける有力な証拠とされている5点の衣類や被害者が着用していた着衣等から血液細胞を他の細胞から分離して抽出する「細胞選択的抽出法」を実施した上で、採取した試料のDNA鑑定を行った結果、袴田氏のDNA型とは一致しないという本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)。

(2) 5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っていたとされるが、1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないことを実験によって証明したとする「味噌漬け実験報告書」。

村山決定は、(1)(2)が、いずれも、新規性、明白性を充たす証拠だとして、再審開始を決定したが、その最大の根拠とされた(1)の本田鑑定には、後述するように、科学的鑑定と評価できない杜撰なものだという批判があり、その信用性に大きな疑問があった。

地裁での再審開始決定に対しては、ほとんど例外なく、検察は即時抗告を行い、高裁で決定が取り消されることも多かった。それまでは、死刑の確定判決に対する再審が地裁で決定されても、死刑の執行が停止されるだけで、その前提となる勾留まで停止することはなかった。しかし、村山決定は、地裁段階の再審開始決定で死刑囚の釈放を命じるという異例の措置をとった。

釈放された袴田氏は、自由の身となって支援者・家族の元に戻った。釈放された死刑囚が公の場に姿を現わせば、その映像的な効果によって、社会全体に袴田氏の「冤罪」「無実」が確定的になったと認識することになり、その後、再審開始決定が取り消され、袴田氏が収監された場合、「無実の人間を強引に収監して死刑を執行しようとする無慈悲な刑事司法」と受け止められ、強烈な反発が生じることは必至だった。

東京高裁決定による再審開始決定取消

これに対して、検察官が即時抗告し、3年半にわたる審理の末、東京高裁(大島隆明裁判長、以下、「大島決定」)は、(1)(2)は、いずれも無罪を言い渡すべき明らかな証拠には当たらないとして、再審開始決定を取消し、再審請求を棄却した。

大島決定は、(1)については、その根拠となった本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)対して、以下のように述べて、信用性を否定した。

本田氏の細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けの本田鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由として本田鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、本田鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、本田鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえないと判断した。

(2)については、

5点の衣類の各写真は、写真自体の劣化や、撮影時の露光といった問題があり、発 見当時の色合いが正確に再現されていないのであるから、色合いを比較対照する資料とはなり得ないものである上、前記各みそ漬け実験で用いられたみそは、5点の衣類が発見された1号タンク内にあったみその色合いを正確に再現したものとはいえないのであるから、みそ漬け実験報告書等を刑訴法435条6号にいう明白性がある証拠と判断した原決定は不合理なものといわざるを得ない。

として村山決定の判断を覆した。

5点の衣類が、その血痕の色等から、袴田氏が、犯行後に味噌樽の底に隠したものではないとすると、他の者が、味噌樽の底に入れたことになり、それを行うとすれば警察の可能性が高いということになる。それについて、村山決定では「警察は、人権を顧みることなく、袴田を犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、5点の衣類のねつ造が行われたとしても特段不自然とはいえず、公判において袴田が否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、全く想像できないことではなく、もはや可能性としては否定できない。」としたが、大島決定は、次のように述べてその可能性を否定した。

自白追及の厳しさと証拠のねつ造の可能性を結び付けるのは、相当とはいえない。これまでしばしば刑事裁判で自白の任意性が問題となってきたように、否認している被疑者に対して厳しく自白を迫ることは往々にしてあることであって、それが、捜査手法として許される範囲を超えるようなことがあったとしても、他にねつ造をしたことをうかがわせるような具体的な根拠もないのに、そのような被疑者の取調方法を用いる捜査当局は、それ自体犯罪行為となるような証拠のねつ造をも行う傾向があるなどということはできず、そのような経験則があるとも認め難い。しかも、そのねつ造したとされる証拠が、捜査当局が押し付けたと主張されている自白のストーリーにはそぐわないものであれば、なおさらである。

最高裁決定による差戻し

東京高裁の即時抗告審で、静岡地裁の再審開始決定が取り消されたことに対しては、袴田氏の冤罪救済を求め、支援する人達からは強い反発と批判の声が上がった。

弁護人が、最高裁に特別抗告したところ、2020年12月、最高裁は大島決定を取消し、同高裁に差し戻した。

この最高裁決定は、(1)について、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとした前高裁決定は、結論において正当であるとし、大島決定を支持し、(2)についても、

前高裁決定は、みそ漬けされた血液の色調に影響を及ぼす要因、とりわけみそによって生じる血液のメイラード反応に関する専門的知見について審理を尽くすことなく、メイラード反応の影響が小さいものと評価した誤りがあるとし、このことは5点の衣類に付着した血痕に赤みが全く残らないはずであるとは認められないとの前高裁決定の判断に影響を及ぼした可能性があり、審理不尽の違法があるといわざるを得ず、その違法が決定に影響を及ぼすことは明らかであり、前高裁決定を取り消さなければ著しく正義に反する

とした。

最高裁は、大島決定が村山決定を否定して、再審決定を取消した判断の大部分を支持したが、「メイラード反応の影響」という一点についてだけ、大島決定の審理不尽を指摘して、東京高裁に差し戻したものだった。

こうして、東京高裁に差し戻された袴田氏の再審請求について、審理が尽くされた末に、出された決定が、2023年3月13日に出された今回の決定だった。

大善決定は、

原審で提出されたみそ漬け実験報告書は、中西実験に加えて、みそ漬けされた血痕の色調の変化に影響を及ぼす要因について当審で取り調べた前記各専門的知見等によって裏付けられることによって、1年以上みそ漬けされた5点の衣類の血痕には赤みが残らないことを認定できる新証拠といえるのであり、前記の各証拠と総合すれば、1号タンクから発見された5点の衣類に付着した血痕の色調に赤みが残っていたことは、5点の衣類が昭和41年7月20日以前に1号タンクに入れられて1年以上みそ漬けされていたとの確定判決が認定した事実に合理的な疑いを生じさせることになる。

とし、新旧証拠を総合評価した上で、

5点の衣類が1年以上みそ漬けされていたことに合理的な疑いが生じており、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号夕ンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できず(この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。)、袴田の犯人性の認定に重大な影響を及ぼす以上、到底袴田を本件の犯人と認定することはできず、それ以外の旧証拠で袴田の犯人性を認定できるものは見当たらない。

として、静岡地裁の再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却し、袴田氏に対する再審開始を決定した。

以上が、これまでの袴田氏の再審請求審の審理の経過である。

静岡地裁の再審開始決定が出された当初、最大だったのは、前記(1)の本田鑑定が科学的鑑定として評価できるかだった。

本田鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無の決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものだった。しかし、そのような方法によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要があるが、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答するなど、実験結果の再現性に重大な問題があった。

本田鑑定は、科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、前記(1)について、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断は不合理だった(【袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性】。大島決定が、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとして本田鑑定の信用性を否定し、その判断を最高裁も支持したのは当然だった。 

実質的な争点は「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性

本田鑑定に代って、大島決定に対する特別抗告審以降、再審請求の争点になったのが、前記(2)の「味噌漬け実験報告書」だった。

「5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っており、それが1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないこと」が科学的に証明できるかどうかが、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と認められるか、をめぐって、実験や多くの証人尋問が行われた。

弁護側の主張は、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」という客観的事実から「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という事実が導かれ、それが、「袴田氏が犯行の際に着用していた着衣」という証拠を消失させ、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」になるとの主張だった。これに関して、最高裁決定で、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」を科学的に明らかにすることが求められた大善決定では、その点について徹底して審理し、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着いた。

しかし、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色」というのは、50年以上前のことであり、それを厳密に客観的に再現することができるわけではない。結局のところ、どちらの結論を導こうとするかによって、その「科学的な推定」の中身が左右されることは否定し難い。

そういう意味では、「警察による組織的な証拠の捏造が行われた可能性」についてどう考えるかが実質的に重要であり、その点こそが、大島決定と大善決定とで判断が分かれた決定的な要因だったと見るべきであろう。

大島決定は、当時の警察が、仮に、袴田氏を有罪にするためにあらゆる手段を使おうとしていたとしても、無関係の衣類を袴田氏の着衣のように偽って、味噌樽の中から発見するという行為は、「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という、全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになるので、このような「証拠のねつ造」を疑うことは、警察がいかに人権を無視した過酷な取調べを行っていたとしても困難だとして、村山決定が認めた証拠捏造の可能性を否定するものだった。

冤罪事件や再審の歴史は、警察や検察による証拠の「隠ぺい」の歴史だったと言っても過言ではないほど、過去の多くの事件で、不当に証拠が隠されていたことが、真相解明を妨げてきた。また、警察でも証拠の改ざんが刑事事件に発展した事例も過去に発生している。検察においても、現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件という「改ざん」事件が発生しており、警察や検察による「証拠に関する不正」が行われる抽象的な可能性があることは、否定できるものではない。

しかし、日々発生する膨大な刑事事件の摘発・捜査・処分が、現場の警察官・検察官によって行われ、その職務執行が基本的に信頼されることで刑事司法が維持されているのであり、それら全体に対して、常に証拠に関する不正を疑うことはできず、疑うのであれば、相応の根拠がなければならない。しかも、この袴田事件では、逆に、捜査機関の証拠捏造があったとすると「袴田氏の自白と矛盾する」ことになり不合理だ、というのが大島決定の考え方だ。

それは、従来の刑事裁判所の一般的な考え方とも言えるだろう。袴田事件の当初の裁判の過程では、味噌樽の中から発見された衣類を実際に袴田氏に着用させる実験を行った結果、サイズが合わず、着用させることができなかった、という袴田氏の犯人性に重大な疑問を生じさせる事実も出てきたが、それでも、控訴審も、最高裁も有罪の判断を変えなかった。その最大の理由は、大島決定と同様の理由から「警察による組織的な証拠捏造の可能性」が否定される、ということだったものと思われる。

ところが、大善決定は、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号夕ンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できないとし、これについて「この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。」との判断まで示した。

大善決定の前提には、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性も否定できないという見方があったものと考えられる。だからこそ、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な面からの審理を重ね、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という結論を導いたのであり、大善決定の大島決定との決定的な相違は、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を肯定した点にあるというべきであろう。

大善裁判長が「断罪」した東京地検特捜部の虚偽捜査報告書による検察審査会誘導

では、なぜ、大善決定は、大島決定とは異なり、従来の裁判所の一般的な見方に反して、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を認めたのか。

大善裁判長には、「検察の組織的な証拠の捏造」が疑われた事案に対して、判決で、検察に厳しい指摘を行った経験がある。

陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢一郎氏に検察審査会の起訴議決によって起訴された。その東京地裁の一審の審理の中で、石川知裕氏(当時衆議院議員)の取調べ内容に関して、石川氏が小沢氏との共謀を否定しているのに、特捜部所属の検事が、それを認めているかのような事実に反するように記載した捜査報告書を作成し、それを特捜部が検察審査会に提出したことで、検察審査会の議決を誘導した疑いが表面化した。この事件で一審を担当したのが大善裁判長だった。2012年4月に東京地裁で出された小沢氏に対する一審判決では、「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」などと異例の厳しい指摘が行われた。

2012年6月27日、最高検察庁は、虚偽有印公文書作成罪で告発されていた担当検事、特捜部長(当時)など全員を「不起訴」としたが、2013年4月22日、東京第一検察審査会は、担当検事に対して「不起訴相当」の議決を出した。議決書は、「虚偽有印公文書を作成するにつき故意がなかったとする不起訴裁定書の理由には十分納得がいかず、むしろ捜査が不十分であるか、殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られるので、以上に指摘した点を踏まえて、本件についての不起訴処分は、不当であると判断し、より謙虚に、更なる捜査を遂げるべきであると考える。」と検察の不起訴処分を厳しく批判した。

大善裁判長は、小沢氏に対する一審判決で、検察の「組織的な供述捏造」の疑いが強いと判断し、「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」と指摘した。しかし、その後の検察の対応は、最高検が行った調査結果の報告書を公表したものの、その内容は全く不合理で、凡そ説明になっていないものだった。東京地検特捜部が組織的に捜査報告書での供述の捏造を行った疑いは全く払拭されなかった(【検察崩壊 失われた正義】)。検察の対応は、「組織的な供述捏造と検察審査会騙し」を疑った大善裁判長の指摘に応えるものでは全くなかったのである。

そういう意味で、「警察による組織的な証拠捏造」は、それを疑う具体的な証拠がなければ可能性は否定される、という従来の刑事裁判所の一般的な経験則が、大善裁判長には通用しなかったのである。

当時の東京地検特捜部の「組織的行動」は、政権交代の可能性が高まっていた時期に、野党第一党の代表だった小沢一郎氏の秘書を、犯罪性の希薄な政治資金規正法違反で逮捕・起訴し、政権交代後は、強引な捜査で小沢氏本人を政治資金規正法違反で起訴しようとしたが、検察上層部の了解が得られずに不起訴に終わり、何とかして、小沢氏の政治生命を奪おうと、組織的に供述を捏造した捜査報告書を作成し、検察審査会に提出して、強制起訴に持ち込んだ、というものだった疑いが強い。

21世紀に入り、裁判員制度も導入されるなど、日本の刑事司法に大きな変革が訪れている時期にそのような「捜査機関による組織的証拠の捏造」が行われたのだとすると、半世紀以上昔、拷問的な取調べや不当な捜査による冤罪が少なくなかった時期の袴田事件での警察が、人権を無視した強引な取調べで自白に追い込んで袴田氏の起訴に至ったものの、自白調書の大部分は任意性が否定されて裁判で採用されず、さしたる裏付け証拠もない、という状況に追い込まれ、起死回生を図って、5点の衣類を味噌樽の底に入れる「組織的証拠捏造」を行った可能性が、「経験則上あり得ない」と言えるだろうか。

「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになる、との大島決定の指摘も、警察の悪意の程度によっては「組織的証拠捏造」を否定する理由にはならない。

当時の警察は、人権を無視した拷問的な取調べで得た袴田氏の自白を、果たして「真実」だと思っていたのだろうか。袴田氏を犯人だと決めつけて逮捕した以上、いかなる手段を用いてでも、起訴、有罪判決に持ち込む、ということが警察組織にとって至上命題だったとすれば、それによって袴田氏から得た自白が「真実」との認識すらなかったのではないか。警察にとっては、袴田氏が「自白」した後も、それは、単に「自白調書」を得たというだけで、袴田氏の事件は、依然として「否認事件」であるように認識していたのではないか。そうだとすれば、警察が、袴田氏が犯行時に着用していた衣類という証拠を捏造してそれを味噌樽の底に入れるという「組織的な証拠捏造」を行うことは、それが発見されることで、袴田氏を有罪に追い込み、「誤認逮捕の汚名」から免れることができる合理的な行動とみる余地もある。

石川氏が小沢氏との共謀を認めているかのような事実に反する捜査報告書を検察審査会への提出証拠に紛れ込ませ、それが功を奏して検察審査会は小沢氏に対して起訴議決を行い、小沢氏は幹事長辞任に追い込まれて事実上政治生命を失った。石川氏の取調べの開始時に、担当検事は、「録音機を持っていないか」と執拗に質問したが、石川氏は、それを上手くごまかして秘密録音し、それが、虚偽捜査報告書による供述の捏造という前代未聞の検察不祥事の発覚につながった。特捜部にとっては秘密録音が防止できなかったことが大誤算だった

袴田事件でも、警察が組織的に証拠捏造を行ったとしても、そのようなことが行われるなどと、刑事裁判官が疑うこともないし、その証拠が決定的な証拠となって袴田氏の有罪判決は確定し、死刑が執行されて、証拠捏造は歴史の闇に消えるだろうということを目論んでいたのかもしれない。味噌樽に沈められた衣類の変色の程度、という鑑定で、証拠の捏造の可能性が明らかになるとは思いもよらなかったのであろう。

このように、当事者の立場に立って考えると、「捜査機関による組織的証拠捏造」も決してその可能性を認めることが不合理とは言えないのである。

大善決定は、大島決定のような理由で「警察の組織的証拠捏造」の可能性を否定するという考え方はとらず、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」について徹底して審理し、検察側が、約1年2か月にわたって静岡地検の一室で行った「味噌漬け実験」による色調変化の観察に、大善裁判長自らも立ち会うなどした上、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着いた。そして、その客観的な立証に基づいて、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」との判断まで示したのである。

検察の特別抗告は許されない

慎重かつ緻密な審理を経て出された大善決定に対して、検察が、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な事実認定に異を唱えて特別抗告をしても、その判断が覆る余地がないのは当然である。それでも、検察が特別抗告をするとすれば、「捜査機関による組織的証拠捏造」について、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」とまで述べた大善決定に服するわけにはいかないという、「検察の面子」によるものということになる。

検察には、大阪地検特捜部の主任検察官による証拠改ざん問題という重大な不祥事を起こし、その際、特捜部長、副部長の「犯人隠避」を立件した。「改ざん」「隠蔽」の批判に晒されたが、特捜部長以下の問題に矮小化し、検察の組織的問題は十分に解明されなかった。それに加えて、陸山会事件の虚偽捜査報告書による検察審査会騙しが組織的に行われた疑惑も全く払拭できていない。そういう検察に、「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性を認めて再審開始の判断を行った大善決定に対して異を唱える資格などない。

検察は、特別抗告を断念すべきである。

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高市氏には、虚偽公文書作成罪で告発する「覚悟」はあるのか?~加計学園問題と共通する構図

3月3日、参院予算委員会で立憲民主党の小西洋之議員が、安倍政権下で放送法の政治的公平性をめぐる新解釈が加わる過程で、当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省側に働きかけた発言、当時の安倍晋三首相、高市早苗総務相のものとされる発言などが記録されている文書を、総務省内部文書として公表し、質疑を行った。当時の総務大臣の高市早苗氏(現経済安全保障担当大臣)は、3月3日の参院予算委員会でこの文書を

「信ぴょう性について大いに疑問を持っている」

「悪意を持って捏造されたものだ」

とし、小西参院議員から

「もし捏造でなければ議員辞職するのか」

と迫られると

「けっこうですよ」

と答えた。

放送法が規定する「政治的公平性」をめぐっては、政府は従来

一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体をみて判断する

と解釈してきたが、安倍政権下の2015年5月、高市氏が国会答弁で

「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」

と新たな解釈を示した。小西議員が公表した文書は、この放送法の解釈に関する総務省内のやり取りと安倍氏と高市氏の電話などを内容とするものだった。

松本剛明総務大臣は、7日午前、

「すべて総務省の行政文書であることが確認できた」

と明らかにした。

文書が捏造でなかった場合、議員辞職も辞さない考えを示していた高市氏は、会見で自身の進退について問われ、

「私に関係する4枚の文書は不正確だと確信を持っている。ありもしないことをあったかのように作るというのは捏造だ」

とした。

「閣僚辞任や議員辞職を迫るのであれば、文書が完全に正確なものであると相手様も立証されなければならない」

とも述べた。

このような総務省内部文書に対する高市氏の発言や対応が、森友学園問題が初めて国会で取り上げられた2017年2月17日の衆議院予算委員会で、当時の安倍晋三首相が

「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたい」

「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」

などと述べ、それが発端となって、当時の財務省理財局長の国会での虚偽答弁や決裁文書改ざんなどに発展していったことと対比して論じられている。

しかし、むしろ、放送法についての総務省文書や高市氏の発言の問題は、森友学園問題と同時期に表面化した加計学園問題とも併せて対比した方が、構図を正しくとらえることができるように思う。

2017年5月17日、朝日新聞が「これは総理のご意向」等と記された加計学園の獣医学部新設計画に関する文部科学省の文書の存在を報道した。菅義偉内閣官房長官は、この報道について、

「全く、怪文書みたいな文書じゃないか。出どころも明確になっていない」

と述べた。

5月25日、前任の文科省事務次官だった前川喜平氏が、記者会見を開き、文科省内に「総理のご意向」文書が存在したことを認め、

「行政が捻じ曲げられた」

と明言したことで、この問題をめぐる構図が大きく変わった。

その直近まで文科省事務次官という中央省庁の事務方のトップの地位にあった人間の発言や、その省内で作成された文書によって、「不当な優遇」を疑う具体的な根拠が示された。それによって、国会の内外で安倍首相や安倍内閣が厳しい追及を受ける事態に発展することになった。

その後も、文科省内部者からの匿名の告発・証言が相次ぐ中、菅義偉官房長官は、6月8日の記者会見で、

「出所や、入手経路が明らかにされない文書については、その存否や内容などの確認の調査を行う必要ないと判断した」

との答えを繰り返していたが、翌9日午前、松野博一文科大臣が記者会見を開き、「文書の存在は確認できなかった」としていた文科省の調査について、再調査を行う方針を明らかにした。

その再調査の結果、同省内部者からの存在が指摘されていた19文書のうち14文書の存在が確認された。

文書が確認できなかったとした当初調査の後、複数の同省職員から、同省幹部数人に対して「文書は省内のパソコンにある」といった報告があったのに、こうした証言は公表されず、事実上放置されていた。「文書の存在が確認できなかった」とした当初の調査も、実質的に「隠ぺい」であった疑いが濃厚になった。

こうした中で、前文科次官の前川喜平氏が、記者会見でそれが正式な文書だと公言する動きを見せるや、読売新聞が、前川氏の「出会い系バー通い」に関して、官邸筋からの情報に基づくと思える記事で「売春、援助交際への関わり」を印象づけるような真実性に重大な問題のある記事を掲載したり(【読売新聞は死んだに等しい】)、義家弘介文部科学副大臣が、参院農林水産委員会で、「国家公務員法違反(守秘義務違反)での処分」を示唆したりするなど(【菅「怪文書」発言、義家「守秘義務」発言こそ、国民にとって“残念”】)、文科省側からの告発封じのために、あらゆる手段が講じられた。

森友学園問題では、安倍氏と昭恵氏が、同学園の認可あるいは国有地払い下げに関わったのかどうかという「安倍氏自身の側の問題」についての安倍氏自身の国会答弁が発端となって、財務省側が様々な問題行為を行い、決裁文書改ざんを命じられた赤木俊夫氏の自殺という痛ましい出来事に至ったのであるが、加計学園問題では、「総理のご意向」文書について、その意向の当事者である安倍首相の総理官邸側が、朝日新聞が報じた「文科省文書」を「怪文書」扱いして、「行政文書」であること自体を否定し、その否定が続けられなくなるや、ありとあらゆる方法で、文科省文書の信憑性を否定しようとした。

加計学園問題で問題になったのが文科省の文書に記載された「総理のご意向」だった。国家戦略特区に関する権限を有する総理大臣と、加計学園理事長が「腹心の友」であることで、文科省が所管する獣医学部新設の認可が捻じ曲げられた疑いが問題とされた。

今回の放送法に関する総務省の文書でも、当時の安倍首相の意向で、総務省が所管する放送法の解釈が捻じ曲げられた疑いが指摘されている。しかし、両者の展開は大きく異なる。

加計学園問題では、首相官邸側が、当初、新聞で公開された文科省文書を「怪文書」と切り捨て、その意向を受けた文科省の大臣・副大臣が、内部文書の信憑性を否定しようとする方向に動き、それに反発する文科省からの内部告発の動きも封じ込めようとした。

それに対して、高市氏は、安倍氏自身が、首相として放送法への不当な介入に関わったという批判につながりかねない総務省の文書の信憑性を必死に否定しようとし、小西議員が公表した文書を、当初は、「捏造」と決めつけたが、松本総務大臣以下総務省側が、小西議員が公表した文書についてただちに調査を行い、当該文書が「行政文書」であることを明確に認めたことで、総務省の「行政文書」であることが否定できなくなった。そこで、高市氏は、「捏造」を「不正確な文書を作り上げた」という意味にすり替えて、「捏造ではなかった場合には大臣も議員も辞職」と明言したことによる辞任を免れようとしている。

しかし、安倍氏亡き後、「最大の政治的な後ろ盾」を失った高市氏にとっては、一人で、放送法の解釈変更についての「安倍氏の意向」が示されたことを否定しようとしても、加計学園問題について、官邸・政府を挙げて文科省文書の信憑性と「総理のご意向」の事実を否定しようとした状況とは全く異なる。

高市氏は、大臣会見でにこやかな表情で余裕があるように装っているが、内実は、土壇場に追い込まれていることは否定できない。

正式な行政文書と認められた「公文書」について、「意図的に不正確な記載が行われた」というのであれば、その文書は「虚偽公文書」に該当することになる。高市氏が、その主張を通すのであれば、不正確だと確信を持っているとする「4枚の文書」の作成者を「虚偽公文書作成罪」で告発するのが当然、ということになる。

高市氏が検察に告発を行えば、検察が捜査に乗り出し、文書の作成者を特定して、その内容の正確性について捜査することになる。文書作成者は、安倍氏と高市氏との電話の内容について何らかの情報があったからその文書に記載したはずだ。意図的に虚偽の記載をしたと疑われる状況がなければ、「意図的に虚偽の記載をしたこと」は否定され、不起訴処分ということになる。(捜査の結果判明した文書作成の時期によっては、公訴時効完成による不起訴となる可能性もある。)

同様に虚偽公文書作成罪で告発され、検察の捜査の対象とされた森友学園への国有地売却についての決裁文書については、多くの記載が削除されていても「決裁文書の内容に実質的な変更はない」との理由で不起訴となった。しかし、高市氏は、「不正確な記載」を意図的に行ったことを「捏造」として問題にしているのであり、虚偽公文書作成罪の成否と、高市氏が問題にしている「不正確な記載」のレベルは、実質的に一致することになる。

高市氏は、総務省文書についての現在の主張を貫くのであれば、虚偽公文書作成罪で告発すべきだが、もし、検察の捜査の結果、不起訴となった場合には、逆に、高市氏の側に虚偽告訴罪の問題が生じることになる。

「虚偽公文書作成罪による告発」を行うのか、高市氏には、その「覚悟」が問われている。

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籠池氏名誉棄損発言を含む「安倍晋三回顧録」増刷で、「安倍官邸チーム」VS籠池氏の対立再燃か!

2023年2月上旬に、中央公論新社から、【安倍晋三回顧録】が出版された(以下、「回顧録」)。2022年7月8日に、参議院選挙の街頭演説中に銃撃されて死亡した安倍晋三氏が、首相退任後の2020年10月から2021年10月までの間に、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏と尾山宏論説副委員長の18回にわたるインタビューで語っていた内容を、安倍晋三氏自身の著書として公刊したとのことだ。発売後、新聞、テレビ等で紹介されるなどして大きな話題になっており、Amazonでは書籍全体のベストセラー1位を続け、既に4刷5万部の重版が決定され、部数は累計で15万部に上るとされている。

橋本氏は、同書の序文で、

「安倍さんの回顧録は歴史の法廷に提出する安倍晋三の陳述書でもあるのです」

と述べている。史上最長の首相在任期間の間に、それまでの首相がなし得なかった、国家安全保障会議の設置、武器の禁輸見直し、集団的自衛権の容認、特定秘密保護法、共謀罪法の制定など国民の間で賛否が分かれる多くの問題について業績を残したことを考えれば、安倍氏の肉声の記録としての回顧録を出版することの意義は大きいと言えよう。

しかし、同書中の籠池泰典氏に関する記述には、刑事上・民事上の名誉棄損に該当する可能性があることを、2月15日に「論座」Web版で公開した【話題の書『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、名誉棄損に当たる可能性がある】で指摘している。今後の重版分について、このような指摘を受けた上での出版ということになると、内容の「虚偽性」についての認識も明確になるので、刑法の名誉棄損罪による処罰も現実的な問題となる。

刑法の規定を踏まえて、同罪の成否について具体的に検討してみることとしたい。

名誉棄損罪の要件

刑法230条は、1項で

「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。」

と規定し、2項で、

「死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」

としている。

同条2項は、「死者に対する名誉棄損」についての規定であり、「死者を主体とする名誉棄損」ではない。死者は行為をなし得ないのであるから当然である。

しかし、このように、社会的影響力の大きい死者の発言を内容とする公刊を行う場合、その内容によって他者の名誉を棄損することがないよう、すなわち、「死者の発言」公表による名誉棄損に当たることがないよう、十分な注意が必要であることは言うまでもない。故人の発言を内容とする出版については、名誉棄損の内容を認識して出版を判断した者が法的責任を負うことになる。

そこで、まず、刑法の名誉棄損罪の一般的な要件について確認しておこう。

名誉棄損罪における「名誉」とは、人が社会から受ける一般的評価である。その「社会的評価」を低下させる行為が「名誉棄損」である。厳しい批判をしても、それが「批評」や「論評」にとどまるのであれば、「表現の自由(言論の自由)」の範囲内なので、刑事処罰の対象とはならない。

また、社会的評価を低下させることを公にしても、「事実の指摘」がなければ、名誉棄損罪には該当しない。個人の自尊心やプライドなどの「名誉感情」が傷つけられた場合には、侮辱罪が成立するにとどまる。

刑法230条の2で「公共の利害に関する場合の特例」が規定されており、

「前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」

とされ、同条2項で、

「前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。」

とされている。

名誉毀損の要件に該当しても、公共の利害に関する事実で、公益を図る目的で、真実であると認める理由がある場合には、違法性が阻却され、名誉毀損罪は成立しない。そして、起訴されていない犯罪行為を摘示した場合は、「公共の利害に関する事実」とみなされるので、「真実であることの証明」があれば、処罰されない。

籠池氏についての安倍氏発言の「真実性」

回顧録で、森友学園元理事長の籠池泰典氏に関して、名誉棄損に該当する疑いがあるのは以下の記述である(252頁)。

理事長(籠池泰典氏)は独特な人ですよね。私はお金を渡していませんが、もらったと言い張っていました。その後、息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。理事長は野党に唆されて、つい「もらった」と口走ったんでしょ。理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう。

この記述は、一次的には、安倍氏が、橋本氏らのインタビューでそのような発言をした、ということを内容とするものであるが、それによって、籠池氏の社会的評価を低下させる具体的事実を指摘したと認められれば、籠池氏に対する「名誉棄損」に該当することになる。同記述で書かれているのは、泰典氏が「(100万円を、安倍氏ないし安倍昭恵氏から)もらったと言い張った」という事実、そして、その話が「虚偽だった」ということである。

籠池氏が「もらったと言い張った」場は、最終的には、2017年3月23日の衆参両院の予算委員会での証人喚問の場である。つまり、国会の証人喚問で宣誓の上、100万円授受について、「虚偽の証言」を行ったとの「籠池氏の犯罪事実」を摘示した、ということである。

そこで、問題となるのが、真実性が認められるか、真実だと信じることに相当の理由があったと認められるか、である。

回顧録では、この点について、安倍氏が

「(籠池氏の)息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。」

と述べたとされている。この「息子さん」というのは籠池氏の長男の佳茂氏のことだと思われる。同氏が100万円授受話を否定しているので、泰典氏の100万円授受話が虚偽だったことが明確になったとの趣旨である。

少なくとも、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」と同書で示されている根拠は、「佳茂氏が、私や昭恵との100万円授受を否定している」ということだけである。

では、この「佳茂氏が100万円授受を否定している」というのは、事実なのか。

森友学園問題が表面化した当初、両親の籠池夫妻を支える立場で共に行動していた佳茂氏は、夫妻が詐欺罪で逮捕・起訴された後の2018年秋頃から、花田紀凱氏、小川榮太郎氏などの、安倍氏に近い言論人に接近するようになった。

そして、佳茂氏は、2019年9月24日に、以下のようなツイートを投稿し、その直後に、安倍氏批判に転じた泰典氏夫妻を批判する【籠池家を囲むこんな人たち】と題する同氏の著書が公刊された。

一番、森友学園騒動が盛り上がったのは、寄付金100万円の問題ですね。2017年3月15日、父がメディアに向けて昭恵夫人から寄付金100万円を受け取ったとの発言をしたのですが、この発言をしろと言ったのは菅野完です。捏造であり、報道テロです。

ツイートでは「捏造」という言葉を用いているが、著書では、その点については、以下のように書いている。

今となっては、それがあったかなかったかどちらでもいいような状態です。別に法的に問題があるわけではないし、むしろそれが寄付であるなら、それはそれできれいな話です。

しかし、この100万円授受話の真相は、菅野完から言われたシナリオ通りの話を3月15日の小学院の中で私が父に耳打ちし、敢行されたものだったのです。そういう意味では父は、言われたことをしたまでであり、何らの落ち度もありません。

要するに、泰典氏が100万円寄付の話を公言したのは、菅野完氏の指示にしたがったものだと言っているだけで、「100万円授受の事実」がなかったとか、創作だったと言っているわけではない。むしろ、「それが寄付であるなら、それはそれできれいな話です。」と書いていること、父の籠池氏について「何らの落ち度もありません。」などと、泰典氏が100万円授受の証言をしたことには問題はないという趣旨のことも言っているのであり、100万円授受の事実自体はあったことを前提にしているようにも思える。

佳茂氏は、この著書の公刊後、菅野完氏から、上記投稿と著書について名誉棄損による損害賠償請求訴訟を起こされ、敗訴が確定している。

その訴訟で、被告佳茂氏は、「被告の認否」で、「100万円授受」については「真偽不明である」としている。つまり、佳茂氏は、ツイートで「捏造」というインパクトのある言葉を使用しただけで、「100万円授受話」の真偽についてはわからないということなのである。

また、「籠池泰典氏が、100万円の寄付の話を公言したのは、菅野完氏に指示にしたがったもの」という点についても、菅野氏が上記訴訟で、そのような事実はないと主張したのに対して、佳茂氏側は、泰典氏の発言内容についての証拠を提出したようだが、判決は、このような佳茂氏側の主張は認められないとした上、同証拠についても

「原告が訴外泰典のメディア対応を仕切って、対応する相手を管理していたこと、訴外泰典の自宅に原告に近しいマスコミ関係者が寝泊まりするようになって、訴外泰典の言動を記事にしていった記載があるに過ぎず、上記指示を受けた旨の記載はない」

と判示している。

要するに、佳茂氏が100万円授受を否定した事実はない。安倍氏が、「息子さんが100万円授受を否定し、籠池氏の話が虚偽だったことは明確になった」と認識していたとすれば、誤解である。

回顧録で、このような安倍氏の発言を掲載することは、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」との事実を摘示し、しかも、その事実を、「籠池氏の息子が100万円授受を否定した」という存在しない事実によって、あたかも真実であるかのように見せかけようとしたということになる。単に、社会的評価を低下させる事実を摘示するより、一層悪質・重大な名誉棄損行為だと言える。

回顧録の中に、このような安倍氏の発言を記載するのであれば、「佳茂氏は100万円授受を否定していないことは、訴訟上も明らかになっているので、この安倍晋三氏の発言は誤解によるものです」との注記を付すことが最低限必要だった。

しかし、同回顧録には、そのような注記は全く記載されていない。

100万円授受がなかったとする根拠

もっとも、「籠池氏が100万円授受について虚偽の発言をした」という事実について、泰典氏の息子の佳茂氏の発言が「100万円授受」を否定する根拠にならないとしても、回顧録の編集責任者の橋本五郎氏等や、出版元の中央公論新社の側が、佳茂氏の発言以外に、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だったこと」が真実だと信じる十分な根拠を有している、というのであれば話は別である。

そこで、問題になるのが、泰典氏が述べる100万円授受の一方の当事者である昭恵夫人の供述との関係だ。昭恵夫人については、自身のフェイスブックのアカウントで、泰典氏の国会証言の直後に、「籠池さんに100万円の寄付金をお渡ししたことも、講演料を頂いたこともありません。」とする投稿が行われている。

しかし、この昭恵夫人のフェイスブック投稿は、昭恵氏本人が作成して投稿したものとは考えられず、内容も、安倍首相官邸側の泰典氏の証言に対する反論を記載したもので、昭恵夫人自身の話を内容とするものとは考えにくい。

まず、この昭恵夫人のフェイスブック投稿は、それまでの昭恵夫人の投稿とは多くの点で表現が異なっており、昭恵夫人自身が自ら書き込んで投稿したものとは思えない。

第一に、昭恵夫人のフェイスブックの投稿は、すべて年号が西暦表示になっており、数字はすべて半角表示であるのに、このコメントでは年号が元号で表示され、数字がすべて全角で表示されていることである。

第二に、昭恵夫人が使うとは考えにくい典型的な「役人用語」が多く使われている。特に「旨」「当該」「何らか」などの言葉は、典型的な「官僚的、公用文書的表現」であり、そのような役人仕事、公的事務の経験がない昭恵夫人が書いた言葉とは思えない。

これらのことから、このFBコメントは、昭恵夫人が直接フェイスブックに書き込んで投稿したのではなく、別に作成された文書を、フェイスブックの投稿欄にコピー・アンド・ペーストしたのではないかと考えられる。

では、この「別に作成された文書」が、昭恵夫人自身が話したことを内容とするものか、それとも官僚が作成したものなのか。

内容面からしても、昭恵夫人自身が書いたものではないことが疑われる。その後の菅官房長官の記者会見での説明や、安倍首相の参議院予算委員会での答弁と比較すると、むしろ、証人喚問での籠池証言に対する「首相官邸側の反論ないし弁明」そのものであり、官邸側が作成して、昭恵夫人のアカウントで投稿した可能性が高いと思える。

「100万円授受」をめぐって、泰典氏の供述と対立している昭恵夫人の供述が、泰典氏より特に信用できると判断する理由があるとは思えない。昭恵夫人が100万円授受について「渡した記憶がない」否定していることが、同氏の話が虚偽だと信じる根拠になるものではないことは明らかである。

籠池氏偽証告発に向けての自民党調査チームの動き

籠池氏が2017年3月23日の証人喚問で行った証言に関しては、同月28日に、「籠池氏偽証告発」に向けての自民党調査チームの調査結果が公表されている。

自民党の西村康稔総裁特別補佐が、西田昌司参議院議員、葉梨康弘衆議院議員とともに、党本部で緊急の記者会見を行い、衆参両院で証人喚問を受けた森友学園の籠池泰典氏による複数の発言に虚偽の疑いが濃厚だとして、議院証言法に基づく偽証罪での告発について「偽証が確定すれば考えたい」などと述べた。

偽証の疑いがあるとして、告発をめざす調査の対象とされた事項は、

①籠池氏は、「学園の職員が払込取扱票の振込人欄に“安倍晋三”と書き、郵便局に持参した」などと証言したが、「安倍晋三」の筆跡が籠池氏の妻が書いたとされる字に似ていることから、郵便局に行ったのは、職員ではなく籠池夫人ではないか。

②寄付依頼書に「安倍晋三小学校」の記載がある払込取扱票を同封して使用した期間について、籠池氏は、「(安倍首相が)衆院議員時代、つまり総理就任、24年12月以前」であり、「使用してきたのは、ほんの一瞬」と午前の参議院予算員会で証言し、衆議院では「5カ月余り」と訂正したが、平成26年3月にも配っている。27年9月7日の100万円の振込に使われた払込取扱票にも「安倍晋三小学校」が記載されていることから、もっと長期にわたって使用していたのではないか。

の2点だった。

このような自民党の調査チームの調査結果は、自民党として総力を挙げて(おそらく官邸、内閣情報調査室等も協力して)、泰典氏の国会証言の中で偽証告発の対象となるものがないかを徹底して検討したが、①、②のようなものでしかなかったのである。この時点で、泰典氏の「100万円授受」証言についての虚偽であることを疑う根拠がほとんどなかったことは間違いない。

また、その後、籠池夫妻は検察に詐欺罪で逮捕され、300日にもわたって身柄拘束されたが、検察捜査でも、100万円授受について泰典氏の偽証の話は全く出てこなかった。鈴木宗男議員や、守屋武昌元防衛事務次官など、過去の議院証言法に基づく偽証事件の多くは、証言後に、別の犯罪の容疑で検察の捜査が行われた結果、国会での偽証も明らかになったケースだ。泰典氏についても、検察は、100万円授受の証言が偽証である疑いがあるのであれば、詐欺罪の捜査と併せて、それについても徹底して捜査したはずだ。検察捜査で、泰典氏の国会での偽証の話が全く出てこなかったのは、同氏の証言の偽証を疑う理由がなかったということである。

名誉棄損罪の主体は誰か

では、回顧録で安倍氏の発言内容を公開することによる名誉棄損の主体は誰か、犯罪は誰について成立するのか。

回顧録に、著者の安倍晋三氏と並んで名前を出しているのは、「聞き手」の橋本五郎氏、「聞き手・構成」の尾山宏氏、「監修」の北村滋氏である。

そして、回顧録の「謝辞」(395頁)には、

北村滋前国家安全保障局長は、第1次内閣から蓄積してきた資料の提供や事前の安倍さんとの打ち合わせをはじめ、インタビューのすべてを支えてくれました。また事後的な原稿のチェックや掲載写真の選定もお願いしました。それがなければ、このような形で歴史的かつ実証的な回顧録が世に出ることは不可能だったと思います。

と書かれている。

これらの記載からすると、安倍氏のインタビューは、橋本氏と尾山氏の2人で行い、その内容を尾山氏が「インタビュー録」の原稿にまとめたもので、北村氏は、そのインタビューの際の資料を提供するなどした上、原稿をチェックし、それによって出版する回顧録の内容が固まった、ということのようである。

そして、回顧録の末尾の「奥書」には、

@2023 Shinzo ABE,The Yomiuri Shimbun, Shigeru KITAMURA

Published by CHUOKORON-SHINSHA,INC.

と記載されており、この回顧録の著作権は、故安倍晋三氏、読売新聞社、北村滋氏に、出版権が中央公論新社に帰属するということのようだ。

読売新聞社に著作権が帰属している理由は不明だが、同社の論説委員である橋本氏、尾山氏がインタビューの「聞き手」であるというだけでなく、回顧録の編集に読売新聞社が組織的に関わっているということであれば、同社についても、泰典氏に対する名誉棄損の責任が生じる可能性がある。

いずれにせよ、上記の「謝辞」と「奥書」の記載からすれば、「第1次内閣から蓄積してきた資料」に基づいて、「安倍官邸」を代表して、回顧録の作成全般に深く関わったと言えるのが北村氏であり、その中の「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」との事実摘示についても、北村氏が最も重い責任を負う立場であることは間違いないと考えられる。

北村氏は、警察官僚出身で第二次安倍内閣で内閣情報官、内閣安全保障局長を務めた人物だ。内閣情報官は、政府の情報収集活動を統括する。2017年3月に籠池氏の国会証人喚問が行われた際も、政府として可能な限り籠池氏に関する情報を収集したはずであり、その情報が内閣情報官を務めていた北村氏の下に集められていたはずだ。そのような情報を知り得る立場の北村氏が、「息子さんが100万円授受を否定し、籠池氏の話が虚偽だったことは明確になった」との安倍氏の発言を回顧録の出版によって公にすることの意思決定を行ったのであれば、当時の「安倍官邸」を代表して、再び籠池氏との対決に打って出たことになる。

「死者の発言」の公表による名誉棄損

最後に検討を要するのが、回顧録について問題になる名誉棄損は、「死者の発言」の公表を手段とするものという特殊性があるということだ。冒頭でも述べたように、「死者に対する名誉棄損」については刑法に明文の規定があり、虚偽の事実を摘示した場合でなければ名誉棄損罪は成立しないとされている。では、「死者の発言」の公表を手段とする名誉棄損についても、明文はないが、虚偽の事実の摘示の場合に限定されると考える余地があるのか。

死者に対する名誉棄損罪の保護法益は、死者自身の名誉の侵害と考えるのが通説である。死者には名誉感情はなく外部的評価だけが保護の対象となる。死者が歴史的批判や研究の対象になり、虚名は保護されないと考えられ、真実であれば批判してよいとも考えられることが、「虚偽の事実の摘示」だけが処罰の対象とされる趣旨と理解されている。

一方、「死者の発言」の公表を手段とする名誉棄損の方は、名誉棄損の被害者が存在し、外部的評価だけでなく、名誉感情も保護法益である点は、通常の名誉棄損と何ら異なることはなく、「虚偽の事実の摘示」だけが処罰の対象とされる理由はない。

もっとも、死者が歴史的批判や研究の対象になるという意味では、「死者の発言」が正確に記録され公開されることにも社会的意義が大きいことは確かであり、「死者の発言」をそのまま公表することが他者に関する事実の摘示に当たり、名誉が棄損される場合も、虚偽の事実を含むものでなければ、違法性のレベルは低いはとの考え方はあり得る。

そういう意味では、「死者の発言」の公表による名誉棄損については、「虚偽の事実の摘示」に当たる場合以外は、違法性が相当程度軽減され、処罰の必要性が低いと考える余地もあるだろう。

そうなると、回顧録で取り上げられた「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのは虚偽だった」との安倍氏の発言について、その根拠とされた「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している」というのが事実と異なることの認識の有無が、名誉棄損罪の処罰を考える上で重要な要素となる。その点が虚偽であることを認識した上で、回顧録を公刊物として世の中に広めたと言えるかどうかが問題になる。

回顧録については、前掲拙稿【話題の書『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、名誉棄損に当たる可能性がある】で、「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している」との事実がないと、回顧録の記載が名誉棄損の犯罪や不法行為に該当する可能性を指摘している。

本稿で引用した菅野完氏が籠池佳茂氏及び出版社青林堂に対して提起した名誉棄損損害賠償訴訟の判決文(東京地裁2021年8月6日判決)は、菅野氏から入手し、同氏の了解の下に【前記拙稿】で引用したものであるが、その際、

「安倍晋三回顧録の籠池氏に関する記述に問題があることには私も気づいていましたが、私自身は、佳茂氏との訴訟との当事者ですので、その問題について指摘することは差し控えていました」

と述べていた同氏は、2月21日に、自身のブログを更新し、中央公論新社に、「貴社出版『安倍晋三 回顧録』の虚偽記載についての通知」を送付し、「(森友学園の籠池泰典元理事長の)息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。」との記述が、事実から大きく乖離した、虚偽記載だと指摘したことを明らかにしている(【『安倍晋三回顧録』に森友問題に関する虚偽記載があったので、中央公論新社さんに教えてあげました。】)

出版社の中央公論新社が、2月15日にアップされた拙稿を認識し、菅野氏の通知を受領した時点以降に、回顧録の増刷本を出版して、同書の内容をさらに世に広めるのであれば、該当箇所に上記の「注記」を付すこと、或いは、その旨記載した紙の挟み込みをすることが不可欠である。それを行わないで、従前のままの回顧録を増刷するなどすれば、北村氏や同社の編集責任者らについて、名誉棄損罪による処罰の対象となる可能性は避けられないように思われる。

籠池氏側の反応

名誉棄損罪は親告罪であり、被害者の告訴がなければ処罰されることはない。

回顧録で安倍氏の発言によって籠池氏の名誉を棄損したとしても、被害者が告訴を行わなければ、刑事事件とはならない。

では、回顧録について、泰典氏側はどう受け止めているのか。

泰典氏の妻の諄子氏は、「籠池諄子@kagoike2u2u」のアカウントで日々ツイートを投稿しているが、回顧録発売後、100万円授受についての安倍氏の発言の問題を指摘した【前掲拙稿】が公開された後の2月17日に、

「何故百万円を今頃になってむしかえされるのですか。」

という趣旨のツイートをし、18日には、

「小学校の寄付に100万円昭恵さんを通じて渡されたのに、何故詐偽をしたといわれたのかわからない。」

との投稿を行っている。文意が不明確だが、回顧録の安倍氏の発言で、「100万円授受の話が虚偽だったことは明確」とした上、「理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう。」とされていることについて反発しているものと思われる。

籠池夫妻と安倍夫妻のこれまでの関係や事件の経緯からすると、回顧録での安倍氏の発言に強く反発するのは当然だろう。

籠池夫妻は、かねてから幼稚園の教育で園児に安倍晋三の礼賛までさせるなど安倍氏を強く支持し、昭恵夫人は、籠池夫妻が経営する学校法人の名誉校長にまでなっていた。ところが、国有地売却の問題化で、籠池夫妻は窮地に立たされ、100万円授受の話を公言したことで、自民党側(おそらく安倍晋三氏が中心になって)が強く反発し、国会での証人喚問が行われ、そこで、籠池氏が100万円授受を明言する証言をしたことで、自民党側が調査チームを作って検討したものの、上記のとおり、全くの不発に終わったことは前記のとおりだ。それとほぼ同時に、それまで検察では問題にすらされていなかった籠池氏の補助金不正受給の告発について、突然「告発受理」が報じられ【籠池氏「告発」をめぐる“二つの重大な謎”】)、それが、その後、幼稚園での府や市からの補助金不正受給の詐欺事件の捜査に展開していった。ここで、従来は補助金適正化法違反とされていたのに、強引に詐欺罪で逮捕された(【検察はなぜ”常識外れの籠池夫妻逮捕”に至ったのか】)。籠池夫妻については、既に詐欺罪で実刑が確定しており、近く収監される予定だが、一連の検察捜査を、安倍氏の意向に沿う「国策捜査」と批判している。

籠池夫妻にとっては、もともと親しい間柄だった安倍夫妻との対立が生じた起点が100万円授受の話だったのであるが、その対立から派生した詐欺事件について司法判断が確定していても、起点となった100万円授受の話については、泰典氏が国会で宣誓の上証言し、検察の捜査でも偽証が指摘されることがなかったことで、偽証ではなかったことが確定したと考えているはずだ。それを、安倍晋三氏が死亡した後の今になって、「泰典氏の100万円授受の話が虚偽」などという話を蒸し返されるのは、絶対に許せないと考えるのが当然であり、上記の諄子氏のツイートには、そのような思いが込められているのであろう。

今後、回顧録が、問題の個所に注記が付されたり、その旨の紙が挟み込まれたりすることもなく、同一の内容で大増刷されて、その内容が広く国民の間に拡散され、それによって出版社や著者が巨額の利益を得るということになれば、泰典氏が、実刑で収監された後であっても、名誉棄損による告訴を行う可能性は十分にあると言えよう。

中央公論新社、読売新聞社、北村氏は、そのリスクを敢えてとろうとするのであろうか。

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美濃加茂市長事件「再審請求棄却決定」について、藤井浩人市長がAbemaPrimeに出演

冤罪を晴らすためにはいくつもの壁がある。

全国最年少で岐阜県美濃加茂市長に就任した藤井浩人氏が、就任1年後の2014年6月、市議時代の30万円の収賄の容疑で突然、逮捕・起訴され、一審では無罪判決を勝ち取ったものの、控訴審でまさかの逆転有罪判決、そして上告棄却で執行猶予付き有罪判決が確定し、3年間の執行猶予期間の公民権停止のため、2017年12月に失職した(拙著【青年市長は司法の闇と闘った 美濃加茂市長事件の驚愕の展開】)。

公民権停止期間が明けた藤井氏は、2021年11月、冤罪との闘いを綴った新著(【冤罪と闘う】)を上梓、再審請求を行った後に、2022年1月23日投開票の美濃加茂市長選に立候補し、4年間市政を担ってきた現職市長を、ダブルスコアの大差で破って当選を果たした。

この再審請求に対して、名古屋高裁刑事二部(逆転有罪判決を行った裁判部、現在は裁判体の構成は異なる)は、2023年2月1日、再審請求を棄却する決定を行った。主任弁護人の私は、即日、名古屋高裁に異議申立を行い(異議審は、名古屋高裁刑事一部に係属)、同日、藤井市長とともに、記者会見を行った。

この藤井浩人美濃加茂市長の再審請求とその棄却決定の件が、2月3日夜、テレ朝・アベマプライム《変わる報道番組#アベプラ》で取り上げられ、【「疑わしきは罰せずじゃないの?」話だけで有罪に?美濃加茂市長が再審望むワケ】と題するコーナーで、藤井市長、ひろゆき氏、元裁判官の西愛礼弁護士、若新雄純氏らが生出演し、今回の事件や再審棄却決定の問題点が的確に議論された。

【冤罪】証言だけで有罪に?再審請求する美濃加茂市長&ひろゆき

.◆続きをノーカットで視聴▷https://abe.ma/40s9VSi ◆過去の放送回はこちら【合…

www.youtube.com

とても分かりやすくまとめられているが、弁護人の立場から、いくつかのポイントを補充しておきたい。

新証拠としての「贈賄供述者Aの知人Xの供述」

藤井市長が、今回の再審請求で新証拠として提出した贈賄供述者Aの知人Xの供述のことについて、番組で

「Aから『お金を渡したと聞いた』と裁判で証言したXに弁護士が接触でき、確認したところ、『検察が、藤井への金の流れを示す物的証拠があるという前提だった』と言ったので、『実際には金の流れを示す物的証拠はなく、Xさんの証言が、有罪の決め手になってしまった』と弁護士が説明したところ、Xさんは驚き、Xさんの意図していない形で証言が使われたことがわかった。」

と説明しているが、この点は、まさに、この再審請求のポイントである。

名古屋地裁の第一審判決は、贈賄供述者Aが融資詐欺で取調べされているときに藤井氏への贈賄を言い出したことについて、

融資詐欺に関して、なるべく軽い処分、できれば執行猶予付き判決を受けたいとの願いから、捜査機関の関心をほかの重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、A自身の刑事事件の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようと考えることは十分にあり得る。

と述べて、「虚偽供述の動機の存在の可能性」を指摘した。それに対して、逆転有罪を言い渡した控訴審判決は、

Aが、贈賄の件を捜査機関に述べることによって、融資詐欺についての捜査の進展を妨げ、起訴や求刑等で検察官に手心を加えてもらおうという気持ちを持っていた可能性は否定できない。

と第一審判決と同様の供述動機を認めながら、

Aがそのような気持ちを持っていたとしても、A証言が虚偽かどうかは別問題である。仮に、A証言が虚偽だとするとかえって説明困難な点が存在する

として、その理由となる「重要な証拠」として指摘したのが、本件現金授受があったとされる4カ月後の2013年8月、Aと、知人のXが美濃加茂西中学校に浄水プラントを見に訪れた際、XがAに、「よくこんなとこに付けれたね」と言ったのに対して、Aが、「接待はしてるし、食事も何回もしてるし、渡すもんは渡してる」と発言し、「何百万か渡したのか」との質問に、Aが「30万くらい」と述べたとのXの供述だった。同判決は、

Aが融資詐欺で逮捕されるよりも9か月以上前とか、5か月以上前であり、後から作為して作り上げることのできない事実であるという意味において、A証言の信用性を質的に高める

として、一審判決の判断を覆す重要な証拠として評価していた。

ところが、有罪判決確定後に、弁護人がXに接触することができ、Xから、以下のような供述が得られたのだ。

藤井氏が収賄、Aが贈賄で起訴された後に、名古屋地検に呼び出され、検察官の任意取調べを受けた際、「Aから、美濃加茂市長になる藤井という議員の接待や足代を渡すのに金がいると言われてAに50万円を貸したことがある」と話したところ、その後、再び、名古屋地検に呼び出され、検察官から「あなたが貸した50万円のうち20万円が藤井の銀行口座に入金されていることが確認できた。Aが、その前に藤井に贈った10万円の賄賂も、渡した翌日に、10万円がそのまま藤井の銀行口座に入金されているので、金の流れがすべて確認できた」などと話され、自分がAに貸した金を含め、30万円がAから藤井にわたったことを確信した。西中学校の浄水プラントの現場を見に行った際のやり取りについても、Aから藤井に30万円渡った前提で推測も含めて話したに過ぎず、中学校に行った際にAから30万円という金額の話が出た記憶はない。

X供述は、各現金授受に関する「A証言と金額も含めて整合しているなどと評価できる」ものでも、「Aの供述の信用性を質的に高める」ものでもない。それどころか、藤井氏の裁判で、Aが藤井氏に渡したとする「金の流れ」についての客観的な裏付けは全くなく、この点は、検察官も認めているのだ。そのことを弁護人から聞かされ、自分の供述が有罪の決め手になったと知って、Xは腰を抜かさんばかりに驚いていた。Xの供述は、検察官に騙されて引き出されたものだったわけである。

控訴審の判決が、有罪の理由としたX証言が、検察官に作り上げられたものであり、「後から作為して作り上げることのできない事実」でもなんでもなかったことが明らかになったので、そのXの新供述を、「無罪を言い渡すべき新証拠」として、今回の再審請求を行った。

ところが、今回の名古屋高裁の再審棄却決定では、X供述について、以下のように述べている。

Xは、検察官から読み聞かされた供述調書の内容に特に違うところはないと思い署名した、第1審公判証言時に自己の記憶に反する証言をしたわけではない、というのであって、検察官の発言から請求人が3 0万円を受け取ったことは間違いないだろうと思っていたからといって、直ちに第1審公判証言の信用性に影響するとはみられない。のみならず、平成25年8月の体験時から本件各陳述書の作成までに相当長期間が経過していることからすれば、その間に記憶が減退するのはむしろ当然のことといえる

Xは、検察官に騙されて、記憶にないことを証言させられたと言っており、もしその「騙し」がなかったら、Xがそういう証言をしていなかったと言っているのに、そのことには全く触れていない。Xは、検察官に騙されて、偽証と明確に認識することなく、客観的には記憶に基づかない証言をしたことが明らかになったのだが、それでも「公判証言の信用性に影響しない」というのだ。これでは、「証言者が意図的に偽証をしたと認めなければ、再審をすべき新証拠とはならない」ということになる。もし、偽証したと認めたら、検察官に偽証罪で起訴される可能性もある。それを覚悟の上の供述でなければ、新証拠と認めないということなのだ。

今回の再審棄却決定は、証言に基づいて有罪が確定した事件の再審を開始するためには、その証言者が「偽証を自白」することが必要であるとしているので、再審に極めて高いハードルを設定しているということなのである。

贈賄者側の有罪判決が確定していることの収賄者側への影響

 もう一つ、アベマ番組の中で、司会者が、西弁護士に

「Aは有罪が確定していますよね。同じ事件で有罪無罪が分かれることはあり得るんですか。」

と質問したのに対して、

「Aさんの裁判では藤井さんが有罪か無罪かは争われていない。証拠に基づいて裁判を行う以上、その人ごとに証拠が違ってしまうと結論が変わる。Aさんの裁判では藤井さんが有罪か無罪かは一切争われていない。有罪判決で藤井さんの名前は共犯者の名前としては上がってくるが、藤井さんの有罪無罪は藤井さんの裁判で決めましょうと思って審理している。」

と説明している。

一般論としては、西弁護士の説明のとおりである。また、藤井氏も、その前にAの贈賄事件はAが全面的に認めて有罪判決が確定していたが、藤井氏の一審では無罪判決が出されたのであるから、共犯者の有罪判決が確定していることは、一審で無罪判決を得ることの支障にはならなかった。

贈収賄事件の場合、賄賂の授受があったという有罪判決と、授受がなかったいう無罪判決は完全に判断が相反する。そういう「相反する司法判断」が出ると、有罪判決については再審事由にもなる。そのために、確定した有罪の「司法判断」に反する無罪判決を確定させないようにする、という力が働いているように思える。

実際に過去の事例を調べてみると、30年余り前まで遡っても、贈賄事件での有罪判決の認定と正面から相反する収賄事件の無罪判断が確定した事例は見当たらない。賄賂の授受がなかったとして無罪判決が出された事例は、上訴審で覆されて、賄賂の授受が認定され、有罪が確定している。

1986年に東京地検特捜部が横手文雄衆議院議員を起訴した撚糸工連事件では、贈賄側の有罪が確定した後に、控訴審では、賄賂の授受自体が否定され、収賄側の横手議員に対して無罪判決が出されたが、検察官が上告し、上告審で控訴審判決が覆され、有罪となった。控訴審の事実認定を覆すために検察官上告というのは極めて異例で、認められる可能性は一般的には低いといえる。ところが、この事件でも、「贈賄側の有罪が確定している事件で収賄側の無罪で確定することはない」という原則は崩れなかったのである。 

贈賄側の事件が無罪判決を妨げる決定的な要因になるとすると、虚偽の贈賄供述で収賄の疑いをかけられた側にとって、最終的に無罪判決を獲得することは極めて困難ということになる。そのことは、「詐欺師」の贈賄供述で謂れのない収賄容疑をかけられた藤井氏の無実の訴えの前に「高い壁」となって立ちはだかったのである。

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東京五輪談合事件、組織委元次長「談合関与」で独禁法の犯罪成立に重大な疑問、”どうする検察”

東京五輪・パラリンピックのテスト大会の企画立案業務をめぐる入札談合事件で、東京五輪組織委員会(以下、「組織委」)大会運営局の元次長が入札参加企業に対し、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたとして、特捜部は元次長を、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑の共犯としての立件を視野に捜査していると報じられている(【五輪談合、組織委元幹部が調整指示か 立件へ捜査詰め】1/29日経)。

これまで、多くの事件で東京地検特捜部の捜査を厳しく批判してきた私も、今回の東京地検特捜部の東京五輪汚職事件の捜査、それに続く東京五輪談合事件の捜査に対しては、「東京五輪の闇」を解明する捜査として、基本的に評価する立場であり、応援する旨明言してきた。

とは言え、入札談合事件については、独禁法違反による東京地検特捜部と公正取引委員会の合同捜査ということだったが、報道されている事実関係からすると、独禁法違反としての構成にも、多くの問題があると思われたことから、公取委への出向経験があり、東京地検等で独禁法違反事件の調査・捜査に関わった実務経験を有する私と、元公取委審査局長の野口文雄氏、独禁法学者の上智大学楠茂樹教授の3名で「東京五輪談合問題検討チーム」(略称、「GNKチーム」)を結成し、独禁法3条後段の「不当な取引制限」だけではなく、同条前段の「私的独占」の適用の可能性、公契約関係競売入札妨害罪、官製談合防止法違反等の成否も含めて、幅広く検討し、その結果を、「東京五輪談合事件に関する実務上、法解釈上の問題点の検討」(以下「GNK検討レポート」)と題して、2022年12月8日に、郷原総合コンプライアンス法律事務所のホームぺージにアップした。それも、基本的には困難な捜査に取り組む検察の捜査を応援したいという思いからだった。

しかし、事件の捜査が大詰めに来ているような雰囲気になった現時点での報道の内容からすると、本件の「入札談合」が、果たして、独禁法の「不当な取引制限」の罪に問い得る事件なのか、そもそも、独禁法違反に問う前提となる「競争制限」の実質を伴うものなのか、疑問が生じていると言わざるを得ない。

GNK検討レポートも、その後の報道等を受け、2023年1月30日に更新している。

本件談合事件は、検察の東京五輪汚職事件の捜査の過程で問題化したものであり、公取委との合同捜査と言っても、検察主導で行われているものと思われるが、独禁法違反として刑事罰を問うためには、独禁法としての解釈の限界がある。入札談合は、いかなる場合に、独禁法違反の犯罪となるのか、改めて、基本的な視点から整理してみる必要があるだろう。

「公の入札」と「独禁法違反としての談合」

当初、我々GNKチームは、組織委には「みなし公務員規定」があることから、刑法上の入札妨害罪にいう「公の入札」に該当する可能性が高く、一部報道では官製談合防止法違反の疑いを指摘していたこともあり、官製談合防止法違反の適用対象にもなる、という前提で検討を行っていた。

同法8条違反の主体である「職員」とは、「国若しくは地方公共団体の職員又は特定法人の役員若しくは職員」(2条5項)を指し、「特定法人」には「国又は地方公共団体が資本金の二分の一以上を出資している法人」が含まれる(2条2項1号)。組織委は東京都がその2分の1を出資しているとのことなので、そうであれば官製談合防止法違反でいう「特定法人」となり同法の射程となると考えていたのである。

しかし、その後得た情報によると、組織委には、東京都が2分の1を拠出しているが、「拠出」と「出資」とは異なるものなので、本件は同法の適用はないことを前提に、検察及び公正取引委員会は、本件を独占禁止法違反の罪としてだけ捉えているようだ。

 

当初のGNK検討レポートでは、

《組織委が競争入札を実施しておきながらその役職員が競争に反する一連の調整に関与していたのであれば、同法を適用することには障壁はない。また一連の調整行為に電通が関与し、組織委の同法違反に協力、あるいは主導していたのであれば、電通側には官製談合防止法違反罪の共犯が成立する。実は、この法的処理が最も争われることのない筋道、弁護側にとっては絶望的な構成となる。》

と述べていたものであり、検察の捜査・処分にとって、この点は、最大の「歩留まり」になると思っていた、その官製談合防止法の罰則が適用されないとなると、発注者である組織委側の行為に対しては同法違反の罰則が適用できないことになり、そしてその共犯になりうる電通側に対しても、本件は「歩留まりのない事件」になる。

影響はそれだけにとどまらない。組織委職員に官製談合防止法が適用されないということは、単に同法違反の罰則が適用されないというだけではなく、そもそも、本件入札談合について独禁法違反が成立するのか否かの判断にも大きな影響を与えることになる。

入札談合への独禁法の適用

独占禁止法の適用については、契約主体の官民は問わない。そこに「一定の取引分野」があり、競争が存在し、或いは、競争の余地があるのであれば、独禁法違反としての「競争制限」は行い得るのであり、民間発注においても、受注する事業者側の競争制限行為について「不当な取引制限」等の独禁法違反の犯罪が成立することはあり得る。

しかし、一般的に言えば、「入札談合」に関しては、国、地方自治体、又は、それらが出資している法人等が発注する物件についての「公の入札」(官製談合防止法の適用対象とほぼ重なる)の場合と、民間発注の場合とでは、その意味合いは大きく異なる。

「公の入札」は、公費による発注であり、納税者の負担を軽減すべく、可能な限り安価で発注することが求められ、受注希望者間の公平性も要求される。そのため、会計法、地方自治法等で、「最低価格自動落札方式」(最も低い価格で入札した者が落札者となる方法)、「総合評価方式」(価格と、品質・価値の両面から評価して落札者を決める方法)等によって、事業者間の競争で受注者を決定することとされている。「競争」によらないで特定の業者と契約する「随意契約」を行うためには、それによらざるを得ない、或いは、それによる方が、発注者にとって有利だという「随契理由」の存在が必要となる。

このように、原則として入札による発注が法律上義務付けられるのが公共発注であり、そこでは、「入札による競争」で受注者を決めるべきであるということが、発注者にも受注者側にも認識されているので、受注業者間で談合を行うことは、当然行うべき「競争」を行わないという面で、原則として、独禁法違反としての「競争制限」の実質を備えることになる。それが、「事業活動の相互拘束」「一定の取引分野における競争の実質的制限」という要件を充足すれば、「不当な取引制限」に該当することになる。

一方、「公の入札」に該当しない民間発注の場合、どのような方式で発注するかは、発注者が自由に選択できる。競争性を重視し、入札を行って、受注を希望する業者間で競争を行わせることも可能だが、発注物件の商品、サービスの性格上、入札による競争という方法より、発注者と受注者との交渉によって、どこに受注させるかやどのような条件で契約するかを決定していく方が有利と判断する場合もある。どのような発注方式を採用するかは、民間発注者は自由に選択できる。

もっとも、民間発注であっても、その発注者側の内部規則で競争入札によることが定められている場合などは、発注の担当者は入札による競争で発注することが内部的に義務付けられていることになり、「入札による競争」での発注が前提とされることになる。

発注者が入札によって受注者を決定することを明示しているのに、入札での競争を回避しようとして受注業者側が談合を行ったとすれば、「競争制限行為」となり、一定の要件を充たせば、独禁法違反に問い得る。その場合、仮に、発注者側の担当者が談合に協力したとすれば、そのような違法な「競争制限」に発注者側として関与した行為について、不当な取引制限の共犯が成立する可能性もある。

しかし、上記のとおり、民間であれば、どのような方式で発注するかは自由に選択できるので、発注側の意思決定者が、「競争によらない発注」を行う意思なのであれば、入札による競争は前提とされない。したがって、民間の発注者側が、何らかの事情で「形式上の入札」を実施するが、実際には特定の事業者との契約を希望し、その旨、受注事業者側も認識していた場合、「形式上の入札」において特定の事業者が落札することに他の事業者が協力したという外形的事実があったとしても、発注者側の意向によって「競争による発注」が否定されている以上、「競争を制限した」とは言えず、「不当な取引制限」等の独禁法違反は成立しない。「形式上の入札」を行ったことの欺瞞性について、発注者である民間企業にステークホルダーに対する説明責任が生じるだけだ。

民間発注で「入札談合」に発注者側が関与した事実があったとしても、法律上競争が前提とされる公共入札のように違法性が明白とは言えないし、むしろ、発注者の組織としての方針が、本当に入札による競争を求めていたのか、実際には求めてはいなかったのではないかという疑問を生じさせることになる。この場合は、そもそも競争を前提とする入札だったのか、そして、それを談合で競争を制限したといえるのかどうか、慎重に見極めることが必要だ。

発注者側の責任者が「不当な取引制限」の共犯に問われた下水道事業団談合事件

過去に、発注者側の担当者が「不当な取引制限」の共同正犯に問われた例として、1994年の下水道事業団談合事件がある。下水道事業団は、当時、国と地方公共団体が共同出資する公共法人であり、同事業団が発注するポンプや発電機などの下水道処理施設の電気設備に関する公共入札をめぐる談合事件だった。

この事件は、私が、1990年から93年まで公取委審査部出向検事として勤務した後、東京地検に勤務していた頃の事件だった。埼玉土曜会談合事件での告発断念の影響や、中村喜四郎衆院議員が同談合事件の告発見送りを公取委委員長に働きかけたとして、あっせん収賄事件で逮捕・起訴されたゼネコン汚職事件で、公取委への信頼が失われていた。その後初めて公取委が調査の対象とした重電業界の談合事件を、信頼回復のために何とか告発にこぎつけたいと、当時の小粥正巳公取委委員長から私に要請があり、刑事事件としての構成等について公取委審査官側に非公式の助言をするなどして独禁法違反での告発につなげたものだ。

受注者側の重電メーカーの営業担当者が、施設の企画・設計の段階で発注官庁側に様々な協力を行い、その結果、発注者側から特定のメーカーに受注させたいとの意向が何らかの手段で伝えられ、その意向にしたがって業界内で受注予定者を決めて、談合によってその業者が受注するという「発注者意向中心型の談合」が恒常的に行われていた。

その後、各社が、「シェア枠」を決め、年間の受注額がその枠内に収まるようにする「ドラフト会議」という方法に変更され、過去の実績等を参考にして、年間の各社の受注の「シェア枠」をあらかじめ定め、それが守られるように、1年に1回ドラフト会議を開いて、各社がシェア枠の範囲内で受注希望物件を指名して、年間の割り付けを決めるようになった。その事実を、独禁法の「不当な取引制限」の犯罪と構成し、公取委が告発した。

その前は、下水道事業団の担当者から、発注者の「意向」が個別に業者に伝えられ、それがその意向に沿うように、業界調整担当者の間で談合が行われていたのが、1年分の発注予定物件の受注予定者を年に1回の「ドラフト会議」で決めるということになると、業界側がドラフト会議に先立って、年間の発注予定の物件名と大まかな発注金額を把握しないと会議が成立しない。そのためには発注者の下水道事業団側の協力が不可欠となる。

受注調整の方法をこのような方式に変更することについて、業界側の代表者が当時の下水道事業団側の担当幹部に説明して了承を得、その後、毎年開かれる「ドラフト会議」の前に、下水道事業団側から業界の代表者に、その年度の発注予定の物件名と発注予定金額についての情報が提供されるようになった。

この事件では、重電メーカー9社の業界調整担当者、営業担当者と法人に加えて、発注者の下水道事業団の工事部次長も、不当な取引制限の共同正犯として起訴された。

この談合事件は、公共発注であり、競争によらない発注を行う余地はない。下水道事業団の発注に関して、かねてから行われた「発注者意向中心の談合」が、シェア枠を設定する「ドラフト会議」方式に変更され、それに伴って、発注者側の責任者の工事部次長などが具体的に協力を行ったというものだった。法的に義務付けられている「公の入札」での競争を丸ごと回避する談合システムに、発注者側も組み込まれ、談合に不可欠な情報提供を行っていたという事案であり、発注者の事業団側の責任者が不当な取引制限の共同正犯として刑事責任を追及されるのも当然の事案だった。

その後、公共入札をめぐる談合に発注者側が関与することを防止することを目的として官製談合防止法が2003年に施行され、2006年の改正によって罰則が追加された。1994年に下水道事業団の談合事件で事業団幹部が不当な取引制限で起訴された当時は、官製談合防止法が制定される前であり、入札談合への発注者の関与を処罰の対象にするには、不当な取引制限の共犯に問うしかなかった。

官製談合防止法が施行された後は、発注者側の談合への関与は、同法違反に問われるようになった。同法の適用対象とならない民間発注での談合事件で、発注者側が独禁法違反に問われた例はない。

少なくとも公共発注であった下水道事業団の談合事件での発注者側の関与と、東京五輪テスト大会の企画立案業務での発注者側である組織委の対応とは、性格が大きく異なるものであったことは間違いない。

組織委大会運営局の元次長の行為は「不当な取引制限」の共犯となるのか

組織委の発注が官製談合防止法の適用対象ではないとすると、刑法上、「公の入札」にも該当しない可能性が高く、民間発注として捉えることになる。

その場合、上記日経記事が報じているように、大会運営局の元次長が入札参加企業に対し、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたとしても、組織委が「形式上の入札は実施するが、実質的には随意契約による発注」を意図していた可能性がある。

この場合、組織委において、テスト大会の企画立案業務の発注先を入札による競争によって決定することについて、内部規則で定められていたとか、理事会などの意思決定機関によって決定されていた、ということであれば、その方針に反して、元次長が、特定の事業者が落札者となるよう、入札参加企業に調整を指示する行為は、組織委の方針だった「入札における競争」を制限するものとなる。この場合は、「不当な取引制限」が成立する余地がある。

組織委については、会計処理規程で、契約方法として、「競争入札、複数見積契約、プロポーザル方式契約、特別契約」の4つが規定されており、金額や発注の性格によって選択することとされているが、「原則として事務総長が締結する」「入札参加者については、あらかじめその業務内容及び財務内容等調査の上、事務総長の承認を得るものとする」とされており、基本的に、契約の権限が事務総長に帰属していることは明らかだ。

前記の下水道事業団の公共入札の場合のように、入札による競争が法律上義務付けられ、実際に入札が定着していたのとは異なり、東京五輪のために臨時的に作られた組織で、競争入札が定着しているわけでもなかったのだから、契約方式や入札参加者の選定については事実上事務総長の裁量に委ねられていたと考えられる。テスト大会の企画立案業務について、事務総長がどのような意向であり、それがどの程度、客観的に示されていたのかがポイントとなる。

上記日経記事が報じているような大会運営局の元次長の行為についても、それが、権限を有する事務総長の意思に反するものであったことが客観的に明らかであれば、元次長の行為を、「組織の方針に反して競争制限に加担するもの」と見ることもできる。しかし、事務総長の意思が明確ではなく、元次長に事実上委ねられていたという場合は、元次長によって契約の方法が事実上決められたにすぎないことになる。上記のような元次長の対応からすると、組織委が、このテスト大会の企画立案業務の発注に関して、入札での競争によって受注者を決定する方針であったこと自体にも疑問が生じる。

検察としては、まさにキーマンと言える組織委の事務総長であった武藤敏郎氏から聴取を重ねているはずだ。

このテスト大会の企画立案業務の発注について、26会場の入札を総合評価で実施するに当たって、「入札参加者についての事務総長の承認」が規定どおり行われていたのであれば、大半の入札が一社応札になる見通しであったことについて、武藤氏に認識がなかったとは考えにくい。また、元次長が武藤氏の方針や意向に反して、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたのだとすると、今のところその見返りがあったとも報じられておらず、その動機が考えにくい。

このように考えると、テスト大会の企画立案業務についての入札談合を「不当な取引制限」ととらえることも、元次長の行為をその共犯とすることも、かなりハードルが高いように思われる。

もし、組織委として、テスト大会の企画立案業務の発注においては「入札による競争」を徹底させる方針であったと元事務総長の武藤氏が供述し、相応の信用性が認められる場合には、「競争制限」の事案として独禁法違反を適用する枠組みは一応整うことになる。

しかし、その場合も、【GNK検討レポート】でも詳述しているように(「3.(2)C不当な取引制限規制違反についての問題点、論点」10頁)、テスト大会の企画立案業務の入札全体についての受注業者間の「合意」が認定できるのかという「不当な取引制限」の行為要件の問題もある。むしろ、電通が組織委を通じて支配したという「支配型私的独占」ととらえた方が立証上の問題が少ないようにも思える(「3.(2)D支配型私的独占規制違反のシナリオ」12頁)。

もっとも、「私的独占」は、不当な取引制限と同様に、最も悪質・重大な独禁法違反行為ではあるものの、公取委での摘発例自体が少なく、これまで、告発の対象とされた事例はない。そこには、「支配行為を刑事事件の実行行為として特定することが困難」という問題もあり、支配型私的独占の場合は、公取委の行政処分としての課徴金納付命令だけにとどめることにならざるを得ない可能性もある。

東京五輪談合を「深追い」するべきか

今回の東京五輪談合事件が最初に報じられた時には、検察が、東京五輪汚職事件の摘発をさらに東京五輪に関連する発注をめぐる競争制限という構造的な問題にまで拡大させ、「電通支配による東京五輪の闇」に迫ろうとしているものと受け止め、私なりに期待していた。GNKチームでも、報道等で把握できる範囲の事実関係を前提に、可能な限りの実務的、法的検討を続けてきた。

しかし、現時点までに報道等で明らかになっていることを前提にすると、この入札談合事件は、独禁法違反としての構成には相当問題があると言わざるを得ない。検察にとっては、東京五輪汚職事件で摘発されたADK側が「談合供述」を行ってリニエンシー申告をしたことに乗っかって、公取委を巻き込んでの合同捜査に持ち込んだのが若干拙速で、独禁法違反や他の犯罪の成否についての検討が不十分だったように思われる。

2005年の独禁法改正でリニエンシー制度が導入され、公取委の実務に定着しているが、公取委は、当初申告の段階では申告者の供述のみで違反の成否を判断せざるを得ない、という制度上の問題点がある。

また、同改正で公取委に国税と同様の刑事処罰を目的とする反則調査権限が導入されて以降は、それまで、公取委には行政調査権しかなく、告発は、検察捜査の端緒に過ぎなかったのとは異なり、独禁法違反の捜査が検察主導で行われた場合、公取委は、公訴権を有する検察の判断に追従せざるを得ず、告発の時点で独禁法違反の成否についての判断を慎重に行うことが困難になった。このことは、リニア談合事件の例からも明らかであり(【「リニア談合」告発、検察の“下僕”になった公取委】、事件の問題点については、日経Bizgate【「リニア談合」の本質と独禁法コンプライアンス】)、独禁法違反の制裁には、いくつかの制度上の問題がある。

「公の入札」に該当しないということで、この東京五輪談合事件は、当初、官製談合防止法の「歩留まり」を想定していたのとは異なり、非常に「筋の悪い事件」にならざるを得ないことは、既に述べたとおりだ。

上記日経記事では、電通側は、「談合を認めている」とされているが、何を前提に「認めている」のかも不明だ。本件の場合、問題は法律上の独禁法違反の犯罪の成否に疑問があり、供述内容が重要なのは、むしろ、発注者の組織委の側だ。

電通と、リニエンシーを行ったADK以外の、多数の入札参加者が争う姿勢を見せていることもあり、本件で独禁法違反での摘発を強行した場合、捜査・公判の展開は見通せない面がある。

東京五輪汚職事件で戦線を拡大してきた検察にとって、この五輪談合事件での深追いは禁物のように思える。検察は、この困難な局面で、どう対応するのだろうか。

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東電刑事控訴審判決は、「13兆円」代表訴訟判決を否定するものではない

福島第一原発事故をめぐり、東京電力の会長だった勝俣恒久氏と副社長だった武黒一郎氏、武藤栄氏の旧経営陣3人が、原発の敷地の高さ(海抜10メートル)を上回る津波を予測できたのに対策を怠り、原発からの放射能漏れ事故の発生で避難を余儀なくされた福島県大熊町双葉病院の入院患者ら44人を死亡、13人を負傷させたとして、業務上過失致死傷の罪で検察審査会の議決により起訴された裁判の控訴審で、東京高等裁判所は、1審に続いて3人全員に無罪を言い渡した(以下、「刑事控訴審判決」)。

「被告人らに、本件発電所を停止すべき義務に応じる予見可能性を負わせることのできる事情が存在したという証明は不十分」

と判示して、業務上過失致死傷罪の成立を否定したものだった。

問題は、2022年7月13日、原発事故被害者の東電の株主が、旧経営陣5人に対して提起した「株主代表訴訟」で言い渡された1審判決(以下、「代表訴訟判決」)との関係をどう見るかである。

代表訴訟判決では、取締役としての注意義務を怠り、津波対策を先送りして、原発事故が発生したために廃炉作業や避難者への賠償などで会社が多額の損害を被ったとしてとし、勝俣氏と清水元社長、武黒氏、武藤氏の4人に対し、連帯して13兆3210億円を支払うよう命じた。

旧経営陣の任務懈怠を認めた代表訴訟判決を評価する原発事故の被害者や一部のマスコミからは、事故の予見可能性を否定した刑事の1審判決の判断が代表訴訟判決で覆されたかのように受け止め、刑事事件の控訴審が1審とは異なる判断を行うことを期待する声もあった。

そのような代表訴訟判決を評価していた側も、代表訴訟判決を批判していた側も、今回の刑事控訴審判決が、代表訴訟判決とは異なった判断、相反する判断をしたように論じている。

産経新聞は、【長期評価の信頼性認めず 東電強制起訴 民事とは逆の結論】と題する記事で、

旧経営陣に13兆円余りの損害賠償を命じた民事訴訟の判決とは対照的な結果。個人の刑事責任を追及する難しさが、改めて浮き彫りになった。

とした上、

株主代表訴訟の判決は「検討を依頼後、なんら津波対策をとらなかったことは不合理で許されない」と指弾。一方、今回の控訴審判決は「武藤元副社長の指示は不合理とはいえず、その後に巨大津波が襲来する現実的な可能性を認識する契機が(旧経営陣に)あったとは認められない」とした。

などと両判決の判断の違いを強調した。

代表訴訟判決を評価していた東京新聞も、【ほぼ同じ証拠と争点なのに…旧東電経営陣の責任を問う訴訟の判決が民事と刑事で正反対になった背景】と題する記事で、

株主代表訴訟東京地裁判決は「適切な議論を経て一定の理学的根拠を示しており、相応の科学的信頼性があった」と認め、対策を先送りした旧経営陣の過失を認めた。

これに対し、今回の判決は、長期評価の信頼性を否定。「敷地の高さを超える津波が襲来する現実的な可能性を認識させるような情報だったとは認められない」と判断した。   

などと、予見可能性についての判断の違いを強調し、その原因として

個人に刑事罰を科す刑事裁判では、合理的な疑いを挟む余地がない程度の立証が必要となり、証拠や主張のどちらに真実性があるかを判断する民事訴訟より、ハードルが高い。

などとして刑事と民事の違いを指摘している。

しかし、このよう見方は、同じ原発事故についての東電旧経営陣の「責任」について、代表訴訟判決が肯定し、刑事控訴審判決は否定したことの理由の重要な点を見過ごしており、その違いを的確にとらえたものとは言い難い。

「責任」について判断が分かれたことについて、マスコミは概ね以下のようにとらえている。

(1)「刑事」と「民事」の一般的な相違によるもの、刑事は、国家の刑罰権の発動なので、厳格な立証が必要とされるが、民事は、どちらの主張・立証が相対的に正しいかという「主張・証拠の優越」で判断される。

(2)2002年に国が公表した地震予測の「長期評価」による津波予測の信頼性について、代表訴訟判決は肯定、刑事控訴審判決は否定と、判断が分かれた。

(3)運転停止以外に事故を回避する措置があったかについて、代表訴訟判決は、原発建屋などの浸水防止策によって電源設備の浸水を防いだり、重大事態に至ることを避けられた可能性も十分にあったとしたが、刑事控訴審判決は、この点を否定した。

「刑事」と「民事」の一般的な相違

まず、(1)について言えば、代表訴訟判決は、原告の株主自身が利益を得られるわけではなく、取締役の任務懈怠という「法的責任」を追及し、会社に対する賠償を求めた訴訟で、その「責任」を肯定したものだ。原被告間の債権債務をめぐる給付訴訟等の一般的な民事訴訟とは異なる。「証拠や主張のどちらに真実性があるかを判断する民事訴訟」と同視すべきではない

代表訴訟判決で賠償が命じられた約13兆円は、個人で支払可能な限度を遥かに超えており、判決が確定すれば、被告らの破産は不可避である。一方、業務上過失致死傷罪の刑事事件で問われたのは、介護老人保健施設や老人病院に入院していた寝たきりの患者や自力で歩行できない患者が長時間にわたる搬送及び待機等を伴う避難を余儀なくされた結果の死亡や、水素爆発に伴う瓦礫への接触で負傷したという「人の死傷」に対する責任だ。一般的には、原発事故の発生で直接想定される「人の死傷」は、放射能の被爆によるものである。それと比較すると、「避難途中の死亡」などは、原発事故と条件関係はあり、因果関係は肯定されるとしても、結果の発生の過程には、病院側の対応や、行政・自衛隊の対応等も関わっており、すべてが原発事故の発生だけに起因する「人の死傷」とは言えない面もある(この点は、今回の刑事訴訟で争点にはなっていないが、大津波による事故の予見可能性、結果回避可能性が肯定された場合には、このような「人の死傷」の結果についての予見可能性も争点の一つになっていた可能性がある)。

代表訴訟で命じられた約13兆円という巨額の損害賠償が、原発事故によって避難を強いられた膨大な被災者、今も避難生活を余儀なくされている被災者の苦難に相当するものであり、言わば、原発事故全体の責任を問うものであるのに対して、刑事事件で問われたのは、原発事故によって発生した被害のうちのごく僅かな部分に過ぎない。仮に有罪になった場合の量刑としても、執行猶予になる可能性も相当程度あり、代表訴訟判決での巨額損害賠償が確実に個人破産の結果を招くのと、どちらが重いかは、軽々には判断できないのである。

「長期評価」による津波予測の信頼性についての判断の違い

(2)の長期評価の信頼性についての判断の違いに関しては、両判決の判断の視点に大きな違いがあることが看過されているように思われる。

代表訴訟判決の判断の枠組みは、以下のようなものである。

まず、原子力発電所を設置、運転する原子力事業者には、最新の科学的、専門技術的知見に基づいて過酷事故を万が一にも防止すべき社会的ないし公益的義務があること、原子力損害の賠償に関する法律 (原賠法)が原子力損害について原子力事業者の無過失責任を定めていることなどを指摘し、その上で、原子力事業者である東京電力の取締役の善管注意義務違反についての一般論として、

東京電力の取締役であった被告らが、最新の科学的、専門技術的知見に基づく予見対象津波により福島第一原発の安全性が損なわれ、これにより過酷事故が発生するおそれがあることを認識し、又は認識し得た場合において、当該過酷事故を防止するために必要な措置を講ずるよう指示等をしなかったと評価できるときには、東京電力に対し、取締役としての善管注意義務に違反する任務懈怠があったといえる

と述べ、「長期評価」が、そのような「任務懈怠」の根拠となり得るのか、という観点から評価し、

長期評価の見解は、海溝型分科会における、過去の被害地震や文献等を踏まえた上での委員間の活発な議論において、異論を踏まえながら意見が集約されていき、慶長三陸地震、延宝房総沖地震及び明治三陸地震の3つの地震を日本海溝沿い領域で発生した津波地震とすること、三陸沖北部から房総沖までの日本海溝沿いを一つの領域とすること、このような地震が同領域のどこでも発生し得ることについて、その後の長期評価部会及び地震調査委員会での議論を経て、反対意見もなく了承されたのであるから、地震や津波の専門家による適切な議論を経た上で合意できる範囲が承認されたものといえる。

そのような審議過程を経て取りまとめられた長期評価の見解は、一研究者の論文等において示された知見と同視し得ないことは明らかであり、この点からも、一定のオーソライズがされた、相応の科学的信頼性を有するものであつた。

と述べて、その信頼性を認めた上、

長期評価の見解は、一定のオーソライズがされた相応の科学的信頼性を有する知見であつたから、理学的に見て著しく不合理であるなどの特段の事情のない限り、相応の科学的信頼性を有する知見として、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役において、当該知見に基づく津波対策を講ずることを義務付けられる

として、被告らには「長期評価の知見に基づく津波対策」を講じる義務があったとし、

何らの津波対策に着手することなく放置する本件不作為の判断は、相応の科学的信頼性を有する長期評価の見解及び明治三陸試計算結果を踏まえた津波への安全対策を何ら行わず、津波対策の先送りをしたものと評価すべきであり、著しく不合理であって許されるものではない。

と判示して、東電旧経営陣の任務懈怠を認めている。

一方、今回の控訴審判決は、長期評価について、以下のように判示している。

本件発電所の10メートル盤を超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識させるような性質を備えた情報であったとは認められず、直ちにこれに基づく対策を義務付けられるような波源モデルを提示すると受け止めなければならないといえるほどに具体性や根拠を伴うものであった、という証明は不十分である。

津波が襲来し電源喪失の事態に至ることについて、「現実的な可能性」があったことを具体的に認識できていたことが「予見可能性」の要件になるとの前提で、長期評価が、実際に発生した大津波の「波源モデル」を提示し、「現実に、そのような大津波が起きることの危険性」の認識の根拠になるような性格のものだったかどうかを問題にし、それを否定している。自らの作為・不作為によって具体的にどのような事象が発生して「人の死傷」が生じるのかについて認識が必要だという、従来の判例・実務がとってきた「具体的予見可能性説」に従って判断したものだ。各種の公害、薬害など「未知の危険」が問題となる事件において一部で主張されている、「不安感ないし危倶感、あるいはそれを抱くべき状況があれば、予見可能性は充足される」とする「危惧感説」を否定したもので、刑事実務的には常識的な判断だと言える。

この点、上記のとおり、代表訴訟判決は、長期評価が、「一定のオーソライズがされた相応の科学的信頼性を有する知見」だとして、それが示されている以上、何らかの津波対策を講じる義務があったとしているのとは、視点が異なる。この点が、「長期評価の信頼性」自体についての見解の相違ではないことについて、刑事控訴審判決は、次のように説明している。

原判決(刑事第1審)が長期評価の信頼性について論じている趣旨は、わが国有数の専門家が審議の上で出した結論に信用が置けないということではなく、その内容が結果の予見を義務付け、これによらなければ業務上過失致死罪が成立するというに足りるまでの十分な根拠等を伴うような性質の情報であったということについて、合理的な疑いを超える証明がなされたと言えるかどうかについての判断である 

つまり、刑事控訴審判決は、「長期評価に信頼性がない」と言っているのではなく、業務上過失致死罪の「予見可能性」を根拠づける「十分な根拠等を伴うような性質の情報」ではないと述べているだけである。同判決が、敢えてこの点に言及しているのは、代表訴訟判決の長期評価の信頼性の判断と異なった判断を示したように誤解されないようにとの配慮によるものであろう。

このように考えると、上記(2)の、「長期評価の信頼性」について、代表訴訟判決は肯定、刑事控訴審判決は否定と、判断が分かれたと見るのは、刑事控訴審判決の判示からしても、適切とは言い難い。

運転停止以外の事故回避措置

運転停止以外の事故回避措置で事故回避が可能だったか否かという、上記(3)の点は、「結果回避可能性」に関する事情であり、少なくとも、予見可能性を否定している刑事控訴審判決にとっては、本来は不要な論点である(結果回避可能性は、予見可能な「結果」について問題になる)。刑事控訴審判決がその点について敢えて言及しているのは、「本件発電所の運転停止措置を講じるべき義務」に関して、以下のように判示していることと関係しているものと思われる。

原子力事業者にとって運転そのものを停止する措置は、事故防止のための回避策として重い選択であって、そのような回避措置に応じた予見可能性・予見義務もそれなりに高いものが要求されるというべきである。電力事業者は、市民にとって最重要ともいえるインフラを支え、法律上の電力供給義務を負っていて、漠然とした理由に基づいて本件発電所の運転を停止することはできない立場にある。

つまり、運転そのものを停止する事故回避措置を行うのはハードルが高いということを、回避措置に応じた予見可能性・予見義務を認めるための「予見」のレベルが「高い」、つまり、事故発生について具体的で現実的な認識を伴う「予見」が要求されることの理由としているのである。

これは、本件で「予見可能性」を否定し、業務上過失致死傷罪の成立を否定する論理の一つとして、「運転停止による結果回避の困難性」を持ち出したものだと考えられるが、それを前提にすると、「運転停止以外の措置による結果回避の可能性」が仮にあった場合は、上記論理が否定され、予見可能性についての「高いハードル」が否定されることになる。そこで、「運転停止以外の措置による結果回避の可能性」にも敢えて言及し、これを否定しているものと思われる。

それは、代表訴訟判決が、「本件発電所の運転停止」以外の方法による事故の回避の可能性を肯定していることを意識したものだと考えられる。

代表訴訟判決の「水密化」による事故回避の可能性の認定

代表訴訟判決は、被告らの任務懈怠がなく、「福島第一原発1号機~4号機に明治三陸試計算結果と同様の津波が襲来することを想定し、これによりSBO及び主な直流電源喪失となることを防止する対策を速やかに講ずるよう指示等していた場合」に関し、

原子力・立地本部内の担当部署において、①防潮堤の建設、②主要建屋及び重要機器室の水密化、③非常用電源設備の高所設置、④可搬式機材の高所配備、⑤原子炉の一時停止の各措置が行われ、これらの措置により本件事故を防止することができたか否か

について、いずれか又は複数の対策がされ、本件事故を防止することができたかを、「着想して実施することを期待し得た措置であつたか、本件事故の発生の防止に資するものであつたか、本件津波の襲来時までに講ずることが時間的に可能であったか」という観点から詳細に検討している。

 そして、

東京電力の担当部署にとつて、10m盤を超える高さの津波が襲来することを前提とした場合に速やかに実施可能な津波対策として、主要建屋や重要機器室の水密化を容易に着想して実施し得た。

として「水密化の着想による実施」の可能性を肯定し、

被告らの指示等があれば、福島第一原発1号機~4号機において講じられたと考えられる建屋及び重要機器室の水密化の措置 (本件水密化措置)は、建屋の水密化自体でも、本件津波の浸本を防ぐに十分であった上、仮に建屋に浸水したとしても、重要機器室の水密化によって浸水を阻むという多層的な津波対策となっていたことからすれば、本件津波による電源設備の浸水を防ぐことができる可能性が十分にあった。

仮に、津波の挙動や漂流物等による建屋等の損壊等により、一部の電源設備が浸水するような事態が生じ得たとしても、電源融通による交流電源供給も可能であったから、一部に浸水が生じた場合を想定した運用面での一定の措置が行われていたであろうことも考慮すれば、これによる相応の対処により、重大事態に至ることを避けられた可能性は十分にあった。

との結論を示して、4人それぞれの任務懈怠の時点から津波の襲来時までに水密化措置を講じることで事故が回避できていた可能性が高いとして、任務懈怠と会社の損害との因果関係を認めている。

刑事控訴審判決の「運転停止以外の事故回避措置」の否定は「傍論」

刑事控訴審判決は、「運転停止以外の方法による事故の回避が可能だった」とする指定弁護士の主張について、

事後的に得られた情報や知見を前提にしているとしか解せず、被告人らの責任を論じる上で採用できない

として否定した上、

それまでに得られていた試算等に基づいて水密化等の対策が講じられていたとしても本件地震等に伴う大きな差異にもかかわらず対策が奏功したことを裏付ける証拠はない。

因果の概略を抑えた一連の経緯の概略を想定し、これにすべて重大な影響を被ることなく対応を完遂できるような対策の整備を現実的に可能とさせる対策・技術が整っていたという証明はない。

などとして、結果回避の可能性を(証拠上)否定している。

しかし、この点についての刑事控訴審判決は「傍論」であり、判決の結論に直接影響するものではない。予見可能性について高いハードルで判断したことの合理性を強調するために、「運転停止による結果回避の困難性」を持ち出したが、それによって、「結果回避可能性」が「予見可能性」に逆流する(本来、結果回避についての判断は、予見可能性の肯定を前提にするものであり、「逆流」するものではない。)ことにならないよう、代表訴訟判決が肯定した「運転停止による結果回避の可能性」を刑事事件では立証されていない、として否定しようとしたものだと思われる。

しかし、この点についての代表訴訟判決の判断は、複数の「運転停止以外の事故回避阻止」について、詳細な検討を行った上、水密化によって事故が回避できた「可能性」を否定しているものであり、刑事控訴審判決の「傍論」は、その「可能性」の判断を否定しているものではない。

この点は、両判決の判断が異なっている点であることは確かだが、刑事控訴審判決によって代表訴訟判決の判断が否定されたと見るべきとは言えない。

両判決の関係についてどう考えるべきか

以上のとおり、原発事故についての東電旧経営陣の「責任」について、代表訴訟判決が肯定し、刑事控訴審判決が否定したとするマスコミの論調は、的確なものとは言い難い。

では、この判断の違いをどうとらえるべきであろうか。

本件では、10mの高さの敷地を超える津波が襲来し、その津波が同発電所の非常用電源設備等があるタービン建屋等へ浸入することなどによって発電所の電源が失われ、非常用電源設備や冷却設備等の機能が喪失し、原子炉の炉心に損傷を与え水素爆発が発生したことによって、原子力事業者の東京電力に膨大な損害が発生し、他方で、寝たきり老人が避難の途中で亡くなるなどした「人の死傷」の結果が生じたというものだ。

そのような結果を招いた原発事故の発生が予見可能であったのか、という点が問題になることは、業務上過失致死傷罪でも、取締役の善管注意義務の任務懈怠についても同様である。

問題は、その「予見」のレベルだ。

刑事控訴審判決は、津波が襲来し電源喪失の事態に至ることについて、「現実的な可能性があったことを具体的に認識できていたこと」が業務上過失致死傷罪の「予見可能性」の要件になるとした上、「長期評価」は、そのような10メートル盤を超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識させるような性質を備えた情報であったとは認められないとして、予見可能性を否定した。

一方、代表訴訟判決で問われた任務懈怠は、東京電力という株式会社の取締役として、会社から経営を委任される立場として、実質的所有者である株主の利益を追求するため、必要な注意をもって委任事務を処理する義務、つまり会社に損害を与えることを防止するための取締役としての義務に違反したことだ。

過酷事故が起きれば、原賠法等によって、無過失・無限責任を負う原子力事業者には膨大な損失が生じることになる。そのような原発事故による会社の損害の発生を防止する取締役としての義務については、一般的に言えば、予見される事象によって会社に生じる損害が大きければ大きいほど、は高度のものになる。

その可能性が低いと思えても、また、可能性の認識に具体性が乏しく、「危惧感」を覚える程度でも、その発生に備えて対策を講じることが取締役としての義務ということになる。

原発事故に関しては、原発事業者である東京電力は、原賠法で無過失・無限責任を負担しており、放射能漏れ事故が発生した場合に膨大な損害を負担することになるのであるから、万が一にも事故が発生しないよう、事故の可能性についての認識のレベルは低いものであっても、対策を講じるべき義務があるということになる。

そこで、代表訴訟判決は、東京電力にとっては、一定のオーソライズがされた、相応の科学的信頼性を有する「長期評価」は、無視することができない存在であり、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役において、「長期評価の知見に基づく津波対策」を講じる義務があった、として、何らの津波対策に着手することなく放置する本件不作為の判断は著しく不合理だとして、東電旧経営陣の任務懈怠を認めたのである。

刑事控訴審判決を踏まえ、代表訴訟判決の意義を再認識すべき

同じ大津波による原発事故についての予見可能性についての判断が、刑事控訴審判決と代表訴訟判決で異なるものとなったのは、原発事業者に対しては原賠法により無過失・無限責任を負わされ、原発事故が発生した場合に膨大な損害を負担することになっていることに最大の原因があるのであり、代表訴訟判決が「責任」を認めたのは当然の判断である。今回の刑事控訴審判決によって、何ら影響を受けるものではない。

今回の刑事控訴審判決に対して、指定弁護士は上告する可能性が高いと見られるが、従来からの業務上過失致死傷罪についての判例の見解に沿った同判決の判例違反の上告理由は考えにくく、上告審で覆る可能性は低い。比較的早期に上告棄却決定が出る可能性もあるだろう。

代表訴訟判決の認定・判断が今回の刑事控訴審判決によって否定されたかのように受け止めると、刑事の無罪判決が上告棄却で確定した場合に、代表訴訟判決の判断が最高裁で否定されたかのような誤解につながり、それが、代表訴訟の控訴審の展開に影響することになりかねない。

刑事控訴審判決で代表訴訟判決が否定されたかのように捉えることで、代表訴訟判決という、原発事故被害者が、敢えて「東電株主」となって勝ち取った「東電旧経営陣の責任追及の成果」が損なわれることにならないようにすることも重要であろう。

刑事控訴審判決は、従来の日本の刑事の実務、判例から言えば想定通りであり、一方、代表訴訟判決の判断も、前記のとおり、原賠法で無過失・無限責任を負う原子力事業者が、原発事故によって会社に生じる膨大な損失を防止する立場にある取締役の任務懈怠についての当然の判断である。

むしろ、東電旧経営陣の「責任」の有無について判断が分かれたことで、個人に対して異常とも思える金額の賠償を命じた代表訴訟判決が、日本の原子力損害をめぐる法的枠組みの異常さを示すものであること(【「13兆円賠償命令」判決が示す“電力会社ガバナンス不在”を放置したままの「原発政策変更」は許されない】)が、改めて明確になったと捉えるべきなのである。

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新年早々、甘利氏「消費増税発言」の”怪”

岸田総理大臣は、年頭の記者会見で

「異次元の少子化対策に挑戦する年にしたい」

と述べ、児童手当を中心にした経済的支援の強化などの検討を進める方針を示した。

岸田首相は、財源の話には触れなかったが、自民党の元税制調査会会長で、現在も顧問を務める甘利明前幹事長が、5日夜出演したBSテレ東の「日経ニュースプラス9」で

「岸田総理大臣が少子化対策で異次元の対応をすると言うなら、例えば児童手当なら財源論にまでつなげていかなければならない」

と発言し、その上で

「子育ては全国民に関わり、幅広く支えていく体制を取らなければならず、将来の消費税も含めて少し地に足をつけた議論をしなければならない」

と述べ、少子化対策を進めるための財源として、将来的な消費税率の引き上げも検討の対象になるという認識を示したと、新聞各紙、NHKニュース等で報じられた。

「甘利消費増税発言」が報じられるや、ツイッター上でも「消費増税の検討」トレンドとなり、甘利氏自身の「政治とカネ」問題も含め、批判で炎上状態となった。

年明けに、岸田首相が「異次元の少子化対策」と大きくぶち上げたのに、その直後の甘利氏の「消費増税」発言で国民からの反発を受けたことで、水を差された形になり、政府・自民党サイドも、鈴木俊一財務相は、1月6日の閣議後会見で甘利氏の発言について、

「将来の消費税について政府が具体的な検討はしていない」

と述べ、 松野博一官房長官も同様に、

「(消費増税に)当面触れることは考えていない」

世耕弘成自民党参議院幹事長も、ラジオ番組で

「党の一部に『消費税で』という話もあったが、ちょっと拙速だ」

と述べるなどと火消しに躍起になった。

ところが、甘利氏は、7日夜、自身のツイッターを更新し、

「テレビ出演の際の消費税に関する件ですが、要旨は以下の通りであり、真意を伝えず断片的事実を繋ぎ合わせる報道はミスリードです」

と、以下のような「司会者とのやり取り」をツイートした。

司会「総理が異次元の少子化対策を明言しましたが財源は消費税でやるんですか?」

甘利「いや総理は消費税をひき上げる積もりはないと思います」

司会「ならどうするんですか」

甘利「色々やりくりをして行くんでしょう」

司会「将来に渡って消費税は上げないんですか」

甘利「将来消費税を引き上げる必要が生じた時には増税分は優先的に少子化対策に向けるべきとは思います」

もし、甘利氏が書いている通りのやり取りだったとすると、報道は、実際の甘利発言とはかなり趣旨が違うということになる。少なくとも、「総理は消費税をひき上げる積もりはないと思います」「色々やりくりをして行くんでしょう」と発言しているのであれば、むしろ、少子化対策のための消費税増税には消極的な発言をしたことになる。

甘利氏の発言内容は、出演したテレ東のニュースで紹介されている。ところが、発言した甘利氏本人が、「断片的事実を繋ぎ合わせるミスリードの報道」で趣旨が違うと言って、「真実のやり取り」まで具体的に書いてツイートしているのだ。「少子化対策と消費増税」という重要な問題についての重大な問題報道になると思うのが当然だ。

私自身も、甘利氏が「少子化対策のための消費税増税が検討の対象になる」と発言したと報じられたことに対して、すぐに、自らのYouTubeチャンネル《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》で甘利氏の発言の批判をしていたこともあり、

その前提が違うのであれば放置できない問題だと思い、至急、甘利氏がツイートで引用していたBSテレ東の日経ニュースプラス9番組動画を確認した。

しかし、甘利氏が引用している番組動画をいくら見ても、ツイートで書いている「やり取り」は発見できない。私が見たところでは、甘利氏の発言は、ニュース、記事で紹介されてる通りだ。甘利氏が、報道は断片的事実を繋ぎ合わせるものでミスリードだと言って、示している「真実の発言」のやり取りが、動画を何回見てみても確認できないのだ。

私は、1月8日朝、

そして、1月9日朝には、

とツイートした。

これらの私のツイートには、賛同するリプライや引用ツイートがあり、甘利氏がツイートで引用する番組動画には、「書かれているやり取りはない」、というツイートが多数あったが、甘利氏からは、その後全く反応はなく、問題のツイート以降、沈黙している。

甘利氏は、敢えて、消費税論議に先鞭をつけていい格好しようとしたものの、逆風が予想以上に大きいことに狼狽して、その発言自体をなかったことにしようとしたのだろうか。

それにしても、自らのテレビ番組での発言について、ツイートで「報道がミスリード」だと批判し、テレビ出演での「やり取り」を具体的に示したにもかかわらず、その「やり取り」が実際には全く無かったのだとすると、「司会者とのやり取り」を「捏造」したことになる。

甘利氏は、小選挙区落選で幹事長は辞任したとは言え、今なお、自民党の重鎮、実力者であり、しかも自民党税制調査会に大きな影響力を有する。その甘利氏が、岸田首相が打ち出した少子化対策の財源について、「消費増税の検討」について積極的な発言をしたのか、それを否定するような発言をしたのか、それは、今後の消費税をめぐる議論においても、重要な話のはずだ。もし、その点について、甘利氏が「やり取り」を捏造してツイートしたのだとすると、自民党有力政治家の発言の信頼性そのものに関わる重大な問題である。

ところが、不可解なことに、このように甘利氏が「真意を伝えず断片的事実を繋ぎ合わせる報道はミスリード」とツイートしていることに対して、「甘利氏消費増税発言」を報じた新聞、テレビ等は、それに反論するわけでもなく、批判を受け入れて訂正するでもなく、完全にスルーしてしまっている。

中には、スポニチのように、【甘利明氏 少子化対策の消費増税案に「報道はミスリードです」テレビ番組での発言のやり取りを紹介】と題して、甘利氏のツイートをそのまま垂れ流している記事もある。

甘利明氏 少子化対策の消費増税案に「報道はミスリードです」テレビ番組での発言のやり取りを紹介(スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース

自民党税制調査会の幹部を務める甘利明前幹事長(73)が7日、自身のツイッターを更新。少子化対策の消費…news.yahoo.co.jp

岸田首相が、年頭会見でぶち上げた「異次元の少子化対策」というのも、中身は、従来の対策の延長上だ。それを「異次元」にするとすれば、余程、予算規模が大きくするのか、その財源は?と思った途端に出てきた「甘利氏消費増税発言」。

ところが、本人は、その発言を否定して発言を報じる報道をミスリードだと批判、ツイートで、実際の「司会者とのやり取り」まで示しましたが、その「やり取り」は番組動画でも確認できない。しかし、その後、甘利氏は沈黙、報じたマスコミも沈黙している。

年明けから、「甘利氏消費増税発言」をめぐって起きていることは、まさに、「」そのものだ。

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