国民の命を守るため、安倍内閣総辞職を~新型肺炎危機対応のため超党派で大連立内閣を

 新型コロナウイルスで、日本国内で、感染経路のわからない感染者が多数確認され、また、初の死亡者も出たことで、昨日から事態の深刻さは一気に高まった。ザルのような「水際対策」に頼り、「37.5度以上の発熱」、「呼吸器症状」に加えて「湖北省への渡航・居住歴」を検査の条件としていたことで、多くの感染者が「水際対策」をすり抜け、日本国内で急速に感染が拡大していたことは明らかであり、日本政府の対応の拙劣さは、全く弁解の余地がない。

 横浜港で停泊中のクルーズ船ダイヤモンドプリンセスでは、3000名を超える乗客乗員が船内に閉じ込められ、感染者が急増しており、下船した乗客の多数が重症となっている。乗員乗客を長期間船内に閉じ込める対応が不合理極まりないものであることが指摘され、国際的な批判が相次いでいる(【クルーズ船の日本政府対応 海外で非難の声も】)。常識的に見て、政府の対応は、「船内監禁感染拡大事件」と言ってよい大失態だ。

 このような政府の対応に対しては、早くから、上昌弘氏(医療ガバナンス研究所理事長)が、1月24日の時点で既に【「新型肺炎」日本の備えに不安しか募らない理由】で問題を指摘していた。また、船内検疫の専門家の指摘も相次いでいた。

 あまりに拙劣な日本政府の対応によって、国民を新型ウイルス感染の重大な危険と恐怖に晒すことになったのはなぜなのか。その「根本的な原因」はどこにあるのか。

 7年以上も続いた安倍政権下において、官僚の世界が強大な政治権力に支配され、自己保身のための忖度ばかりして都合の悪いことは隠蔽することがまかり通ってきた。そういった緊張感の無さが常態化してしまったことによる「官僚組織の無能化」が根本的な原因としか考えられない。それは、「桜を見る会」問題に見る、政権の意向を唯々諾々と受け入れるしかない官僚組織の対応とも共通する。

 安倍政権の危機管理能力の欠如は、森友・加計学園問題の際にも指摘してきた(【籠池氏問題に見る”あまりに拙劣な危機対応”】【加計学園問題のあらゆる論点を徹底検証する ~安倍政権側の“自滅”と野党側の“無策”が招いた「二極化」】)。

 ただ、これらの問題は、その拙劣さが、政権内部の問題にとどまっていたため、国民に被害・損失を被らせることにはならなかった。

 しかし、今回の新型コロナウイルスの問題は全く異なる。今後、日本政府の適切な対応が行われなければ、多くの日本国民が生命の危険に晒されることになる。

 では、今の安倍内閣に、国民の生命に危険が生じている状況への適切な対応が期待できるだろうか。それは「絶望的」と言わざるを得ない。これまで多くの問題に対して安倍内閣が行ってきたことに照らせば明らかであろう。

 最大の問題は、これまでの安倍内閣は、政権の維持・責任の回避を最優先し、問題の根本に目を向けようとして来なかったということだ。今回は、何より国民の生命が最優先されるべきだが、果たして安倍内閣にそれが行えるのか。全く期待できない。

 日本政府の適切な対応の障害になり得るのが、まず、今後の感染の拡大如何では、今年の夏開催される予定の東京オリンピック・パラリンピックへの影響が生じかねないことだ。もちろん、「国民の生命」と「東京五輪の開催」と、どちらを優先すべきかは言うまでもない。しかし東京五輪開催中止が日本経済に与える影響が、安倍内閣の判断に様々な影響を及ぼす可能性があることは否定できない。

 また、最大の懸念は、これまでの日本政府の拙劣な対応の責任を回避することを優先する対応が行われ、当初の中国で問題になったような、責任回避のための隠蔽的な行為が行われるおそれもあることだ。「桜を見る会」問題での対応を見れば、もはやこの点について、安倍内閣を信頼しろと言っても無理だ。

 このような日本政府の大失態に対して、今後、野党が国会で追及姿勢を強めていくのは当然だが、それが政府の対応をますます「自閉的」にすることになり、政府の対応を一層混乱させる可能性もある。

 このような状況において、国民の生命を守る方法は、「安倍内閣総辞職」しかあり得ない。そして、この危機的な状況を突破するための超党派の「大連立内閣」を作ることだ。危機的な状況を脱したら、再び内閣総辞職し、総選挙によって、新たな国会の下で政権を組織すればよい。

 「内閣総辞職」によって、国会でのこれまでの安倍内閣の失態や失政に対する論戦には一気に終止符が打たれ、国会での論戦を、危機対応のための重要な議論の方に向けることができる。そして、もともと有能であるはずの日本の官僚組織も、安倍政権による「責任回避」の呪縛から逃れ、国民の生命を守るために、自ら考え、主体的かつ積極的な行動を起こすことも期待できる。

 新型コロナウイルスから国民の生命を守るために、「安倍内閣総辞職」を求める声を上げていくことができるのは、我々国民しかない。

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「検事長定年延長」で、検察は政権の支配下に~森法相の答弁は説明になっていない

 2月1日の【黒川検事長の定年後「勤務延長」には違法の疑い】と題する記事で、検察庁法が、刑訴法上強大な権限を与えられている検察官について、様々な「欠格事由」を定めていることからしても、検察庁法は、検察官の職務の特殊性も考慮して、検事総長以外の検察官が63歳を超えて勤務することを禁じる趣旨と解するべきであり、検察官の定年退官は、国家公務員法の規定ではなく、検察庁法の規定によって行われると解釈すべきだとして、違法の疑いを指摘したところ、大きな反響を呼び、この問題は、昨日(2月3日)の衆議院予算委員会でも取り上げられた。

 渡辺周議員の質問に、森雅子法務大臣は、

「検察庁法は国家公務員法の特別法に当たります。そして特別法に書いていないことは一般法である国家公務員法が適用されることになります。検察庁法の22条をお示しになりましたが、そちらには定年の年齢は書いてございますが勤務延長の規定について特別な規定は記載されておりません。そして、この検察庁法と国家公務員法との関係が検察庁法32の2に書いてございまして、そこには22条が特別だというふうに書いてございまして、そうしますと勤務延長については国家公務員法が適用されることになります」

と答弁した。

 森法相は、検察庁法と国家公務員法が特別法・一般法の関係にあると説明したが、何とかして、黒川検事長の定年延長を理屈付けようとした政府側の苦しい「言い逃れ」に過ぎない。

 問題は、検察庁法22条の「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する。」という規定が、「退官年齢」だけを規定したもので、「定年延長」については規定がないと言えるのかどうかである。検察庁法の性格と趣旨に照らせば、「退官年齢」と「定年延長は認めない」ことの両方を規定していると解するのが当然の解釈だろう。

 裁判官の定年退官について、憲法80条では「その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。」と定められ、裁判所法50条で「最高裁判所の裁判官は、年齢70年、高等裁判所、地方裁判所又は家庭裁判所の裁判官は、年齢65年、簡易裁判所の裁判官は、年齢70年に達した時に退官する。」とされている。憲法の規定に基づく裁判所法の「年齢が~年に達した時に退官する」と同様に、検察庁法で規定する「定年」は、その年齢を超えて職務を行うことを認めない趣旨だと解するべきである。

 森法相は、「裁判官も国家公務員だから、裁判所法の定年退官の規定は、年齢だけを定めたもので、定年延長については規定していないので、一般法の国家公務員法の定年延長の規定が適用される」とでも言うのであろうか。

 そもそも、検察庁という組織において、国家公務員法82条の3の「その職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずる」というような事態が生じることがあり得るのか。検察庁法が規定する検察官の職務と検察庁の組織に関する「検察官一体の原則」からすると、そのようなことは想定できない。

 検察庁法1条の「検察庁は検察官の行う事務を統括するところとする」という規定から、個々の検察官は独立して検察事務を行う「独任制の官庁」とされ、検察庁がその事務を統括すると解されている。それは、官庁のトップの有する権限を、各部局が分掌するという一般の官公庁とは異なる。つまり、検察官は、担当する事件に関して、独立して事務を取り扱う立場にあるが、一方で、検察庁法により、検事総長がすべての検察庁の職員を指揮監督する(7条)、検事長、検事正が管轄区域内の検察庁の職員を指揮監督する(8条、9条2項)とされていることから、検事総長、検事長、検事正は、各検察官に対して指揮監督権を有し、各検察官の事務の引取移転権(部下が担当している事件に関する事務を自ら引き取って処理したり、他の検察官に割り替えたりできること)を有している。それによって「検察官同一体の原則」が維持され、検察官が権限に基づいて行う刑事事件の処分、公判活動等について、検察全体としての統一性が図られている。

 検察官の処分等について、主任検察官がその権限において行うとされる一方、上司の決裁による権限行使に対するチェックが行われており、事件の重大性によっては、主任検察官の権限行使が、主任検察官が所属する検察庁の上司だけでなく、管轄する高等検察庁や最高検察庁の了承の下に行われるようになっている。

 このように、検察の組織では、検察官個人が独立して権限を行使するという「独立性のドグマ」と、検察官同一体の原則による「同一性のドグマ」との調和が図られているのであるが、少なくとも、検察官の職務については、常に上司が自ら引き取って処理したり、他の検察官に割り替えたりできるという意味で「属人的」なものではない。特定の職務が、特定の検察官個人の能力・識見に依存するということは、もともと予定されていないのである。

 検察庁という組織には、定年後の「勤務延長」を規定する国家公務員法81条の3の「職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるとき」というのは、もともと想定されていないというべきである。

 森法相は、黒川検事長の「勤務延長」の理由について、

「東京高検検察庁の管内において遂行している重大かつ複雑困難事件の捜査公判に対応するため、黒川検事長の検察官としての豊富な経験知識等に基づく管内部下職員に対する指揮監督が不可欠であると判断したため、当分の間引き続き東京高検検察庁検事長の職務を遂行させる必要があるため、引き続き勤務させることとした」

と答弁した。

 しかし、少なくとも、黒川検事長の「検察官としての豊富な経験知識等に基づく管内部下職員に対する指揮監督が不可欠」とは考えられない。ここでの「部下職員」は、主として東京高検の検察官や、東京地検幹部のことを指すのであろうが、黒川検事長の勤務の大半は「法務行政」であり、検察の現場での勤務は、合計しても数年に過ぎない。また、検事正の勤務経験も、松山地検検事正着任直後に、大阪地検不祥事を受けて法務省に設置された「検察の在り方検討会議」の事務局に異動したため、僅か2か月程度に過ぎない。他の、東京高検検察官、東京地検幹部の方が、遥かに「検察官としての経験」は豊富である。

 黒川検事長の定年延長についての森法相の答弁は、法律解釈としても疑問だし、実質的な理由も全く理解できない。それが、次期検事総長人事を意図して行われたとすれば、「検事総長自身による後任指名」の慣例によって「独立性」を守り、それを「検察の正義」の旗頭としてきた検察にとって「歴史的な敗北」とも言える事態である。

 かねてから、内部で全ての意思決定が行われ、外部に対して情報開示も説明責任も負わない閉鎖的で自己完結的組織が「検察組織の独善」を招くことを指摘してきた私は、「検察の独立性」を守ることにこだわるつもりは毛頭ない。しかし、内閣固有の検事総長の指名権を正面から行使するのではなく、違法の疑いがある定年延長という方法まで用いて検察トップの人事に介入しようとするやり方には、重大な問題がある。責任を回避しつつ、意向を実現しようとする「不透明性」なやり方で、安倍政権は、検察組織をもあからさまに支配下におさめようとしているといえよう。

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黒川検事長 国家公務員法の定年後「勤務延長」に違法の疑い

 1月31日、政府は、2月7日で定年退官する予定だった東京高検検事長の黒川弘務氏について、半年後の8月7日まで勤務を延長させることを閣議決定したと報じられている。

 国家公務員法では、職務の特殊性や特別の事情から、退職により公務に支障がある場合、1年未満なら引き続き勤務させることができると定めているので、この規定を適用して、東京高検検事長の勤務を延長することにしたとのことだ。

 しかし、検察官の「定年延長」が、国家公務員法の規定によって認められるのか、重大な疑問がある。

 検察庁法22条は、「検事総長は、年齢が65年に達した時に、その他の検察官は年齢が63年に達した時に退官する。」と定めている。

 国家公務員法第81条の3で、「任命権者は、定年に達した職員が前条第1項の規定により退職すべきこととなる場合において、その職員の職務の特殊性又はその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分な理由があるときは、同項の規定にかかわらず、その職員に係る定年退職日の翌日から起算して1年を超えない範囲内で期限を定め、その職員を当該職務に従事させるため引き続いて勤務させることができる。」とされており、この規定を根拠に定年後の「勤務延長」を閣議決定したものと思われる。

 しかし、この「前条第1項」というのは、同法81条の2第1項の「職員は、法律に別段の定めのある場合を除き、定年に達したときは、定年に達した日以後における最初の3月31日又は第55条第1項に規定する任命権者若しくは法律で別に定められた任命権者があらかじめ指定する日のいずれか早い日(以下「定年退職日」という。)に退職する。」という規定であり、この規定で「法律に別段の定めのある場合を除き」とされている「別段の定め」が検察官の場合の検察庁法22条である。検察官の場合、定年退官は、国家公務員法の規定ではなく、検察庁法の規定によるものであり、81条の2の「第1項」の規定によるものではない。

 したがって、国家公務員法81条の3による「勤務延長」の対象外であり、今回、検察官の定年退官後の「勤務延長」を閣議決定したのは検察庁法に違反する疑いがある。

 検察庁法22条は、検察官の定年の年齢を定めただけで、検察官も国家公務員である以上、定年による退職は、国家公務員法に基づくものだという解釈をとったのかもしれないが、検察庁法が、刑訴法上強大な権限を与えられている検察官について、様々な「欠格事由」を定めていることからしても、検察庁法は、検察官の職務の特殊性も考慮して、検事総長以外の検察官が63歳を超えて勤務することを禁じる趣旨と解するべきであり、検察官の定年退官は、国家公務員法の規定ではなく、検察庁法の規定によって行われると解釈すべきだろう。

 黒川氏の定年後の「勤務延長」の表向きの理由は、「政府関係者によると、業務遂行上の必要性とは、保釈中に逃亡した日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告の事件の捜査を指す」(朝日)とのことだが、高検検事長が、レバノンに逃亡したゴーン氏の事件で一体何をやると言うのか。捜査の実務は東京地検が行い、外国との交渉は法務省で行えばよいのであり、高検が関与する必要はないはずだ。

 それにしても、安倍内閣は、なぜ、違法の疑いのある定年後の勤務延長の閣議決定を敢えて行ってまで、黒川氏を検察にとどめたいのか。余程の理由があるからであろう。そこには、次期検事総長人事をにらんだものとの臆測もある。

 法律上は、検事総長を任命するのは内閣である。しかし、これまでは、前任の検事総長が後任を決めるのが慣例とされ、政治的判断を排除することが、検察の職権行使の独立性の象徴ともされてきた。今回の東京高検検事長の定年後の勤務延長という違法の疑いのある閣議決定によって内閣が検事総長を指名することになるとすれば、政権側が名実ともに検察のトップを指名できることになり、政権側の意向と検察の権限行使の関係にも多大な影響を生じさせる。

 それによって、これまでの検察が至上命題としてきた「検察の独立性」のドグマが、「検事総長人事」という組織の中核から、事実上崩壊することになる。

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西川氏「不起訴相当」で、“ケリー氏・日産無罪”は確実

2019年6月4日、日産自動車の元代表取締役会長カルロス・ゴーン氏及び同元代表取締役グレッグ・ケリー氏が逮捕・起訴された金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)について、日産自動車代表取締役社長(当時)西川廣人氏に対する東京地検の不起訴処分について、告発人の東京都内在住の男性からの委任を受け、申立代理人として、検察審査会への審査申立を行っていたが、1月28日に、東京第三検察審査会から、「不起訴相当」の「議決の要旨」の通知があった。

検察審査会は、3か月ごとに審査員の半分が交代する。西川氏不起訴に対する申立を審査した東京第三検察審査会では、昨年7月末と10月末に審査員半分の交代を経て、8か月もの期間をかけるという異例の長期間の審査を行った。しかも、通常は、議決の理由はほとんど示されず、公表も行われないが、今回は、裁判所の掲示板に「議決の要旨」が貼りだされ、その内容はマスコミでも報道されている。

このような取扱いは、陸山会事件での小沢一郎氏の不起訴処分に対する審査申立てで起訴議決が出た時と同様の扱いである。また、議決の要旨には、不起訴処分を行った検察官の氏名と並んで、議決書の作成を補助した弁護士の名前も記載されている。この西川氏不起訴に対する審査申立は、不起訴処分を行った検察官から不起訴理由の説明を受け、補助弁護士から法律専門家としての意見を聞いた上で、慎重に審査を行った結果が「不起訴相当」だったということだ。

このようにして出された検察審査会の議決として、西川氏の「嫌疑不十分」を理由とする不起訴処分が「相当」とされたことは、同じ事実で起訴され、今年4月に公判が開始される予定の日産の元代表取締役グレッグ・ケリー氏と、法人として起訴された日産自動車の無罪判決がほぼ確実になったことを意味する。
「議決の要旨」によれば、理由は、以下のようなものだ。

 本件においては、被疑者は開示金額以外に元会長の報酬が存在し得ると認識し得たのではないかということがうかがわれるとともに、被疑者は元会長の開示金額以外の確定した報酬が存在するとまでは認識し得なかったのではないかということもうかがわれるところである。
しかしながら、被疑者において、開示金額以外の確定した報酬が存在するという具体的な認識があったと認めることはもとより、開示金額以外に確定した報酬が存在する可能性を強く認識しながら、それでもやむを得ないとしたと認めることも困難であり、検察官がした不起訴処分には、その裁量を逸脱した不合理性を認めることはできない。
また、犯罪成立に必要とされる事実認識に関する法律解釈及びこれに基づいて必要な捜査を遂げたとした点についても、その裁量を逸脱する不合理性は認められない。

西川氏が「開示金額以外に元会長の報酬が存在し得ると認識し得たのか否か」という点について検討し、「開示金額以外の確定した報酬が存在するという具体的な認識があった」とも、「開示金額以外に確定した報酬が存在する可能性を強く認識しながら、それでもやむを得ないとした」とも認められないので、検察官が、西川氏を「嫌疑不十分」で不起訴にしたことは不合理ではないとの判断に至った、ということのようだ。

金商法違反について、検察は「役員報酬の配分の権限を有し、自分自身の報酬額も単独で決定することができたゴーン氏が、各年度の報酬額として具体的な金額を記載した書面に署名しているのだから、それによって各年度の報酬額は確定し、その支払が退任後に先送りされていただけだ」と主張している。

しかし、被疑事実は、西川氏が代表取締役社長(CEO)の地位にあった平成29年3月期及び30年3月期についての有価証券報告書虚偽記載であり、検察官が主張するように、ゴーン氏の役員報酬が、実際に支払われた金額を超える金額で「確定していた」のであれば、最高経営責任者の立場にあった西川氏が、その「報酬額の確定」を認識していないことはあり得ない。この点は、検察主張の致命的な欠陥であった。

今回の検察審査会の議決は、検察官の説明や、補助弁護士の意見も踏まえて、西川氏には、開示金額以外に「確定した報酬」が存在するという具体的な認識も、その可能性を強く認識することもなかったとの判断を示している。それは、ゴーン氏に実際に支払われた金額を超える金額の「確定した報酬」が存在しなかったことを示す決定的な事実である。

西川氏は、日産という会社の最高経営責任者CEOとして、当該年度の有価証券報告書を提出しているのであり、もし、その西川氏が具体的に認識せず、その可能性も認識していなかったような「確定した役員報酬」など存在するはずもないことは、常識で考えてもわかる話である。しかも、ゴーン氏に対して、退任に競業避止契約や顧問料等の支払をするための契約に関わっていたのは、西川氏とケリー氏であり、二人は同様な立場にある。

検察官が起訴している、ゴーン氏、ケリー氏、法人としての日産について犯罪が成立するのであれば、CEOの西川氏について、犯罪が成立しないことはあり得ない。もし、犯罪が成立するのに、不起訴にされたとすれば、検察と西川氏との間で「ヤミ司法取引」があったということになる。「ヤミ司法取引」がなく、西川氏の不起訴が正しいとすれば、ゴーン氏・ケリー氏・日産の起訴も「嫌疑不十分」で不起訴にすべきだったのであり、起訴すれば無罪になるのが当然ということになる。

いずれの方向であっても、西川氏不起訴に対する審査申立によって、2018年11月19日に検察が行ったゴーン会長の「衝撃の逮捕」が、全くデタラメであったことが明らかになるはずであった。そのような意図で西川氏不起訴に対して審査を申し出ていたものだ。(【日産西川社長に対する「不当不起訴」は検察審査会で是正を】

そして、慎重に行われた審査の結果は、西川氏の不起訴は相当だったというものであり、その理由が公表されたことで、「ゴーン氏の未払いの確定報酬は存在していなかった」という決定的な事実が、当時の「最高経営責任者CEOの西川氏の認識」を通して明らかになった。

今回の不起訴相当議決は、今年4月に始まるとされるケリー氏と日産の公判の今後の展開に関しても決定的に重要であり、そればかりか、昨年末、ゴーン氏がレバノンに不法出国したことに関して、ゴーン氏が逃亡の理由とした「検察による逮捕の不当性」「日本の刑事司法の不正義」を判断する上でも、極めて重要な意義を持つものである。

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ゴーン氏10時間超インタビュー~「レバノンへの不法出国」が衝撃だった「もう一つの理由」

 私は、2018年11月19日のゴーン氏逮捕の直後から検察捜査を批判し、昨年12月31日に同氏が保釈条件に違反してレバノンに出国したことが明らかになった後も、違法な出国自体は容認できないものの、ゴーン氏の事件は極めて特異な経過を辿ってきた特異な事件であり、一般的な刑事事件と同様に扱うべきではないと主張し、検察の捜査や保釈への対応・公判の長期化の見通し等の逃亡の背景となった様々な問題を指摘してきた。

 その中で、私が、これまでは明らかにしてこなかったことがある。それは、昨年11月から12月にかけて、ゴーン氏に直接インタビューし、その内容を含む著書を4月に予定されていた公判までに出版する予定だったことだ。

 私は、ゴーン氏の事件に関しても検察の捜査や対応を批判してきたが、それはあくまでもマスコミ報道で事件を把握したもので、それらの報道は、基本的に検察からのリーク・日産自動車からのリークが元になっていた。ゴーン氏自身の言い分や反論を本人から聞いた上で、私なりに、ゴーン氏の事件の本質を見極め、客観的に評価・論評した本を書こうと考えた。

 ちょうど、昨年春から議員会館で「人質司法」の勉強会を主宰した知人の元参議院議員の夫人が在日フランス人の公的代表の立場にある関係だったことから、ゴーン氏の紹介を受けることができ、ゴーン氏にインタビューを申し入れたところ、応じてくれた。5回にわたり、計10時間以上インタビューし、事件のことやその背景と考えられる事情、ゴーン氏の考え方などについて詳しく話を聞いた。

 著書の出版は、大手経済書出版社から行う予定だった。ゴーン氏への質問の準備のために、かつては名経営者と高く評価されたものの、1年前の逮捕からは一転して「独裁」「私物化」と批判されてきたゴーン氏の経営手法や日産自動車の経営状況などについて、経済記者との議論も重ねた。私としては、ゴーン氏の事件とその背景に関する真相解明のためのインタビューが行えている手応えがあった。

 最後のインタビューが12月27日の午後だった。この日は、最初の起訴・再逮捕・勾留延長請求却下・特別背任での再逮捕など、事件の節目ごとのゴーン氏の受け止めを聞いた。しかし、それまで、事件や日産のことについて雄弁に語ってくれていたのとは違い、若干、言葉数が少なかった。私としては、ゴーン氏が、日本の刑事司法手続に関して直接体験し、最も印象に残っていることだと思っていたので、意外だった。

 12月31日の朝、「私は、今、レバノンにいる」というニュースを聞いた時には、何が起こっているのかわからなかった。その僅か4日前に、ゴーン氏は私の目の前にいた。日本で裁判を受けることを当然の前提に、事件のことや背景について話をしてくれていたゴーン氏がどうしてレバノンにいるのか。

 しかし、ゴーン氏の不法出国が事実であることが、その後の報道で明らかになった。私には、12月27日の最後のインタビューの場面が脳裏に浮かんだ。その日のゴーン氏は、それまでより言葉少なだった。「国外逃亡」という、その直後のことで「心ここにあらず」だったのかもしれない。

 私は、膨大な労力とコストをかけてインタビューをし、ゴーン氏の英語の話を日本語化し、何とか、4月公刊に間に合わせるべく、執筆も進めていた。私にとっての2020年は、東京五輪の年というよりは、日本で始まるゴーン氏の裁判に向けて、私なりに事件の真相・本質に迫り、私の論評を加えた著書を公刊することが最大のイベントとなるはずだった。私のライフワークでもある検察改革・刑事司法改革に少しでもつなげることができるのではないかと思っていたし、ゴーン氏が私のインタビューに応じてくれたのも、それを期待したからだろうと思っていた。

 ところが、ゴーン氏の出国によって、そういう私の目論見はすべて白紙に戻り、出版企画も中止となった。

 しかし、それから、私なりに、現実に起きていることを受け止めることにし、彼が、なぜ、日本での裁判を免れ、逃亡したのか、自分なりに考えて意見を述べていかなければならないと思った。

 私にとって、インタビューのことをどう取り扱うかは難しい問題だった。最初の保釈の後、記者会見をしようとした途端に再逮捕されたこともあり、日本にいる間のゴーン氏は、公判が始まるまでは記者会見やマスコミ対応などは行わないという方針だった。私がインタビューを行っていることや、その内容も、著書が完成するまでは公にしない約束だった。

 1月13日に、知人を通じて、レバノンにいるゴーン氏と連絡をとることができ、テレビ電話でインタビュー内容の取り扱いなどについて確認した。ゴーン氏は、インタビューの内容は私の方で自由に使うことを了承してくれた。また、その際、出国を決意した理由や、想定していた成功確率に関する私の質問にも答えくれた。

 ゴーン氏の話では、2020年9月に特別背任の公判を開始すると言っていたのが、検察に言われて裁判所が突然意向を変え、2021年か2022年まで公判が開始されないことになったということだ。「迅速な公判」という刑事司法の基本原則が全く守られていないことに大きな失望を感じたことと、妻と息子と会えない保釈条件について何度も変更請求したが、結局、特別背任の裁判が始まる2021年か2022年まで会えないことになったことが、出国を決意した理由だという。

 そして、その決意の際に考えていた「成功確率」については、「計画時には100%成功させるという計画を立てたが、計画を立てた段階で予想できない事態が最後の最後に起きることもあるので、それを考慮に入れると75%の成功率と思っていた。しかし、そのリスクをとる気持ちがあった。」と答えた。

 特別背任の公判開始が2021年~2022年だとすると、公判は、当然、通訳入りの証人尋問となり、その他にも訴訟書面の英訳の手間などに要する時間などを考えれば、3件の特別背任の公判は最低でも一件1年はかかる。そうなると、審理期間は、1審で5~6年、控訴審、上告審を含めると10年程度かかることになり、その間、ゴーン氏は「日本に抑留」されることになる。そして、少なくとも2~3年は妻、息子と会うこともできない。

 そういう状況への絶望から、「25%」という少なくないリスクをとってまで、ゴーン氏は違法な出国を決断した。それによって、私にとっては大変残念なことに、同氏の日本での裁判の可能性は事実上、なくなった。

 先週、ゴーン氏のインタビューを行っていたことについて、いくつかのメディアの取材に答えた。小学館の週刊ポストは、昨年12月にゴーン氏と面会した際、日本での理解者として、東大の田中亘教授とともに私の名前を挙げていたとして取材を求めてきた。「ビデオニュース」の神保氏の取材には、宮台真司氏も交えてゴーン氏事件とレバノン逃亡について詳しく語っていたので、追加でビデオインタビューに応じた。そのほかにも刑事司法について多くの問題意識を共有する共同通信の編集委員や、自動車業界や日産自動車について豊富な取材経験を有する東洋経済の記者の取材にも答えた。今後も、私のゴーン氏インタビューの趣旨を理解してくれるメディアの取材には答えていきたいと思う。

 「未完」に終わってしまったが、私は、コンプライアンスの視点から企業の在り方を考える者として、そして刑事実務家として刑事司法と検察の在り方を考える者として、全力を挙げて、ゴーン氏のインタビューに取り組んできた。そこで、ゴーン氏が語ったこと、主張したことの中には、私が疑問に思った点、意見が異なる点も少なからずあった。それらを、自分なりに整理し、これまでの私の事件に対する見方と照らし合わせていけば、日産自動車とゴーン氏をめぐる事件について本質に迫る手がかりが得られるように思う。

 平成から令和へという時代の節目で起きた日産自動車・ゴーン氏事件は、日本の経済史にとっても、刑事司法の歴史にとっても、21世紀の重要な事象として後世に語り継がれるであろう。その歴史が、少しでも事件の本質を反映したものになるよう、今後も私の役割を果たしていきたいと思う。

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「ゴーン逃亡は裁判所の責任」論の誤り~検察は、身柄拘束をいつまで続けるべきと考えていたのか

 ゴーン氏が、保釈条件に違反して不法出国したことに関して、直後から、産経新聞や一部の検察OB弁護士などによる、保釈を許可した東京地裁の判断が誤りであったかのような批判が行われた。

 1月13日付けの読売新聞は、《【独自】ゴーン被告の逃亡「数十億円の保釈金では防げない」…決定前に地検が反対意見》などと題する記事で、検察から保釈意見書の内容のリークを受けて、検察の反対意見が正しく、裁判所の保釈判断が誤っていたかのように論じている。今後の保釈の運用において、裁判所の保釈許可を牽制し、「人質司法」を一層強化しようとする意図が露わだ。

 東京地検斎藤隆博次席検事が、1月9日、海外メディアも参加した定例会見でも、検察官は「逃亡のおそれ」と「罪証隠滅のおそれ」を理由に保釈に反対していたことを強調し、「逃亡のおそれがあるのに保釈が許可されたのだから、検察官も逃亡防止のための監視を行うべきだったのではないか」と質問されても、「検察官は保釈に反対していた」の一点張りだったようだ。

 しかし、今回の保釈条件違反の出国の問題が裁判所の責任であるかのような論調は、一つ重要な点を見過ごしている。

 「保釈には絶対に反対だった」と言うのであれば、検察は、次の質問にどう答えるのであろうか。

では一体、いつまでゴーン氏の身柄拘束を続けるべきと考えていたのか。

 「(国外への)逃亡のおそれ」があるから保釈すべきではないというのであれば、そして、検察官は、保釈が許可されたら逃亡防止のための監視などは一切行わないし、それを行う立場にもない、というのであれば、その状況は、公判が始まっても、検察官の立証が終了しても、判決が言い渡されても、保釈すれば海外逃亡のおそれがある状況は全く変わらない。有罪無罪を問わず、判決が確定するまで、未決勾留を続けるべきということになる。

 そして、その期間は、ゴーン氏が1月8日の記者会見で語ったように、検察官が示した立証方針によって、「2つの事件の審理を同時には行わない。金商法事件の裁判が終わってから、特別背任の裁判を一つ一つやっていく。」となると、一審の裁判だけで、今後少なくとも5年はかかるという状況だったことになる。その5年に加えて、控訴審で2~3年、上告審でさらに1~2年、つまり判決確定まで10年近くかかることになる。検察は、それだけの期間、ゴーン氏を保釈せず、拘置所内で身柄拘束しておくべきだったと言うのであろうか。

 2018年11月19日に羽田空港で逮捕されるまで、日産・ルノー・三菱自動車の3社の会長を務めるゴーン氏は、カリスマ経営者として国際的にも高い評価を受けていた。検察は、そういう人物を、「推定無罪の原則」を無視して、10年近くも拘置所内で身柄拘束しておくべきだと、海外メディアや国際社会に向かって公言できるのであろうか。

 問題の根本は、安倍首相もゴーン氏逃亡直後の財界関係者との会食で本音を漏らしたように「日産の社内で片づけるべき問題」を、検察が無理やり刑事事件に仕立て上げ、日産社内の「クーデター」に加担したことにある。

 そのまま検察官の意見に従えば、事件の内容と比較して異常な「長期勾留」にならざるを得ない。「勾留による拘禁が不当に長くなったときは、裁判所は、~(中略)~決定を以て勾留を取り消し、又は保釈を許さなければならない。」とする刑訴法の規定(91条)からしても、裁判所が、検察官の意見を退けて保釈を認めたのは当然であり、ゴーン氏の保釈許可に対する批判は、全く的はずれだ。

無実を訴える外国人にとって絶望的な日本の刑事司法

 経済事件であり、本来は社内で片づける問題であったゴーン氏の事件とは異なる「典型的な刑事事件」と言える殺人事件で、日本で逮捕・起訴された外国人が「絶望的な状況」に追い込まれることを示す一つの事例がある。

 一審で無罪判決を受けて勾留が失効したのに、検察が控訴し、控訴審で逆転有罪判決が出て上告審で有罪が確定、その後、再審で無罪となった「東電OL殺人事件」だ。この事件で、ネパール人のゴビンダ氏は、15年もの間、冤罪で身柄を拘束された。

 この事件では、東京地裁の一審無罪判決で、被告人のゴビンダ氏の勾留が一度失効し、不法滞在による国外強制退去の行政手続きが開始されることになった。しかし、検察は控訴し、「ネパールへの出国を認めて送還した後に逃亡されてしまうと、裁判審理や有罪確定時の刑の執行が事実上不可能になる」と主張して、裁判所に職権による再勾留を要請した。

 当然のことであるが、刑事被告人には「無罪の推定」が働く。その被告人が勾留され、身柄を拘束されるのは、罪を犯したと疑う十分な理由があり、なおかつ、「逃亡の恐れ」又は「罪証隠滅の恐れ」がある、という事由が存在しているからだ。

 一審で無罪判決を受けた場合には、無罪の推定が一層強く働くので、それまでの勾留は失効する。再勾留が認められるとすれば、一審の無罪判決に明白な誤りがあるとか、判決後に、有罪を決定づける新証拠が見つかったというような場合に限られる、というのが常識であろう。

 ところが、検察は、裁判所にゴビンダ氏の再勾留を強く求めた。それは、「無期懲役を求刑した事件に対して一審で無罪判決が出て、そのまま引き下がるわけにはいかない」という検察の威信・面子にこだわる「組織の論理」によるものであろう。

「再勾留」で逆転有罪が“事実上決定”

 控訴審が係属した東京高裁刑事第4部は、検察の要請を受けて、再勾留を認める決定を行った。弁護側は、異議申立てを行ったが、東京高裁刑事第5部は異議申立てを棄却して勾留を認めた。弁護側は、最高裁に特別抗告をしたが、最高裁は「一審無罪の場合でも、上級審裁判所が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断できる場合は被告人を拘置できる」として3対2で特別抗告を棄却した。

 重要なのは、ゴビンダ氏の勾留を認めたのが、控訴審が係属する高裁の裁判部である東京高裁刑事第4部だったことだ。つまり、その後に、控訴審の審理を行うことになる裁判部が、被告人の身柄拘束を続けるかどうかの判断に必要な「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の有無について、自ら肯定する判断を行ったのである。そのために、外国人である被告人は、一審で無罪判決を受けたのに身柄拘束が継続され、母国に帰ることができない、という著しい人権侵害を受けることになった。

 さらに決定的なのは、控訴審裁判部が再勾留を決定した時点で、ゴビンダ氏の逆転有罪は事実上決まっていたということだ。もし、控訴審判決で検察の控訴を棄却し、一審無罪判決を維持した場合、再勾留して一審無罪判決後も身柄拘束を続けたことが、結果的に無実の人間の身柄拘束を継続する「重大な人権侵害」だったことになる。それを自ら認めることになる控訴棄却・無罪の判決を、控訴審裁判所が行うことは極めて困難だったと言えよう。

 ということは、東電OL殺人事件では、控訴審裁判部が、一審無罪判決後に、僅かな期間、一審の事件記録を読んだだけで再勾留を認めた段階で、事実上、控訴審での逆転有罪判決は確実になっていたということなのである。

 ゴビンダ氏の事例にも表れた「外国人にとっての日本の刑事司法」は、知れば知るほど「深い闇」であり、絶望的なものと思えるであろう。

 ゴーン氏は、経済犯罪で起訴された被告人であり、殺人事件の被告人だったゴビンダ氏とは異なる。しかし、「起訴した以上は、何が何でも有罪を獲得しようとする」検察官の姿勢は同じだ。検察の組織の面子、さらには、組織の存亡がかかっているという面で、ゴーン氏事件に対する検察側の有罪への執念は、むしろ、ゴビンダ氏の事件以上のものと言うべきかもしれない。

 日本の刑事司法では、検察が有罪を確信して起訴した事件は99%以上が有罪となる、まさに検察が「正義」を独占する構造だ(拙著「検察の正義」ちくま新書:2008年)。その「検察の正義」に逆らって、起訴事実を否認して無罪を主張する者は、検察官が「罪証隠滅のおそれ」があるとして保釈に強硬に反対し、裁判所が保釈を認めず、被告人が「自白」するまで身柄拘束を続けるという「人質司法」がまかり通ってきた。

 一方で、「検察の正義」に逆らわず罪を認める者の「逃亡のおそれ」に対しては、検察官は概して関心が薄かった(【実刑確定者の逃亡は「『人質司法』の裏返し」の問題 ~「保釈」容認の傾向に水を差してはならない】)。日本では、保釈された被告人に対しては、監視もほとんど行われず、諸外国の多くが導入しているGPS装着による位置確認が制度化されなかったのも、「罪証隠滅のおそれ」を重視する一方で、「逃亡のおそれ」を軽視してきた、これまでの検察姿勢によるところが大きい。

 最近、「人質司法」への批判もあって、「罪証隠滅のおそれ」を安易に認めるべきではないとの最高裁判例も出て、否認事件での保釈率も上昇している。

キャロル夫人逮捕状取得・国際手配の「暴挙」

 ゴーン氏の事件に関しても、検察は「罪証隠滅のおそれ」を理由に保釈に強く反対し、今回の海外逃亡後も、「罪証隠滅のおそれ」があったことを強調したが、結局、ゴーン氏の側で実際に罪証隠滅が行われていた事実は全くない。そして、検察は、今になってキャロル夫人の起訴前証人尋問で偽証があったなどとして逮捕状を取得し、国際手配するなどという常識外れの行為に及んでいる。

 逮捕状は、本来、被疑者を逮捕するために請求し、発付されるものである。検察がキャロル夫人を逮捕したいというのであれば、密かに逮捕状を取得し、国際手配して、米国等への入国時に逮捕してもらえばよいのである。逮捕状取得を公表し、その中で、キャロル夫人の罪証隠滅の意図を一方的に強調するなどということは、凡そ検察が行うべきことではないし、そもそも、そのような意図を隠して逮捕状を請求し、その発付を受けたこと自体、裁判所から逮捕状を騙取したに等しい。

 これまで、日本では、検察が裁判所から信頼されていたからこそ、本来、「刑事司法の正義」の中心となるべき裁判所が、「検察中心の正義」に事実上甘んじていた。しかし、今回、ゴーン氏の事件の中で検察が裁判所に対して行ったことや、勾留延長請求却下など検察の請求を認めなかった裁判所に関する検察幹部の発言(【「従軍記者」ならではの“値千金のドキュメント” ~ゴーン氏事件で「孤立化」を深める検察】)は、その信頼を決定的に損なうものだ。

 今、日本の刑事司法は、「検察の正義」中心の構造を大きく変えなければならない時期に来ていると言えよう。

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ゴーン氏「日本の刑事司法に『絶望』」の理由~「有罪率99%は誤解」との見方で「特捜事件」を論じることの“誤解”

保釈条件に違反してレバノンに出国したゴーン氏が日本の刑事司法を批判していることに関して、「有罪率99%」のことが議論になっている。

池田信夫氏は、【「有罪率99%」という誤解】と題する記事で、

刑事訴訟の総数(併合を除く)49811件の中では、有罪率は99.8%である(司法統計年報)。だがこれは「逮捕されたらすべて有罪になる」という意味ではない。

警察が逮捕して送検した被疑者を検察が起訴する率は63%で、有罪件数を逮捕件数で割ると国際的な平均に近い(ジョンソン『アメリカ人のみた日本の検察制度』)。多くの国では容疑者を起訴することは検察官の義務とされているが、日本では起訴するかどうかは検察官の裁量にゆだねられているため、確実に有罪になる者しか起訴しないからだ。

と述べている。また、「猫組長」という、元暴力団組長という経歴からして日本の刑事司法について語る資格があるとは到底思えない人も、同様のことを言っている。

池田氏が引用するジョンソン氏の著書は、外国人の立場から日本の検察の制度と実態を描いた貴重な著書であり、この著書を読んで勉強されたと思われる池田氏の指摘は、一般の刑事事件については概ね正しい。

しかし、そこには、「特捜事件における有罪率」という観点が完全に欠落している。ゴーン氏は、東京地検特捜部が、羽田空港への帰国直後に「衝撃の逮捕」を行った事件であり、まさに「特捜事件」である。

特捜部が、被疑者を逮捕する事件では、検察組織が、「独自に刑事処罰をすべき」と判断するからこそ逮捕するのであって、それを自ら不起訴にすることは、ない。(小沢一郎氏の政治資金規正法違反事件は、逮捕はされていないし、そもそも告発事件で検察が独自に刑事立件したものでもない。)警察の判断で逮捕した事件について、検察が起訴・不起訴の判断をするのとは根本的に異なり、特捜事件においては、池田氏が言っているような「逮捕された被疑者のうち、確実に有罪になる者しか起訴しない」という選別は働かない。ターゲットにされた人物とともに下っ端の人間が、「捨て駒」的に同時逮捕され起訴猶予になる場合を除き、特捜事件においては、「逮捕=起訴」だ。

そして、検察は、一旦起訴した以上、検察の組織の「面子」にかけて、何が何でも有罪判決を獲得しようとする。そして、検察が組織を挙げて有罪を獲得しようとし、司法メディアも「有罪視報道」しているのに、裁判所がそれに抗って無罪判決を出すことは、まず、ない。

仮に、一審で無罪判決が出ても、検察は間違いなく控訴し、控訴審で逆転有罪となる。(村木厚子氏に対する一審無罪判決に対して検察が控訴を断念したのは、「証拠改ざん問題」の発覚が影響したものと考えられる。)

過去に、特捜事件で逮捕された事例で最終的に無罪が確定した事例は、ほとんどないに等しい。そういう意味では、特捜事件においては、まさしく、絶望的な「有罪率99%」なのである。

ゴーン氏の弁護人の高野隆弁護士が、【彼が見たもの】と題するブログ記事を投稿し、「確かに私は裏切られた。しかし、裏切ったのはカルロス・ゴーンではない。」という言葉が、海外でも大きな反響を呼んでいる。

その中で書かれているように、「公正な裁判(a fair trial)は期待できるんだろうか?」とのゴーン氏の問いに対して、高野弁護士は

無罪判決の可能性は大いにある。私が扱ったどの事件と比較しても、この事件の有罪の証拠は薄い。検察が無理して訴追したことは明らかだ。われわれは他の弁護士の何倍もの数の無罪判決を獲得している。弘中さんも河津さんも、著名なホワイト・カラー・クライムの裁判で無罪を獲得している。だからわれわれを信頼してほしい。必ず結果を出してみせる。

と答えたものの、その後の

一向に進まない証拠開示、証拠の一部を削除したり、開示の方法に細々とした制限を課してくる検察、弁護人に対しては証拠の目的外使用を禁じる一方で、やりたい放題の検察リーク、弁護人の詳細な予定主張を真面目に取り上げないメディア、「公訴棄却申し立て」の審理を後回しにしようとする公判裁判所、いつまでも決まらない公判日程

などで、ゴーン氏が絶望していったことに、理解を示している。

そして、高野弁護士は、昨年4月以降、妻との接触が制限されているゴーン氏と夫人との僅か1時間のビデオ面会に立ち会った時に思ったことを、

私は、日本の司法制度への絶望をこのときほど強く感じたことはない。ほとんど殺意に近いものを感じた。

と述べているのである。

ゴーン氏が直面したのは、一般事件の「有罪率99%」より遥かに絶望的な、「特捜事件における有罪率99%」の世界だった。

刑事司法全体における「有罪率99%」には、「誤解」という面もあることは事実である。しかし、その見方で「特捜事件」を論じるのは、さらに大きな「誤解」である。

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