企業を蝕む「第三者委員会」の“病理” ~横行する「第三者委員会ビジネス」

第三者委員会は、本来、不祥事で信頼を失った組織に代わって、中立かつ独立の立場から事実調査・原因分析を行い、信頼を回復するために設置されるものである。過去に、多くの不祥事で設置され、組織をめぐる問題の真相や原因を明らかにすることに一定の役割を果たしてきた。

しかし、最近では、第三者委員会が、本来の目的に反する方向で利用される事例が少なからず生じている。会社執行部の意向を受け、監査法人による会計監査の妥当性や原発子会社の減損問題を調査対象から外し、問題の本質を隠蔽しようとする執行部に加担し、いわば「隠れ蓑」のような役割を果たした「東芝の第三者委員会」、直接的な証拠もなく、それを解明するための十分な調査も行っていないにもかかわらず、粗雑な推認によって依頼者に有利な事実認定を行った「東京電力の第三者委員会」などがその典型例である(【第三者委員会が果たすべき役割と世の中の「誤解」】)。また、比較的小規模の上場企業では、経営陣と大株主との経営権をめぐる争いに第三者委員会を利用しようとした事例、第三者委員会が必要もなく設置され、その公表で株価が大幅に下落する事例なども発生している。一方で、第三者委員会には調査補助者に多数の弁護士、公認会計士が動員され、委員も含めて「時間制」で報酬が算定されるため、費用が高額化することが多く、さながら「第三者委員会ビジネス化」の様相を呈している。企業規模に不相応な高額の費用請求によって株主に過大な不利益が生じかねないケースもある。

第三者委員会には、法的な根拠はないし、その事実認定・判断に、法的拘束力や事実確定力があるわけでもない。それにもかかわらず、その調査結果は、依頼企業のみならず、マスコミ等にも無批判に受け入れられ、監督官庁や証券取引所等もが、当該問題についての「事実認定」として尊重するのは、企業が自ら設置した中立かつ独立の第三者委員会の事実認定・判断を尊重することについての「社会的コンセンサス」が形成されているからである。

しかし、その「社会的コンセンサス」には、いくつかの前提が必要である。それは、正当な手続を経て、その目的が十分に理解された上で第三者委員会の「設置」が意思決定され、中立的かつ独立の第三者委員会に相応しい委員等の「人選」が行われ、適切に「調査」が行われたうえで「調査報告書」が作成されて、依頼企業に提出されるということである。また、不祥事企業がステークホルダーに対する説明責任を果たすために設置されるものであるから、その「公益的目的」を考えれば、委員会に関する費用や報酬にはおのずと限度があるはずだ。

第三者委員会をめぐる現状を見たとき、果たして、そのような前提条件が充たされているのか、疑問に思える例が少なくない。

そこで、第三者委員会について、①どのような場合に設置すべきか、それを、誰が、どのように判断・決定するのか、②委員長・委員の人選、調査体制(調査補助者の選定)は、誰がどのように決めるのか、③調査事項は、誰がどのようにして決定するのか、④調査を、どのような手段を用いてどのように行うのか、⑤調査報告書はどのように作成され、その内容が確定されるべきなのか、⑥委員長・委員、調査補助者の報酬等の第三者委員会に関して支払われる費用は、どのように算定されるべきなのか、などの問題について検討した上、第三者委員会の今後の在り方について私見を述べてみたい。

 

1 第三者委員会の設置の判断

(1)どのような場合に設置すべきなのか

第三者委員会が設置される典型例は、不祥事等によって、組織の業務執行・意思決定を行う経営陣等が、社会からの信頼を失ってしまった場合であり、既に不祥事が表面化し、それによって企業が社会から批判を受け、経営者に対しても責任追及の声が高まっているという状況である。最近の例で言えば、「品質データ改ざん問題」で厳しい社会的批判を受けた神戸製鋼所の事例などである。また、企業ではないが、文科省幹部への贈賄や入試をめぐる不正で学校法人のトップの犯罪、不正が社会から厳しく糾弾されていた東京医大で、第三者委員会が設置されたのも当然と言えよう。

しかし、問題が表面化しておらず、経営者に対する批判も生じていない場合には、第三者委員会の設置以外にも選択肢がある。

企業内で問題が発生した場合には、まず内部調査を行うのが原則である。内部調査の客観性を確保するために外部弁護士を調査メンバーに加えることもある。また、監査役の独自の調査権(会社法381条2項)に基づく調査という方法もある。監査役は、自ら調査を行うことができるし、その調査を外部弁護士に行わせて、その費用を会社に請求することもできる。

内部調査の場合、調査の実施や結果の公表は会社執行部の判断による。監査役の調査も、会社の機関として、独自に自らの責任で調査を行うものであり、その結果を監査役の権限行使に活用し、取締役会に報告することが目的である。社外監査役が外部弁護士に委託して調査を行った場合は、調査主体の「外部性」や「客観性」という面では第三者委員会の調査と実質的に変わらない。大きな違いは、調査開始の段階では公表せず、調査結果を踏まえて、問題の重大性やステークホルダーへの説明責任の程度に応じて公表の要否を判断することができる点である。

問題が表面化しておらず、企業が批判を受けているのでない場合、いきなり第三者委員会を設置して公表すれば、企業に重大なダメージが生じる。それでも敢えて、内部調査や監査役調査ではなく、第三者委員会を設置する必要があるとすれば、以下の2つの要件が充たされている場合である。

① 株主・投資家に対して開示すべき重大な問題が「判明」していること。

② 当該問題について、法的判断ではなく、調査でさらに事実を解明する必要があること。

①については、「株主・投資家に開示すべき重大な問題」があることが、既に明らかになっているのであれば、ただちに開示するのが当然である。問題は、そのような重大な事実があるか否かわからない段階で、それを判断するために第三者委員会を設置することの是非である。この場合、調査の結果、重大な事実が何もなかったということになると、結果的に、第三者委員会の設置は不要だったことになり、それによって生じた企業価値の棄損及びそれにかかったコストについて誰が責任を負うかが問題になる。

また、仮に①に該当する場合であっても、既に事実は明らかになっていて「法的判断」が求められているだけであれば、外部の弁護士に法的見解を求めれば済むので、委員会を設置して調査を行う必要はない。

(2)誰が設置を判断するのか

第三者委員会を設置すべきか否かは、企業であれば、業務を遂行する会社執行部、最終的には代表取締役が判断すべき事柄であるが、企業の経営に重大な影響を及ぼす事項なので、通常は、取締役会の決議を経て決定される。そこで、設置すべきか否かをめぐって、社外取締役、監査役等と経営陣との間で対立が生じる場合がある。

既に不祥事が表面化し、それによって企業が社会から批判を受け、経営者に対しても責任追及の声が高まっているという「典型事例」であれば、第三者委員会の設置は当然の判断と言えるが、経営陣が責任追及に発展することを恐れ、設置に消極的な姿勢になることもある。その場合には、直接的な責任追及の対象とはならない社外の取締役や監査役が、設置に向けて積極的な役割を果たすことを躊躇すべきではない。

しかし、問題が表面化していない場合は、第三者委員会の設置自体が企業に重大なダメージを生じるので、上記の「典型事例」の場合とは異なる。上記の①、②の要件を充たしているのか、設置公表で企業にいかなるダメージが生じるのかを勘案して判断する必要がある。第一次的な判断を会社執行部が行い、取締役会で決定する中で、第三者委員会の設置をするのか、内部調査、監査役調査等の他の方法を取ることができないかを、十分に議論する必要がある。第三者委員会を設置した場合には、重大な損害が生じ、その責任が問題になる可能性があるので、設置の決定に至るプロセスは明確にされる必要がある。

このような場面で問題となるのは、会計監査人の監査法人の関与である。不適切な会計処理や会計不正が明らかになった場合に、監査法人が会計不正の全体像を把握するため、第三者委員会の設置を要請するということは、ありうるケースである。しかし、本来、会計監査人は、企業の会計処理の監査のために自ら必要な調査を行うことができる立場にあるのであり、会計面の問題があると考えるのであれば、自らの権限で調査を行うのが原則である。執行部を中心とする会社の機関が判断すべき第三者委員会の設置の判断に介入するというのは、本来、監査法人が行うべきことではない。特に、問題が表面化していない場合には、設置自体が企業に重大なダメージを与えるのであるから、監査法人側が、「第三者委員会を設置しなければ監査意見を出さない」などと述べて設置を強要するようなことがあれば、それは、会計監査人としての権限の濫用である。

第三者委員会の設置をめぐる議論は、設置すべきとの意見が「正義」、設置への反対が「不正義」という単純な構図でとらえられやすいが、そのような単純化は危険である。第三者委員会の設置の是非についての検討や議論が不十分なまま、設置をめぐって役員同士が対立し、監査法人が介入したりすることで、混乱が拡大し、企業を深刻な事態に陥らせることになりかねない。

 

2 第三者委員会の委員長・委員の人選、調査体制の決定

第三者委員会の設置を決定するのが会社執行部である以上、委員長・委員の人選を行うのも会社執行部である。しかし、この点に関しては、いくつかの問題がある。

もともと、会社経営陣が自らの判断で第三者委員会の委員長・委員に適切な人物を選定することは困難である上、不祥事によって責任を問われかねない立場の会社経営陣が委員長・委員の人選に関わることは、第三者委員会の活動に疑念を生じさせる恐れがある。

そこで、顧問の弁護士や法律事務所が相談を受け、第三者委員会の委員等の選定に関わることがありうるが、会社との間で、訴訟の代理等を通して様々な利害関係がある顧問弁護士が委員等の人選に関わることは、第三者委員会の中立性・独立性という面で問題がないわけではない。

ここで重要なことは、第三者委員会の設置時や報告書の公表時など、第三者委員会について対外的な説明を行う際に、委員の選定について、どのような候補者の中から、どのような観点で行ったのかの説明責任が果たせるよう、適切なプロセスを経て決定することである。単に、「当社とは利害関係が全くない」というだけでは説明が十分とは言えない。

次に重要なのは、調査体制の決定である。第三者委員会の調査である以上、調査体制は、第三者委員会の設置後に、委員会が主導して決定すべきであることは言うまでもない。

第三者委員会が不祥事等についての事実調査を行うに当たって、調査補助者として、弁護士や公認会計士等を活用することが多い。この場合の、第三者委員会と実際に調査を実行するメンバーとの関係は、大きく分けて二通りが考えられる。

一つは、第三者委員会の委員長自らが中心となって調査を行うか、或いは、委員の一人を「調査担当」として指定し、その委員が中心となって、その下に調査チームを編成する方法である。私が関わった第三者委員会の中では、田辺三菱製薬のメドウェイ問題での特別調査委員会(2009年)は「委員長型」で、私が自ら調査を総括した。また、オリンパス監査検証委員会(2012年)では、「調査総括」として、弁護士チームによる調査を総括した。いずれの場合も、委員長、委員が調査を総括する立場なので、第三者委員会の責任と判断で調査が実行されることになる。

もう一つは、第三者委員会の外に調査体制を構築する方法である。私が関わった第三者委員会では、九州電力「やらせメール問題」第三者委員会が、その一つの例である。この問題では、玄海原発に関して、福島原発事故直後の再稼働に関して行われた「やらせメール」問題と、過去にプルサーマル導入をめぐる県民報告会で行われた「やらせ質問」等の問題という、いずれも九州電力が組織的に関与した「やらせ」問題が複数あり、その全貌を解明するため、それぞれについて、第三者委員会の外部に大規模な調査班を編成した。この場合、第三者委員会の責任者である委員長が、調査班の総括責任者と緊密な連絡をとり、調査状況を逐次把握し、指示を行う必要があることは言うまでもない。

問題は、「調査補助者」の選定である。本来、調査の主体は第三者委員会であり、第三者委員会が調査方針を決定し、必要に応じて調査補助者を選定し、委員会の方針に基づいて、調査補助者に具体的な調査を指示するということになるはずだが、顧問法律事務所主導で第三者委員会の設置が行われた場合などには、その関係が逆転する場合がある。企業が、まず、顧問事務所に相談し、問題の性質上、第三者委員会を設置せざるを得ないと判断した場合に、顧問事務所が第三者委員会の委員の選任も含めて段取りを整え、顧問事務所の弁護士が調査補助者として調査に加わるような事例もある。このようなやり方では、実質的に、企業と深い利害関係がある顧問事務所が主導して第三者委員会が設置されたことになり、中立性・独立性に疑念を生じることになる。

 

3 調査スコープ及び調査事項の決定

第三者委員会の調査事項については、依頼者の企業が第三者委員会に委嘱する事項がベースとなるが、それだけでは、発生した問題の根本原因や本質を明らかにするために十分ではなく、それ以外の事項を調査の対象にする、つまり、調査スコープを拡大すべきと判断することもあり得る。日弁連の第三者委員会ガイドラインでは、「第三者委員会は、企業等と協議の上、調査対象とする事実の範囲(調査スコープ)を 決定する」とされており、第三者委員会が主導権を持つべきとされている。

第三者委員会側の調査スコープを拡大することは、当該企業の経営に重大な影響を与える場合がある。それが典型的に表れたのが、2015年5月に設置された東芝の会計不祥事に関する第三者委員会であった。私は、同年7月に、その第三者委員会報告書が公表された後、様々な問題を指摘し、徹底批判していた(【「東芝不適切会計」第三者委員会報告書で深まる混迷】(プレジデントオンライン))。

東芝の第三者委員会の「枠組み」には根本的な疑問があり、意図的に問題の本質から目を背けようとしているとしか思えなかった。また、第三者委員会の報告書公表の直後に社長を辞任した田中久雄氏に代わって同社の社長に就任した室町正志氏は、会計不正の期間に取締役会長の地位にあったのに、社内に設置された特別調査委員会の委員長を務めただけでなく、第三者委員会報告書でも「関与がなかった」とされて責任追及を免れていた。

このような東芝の第三者委員会の内幕を暴露したのが、日経ビジネスによるスクープであった。同誌は、第三者委員会報告書公表以降、内部告発を募集するという異例の方法まで用いて東芝不正会計問題を徹底追及していたが、同年11月に、東芝が米国の原発子会社ウエスチングハウスでの巨額の減損を隠ぺいしていた事実を報道した。重要事実をいまだに隠ぺいしようとする東芝の姿勢は、他のマスコミにも厳しく批判され、東証が、開示基準違反を指摘するに至ったのに続き、同誌は、ネット記事で、【スクープ 東芝 減損隠し 第三者委と謀議 室町社長にもメール】と題する決定的な記事を配信した。

その記事には、第三者委員会発足前に、当時の田中社長、室町会長、法務部長等の東芝執行部が、原発子会社の減損問題を委員会への調査委嘱事項から外すことを画策するメールが掲載されていた。その東芝執行部の意向は、東芝の顧問の森・濱田松本法律事務所から、第三者委員会の委員の松井秀樹弁護士に伝えられ、結果的に、第三者委員会報告書では、原発事業をめぐる問題は調査事項から外された。

この報道で、東芝第三者委員会が、「日弁連の第三者委員会ガイドラインに準拠した中立・独立の委員会」とされていたのに、実質は、裏で会社側の意向どおりに動く「偽りの第三者委員会」であったことが明らかになった。本来、不祥事で信頼が失われた企業に代わって、信頼回復の役割を果たすべき第三者委員会によって、逆に東芝に対する社会的信頼の喪失が決定的なものとなってしまったのである。

日本を代表する伝統企業の東芝が、その後、第三者委員会も加担する形で隠蔽されていた「米国の原発子会社での巨額の減損」をめぐって一層深刻な事態に陥り、企業の存続すら危ぶまれる事態に陥っていったことは、記憶に新しいところだ。

もちろん、第三者委員会が、中立・独立の存在であることを振りかざして、その企業のあらゆる問題を掘り起こして、経営者を糾弾するような姿勢をとるのは、不祥事企業の信頼回復という設置目的とは真逆の行動である。しかし、第三者委員会は、当該企業の不祥事の根本原因を究明すべき立場にある。そのための調査スコープについては、中立かつ独立の立場から検討した上、会社執行部との間で十分な協議をする必要がある。東芝の第三者委員会としては、米国の原発子会社での巨額減損の問題は、絶対に目を背けてはならない問題だった。

 

4 調査手法をめぐる問題

第三者委員会の調査手法は、かつては、役職員等の関係者に対するヒアリングが中心で、それに関連して、情報を収集するための手段としての全従業員に対するアンケート調査、内部通報窓口を設置というのが一般的な方法だった。最近では、調査の手段としてデジタルフォレンジックや従業員に対する匿名アンケート調査が重要な手段となっているが、それぞれに問題点がある。

(1)責任追及の対象者のヒアリング

第三者委員会は、不祥事の事実を解明し、原因を究明することで、再発防止に向けての抜本的な対策を講じるという組織的対応を行うことを目的とするものであり、本来、責任追及を目的とするものではない。

しかし、比較的小規模な企業の不祥事のように、経営者等の特定の個人の関与の程度が大きい場合には、第三者委員会の調査結果如何では、個人的責任の追及につながる可能性が高い。この場合、第三者委員会の調査の対象となる個人としては、第三者委員会の調査への対応の結果如何では、その個人にとって重大な不利益が生じるリスクがあり、調査への対応について弁護士の関与が必要になることも考えられる。例えば、当該個人が選任した弁護士がヒアリングに同席するとか、資料の提出を当該弁護士を通じて行うことを条件に調査に応じる、ということもあり得る。

このような場合、個人の信用や名誉にも関わる問題について弁護士に相談し、その助言にしたがって対応すること、弁護士を対応窓口とすることは、調査対象者の正当な権利である。当該弁護士が調査妨害的行動をとったり、調査妨害を指示したなどの事情がない限り、第三者委員会側は、当然の権利行使として受け止めるべきであり、弁護士の関与自体を調査の制約要因のように扱うべきではない。むしろ、委員会と当該弁護士との間で十分に協議していくことが円滑かつ効率的な調査につながるはずである。

(2)デジタルフォレンジック

もともと、第三者委員会による調査は、任意の協力によるヒアリングが中心であり、不利益供述を引き出して事案の真相を解明する上で限界があった。それが、コンピュータやデジタル記録媒体の中に残されたデータを解析するデジタルフォレンジックによる客観的な資料の収集が可能となり、事実解明のレベルが全体として高まったことは間違いない。しかし、それに頼りすぎると、供述を軽視して、メールデータ等の外形的事実に偏りすぎた認定が行われるなどの弊害が生じる可能性もある。結局のところ、「何を考え、何を行ったのか」ということは、その当事者に聞かなければわからない。メールも、それを書いた趣旨や、目的によって、その意味は異なる。また、不正調査の手法としてデジタルフォレンジックという方法が定着すると、何らかの不正に関わる場合に、最終的にメールデータが証拠になることを意識したメール送信が行われる可能性もある。デジタルフォレンジックは、不正調査の有力な手段ではあるが、過信するのは危険である。

(3)従業員に対する匿名アンケート

また、最近では、第三者委員会が従業員に対する匿名アンケート調査を実施し、その回答を調査に活用している例が多い。しかし、匿名アンケートの回答は、ある意味「無責任な回答」であり、問題を把握するための手がかりにはなり得るが、それ自体を事実認定に用いるのは危険だ。

スルガ銀行のシェアハウス融資をめぐる不正についての第三者委員会の報告書で、営業プレッシャーに関して「数字ができないなら、ビルから飛び降りろといわれた。」「死んでも頑張りますに対し、それなら死んでみろと叱責された。」などの事実が赤裸々に記載され、マスコミでセンセーショナルに取り上げられたが、これらは殆どが匿名アンケートの回答だ。パワハラの事実をヒアリングで引き出すのは極めて困難で、匿名アンケートだからこそ、多くの回答が出てくると言える。しかし、あくまで「匿名」による回答であり、確認された事実ではない。これらの回答から、「パワハラ的環境が存在したこと」は窺われるとしても、それが、問題とされた不正とどう関係するのかはわからない。それを、委員会の調査結果の中心的事実のように記載することには疑問がある。

 

5 第三者委員会報告書の作成及び確定のプロセス

第三者委員会の中立性・独立性は、その調査が、委員会独自の判断で適切に行われることに加えて、調査結果に基づき、委員会のアウトプットとして公表される「第三者委員会報告書」が、依頼者側の介入を受けることなく、独立した判断で作成されその内容が確定することによって担保される。報告書の作成・確定のプロセスは、第三者委員会の中立性・独立性の核心と言える。

しかし、第三者委員会の報告書の内容は、依頼者側の企業や役職員、関係者個人の重大な利害に関わるものであり、一度公表されれば、世の中にも、また関係当局においても、当該不祥事等の事実関係について「真実」として取り扱われることになる。それだけに、報告書での事実認定の適示は慎重に行われなければならない。

第三者委員会の判断の独立性を確保するためには、報告書確定前は、依頼企業側には一切の情報を与えるべきではないという考え方もあり得る。しかし、その問題について最も多くの情報を有し、詳しく事情を知っている依頼企業側が全く関与せずに調査が行われ、報告書の内容が確定した場合、重大な誤謬や誤解を生じるリスクがある。第三者委員会の独立した判断と責任において報告書が作成されるという原則に反しない範囲で、依頼企業側が関与することは、むしろ必要なことと言える。

そういう意味で、少なくとも、客観的事実、前提事実について報告書の記載について形式的な誤りがないか否かの確認については、当該企業側のチェックを受けることは合理的な方法である。

また、当該不祥事の核心部分に関しても、第三者委員会の認定事実として報告書で公表することが依頼企業や役職員、関係者に重大な影響を与える事項については、報告書の確定前の段階で、当事者の企業側に第三者委員会の認定事実を提示し、意見を求めることが合理的な場合もある。

もちろん、報告書の確定前に、委員会が「報告書案」を提示し、その案に対して、企業側が意見や要望を述べる機会を与えたとしても、それは、その内容について「了解」を得るためものではない。あくまで、委員会が独自に判断するための材料としての意見を聞く機会を与えるに過ぎない。企業側が意見や指摘をしなかったとしても、企業側がその内容を受け入れたことになるものではないし、意見や指摘が行われたとしても、それを検討した上で、第三者委員会が採用しないこともあり得る。

第三者委員会の中立性・独立性の確保と、報告書の真実性の確保というのは、依頼企業の関与をどのような範囲で行わせるか、多くの場合、非常に困難なジレンマに直面することになる。第三者委員会側で委員長がリーダーシップを発揮し、両者のバランスを図ることが必要である。

 

6 第三者委員会の費用・報酬額

第三者委員会の委員長・委員、調査補助者の報酬に関しては、依頼者の企業から一切の指示も干渉も受けず、独立した立場で調査等を行う存在であることから、報酬額の決定に関して微妙な問題が生じる。

第三者委員会に関わる弁護士の報酬については、日弁連の第三者委員会ガイドラインにおいて、「弁護士である第三者委員会の委員及び調査担当弁護士に対する報酬は、時間制を原則とする」とされており、委員長・委員や調査補助者の弁護士については、業務を遂行するためにかかった「所要時間」に契約上定められた「1時間当たり報酬額」(単価)を乗じて報酬額を算定する時間制(タイムチャージ制)によって報酬を算定することが多い。

しかし、第三者委員会の報酬額を時間制で算定することには疑問がある。特に問題なのは、調査補助業務に関わる弁護士の数である。ヒアリングや会議に多数の弁護士が参加したとして、各自が「所要時間」を計上すると、それによって調査でかかる費用が、依頼企業の想定を超えた膨大な金額になるからである。

時間制は、弁護士の報酬請求において一般的に用いられる方法だ。しかし、通常の業務委託は、業務の内容について協議した上で行われ、請求金額が当初想定される範囲を超える場合には、改めて協議が行わる。同じ委託業務に要する時間は、弁護士の能力によって差があり、非効率な弁護士の業務にかかった時間を、すべて依頼者側に負担させることはできない。当該業務にいくら時間がかかったとしても、その時間に単価をかけた金額が、依頼者に理解されないような金額に上っている場合には、相当な金額になるよう所要時間を削減し、最終的な請求額を、当該業務の性格や内容に応じて相当な範囲に調整する場合が多い。時間制の報酬請求額の根拠となる「所要時間」については、依頼者側と業務を受託する弁護士の側との信頼関係の下で、相応の調整を行うのが一般的だ。

ところが、第三者委員会と委託者の企業との関係は、顧問弁護士とクライアント企業との関係とは異なり、依頼者の企業の指示に従うことなく、独立、中立の立場で、調査等を実施するのであり、企業側には第三者委員会の動きをコントロールできない。依頼者から独立した立場とされる第三者委員会は、いかなる方法でいかなる調査を行うのか、調査補助者にいかなる調査を行わせるのか、すべて決定する立場にある。調査スコープも、第三者委員会主導で、依頼企業と協議して決定する。このような立場にある委員会の委員長・委員の報酬を「時間制」で決めることにすると、自らの判断で調査範囲を拡大させれば、それによって、所要時間が増大し、報酬も増えることになってしまう。

「時間制」を原則とするとの上記のガイドラインも、「ハンコ代」的な報酬や、成功報酬型の報酬のような不適切な方法ではない算定方法として「時間制を原則」とするものだ。それは、注記で「委員の著名性を利用する『ハンコ代』的な報酬は不適切な場合が多い。成功報酬型の報酬体系も、企業等が期待する調査結果を導こうとする動機につながりうるので、不適切な場合が多い。」とされていることからも明らかだ。「時間制」が常に適切な報酬の算定方法だとしているわけではない。

委員長・委員の報酬算定については、委員会の設置期間、その間に予定されている委員会の回数、時間、調査への関与等を考慮して、「ハンコ代」と言われるような不当に高額ではない、相応の「定額報酬」とするのが適切だと思える。

私自身について言えば、過去、第三者委員会委員長を務めた際には、報酬は、月額100万円と決めていた。一つの委員会の活動に殆ど専念せざるを得ないような負担の大きい委員会においても、それは変えなかった。会社側との対立的な状況となった九州電力「やらせメール問題」第三者委員会では、会社側から「タイムチャージによる請求」を強く勧められたが、月額100万円を譲らなかった。独立した立場で会社側に対して厳正な調査を展開していくことで自らの報酬が増えるのはおかしいと考えたからである。

一方、調査補助者については、依頼者の企業との契約において、「職務の遂行に際しては、第三者委員会の指図のみに従う」などと定められるのが通例であり、依頼者からではなく、第三者委員会のみから指示を受け、その指示にしたがって調査業務を遂行すべき立場である。実際に、調査補助者がそのような立場なのであれば、時間制で報酬を算定すること自体に問題はない。しかし、その場合の各調査補助者の「所要時間」や報酬額は、当然のことながら、第三者委員会の設置目的や、委員会から調査補助者への「調査指示」に照らして合理的なものでなければならない。その点については、調査補助者が、「下請」であるとすれば、「元請」の立場にある第三者委員会側が責任を持つべきである。とりわけ、委員長は、委員会の事務を総括する立場として、調査補助者の報酬請求額について管理すべき責任がある。それは、第三者委員会の調査全体を適切かつ合理的なものとすることについての委員会の重要な職務の一つだと言えよう。

 

7 第三者委員会はどう在るべきか

7年前の今頃、私は、九州電力「やらせメール」問題の第三者委員会を題材として、企業不祥事における第三者委員会の役割、そのガバナンス上の重要性を【第三者委員会は企業を変えられるか~九州電力やらせメール問題の深層】(毎日新聞社:2012年)で論じた。そういう私にとって、「第三者委員会」の現状は、誠に残念である。

根本的な問題は、冒頭にも述べたように、日弁連の第三者委員会ガイドライン等で、ステークホルダーに対する説明責任を果たすという第三者委員会の「公益的目的」が強調され、一度第三者委員会が設置されると一切他者の介入を許されないような「聖域」のように扱われる一方で、第三者委員会と調査補助者の業務全体が、公益性からかけ離れた「第三者委員会ビジネス」と化していることである。今後、第三者委員会の在り方に関して、抜本的に検討していくことが必要だと考えられる。

(1)設置の是非の検討の段階

前記1で述べたように、問題が表面化しておらず、企業に対する批判が顕在化していない場合、第三者委員会を設置することは、企業に重大なダメージを生じさせることになりかねない。「株主・投資家に対して開示すべき重大な問題」が判明しているのか、当該問題について調査によって明らかにすべき「事実」があるのか、という観点から、慎重に判断する必要がある。特に、「重大な問題」と言えるかどうかは、単なる、違法性の有無の判断だけではなく、その問題が社会から、或いはマスコミからどのように評価され、批判されるか、株価にどのような影響を与えるのか、などについて的確な予想に基づいて判断する必要がある。その判断は、それまでの平時の企業経営の経験が中心で、不祥事対応についての経験やノウハウを持たない企業経営陣や取締役会メンバーが適切に行うことは極めて難しい。そこで、当該企業の顧問弁護士事務所等が相談を受けることになるが、一般的な弁護士業務とは性格を異にする不祥事対応について適切な助言を行うことは、企業の不祥事対応における「付加価値の高い業務」だと言える。

この場面で問題なのは、上記のような相談を受けた当該企業の顧問弁護士や法律事務所が、企業の対応に関して検討し助言する業務を受任した上で、第三者委員会の設置そのものにも関与することの是非である。

第三者委員会の設置の是非についての助言や、委員会の設置をサポートする業務を行った弁護士は当該第三者委員会に関する利害関係者なのであるから、第三者委員会の委員や調査補助者となることは適切ではない。ところが、実際には、相談を受けて助言を行った弁護士が、委員会のメンバーを推薦し、その上で自ら調査補助業務を受任するというような事例もある。そのような経緯で設置された第三者委員会には、委員会の調査の方向性や報告書の内容に重大な問題や疑念を生じさせることになる。

重要なことは、第三者委員会の設置の是非についての助言や委員会の設置をサポートする業務が、設置後の委員会の業務とは切り離され、その独自の付加価値が認められることである。

(2)「委員会中心主義」と委員長の職責の重要性

第三者委員会設置後、委員会は、依頼企業と協議して調査事項を特定し、調査補助者を選任するなどして調査体制を整備し、調査を実行し、調査報告書を取りまとめることになる。また、社会的に注目されている案件では、設置段階での記者会見を行い、設置の目的、調査事項、調査期間、調査体制等について説明を行うこと、調査報告書を提出し公表した段階での記者会見で、報告書の内容について説明することも必要になる。このような第三者委員会の活動すべてにおいて、「委員会中心主義」が貫かれなければならないのであり、前記6で述べたように、委員会の事務を総括する立場として、委員長の職責は極めて重要である。

問題は、このような「委員会中心主義」の下で、その能力・識見を備えた人材が委員長に選任されているとは必ずしも言えないことである。

第三者委員会の活動全般を運営する職責を担える委員長の能力・識見を適切に評価することと、その人材育成を図ることが重要だと言えよう。

(3)委員会の構成

最近の企業不祥事での第三者委員会では、弁護士だけで委員を構成する場合が多く、会計に関する問題の場合に公認会計士が加わる以外に、他の分野の専門家が委員に加わる例は少ない。

第三者委員会が、不祥事企業に代わってステークホルダーに対する説明責任を果たすことを目的とするものなのであれば、実施した調査や調査報告書の内容が、その説明責任を十分に果たしたものかを評価できる委員会の構成が必要となる。そのような観点からは、品質データ改ざん、検査不正、免震性能の偽装など、製品の品質・安全性に関わる問題であれば技術面の専門家、医療に関わる問題であれば医療の専門家というような、問題の性格に応じて専門家を委員に加え、委員会内での検討・議論を行うのが合理的だと考えられる(前述した九州電力の第三者委員会では、弁護士の私が委員長を務めたほかは、社会心理学専門と会社法専門の各大学教授、消費者問題専門家という4名の委員構成であった)。

(4)第三者委員会をめぐる弁護士会の動き

最近では、第三者委員会担当弁護士名簿を整備し、企業などの組織から第三者委員会の要請があった際に、適任者を紹介する制度を設置し、第三者委員会担当弁護士名簿への登録のために研修を義務づけるなど、弁護士会として、第三者委員会の設置に積極的に関わろうとする動きが見られる。

しかし、そのような義務研修と組み合わせた登録制が、本稿で述べたような第三者委員会をめぐる様々な問題に対応できる人材の養成と紹介につながるようには思えない。逆に、多くの弁護士に、第三者委員会に関連する業務の「弁護士にとっての旨味」を認識させ、弁護士業界における「第三者委員会のビジネス化」をますます助長しているように見える。

 

第三者委員会は、内部者中心の取締役会の構成など、従来からの日本的ガバナンスの下で、重大な不祥事への対応において必要な外部性・客観性を確保するための方法として定着してきた一つの「日本的システム」であり、法的根拠はないのに、その調査結果が社会的に尊重されるという特別の効果を生じさせるものである。しかし、第三者委員会の現状が、そのような効果を生じさせるに相応しい実体を備えたものと言えるか、甚だ疑問である。

このままでは、第三者委員会の「病理」はますます深刻化し、企業のみならず社会をも蝕むことになりかねない。

 

 

 

 

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業務上過失致死傷罪への“組織罰”導入で問われる山下新法相の真価

2018年10月26日、山下貴司法務大臣が、福知山線脱線事故、笹子トンネル事故等の重大事故の遺族を中心に結成されている「組織罰を実現する会」のメンバーと面談する。

山下氏の入閣は、総裁選で安倍首相と激しい戦いを繰り広げた石破派からの唯一の入閣であり、全体としては支持率上昇につながらなかった第4次安倍内閣組閣の中でも、国民からの好感度・期待が高い人事だ。それ以上に注目すべきは、山下大臣は、検察、法務省の豊富な実務経験を有する初めての法務大臣だということだ。

その山下新法務大臣が、業務上過失致死傷罪への両罰規定の導入という刑事司法にとって重要な問題に関して、重大事故の遺族の声に耳を傾けてくれたことで、就任早々の面談が実現した。

 

組織罰実現をめざす重大事故遺族の活動

私は、法務・検察の組織に23年間所属したが、その間、1999年から2001年まで、法務省法務総合研究所研究官を務めた際、2000年の犯罪白書では、特集で「経済犯罪」を初めて取り上げ、独禁法を中心に企業に対する処罰・制裁の在り方の総合的な研究をしたのが「企業犯罪研究会」だった。その頃、法務省刑事局付だった山下氏は、法人処罰も含めた企業に対する制裁の在り方の研究への理解者の一人だった。

企業活動に伴って発生する重大事故の問題に私が関わるようになったのは2005年検察から桐蔭横浜大学法科大学院に派遣され、コンプライアンス研究センターの活動を開始した頃からだ。その直後に発生したのが乗客106人の死者、500人以上の負傷者を出したJR西日本福知山線脱線事故だった。それ以降、重大事故の原因究明と責任追及の問題はコンプライアンス研究センターの重要なテーマの一つとなった。何回かシンポジウムも開催し、多くの重大事故の遺族の方々が参加され、率直な意見を聞くことができた。

2015年10月に、JR福知山線脱線事故の遺族が中心となって立ち上げた「組織罰を考える会」から、講演の要請を受けた。企業等の組織に、必要な安全対策を怠って事故を起こしたことの直接の責任を問う法制度の実現をめざす勉強会だった。そこで考えられていたのが、イギリスの「法人故殺罪」のように、法人企業の事業活動において人を死傷させる事故が発生した場合に、その「法人組織の行為」について「法人自体の責任」を追及する制度だった。

ところが、日本の刑事司法は、従来から、犯罪行為を行った自然人個人の処罰が中心で、法人に対する処罰は付随的なものだ。「法人組織の行為」を認めて、法人を刑事処罰の対象にすることは容易ではない。「組織罰を考える会」のめざす制度の実現は、現実的にかなり難しいことは否めなかった。

 

現実的な立法としての「業務上過失致死傷罪への両罰規定の導入」

しかし、肉親の死を無駄にしたくない、社会に活かしたいという遺族の思いを、何とかして受け止めたかった。重大事故についての法人処罰の在り方を私なりに改めて考えてみた。その結果たどり着いたのが、多くの特別法で認められている「両罰規定」を、法人の事業活動に伴って発生する業務上過失致死傷罪に導入する特別法の立法の提案だった。

両罰規定というのは、法人または人の業務に関して「犯罪行為」が行われたときに、その行為者を処罰するのに加えて、法人に対しても罰金刑を科す規定だ。

業務上過失致死傷罪に両罰規定を導入すれば、法人の役職員個人について業務上過失致死傷罪が成立する場合に、法人の刑事責任を問うことができる。「法人組織の行為」について法人の責任を問うという、それまで「組織罰を考える会」がめざしてきた方向とは異なるが、重大事故について、事業主の法人企業の刑事責任を問うことは、「組織罰」の導入として大きな第一歩となる。

しかも、現行法制でも広く認められている「両罰規定」の活用であれば、立法上の問題ははるかに少ない。刑法の改正は、法制審議会での議論等が必要となるが、刑法犯である業務上過失致死傷罪のうち、法人企業の事業活動で発生した事故に限定して「両罰規定」を導入する特別法を創設するのであれば、法制審議会の正式な手続は必ずしも必要とはならず、ハードルが低い。

 

刑事公判が、「法人企業の安全コンプライアンス」を評価する場に

そして、重要なことは、法人企業への罰金刑については、事故防止のための十分な措置をとっていたにもかかわらず回避困難な事情によって事故が発生したことを法人企業側が立証した場合には、免責されるということだ。刑法の大原則である「責任主義」の観点から、役職員の犯罪行為について法人を処罰するためには、法人の責任の根拠がなければならない。両罰規定では、「行為者に対する選任監督上の過失」が、法人の責任の根拠とされてきた。その立証責任は、処罰を免れようとする法人側が負うこととされ、法人側が「選任監督上の過失がなかったこと」を主張立証しない限り、罰金刑を免れることはできない。

法人企業の業務に関して発生した事故で、法人を業務上過失致死傷罪で処罰するとすれば、「選任・監督上の過失」に相当するものとして考えられるのが「事故防止のための措置義務違反」だ。法人企業が、義務を十分に尽くしていたこと、回避困難な事情があったことを立証できれば、免責されることになる。法人企業に対する罰金の上限が、経営規模に見合うだけの水準に設定されれば、刑事責任を免れようとする法人企業は、事故防止のために十分な措置を講じていたことの立証が必要となる。万が一の事故が発生した場合、その立証を行うためには、企業が日常的に事故防止のための安全対策を十分に行うことが必要となり、事故防止にも大きく貢献することになる。

業務上過失致死傷罪に両罰規定を導入する特別法の条文案を作った上で、「組織罰を考える会」での講演に臨み、「組織罰導入」の方向性を「両罰規定の導入」の方向に転換することを提案した。刑法の理論面にも関わる事柄だったが、多くの遺族の方々が真剣に耳を傾けてくれ、賛同が得られた。それ以降、会の活動は、この「両罰規定」の導入を目指す方向に向かっていった。

2016年4月、「組織罰を考える会」が発展した形で「組織罰を実現する会」が設立され、福知山線脱線事故の遺族の大森重美会長を中心に、「重大事故での加害企業への組織罰の導入」をめざす様々な活動が行われてきた。そして、それが、今回の山下新法務大臣との面会につながった。

 

重大事故遺族の心情の理解を

重大事故遺族がめざす「組織罰」の問題に向き合うためには、遺族の複雑な心情を理解する必要がある。

これまで、多くの重大事故で、刑事事件は不起訴となるか、起訴されても無罪に終わっている。企業活動に関して発生した事故で刑事責任を追及することは難しい。しかし、重大事故で肉親を失った遺族は、加害者の処罰、責任追及を強く求めてきた。それはなぜなのか。

第1に、「肉親の命が突然奪われたこと」に対して、その重大性に応じた社会の対応を求める気持ちである。その端的な方法が「加害者を処罰すること」であり、それが行われないことに対する強い違和感・抵抗感がある。しかし、仮に、加害者側が処罰されたとしても、遺族の思いはそれによって充たされるものではない。殺人事件の犯人に対するような恨み・憎しみとは異なる。以前、あるシンポジウムで、刑事法学者が、事故の刑事責任追及の目的の一つは「加害者の処罰によって社会を沈静化させることだ」と説明したところ、遺族のアンケート回答に「法を扱う方の中に、責任追及をするから社会が沈静化され、被害者・遺族が納得するなどという考え方があることを知り、悲しくなりました。」という言葉があった。「処罰してやれば文句ないだろう」「処罰のため最大限の努力をしているから理解しろ」という刑事司法関係者の考え方は、逆に、遺族の心情を傷つけるものなのだ。刑事処罰を求めることを通して、肉親の死を社会が忘れないようにしてほしい、というのが遺族の心情なのだ。

第2に、事故の真相究明を求める気持ちだ。そこには、「自分の肉親が亡くなった経過を知りたい。何がどうなって亡くなったのか、事故の状況を知りたい。」という切なる願いと、事故の真相解明によって、原因が究明され、事故の再発が防止されることで、失われた肉親の命を社会に役立てたいという思いがある。

しかし、加害者の刑事処罰が事故の真相の解明・究明につながるのかというと、実際には、そうではない。

一般的には、複雑な事故の過失犯の処罰は、事故の再発防止にはつながらない。厳罰化は、関係者から供述を得ることを困難にし、証拠が隠滅されるおそれもある。また、起訴されても、刑事事件の裁判で事故の真相が明らかになるのかと言えば、必ずしもそうではない。典型的な例が福知山線脱線事故だ。刑事裁判で問われた過失は「事故の8年前に、山崎元社長が鉄道本部長だったときに、ATSを設置すべきだった。」というもので、刑事裁判での争点は、事故の8年前における企業の措置の適否だった。実際の事故の場面が裁判で明らかになったわけではなかった。

むしろ、事故の原因調査のための体制や権限の充実を通して、遺族にも納得してもらえるよう、事故調査のプロセスと調査結果の透明化を図っていくというのが合理的な考え方であり、そのためには、事故原因の真相解明に最も近い立場にある加害企業が、積極的に関わることが不可欠だと言える。

重大事故の遺族の心情は、加害者の処罰への欲求と、真相解明の要請とが、ある面では相反しつつ、複雑に絡み合っている。そういう遺族の複雑な心情を理解した上で、加害者の処罰に関する法制度を検討していく必要がある。

 

過去の重大事故で「両罰規定による法人処罰」は可能か

では、業務上過失致死傷罪に対する両罰規定が設けられていた場合、過去の重大事故について法人企業を処罰することができただろうか。

まず、福知山線の脱線事故については、運転手は既に死亡しているが、事故の状況は事故調査報告書によって明らかになっている。「車掌との電話に気を取られ、急カーブの手前で減速義務を怠った」ということが立証できれば、運転手についての業務上過失致死傷罪の成立は立証できる可能性が高い。問題は、そういう運転手の過失による事故を防止するために、JR西日本が十分な安全対策をとっていたと言えるのかだ。その点について、JR西日本側が立証し、事故防止のための措置が十分だったと認められないと、JR西日本に対して有罪判決が言い渡されることになる。

2016年の軽井沢のバス転落事故の例では、運転手が排気ブレーキをかけることなく加速して、制限速度を大幅に超過した状態で下り坂カーブに突っ込めば、横転し、大破して乗客が死亡することを予見できた。適切にギアを入れたり、ブレーキを踏むなどして事故を回避することができたという前提で考えれば、死亡した運転手についての業務上過失致死傷罪の立証は可能だと思われる。それについて、会社側がどのような対策を講じていたのかが問題になるが、十分な対策を講じていなかったことは明らかであり、会社が有罪となる可能性が高い。

一方、2012年に起きた笹子トンネルの事故のように、組織としての企業には安全対策の不備が指摘されていても、行為者個人の過失を特定して、人の死傷という結果が生じたこととの因果関係を立証することが困難な事故については、両罰規定による法人企業の処罰は容易ではない。

しかし、一定の範囲に限られるものであっても、重大事故の刑事裁判で法人企業の刑事責任が問われ、企業の側が事故防止に向けての措置を立証することになれば、企業の事故防止コンプライアンスを刑事裁判の俎上に載せることができる。社会全体が、企業活動に伴う重大事故の防止に向き合っていく一つの契機になるのではないか。

それは、事故で失われたかけがえのない肉親の命を社会に活かしてもらいたいと心から願い、街頭署名活動まで行って「組織罰の実現」をめざす遺族の思いに応えるものなのではなかろうか。

 

日本の法人処罰のブレイクスルーとなるか

業務上過失致死傷罪に両罰規定を設ける立法が行われることで、重大事故についての法人処罰が導入され、企業の事故防止に向けての措置・対策が十分であったことを立証した場合に法人が免責されることになれば、法人企業の事故防止に向けてのコンプライアンスが、刑事裁判で具体的に評価・判断されることになる。それは、検察の立証の限界から企業活動の実態を反映させることが難しかった従来の刑事裁判を、企業活動のリアリティに沿ったものに転換させていくことにもつながる。

一方で、今年6月施行の刑訴法改正で導入された「日本版司法取引」(捜査公判協力型協議合意制度)に関しても「法人処罰」は動き始めている。初適用事案となった、タイの発電所建設事業をめぐる不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)事件では、三菱日立パワーシステムズと東京地検特捜部との間で「犯罪を実行した役職員の捜査に協力する見返りに、法人としての同社に対する刑事処罰を免れさせる合意」が行われた。この事例では、法人が積極的に内部調査を行って自社の役職員が行った犯罪事実を明らかにし、その結果に基づいて捜査当局に協力する「コンプライアンス対応」が法人の刑事責任の軽減・免除に値すると評価された。それは、「法人の事後的なコンプライアンス対応」という面から、法人自体の責任を独立して評価するものだ。

自然人個人に対する道義的責任が中心の日本の刑事司法では、これまで、法人処罰はあまり注目されて来なかった。それを大きく変えることになり得るのが、業務上過失致死傷罪への両罰規定の導入と、日本版司法取引による法人企業の免責だ。重大事故に至るまでの法人企業の事故防止コンプライアンスへの取組みを評価して法人の刑事責任の減免を決するという「事前のコンプライアンス」評価と、役職員による犯罪の疑いを発見した企業による内部調査の徹底という「事後のコンプライアンス」の評価の両面から法人の刑事処罰が判断されることになれば、刑事司法における法人処罰の位置づけは、これまでとは全く異なったものとなる。企業のコンプライアンスの実質的評価が刑事実務として定着することで、日本の「経済司法」のレベルを大きく向上せることにもつながるであろう。

 

「組織罰の実現」を求め活動を続ける重大事故遺族の思いに応えることができるか。日本の法人処罰に画期的なブレイクスルーをもたらすことができるか。検察実務にも、刑事立法実務にも精通した山下新法務大臣の真価が問われている。

 

 

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甘利氏「石破氏への苦言」への”国民的違和感”

9月20日に行われた自民党総裁選は、安倍晋三総理の勝利に終わったが、対抗馬の石破茂元幹事長が、50票程度と見られていた国会議員票では73票、さらに地方票では45%を獲得し、予想外の「大善戦」となった。

総裁選の結果が明らかになった日の夜、安倍陣営の「選対事務総長」を務めた甘利明氏が、BS日テレの番組に出演した際の発言の内容が、「自民党・甘利氏が石破氏に苦言を呈す」と題するネットニュースで報じられていた。甘利氏は、「近くで専門家として石破さんを評価できるのは国会議員です」などと発言し、石破氏に対する評価については、国会議員票の数が重要で、党員・党友による地方票で45%近くの得票をしたことは重要ではないかのような発言をしたというのである。

そこで私は、次のようなツイートをした。

私のツイートは、急速に拡散され、3日経過した現時点で、リツイートが7700、「いいね」が8700を超えている。ツイートへの返信が220に上っているが、2、3件の例外を除き、すべて「同意」「賛同」と、「この人がまだ政治家をやっていていいのか?」「逃げ回ってる印象」「ほんと最低ですね。」というような甘利氏への批判で埋め尽くされている。

一方で、甘利氏を擁護する返信は殆どない。

一件だけ、私のツイートの直後、「病気なんだから、休んでもいいではないか」という趣旨の返信があったが、私が、すかさず、「睡眠障害で会社を休めますか?『男の生き様』とまで言うのであれば、潔く議員も辞職するか、堂々と国会に出てくるか、どちらかではないですか?」と反論したところ、そのツイートはすぐに削除され、それ以降、甘利擁護ツイートは全く入らなくなった。

ツイッターで、「甘利明」を検索すると、ほかにも、同様の甘利氏への批判ツイートが並でおり、それぞれ多数リツイートされ、同意見の返信を集めている。このようなツイッター上の反応の原因となっているのは、2年余り前のURの土地買収をめぐる「あっせん利得疑惑」の中身、そして、それに対する甘利氏の「政治家としての対応」である。その問題に何の説明責任も果たすことなく、何事もなかったように表舞台に出てきて、圧倒的に劣勢が予想された総裁選で安倍首相と真っ向から戦った石破氏に「苦言」を呈している甘利氏に、多くの国民が強い「違和感」を覚えているのである。

 

週刊文春による「絵に描いたようなあっせん利得」の報道

2016年1月21日発売の週刊文春が、当時、経済財政担当大臣だった甘利氏の、「UR都市機構」の土地売却への「口利き」をめぐる金銭授受の問題を報じた。

大臣室で、業者から、URとの補償交渉についての相談や依頼を受けて対応し、その場で現金を受領したという信じ難い事実である。甘利氏が自らと秘書の金銭受領を認めたこと、その直後に、UR側が、甘利事務所との12回にわたる接触を認めたことで、この件が「あっせん利得罪」等の犯罪に該当するのではないかが現実の問題となった。

甘利氏は、1月28日に行った記者会見で、大臣室での50万円を含め合計100万円の自らの現金受領と、秘書が500万円を受領したことを認めた上、大臣を辞任した。「口利き」の依頼者側が、面談や金銭授受の場面を録音していると報じられたことから、その録音記録に反しない範囲で最大限自己に有利な説明をしようとしたが、どうしても現金授受は否定できなかったということであろう。

大臣室で、業者から、URとの補償交渉についての相談や依頼を受けて対応し、その場で現金を受領したというのであるから大臣辞任は当然である。甘利氏が自らと秘書の金銭受領を認めたこと、その直後に、UR側が、甘利事務所との12回にわたる接触を認めたことで、私は、甘利氏をめぐる問題を、「絵に描いたようなあっせん利得」と表現した(【甘利大臣、「絵に描いたようなあっせん利得」をどう説明するのか】)。

 

「睡眠障害」による国会欠席と検察による全面不起訴処分

甘利氏は、大臣辞任の記者会見以降、公の場には一切姿を見せず、国会も欠席し、2月16日の衆院議院運営委員会理事会では、「睡眠障害で1カ月間の自宅療養が必要」との診断書を提出。診断書には15日付で「ストレスを避けて安静にするように」とも書かれていた(2016.2.16付時事)。同年6月1日の通常国会閉会まで4ヵ月にわたって国会を欠席し続けた。

記者会見の場では、「元東京地検特捜部の検事である弁護士」が秘書や経理担当者などの関係者から直接聴取し、関連資料等を確認された結果、とりまとめられた報告書があるとし、「URへの口利き」も「金額交渉への介入」も否定した上で、秘書が、S社側から政治献金として現金を受領しながら一部を使い込んでしまったり、多数回にわたって現金を受領したり、飲食の接待を受けていたことなどについて、「秘書が疑惑を招いていることについての監督責任をとって辞任する」と説明していた。

私は、この時点から、甘利氏が説明しているとおり、「元特捜検事の弁護士による調査」が行われているのか、そもそもそのような弁護士が存在しているのか疑問があると指摘した(【甘利氏疑惑調査の「元特捜弁護士」は、本当に存在するのか】)。

甘利問題、検察が捜査着手を躊躇する理由はない】で詳細に述べたように、URに関連のある閣僚ポストも経験した与党の有力議員としての甘利氏とURとの関係が、「議員としての権限に基づく影響力」の背景になっていると見ることが可能であり、甘利氏本人と秘書がS社側から多額の金銭を受領した事実を認めているのであるから、「議員の権限に基づく影響力を行使した」あっせん利得罪が成立する可能性は十分にある事案だった。

しかし、弁護士団体の告発を受けて、東京地検特捜部が、この事件の捜査を行ったものの、UR側への家宅捜索を形だけ行っただけで、肝心の甘利氏の事務所への強制捜査も、秘書の逮捕等の本格的な捜査は行われることなく、国会の会期終了の前日の5月31日、甘利氏と元秘書2人を不起訴処分(嫌疑不十分)とした。

そして、甘利氏は、6月6日、政治活動再開を宣言し、神奈川県大和市の事務所の前で、記者の質問に答えた。その際のやり取りを、産経ネットニュースが報じている【甘利元経済再生相会見詳報(上)

 --国会で一切説明責任を果たさないまま活動を再開することに対する後ろめたさは?

「大臣会見の時にごらんになったと思うが、私に関する調査は丁寧に弁護士さんにやっていただいたわけであります。それは発表させていただきました。それ以降についても調査を再開してほしいと。調査というのは私が直接やるわけではないです。客観性のために第三者がやりますので、それを続けていただきました。これは、捜査の支障をきたすおそれがあるということで一時中断をしましたと、私に連絡がありました。これは私にはどうしようもありません。捜査当局の判断が出ましたので、続けて再開していただきたいとお願いした次第であります」

--国会の場で説明したいというのは?

「どういう形で説明をしようか、それは今後国会関係者、弁護士と相談して、必ず責任は果たしていきたいと思っています」

 

検察の不起訴処分と甘利氏の対応についての重大な疑問

甘利氏は、同年9月14日、自民党本部で、突然、記者会見し、事務所の口利きと現金授受問題について、弁護士による独自調査の結果、「捜査機関と異なる結論を導く事実は見当たらなかった」と説明した。しかし、元秘書2人や事務所関係者から聴取したという、調査を担当した弁護士名は明らかにされず、調査報告書も公表されず、「検察の判断と同じ」という結果が示されただけで、僅か10分で終了した。

これに対しては、【甘利氏の説明 不誠実な態度に驚く】(朝日)【甘利氏の政治責任 調査報告書の公表が欠かせない】(愛媛新聞)、【現金授受問題甘利氏会見 「不誠実」「幕引きか】などと多くの新聞の社説で批判の声が上がった。しかし、結局、甘利氏は、「調査結果」を明らかにすることはなく、「国会の場での説明」も行われなかった。

URの道路用地買収をめぐる「口利き」疑惑に関して、大臣室で関係者から直接現金を受領したことまで認めながら、それについての「説明責任」を果たしたとは到底言えない甘利氏が、総裁選が終わった直後に、「専門家たる国会議員」としては「石破氏は評価できない」などというようなことを公言している。そういう甘利氏の姿勢への強い違和感が、私の上記ツイートへの反応につながったということであろう。

甘利氏側の言い分は、①検察によって全面的に不起訴になったので「違法ではなかったこと」が明らかになった。②その後の衆院選挙(2017年10月)で、「みそぎ」を済ませた、ということかもしれない。

しかし、①について言えば、【特捜検察にとって”屈辱的敗北”に終わった甘利事件】で詳しく述べたように、「起訴できない理由」に関してマスコミで報じられた「検察の非公式説明」は不合理極まりないものであり、実際に、検察審査会への審査申立の結果「不起訴不当」の議決が出されるなど、「国民の目」からは到底納得できないものとされたが、検察は再捜査の結果、再度、強引に不起訴としている。しかも、国会閉会の前日に、公訴時効までまだ十分に期間がある容疑事実についても、丸ごと不起訴にしてしまうなど、方針は最初から決まっていて、不起訴のスケジュールについて、政治的配慮したように思える。法と証拠に基づいて検察が公正に判断した結果とは到底思えない。

また、②については、甘利氏は、政治活動再開の際に約束していた「元東京地検特捜部の検事である弁護士」による調査結果の具体的内容も明らかにせず、何の説明も行っていないのであるから、衆議院選挙において、その問題について有権者の判断を受けたとは言えない。

また、甘利氏が、大臣辞任後、「睡眠障害」の診断書を提出して、4ヵ月にもわたって国会を欠席したことについても、甘利氏の「不眠症」が「睡眠障害」という「病気」と診断されるような症状だったのかには疑問がある。

日本睡眠学会「睡眠障害の基礎知識」I.睡眠異常 A.不眠症の定義では、「睡眠障害」としての「不眠症」について、次のような診断基準が書かれている。

夜間中々入眠出来ず寝つくのに普段より2時間以上かかる入眠障害、一旦寝ついても夜中に目が醒め易く2回以上目が醒める中間覚醒、朝起きたときにぐっすり眠った感じの得られない熟眠障害、朝普段よりも2時間以上早く目が醒めてしまう早朝覚醒などの訴えのどれかがあること。 そしてこの様な不眠の訴えがしばしば見られ(週2回以上)、かつ少なくとも1ヵ月間は持続すること。不眠のため自らが苦痛を感じるか、社会生活または職業的機能が妨げられること。などの全てを満たすことが必要です。

なお精神的なストレスや身体的苦痛のため一時的に夜間良く眠れない状態は、生理学的反応としての不眠ではありますが不眠症とは言いません。

甘利氏の場合、週刊文春で疑惑が報じられたのが1月21日、文春側の取材で、その動きがわかったのが18日頃だ。診断書が作成された2月15日の1ヵ月前の1月15日頃は、スイスで開かれるダボス会議に出席する方針を明らかにするなど「元気いっぱい」だった。その頃から、上記の診断基準のような症状で悩んでいたとは思えない。大臣辞任会見後の甘利氏は、「不眠症とは言いません」とされている「精神的なストレスや身体的苦痛のため一時的に夜間良く眠れない状態」に過ぎなかったのではないかとの「合理的な推測」が可能だ。

 

甘利氏が、安倍政権の要職に就くことが今後の政局に与える影響

甘利氏は、URの土地買収をめぐり秘書が多額の金銭を受け取り、自らも大臣室で現金を受け取ったという、過去の政治家には殆ど例がない問題が明らかになっているのに、秘書も含め、強制捜査の対象にすらならず、「すべて不起訴」で終わった。極めて疑わしい「睡眠障害」の診断書で4ヵ月も国会を欠席し、公の場に姿を現わさず、不起訴処分となるや、直後に政治活動再開を宣言して、弁護士調査の結果の公表、説明責任を果たすことを約束したのに、それも果たさなかった。

甘利氏が政治家としてどのような実績を上げてきたとしても、URの土地買収をめぐる「口利き」疑惑に関して行ってきたことは、少なくとも国民の目線からすると、“政治家として最低”である。そういう甘利氏が、僅か2年余り後の自民党総裁選で、安倍陣営の選対事務総長という立場で堂々と表舞台に出てきて、国会議員票は少数だったものの党員・党友票では互角の票を集めて善戦した石破氏に対して、「政治家として評価できない」などと「苦言」を呈しているのである。そういう「自民党内での政治家としての評価」は、健全な国民の常識からは全く理解し難いものである。

甘利氏は、第一次安倍政権からの安倍首相の「盟友」であるだけでなく、安倍内閣を支える副総理・財務大臣で、財務省の決裁文書改ざんという前代未聞の不祥事でも辞職させられなかった麻生氏ともかねてから関係が深い。そういう意味で、「安倍一強体制」の下で、「権力に極めて近い関係にある政治家」である。だからこそ、重大な疑惑で大臣辞任した後、国会を欠席して姿を隠し、ろくに説明責任すら果たさないまま政治の表舞台に復帰するという非常識な対応が許されるのではないか。それは、森友・加計学園で、安倍首相ないし昭恵夫人と「親密な関係」にある人物が「厚遇を受ける」ことに対して、誰も異を唱えられず、「忖度」せざるを得なかった構図と全く同じである。

総裁選の党員票での「圧勝」は、選対の中心となった甘利氏などによる石破氏やその支持者への強烈な圧力の「成果」である。一方で、石破氏が地方票の45%を得票したことは、安倍一強体制による傲慢な政権運営への批判、森友・加計学園問題での首相と親密な関係にある者に対する「不当な優遇」への批判が、自民党員の中でも根強いことを示している。

安倍首相が、党員票での「圧勝」の論功行賞として、甘利氏の入閣あるいは党の要職への起用を行って「厚遇」し、一方で、「安倍一強」と堂々と戦った石破氏やその支持者を「冷遇」していくとすれば、国民は、森友・加計学園問題での批判にもかかわらず、全く悔い改めることのない安倍政権の傲慢さを、改めて強く感じることとなるだろう。

ロッキード事件をめぐる受託収賄罪で1972年に逮捕・起訴され有罪判決を受けた佐藤孝行衆議院議員は、1997年9月に発足した第2次橋本改造内閣で初入閣を果たしたが、世論の批判が収まらず、わずか12日間で辞任した。その後、橋本内閣は支持率も低迷し、さらには翌1998年の第18回参議院議員通常選挙で自民党は惨敗した。

有罪確定、執行猶予期間満了から10年以上を経過した収賄前科の問題と、検察で不起訴になった「口利き」「現金授受」疑惑についての説明責任の問題という違いはあるが、登用することへの国民からの「反発」「違和感」が政治情勢に与える影響という面では、参考にすべき事例と言えるだろう。

 

甘利氏への処遇は、議員票での「圧勝」と、党員票での石破氏の「善戦」を、安倍首相自身がどうみるかを反映したものになるだろう。検察の不起訴処分だけを盾に政治家としての説明責任を回避してきた甘利氏を総裁選後の人事でどう処遇するかに、安倍首相の組閣・党幹部人事への姿勢が問われていると言える。その判断如何では、来年7月の参議院選挙での第一次安倍政権下での「07年参院選惨敗」の悪夢の再来、安倍長期政権の「末期症状」化につながっていく可能性もある。

 

 

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スルガ銀行不正“ブリンカー社員化”の構図 ~問題の本質は「顧客本位の営業」の視点欠落

競馬のレースでは、競走馬に、ブリンカー(遮眼帯)を着用させることがある。

それは、馬の視野を制限するための馬具であり、着用することで、およそ350度の視野を持つ馬の真横や後方の視野を遮ることになる。凡走を繰り返していた馬が、ブリンカーを着用して出走した途端、前に向かって走ることに集中できるからか、馬が変わったように好走をすることがある。

9月7日に公表されたスルガ銀行不正融資についての第三者委員会報告書に描かれた同銀行の社員達の姿に、私は、ブリンカーを装着されて走る競走馬の姿を重ね合わせていた。

「不当行為の銀行全体への蔓延」と「本件の構図」

第三者委員会報告書は、融資先顧客の自己資金確認資料等の改ざん、シェアハウス等の賃料の不当高値設定、フリーローンや定期積金等の抱き合わせ販売などの、不正・不適切行為が、組織的で、長期間に渡るものであったこと、関与した支店等の数、関与した行員の人数、知っていて黙認していた行員の人数、不正等があった融資等の取引件数、不正等の期間等、いずれの点からも、不正・不当行為等が銀行全体に広範囲に蔓延していたことを指摘している。

そして、このような組織的不正を招いた「本件の構図」に関して、以下のように述べている。

経営トップ層は、持株比率や創業家の権力を背景に、全体としてのスルガ銀行は完全に支配していたが、他方、現場の営業部門は強力な営業推進力を有する者、しかも従業員クラスに任せ、その者には厳しく営業の数字を上げることを要求し、人事は数字次第となっていた。 一方で経営層自らは執行の現場に深入りせず、幾重もの情報断絶の溝を構築していた。 このような仕組みは、客観的に評価するならば、業績向上のために、執行の現場は強力に営業推進する者をトップにして自由にやらせるが、それは経営層が自ら手を汚すのではなく、少々営業部門が逸脱あるいはやり過ぎることにも目をつぶる(経営層にはそういう情報は入らない)、という態勢を採ってきたといわれてもしようがない。そこに情報の断絶を作り、営業部門を放任したので、社内でもその範囲で営業本部長は大きな権限を持ったように見える。しかし実際には権限を有しているのは経営トップであり、営業本部長・パーソナル・バンク長も経営層のそのような意図の下で数字を上げることに奔走していたに過ぎない。 他方で社内の従業員達は、このような状況を熟知しているから、営業部門の暴走は経営層の黙示の支持を背景にしたものだと理解するであろうし、そうであれば営業部門の各種の不正行為を見てもそれを上司に報告したり、ましてや内部通報等する気には全くならなかったであろう。経営層の暗黙の了解の下であれば、通報などしてもそれが報われることはあり得ないからである。だからいろいろな問題がしばしば起こっていたのに誰も声を出してアピールしようとはしなかったし、「お客さまの声」も営業に差し障りのないものしか報告しなかったし、内部監査部門も本気で不正を摘発するような深い監査行為は行わなかったということに合点がいく。更にいえば、他部門の従業員達も、実はパーソナル・バンク部門が数字を達成することでそれに依存している関係であり、批判する立場でもなかったのであろう。

経営トップ層の業績向上の目標設定、営業数字を上げることへの過大な要求が、不正・不適切行為を行ってでも営業成績を上げようとする営業部門の暴走を招き、それを認識している周囲の社員達も、経営トップの方針の実現のために行われているものと考えて、見て見ぬふりをしたというのである。

スルガ銀行の社員達は、経営トップの方針どおりに業績を向上させること以外には目が向かなかった。そのために必要なことなのであれば、とにかく「やるしかない」ということであり、それに疑問を持つことにも、問題を指摘することも、無意味なことのように思えていた。そして、そういうことを考える姿勢もなくなっていった。

それは、「前に向かって走ること」の方にばかり集中させられる、まさに「ブリンカーを付けられた競走馬」のような状態だったと言えるのである。

不正・不適切行為は、銀行に「損害」を与えたのか

第三者委員会報告書は、ヒアリング、アンケート、フォレンジック調査等の結果に基づき、不正の実態と構図を精緻に分析し、「会社のためにも、顧客のためにもならない不正」という問題の本質に迫ろうとしているようにも見える。しかし、そこには今回の不正・不適切行為が、どのような社会の要請に反したのか、誰にどのような損害を与えたのか、という「重要な視点」が欠落しているように思える。

報告書では、「第3編 発生した問題」の冒頭に

スルガ銀行は、シェアハウスローンに関して、2018 年 3 月期に、42,049 百万円の貸倒引当金を計上した。また、シェアハウス以外の投資用不動産関連融資についても、関係する不動産業者等の属性や長期サブリースなど、シェアハウスローンと類似のリスクが あることから、16,226 百万円(推計)の貸倒引当金を計上した。

と書かれているだけで、一連の不正・不適切行為が、シェアハウス融資の顧客側にどのような被害・損害を生じさせたかについての言及はない。つまり、今回の問題は、「スルガ銀行に貸倒引当金相当の損失を与えた問題」と捉えられているのである。

「第4 統制環境(企業風土)の問題」では、「会社のためではなかったこと/顧客のためでもなかったこと」と、二つを同列に並べた上、以下のように述べている。

自己資金確認資料等の改ざんを銀行員が主導したり、それを知りながら黙認して融資申請をしたりすることが、行内の諸規程・融資条件等に違反する行為であることは、行員は誰もが知っている。

また銀行から見ても、虚偽の資料により、賃料や物件価格の評価を不当に高くしたり、融資先債務者の自己資金や収入を不当に高く見せることは、銀行の信用リスクを過大にするものであり(それも銀行の認識に反して)、個々の融資において不適切な信用リスクを取らせ、銀行に損害を与える行為である。またスマートライフ等のシェアハウス企画業者・サブリース業者の信用力を適切に評価しないで、またシェアハウスローンのビジネスモデルとしての永続性の欠如を無視して多数のサブリースを伴う融資をすることは、銀行に多大なリスクを負わせることになる。実際、銀行は、2018年3 月期にシェアハウ スローンだけで 420 億円に及ぶ多額の損失を計上することになった。もちろん投資家にとっても、信用力のない事業者によるサブリース契約に依存し、あるいは市場相場より高額な不動産の購入により、サブリース業者の破綻や空室率の上昇、物件の処分等の事態となったときに大きな損失が発生することが予見される。

以上の通り、今回の不正行為等は、最終的には銀行、融資先、シェアハウス事業者等にとって、いずれもリスクが高く、特に銀行にとっては不測の損失を蒙る性質のものであり、しかもそのビジネスモデルからして永続性がないものである。

結局、これらの不正行為等に関わった銀行員は、銀行のためでもなく、顧客や取引先等のためでもなく、自己の刹那的な営業成績のため(逆に成績が上がらない場合に上司 から受ける精神的プレッシャーの回避のため)、これらを行ったものと評価される。

決して、違法性があるかどうか分からなかったとか、会社の利益のためになると思ってやったなどというものではない。

ここで「会社のためにならない」理由とされているのは、要するに「銀行の信用リスクを過大にする」ということである。そして、今回、「シェアハウスローンによる420 億円に及ぶ多額の損失」でそれが現実化したというのである。

しかし、このようなスルガ銀行の「損失」だけで、今回の一連の不正・不適切行為は、「会社のためではなかったこと/顧客のためでもなかったこと」などと、二つが同列に扱われるべき問題ということになるのだろうか。そもそも、現状で、銀行の計算上の損益という面で考えた時、「会社のためではなかった」と言えるのか。それらの行為に関わっていたスルガ銀行の社員は、「会社のためにならない」と認識しつつ、そのような行為を行っていたと言えるのだろうか。

個人向け融資による「損害」とは

事業者向けの融資で、融資先の属性や資産・負債、収益等を偽って融資を実行した場合、事業者が返済不能に陥れば融資回収が不能となるので、直接的に銀行に損害が発生することになる。しかし、個人向けの融資の場合、社会的地位のある個人が債務者であれば、自己破産しない限り返済を続けるのが一般的なので、その個人の属性や預金額等を偽っていたとしても、融資の回収にただちに問題が生じるわけでない。そういう意味で、社会的地位のある人間に対する「個人向け融資」というのは、事業者向け融資と比較して、もともと、回収不能のリスクが低い。

スルガ銀行は、そういう個人向け融資の割合を増やすことで、地銀の中では突出して高収益を誇ってきた。2018年3月期の業務粗利益は、約1150億円に上っている。そして、第三者委員会報告書によると、スルガ銀行のシェアハウス関連融資は、2013年頃から本格的に始まり、2016年3月期には融資残高が960億円、2018年3月期には融資残高が2000億円を超えている。

スルガ銀行は、シェアハウス関連融資で、合計で約420億円の貸倒引当金を計上したと言っても、個人向けのローンなどで、債務者が自己破産しない限りすべて回収不能になるわけではない。見込みどおりの家賃収入が入らなくても、債務者自身が返済を続ける限り、銀行側の損失にはならない。また、引当金の金額は、融資残高の4分の1強であり、他の融資より相当程度金利が高いことを考えると、シェアハウス関連融資全体としては、今回の不正・不適切行為の問題によってスルガ銀行に直接発生する回収不能等の損失より、これまで融資によって得てきた収益と融資による今後得られる収益の合計の方が多いのではなかろうか。

確かに、今回の不正発覚による社会的信頼の失墜で、スルガ銀行の株価は年初の5分の1に下落し、個人向け融資が大半を占めるビジネスモデルが継続できなくなると、銀行の存続自体も危ない。しかし、不正を行っていた段階で、このような事態が予測できただろうか。

そのように考えると、不正・不適切行為まで行って、シェアハウス融資を拡大しようとしたスルガ銀行社員達は、「会社のためにならない」と思いつつ、そのような行為に手を染め、あるいは黙認したのではなく、「(顧客の利益は害しても)会社の業績にとってはプラスになる」と考えたからこそ、不正が組織的に広範囲に行われ、また、社内から、それに反発する声や、問題にする声が上がらなかったのではなかろうか。

顧客が被った甚大な損害

一方、サブリース業者スマートデイズが運営する「かぼちゃの馬車」などのシェアハウスに投資していた顧客の損害は甚大だ。1億円を超える負債を抱えている人も多数いるとされており、シェアハウスの賃料収入が入ってこないことになると、全て自分の稼ぎで返済せざるを得なくなる。

このように考えると、今回のスルガ銀行の不正・不適切融資による実質的な被害は、現状では、圧倒的に顧客の側に生じることになる。もっとも、もし、今回の不正・不適切融資に対する社会的批判が高まり、改ざん、偽装などを伴う融資について債権放棄等に応じざるを得なくなった場合は、債務者側の損失が軽減される一方、スルガ銀行の損失が一気に膨らむことになる。

そういう意味では、スルガ銀行のシェアハウス関連融資をめぐる不正・不適切行為については、誰にどのような損失を生じさせたのか、という点が、現時点では、まだ明確になっていないのである。

それを意識しているからか、第三者委員会報告書では、不正・不適切行為が、顧客の投資判断にどのような影響を与えたのか、顧客にどれだけの損害を与えたのか、という点に関する記述はほとんどない。

不正・不適切行為が「顧客の損失」につながったことについて言及すればするほど、顧客側からの債権放棄や損害賠償の要求が高まり、第三者委員会報告書によって銀行の損失が拡大することになる。そのような事情を考慮し、スルガ銀行から委託された第三者委員会としては、不正・不適切行為が「銀行に与えた損失」を記述することにとどめ、銀行だけの問題として自己完結せざるを得なかったのではなかろうか。

経営トップの法的責任追及には限界

第三者委員会報告書は、今回シェアハウス関連融資をめぐる問題について、「かつて例がないほど不適切な行為が蔓延した事案であり、会社に大きな経済的損失をもたらし、各ステークホルダーにも大きな影響を及ぼした」として、問題の重大性を指摘しているが、その一方で、「役員の法的責任を判断する上では、本事案は非常に複雑な事案と言わざるを得ない」とした上、岡野会長については、前記の「本件の構図」の仕組みを構築したことについて法的責任を問うことは困難であるとし、法的責任としての善管注意義務違反は、シェアハウス運営会社のサクトが破綻したことでスルガ銀行がリスクを把握した後の、「2017年7月5日の社内会議以降」に限定している。米山社長にも、同時点以降の善管注意義務違反しか問えないとしている。法的責任が同時点以降に限定されるのであれば、賠償責任が生じるとしても、あまり大きな金額にはなりようがない。経営トップの責任について厳しい指摘を期待していたマスコミにとっては、やや期待外れの内容とも言える。

しかし、第三者委員会報告書で問題にしている「法的責任」が、スルガ銀行に対するものである以上、責任のレベルがその程度にとどまることも、ある意味では当然だと言えよう。そもそも、今回の不正・不適切行為によってスルガ銀行が被る損害は、現時点ではっきりしているのは決して大きな金額ではなく、法的には、経営に深刻な打撃を与えると言い切れるわけではないのである。

問題の本質は「顧客本位の銀行営業」に反したこと

今回の問題では、融資先顧客の自己資金確認資料等の改ざん、シェアハウス等の賃料の不当高値設定などの多数の不正が行われたが、それらは、投資する顧客や運営業者側が、改ざん等の不正で銀行側を騙して融資を受けるためのものではなく、銀行側が、融資判断をするための書類に不正な記載をすることに積極的に関わり、それによって「過剰融資」を行ったというものだ。

銀行の融資先には、企業と個人とがある。企業も大企業であれば破綻による融資の回収不能の恐れは低いが、中小零細企業であれば、破綻のリスクも大きく、財務状況、経営状況を十分に把握した上で融資判断を行う必要がある。それに対して、個人向け融資は、前述したように、社会的地位のある人間であれば、自己破産したり、所在不明になったりすることもあまりないので、回収不能となる可能性は低い。しかし、通常は、事業者ではない個人が、住宅購入以外で大きな資金を必要とすることは多くはなく、融資の金額は限られている。小口の個人向けの融資の場合、かけるコストに見合う金利収入を得ることは一般的には容易ではない。

個人向け融資の場合、回収不能の可能性は低いものの、融資規模が限られるというネックがあるわけだが、逆に、その個人が、多額の投資をし、その資金を融資することができれば、回収不能のリスクを回避しつつ、多くの金利収入を得ることができることになる。

しかし、投資の経験のない個人が多額の投資を行う場合、その事業の収益性・安全性等については、慎重な検討が必要だ。個人向けに多額の融資を行う場合、個人の資産・収入によって銀行側の回収不能のリスクを判断すればよいのではない。その投資が、本当の顧客のためになるものなのか、ということを顧客の立場に立って考えなければならない。銀行が、その義務に反して、個人向けに過剰融資を行うと、銀行ではなく、顧客に甚大な損害を与えることになるからである。

今回のスルガ銀行の問題の本質は、銀行全体に、「顧客本位の銀行営業」という観点が欠落していたことにあると言うべきだ。

金融庁は、金融モニタリングの基本方針として「顧客本位の業務運営」(フィデューシャリー・デューティー)を打ち出している。一般投資家に対して金融商品等による投資運用の勧誘を行い、その受託手数料を収入源とする証券会社等にとって、極めて重要な原則となっている。それは、個人の投資のための大口融資で金利収入を得ようとする銀行にとっても同様にあてはまる。その個人顧客の投資判断について、「顧客本位の銀行営業」を徹底する必要があるのである。

コンシュルジュの視野を遮った「ブリンカー」

スルガ銀行は、2000年に「コンシェルジュ宣言」を公表し、

スルガ銀行が社会から期待されている役割は、人生やビジネスのあらゆるシーンで、「本当にお客さまのお役に立てる存在=コンシェルジュ」になることであると自覚している

とし、その実現のために企業思想・企業理 念・経営理念から構成される「Our Philosophy(私たちの価値観)」を制定した(第三者委員会報告書11頁)。

個人向け市場に特化するビジネスモデルを採用したスルガ銀行の融資は、現在では、個人向けが9割を超えている。そうした中で、上記の経営理念を実現するためには、スルガ銀行の個人向け融資は、どこの銀行よりも、「顧客本位の営業」でなければならなかったはずだ。

ところが、シェアハウス融資に関して、スルガ銀行が行っていたことは、その「融資先」である個人の返済確実性を頼りに、収入・資産についての重要な情報であり、まさに顧客本位で投資への助言を行う際の重要な情報である「自己資金の残高を証明する通帳」について偽造・改ざんまで行い、投資判断の前提となる賃貸不動産のレントロールを水増しして、収益性を実際より良く見せかけることだったのである。

シェアハウス融資でスルガ銀行社員が行っていたことは、「顧客本位の営業」とは真逆の、「顧客を食い物にする銀行営業」そのものであった。

今回の第三者委員会報告書には、スルガ銀行がシェアハウス融資で行っていたことが、上記のような経営理念に反し、「顧客本位の営業」という姿勢が完全に欠落していたとの指摘はない。今回の問題を「銀行経営」の視点から評価するものに過ぎない。「社会の要請に応える」というコンプライアンスの観点からの調査・原因究明は行われていない。

融資の拡大、業績向上に爆走する彼らは、まさにブリンカーを付けられて走る競走馬そのものだった。本来、コンシュルジュたるスルガ銀行の社員達が常に視線を向けなければならない「顧客」に向けての視野は、ブリンカーによって完全に遮られていたのである。

今回のスルガ銀行の問題を通して、350度の視野という「馬の目」を持って、自らの組織に向けられている広範な要請をしっかり受け止めることの重要性を、改めて認識すべきであろう。

 

 

 

 

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“国循事件の不正義”が社会に及ぼす重大な悪影響 ~不祥事の反省・教訓を捨て去ろうとしている検察

大阪地検特捜部が、国立循環器病研究センター(以下、「国循」)の元医療情報部長の桑田成規氏を逮捕・起訴した「国循事件」、今年3月16日に大阪地裁で言い渡された有罪判決(懲役2年、執行猶予4年)に対して桑田氏が控訴し、大阪高裁での控訴審に舞台が移った。この事件の弁護を7月に受任、主任弁護人として控訴趣意書作成に取り組んできたが、8月13日、大阪高裁に控訴趣意書を提出した。

「国循官製談合事件」とも言われているが、この事件で問題になったのは「談合」ではない。国循の情報システムの運用保守業務の入札に関して、従来から業務を独占してきたN社と新規参入業者のD社とが争いとなった際、発注者側の「情報提供」や「仕様書の作成」が、D社に有利にN社等を不利にするものだとして、いわゆる官製談合等防止法(正確には、「入札談合等関与行為の排除及び防止並びに職員による入札等の公正を害すべき行為の処罰に関する法律」)の「入札等の公正を害すべき行為」に該当するとされた事件だ。

桑田氏自身とその支援者たちが「冤罪」であることを切々と訴えてきた【国循サザン事件―0.1%の真実―】と題するブログ等でも、一審判決後、久々のブログ更新で、控訴趣意書提出を報告している。

もっとも、桑田氏の事件の「冤罪」は、事件と無関係な人間が犯人とされて巻き込まれるという一般的な「冤罪」とは全く構図が違う。高度な技術を要する情報システムをめぐる発注の中で起きた事件であるだけに、「冤罪」の構造は複雑だ。

桑田氏自身もブログ等で発信し続けてきた事件の構図を大まかに振り返ってみよう。

 

医療情報学の専門家として大規模医療機関で活躍していた桑田氏

桑田氏は、医療情報学の専門家だ。2003年から2011年にかけて、鳥取大学医学部講師兼医療情報部副部長として勤務し、電子カルテシステムの開発管理保守で実績を挙げた。その後、同年3月に大阪大学の准教授となったが、上司の教授から、当時、電子カルテの導入が難航していた国循の医療情報部長への就任を打診された。大阪大学に戻ったばかりで、しばらくは研究のキャリアを積みたいと考えていた桑田氏は逡巡したが、国循での電子カルテの導入は自分でなければできない、との使命感から、就任を受諾し、2011年9月から、国循での病院情報システムや、職員間のネットワークの運用責任者の業務に就いた。

就任直後から、桑田氏は、病院情報システムへの電子カルテの導入に精力的に取り組み、2012年1月には、その構築を成し遂げた。しかも、桑田氏が導入した電子カルテのシステムは、病院で電子カルテに蓄積された診療データを、セキュリティを保ちながら研究所の臨床研究にも利用できるようするなど画期的なもので、仮想化システムを活用した「4階層ネットワーク」の構築は、厚労省の独立行政法人評価委員会において高い評価を受けた。

桑田氏は、国循全体の職員間のネットワークシステムの運用にも関わった。桑田氏が医療情報部長に就任するまで、国循の情報システムに関する業務はN社がほぼ独占し、高い価格で、非効率な業務が行われていた。情報システムに関する発注では、業務の内容を熟知している既存業者が圧倒的に優位な立場にあるので、競争条件を対等にし、新規参入を可能にするためには、新規参入業者への情報開示と、発注条件に対する業者側からの意見・質問への応答を義務付ける「意見招請手続」などが重要だったが、国循では、それらが行われておらず、情報ネットワークを担当していた桑田氏の前任者や、発注手続を担当する契約係も、N社の独占による「ぬるま湯」的状態に甘んじていた。

桑田氏の着任以降は、桑田氏が、鳥取大学時代から、情報システム業者として高く評価していたD社が、国循の情報システム業務に参入し、N社の独占の牙城を崩していった。その結果、業務は大幅に効率化され、費用も大きく低減された。

 

大阪地検特捜部の強制捜査着手

こうして、国循にとって懸案であった電子カルテが導入され、情報システムをめぐる状況が劇的に改善されるに至ったのだが、それを根底から否定する動きとなったのが、2014年2月の大阪地検特捜部の国循への強制捜査着手だった。その容疑事実は、「桑田氏と契約係が共謀してD社に予定価格を漏洩した」という、いわゆる官製談合防止法違反、公契約関係競売入札妨害罪だった。

“入札価格の漏洩の競売入札妨害罪を「入り口事件」にして強制捜査に着手し、贈収賄事件の立件を狙う”、というのは、昔から、警察の捜査2課等が、土建屋談合・贈収賄事件で用いてきた「使い古された捜査手法」だった。それを、高度の技術を要する複雑な大規模医療機関の情報システムの問題で使おうとしたことに、検察捜査の根本的な誤りがあった。

ここで前提とされていたのは、①桑田氏とD社との「癒着」、②桑田氏が国循の情報システムの発注においてD社を不当に有利に取り扱った「不正」の2つだった。

特捜部がこのような狙いで捜査に着手することとなった背景に、桑田氏が国循医療情報部長に就任して以降、国循からの大型の情報システム受注を次々と失うことになったN社やその関係業者側の不満・反発があった。N社は、平成24年度にD社にネットワーク関連業務の受注を奪われた後、25年度の入札で、関係業者S社に参加を打診し、それを受けたS社は原価を無視した過度な安値で落札して強引に受注を図ったものの(いわゆるダンピング行為)、国循が「履行能力調査」を行ったために受注断念に追い込まれていた。実際に、一審公判の中の証人尋問で、S社の担当社員が、社内で、「こいつら(D社)、国循のK部長を潰さないとダメなのではないか」というメールのやり取りをしたり、早くから特捜部に協力したりしていたことが明らかになっている。

 

特捜捜査の目論見は外れ、官製談合防止法での強制捜査の「暴挙」へ

その後の捜査で、特捜部は、①の「癒着」を徹底して炙り出そうと、桑田氏とD社との金銭的関係や飲食等を徹底的に洗ったが、完全に「的外れ」だった。桑田氏とD社の関係は、桑田氏がD社を「情報システム業者として技術的にもレベルが高く、誠実に仕事をする業者」と評価し、国循の業務でもD社を活用した、ということだけであり、それ以上でも以下でもなかった。桑田氏とD社との間には、「癒着関係」など全くなかった。

しかし、②の「不正」の方は単純ではなかった。官製談合防止法は、2000年以降の談合批判の高まりを受けて、2002年に議員立法で制定されたもので、もともと刑事罰則を設けていなかったが、旧日本道路公団等、相次ぐ官製談合事件を受けて、2006年に再び議員立法により改正され、発注者側の公務員等に対する罰則が盛り込まれたものだった。

「反公共工事」を旗印にしていた当時の民主党が中心となった議員立法だったこともあり、発注者側の職員に対して、徹底して「談合関与」の排除を求めるものだった。「入札等の公正を害すべき行為」という曖昧な要件で、いきなり公務員側に重い罰則が適用されることになったため、談合とは関係ない行為までもが、特定の業者との「癒着」とは無関係に、広範囲に処罰の対象とされることになった。通常は、そういう行為は、行政内部での措置や人事上の対応で済ます程度のものであり、警察送致や告発で刑事事件にされ、間違って刑事事件として取り上げられても、「起訴猶予」で終わるのが当然であった。しかし、それを敢えて刑事立件して起訴するという「暴挙」も、起訴権限を持つ検察がやろうと思えばできないことではない。

国循への強制捜査は、大々的に報じられていたこともあって、特捜部は、後には引けなかったのであろう、国循の情報システムの発注に関して、桑田氏がD社に情報提供した行為や、仕様書案への条項の盛り込みなどを、官製談合防止法に違反する「入札等の公正を害する行為」として無理矢理立件し、桑田氏とD社の社長を逮捕・起訴したのである。

桑田氏が、情報システムを劇的に改善させ、大きな成果を挙げた国循の内部者の立場や感情も、特捜部の無理筋の捜査の助けとなった。桑田氏の前任者にとっては、桑田氏が国循で大きな成果を挙げたことは、それまでの自らの仕事が否定されたようなもので、決して快く思ってはいなかった。それどころか、N社の独占に手を貸していた自分の仕事を「正当化」するためには、検察が、桑田氏のやり方を「D社を有利にし、N社を不当に不利にするものだ」と見てくれることは、望むところだったはずだ。国際協定で義務づけられた意見招請手続も行わず、「ぬるま湯」的な発注を放置していた契約係も、桑田氏が就任した以降のことが「当然のこと」であれば、自分達がやっていたことが「不公正」となってしまう。契約係にも、検察捜査に最大限協力する動機があった。

桑田氏は、起訴事実をすべて争い、全面無罪を主張した。公判では、35回の期日、延べ14人の証人尋問、被告人質問10回、審理は2年近くに及んだ。

 

「最大の攻撃防禦ライン」がもたらしたもの

こうした中、検察側・弁護側の最大の攻撃防禦ラインとなったのが、「桑田氏が、D社に送付した体制表について、どのような認識を持っていたのか」という点だった。実際に桑田氏がD社に送付した資料は、N社が平成24年度入札の競争参加資格審査のために提出していた体制表だったことは客観的事実だった。それについて、桑田氏は、「その年度の体制表(現行体制表)だと思ってD社側に送ったもので、N社が入札のために提出した資料とは知らなかった」と一貫して供述していた。

この点が、桑田氏の行為について犯罪の成否に関する最大の争点とされ、攻撃防御の主戦場となった。しかし、犯罪の成否と、その犯罪が、刑事事件として処罰すべきものなのかということとは異なる。特に、官製談合防止法については、上記のような制定経緯から、入札等をめぐる不公正な行為を防止するため発注者側の行為が広く対象とされている。通常は刑事処罰の対象には全くなり得ない行為であっても、形式上は「入札等の公正を害すべき行為」に該当する余地がある。

桑田氏がD社に送付した目的は、「その時点で業務を行っている業者だけが知り得る情報を、新規参入業者にも提供することで、入札参加者間の公平で対等な競争条件を確保すること」だった。それによって、入札での競争機能が高まると考えたからだった。それは、N社の独占の下、競争が機能せず、非効率な情報システムが放置されてきた状況を抜本的に変えるためだった。D社の利益を図るためではないことは明らかだった。

しかし、そのような目的であっても、入札参加者の1社への情報提供となると、形式上、違反・犯罪に当たる可能性がある。

もし、送付の際、体制表が現行のものだと思っていたとしても、契約担当者を通じて正規の手続で情報提供したものではない以上、D社への情報提供は、それが入札のために提出した資料であろうと、前年度の体制表であろうと、官製談合防止法違反が禁ずる「入札等の公正を害すべき行為」に該当する可能性は、ある。

そういう意味では、業務体制表をD社に送った際に、「N社が入札のために提出した資料」との認識が桑田氏にあったのかどうかは、本来、重要な争点ではなかった。

しかし、「N社が入札のために提出した資料のD社への送付」であることを犯罪成立の根拠として強調する検察と、それを真っ向から否定する桑田氏や弁護側という対立構図のために、一審公判では、その点が検察官と弁護側との激しい攻防ラインとなった。

それは、検察にとっては好都合な展開だった。もともと、「認識の立証」というのは、刑事事件の立証の中で、検察が得意技にしているものだ。国循の契約担当者などの証言で、現行体制表との認識で送付したとの桑田氏の供述を否定することは、困難ではなかった。

桑田氏とD社との「癒着」や、その利益を図ったことなど、本来、刑事処罰にすべき理由を何一つ立証できなかった検察は、体制表についての「認識」の立証だけは、優位に立つことができた。

結局、一審判決では、「N社が入札のために提出した資料ではなく現行体制表だと思ってD社側に送った」という桑田氏の供述の信用性が否定され、それに伴って、「D社の利益を図ったものではない」という桑田氏の供述全体も否定され、他の公訴事実についても、「D社の利益に、他の業者に不利になるようにした」との認定から「ドミノ倒し」的に、全面有罪の判断につながった。

一審判決は、弁護側の主張のほとんどを退け、公訴事実すべてについて有罪。判決文は、検察論告の要約に等しいものだった。

以上が、大阪地検特捜部の捜査着手から、一審有罪判決に至るまでの桑田氏の「冤罪」の経緯だ。

 

桑田氏の行為のどこに「犯罪性」があるのか

そもそも、桑田氏を捜査の対象とし、逮捕・起訴して、2年もの時間と膨大なコストをかけて、有罪に追い込もうとしている検察のどこに「正義」があるのだろうか。

桑田氏は、極めて有能な医療情報学の専門家である。その能力を最大限に活かし、鳥取大学医学部での電子カルテシステム構築で大きな成果を挙げ、電子カルテ導入が難航していた国循の医療情報部長として、めざましい成果を挙げた。まさに、大規模医療機関において多くの患者の生命と健康のために、医療情報システムが確実に機能するよう最大限の努力を行い、成果を挙げてきた。その過程で、入札手続に関して、仮に、官製談合防止法への「形式的違反」があったとしても、それは、D社という特定の業者の利益を図ったものではなく、D社からの見返りを期待したものでもない。単に、独占受注に胡坐をかいていたN社側の「不当な利益」を失わせただけだ。それが、果たして刑事事件として取り上げるべき問題なのか。世の中の様々な法令違反の行為の中から、健全な社会常識に基づいて、「処罰すべき行為」を刑事事件として取り上げて事件化するのが、検察、とりわけ、特捜部の役割ではないのか。

一審論告で、検察官は、単に「被告人桑田が有罪だ」と主張するだけで、その悪情状を何一つ指摘できていなかった。

それどころか、「被告人桑田の動機」について、以下のように述べて、「懲役2年」を求刑した。

D社の能力を評価していた被告人桑田において、優秀な業者が落札できるようにして、国循の情報システムをより良いものにしたいという動機に出たものであったとしても、それが各犯行を正当化する理由にならないことは当然である。

しかし、一体何が「当然」なのであろうか。桑田氏の行為は単なる「手続上の問題」に過ぎない。形式上法令違反に当たるとしても、検察官の処分としては、「起訴猶予」が当然だ。

一審判決は、その検察官の主張を「丸呑み」し、執行猶予付きとは言え、「懲役2年」という、全く理解し難い量刑の判決を言い渡したのだ。

 

検察は不祥事の反省も教訓もすべて捨て去った

国循事件は、かつて2010年に無罪判決が出され、証拠改ざん問題も発覚して厳しい社会的批判を浴びた「村木事件」以降に、大阪地検特捜部が初めて手掛けた「本格的検察独自捜査」だった。しかし、その事件で、検察が行ったことの不当性、社会を害する程度は、「村木事件」にも匹敵する、というのが控訴趣意書の作成を終えた私の率直な印象だ。

村木事件は、「証拠」の問題であり、「事実」の問題だった。そこに、大阪地検特捜部の重大な「見込み違い」があり、不当な捜査の末、証拠改ざんという問題まで起きた。一方、国循事件の問題は、贈収賄事件の立件を目論み、それに失敗した特捜部が、健全な常識を備えていれば、凡そ刑事事件にすべきではないとわかるはずの問題を、無理矢理刑事事件に仕立て上げたことにある。不当な起訴に対して組織的なチェックが働かなかったばかりでなく、2年にもわたる審理に膨大なコストをかけた挙句、懲役2年を求刑し、一審裁判所が、それに盲従した。そもそも、検察組織内部で、「何を刑事事件にすべきか」、「何が悪いのか」について最低限の常識が働いていれば、このようなことは起こり得なかった

一方で、東京地検特捜部も、「リニア談合事件」で、日本の社会資本整備に壊滅的打撃を与えていることは当ブログでも取り上げてきた(【リニア談合捜査「特捜・関東軍の暴走」が止まらない】など)。両特捜部に共通するのは、検察改革で強調された「引き返す勇気」など屁とも思っていないということである。

奇しくも、国循事件の控訴趣意書の作成が佳境を迎えている頃、法務・検察の姿勢を示す「ある事象」に気づいた。

取調べの録音・録画の証拠としての取扱いが重要な争点となった「栃木小1女児殺害事件」の控訴審判決が8月3日東京高裁で言い渡された。その際、「検察の在り方検討会議」で、取調べの録音録画を直接証拠として用いることについての議論をしたことを思い出した。「検察の在り方検討会議」は、2010年、大阪地検不祥事からの信頼回復のため、法務大臣の下に設置された会議だった。委員として会議に加わっていた私は、「取調べの可視化は不当な取調べ抑止のための手段である。録音・録画を直接証拠として用いることは、本来、公判廷の被告人質問で行うべきことを、密室の取調べで、弁護人の立会なしで行うことになりかねない。」という意見を述べた。最近、いくつかの事件で、録音・録画の直接証拠化の是非が重要な問題となっているのだ。

当時の議論の内容を確認しようと、法務省のホームページを見たところ、1年ほど前には、議事録、資料全てが掲載されていた「検察の在り方検討会議」の頁から、最終提言以外が全て削除されていた。法務省での他の会議については、全て議事録・資料が掲載されているのに。

法務・検察当局は、大阪地検特捜部をめぐる不祥事も、それを受けて法務大臣の下に設置された「検察の在り方検討会議」も、全て「なかったことにしたい」ということなのであろう。

結局、特捜検察は何一つ変わっていない。一連の検察不祥事の反省・教訓も、「引き返す勇気」を強調した「検察改革」も、全て捨て去り、「おぞましい権力機関」として蘇ろうとしている特捜検察、それが、社会にとって、どれ程危険なことかを痛感させられるのが、今回の「国循事件」だ。

一審で証言台に立った、京都大学医学部附属病院医療情報企画部長の黒田知宏教授は、今回の事件について、

普通にやってそれが罪に問われるというのであれば、この業界で働く方は、本当にいなくなる可能性がある。

と述べている。

今回の国循事件のような「不正義」がまかり通るのであれば、情報システムの世界のみならず、それを基盤として営まれている社会全体にも、重大かつ深刻な悪影響を及ぼすことになりかねない。

健全な常識からは考えられない検察官の不当な起訴に対して、一審大阪地裁では行わなかった“正当な司法判断”が、大阪高裁の控訴審で下されることを期待し、桑田氏の主任弁護人としての活動を続けていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

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「日本版司法取引初適用事例」への“2つの違和感” ~法人処罰をめぐる議論の契機となる可能性

タイの発電所建設事業をめぐる不正競争防止法違反(外国公務員への贈賄)事件で、事業を受注した「三菱日立パワーシステムズ」(MHPS)と、捜査している東京地検特捜部との間で、法人の刑事責任を免れる見返りに、不正に関与した社員への捜査に協力する司法取引(協議・合意)が成立し、今年6月に施行された刑訴法改正で導入された「日本版司法取引」(捜査公判協力型協議合意制度)の初適用事件になったと報じられている。

MHPSは、三菱重工業と日立製作所の火力発電事業部門が統合し2014年2月に設立した会社であり、事業を受注したのは、統合前の三菱重工業だったとのことだ。

「日本版司法取引」は、検察官と被疑者・被告人およびその弁護人が協議し、被疑者・被告人が「他人」の刑事事件の捜査・公判に協力するのと引換えに、自分の事件を不起訴または軽い求刑にしてもらうことなどを合意するものだ。

導入の目的については、「組織犯罪の末端の関与者に刑事責任の軽減の恩典を与えることで、組織の上位者の犯罪について供述しやすくすること」と説明されてきた。ところが、その初適用事例が、「外国公務員贈賄」という犯罪に関して、事業上の利益を得る「会社」が免責されるのと引き換えに、犯罪行為に関わった「社員」の刑事責任を追及する方向での「取引合意」だった。「想定とは逆」であることに、違和感が生じるのも当然と言えよう。

今回の事例には、二つの面で違和感を持たざるを得ない。

 

法人免責が「取引合意」の対象となったことへの「違和感」

第一の「違和感」は、MHPSと検察官との間で、「法人」の刑事責任を免れることと引き換えに、贈賄行為に関わった「社員」が刑事処罰されることに協力するという「合意」が行われたことだ。

日本での法人処罰は、刑法以外の法律の罰則に設けられた「両罰規定」に基づいて行われる。

両罰規定とは、「法人の役職員が、その業務に関して、違反行為を行ったときは、行為者を罰するほか、法人に対しても各本条の罰金刑を科する」という規定に基づき、行為者個人だけではなく、法人も処罰されるというものだ。

この「法人の処罰」は、法人の役職員が法人の業務に関して犯罪を行った場合に、法人にも刑事責任を問うもので、行為者の責任とは別個のものと考えられている。理論上は、法人にとって、その役職員の刑事事件を「他人の刑事事件」ととらえることは可能だ。

しかし、その前提は、あくまで、行為者の役職員「個人」について犯罪が成立する、ということであり、アメリカのように、行為者が不特定のままでも「法人の行為」について犯罪成立を認め、法人を処罰するというのではない。

自然人個人に対する「道義的非難」が中心の日本の刑事司法では、「意思も肉体も持たない抽象的存在」の「法人」に対する処罰は、重要視されてはこなかった。日本法での法人処罰は、法人の役職員個人について犯罪が成立することを前提に、副次的に行われるものに過ぎず、法人に対する罰金の上限も、3億円から5億円程度にとどまっている(昔は個人の上限と同じ500万円程度だったが、90年代から、独禁法等でようやく「行為者個人と法人との罰金額の上限の切り離し」が行われ、数億円への引き上げが進められていった)。法人に対して数百億円、時には数千億円もの罰金が科されることもある米国などとは大きく異なる。今回問題になっている「外国公務員贈賄」の不正競争防止法違反の法人に対する法定刑の上限も3億円に過ぎない。

「法人処罰」を、行為者個人の処罰とは独立したものと位置付けるのであれば、当然、その責任の根拠も異なるはずである。従来の見解では、法人の責任の根拠は、行為者に対する選任監督上の過失とされてきたが、実際に、行為者の犯罪行為が認められた場合に、法人については選任監督上の過失がないとして免責された例はほとんどない。実際には、両罰規定がある罰則によって役職員が処罰されると、ほぼ自動的に法人も処罰されてきたのである。

つまり、「個人処罰」中心の考え方の日本法による「法人処罰」は、独立した制裁としての位置づけが十分なものではなく、それ自体の制裁機能も、決して十分なものではなかった。

「司法取引」によって処罰が軽減されることの理由は、他人の犯罪への捜査・公判に協力することで、その責任が軽減されるということであろう。「法人」としてのMHPSが捜査・公判に協力することで法人の責任が軽減され、一方で行為者「個人」が処罰されるというのであれば、MHPSの捜査・公判への協力を、「法人自体の責任を軽減する要素」として評価したことになる。そのような「法人固有の責任の評価」は、少なくとも、これまでの法人処罰では、ほとんど行われて来なかった。

このような日本法による「法人処罰」の実情からは、法人の処罰を免れることと引き換えに、行為者たる役職員「個人」の刑事責任の追及に協力する「取引合意」が成立するというのは、想定し難いことだった。

しかし、今回の件は「両罰規定によって処罰され得る『法人』」が、役職員「個人」の処罰に協力することの見返りに、法人の処罰を免れさせてもらうという取引だ。

MHPS側が、法人に対する処罰を免れることを優先したのは、僅か上限3億円に過ぎない法人処罰自体より、法人が処罰されることに伴って国際協力銀行(JBIC)等の融資が停止されるなど、他の制裁的措置がとられることを恐れたからだと考えられる。しかし、そのような「企業そのものが被る事業上の不利益」を免れるために、行為者の役職員「個人」が刑事処罰を受けることに積極的に協力する「取引合意」を行うことが、果たして、企業として適切な対応と言えるのだろうか。

 

外国公務員贈賄の処罰をめぐる特殊な問題

もう一つの「違和感」は、法人に対する処罰を免れさせる見返りに、行為者たる社員の側の刑事責任を追及することに協力する「取引合意」が、「東南アジアの国での外国公務員贈賄」という「特殊な事情から発生することが多い犯罪」について行われたことだ。

東南アジア諸国では、古くから、公務員が公務の受益者から直接報酬を受け取る慣習がある。それは、米国等でのレストラン等で従業員が客からチップを受け取るのが慣習化しているのと同様に、その国の公務員制度に深く根差しているもので、それを禁止する法律があっても容易に解消できるものではない。

そのような慣習が存在するところで行う事業のために現地に派遣される社員は、事業を進める中で、現地の公務員から賄賂を要求された場合に、極めて辛い立場に立たされることになる。要求どおり賄賂を支払わなければ、有形無形の不利益が課され、事業の大幅な遅延というような事態に追い込まれることは必至だ。海外での事業では、契約時に「履行遅延の場合の損害賠償の予定」(リキダメ)が合意されていることが多く、事業が遅延すると、そのリキダメの発生が予想されることで、その会計年度末に多額の損失引当金を計上せざるを得ないことになる。

現地に派遣されている社員は、事業の遅延を生じさせないよう、本社側から強く要求され、一方で、現地の公務員から賄賂を要求され、それに応じないと事業が遅延するというジレンマに立たされることになる。

社員に「コンプライアンスの徹底」を指示しても、社員を窮地に陥れるだけだ。贈賄リスクを低減するために、現地のコンサルタントを活用して、「賄賂の支払」が直接的にならないようにする弥縫策がとられることもあるが、それは、根本的に問題をなくすものではない。

結局のところ、そのような東南アジアの国で事業を行う場合には、公務員側から賄賂を要求されるリスクが相当程度あることを前提に事業を行うか否かの意思決定を行わざるを得ないのである。

今回のMHPSの事件に関しては、2013年に、三菱重工業が、タイの民間の発電事業者から発電所建設事業を受注し、その後、同社と日立製作所の火力発電事業部門が統合されて2014年にMHPSが設立された後、同社の社員が、現地の公務員から現金を求められ、担当社員らが数千万円を支払ったということのようだ。

まさに、タイという東南アジアの国で、そのような事業を行うのであれば、意思決定を行う際に、当然、現地公務員による賄賂要求のリスクを認識した上で決定する必要があったのであり、事件は、そのような当然のリスクが顕在化したものに過ぎない。

発生することが分かっていたリスクにさらされ、ジレンマに悩んだ末に、賄賂を贈った社員を処罰することと引き換えに、会社に対する制裁を免れさせるというのは、納得できることではない。

今回の「取引合意」によって、今後、贈賄の実行行為者の社員側に対する捜査が行われることになるが、最終的にどのような刑事処分が行われるか、現時点ではわからない。担当取締役も贈賄を承認していたという報道もあり【(日経)海外贈賄疑惑、元取締役が承認か 納期遅れ回避で】、「末端の社員」ではなく、取締役クラスが処罰されることになるかもしれない。「トカゲのしっぽ切り」にはならない可能性もある。しかし、担当取締役が承認したとしても、それも、上記のようなジレンマに悩んだ末で判断したことは同様であり、その取締役も、贈賄行為によって個人的利益を受ける立場ではないはずだ。本来処罰すべきは、利益が帰属する法人自体であるのに、逆に役職員個人が処罰されることに問題があるのである。

 

日立製作所の南アフリカでのFCPA違反との関係

MHPSがこのような「取引合意」を行ったことの背景に、経営統合前に日立製作所が起こした南アフリカでのFCPA(Foreign Corrupt Practices Act、海外腐敗行為防止法)違反の事件の影響が考えられる。

外国公務員贈賄問題の専門家である北島純氏の【北島 純の「外国公務員贈賄罪研究会」ブログ】によると、この事件は、日立製作所の南アフリカ法人が、南アフリカの与党「アフリカ民族会議」(ANC)のフロント企業と合弁で現地子会社を設立し、その後、日立製作所は二つの発電所建設を政府系企業から受注することに成功、フロント企業に「配当」として500万ドル、「成功報酬」として100万ドルを支払った。このうち「consulting fees」名目で計上した「成功報酬」分は、実質的には「外国政党」への支払いであったのに、適切に会計処理をしなかったということで、FCPAの会計条項違反で日立製作所は起訴され、1900万ドル(約23億円)の制裁金を払う和解に合意したというものだ。

この日立製作所の事業を引き継いだのが、三菱重工業の発電事業部門との経営統合で設立されたMHPSだった。

この事件は、「企業の外国の政党への支払」がFCPAの会計条項違反とされたもので、日本の「外国公務員贈賄罪」には当たらない。ただ、今回のタイでのMHPSの贈賄事件も、その支払の会計処理が、FCPAの会計条項違反となる可能性もあり、同社としては、FCPA違反も含めて企業としての責任追及を最小限にするため、日本法での法人処罰を免れようとした可能性もある。

しかし、今回の「取引合意」で法人が処罰を免れることができるのは、あくまで日本法に関するものであり、FCPA違反も含めて免責されるのではない。日本法で役職員が起訴された場合、それを受けて米国司法省の捜査が行われ、法人がFCPA違反で起訴される可能性は残る。

 

「司法取引」初適用事件の「法人処罰」をめぐる議論への影響

今回、MHPSが検察官との「司法取引」に応じたことが、企業の利益を優先して社員を検察に売り渡したようなイメージを持たれたことで、社会にマイナスのイメージを与えたことは否定し難い。そして、それによって守ろうとした「企業の利益」も、FCPA違反も含めて考えた場合に、最終的に、本当に利益になるのかは疑問だ。

また、検察にとっても、今後の捜査の結果が、懸念されているような「トカゲのしっぽ切り」で終わった場合には、経済界にも注目されて導入した「日本版取引」のデビュー戦としては、お粗末極まりないものとなり、制度自体のイメージダウンにつながりかねない。

しかし、一方で、今回、「日本版司法取引」の初適用事例で「法人処罰」が対象となったことは、これまで、ほとんど注目されて来なかった日本法における法人処罰に初めて焦点が当たるという面では、大きな意義を持つものと言えよう。

前述したように、「法人処罰」は、自然人個人に対する道義的責任が中心の日本では、これまで、あまり注目されて来なかった。個人の行為を離れた「法人自体の犯罪行為」は認められず、法人固有の責任を評価することも殆ど行われて来なかった。そうした中で、今回の「司法取引」で「法人が免責された」ということは、まさに、法人が自社の事業に関して発生した犯罪について積極的に内部調査を行って事実を明らかにし、その結果に基づいて捜査当局に協力することが法人の責任を軽減するものと評価されたことになる。それは、「法人処罰」に対する従来の運用を大きく変える可能性につながるものと言える。

本来、違法行為や犯罪行為に対する制裁・処罰は、全体として、その責任の程度、悪質性・重大性のレベルに応じたものでなければならない。しかし、日本では、企業や法人に対する制裁は、「行政上の措置としての課徴金」と「刑事罰」が併存し、その関係についての理論的な整理も必ずしも十分ではなく、制裁の在り方についての総合的な研究は、これまで殆ど行われて来なかった。(行政上の制裁を含む法人に対する処罰の在り方についての殆ど唯一の著作と言えるのが、刑法学者の佐伯仁志教授の【制裁論】(有斐閣2009年))。

 

「組織罰」としての「業務上過失致死傷罪」への両罰規定の導入をめざす動き

今回の事件が、法人に対する制裁の在り方についての議論の契機になるとすると、そこで避けては通れないのが、従来、特別法犯に限定されてきた「両罰規定」を、刑法犯にも導入することの是非の検討である。例えば、「談合罪」など、刑法犯の中にも「法人の利益」のために行われることが多い犯罪があるが、それらについても法人を処罰する規定がないことが、かねてから問題とされてきた。

それに関して、既に、具体的な動きとなっているのが、重大事故の遺族の方々が中心となって行っている、「業務上過失致死傷罪」に対する「組織罰」実現をめざす活動である。

2005年の福知山線脱線事故、2012年の笹子トンネル事故など、多くの重大事故の遺族の方々が中心になって、当初、イギリスで導入された「法人故殺罪」のような「法人組織自体の行為についての刑事責任」を問うことをめざして、2014年に「組織罰を考える勉強会」が立ち上げられた。2015年10月、その会に私が招かれた際、日本の刑法体系からは実現が容易ではない「法人処罰」ではなく、現行法制上可能な、業務上過失致死傷罪についての「両罰規定」を導入する刑事立法を行うことを提案したところ、その趣旨が理解され、それ以降の会の活動が、「両罰規定」によって重大事故についての企業の責任を問うことをめざす、「組織罰を実現する会」に発展していった。

現在も、立法化をめざす積極的な活動が続けられている。

この「業務上過失致死傷罪」への「両罰規定」の導入に関して最も重要なことは、法人の業務に関する事故について、法人役職員に同罪が成立する場合には、法人にも両罰規定が適用されるが、「当該法人における安全確保のためのコンプライアンス対応が事故防止のために十分なものであったにもかかわらず、予測困難な逸脱行為によって事故が発生した場合には、法人を免責する」ということである。事故防止のための安全コンプライアンスが十分に行われていたことを、法人側が立証した場合には免責されるとすることで、刑事公判で、企業の安全コンプライアンスへの取組みが裁かれることになるのである。

今回の司法取引初適用事例での法人の免責は、内部調査によって犯罪事実を明らかにし、捜査・公判に協力するという「法人の事後的なコンプライアンス対応」を評価し、責任の軽減を認めるものであり、法人の固有の責任を独立して評価するという発想に基づくものだ。それは、事故に至るまでの加害企業の安全コンプライアンスへの取組みを実質的に評価して法人の責任の減免を決するという、「組織罰を実現する会」がめざす両罰規定の導入にとって、追い風になるものと言えよう。

今回の司法取引初適用事例が、あらゆる面で「法人処罰」をめぐる議論を活性化することにつながることを期待したい。

 

 

 

 

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袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性

2014年3月に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が出した袴田事件の再審開始決定(以下、「地裁決定」)に対する検察官の即時抗告について、6月11日、東京高裁(大島隆明裁判長)は、地裁決定を取り消し、再審を開始しない旨の決定(以下、「高裁決定」)を行った。

マスコミからコメントを求められ、高裁決定を入手して全文を読んだ。

これまでの多くの事件に関して、検察の捜査・処分を厳しく批判し、美濃加茂市長事件などの冤罪事件で検察と戦ってきた私である。社会的に「冤罪事件の象徴」のように受け止められ、地裁の再審開始決定に対する検察の即時抗告でも、検察側と弁護側が激しく対立してきた袴田事件に関して、再審開始を取消す決定が出たことについて、検察側コメントと同趣旨の「適切・妥当な決定」との意見を述べることに、内心複雑なものがあることは事実だ。

しかし、高裁決定を読む限り、その根拠となった本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)が、凡そ科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断も、全く合理性を欠いており、再審開始決定が取り消されるのは当然としか言いようがない。

今回の高裁決定を担当した大島隆明裁判長は、菊池直子殺人未遂幇助事件での無罪判決、横浜事件での再審開始決定などの、いくつかの著名事件も含め、公正・中立な裁判で高く評価されてきた裁判官である。一般的には、検察の主張に偏り、検察にもたれかかる刑事裁判官が多い中で(元裁判官森炎氏との対談本【虚構の法治国家】講談社)、大島裁判長は、検察側、弁護側どちらにも偏らず、公正な裁判が期待できる裁判官だということは、袴田事件の支援者にも認識されていたはずだ「【浜松 袴田巖さんを救う市民の会「即時抗告審の大島隆明裁判長って、どんな裁判官?」】)。

高裁決定は、本田鑑定の手法の科学的根拠の希薄さ、非合理性を厳しく指摘しているが、それを読む限り、過去に、多少なりと「科学」に関わった人間にとって(私は一応「理学部出身」である。)、本田鑑定が「科学的鑑定」とは到底言い難いものであることは明白だ。

 

本田DNA鑑定の「非科学性」についての高裁決定の指摘

「衣類のうちのシャツの血痕から袴田さんとは異なるDNA型を検出した」として、地裁の再審開始決定の根拠とされた本田鑑定について、高裁決定は、

当裁判所は、検討の結果、A(本田克也氏)の細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けのA鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由としてA鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、A鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、A鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえないと判断した。

として、本田鑑定の信用性を否定した。

その詳細な理由について述べている部分の中で特に注目すべきは、鑑定資料の「チャート図」に関する以下のような判示だ。(下線は筆者)

原決定は、その説示に照らせば、本件チャート図によれば、対照試料からアリルが全く検出されていない点を、血液由来のアリルを検出したものであるとするA鑑定に信用性を認める最大の根拠としていることは明らかである。しかし、本件チャート図については、以下のとおり十分な信頼性を確保できないような事情が存在する。

ア Aは、本件チャート図について、原審において、同チャート図に、Aが型と判定した以外にもピークのようなものがあるとの検察官の指摘に対し、正規のバンドの位置になくオフラダーの表示があったが、同チャート図のオフラダーの自動表示を手動で消去したことを自認しており、自らの判断等に従って同チャート図の表示を変えたものであって、同チャート図の正確性について、自ら疑われかねないような行為をしているほか、同チャート図には、同一の試料についても何回目かの表示もなく、同チャート図のみでは、各試料について行われたPCR増幅の回数や各チャート図に係る検査の順序等も不明のままである。加えて、本件チャート図は、本来カラー表示されるものであるのに、白黒で印字されたコピーを提出し、アリルピークの位置(塩基数bp)が読み取れる縦線も不鮮明なものが含まれているため、検出されたアリルピークが正確であるのか確認することが困難な状態となっているものも一部存在する。一方、Aが作成した鑑定書のうち、袴田の血液のDNA型を鑑定した平成24年4月12日付け鑑定書に添付されたチャート図は、カラーで鮮明に印字されているものであって、本件チャート図とは、余りに体裁が異なるものである。

イ 細胞選択的抽出法については鑑定の手法として大きな疑問がある以上、それにもかかわらずA鑑定の結果を支持できるというためには、その鑑定のデータの信用性が十分検討されなければならないが、本件チャート図には前述したとおりその信頼性を疑問視せざるを得ない点があり、本件チャート図の信用性判断のためには、元となるデータや実験ノート等の原資料をも確認する必要性が高いといえる。

ところが、Aは、本件チャート図の元となるデータや実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は既に原審時点において、見当たらない又は削除したと回答しており、その他のデータや実験ノートについても、当審における証人尋問の際に、すべて消去したと証言するに至っている。しかし、事件が係属中で、前記のとおり、A自身が、その鑑定は法医学の分野ではおそらく世界的にも例がない劣悪な条件下でのDNAの抽出や型判定に成功したものであることを自認しているにもかかわらず、DNA鑑定に関するデータや実験ノートを一切保存していないということは、余りにも不自然というほかなく、消去した理由に関するAの説明にはプライバシー保護や記録保存のシステム上の困難性をいう点を含め、納得しかねる点が余りにも多いというほかない。

このような本田鑑定の「チャート図」についての疑問を踏まえれば、果たして鑑定資料に付着した血液中に含まれていたDNAを抽出したものなのかどうか疑問に思うのが当然である。即時抗告審では、鑑定の手法の信頼性の有無を確認するための事実取調べとして、本田鑑定の「再現実験」を行おうとしたが、結局、弁護人の協力が得られず断念したとのことだ。

確立された科学的手法ではない鑑定であれば、鑑定の経過やデータ・資料が確実に記録されていることや、再現性が確認されていることが、鑑定の信用性を立証するために不可欠と考えられるが、本田鑑定は、データ・資料が保存されておらず、再現実験による確認もできなかった。このような鑑定に客観的な証拠価値を認めることができないのは当然である。

 

「STAP細胞」問題との類似性

袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出たのとちょうど同時期、社会の注目を集めていたのが「STAP細胞」をめぐる問題であった。2014年1月末に、理化学研究所の小保方晴子氏、笹井芳樹氏らが、STAP細胞を発見したとして、論文2本を世界的な学術雑誌ネイチャー(1月30日付)に発表し、生物学の常識をくつがえす大発見とされ、若い女性研究者の小保方氏は、「リケジョの星」などと世の中に大々的に報じられた。

が、論文発表直後から、様々な疑義や不正の疑いが指摘されていた。

4月1日には、理化学研究所が、STAP細胞論文に関して画像の切り貼り(改竄)やねつ造などの不正があったことを公表した。その際、研究の過程の裏付けとなる実験ノートについては、3年で2冊しか残されておらず、小保方氏が残したノートには、日付すら記載されておらず、実験ノートの要件を充たしていなかったことも明らかにされた。

これを機に、STAP細胞をめぐる研究不正疑惑が大きな社会問題となり、理化学研究所では、STAP現象の検証チームを立ち上げ、小保方氏を除外した形で検証が行われ、論文に報じられていた方法でのSTAP現象の再現が試みられるとともに、7月からは、それとは別に小保方氏にも単独での検証実験を実施させた。

しかし、結局、STAP細胞の出現を確認することはできず、同年12月、理化学研究所は、検証チーム・小保方氏のいずれもSTAP現象を再現できなかったとして、実験打ち切りを発表した(検証が行われている最中の8月4日、世界的な科学者として将来を期待されていた笹井氏は自殺した。)

袴田事件で静岡地裁の再審開始決定が出されたのが2014年3月27日、理化学研究所が、小保方氏らの不正を公表したのが、その5日後だった。

本田氏のDNA鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無について決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものである。

「STAP細胞発見」には様々な疑惑が指摘され、小保方氏は実験の客観的データで疑問に答えることができず、「本当にSTAP細胞が生成されたのか」という点に深刻な疑問が生じた。それを受けて、小保方氏自身も再現実験に取り組まざるを得なくなり、結果「再現できず」で終わったことで、科学的には「STAP細胞生成」の事実は否定されるに至った。

それと同様に、本田鑑定で「細胞選択的抽出法」によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要がある。ところが、本田氏は、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答しており、その他のデータや実験ノートについても、高裁での証人尋問の際に、「すべて消去した」と証言したというのである。そこで、STAP細胞問題と同様に、裁判所が弁護側に「客観的な再現」を再三にわたって求めたが、結局、再現ができず、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出について、客観的に裏付けがないまま審理が終わった。

本田鑑定が用いたとされる「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出をめぐる経緯は、静岡地裁の再審開始決定とほぼ同時期に大きな社会問題となっていたSTAP細胞問題と酷似していると言えるのではないだろうか。

 

朝日社説の的外れな高裁決定批判

高裁決定の翌日(6月12日)の朝日新聞社説【袴田事件再審 釈然としない逆転決定】は、

地裁の段階で6年、高裁でさらに4年の歳月が費やされた。それだけの時間をかけて納得のゆく検討がされたかといえば、決してそうではない。この決定に至るまでの経緯は、一般の市民感覚からすると理解しがたいことばかりだ。

と述べた上、

別の専門家に再鑑定を頼むかで長い議論があった。実施が決まると、その専門家は1年半の時間をかけた末に、高裁が指定した検証方法を完全には守らず、独自のやり方で弁護側鑑定の信頼性を否定する回答をした。高裁は結局、地裁とほぼ同じ証拠関係から正反対の結論を導きだした。

身柄を長期拘束された死刑囚の再審として国際的にも注目されている事件が、こんな迷走の果てに一つの区切りを迎えるとは、司法の信頼を傷つける以外の何物でもない。

と、高裁での即時抗告審の審理経過や決定を批判している。

しかし、即時抗告審で4年の時間を要したのは、科学的な根拠に乏しい本田鑑定について、その信用性を裏付ける立証を弁護側に求めていたからである。STAP細胞問題と同様に、本田氏自らが、裁判所による再現実験に応じ、「細胞選択的抽出法」によるDNAの抽出を再現して見せることが何より本田鑑定の信用性を明らかにする確実な方法であるにもかかわらず、結局、それは実現しなかった。

本田鑑定がDNA鑑定に用いた「細胞選択的抽出法」は、科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在していたが、地裁決定が、それを根拠に再審開始を決定し、「死刑囚釈放」という措置まで行った以上、その根拠とされる本田鑑定を軽々に扱うわけにはいかない。裁判所としては、弁護側に、信用性を裏付ける立証の機会を十分に与え、そのために長い期間がかかったのであり、それは、再審開始決定の取消という結論を導くに至るまでの裁判所の慎重さを示すものであったと言える。

「迷走の果て」などと高裁決定を批判するのは、全く的外れと言うべきであろう。

 

地裁決定の「論理の飛躍」

科学的原理や有用性に深刻な疑問が存在している本田鑑定を過大に評価して、別人が犯人である疑いだけではなく、警察の証拠ねつ造の疑いまで指摘し、死刑の執行のみならず勾留の執行も停止したのが静岡地裁の再審開始決定だ。

地裁決定は、本田鑑定によって、味噌樽から発見された衣類が袴田氏の着衣ではない蓋然性が高いとされることや、発見された衣類の色等から、1年以上味噌に浸かっていたとするのは不自然と判断されることを前提に、「衣類が、事件と関係なく事後に作成されたものであり、それは、証拠が後日ねつ造されたと考えるのが最も合理的」とした上、

警察は、人権を顧みることなく、袴田を犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、5点の衣類のねつ造が行われたとしても特段不自然とはいえず、公判において袴田が否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、全く想像できないことではなく、もはや可能性としては否定できない

として、警察の証拠ねつ造の疑いを指摘したのである。

これに対して、高裁決定は、以下のように述べている。

その取調べ方法には、供述の任意性及び信用性の観点からは疑問と言わざるを得ない手法が認められるが、捜査段階における袴田の取調べ方法にこのような問題があることを踏まえても、取調べの結果、犯行のほぼ全容について袴田の供述を得て、犯行着衣についてもそれがパジャマである旨の自白を得た捜査機関が、新たにこの自白と矛盾するような5点の衣類をねつ造することは容易には考え難いというべきであり、袴田の取調べ状況から、5点の衣類のねつ造を結び付けることは、かなり論理の飛躍があるといわざるを得ない。

そして、警察の人権を顧みない取調べから、証拠のねつ造を疑うことについて

A鑑定や5点の衣類の色に関する誤った評価を前提としているとはいえ、自白追及の厳しさと証拠のねつ造の可能性を結び付けるのは、相当とはいえない。これまでしばしば刑事裁判で自白の任意性が問題となってきたように、否認している被疑者に対して厳しく自白を迫ることは往々にしてあることであって、それが、捜査手法として許される範囲を超えるようなことがあったとしても、他にねつ造をしたことをうかがわせるような具体的な根拠もないのに、そのような被疑者の取調方法を用いる捜査当局は、それ自体犯罪行為となるような証拠のねつ造をも行う傾向があるなどということはできず、そのような経験則があるとも認め難い。しかも、そのねつ造したとされる証拠が、捜査当局が押し付けたと主張されている自白のストーリーにはそぐわないものであれば、なおさらである。

冤罪事件や再審の歴史は、警察や検察による証拠の「隠ぺい」の歴史だったと言っても過言ではないほど、過去の多くの事件で、不当に証拠が隠されていたことが、真相解明を妨げてきたことは事実だ。また、検察においても、現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件という「改ざん」事件が発生しており、警察でも証拠の改ざんが刑事事件に発展した事例も過去に発生している。一般的に言えば、警察や検察による「証拠に関する不正」が行われる抽象的な可能性があることは、否定できるものではない。

しかし、日々発生する膨大な刑事事件の摘発・捜査・処分が、現場の警察官・検察官によって行われ、その職務執行が基本的に信頼されることで刑事司法が維持されているのであり、それら全体に対して、常に証拠に関する不正を疑うことはできない。疑うのであれば、相応の根拠がなければならないのは当然である。

ところが、「相応の根拠」と言えるものは何もない。

もし、当時の警察が、仮に、袴田氏を有罪にするためにあらゆる手段を使おうとしていたとしても、無関係の衣類を袴田氏の着衣のように偽って、味噌樽の中から発見するという行為は、高裁決定が指摘するように、「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という、全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになる。

このような「証拠のねつ造」を疑うことは、警察がいかに人権を無視した過酷な取調べを行っていたとしても、裁判における合理的な事実認定とは到底言えないものである。

高裁決定は、そのような地裁決定の指摘を、「論理の飛躍」と表現して否定しているのである。

 

「冤罪救済」に向けての活動は終わらない

本田鑑定は、科学的根拠を欠くものであり、「無罪を言い渡すべき新たな証拠」とは到底言えないものだ。それを根拠として再審開始を決定した静岡地裁の判断も正当とは言えないものである。高裁決定で、再審開始を取り消したのは当然だと言える。

しかし、袴田氏が、本当に犯人であるのか、50年にもわたって訴え続けてきたように冤罪であるのか、真実は神のみぞ知るところである。有罪判決が確定しているとはいえ、袴田氏の犯人性について断定的なことを言うつもりはない。

袴田氏の冤罪救済に向けての活動が長年にわたって続けられてきた。その支援者や弁護団には、本田鑑定など、これまで再審請求で証拠とされているものとは別に、「袴田氏は犯人ではない」と信じる確たる理由があるのかもしれない。本当に袴田氏は冤罪なのかもしれない。袴田氏の冤罪救済をめざす活動は、これからも続けられるであろう。

そういう袴田氏の冤罪を救済する活動にとってみても、本田鑑定や、それを根拠とする静岡地裁の再審開始決定は、本当に、評価されるべきものなのだろうか。

凡そ科学的鑑定とは言えない本田鑑定が、静岡地裁決定で過大評価され、袴田氏の冤罪救済の最大の根拠と位置付けられてきたことは、逆に、冤罪救済に向けての取組みを阻害するものだったのではなかろうか。

本田鑑定を評価し「死刑囚釈放」まで行った静岡地裁決定により、4年間、世の中に、「再審開始・冤罪確定」への「幻想」が生じてしまった。地裁の再審開始決定に対する検察の即時抗告への批判、それが早期に棄却されて再審開始が確定することへの期待が高まり、それが高裁決定で覆されたことで、貴重な時間が無駄にされてしまった。それは、かえって、袴田事件の冤罪救済に向けての活動の大きな支障になったのではなかろうか。

私は、日本の刑事司法の構造について、これまで多くの批判的意見を述べてきた。

閉鎖的かつ独善的な検察組織が「正義」を独占する日本の刑事司法、「人質司法」の悪弊、一たび、有罪判決が確定すれば、検察や警察の管理下にある証拠開示について明確なルールもなく、再審の扉は重く、地裁で再審開始決定が出ても、多くが、即時抗告で覆されてしまう。そのような、冤罪を生みかねない、冤罪の救済が困難な日本の刑事司法の現状は、改めていかねばならない。

しかし、非科学的な鑑定で犯人性を否定することや、その非学的な鑑定を過大評価して再審開始を決定することが、そのような刑事司法の構造の改善や真の冤罪救済につながるとは、私には到底思えない。

高裁決定で、DNA鑑定の非科学性と、鑑定手法の杜撰さを厳しく指摘された本田克也氏は、今後も刑事事件での鑑定を続けていくのであれば、高裁決定が指摘した疑問・批判について公式の場で何らかの説明を行うべきであろう。

 

死刑・勾留の執行停止を取消さなかったことへの疑問

今回の高裁決定を支持する立場からも、「中途半端」として批判されているのが、地裁の再審開始決定を取り消しながら、死刑執行と勾留については執行停止を取り消さかったことである。

なぜ、このような判断が行われたのか。高裁決定は、

(袴田氏の)年齢や生活状況、健康状態等に照らすと、再審開始決定を取消したことにより逃走のおそれが高まるなどして刑の執行が困難になるような現実的危険性は乏しいものと判断され

と述べているが、そのような若干中途半端に思える判断の背景として、次のようなことが考えられる。

第1に、地裁決定で死刑囚の釈放という前代未聞の措置がとられたことで生じていた袴田事件に対する社会の認識と、再審裁判での証拠関係との間に大きなギャップが生じていたことである。4年前、静岡地裁の決定で釈放された袴田氏は、自由の身となって支援者・家族の元に戻った。釈放された死刑囚が公の場に姿を現わせば、社会全体に袴田氏の「冤罪」「無実」が確定的になったと認識するのも当然だ。しかし、実際には、再審開始決定は、まだ地裁の段階であり、その根拠とされた本田鑑定には深刻な疑問があった。

再審開始決定の取消しに伴って、死刑・勾留の執行停止も取り消され、釈放されていた袴田氏がただちに収監されることになれば、その映像的な効果によって、「無実の人間を強引に収監して死刑を執行しようとする無慈悲な刑事司法」と受け止められ、強烈な反発が生じることは必至だ。逆に、そのような事態が想定されることから、いかに地裁決定が不合理でも、取消すのは現実的には困難ではないか、との見方もあったほどだった。

即時抗告審で地裁の再審開始決定を取消されるのは「当然の判断」であったが、それに伴って、釈放されている死刑囚を再収監することで生じる社会的混乱を避けるということも考慮されたのではなかろうか。

もう一つ考えられるのは、この事件で袴田氏が受けてきた処遇と、現在の状況である。

袴田氏は、一家4人殺しの強盗殺人容疑で逮捕されて以降、48年間にわたって身柄を拘束され、そのうち34年間は死刑の執行の恐怖に晒された状態での拘禁が続いてきた。その拘禁反応もあるのか、現在では、事件自体の認識・記憶もなくなっているようだ。

袴田氏の取調べは、高裁決定でも指摘しているように、「深夜まで連続して長時間取調べを続け」「心理的に追い込んで疲弊させていく手法が用いられ」「取調室に便器を持ち込ませて排尿をさせたり」など、著しく人権を無視したものであり、いくら残虐な殺人事件の捜査であっても、そのような拷問的な取調べで自白を獲得しようとすることは、近代国家として許されるものではない。そういう意味で、袴田氏は、拷問に近い違法・不当な取調べと、その後の長い年月の死刑囚としての拘禁という峻厳な刑罰にも匹敵する著しい苦痛を受けてきたことは間違いない。

これらのことへの思慮が、極めて明快な理由で再審開始決定を取消す一方で、死刑・勾留の執行停止は取り消さないという若干中途半端な措置をとったことの背景にあるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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