「玉川発言」への批判、謹慎処分は正当なのか~放送コンプライアンスの視点から考える

「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテイター玉川徹氏が、安倍元首相の国葬の翌日の9月28日の番組で、菅前首相の追悼の辞に関して「電通が入っていますからね」と発言したことについて、実際には、電通は国葬に一切関わっていないことが判明したとして、翌日の番組で玉川氏が訂正・謝罪し、その後、テレビ朝日から10日間の謹慎処分を受けた。

「菅前首相の追悼の辞」は、参列者の涙を誘い、「葬儀」としては異例の拍手が行われるなど、心を打つものと好評だった。それに対して否定的なコメントをした玉川氏が訂正・謝罪に追い込まれたことで、保守派の言論人、芸能人・タレントなどによる玉川氏批判が行われ、それを受けるように、テレビ朝日が玉川氏への謹慎処分と番組関係者の社内処分を発表した。SNS上では、「玉川氏への謹慎処分が生温い」として番組降板などを求める声が上がる一方、玉川氏を擁護する声、謹慎処分に抗議する声も上がっている。

また、自民党の西田昌司参院議員が、玉川氏の発言へのテレビ朝日の対応に関して

「国民は、政治的に公平だという前提でテレビを視聴する。虚偽の情報を事実として伝えることは危険な『政治的偏向』だ。テレビ朝日は、玉川氏個人の事実誤認としているが、本当にそうか。組織として詳細な経緯を説明する責任がある」

などと批判し、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べた(夕刊フジ)。

これに対して、ジャーナリストの江川紹子氏が、ツイッター上で

「与党議員が『国政の場』に持ちこむ話ではない。電通や菅氏がこの処分に不満であれば、BPOに申し立てればよい」

と批判している。

このように大きな騒ぎに発展している玉川氏の発言に、どのような問題があるのか、番組での訂正・謝罪に加えて、発言者個人の謹慎処分、社内処分まで行われたことは適切だったのか、その後も続く批判が正しいのかなどについて考えてみたい。

放送内容の真実性、政治的公平についての放送法の規定

「政治的中立性」「真実ではない放送」について、放送法は、以下のように規定している。

まず、「放送番組の編集」について、4条で、

放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

として、「事実の捏造・歪曲」などをすることを禁止した上、9条1項で

放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から三箇月以内に請求があつたときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消しの放送をしなければならない。

として、「権利を侵害された者」「直接関係人」からの請求による調査と、それに伴う訂正・取消を規定し、2項で、

放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも、前項と同様とする。

として、放送事業者側の自主的な調査、訂正・取消を規定している。

一方、4条2号の「政治的中立性」については、9条のような調査、訂正・取消の規定はなく、5条により「番組基準」の公表が義務付けられ、6条で放送番組審議機関が設置され、放送番組の適正を図るため必要な事項を審議、放送事業者に対する意見を述べるとされており、放送の適正のための一般的な枠組みに委ねられている。

問題とされた玉川氏の発言

今回の玉川氏の発言について問題とされたのは、

(1)国葬が演出によって作られていること

(2)演出に電通が関わっていること

の2点である。

事実に関する2点のうち、(2)の電通の関わりについては、「放送をした事項が真実でないことが判明した」として訂正放送が行われた。この事項について、「権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」に該当するとすれば電通だが、電通からの請求があったのかどうかは不明だ。電通からの請求はなく、テレビ朝日が自主的に調査、訂正・取消をしたということであれば、9条1項ではなく、2項によって行われたものということになる。

そもそも、電通が、安倍元首相の国葬に関わっていないのに関わっていると言われたとしても、それによって、電通の権利がどのように侵害されるのだろうか。「権利侵害性」のレベルと比較しても、テレビ朝日は訂正放送を行っており、十分な措置だったと言える。

一方、(1)の演出については、上記のように、玉川氏の発言に対して反発し、批判している人の多くは、「参列者に感銘を与えた菅氏の素晴らしい追悼の辞」に対して、演出が入っているなどと言って「貶めた」として批判しているようだ。

問題となるのは、この点についての玉川氏の発言の趣旨だ。多くの批判で前提とされているように、「菅氏の追悼の辞に演出が入っている」という意味なのかどうかである。

この点に関しては、直接的に問題とされた上記発言だけでなく、そこに至るまでの玉川氏の発言全体を踏まえて考えてみる必要がある。以下が、関連する玉川氏の発言全体だ。

「これこそが国葬の政治的意図だと思うんですよね。当然これだけの規模の葬儀、儀式ですから、荘厳でもあるし、個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はあると思うんですよ。

 しかし、例えばこれが国葬じゃなくて、内閣葬だった場合、テレビでこれだけ取り上げたり、この番組でもこうやってパネルで取り上げたりVTRで流したりしないですよね。国葬にしたからこそ、そういった部分を我々は見る、僕も仕事上見ざるを得ない状況になる。

 それは例えれば、自分では足を運びたくないと思っていた映画があったとしても、なかば連れられて映画を見に行ったらなかなかよかったよ、そりゃそうですよ、映画は楽しんでもらえるように胸に響くように作るんです。だからこういう風なものも、我々がこういう形で見れば胸に響くものはあるんです。それはそういう形として国民の心に既成事実として残るんですね。これこそが国葬の意図なんですね。だから僕は国葬自体、ない方がこの国にはいいんじゃないか、これが国葬の政治的意図だと思うから。

 僕は演出側の人間ですからね。演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたから、それはそういう風に作りますよ。当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。当然これ、電通が入ってますからね」

玉川氏は「菅氏の弔辞が他人の演出」と言っているのではない

発言全体を見ると、玉川氏が「そういう風に作りますよ」と言っているのは、「胸に響くように作る」ということだとわかる。それは、映画などを含め、大規模なイベント、コンテンツの制作を行う側としては、一般的に行われる演出のことを意味するものだ。 

今回の安倍氏の国葬も、大規模な荘厳な葬儀・儀式なのだから、その中で、「個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はある」と述べている。菅首相の追悼の辞は「心情を吐露した」ものであり、それが「胸に刺さる」と評価した上で、ただ、それは、全体として「胸に響くように作られた国葬という儀式の一コマだ」と言っているのである。玉川氏の発言の「そういう風に作ります」というのは、菅氏の追悼の辞が「演出のために他人が作ったもの」という意味で言っているのではない。

むしろ、「これこそが国葬の政治的意図だ」と言った上で、「そういう風に作ります」に続けて、「当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。」と言っていることから、玉川氏の発言全体の趣旨としては、安倍氏の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」というものであり、それを前提に、発言に問題がないかどうかを検討する必要がある。

問題となるのは、第一に、「真実性」に関する点として、玉川氏の「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」との指摘が、客観的に正しいと言えるのか、第二に、「政治的公平」に関して、「国葬についての論評」としてみたときに、玉川氏の発言を含む番組が、政治的に偏ったバランスを欠く放送になるのか否かである。

「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だったと言えるか

まず、第一の点については、玉川氏の長年のテレビ放送の制作者としての経験から、イベントやコンテンツが「胸に響くように作られる」という一般的な事実を指摘している。そして、それが、大規模で荘厳な国家的儀式としての「国葬」と重なると、追悼する安倍元首相の評価を高めるという「政治的意図」が実現される、ということを言っている。しかし、その場合、そのような「政治的意図」が表に出てしまうと、「胸に響くように作る」という演出効果を損なってしまうので、それが目立たないように配慮することになるということであろう。

ここまでは、一般論として言えることなのであるが、問題は、今回の安倍元首相の国葬についても、「政治的意図を隠して、胸に響くように作られている」と言えるのか、そのように言う根拠があるのか、という点である。

まず、客観的な事実として、安倍氏の国葬については、(電通は関わっていないとしても)、ムラヤマという「桜を見る会」に関する業務を毎年受注していた会社が、企画演出業務を1.7億円で受注している。しかも、この発注については、入札参加の条件を厳しくした結果、一者入札になったものである(【「安倍氏国葬儀」企画演出業務発注で、内閣府職員に「競売入札妨害罪」成立の可能性】)。

そのような高いハードルを設定した理由が、「企画演出」を十分に行い得る業者に発注しようとする意図によるものであったことは間違いない。その事実からも、国葬全体が、「演出」を重視して行われたことは明らかであろう。

肝心の、菅氏の追悼の辞も、改めて全文を文章で読み直してみると、友人代表の辞にしては、生前の安倍氏との具体的なエピソードは、焼き鳥屋で総裁選への再挑戦を説得した場面ぐらいで、それ以外は、ほとんどが、安倍氏の業績と決断力への賛辞だ。

そして、参列者に感銘を与えたというのが、山縣有朋が詠んだ歌の話だ。

衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。

という話を聞くと、誰もが、菅氏自身が、安倍氏が亡くなった後に、議員会館の部屋に行って、机の上に「読みかけ」で置いてあった山縣の本を発見し、手にとったら、安倍氏が読みかけていた箇所が、いみじくも「伊藤博文が暗殺された際に山縣が詠んだ歌」の個所だったという「感動のシーン」を想起する。

しかし、そもそも、そのような偶然が起こるとは常識的には考えにくい。文章で確認すると「読みかけの本が1冊ありました」となっており、菅氏が、それを「見た」とは言っていない。実は、その話は、安倍氏自身が、殺害される3ヵ月前に、葛西敬之氏の葬儀の際の追悼の辞で使っていたことも明らかになっている。

菅氏は、この追悼の辞についてテレビ朝日のインタビューに答えているが、質問者は、完全に上記の「議員会館でのシーン」があったものと誤解して質問し、菅氏は、それをはっきりと否定はせず、はぐらかして答えていた。

明治の元勲山縣有朋は、帝国陸軍の礎を作った人で、超保守主義者、反政党主義、反民主主義、普通選挙にも反対していた人だ。そういう考え方の人が詠んだ歌を、安倍元首相への追悼の辞で敢えて持ち出し、自分に重ね合わせる、というやり方には、「政治的な意図」が感じられるが、その「意図」を感動的なストーリーで覆い隠しているとみることができる。

また。この「感動的な話」で菅氏の追悼の辞が終わった直後に、会場から自然に拍手が沸き起こったように言われているが、最初に大きな拍手をした人は前全国市長会会長の松浦正人氏で、安倍氏の殺害後も菅氏と電話で連絡を取り合う間柄であったことが明らかにされている(【菅義偉さんの感動的な弔辞の直後に1人だけ大きな拍手をした人がいた。やがてそれが会場中に広がった】)。参列者の拍手はこの最初の大きな拍手に誘発されたものであり、それがなければ、「葬儀での拍手」ということは起こり得なかったはずだ。

これらの事実からすると、安倍元首相の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言にも相応の合理性があり、真実と異なるとは言えない。

「政治的公平」に関する問題

次に、「政治的公平」に関する問題である。

前記のとおり、放送法4条2号は、放送番組の編集について「政治的に公平であること」を義務づけている。これは、番組単位で求められることであり、出演者個人の発言の問題ではない

西田議員は、玉川氏の発言に「虚偽の情報」が含まれていたことを「政治的偏向」だとしているが、玉川氏の発言の中の「電通の関与」の部分が真実ではなかったとしても、それ自体で政治的公平性が問題になるわけではない。

問題になり得るとすれば、安倍氏の国葬に関する玉川氏の発言と番組の編集方針との関係であり、既に述べたように、国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言があったことが、番組全体の「政治的公平」を損なうことになるのかという点である。

そもそも、番組の編集方針の「政治的公平」というのは、番組の内容の一つひとつが全て政治的に中立なものでなければならない、ということではない。その時々の社会の状況、視聴者の問題意識等に照らして、番組全体が、政治的に偏ったものかどうかということである。

玉川氏の発言があった安倍氏の国葬の翌日の「モーニングショー」では、その国葬の決定、実施までの経過、賛否両論について番組で取り上げ、国葬の内容についても、その中で特に菅前首相の追悼の辞に参加者が心を打たれたと評価されたことも紹介した。

そうした中においても、国葬に対しては、世論調査の結果では国民の6割以上が反対するなど、反対が賛成を大きく上回っていたにもかかわらず開催されたものであること、国葬に関して法的根拠や国会の関与がないこと、安倍氏の評価について様々な見方があることなどから、国葬反対の意見にも、十分に理由があることなどを考慮すれば、国葬反対の声の大きさを反映し、批判意見も十分に取り上げることは、むしろ、番組として政治的に公平なスタンスだと言えよう。

そういう意味で、かねてから「国葬反対」の意見を明確にしていた玉川氏が、「イベントは一般的に胸に響くように作られる。それを国葬として行えば、政治的意図を隠して政治的に利用することにつながる」と指摘したことは、番組の中の一つの個人意見である以上、番組全体の政治的公平性という面で、何ら問題になるものではないどころか、むしろ、政治的公平に資するものと言える。

玉川氏の発言を含めた当日の番組が、「政治的公平」の観点から問題があるとは到底言えない。

前記のとおり、放送法は、4条2号の「政治的公平」については、真実性についての9条のような権利侵害を受けた者の請求による調査、訂正・取消の規定がなく、放送番組の適正を図るための一般的な枠組みに委ねている。「政治的公平」の判断が微妙であり、それを外部から問題にすることが、かえって政治的公平を損なうことの弊害を考慮したものだ。

西田議員が、今回の玉川氏の発言について、「政治的偏向」を問題にし、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べていることの方が、放送法の趣旨に反する「不当な政治介入」になりかねない。

西田議員は、いわゆる「椿事件」を引き合いに出してテレビ朝日を批判しているが、椿事件は、1993年、テレビ朝日の報道局長が、日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合で、「自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」などと政治的偏向報道の疑念を生じさせる発言を行ったという特異な事例である。

今回の玉川氏の発言は、国葬に関する事実の適示と、それに関する個人の論評であり、椿事件のような番組編集全体における政治的意図の問題とは全く異なる。

テレビ朝日のコンプライアンス、ガバナンスの問題

今回の玉川氏の発言については、テレビ朝日において、「電通の関与」が真実ではなかったことについて訂正・謝罪放送が行われ、放送法上十分な対応が行われている。それに加えて、玉川氏の10日間の謹慎処分や番組関係者の社内処分を行ったことは全く理解し難い。

意図的な虚偽、捏造報道の疑いがあるというのであればともかく、誤解によって真実ではない発言を行ったというだけで、出演者の「社員個人」が責任を問われるというのは、過去に殆ど例がないのではないか。そのような処分が当然のように行われるようになれば、放送の現場は萎縮し、積極的に真実に迫ろうとする報道や番組制作自体が困難になってしまう。

最近の同様の事例として、当時の菅首相が日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかったことについて菅政権への批判が高まっていた2020年10月5日、フジテレビの平井文夫上席解説委員が、同局の番組(バイキング)で、

「6年ここで働いたらその後学士院というところに行って、年間250万円年金がもらえる」

などと全く事実と異なる発言をし、番組側が10月6日の放送で

「誤った印象を与えるものになりました」

などと訂正した。これなどは、放送中に、当時、学術会議会員が厚遇されているかのような虚偽の事実を述べたもので、会員任命拒否問題で批判されていた菅内閣を擁護する政治的意図も疑われる。しかし、この件で発言者の平井氏個人が処分されたという話はなく(平井氏は、現在も、フジテレビの上席解説委員を務めている)、訂正放送も、今回の玉川氏のように本人が行ったのではなく、番組のアナウンサーが行った。

今回の玉川氏の発言をめぐって露呈したのは、テレビ朝日という放送事業者のガバナンスの脆弱性である。玉川氏の発言の何がどう問題なのか、という点について、放送事業者として明確な問題意識を欠いたまま、外部からの批判に対して場当たり的な対応をしたことが、かえって問題を深刻化させたように思える。

玉川氏の発言は、安倍元首相の国葬の直後、その国葬での菅前首相の追悼の辞が大きな社会的注目を集めている最中に、それに関連して客観的な裏付けがないのに「電通関与」を決めつけるような発言をした点において軽率の誹りを免れない。

しかし、それ以外については、放送法上も、コンプライアンス上も、特に問題があるとは言えない。番組で訂正・謝罪を行った後も、会社として、発言の趣旨を正確に理解した上で、批判や、政治家の圧力等に対しても毅然たる対応をとるべきだった。

ところが、テレビ朝日は、折から国葬問題をめぐる政治的対立の影響もあって訂正・謝罪を機に各方面からの激しい批判が行われたことに狼狽したのか、玉川氏個人の処分も含めた過剰な対応を行い、それによって批判の火に油を注ぐ結果となった。

テレビ放送に関連する不祥事が相次いでいた2008年3月、テレビ朝日で、「放送事業への信頼回復に向け、真のコンプライアンスを」と題して講演を行ったことがある。

放送法規定に則った対応はもちろん、法の趣旨・目的に沿ったコンプライアンスで「社会の要請に応えること」の重要性を訴えたのに対して、多くの社員が真剣に聞き入ってくれた。その後も、放送事業への社会的要請は複雑であり、それに応えていくことは容易ではないが、番組制作や報道の現場で地道な努力が続けられているものと認識していた。

今回の玉川氏への謹慎処分、関係者の社内処分というテレビ朝日の対応は、放送事業者としてのコンプライアンスの基盤を害することになりかねない。放送事業者の組織のガバナンスの欠陥を露呈したもののように思える。

謹慎が明けた時点で、玉川氏が発言の経緯について説明するとされているが、ここでは、批判や政治的圧力に臆することなく、関連する発言の真意について、しっかり説明すべきだ。一方、テレビ朝日の経営陣も、謹慎処分等についての会社の考え方について、十分な説明を行う必要がある。番組の編集方針とその中での玉川氏の発言の趣旨が、視聴者に、そして世の中に正しく理解されるかどうか、テレビ朝日のガバナンスにとっても試金石だと言えよう。

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臨時国会開会、岸田政権が直面する3つの「説明不能」問題

9月27日、安倍元首相の「国葬」が、国民の多数の反対にもかかわらず実施された。そして、今日(10月3日)、国会が召集され、12月10日までの会期で臨時国会が開催される。

重大な禍根を残す「国葬」の「強行」についての内閣としての説明責任を問われるのが、この臨時国会だ。国葬実施までの過程で大きく支持率を低下させた岸田内閣は、野党の追及、マスコミの批判に対して、「説明不能」と思える多くの問題を抱えている。

万が一、これらについて、国民に納得できる説明が行われないまま、臨時国会が終了することがあれば、「議院内閣制」の日本の民主主義に対する国民の信頼は、根底から失われることになる。

岸田内閣には「説明不能」ではないかと思えるのが、以下の3つの問題だ。

国葬実施の理由

第一に、安倍元首相について、「国葬」を実施した理由に関する問題だ。この点について、岸田首相が、記者会見や閉会中審査での答弁等で繰り返したのが、以下の4つの理由だ。

(1) 6回の国政選挙で信任を得て憲政史上最長の8年8ヶ月首相に在任したこと

(2) 震災復興、経済再生、外交などでの実績

(3) 各国からの弔意

(4) 選挙運動中での非業の死であること、

これらが、いずれも国葬を実施する理由にならないことは、【安倍元首相「国葬儀」による“重大リスク”、政府の実施判断は適切か】などで述べたとおりであるし、多くの識者も同様の意見だ。岸田首相は、これしか理由の説明ができないので、「オウム返し」のように繰り返してきただけだ。

そして、(1)が理由とされていることに関して、国政選挙で勝利してきたことと「統一教会」との関係が問題にされ、安倍氏が、信者にとって広告塔的な役割を果たす一方、参院選等で統一教会票の差配をしていた疑いがあり、重大な問題とされてきた。

岸田首相は、国葬の1か月近く前の8月31日の記者会見で、自民党総裁として、

「旧統一教会とは一切の関係を断つ」

と明言しているが、そのように「自民党が絶縁すべきとしている宗教団体」に国政選挙で応援を要請し、その票を自分と親しい候補者に割り当てていたということになると、そのような「国政選挙での勝利」の正当性に重大な疑念が生じることになる。

しかも、統一教会は、「歴史的に韓国を苦しめてきた日本は、”罪滅ぼし”をするために、信者が、お金を集めて教祖の文鮮明に捧げなければならない」という「反日カルト」としての教義を有する韓国を本拠とする宗教団体だ。保守政治家でありながら、そのような宗教団体と緊密な協力関係を有していたことは、その政治家の「国葬」を実施することが強く否定される理由になるのは当然だ。

このような安倍元首相と統一教会との関わりについて、岸田首相は、

「本人が亡くなっている以上、調査には限界がある」

として、調査の対象とすることを拒絶してきた。しかし、安倍派(清和会)の安倍氏の前任の会長の細田博之衆院議長にも、参院選における統一教会票を差配していた疑惑があり、しかも、細田氏は、韓鶴子総裁が参加した統一教会のイベントで来賓として挨拶し、その際

「今日の模様は安倍総理にも報告しておく」

と発言したことが映像に残っている。臨時国会開会前、細田氏は、野党側の要求に応えて、説明用の「一枚紙」で、教団のイベントへの出席を認めたが、教団との関係等について追加の説明を求められ、10日以内にさらなる説明をするとしている。

前記イベントでの発言からしても、細田氏は、安倍氏と統一教会との関係についても説明できる立場であることは明らかであり、その点について、今後の説明の中で、新たな事実が確認される可能性がある。それによって、安倍氏の国葬を行ったことへの疑問が一層大きなものになりかねない。

山際大志郎氏の問題

第二に、安倍元首相の国葬実施の閣議決定の際も、その後の改造内閣でも経済再生担当大臣の要職を務めている山際大志郎氏の統一教会との関係についての重大な疑惑だ。

これまでの山際氏の説明は、教団の会合、イベントへの出席等について自発的に真実を明らかにしようとする姿勢は全くなく、客観的事実を突きつけられて、やむを得ず認める、ということを繰り返してきた。週刊誌等では、山際氏の事務所自体が、統一教会の信者に支えられていた疑いも指摘されている。円安・物価高等の深刻化する経済対策を担う立場であり、今後、新たな感染拡大に備えてのコロナ対策を担う最重要閣僚である立場の山際氏が、国会での答弁で立往生する事態は到底許されない。

山際大臣を辞任させるのか、このまま閣内に残すのか、この問題は、岸田内閣にとって、最大の火薬庫であることは間違いない。

国葬の法的根拠

そして、第三に、岸田首相の従来の説明に重大なゴマカシがあり、今後、国会での答弁に窮することが確実だといえるが、国葬についての法的根拠の問題だ。

私も、当初から、内閣の行政権の行使として、格別の法律上の根拠がなくても「儀式を行うことが可能」だと述べてきた(【安倍元首相「国葬儀」が抱える重大リスクに、岸田首相は堪え得るか】)。

その問題について、違憲・違法を問題にして裁判所に取消を求めても、認められる可能性はないだろうと考えてきたし、実際に、安倍氏の国葬に関して提起された訴訟は、すべて退けられている。

しかし、国費で行う儀式を閣議決定で行えるとしても、それは、「内閣が行う儀式」であり、葬儀であれば「内閣葬」だ。それを、「国葬儀」と称することには重大な問題がある。

最大の問題は、岸田首相が、所掌事務を定めただけの内閣府設置法を「法的根拠」であるように説明してきたことだ。《あいまいに「根拠」という言葉を使っていること》が、国民に大きな誤解を与えている。

閣議決定だけで行い得る「国の儀式」が国事行為に限られるのか、それ以外にも可能なのかという点については、内閣府側の実務上の整理として、過去の一回だけ、吉田茂元首相について、特別に「国葬儀」を実施した「行政実例」があることを無視することはできないので、内閣府の所掌事務についての整理としては、「国の儀式」として、国事行為以外に、吉田国葬のような「国葬儀」も、仮に行われることがあれば、所掌事務に含まれるということになる。しかし、内閣府設置法の制定時に、4条3項33号による内閣府設置法についての「国の儀式」と「内閣が行う儀式」を書き分けたことの趣旨は、両者を区別する趣旨だからだ。そういう意味では、国事行為としての儀式を「国の儀式」、閣議決定で行うのが「内閣の儀式」というのが合理的な解釈だ。

全国戦没者追悼式」などの儀式が「閣議決定」で行われているが、これらについては、政府答弁書でも、「国の儀式」ではなく「内閣が行う儀式」であるとされている。このことも、「国の儀式」は国事行為に限られ、それ以外の「儀式」を閣議決定で行うのは「内閣が行う儀式」だと考えられているからだ。

もちろん、閣議決定だけで行うのであれば、「人権・権利の制限を伴うようなものであってはならない」ということになる。そのため、その点を過度に強調しようとして、「国葬儀」と言いながら国民に弔意すら求めない、実質的には「内閣葬」でしかないものになった。しかし、岸田内閣は、それを、無理やり「国葬(儀)」と表現した。それが、「国葬」に対する国民の反発と世の中に混乱を生じさせたのだ。

このことは、臨時国会で、岸田首相に「内閣府設置法は、国葬儀の法的根拠であるか否か」について答弁を求めれば明らかになることだ。

8月15日には、「国葬」に関するいくつかの質問主意書への答弁書で

現在までに国葬儀について規定した法律はないが、いずれにせよ、閣議決定を根拠として国の儀式である国葬儀を行うことは、国の儀式を内閣が行うことは行政権の作用に含まれること、内閣府設置法第四条第三項第三十三号において内閣府の所掌事務として国の儀式に関する事務に関することが明記されており、国葬儀を含む国の儀式を行うことが行政権の作用に含まれることが法律上明確となっていること等から、可能であると考えている。

としている。

国葬儀について、「法令上の根拠」はないが、閣議決定を根拠として行う「国の儀式」の一つであり、それは、「内閣の行政権」に含まれるというのが、政府の正式見解なのであり、「内閣府設置法」は、「そのように考えることの理由」に過ぎないのだ。

この点について、岸田首相に明確に答弁を求め、安倍元首相の「国葬儀」は、行政権の行使として閣議決定だけで行った「内閣が行う儀式」であり、実質的には「内閣葬」であること、それを政府として「国葬儀」と称したに過ぎないものであること、今後、日本において「国葬」を行い得ることの根拠にはならないことを明確に認めさせるべきだ。

それは、本物の「国葬」ではなかったと認めることで「国葬賛成派」からは「裏切り」ととらえられ、一方で、「国葬反対派」からは、「従来の説明」に対する「怒り」を引き起こすことになる。しかし、もともと、閣議決定だけでは「内閣葬」しかできないのに、それを「国葬」と偽装した岸田内閣の自業自得ということだ。

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森雅子首相補佐官(元法相)、「統一教会」説明にも“重大な疑問”、自民党調査にどう回答するのか?

法相在任時「答弁迷走」の森雅子氏、「統一教会」説明にも“重大な疑問”

河井夫妻事件、ゴーン氏国外逃亡当時の法相で、現在も首相補佐官の職にある森雅子氏、「統一教会」との関わりについての説明はあまりに不合理。自民党の調査にどのような回答をするのか。

森雅子首相補佐官(元法務大臣)について、グーグルストリートビューで、2019年7月の参院選挙の頃に、いわき市の旧統一教会施設の建物内に同氏のポスターが貼られていたことが確認されSNS上で騒動になっていたが、8月24日発売の週刊新潮では、2018年11月11日に郡山市で開催された「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)主催のイベント「東日本大震災 福島復興三千名祈願祭」に登壇して講演をしていたことが報じられ、「統一教会」と深い関係を持っていた疑惑が一層深まっている。

森氏は、河井克行氏が妻案里氏の公選法違反疑惑の責任を取って辞任したことに伴い、後任として法務大臣に就任し、黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題で、安倍政権への批判が高まった際にも法務大臣として国会答弁を行った。森氏は定年延長の決定と解釈変更のための法務省内の決裁は口頭で行ったと説明し、

「口頭決裁もあれば文書決裁もある。どちらも正式だ」

と強弁した。定年延長の理由について、政府が「社会情勢の変化」などと説明したことについて国会で質問され、

「東日本大震災のとき、検察官は、福島県いわき市から、市民が避難していない中で、最初に逃げた」

などと答弁し、その件で、当時の安倍晋三首相から厳重注意を受けた。

また、森氏は、弁護士でもあるが、カルロス・ゴーン氏が保釈中にレバノンに逃亡した際、記者会見で、

「潔白というのならば、司法の場で正々堂々と無罪を証明すべき」

などと「検察官の立証責任」という刑事裁判の大原則を無視するかのような発言をし、その会見直後のツイートで

「ゴーン被告人は自身が潔白だというのであれば司法の場で正々堂々と無罪を証明すべきです」

などと書いていたのを、ゴーン氏側から発言の不当性を指摘されると、こっそりと「証明」を「主張」に訂正したツイートを出し直した。

国外逃亡したゴーン氏への「腹いせ」に、「潔白だというなら無罪を証明しろ」と言ったことは明らかだったが、さすがに、それは弁護士でもある法務大臣の発言として、国際的な笑いものになると思ったようで、ツイートを訂正して出し直し、次の会見の際は、「言い間違い」だと強弁した。

このように、法務大臣在任中、その説明や答弁について度重なる批判を受けた森氏だったが、「統一教会」との関係についても、その説明の不合理性は際立っている。

森氏は、旧統一教会施設の建物内に同氏のポスターが貼られていた件について、

「統一教会の関係者と認識せずにポスターをお渡ししてしまった」

とSNSで弁明し、旧統一教会との関係についての朝日新聞の質問には、

「知らない。(誰かが)事務所に置いてあるポスターを持って行ったか、旧統一教会と知らずにポスターを渡したのだと思う」

などと回答していた。

この時点では、ポスターが「家庭連合」の施設に貼られていたことの認識自体を否定し、「持っていかれた。」「素性がわからない相手に渡した」などと、あたかも「盗まれた」か「騙し取られた」かのように説明していました。

ところが、今回、2018年11月11日、その「家庭連合」のイベントで森氏が講演をしていたことが写真付きで報じられると、森氏の事務所は、イベントに参加して演説を行ったことを認めたうえで、

「(家庭連合が)旧統一教会と同じ団体だと気がつかなかった。認識が甘かったと反省している」

とコメントし、2018年11月の時点で、講演の主催者の「家庭連合」は「統一教会」とは関係のない、全く問題のない団体だと認識していた、だからイベントに参加して講演をしたと弁明している。

しかし、その弁明自体が、全く信用できないものだ。

2018年11月のイベントでは、上記新潮記事に掲載されたポスターによれば、旧統一教会の当時の会長の徳野英治氏が「特別講演」を行い、「祈願書・献花奉納」と称する儀式まで行われている。主催者は、「世界平和統一家庭連合福島教区支部」とされている。「教区支部」という言い方からも、単なる「家庭」に関連する団体ではなく、「統一」という言葉を含む名称の「宗教団体」であることは一見して明らかだ。

また、もし、「家庭連合」は「統一教会」とは関係のない、全く問題のない団体だと認識していたというのであれば、いわき市内の「家庭連合」の施設にポスターが貼ってあったことがストリートビューで確認された2019年7月の時点では、「家庭連合」について、どのように認識していたのだろうか。

その時点でも、「家庭連合」は旧統一教会と同じ団体だと知らず、何も問題のない組織だと認識していたということであれば、2018年11月のイベントで講演まで行っているのだから、そのような団体が参議院選挙で応援してくれるのを断る理由はない。いわき市内の施設に森氏のポスターを貼ってくれるというのであれば、喜んで貼ってもらっていたはずだ。朝日の質問に対しても、

「『家庭連合』には参院選で応援してもらったが、それが統一教会と同じ団体だとは知らなかった」

という回答になるはずだ。

一方で、「家庭連合」の側では、「家庭連合」の全国団体の徳野英治会長とともに講演までしてくれた国会議員が参議院選挙に臨んでいるのだから、積極的に選挙応援をしたはずだ。施設内に森氏のポスターを貼っていたのも、その選挙応援の一環として当然の対応ということになる。そのような「家庭連合」の関係者が、森氏の事務所から、森氏の選挙用のポスターを、森氏側に了解を得ることなく勝手に持ち出して、教団の施設内に貼るなどということは考えられない。

森氏が、2018年11月のイベントの際は知らなかったが、2019年7月の時点では、「家庭連合」が、反社会的活動を繰り返してきた旧統一教会と同じ団体だと知っていたとすると、前年の11月にそういう団体のイベントで講演していた事実があるわけだから、そのような団体から参院選で応援してもらうなどということは、あってはならないことのはずだ。何らかの対応をしなければならないのは当然だ。いわき市は、森氏の出生地で、同市内には地元事務所があるわけだから、その市内の「家庭連合」の施設内にストリートビューでもわかるような形で森氏のポスターが貼ってあるのを放置するなどということは考えられない。

参院選挙期間中に「家庭連合」のいわき市内の施設にポスターが貼ってあった事実があっても、前年秋にイベントで講演した事実があっても、「統一教会との関わり」を全面的に否定する森氏の説明は、完全に破綻していると言わざるを得ない。

それに加えて、上記新潮記事では、当時の森氏の秘書が

「19年の参院選が公示される少し前、いわき市の中心部にある統一教会の施設に、森さんと共に足を運んだことがあります」

と証言していることが書かれている。

これが事実だとすると、「統一教会」の施設にポスターが貼ってあったことについての森氏の説明は、意図的な虚言そのものだということになる。

森氏は、法務大臣在任中の国会答弁や記者会見に関して厳しい批判を受けた。

伝統と形式を重んじる法務省において、大臣の決裁を口頭で行ったなどという、あり得ない弁明を繰り返し、答弁に窮すると、「震災の際に検察官が逃げた」などという無関係の話を持ち出して開き直る。そして、記者会見で、弁護士でもある法務大臣としてあり得ない「被告人は司法の場で無罪を証明せよ」などという発言をした時も、ツイートをこっそり出し直すなどという姑息な手段を用いる。

森氏の態度は、「統一教会」との関係に関する説明でも、基本的に変わるところはなく、自分の非を一切認めず、姑息な手段まで弄して強弁を続けるという不誠実極まりない姿勢をとり続けている。

「統一教会問題」で批判に晒されている自民党議員に共通しているのは、マスコミ等で取り上げられる度に、「その場凌ぎ」の最低限の説明に終始する姿勢だ。「統一教会」との関係が深ければ深いほど、説明内容は不自然なものとなり、その後、新たな事実が判明すると、前の説明を覆して、新たな「その場凌ぎ」の不合理な説明を繰り返す。

現在も首相補佐官の職にある森氏は、河井克行氏の辞職を受けて法務大臣に就任し、河井氏が多額現金買収事件で検察の強制捜査を受け、逮捕・起訴された間も、法務大臣として、検察に対する指揮権をも行使し得る重責を担ってきた元重要閣僚だ。その森氏の、「統一教会」と認識して関わったことは全くないかのような説明はあまりに不合理であり、逆に言えば、参議院選挙で応援を受けるような親密な関係があるからこそ、関わりを全否定しようと虚偽説明を繰り返しているのではないか、と考えざるをえない。

8月26日、自民党は、議員本人に事実確認と説明を委ねてきたそれまでの対応を一転させ、全ての所属国会議員を対象に、旧統一教会とその関連団体との接点の有無を確認する調査を開始した。

茂木敏充幹事長名で、各議員事務所に調査書を配布し、(1)教団側の会合への出席(2)祝電の送付(3)会費などの支出(4)寄付やパーティー収入(5)選挙支援――の有無などについて回答を求めるとのことだ。

森雅子首相補佐官が、この調査に対してどのような回答をするのか、それまでの説明に事実に反する点があったとすると、それについてどう弁明するのか。党の調査に対する自民党議員の姿勢を象徴するものとして注目したい。

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「統一教会問題」での“二極化”、加計学園問題の「二の舞」にしてはならない。

安倍晋三元首相殺害事件に端を発した旧統一教会の反社会的活動や同団体と政治の関わりに対する批判は、連日、マスコミでも大きく取り上げられ、大きな社会問題になりつつあります。岸田文雄首相は、「統一教会問題」が原因になったと考えられる大幅な内閣支持率の低下に狼狽したのか、当初、9月だと言われていた参院選後の内閣改造・党役員人事を、急遽前倒しして8月10日に行いました。

この内閣改造は、岸田首相自身が、

「新たに指名する閣僚だけでなく、現閣僚、副大臣を含め関係を点検してもらい、結果を明らかにした上で適正に見直すことを指示したい」

と述べて行ったものであり、「統一教会問題」による自民党への批判を交わす狙いであることは明らかでした。

しかし、ちょうど組閣と同じ日、旧統一教会側が外国特派員協会で記者会見を行い、田中富広会長が、

「当法人は、過去にも『霊感商法』は行ったことはない」

「2009年以降コンプライアンスを徹底し、被害・トラブルは激減している」

などと実態とかけ離れた「正当化」「開き直り」を一方的に行ったことで、逆に、旧統一教会側への批判は一層高まっています。また、「一切非を認めない教団側」に対して、なぜ「関係見直し」を行うのかも明らかにせず、一方的に、「議員個人の点検と見直し」を求める岸田首相の姿勢は、完全に宙に浮いており、何のための内閣改造だったのかわからない事態になっています。

こうした中、改造内閣発足直後から、新閣僚の旧統一教会との関わりが次々と明らかになり、経済再生担当大臣に留任した山際大志郎氏に至っては、組閣後の記者会見で旧統一教会との関係の点検を岸田首相に報告せず、組閣に臨んでいたことが明らかになって批判が集中するなど、新内閣は発足早々から、厳しい批判を受ける状況になっています。岸田首相が、殺害事件から間もなく、前のめりに閣議決定した「安倍元首相国葬」に対しても、安倍氏自身が旧統一教会への関与の中心になっていたことが明らかになったこともあって、世論調査では反対が賛成を大きく上回っています。安倍元首相殺害事件という「一つの刑事事件」によって生じた日本政治の混乱は、抜き差しならない状況になっています。

「犯人の思う壺」論へのこだわり

こうした中、いまだに続いているのが、安倍元首相殺害事件という刑事事件発生を機に旧統一教会への批判が拡大していることに対する、社会の受け止め方をめぐる根本的な意見対立です。

“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り】で、山上徹也容疑者が、旧統一教会に対する「恨み」を晴らす動機で、安倍晋三元首相の殺害に及んだことを契機に、旧統一教会への批判が高まり、政治家との関係等に社会的注目が集まっていることに対して、「山上容疑者の思う壺」だとする見方が間違っていることを指摘しました。

山上容疑者の殺人行為は決して是認されるものではなく厳罰が科されます。それによって、同種犯罪、模倣犯が抑止されます。そのことと、この事件を機に、カルト的宗教団体である旧統一教会の活動やその被害、政治家の関わり等に注目し、社会としてどう対応すべきかを議論することとは、別の問題です。旧統一教会がカルトではなく、政治家が関わること、選挙で応援を受けることも問題はないと考えるのであれば、それを具体的に指摘して反論すればよいのです。

このような私の見解に対して、多くの方が共感し、賛同してくれましたが、一方で、「山上容疑者の思う壺」論に固執し、「共犯者」などという言葉を持ち出す人までいます。その急先鋒が、池田信夫氏です。

私の【前記記事】の引用ツイートで

すでに「思う壺」になっている。郷原さんも紀藤さんも山上徹也の目的を実現するロボットだ。

などと述べたり、【テロに「意味」を与えるマスコミはテロリストの共犯者】と題するアゴラ記事で、私が、同記事で、

犯人の意図するとおりの結果になったからと言って、犯行自体が正当化されるわけではないし、処罰が軽減されるわけでもない。問題は、山上容疑者が行った「告発」を契機として、そのような問題を、社会がどう受け止め、どう扱うか、それらについてどう判断すべきかということだ。

と述べているのを、

これが犯人の思う壺だという批判には、郷原信郎氏も「犯人の意図するとおりの結果になった」ことは認め、「正当化しているわけではない」と苦しい弁解をしている。  

などと全く不正確に歪曲して引用し、

統一教会に報復して世の中を騒がせることが山上の目的であり、郷原氏や紀藤氏は犯人の目的を(期待以上に)実現している

などと、なおも「犯人の思う壺」論に拘り続けて、私や紀藤弁護士を批判しています。 

このような見解が全く論外であることについては、【前記記事】で述べたことに尽きており、池田氏の書いていることに取り合うつもりはありません。

しかも、池田氏は、7月25日に、私のYouTube番組《郷原信郎の「日本の権力を斬る」》で【「アベガー」批判・池田信夫氏と、安倍政治の「光と影」、殺害事件について“徹底討論”】と題して対談(7月26日公開)を行った際にも、以下のように、安倍元首相殺害事件を機に、旧統一教会と政治との関わりの問題を整理する必要があるとの私の意見に対して、ほぼ同じ意見を述べています(17:55~)。

郷原)その時の問題から90年代、反共というのが必要でなくなった90年代に霊感商法の問題とか合同結婚式の問題とか、普通の宗教ではありえないような、まともな宗教団体ではない問題を多数起こしたことは間違いない。だからカルトだと言われても仕方のない状態だったと思います。

その旧統一教会が基本的にずっと脈々と続いて今に至っているのではないか、名称は変わっていますが。ではその実態が本当に完全に変わったのか、90年代の旧統一教会と。

どうもやはりいろいろな話を聞くと表面的にはコンプライアンスがどうのこうのと言い訳を整えたようなところはありますが、基本的な実態は変わっていないのではないか。

だから私は、大昔のことは直接今には関係していないから、驚きの連続ですがそれは別として、今やはり90年代以降の旧統一教会のカルトというところに注目をしたときに、やはりまさに今回の山上容疑者がそうであるように、大変な苦しみ、大変な絶望を味わっている人たちがいるわけです。その人たちをどうするのかということを考えなければいけない。

被害に遭った人たち。これはこれまで政治が十分に向き合ってこなかったのではないか。そこにいろいろなリスクが現に発生していて、今回少なくとも教団に向けての恨みが根本にあったのですが、それがたまたま動画メッセージなどが非常に印象的なものであったために、安倍元首相の方に攻撃の刃が向かってしまったということだと思うのです。

そういう意味では、この事件を機に旧統一教会と政治との関係をやはりしっかり整理する必要があるのではないか。

池田)それは彼らが反社会的な行動をやったことについてはきちんと整理しなければいけないし、与野党がそれを支援するようなメッセージを出していたということも軽率だと思います。だからといって殺していいということにはならないけれども、それはそれとしてきちんと処断すべきだと思います。

池田氏は、私の意見に同意し、「彼ら(旧統一教会)が反社会的な行動をやったことについてはきちんと整理しなければいけない」「与野党が(旧統一教会を)支援するようなメッセージを出していたこと」に対しても、はっきりと「軽率だ」と述べているのです。

それが、どうして、前記のような「犯人の思う壺」論になってしまうのでしょうか。

しかも、「犯人の思う壺」論は、池田氏だけではありません。爆笑問題の太田光氏が、8月7日放送の『サンデー・ジャポン』(TBS系)で、

「そもそも、この問題、きっかけがテロであったことをマスコミはもう少し自覚しないといけない」

「テロによってわれわれが動き出したっていう自覚を持たないと。こうすれば社会が動くって思う人が潜んでいる」

などと述べ、社会学者の古市憲寿氏も、旧統一教会批判に対して、

「山上容疑者の目論みどおりになってしまう」

(8月8日の『めざまし8』(フジテレビ系))と述べるなど、いまだに「犯人の思う壺」論に拘り続ける人は少なくありません。

こうして「統一教会問題」による自民党や政権に対する批判が高まる一方で、「犯人の思う壺」論を声高に主張して、批判を抑えようとする意見も根強く、相互の対立が深まることで、安倍政権時代の森友・加計学園問題をめぐる「二極化」と同様の構図を生じさせています。

その背景には、安倍元首相殺害事件の直後には比較的抑制的だった野党側の政権批判の姿勢が、ここへきて、統一教会問題への与党自民党批判の高まりから、にわかに、それを攻撃材料にしようとする姿勢が強まってきていることがあります。

野党・マスコミなど、自民党に批判的な勢力が、旧統一教会と自民党議員との関係を持ち出して政権批判を行う。それに対して、反論材料としての「犯人の思う壺」論が持ち出され、対立が一層激しくなるという現在の状況は、第二次安倍政権時代の、安倍支持・反安倍の「二極化」に近い構図になっています。

統一教会の名称変更問題と前川氏の「告発」

安倍元首相殺害事件の犯行動機に関連して、旧統一教会をめぐる問題がマスコミで取り上げられるようになった頃から、文化庁が、2015年に、「統一教会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認証したことで、1990年代に、霊感商法や合同結婚式等の問題を起こした「統一教会」の名称を使用しなくてもよくなり、その後の入信勧誘がやりやすくなったとされることに関して、当時の文科大臣であった下村博文氏の関与が取り沙汰されるようになりました。

この問題に関して、2020年12月1日に、元文科省事務次官の前川喜平氏が、鈴木エイト氏のハーバービジネスオンラインの記事を引用したツイートを引用して

《1997年に僕が文化庁宗務課長だったとき、統一教会が名称変更を求めて来た。実体が変わらないのに、名称を変えることはできない、と言って断った》

とのツイートを投稿しています。

鈴木エイト氏は、7月20日、前記YouTube番組《郷原信郎の「日本の権力を斬る」》の【鈴木エイト氏に聞く「旧統一教会に関する『確かなこと』」】での対談(7月22日公開)の中で、統一教会の名称変更問題について、次のように述べています。これは前川氏が引用した2020年の上記のハーバービジネスオンラインの記事とほぼ同じ内容でした。

2015年になって急に名称変更が認められた。その時に僕は知り合いの編集者から連絡があり、永田町で大変な噂になっているよ、と。名称変更に当時文部科学大臣の下村博文さんが文化庁に圧力を掛けた、という噂が駆け巡っているという話を聞いた。

これが仮に事実だとしたら、道義的に問題ですよね。そこから僕は取材を始めて、いろいろ調べていく中で統一教会の関連紙の「世界日報」というメディアがあるのですが、そこの月刊誌「 Viewpoint」という月刊誌がありまして、そこの表紙を下村さんがたびたび飾っていると。

直前2年間で3回ほど、中にインタビュー記事なりが載ったのです。近年、その直前の2年間で3回も載ったのは下村さんだけ。大臣執務室に世界日報の記者、幹部を招き入れた。こういう形でインタビューを録っているわけです。

これはかなり近しいと。そのあと、これは内部情報なのですが、下村博文さんの後援会「博友会」の中に統一教会の信者がいるという情報を得ました。政治資金収支報告書を見ると、翌年2月に世界日報の当時の社長から献金を受けていることが載っていました。

このあたりのことから、永田町で噂になっていることもそれなりの確度がある情報なのかな、ということで一つの情報として置くようにしました。

ただ、そこだけを取り上げるとこれは単なる噂なので。当然文化庁に下村文部科学大臣から圧力が掛かりましたという文書が残っているわけではないので、当然そこは分からないですよね。

下村さんも、当時僕は「週刊朝日」でこのことを追っていた時に取材してもノーコメントで何も返事はしなかったのですが、今回このような騒ぎになって初めて「自分は関与していない」ということをツイートしていたのですが、だからといってそういうことがなかったとは言えない。これは下村さんが圧力を掛けましたと決定事項として出したわけではありませんが、一つの疑惑としておいておくという、材料としてありますと。それだけですね。

前川氏の前記ツイートは、自らが文化庁宗務課長だった1997年の時点で、統一教会の名称変更の動きに対して、「実体が変わらないのに、名称を変えることはできない」と言って認めなかったことを明らかにすることで、2015年に統一教会の名称変更を認めたことの不当性を印象づける一種の「告発」でした。それは、鈴木氏の取材で明らかになっていた統一教会と下村氏との親密な関係と、「文科大臣として、統一教会の名称変更に関与した疑い」を関連づけようとするものだったと考えられます。

この前川氏のツイートに着目して、名称変更の問題を最初に取り上げたのが7月22日の日刊ゲンダイのインタビュー記事でした(《前川喜平・元文科次官が明かす「統一教会」名称変更の裏側【前編】》)。

ここで、前川氏は、1997年の時点での統一教会の名称変更への文化庁宗務課長としての対応について、次のように説明しています。

手続き上の説明をすると、認証の対象は宗教法人の規則です。社団法人などで言えば、定款にあたるもの。宗教法人の規則の中に必ず名称を記さなければならず、名称変更にあたっては規則を改めて認証する必要があるのです。宗務課がどう対応したかは、ツイートした通り。組織の実体が変わっていなければ、規則変更は認証できない。そう判断し、申請を受理しなかったのです。申請を受けて却下したわけではありません。水際で対処したのです。

教団側が名称変更を求めた理由は、「世界基督教統一神霊協会」とは名乗っておらず、「世界平和統一家庭連合」として活動しているから、ということでした。

霊感商法で多くの被害者を出し、損害賠償請求を認める判決も出ていた。青春を返せ裁判などもあった。「世界基督教統一神霊協会」として係争中の裁判もあり、社会的にもその名前で認知され、その名前で活動してきた実態があるのに、手前勝手に名称を変えるわけにはいかない。問題のある宗教法人の名称変更を認めれば、社会的な批判を浴びかねないという意識はありました。

ここで、前川氏は、96年9月に施行された「改正宗教法人法」との関係にも言及し、法改正はオウム真理教による一連の事件を受けた動きで、全国的に活動する宗教法人の所轄庁を文部大臣とし、文化庁が実務を担うことになり、怪しい教団を認証しない考え方へ大きく変化した中で、統一教会が名称変更の認証を求めてきたのことへの文化庁文化部宗務課の対応について説明しています。統一教会は、信者が引き起こした刑事事件はいくつもあり、教団側が敗訴した民事裁判もたくさんあるので、公序良俗に反する宗教法人として解散させることはできないものか、公共の福祉の侵害や宗教法人の目的逸脱などの規定を適用できないものか、内部で検討したが、当時は厳しいとの結論に至ったと述べています。

そして、

こうした経緯からも、統一教会が求める名称変更を文化庁が認証したのは、方針の大転換だったのです。20年近く押し返してきたわけですから。第2次安倍政権下の2015年8月のことで、僕は事務次官に次ぐ文科審議官のポストに就いていました。

と述べて、疑惑の矛先を、2015年の下村文科大臣時代の統一教会の名称変更の認証の方に向けました。

【前編】はここで終わり、前川氏は、25日東京新聞の取材に応じ、26日に、【旧統一教会、19年越しで名称変更のなぞ 下村文科相在任中に突如実現】と題する記事が出され、28日には、ほぼ同じ内容の日刊ゲンダイのインタビュー記事【後編】が出されています。

そこでは、文化庁が統一教会の名称変更を認証したことについて

事前に担当課長の文化部宗務課長が説明に来たことは覚えています。「今まで申請を受理しない方針でやってきたのに、なぜ認証するのか」と聞いたはずなのですが、肝心の理由はよく覚えていない。やらざるを得ない事情があったはずです。

と、当時、担当課長から説明を受けたことを明らかにしています。

そして、下村氏が、統一教会の名称変更について公開した回答(11日付)

《文化庁によれば、「通常、名称変更については、書類が揃い、内容の確認が出来れば、事務的に承認を出す仕組みであり、大臣に伺いを立てることはしていない。今回の事例も最終決裁は、当時の文化部長であり、これは通常通りの手続きをしていた」とのことです》

を引用し、

統一教会に関しては長年維持してきた方針を大きく転換するわけですから、間違いなく大臣まで上げますよ。まず担当課長である宗務課長が上司の文化部長に相談。文化部長にしても自分限りで判断できる内容ではありませんから、次長に上げ、さらに長官に上がり、最終的に大臣にお伺いを立てる。下村さんは了解を与えたと思います。

もっとも、これはボトムアップだった場合の話。何らかの政治的圧力がなければ名称変更の認証には踏み込まないはずですが、その圧力が大臣からかかっていた可能性は十分にあります。

と述べて、この時、文科省が、統一教会の名称変更を認めたのは、政治的圧力によるものであったことを、直接の体験に基づく証言ではありませんが、ほぼ「断言」しています。

そして、7月29日には、毎日新聞でも、【旧統一教会の名称変更、異例の大臣事前報告 文化庁、受理の経緯】と題して、ほぼ同じ内容の記事が出されました。

これらの前川氏の話を内容とする一連の記事によって、統一教会の名称変更時に文科大臣だった下村氏の関与の疑いが強まったことを受け、下村氏は、8月4日、毎日新聞の取材に、旧統一教会の名称変更申請を文化庁が認めたことについて、

「今となれば責任を感じる」

と述べました。一方で、

「当時は名称変更もほとんど報道されなかった。担当者から『受理しなければ(行政上の)不作為として法的に訴えられ、負ける可能性がある』と報告があった」

「政治的圧力や、大臣としてそういうふうにしたということは全くない」

などと述べたとされました。

そして、8月5日には、国会内で、立憲民主党と共産党の「合同ヒアリング」が行われ、前川氏が呼ばれ、統一教会の名称変更の問題について、2015年の日刊ゲンダイ、東京新聞、毎日新聞等で述べた内容の話を行いました。

「加計学園問題」との共通点

このような統一教会の名称変更の問題は、第2次安倍政権時代の「加計学園問題」と構図が極めてよく似ています。

加計学園問題では、2016年、「安倍一強」と言われる安倍内閣への政治権力の集中の中で、安倍首相と親密な関係にある加計孝太郎氏が経営する加計学園の獣医学部新設が認められたことが、国からの不当な優遇だったのではないかが問題とされました。

一方、統一教会の名称変更問題は、統一教会が名称変更の認証申請の話を文部科学省に持ち込んだ1997年以降、文科省が、申請を受理して来なかったのが、2015年、一転して受理され、認証されたことに、文科大臣の意向など政治の圧力が働いていたのではないかが問題とされています。

加計学園問題では、「安倍首相の指示・意向が示された事実があったか否か」について、仮にその事実があったとしても、安倍首相がそれを認めることはあり得ないし、その指示・意向を直接受けた人間がいたとしても、それを肯定することは考えられません。直接的な証拠が得られる可能性はほとんどないに等しいのです。

統一教会の名称変更問題についても、大臣が直接それを指示したか否かということは絶対に当事者でないと分からないことなので、直接的な証拠が出てくる可能性は極めて低いです。

そういう意味で、二つの問題は、「政治家の関与」を主題とする限り「疑惑は疑惑のままで終わる」という点で共通しています。

一方で、2つの問題は、文科省に関連する問題であり、このような「政治家の関与の疑惑」を追及する側で大きな役割を果たしているのが、元文科次官の前川氏であることも共通しています。

しかし、統一教会の名称変更問題について「政治の力が働いた」と断言する前川氏の説明にも、1997年の時点で、名称変更の申請を「水際」で処理したとの説明と、2015年の名称変更の際の政治的圧力について断言していることとの関係など、疑問な点がないわけではありません。

1997年の時点で名称変更の「申請を受理しなかった」のは、受理すると名称変更を認証せざるを得なかったからでしょう。そうだとすれば、2015年の時点でも、申請を受理するかどうかが最大の問題であり、受理してしまえば、文科省側として、名称変更を認めないのは困難だということになり、認証するかどうかに文科大臣の意向が働く余地はありません。

疑問が残るとすれば、それまで、18年間にわたって、名称変更を「水際」で撥ね返されてきた教団側が、2015年には、訴訟をも辞さない態度で申請するような態度に変化したことに、文科大臣などによる「政治的手引き」があったのかどうかです。しかし、この点は、政治家と教団側との関係の問題であり、前川氏自身も、推測する根拠すら持ち合わせていません。

この話を最初に聞いた前記の鈴木エイト氏とのYouTube対談でも、私は、以下のように述べています。

もともと、一定の要件を満たさないから名称変更を認めません、という行政庁側の処分が行われているのなら、判断が行われているのなら、その判断が変わってきたことの理由の説明が必要ですが、そうでなく、「入り口で押さえていた。受理しないように」ということだと、認めていなかった時代も判断が文書になっていないし、形に残っていない。そうすると結局、不透明な形で「認めない」から「認める」にひっくり返った経過は分からないわけですね。これはそれまでのプロセスも含めて、不透明な形であること自体が問題だということかもしれませんね。

いずれにせよ、在任中に取り扱った案件についての対応の中身を明らかにするという、形式上は国家公務員法上の守秘義務違反にもなり得る「告発的意図での発言」という、中央省庁の事務次官の要職にあった者による稀有な行動であるだけに、それが、追及される側の危機対応の混乱を招き、疑惑を一層深める結果になる、という点で、今回の問題と「加計学園問題」とは共通しています。

最大の問題は政権側と野党側の対応の「拙劣さ」

そして、問題なのは、そのような事態において、追及する野党側と追及される与党側のいずれの対応も拙劣で、それが不毛な論争を繰り返すことになり、国民の政治不信を増大させることです。

加計学園問題では、「総理の御意向」についての文書が新聞にリークされたことに対しても、内閣府側の文書・資料を全く示さず、菅官房長官が「法令に基づき適切に対応」と言って文科省の文書についての再調査を拒否し続けるなど、拙劣極まりない対応を続け、内閣への信頼失墜、支持率の急落を招きました。

今回の統一教会の名称変更問題についても、下村氏は、当初、

「文化庁によれば、大臣に伺いを立てることはしていない。今回の事例も最終決裁は、当時の文化部長」

などと他人事のようなツイートをしましたが、それを前川氏に逆手にとられ、下村氏は、その後、認証の前後に報告を受けていたことを認め、その際、「今となれば責任を感じる」などと、非を認めるかのような発言まですることになりました。それによって疑惑が深まったことは言うまでもありません。

加計学園問題に関しては、規制緩和と行政の対応の問題、国家戦略特区をめぐるコンプライアンスに関する議論など、多くの重要な論点がありました。しかし、実際の野党の追及は、野党合同ヒアリングを開催し、前川氏の証言に依存する「一本足打法」で、国会で、「安倍首相自身の関与・指示があったのではないか」と問い質す不毛な論争を繰り広げました。

このような「政局的」な国会での追及は国民に評価されるはずもありませんでした。安倍政権の対応の拙劣さもあって、マスコミが煽り立てて疑惑が一層高まり内閣支持率は急落しますが、野党の姿勢も、逆に国民からは「批判のための批判」と見られ、批判の受け皿にならず、「支持政党なし」が急増するという異常な状況となりました。

今回の統一教会の名称変更問題についても、立憲民主、共産の合同ヒアリングに前川氏を呼び、文科大臣時代であった下村氏の関与について公開の場で話を聞くなど、加計学園問題と同様の展開になりつつあります。

名称変更の経過からすると、文科省側に、何らかの政権への忖度が働いていた可能性は否定できないし、下村氏の言動からすると、直接関与していたことも考えられないわけではありません。しかし、それらが直接の証拠によって明らかになる可能性が極めて低いことは、加計学園問題での安倍首相の関与の問題と同様です。野党が、そのような追及に拘ることは、加計学園問題と同じ轍を踏むことになりかねません。

このような野党側の姿勢から、政権支持者側が、「統一教会問題」を政治問題化することへの反対の論拠として持ち出しているのが「犯人の思う壺」論なのです。

「統一教会問題」の真相解明と被害救済を

90年代に、霊感商法・合同結婚式等のカルト的活動で、信者の経済的破綻・家庭崩壊等の悲惨な被害を生んできた統一教会という宗教団体が、その後、どのように変化し、今、どのような実態になっているのか、関連団体が「平和連合」などという言葉を使った活動を行っていても、それは、結局のところ、日本人信者がマインドコントロールの下で収奪された資金で大部分が賄われたものではないかなど、旧統一教会に対する疑念は全く払拭されていません。そのような疑念に正面から向き合い、教団の活動の実態を明らかにし、被害の救済に取り組むことが、教団と深い関わり持ってきた自民党の、そして政治全体にとっての最重要課題のはずです。教団側も、本気でコンプライアンスに取り組んでいると言うのであれば、これまでの活動と信者からの献金の実態を自ら明らかにして積極的に協力するのが当然です。

「時の政権や有力政治家の関与」をめぐる国会論争に終始し、政権への疑惑が高まって内閣支持率は低下するが、野党の支持も低迷し、政治全体の不信が高まるという「愚」を繰り返す一方、旧統一教会と信者・被害者の関係についてはこれまでと何も変わらない、というのでは、山上容疑者にとって、全く「思う壺」ではありません。

今も続く信者や信者二世の被害の実態を明らかにし、その救済を図ること、そして、その「統一教会」に政治家がどのように関わってきたかを明らかにし、戦後の政治・社会に纏わりついてきた「負の遺産」を解消することが、安倍元首相殺害事件という誠に不幸な出来事を、本当の意味で社会に活かすことにつながります。それこそが、国民の多数の反対を押し切って「国葬儀」を行うこと以上に、安倍晋三氏という政治家の真の弔いになるのではないでしょうか。

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安倍元首相殺害事件、“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り

安倍晋三元首相の銃撃事件で逮捕された山上徹也容疑者が、母親が宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」にのめり込み、多額の献金で破産し、家庭が崩壊したことで恨みを持ち、そのトップを殺害しようとしたが、それが困難だったことから、同団体とつながりがあると思えた安倍氏を襲撃したと供述していると報じられたことを契機に、自民党を中心とする保守系政治家と旧統一教会との関係が、マスコミで、連日大きく取り上げられている。

それに対して、立憲民主党、日本維新の会などは、党所属議員と旧統一教会との関わりを調査し、その結果を公表するなどしているが、自民党は、茂木敏充幹事長が、

「党とは組織的な関係はないことが確認できた」

と繰り返し、関係が明らかになった議員個人が弁明するだけで、所属議員と旧統一教会との関係を積極的に調査しようとはしない。

マスコミの側も、TBS、日本テレビ等が、ワイドショー等で連日、長時間かけて「旧統一教会と政治の関係」を取り上げているが、フジテレビ、NHKなどは、この問題については、政党や政治家側の対応を取り上げるだけで、積極的に取り上げようとはしない。

当初、連日、「羽鳥慎一のモーニングショー」「大下容子のワイドスクランブル」等で旧統一教会問題を取り上げていたテレビ朝日も、出演者が、

「『政治の力』で旧統一教会に対する捜査が中止された」

と発言して以降、テレ朝のワイドショーでは全く取り上げなくなっている。

このように、この問題をめぐって極端に対応が分かれていることの背景に、「安倍元首相を殺害した犯人の思う壺にしてはならない」、という意見が影響しているように思える。

元自民党副総裁の高村正彦氏は、過去に、統一教会の訴訟代理人を務めたことについて週刊文春の取材を受け、

「勝共連合と統一教会がいいか悪いかは別として、この事件で統一教会が取り上げられることは、テロをやった人の思う壺なので正しいとは思えない」

などと発言した(週刊文春7月28日号)。この意見が、一部で「正論」のように受け止められているようだ。

確かに、意図的に人の命を奪う「殺人行為」は、絶対に許容できないものだ。犯人の意図どおりの結果となり、目的が実現してしまうことで、模倣犯や同様の殺人行為が誘発されるというのであれば、犯人の目的が実現しないよう配慮する必要があるということになる。

しかし、一般的に考えた場合、果たして、犯人が意図したとおりの結果になることが、「犯人の思う壺になる」として、避けるべきことなのだろうか。報道などで、そのような配慮をする必要があるのだろうか。

殺人にも様々なものがある。通り魔殺人や衝動的・偶発的殺人などは、犯人が達成しようとする明確な目的がない場合も多いが、計画的殺人には動機があり、それによって、犯人が実現しようとする目的がある。特に、山上容疑者のように、ただちに逮捕され処罰されることを覚悟して、公然と行われる確信犯的な殺害行為の場合、それによって実現しようとする明確な目的がある。その多くは、被害者側に対する「恨み」である。「恨み」によって確定的殺意を生じ、逮捕覚悟で殺害に及ぶという典型的な殺人事件の場合、殺害に成功すれば「恨み」を晴らすことになる。そうならないよう犯行で受傷した被害者の救命行為が行われるが、そのかいもなく被害者が死亡した場合には、犯人の目的は、完全に達せられることになる。

しかし、殺人を犯した者に対しては、厳正な刑事処分が行われる。刑事裁判が行われて、情状に応じた刑罰を科す判決が下されることになる。「怨恨による確定的殺意に基づく計画的殺人」に対しては、特に厳しい処罰が行われる。犯人は、長期間、場合によっては一生服役することになる。それによって、犯人の再犯を防ぐだけでなく、同種の犯罪を抑止する「一般予防」も図られるというのが、刑罰権の発動によって犯罪を抑止する国家の基本的作用だ。

それゆえ、恨みによる殺人事件が起き、その結果、犯人の恨みが晴らされたからと言って、他人に恨みを持つ人間が次々と殺人事件を起こすわけでもないし、ただちに同種の行為、模倣犯が誘発されることにはならない。通常、事件の報道において、怨恨が動機であることやその中身の報道が差し控えられることもない。

事件の捜査の中では、そのような動機の要因となった事実が実際にあったのかどうか、動機の裏付け捜査が行われる。公開の法廷で行われる刑事裁判で、その捜査結果が検察官立証の中で公にされる。弁護人にとっても、殺人事件の動機は「重要な情状事実」なので、被疑者・被告人から十分に話を聞いて、弁護人立証を行うことになる。

社会の耳目を集める事件であれば、犯行動機に関連する事実、被害者に関する事実について、詳細な報道が行われることが多い。犯行動機につながった被害者側の行動がセンセーショナルに報道され、それが過熱することもある。それは、時に、死者の名誉を害し、犯人にとっては犯行の目的実現を一層高めることになるが、それが「犯人の思う壺」だと言って、報道が差し控えられることはない。

殺人の動機となった「恨み」が、被害者個人ではなく、被害者が所属する、或いは関連する組織に対して向けられたものである場合、構図は若干複雑になる。その場合、「恨みを晴らす」という動機の中に、当該組織の悪事を「告発」し、その事実を社会に晒すことが含まれることもある。

この場合、まず問題となるのは犯人が「組織に対する恨み」を抱くに至った事情、その恨みを逮捕・処罰を覚悟してまで晴らしたい、当該組織の問題を社会に明らかにしたいと思うだけの「組織側の悪事」が実際にあるのかどうかである。そして、もう一つ重要なことは、そのような「組織に対する恨み」が、なぜ被害者「個人」への殺意に向かったのか、それが、了解可能なものなのかという点である。

それらは、犯行動機に関する重要事実として当該事件の刑事裁判で認定されることになるので、捜査の段階でも十分な証拠収集、事実解明が行われる。社会の耳目を集める事件であれば、それらの点に関して、様々な方法で取材が行われ、裁判で明らかになる事実を先取りする形で報道が行われることになる。

山上容疑者は、旧統一教会という組織に対して恨みを抱き、最も影響力の大きい「旧統一教会の関係者」である安倍元首相を殺害することによって、旧統一教会に対する恨み、その悪事を社会に晒したいという目的で犯行に及んだとみられる。

そのような山上容疑者の犯行動機に関する供述を裏付ける事実があるのかどうか、つまり、「旧統一教会」の山上容疑者自身やその家族に対する「悪事」が実際にあったのか、それがどの程度のものだったのか、捜査によって解明が進められている。また、そのような「旧統一教会への恨み」を安倍元首相に向けた理由が、了解可能なのか、合理性があるのかについても、鑑定留置によって、山上容疑者の精神状態について精神医学に基づく分析が行われている。

犯行動機に関する裏付け捜査として、山上容疑者の「旧統一教会への怨み」の原因となった、「母親が旧統一教会にのめり込んで破産し、家庭が崩壊した事実」が確認される。事件の背景として欺罔的な信者勧誘や家庭を崩壊させるような多額の献金という「反社会性の問題」も重要となる。事件をきっかけに、それらが、犯行動機に関する事実として報道されるのは当然だと言えよう。

そして、山上容疑者の殺意が安倍元首相に向かった原因について、国会議員が、旧統一の教会イベントに参加したり祝電を送ったりすることで、そのような団体に「お墨付き」を与え、入信の勧誘や信者への献金要請をやりやすくしている事実があり、安倍氏が、UPFの国際大会でリモート基調演説をしたことが山上容疑者の安倍氏への殺意につながったとされている。そのような安倍氏の行動が旧統一教会への「お墨付き」に絶大な効果があったとすれば、殺害の動機に関する重要事実だ。関連団体の国際行事に動画メッセージを送った事実や、その背景にあった旧統一教会と安倍氏との関係も、安倍氏に殺意を向けたことの裏付け捜査の対象となるのは当然だ。これらが事件の捜査で解明されていくだけでなく、それらに関連する事実が、社会の関心事として報道されるのも、事件の社会的、政治的重大性を考えれば当然のことと言える。

山上容疑者の犯行の目的には、単に恨みを晴らすだけではなく、「最も政治的影響力が大きい旧統一教会のシンパであった安倍元首相」を殺害することで、社会の関心を旧統一教会の反社会性と、政権与党である自民党議員との関係に向けようとする「告発的動機」もあったように思える。実際に、事件を機に、その問題がマスコミ等で大きく取り上げられ、相当程度目的を実現している。

高村氏が言う「犯人の思う壺」というのは、このような「告発的動機」の目的が達成されることを問題にしているように思える。しかし、その点について犯人の意図するとおりの結果になったからと言って、犯行自体が正当化されるわけではないし、処罰が軽減されるわけでもない。問題は、山上容疑者が行った「告発」を契機として、そのような問題を、社会がどう受け止め、どう扱うか、それらについてどう判断すべきかということだ。

旧統一教会の欺罔的な入信勧誘や多額の献金要請などが反社会的なものとして報じられていることや、自民党議員への選挙協力などの報道内容が事実に反しているとか評価が間違っているというのであれば、誤りを指摘し、反論すればよいことである。旧統一教会と国会議員との関係を取り上げること自体が、山上容疑者の意図を実現し、「犯人の思う壺」になることを理由に差し控える理由は全くない。

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郷原信郎の発信、the Letterへの一元化について(有料配信も始めます)

海外では、ロシアのウクライナ侵攻後の世界的な緊張激化、国内では、安倍晋三元首相殺害事件による政治の不安定化、統一教会の政治・社会問題化など、昨年までは全く予想しなかった事態に、社会の環境大きく変化しています。

こうした中、その時々の状況に応じて、確かな事実を指摘し、本質に迫るという姿勢で発信を続けてきましたが、今後も、その活動を一層強化していきたいと思います。

これまで、メルマガ「Compliance Communication」や、会員制メルマガ「まぐまぐ!」の配信、ブログ「郷原信郎が斬る」、Yahoo!ニュース「問題の本質に迫る」などの投稿、YouTube《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》のアップなどで “郷原信郎の社会への発信”を行ってきましたが、それらをthe Letter《郷原信郎の「世の中間違ってる!」》からの配信に一元化し、リアルタイムでお届けできるようにしました。

ブログ「郷原信郎が斬る」、Yahoo!ニュース「問題の本質に迫る」への投稿は、従前どおり行いますが、同一内容を、それらの投稿に先行してthe Letterで配信します。YouTube《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》や《論座》等での発信も、その都度、the LetterでURLと概要をご案内します。

これらは、the Letterに登録して頂くと、すべて無料で配信されます。

それに加えて、the Letterの有料配信では、《「自分史・長い物に巻かれない生き方」》と《事件・事故・不祥事を“深堀り”する》の2つのコンテンツをそれぞれ月2回、合計4回のペースでお送りします。

◆事件・事故・不祥事を“深堀り”する(毎月原則10日、25日に配信)

特定のテーマに関して詳しく解説し、深堀りするシリーズです。

多くの方が、知っている、聞いたことがある事件、事故・事故・不祥事等について、関連する事実を詳しく、背景・構造も含めて、深堀りして解説していきます。 

まずは原発事故に関するシリーズとして、【世界最高額ともいわれる賠償額の東電株主代表訴訟・地裁判決とその背景を読み解く】の連載を開始します。東京電力福島第一原発事故をめぐって勝俣恒久元会長ら4人に13兆3210億円を支払うよう命じた株主代表訴訟の判決が出されましたが、この賠償額は、おそらく、個人に対する民事訴訟の損害賠償額として世界最高額だと思われます。このような巨額の賠償命令が出された背景には、原発をめぐる法的枠組みに関する構造的な問題があります。この原発事故に関しては、検察審査会の起訴相当議決を受けて起訴された刑事事件、事故についての国の過失を問う国賠訴訟のほか、全国各地で民事訴訟が提起されています。それぞれ事実認定、判断が異なり、今後、それらの関係が、極めて困難な問題に発展していく可能性があります。

これらの関連裁判の全体的状況を概説した上で、それらの判断が相互にどのような関係にあるのか、解説します。原発をめぐる問題と日本の司法の現状を考えるシリーズです。

このシリーズ以降も、私の独自のコンプライアンス論、専門分野である独禁法、公共調達論、金融商品取引法等の分野に関連する問題を取り上げ、「深堀り」していきます。

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◎「自分史・長い物に巻かれない生き方」(毎月原則5日、20日に配信)

官公庁や大企業などの組織に属した者にとっては、「長いものに巻かれる」というのが、通常の生き方です。

官公庁や大企業では、多くの場合、一度所属した組織との関係は、退職し、組織を離れても続きます。その組織と価値観を共有し、組織の慣行にしたがう人間には、有形無形の利益が与えられ、それは、組織を離れた後も続きます。退職者の中でも、組織内での地位に応じたヒエラルキーが形成され、その地位に応じた恩恵が組織からもたらされます。こうして、組織の論理にしたがって生きていくことで生涯、恩恵が施されるというのが、旧来の日本社会でした。それが、そういう組織に属した者にとって、圧倒的に有利だからです。

そういう組織の典型と言える「検察」という組織に、私は、幸か不幸か迷い込みました。そして、検事として勤務する中で、その組織の論理、組織の体質に強い違和感を覚え、組織内で、検察の旧来のやり方、伝統的な価値観に反発し、抗い続けながらも、自分なりの検察の在り方をめざしてきました。そして、その活動に限界を感じ、23年目で退官し、その後、弁護士として活動する中でも、検察組織の体質に関わる根本的な問題を指摘し、正面から批判してきました。

それだけでなく、世の中の様々な権力・権威に対して、当然の前提のようにされてきたことに根本的な疑問を投げかけ、様々な事件・不祥事等について、問題の本質から論じてきました。不当な権力の行使に対しては、その犠牲になった人達とともに、戦ってきました。

それが、私がこれまで貫いてきた「長いものには巻かれない生き方」です。

「自分史・長い物に巻かれない生き方」では、私がそういう生き方をするようになった経緯を振り返り、なぜ、そういう生き方を続けてきたのか、その原動力は何だったのか、理学部を卒業して、「地質屋」として旧財閥系鉱山会社に就職、1年半余で退職し、独学で司法試験に挑戦し、合格。検察の世界に引きずり込まれ、検事として仕事をすることになった20代に遡ります。

そして、1983年の検事任官後には、昭和の終わりから平成にかけての様々な事象が登場します。

奄美群島を管轄する鹿児島地検名瀬支部の支部長検事として、当時、「日本のフィリピン」とも言われた、日本で唯一の小選挙区「衆議院奄美群島区」での保岡興治VS徳田虎雄の猛烈な買収合戦の摘発・捜査、そして、地域を蝕んでいた公共工事利権に絡む事件にメスを入れる検察捜査に取り組みました。1990年、日米構造協議で米国からの独禁法制裁強化の圧力を受け、独占禁止法違反の告発の枠組みを作り、その後、様々な違反事件の告発に従事、それは、1992年の埼玉土曜会事件での、公取委・検察・ゼネコン・自民党政治家がからむバトルに発展していきます。それと密接に関連する東京地検特捜部でのゼネコン汚職事件での違法捜査、暴力的取調べ、後にそれを題材にペンネームで書いたのが推理小説「司法記者」WOWOWドラマ「トクソウ」の原作)です。

東京地検公安部では、過激派非公然活動家との取調べ室での対峙、オウム真理教事件での最大の難事件の一つだった自動小銃大量製造事件の捜査を総括し、組織的武器製造の全貌を解明しました。

これらの事件の中では、梅澤節男、小粥正巳公取委委員長、宗像紀夫氏、熊崎勝彦氏などの特捜幹部、そして、当時、殆ど「従軍記者」状態の司法記者の中で、検察の実態に問題意識を持つ数少ない記者だった、若き日の山口寿一読売新聞記者(現同社社長)など、個性的な人物が実名で登場します。

この「自分史」は、「まぐまぐ!」の有料メルマガで、(1)~(22)まで配信してきたものを、今回、大幅に加筆修正して、the Letterの有料配信でお送りしていきます。

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安倍元首相殺害・山上容疑者の「鑑定留置」、考え得る理由と影響

鑑定留置とは

安倍晋三元首相が奈良市で参議院選挙の街頭演説中に銃撃されて死亡した事件で、逮捕された山上徹也容疑者について、7月25日から11月29日までの約4か月間、鑑定留置が行われることになった。

鑑定留置とは、被告人または被疑者の心神や身体に関する鑑定をさせるにあたって、必要がある場合に、裁判所が、期間を定めて被告人または被疑者を病院その他の場所に留置することであり、多くは、刑事責任能力の有無(心身喪失であれば無罪)・程度(心身耗弱であれば刑の軽減)についての鑑定のために行われる。

山上容疑者は、母親が入信した宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」への恨みから、同連合とつながりがあると思った安倍氏を襲撃したと供述しており、長期間にわたる武器製造や事件直前の下見など、綿密な計画の下に行われた一方で、関連団体の行事に安倍氏が寄せた動画メッセージを視聴して安倍氏に対する殺意を抱いたという殺害の動機が飛躍している、というのが、責任能力の有無を調べる鑑定留置を行う理由と説明されているようだ。

しかし、山上容疑者が供述している犯行動機のうち、「母親が旧統一教会にのめり込み破産、実兄の自殺、家族崩壊に至ったことで、教団に激しい恨みを持った」という点までは十分に理解可能である。問題は、「それによって教団のトップに対して抱いた殺意が安倍氏への殺意に転化した」点だが、「動画メッセージ」といっても、単なるビデオメッセージではなく、関連団体の「天宙平和連合」の国際的行事で、「基調演説」として「リモート登壇」したものだ。それを見た山上容疑者が、首相退任後も大きな政治権力を持つ安倍氏が基調演説を行うことで、自分の家庭を崩壊させ人生を破壊した旧統一教会が政治的な「お墨付き」を得たともいえ、その反社会的行為に対して国が厳しい対応をとることが絶望的になったと考えたとしても、決して不自然なことではない。

殺人を犯す人間の精神状態は、程度の差はあれ、正常の範囲を超えたものがある場合が多い。そういう意味では、殺人犯について精神鑑定の必要がある場合も多いだろう。

山上容疑者の犯行が、長期間にわたる綿密な計画の下に行われたことからすると、責任能力に関して疑義が生じ、公判で弁護人が心神喪失・心神耗弱などを主張したとしても、認められる可能性は低い。検察官として起訴前に鑑定留置を必要としたのは、むしろ、山上容疑者が自作銃等による殺人を計画し実行するまでの長期間にわたる心理の経過について、精神科の専門医の視点から専門的知見に基づく分析をしてもらい、その結果を、山上容疑者の取調べや刑事処分の参考にしたいということのように思える。

それにしても、鑑定留置の期間は一般的には2、3カ月程度であり、鑑定医側から延長の必要性があると判断した場合に延長されるのが通例だ。それと比較して、当初から4カ月という期間は、かなり長い。

そのように考えると、今回の鑑定留置には、「責任能力について専門医の判断を求める」という本来の目的以外の他の事情も関係しているように思える。

捜査に要する期間の問題

まず、安倍氏殺害事件の起訴までの「捜査の期間」の問題だ。

この事件は、犯行が公衆の面前で行われ現行犯逮捕されたもので、安倍氏殺害の外形的事実に争いはない。とは言え、「1年以上かけて自作銃の作成に取り組み、完成させ、山中で試し撃ちを繰り返し、安倍氏の行動を把握して犯行に及んだ」という「犯行に至る経過」について、被疑者から詳細に供述をとった上で、その経過全般について詳細に裏付け捜査を行うのには相当な時間を要する。

一方で、遺体の司法解剖で死因を特定し、発射された銃弾すべての確認と、自作銃から発射されたものであることの特定を行う必要がある。一部には、「山上容疑者の銃撃と同時に、別方向から狙撃された可能性」を唱える極端な見方もあるので、その可能性を否定するためにも、遺体の状況が、自作銃による銃撃と完全に符合することが必須であり、その点の確認も徹底して行われるはずだ。

そして、被疑者が供述する「動機」について、旧統一教会への「恨み」の形成と、それが安倍氏への殺意に転化した経過に関して、教団側からの聴取、安倍氏が関連団体に動画メッセージを依頼されて送付した経過、それが、被疑者の知るところになった経緯等も解明し、殺害の動機に関する供述についても詳細な裏付け捜査を行う必要がある。

このような膨大な捜査を、逮捕後の警察・検察の手持時間の72時間・当初勾留の10日・延長後の10日、の合計23日間で全て終えて起訴する、というのは至難の業だ。捜査のための時間が不足することは否めない。

マスコミとの接触の問題

そして、このまま起訴がすべて完了すると、もう一つの問題が考えられる。

起訴が完了すれば、それ以降、弁護人以外との接見も可能となる(現在はおそらく接見禁止であろうが、山上容疑者について、「起訴後の接見禁止」の理由は考えにくい。)。

そうなると、マスコミ関係者等が面会を希望し、山上容疑者の側も、供述している犯行動機からすると、積極的に応じてマスコミに発言する可能性もある。現在、警察の情報として報じられている犯行動機が、山上容疑者からマスコミが直接聞き出した内容として伝えられ、報じられることになると、安倍元首相の「国葬儀」をめぐる議論にも影響を与えかねない。

その点、4カ月にわたる鑑定留置の期間というのは、弁護人以外との接見は行えないので、マスコミと山上容疑者を確実に遮断することができる。

「鑑定留置が行われること」が世の中に与える影響

山上容疑者の犯行動機についての供述が警察からの情報で明らかになったことで、旧統一教会に対する批判、自民党を中心とする政治家と教団との関係がメディアで連日取り上げられており、安倍氏が、関連団体の国際的な行事での「基調演説」に「リモート登壇」し、旧統一教会との関係を隠さなくなったことが、犯行の決定的な引き金になったとの見方も広がりつつある。

政府は安倍氏の「国葬儀」を閣議決定したが、国民の間には国葬に反対する意見も多く、今後、国を二分する論争になりかねない(【安倍元首相「国葬儀」が抱える重大リスクに、岸田首相は堪え得るか】)。安倍元首相が殺害された事件の「真の動機」は、国葬をめぐる議論にも大きく影響することとなる。そのような状況で、国葬の閣議決定とほぼ同じタイミングで、山上容疑者について精神鑑定のための鑑定留置の実施が報じられた。

鑑定留置は、あくまで、刑事処分を行うための必要性から行われるものであり、国葬儀をめぐる議論等に関する政治的配慮から行うなどということはないと信じたい。しかし、もし、山上容疑者について長期間にわたる鑑定留置が行われることによって、安倍元首相殺害事件が「精神障害者の犯行」のような認識につながるとすれば、安倍元首相の「動画メッセージ」が山上容疑者の犯行の引き金になった点に対する関心が希薄化し、それが、安倍元首相国葬をめぐる議論にも影響することになる。

既に述べたように、今回の山上容疑者が安倍元首相を殺害した行為について、刑事裁判で責任能力が大きな問題になる可能性は低い。今回、4カ月もの期間、鑑定留置が行われることの背景には、本来の目的以外の様々な事情がある可能性もあるのであり、鑑定留置が単純に「精神障害」に結び付けられることがないよう十分な留意が必要だ。

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安倍元首相殺害事件を踏まえ、安倍氏の政治手法が招いたリスクを考える

2022.07.17 theLetter 郷原信郎の「世の中間違ってる!」

安倍元首相殺害事件は、公衆の面前で行われ、犯人が現行犯逮捕されているので、殺害の外形的事実には争いはありません。捜査で解明すべき点は、犯行動機・背景に限られます。

一般的に、殺人事件等の犯罪の動機については、まず、被疑者に犯行の動機、犯行に至るまでの行動、犯行状況等について詳細に供述させ、そして、その供述の信用性を確かめるため、徹底した裏付け捜査を行います。

もちろん、被疑者が当初から真実を述べているかどうかはわかりません。何かの事情があって真実の動機を隠していることもあり得ます。しかし、現在は、被疑者が所持し、使用しているスマホ、パソコン等に残されてるデータ等に、様々な情報が記録されており、電話の通話記録も入手可能です。動機に関する被疑者の供述に不自然・不合理な点があったり、客観証拠と不整合な点があれば、それを手がかりに、被疑者を追及することも可能です。

突発的・衝動的な事件であればともかく、用意周到に犯行の準備をしていた場合には、その過程について詳細な裏付け捜査を行っていけば、被疑者が供述する動機が真実かどうかは、比較的早期に見極めがつくはずです。

山上容疑者の安倍元首相殺害事件についても、そのような捜査が、警察・検察によって徹底して行われているはずで、それによって、犯行動機・背景が解明され、最終的には刑事事件の公判で明らかにされます。

警察も、捜査の段階ですが、逮捕された山上徹也容疑者の供述内容を公式・非公式に公表しているようです。マスコミへの非公式な情報提供は、「リーク」ということになるわけですが、極めて社会的関心が高い事件であり、早期に供述内容が伝えられる社会的必要性もあることを考慮すれば、犯行動機等に関して、供述内容を正確に伝えるものである限り、警察の「リーク」も例外的に許容されると考えざるを得ないでしょう。

このような警察情報によると思われる報道によれば、山上容疑者は、

「母親が入信する世界平和統一家庭連合(旧統一教会)にのめり込み、多額の寄付をした結果、破産し、家族がバラバラになった。」

「旧統一教会を日本に招き入れたのは岸信介元首相で、国内でそれを拡大させたのが安倍元首相だと信じていた。母親がこの教団にカネを注ぎ込みすぎて家庭が壊れた。絶対に許すことはできなかった。」

「教団トップを襲うことが現実的ではなかったため、ターゲットとしやすい安倍元首相に狙いを定めた。」

と供述しているとのことです。

現在の山上容疑者の供述内容が上記のとおりであることは概ね間違いないのでしょう。

このような山上容疑者の犯行動機についての供述を受けて、7月11日に、旧統一教会の田中富弘会長が記者会見を開きました。田中会長は、

山上徹也容疑者は、信者ではなく、信者であった記録も存在しないが、山上徹也容疑者の母親は教会員であり、これまでも1ヶ月に1回程度の頻度、教会の行事に参加してきた。

と述べ、

山上容疑者の家庭が破綻された諸事情は把握していないが、破綻されていたことは知っている。

収入の10分の1の献金を指導しているほか、特別な献金、結婚した感謝を捧げる献金等の高額の献金が「信者の意思」によって行われている。

2009年に、当時の法人会長が、記者会見して声明文を発表してコンプライアンスを強調し、それ以降、コンプライアンスの徹底を進めてきたので、それ以降トラブルはない。

安倍元首相が、友好団体が主催する行事にメッセージ等を送られたことはある。教団の韓鶴子総裁が主導し、推進している世界平和運動に対して賛意を表明してくれたもので、宗教法人・世界平和統一家庭連合の会員として登録されたこともなく、顧問にもなったこともない。

安倍元首相の祖父岸信介氏との関係は、法人との関係というより、創設者・文鮮明の推進する平和運動に強く理解を深めてくれた。

などと述べました。

これに対して、7月12日、旧統一教会による信者への献金・奉仕の強要の被害救済などに取り組んでいる「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(以下、「連絡会」)が記者会見し、

今も同連合(世界平和統一家庭連合、旧統一教会)による信者への献金の強要に関する相談が寄せられている。元信者への返金を命じる民事裁判の判決が近年も相次いでおり、献金の強要はないという説明はウソ。

連絡会は、21年9月、同連合の友好団体のオンライン集会にビデオメッセージを寄せた安倍元首相に対し「『お墨付き』を与えることになる。安倍先生の名誉のためにも慎重に考えていただきたい」という抗議文も送っている。

などと述べました。

また、連絡会の紀藤正樹弁護士は、テレビ番組に出演し、

韓国では教祖が逮捕され、表立った活動ができなくなった。統一教会系団体がここまで自由に活動してるのは世界で日本だけ。自民党が統一教会にもっと厳しい態度をとっていたら、こんな事件が起きなかった可能性は高い。

などと述べています。

これらの他にも、新聞・ニュース・ワイドショー等では、旧統一教会の信者が多額献金で破綻に至っている問題や、信者二世の悲惨な実態などが連日取り上げられ、批判が高まっています。

山上容疑者の犯行動機の供述については、「教団への恨み」は理解できても、それを安倍元首相殺害に結び付けるのはやや飛躍しており、当初、理解し難い面があったことは確かです。しかし、今回の事件を機に、旧統一教会批判が世の中で急激に盛り上がりました。山上容疑者としても、安倍元首相を殺害すれば、それが、極めて重大な事件として社会の注目を集め、マスコミの報道も一色となることは間違いなく、犯行動機について「旧統一教会への恨み」を滔々と供述すれば、旧統一教会批判に火を付けることができると予想していたのかもしれません。

まさに、現在のような教団への批判状況になることを意図して、用意周到に安倍氏殺害のために銃の製造を続けていたとすれば、(そのような行動は絶対に肯定はできませんが)犯行動機としては理解可能だと言えます。

しかし、もともと安倍氏を支持する立場の人達には、事件を機に、旧統一教会をめぐる問題と信者や信者二世の問題が大きく取り上げられ、教団と自民党等の政治家との関係も指摘されることに我慢がならないようです。「安倍元首相が、旧統一教会への恨みによって殺害された」という事実自体を受け入れようとせず、根拠もなく「安倍元首相は政治的目的で殺害された」という話に、無理やり持っていこうとする動きも見られます。

それを煽るようなことを書き立ているのが、「東スポ」です。

「安倍元首相銃撃の山上容疑者の背後に2つの〝反アベ団体〟か 捜査当局が重大関心」

などと題する記事で、

山上容疑者はリベラル色が強い“反アベ”団体に所属していたのではないかと言われています。安倍氏の長期政権の“独善的”な姿勢を嫌う団体。会員は数千人規模です。

などという出所不明の話を書いています。

このような、根拠も示されていない凡そ新聞記事とは言えないものを真に受ける人は少ないでしょうが、看過できないのは、「東京地検公安部長」まで務めた元検事の弁護士までもが、奈良警察による安倍元首相殺害事件の捜査そのものに疑問があるかのようなことを述べていることです。

ネット記事によると、

「一連の流れから、容疑者は動機をあえて教団がらみにしようとしている可能性がある。」

「今回の犯行に関しては動機の解明が非常に重要。動機が宗教団体へのうらみなのか、政治的なテロなのかは大きな違いがある。」

「警備の問題にしても、動機が宗教団体であれば批判は弱くなるが、政治的なテロだとすれば大きくなる。奈良県警はどうも動機を宗教の方に持って行こうとしているようにも見える。動機についてはしっかり解明してほしい。」

と訴えたとのことです。

「動機が宗教団体であれば批判は弱くなるが、政治的なテロだとすれば大きくなる。」としていますが、確かに、「政治的テロ」であれば、公安当局として、そのような動きを察知できなかった責任も問題になるでしょう。しかし、だからと言って、警察が、警備の不備という重大な失態を犯した上に、犯行動機についても真実を覆い隠そうとする、というのは、あまりに飛躍しています。

既に各メディアで詳細に報じられているように、山上容疑者の母親が旧統一教会にのめり込み、1億円余りもの献金をして破産し、一家がバラバラになったという事実があったとしても、教団に恨みを持ったというのは「ウソ」で、本当の動機を隠して「あえて教団がらみにしようとしている」というのでしょうか。奈良県警にも、「教団がらみ」にしておいた方が好都合ということで本当の動機を隠して宗教の方に持って行こうとする合理的な理由があるとは思えません。 

前述したように、殺人事件の動機については、入念な捜査が行われているはずです。奈良県警が大規模な体制で捜査を行っている中で、「本当の動機」を隠してあえて教団がらみにしようとすることが可能だとも考えられません。

テレビ番組やネット記事でのこのような見解を真に受ける人がいれば、世の中に誤った先入観を与えることになり、前のニュースレター記事でも書いた、事件による社会の「二極化」を助長することになりかねません。

今回の事件を受けて、改めて「安倍政治」を振り返ってみると、政治権力を増大させることを極端にまで追及し、その政治権力によって批判を跳ねのけるというやり方が、第二次安倍政権の特徴だったと言えます。これは、第一次安倍政権の際、首相就任後の参院選で敗北し、「国会のねじれ」が生じて政権が行き詰り、健康面の理由で辞任を余儀なくされた経験が背景にあるのでしょう。

第二次安倍政権では、政権交代したものの国民の期待に応えられず政権を失った民主党の弱点を突いて「悪夢の民主党政権」と強調し、国民に「民主党に政権を渡すことの愚かさ」を強調しつつ、「衆議院の解散は首相の専権だ」として、選挙で勝つために最も都合の良い時期に解散のタイミングを設定し、実際に、国政選挙ではすべて圧勝して、「安倍一強」と言われる政治状況を作り出しました。

そして、集団的自衛権を容認する「解釈改憲」、安全保障法制、特定秘密保護法、共謀罪など、国論を二分するような問題でも、批判に対しては、国会での圧倒的多数を占めていることによる「政治権力」で押し切る、という方法を貫きました。

外交でも、日米豪印戦略対話(クアッド首脳会議)を実現するなど、大きな成果を残しましたが、これも、国内での政治基盤が安定していたからこそ可能になったことです。

これらの第二次安倍政権の成果については、その賛否について意見の対立がありますが、いずれにしても、かつてないほどの大きな仕事を成し遂げたことは間違いありません。

このような、政治権力を増大させてあらゆる批判を力で押し切る、という手法は、森友・加計学園問題、「桜を見る会」問題など、安倍首相ないし安倍政権をめぐる「疑惑」が表面化した際にも、同様に用いられました。

森友学園問題では、

「私や妻が関わっていたら総理も議員もやめる。」

と答弁して、野党の追及姿勢に自ら火に油を注ぎました。

加計学園問題では、自らがトップを務める内閣府の下での国家戦略特区の枠組みの下で、「総理のお友達」が優遇された疑惑を招いたことについて、利益相反が生じる得る枠組みについて相応の改善措置をとるという対応をとっていれば早期に収拾が可能だったのに、

「関係法令に基づき適切に実施している。」

と答弁するだけで全く問題ないとする姿勢を貫いたために、「安倍首相の指示の有無」という、いずれの立場からも立証が困難な事項をめぐって、不毛な国会論争が続きました。

客観的に見ても、極めて拙劣な「危機対応」であり、それによってかえって批判が増幅することとなりましたが、そのような批判も、国会での絶対多数を背景とする政治権力で押し切ったのです。

そして、そのような安倍首相に説明責任を拒否する姿勢に対して、野党、マスコミからの追及が高まると、逆に、安倍氏を支持する勢力からは、野党、マスコミの追及に対して「批判のための批判だ」とする批判が行われ、それは、日本の政治、社会の「二極化」を招きました。

こうした中で、政権から遠ざかっている野党は、内部対立・分裂を繰り返し、ますます勢力を弱め、相対的に安倍政権の政治的権力をさらに増大させることになりました。

このような第二次安倍政権下における安倍氏の政治手法の下で、自民党が選挙で勝利することに貢献していたのが、「旧統一教会関係者による無償の選挙協力」であったことが、今回の事件を機に次第に明らかになりつつあります。

90年代に「霊感商法」など多くの問題を起こした旧統一教会に対して、自民党議員などもある程度距離を置いていたのですが、露骨に関係が深まっていたのが、第二次安倍政権になってからだとされています。そこには、選挙で政権の基盤を固め、さらに政治権力を増強させるためには手段を選ばないという、安倍政権の姿勢が関係していた可能性があります。

一方で、旧統一教会との関わりを深めることによって、そのような教団への多額の献金で経済的に困窮し、家族が崩壊し、人生が破壊された信者、元信者、その家族、信者二世などの「怨念」が自爆的な犯罪につながる危険を生じさせたとも考えられます。

選挙で勝ち、政治権力を増大させるために手段を選ばない、という方法を徹底したことは、安倍氏が大きな政治的実績を残すことにつながりました。しかし、その偉大な政治家には、社会の最底辺で絶望に追い込まれる人達の窮状は全く視野に入っていなかった。政治権力者が、自爆的な犯罪によって攻撃されるリスクを高めることになったのではないでしょうか。

皮肉にも、そういう「究極のリスク」を自ら高めてしまったことを認識せず、「日本は安全な国」と確信していた安倍元首相は、奈良駅前での街頭演説中にそのリスクが突然現実化したことで、命を絶たれることになりました。

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「安倍元首相殺害」は“一つの刑事事件”、まずは真相解明を

7月8日正午頃、安倍元首相が街頭演説中に銃撃されるという衝撃のニュースが飛び込んできた。何とか一命をとりとめてもらいたいとの祈りも空しく、同日夕刻、亡くなられた。

私は、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題など、安倍首相をめぐる問題が表面化する度、私独自の視点で、安倍氏を厳しく批判してきた。まさに、私にとって、言論で戦い続けてきた最大の権力者が、安倍氏だった。政権の座から離れているが、いずれまた政権に復帰してくる可能性もあり、今後も、私の「権力との戦い」の相手だと思っていた。まだまだ批判し、戦い続けたかった。それだけに、私にとっても、安倍氏の突然の死去は衝撃であり、言いようのない喪失感を味わっている。

安倍晋三氏に、心からご冥福をお祈りします。

参議院選挙最終盤にもかかわらず、史上最長の在任期間を誇った元首相の突然の死去の報道一色となったが、この事件のマスコミの受け止め方、取り上げ方には、疑問な点が多々ある。

今回の事件の発生直後から、

「言論を暴力で封じ込める行為」

「自由な民主主義体制を破壊する行為」

などの言葉が、当たり前のように使われていることには違和感を覚える。

参議院選挙の投票日の2日前に、その参議院選挙の応援のための街頭演説を行っていた最中に起きた事件であり、それが、選挙に多大な影響を生じさせたことは間違いない。しかし、犯罪の動機が、選挙運動の妨害などの政治的目的であったとする根拠は、今のところない。選挙期間中の街頭演説中の犯行だったことだけで、反抗の政治性や、選挙との関連性を決めつけた見方をすることは、逆に、選挙や政治に不当な影響を与えることになりかねない。

そのような見方は、逆に、本件を政治的目的によるテロであるかのような誤解を生み、模倣犯の発生につながる可能性もある。

ここで、間違いなく言えることは、今回の安倍氏殺害は、「選挙期間中に選挙の街頭演説中の政治家が被害にあった」という特異性はあっても、あくまで「1件の刑事事件」だということだ。被疑者は、今後、刑事訴訟法の手続にしたがって、証拠取集が行われ、起訴され、刑事裁判で判決が言い渡されて処罰されることになる。そして、最終的には、刑事裁判での事実認定によって、この安倍元首相殺害事件というのが、どのような動機・目的で行われた事件だったのかが明らかになる。

逮捕された山上徹也容疑者は、警察の取調べに対して、特定の宗教団体の名前を挙げて

「恨みがあった。団体のトップを狙うつもりだった」

「(安倍氏が)団体とつながりがあると思った」

「母親が(この宗教団体の)信者で、多額の寄付をして破産したので、絶対に成敗しないといけないと思っていた」

と供述しているとのことだが(読売)、そうであるとすると、政治的目的はなく、個人的な恨みを動機とする犯行を行うに当たって、それが可能だと考えた現場が、たまたま選挙演説の場だったことになる。

仮に、動機が、「特定の宗教団体に対する恨み」であったとして、その恨みを安倍元首相に向ける理由があったのかどうかは別の問題だ。

しかし、2021年9月17日に、全国の弁護士300名からなる「全国霊感商法対策弁護士連絡会」が、特定の宗教団体について、

信者の人権を抑圧し、霊感商法による金銭的搾取と家庭の破壊等の深刻な被害をもたらしてきた問題について、国会議員や地方議員が特定の宗教団体やそのフロント組織の集会・式典などに出席し祝辞を述べ、祝電を打つという行為が目立っており、宗教団体に、自分達の活動が社会的に承認されており、問題のない団体であるという「お墨付き」として利用されている

として、安倍晋三衆議院議員宛てに公開抗議文を送付していた事実がある。

「特定の宗教団体」によって親族が深刻な被害を負ったことを、安倍元首相への恨みに結び付けることも、それなりの理由があるのかもしれない。

いずれにしても、本件の犯行動機が何なのかは、今後、刑事事件の捜査・公判を慎重に見極めていかなければならない。

また、2019年7月の参議院議員選挙期間中に、札幌市内の街頭演説において、安倍首相の演説に対して路上等から声を上げた市民らに対し、北海道警察の警察官らが肩や腕などを掴んで移動させたり長時間に亘って追従したりした問題について、警察官らによる行為は違法だとして市民らの国家賠償請求の一部を認容した判決が出たことを、本件で安倍元首相の演説の際の警備の支障になったかのような見方もある。

しかし、「声を上げて批判すること」と、「物理的に抹殺しようとすること」とは全く次元の異なる問題だ。

安倍氏銃撃の際の映像が繰り返し放映されているが、現場で警護に当たっていた警察官が、安倍氏と同じ視線で聴衆の方にばかり目を向けていたために、後方から安倍氏に接近して自作銃を発射した犯人に気付かなかったことが警護上の問題として指摘されている。

なぜ、聴衆の方にばかり目を向けるのか。

「安倍帰れ!」というような聴衆からの反応の方に注意を向け過ぎたために、後方への警戒が疎かになったとすれば、むしろ、札幌地裁判決にもかかわらず「聴衆側からの批判的な言動に対しての警戒」を重視したことが、「聴衆ではない殺人者からの襲撃」に対して無防備な状況を作ってしまったと言えるのではないか。

「声を上げて批判すること」と、「物理的に抹殺しようとすること」の二つを混同するような見方をすることは、民主主義に対する重大な脅威になりかねないだけでなく、要人警護に対しても不備を生じさせるものでしかない。

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「軽井沢バス事故の原因」についての再考察~事業用自動車事故を「運輸安全委員会」の対象にすべき

2016年1月、長野県軽井沢町で、スキー客の大学生らを乗せた大型バスが下り坂でカーブを曲がりきれず崖下に転落。乗員2人を含む15人が死亡、26人が重軽傷を負う事故が発生した。

長野地検は、事故から5年後の2021年1月に、バスの運行会社「イーエスピー」の社長と、運行管理者だった元社員の2人を業務上過失致死傷罪で在宅起訴し、長野地裁で公判審理が続いている。

検察側は、「大型バスの運転に不慣れで山道の走行経験も十分でない運転手が、速度超過でカーブを曲がりきれなかった」と事故原因をとらえ、それを前提に、運行管理者について、「死亡したバス運転手が大型バスの運転を4年半以上していないことを知りつつ雇用し、その後も適切な訓練を怠った過失」、社長については、「運転手の技量を把握しなかった過失」が事故につながったと主張している。それに対して、被告・弁護側は、「死亡した運転手が技量不足だとは認識しておらず、事故を起こすような運転を予想できなかった」と無罪を主張している。

6月2日の公判では、死亡した運転手のT氏を運行会社に紹介した同僚のO氏が出廷し、証人尋問が行われた。

事故原因とされた「運転手の技量の未熟さ」について直接知り得る立場にあるO氏は、事故直後から、事故に関する発信を続けてきた。検察庁でも、多数回、取調べを受け供述調書もとられたようだが、検察官は、供述調書の証拠請求も、証人尋問請求も行っていない。今回、証人尋問を請求したのは弁護側だった。事件について重要人物が、ネットで供述を公開し、その後に証人尋問が行われるというのは、異例のことだ。その「異例の証人尋問」を直接見極めるため、長野地裁に赴き公判を傍聴した。

O氏は、弁護側からの質問に答えて、事故直前に、T氏が運転する大型バスに同乗した際の経験に基づいて「T運転手の運転技術が未熟ではなかったこと」を証言した。

検察官は、事故直後のブログの記載との矛盾などを指摘し、供述の信用性を争おうとしていたが、あまり効果を上げたようには思えなかった。むしろ、O氏のブログのことを公判廷に持ち出したことが今後の公判の展開に影響するように思えた。

公判は、次回以降、被告人質問、論告・弁論が行われ、最終盤を迎える。

警察は事故後1年半で在宅送致、事故から5年後にようやく起訴に至った。警察の事故原因では、「運転手はなぜフットブレーキを踏まなかったのか」という疑問があり、それについて「予見可能性」の立証が難しいことが検察の捜査長期化、処分遅延の理由だろう。

判決では、事故原因自体についての検察の主張を前提に、「予見可能性」の有無の判断だけで結論が決まる可能性が高い。有罪無罪いずれであっても、事故原因自体について裁判所が警察・検察の認定と異なった判断を示す可能性は低い。

事故発生以来の事故原因究明の経過を、報道で振り返り、問題点を指摘してみることとしたい。

事故発生以降の報道に見る事故原因の特定の経過

この事故による死者は15人、そのうち、乗客が13名、乗員が2名である。

警察の過失運転致死傷の送致事実のとおり、運転手の過失によって事故が発生し、乗客が死亡したのであれば、運転手が加害者、乗客が被害者ということになる。

しかし、もし、車両の故障や整備不良による事故で、運転手には事故が回避できなかったのだとすれば、運転手も含め、事故車両に乗車していた人間は、全員「被害者」となる。

2016年1月15日未明の事故発生直後の報道からすると、事故発生直後の警察捜査は、運転手が加害者か被害者か、いずれの可能性もあり得るとの想定で行われていたと思われる。

地元紙信濃毎日新聞の1.16夕刊では、

転落場所直前の路面に1本だけタイヤ痕が残っていたことから、県警の捜査本部が、バスは何らかの原因で制御不能になり、片輪走行の状態になって転落したとの見方を強めている。

車両の故障や運転手の体調不良など、ガードレールに衝突した原因の解明が捜査の焦点の一つ。県警は、バスを運行した「イーエスピー」(東京都羽村市)の契約社員で、死亡したT運転手(65)=東京都青梅市=の遺体を司法解剖し、死因を調べている。道路の構造に大きな問題は見つかっていないという。

同紙1.18朝刊では、

運転手の居眠り運転や運転ミスが原因との見方が浮上しているが、バス自体の不具合も考えられるため、捜査本部は18日から車体を検証して事故原因の解明を進める。17日、バスを軽井沢署から上田市にある自動車メーカーの工場に移送した。

同紙1.19朝刊では、

現場の手前約100メートルにある道路左側のガードレールには、バスがぶつかったとみられる損傷があった。タイヤ痕はこの損傷のさらに手前で始まっており、ガードレールぎりぎりの場所に続いていた。

捜査本部による乗客への聴取で、バスは事故直前に蛇行していた様子が判明。ガードレールに衝突した後の急ハンドルで、逆に車体右側に重心がかかって片輪走行の状態となり、現場のガードレールを突き破ったとみられている。転落した場所直前の路面にも、バス右側とみられるタイヤ痕が1本残っていた。

捜査本部は18日、上田市の自動車メーカーの工場に運んだバスの検証を19日午前に始めると明らかにした。速度や距離を自動的に記録する運行記録計(タコグラフ)の記録や、車両の不具合の有無なども調べる。

とされている。

少なくとも、この時点までは、事故原因として、体調不良などの運転手の側の問題と、車両の故障、整備不良などの車体の不具合の問題の両方が想定されていたことが窺われる。

ところが、事故車両のバスは、17日、軽井沢署から上田市にある自動車メーカーの工場に移送され、19日午前から検証が開始された。この「自動車メーカーの工場」というのが、「三菱ふそうトラック・バス 甲信ふそう上田支店」であり、本件事故車両のメーカーである三菱ふそうトラック・バス(以下、「三菱ふそう」)の整備工場である。

この検証開始の翌日の1.20朝刊では、

現場の約250メートル手前に設置された監視カメラに、事故を起こしたとみられるバスが蛇行しながら走る様子が写っていることが19日、国土交通省への取材で分かった。県警の捜査本部もこの映像を入手。死亡した運転手が大型バスに不慣れだったとの情報があることから、運転技術に問題がなかったか捜査する。

バスの運行会社「イーエスピー」(東京)によると、死亡したT運転手(65)は昨年12月の採用面接で「大型バスは慣れておらず、苦手だ」という趣旨の話をしていた。

と、「運転技術の問題」が、にわかにクローズアップされる。

 同日の記事では、

自動車はフットブレーキを過度に使うと利きが低下する「フェード現象」が発生する。事故現場は国道18号碓氷バイパスの長野・群馬県境の入山峠から下って約1キロ地点。バスが何らかの理由でフットブレーキを多用した可能性もある。同センター調査部によると、ブレーキ部品を解析すればフェード現象が起きていたかどうかが分かる。

一方、三菱ふそうバス・トラックによると、今回のバスはフットブレーキやサイドブレーキのほか、エンジンの排気に圧力をかけてエンジンブレーキの効果を増す補助ブレーキ「排気ブレーキ」も装備。フットブレーキを多用しなくても峠を下る手段はあったとみられている。

とも書かれており、この時点での「運転技術の問題」は、フットブレーキを多用したことによって「フェード現象」が起き、ブレーキが利かなくなったことが想定されていたものと思われる。

ところが、21日には、「軽井沢署の捜査本部による事故車両の検証の結果、バスのギアがニュートラルになっていた可能性がある」、同22日には、「一方でフットブレーキには目立つ異常がなかった。捜査本部は、バスは何らかの異常により下り坂で速度を制御できなくなり、事故現場の左カーブを曲がりきれずに転落した可能性があるとみて調べている。」と報じられ、この頃から、「運転手のミスで、ギアがニュートラルのまま速度が制御できない状況となり、事故に至った」というストーリーが、徐々に固まっていく。

28日の同紙朝刊では、

軽井沢署の捜査本部による原因究明作業は、バスのギアがなぜニュートラルになっていたかが大きなポイントだ。ニュートラルではエンジンブレーキが利かず、速度の制御は難しい。現場の国道18号碓氷バイパスで運転経験がある大型バス運転手や、事故分析の専門家は、操作ミスが原因との見方を示している。

としている。

「捜査本部は車両の不具合の可能性も視野に入れ、慎重に調べている。」とも書かれているが、実際に、この時点で、「車両の不具合」について、何か具体的に調べていたという話は全くない。この頃以降の報道では、「運転手の操作ミスによってニュートラルで走行した」ということが強調されていく。

そして、それ以前から報じられていた、「死亡したT運転手が『大型バスは慣れておらず、苦手だ』と言っていた」という話と関連づけられ、「運転未熟のために操作を誤り、ニュートラルで走行したために、速度が制御できない状況となり、事故に至った」というストーリーを前提に、刑事事件についての警察の捜査と、事業用自動車事故調査委員会(以下、「事故調査委員会」)の調査が行われていった。

警察の書類送検、検察の捜査・処分、事故調査委員会報告書公表

そして、長野県警は、翌2017年6月27日、死亡したT運転手を自動車運転処罰法違反(過失致死傷)容疑で、運行会社「イーエスピー」の社長と運行管理者だった元社員を業務上過失致死傷容疑で、長野地検に書類送検した。送致事実は、T運転手(被疑者死亡)については、

「運転技術に習熟していなかったため操作を誤り、時速96キロで道路右のガードレールに右前部から衝突し、ガードレールをなぎ倒して約5メートル下の崖下にバスを転落させた過失」

社長と運行管理者については、

「大型バスの運転に不慣れなT運転手に運行管理上実施すべき教育などの指導監督を怠った過失」

だった。

その2日後の6月29日に公表された事故調査委員会の報告書も、警察の送致事実と平仄を合わせたものだった。事故原因については、以下のように記載されている。

事故は、貸切バスが急な下り勾配の左カーブを規制速度を超過する約 95km/h で走行したことにより、カーブを曲がりきれなかったために発生したものと推定される。

事故現場までの道路は入山峠を越えた後にカーブの連続する下り坂となっているが、貸切バスの運転者は、本来エンジンブレーキ等を活用して安全な速度で運転すべきところ、十分な制動をしないままハンドル操作中心の走行を続けたものと考えられ、このような通常の運転者では考えにくい運転が行われたため車両速度が上昇して車両のコントロールを失ったことが、事故の直接的な原因であると考えられる。

同運転者は、事故の 16 日前に採用されたばかりであったが、事業者は、同運転者に健康診断及び適性診断を受診させていなかった。また、大型バスの運転について、同運転者は少なくとも5年程度のブランクがあり、大型バスでの山岳路走行等について運転経験及び運転技能が十分でなかった可能性が考えられる。このような同運転者に事業者が十分な指導・教育や運転技能の確認をすることなく運行を任せたことが事故につながった原因であると考えられる。

そして、警察の書類送検の後、長野地検の捜査は長期化し、刑事処分が行われたのは、送致から3年半後の2021年1月だった。結局、T運転手を「被疑者死亡」で不起訴にしたほか、社長と運行管理者については、送致事実とほぼ同様の過失で、業務上過失致死傷罪に当たるとして起訴されたものだった。

「運転手のミス」と「車両の不具合」の関係

事故に関して、客観的事実として間違いなく言えることは、以下の2点である。

第1に、T運転手は、体調面の問題はなく、意識喪失、自殺、いずれの可能性もない。事故車両が道路から転落する直前まで、事故回避のための措置をとり続けていた。

第2に、事故車両が事故直前の下り坂を走行する際に、ギアはニュートラルであり、エンジンブレーキが利かない状況だった。しかし、エンジンブレーキが利かなくても、フットブレーキが正常に機能すれば、安全に停止できた。

 ということは、直接の事故原因は、次の二つに集約できる。

(1)T運転手が、フットブレーキを踏めば安全に停止できるのに、何らかの事情で、フットブレーキを踏まずに下り坂を走行した。

(2)T運転手は、フットブレーキを踏んで減速しようとしたが、何らかの原因によるブレーキの不具合により、ブレーキが利かず、減速できなかった。

(1)であれば、運転手は、自らも死亡しているが、「加害者」の立場、(2)であれば、乗客やもう一人の乗員とともに「被害者」の立場となる。

そのいずれであったのかで、警察の捜査の方向性は全く異なってくる。

事故原因究明のための警察捜査は、(1)(2)のそれぞれについて、原因となるあらゆる要素を想定し客観的な立場で、その可能性、蓋然性の有無を検討していくことが必要となるはずだ。

長野県警の捜査は、事故直後は、(1)(2)のそれぞれを想定して行われていたと思われるが、1月17日に、事故車両のメーカーである三菱ふそうの整備工場に事故車両が持ち込まれて検証が開始されて以降は、(1)の方向に集中していく。そして、「運転未熟のために操作を誤り、ニュートラルで走行したために、速度が制御できない状況となり、事故に至った」というストーリーに収れんしていく。

一方で、(2)については、具体的にどのような捜査が行われたのかも明らかにされていない。

そもそも、(2)の方向の事故原因の可能性について検討するのであれば、事故原因如何では重大な責任を負う可能性のある事故車両のメーカーの整備工場に事故車両を持ち込むこと自体に重大な問題がある。本来、事故車両と無関係な整備工場に運び込んで、第三者的な立場の専門家による検証を行うべきであった。三菱ふそうの整備工場で事故車両を検証することにした時点で、(2)の方向での事故原因は、事実上棚上げしたように思える。

事故原因から(2)を排除することになると、 (1)しか残らないことになるが、この警察ストーリーに対しては、当初から疑問視する見方があった。

「鑑定士のブログ」での指摘

事故直後から、「鑑定士のブログ」と題する個人ブログで、事故に関する発信を続けてきたO氏は、事故当時、運行会社のイーエスピーに勤務していた大型バス運転手であり、事故で死亡したT運転手を同社に紹介した人物であり、T運転手の運転技術のレベルを最もよく知る人物だ。

1月24日のブログでは、以下のように述べて、T運転手の運転ミスが事故原因だとする警察の見方に疑問を呈している。O氏が、事故原因が運転技量の問題とされたことについて、亡くなったT運転手に代わって、反論を述べているように思える。

まず、T運転手の運転技量について、

Tは、大型ダンプと中型バスの経験はしっかりとあり、合計で20年以上の運転経験から考えたら、同じシステムのブレーキやシフト関連での経験不足という事はあり得ないし、大型ダンプの車幅はバスと同じ、長さの違いさへ(原文ママ)クリアすれば、大型バスへの移行はそんなに難しい事ではない。

現在では、中型バス以上や4t以上の車では、シフトレバーはフィンガーという形式が大多数で、昔ながらの棒シフトは、皆無と言って良いほど少ない。

と述べている。

この点に関連して、事故現場に至るまでのルートについて、以下のように指摘している。

国道18号線を高崎市から事故現場まで走行すれば判る事だが、あの下り坂に近い道路状態は幾つかある。

安中市から碓氷バイパスに至る途中の、松井田から横川付近は、急な下り坂にカーブもあり、あの事故現場と同等か、それ以上の危険を感じる場所もある。

松井田妙義インター手前の急な下り坂にカーブ、その先の陸橋からインターに至る下り坂のカーブ、それを通過して、釜飯のおぎのやさんに至る下り坂とカーブに、碓氷バイパスと旧道の分岐のカーブに下り坂。

それらを丁寧にクリアし、急カーブが続く急な登り坂をクリアしたからこそ、お客様は寝ていたのであり、あの1キロ地点では、ブレーキも適切に使っていたと考えるのが正しい。

つまり、O氏は、事故に至るまでにT運転手が運転したと考えられる同様の下り坂の個所を、具体的に挙げ、T運転手の運転技術が未熟であったために下り坂の運転操作を誤ったとすると、事故に至るまで、同様の下り坂を問題なく安定走行していたことの説明がつかないと指摘しているのである。

そして、O氏のみならず、誰しも思う当然の指摘をしている。

場所は下り坂だ。

スピードが上がってくる。

経験の有無より、まずは全ての運転者は危険を感じてブレーキ(制動)を踏むはずだ。

緩やかな下り坂なら、制動に排気ブレーキを選択したとしても、運転者なら制動を選択する。

つまり、余り排気ブレーキが効かなかったとしても、当然シフト操作と同時かそれよりも優先して、フットブレーキを踏んでいなければならない。

これはお客様の為に以前の問題で、減速しなければ事故になるし、事故になれば自分も無事には済まないし、死ぬかも知れない。

自分の保身の為にも絶対にフットブレーキは使ったはずだ。

スピードが上がって怖くなったら、新米だろうがベテランだろうがブレーキは踏んで当然。

「全ての運転者は危険を感じてブレーキ(制動)を踏むはずだ。」というのは、あまりにも当然であり、「運転未熟のために、ギアをニュートラルにしたまま、加速しているのにフットブレーキを踏むこともなく、漫然と下り坂を下っていった」という警察のストーリーは、運転者の行動としてあり得ないという指摘だ。

O氏は、T運転手の運転技能に関する極めて重要な関係者である。それに加え、大型バス運転手としても、本件事故現場を含む道路での豊富な運転経験がある。

T運転手の運転技量の程度については、T運転手がイーエスピーに採用された後に、大型バスの運転技量を確かめるために試乗したのは、O氏とM氏の2人である。O氏が、「乗客を乗せて大型バスを運転するに十分な技量を備えていた」と証言するのに対して、M氏は「運転が未熟だった」と証言している。いずれの証言が信用できるかが問題になるが、O氏は、事故直後から、ブログで、事故の被害者・遺族に対して、謝罪の言葉を繰り返しつつ、一貫して、T運転手の運転技量には問題なかったと述べており、しかも、O氏は、事故の5カ月後の6月に、遺族と直接会って、同様の説明をしている。その理由について「ご遺族の悲しみが少しでも癒えるなら……それがお会いする俺の唯一の理由です。」とブログで述べている。

O氏にとって、T運転手の運転技量が乗客を乗せて大型バスを運転させるのが危険なほど未熟であったのに、敢えて紹介したとすれば、事故について責任の一端があるということになる。検察官は、その責任を回避しようとする動機があると主張するのかもしれない。しかし、O氏は、事故後、イーエスピーを退社しており、責任と言っても、法的責任ではない、むしろ、発言を動機づけているのは、遺族に対する謝罪の気持ちと、亡くなったT運転手の無念を晴らしたいという思いであろう。O氏が、認識に反することをブログで述べたり、法廷で証言したりするとは思えない。

そういう意味では、T運転手の運転技量については、O氏のブログの内容も、公判証言も、信用性が十分に認められると言えよう。

O氏の供述は、警察が事故原因を(1)の方向でとらえて業務上過失致死傷罪を立件する上で、大きな障害になるものだった。

「ブレーキの不具合」の可能性

一方、(2)の「事故発生時のブレーキの不具合」が原因だとすると、事故車両は、事故現場の碓氷峠の下り坂に差し掛かるまでに、同様の下り坂を問題なく走行していたのであるから、少なくとも、その時点まではブレーキに異常がなく、事故現場に差し掛かる下り坂で、突然、ブレーキに異常が生じたことになる。そのようなブレーキの故障が発生する可能性があるのかが問題になる。

この点について、自動車評論家の国沢光宏氏は、事故後早くから、以下のような指摘を行っていた。(当初は、ヤフーニュースに投稿されていたようだが、現在は削除されている。同氏の見解を支持する【群馬合同労組のサイト】に転載されている)。

そこで問題になるのが(ブレーキ)エアで作動する部分の凝水です(空気タンクには水が溜まる)30年程前よりエアドライヤという除湿装置が装備され凝水はほとんどなくなりましたが全くゼロでははありません。…外気温は低かったでしょうから凍結することは十分考えられます。坂を下り始めて排気ブレーキなりクラッチなりフィンガーシフトなりを操作した際にエアが流れ氷の固まりがどこかに詰まったと考えられます。」「エアブレーキ系の配管が凍結したことによる事故であれば、溶けた時点で原因全くわからなくなる。しかも全て正常に見えてしまう。

なお、国沢氏は、【最近のブログ記事】でも、刑事公判の動きに関連して、事故原因について同様の見解を述べている。

このような「エアタンク内に水が溜まり、エアブレーキ系の配管が凍結した」というのは、本件事故に至るまでの走行状況とも整合する。碓氷峠の頂上まで長い上り坂の間は、ブレーキは使わず、アクセル操作だけであり、その間に氷点下の気温で配管内の凍結が生じ、下り坂になって急にブレーキが利かなくなった可能性もある。

事故原因の解明を警察捜査の結果だけで終わらせてよいのか

長野警察の捜査では、本件事故の原因は、前記(1)の「運転手が大型バスの運転未熟のために操作を誤り、下り坂をニュートラルで走行したために、制御不能となった」と特定された。しかし、これについては、未だに多くの疑問がある。

「T運転手の運転技術が未熟であったために、下り坂の運転操作を誤ったとすると、事故に至るまで、同様の下り坂を、問題なく安定走行していたことの説明がつかない」

「全ての運転者は、危険を感じたらブレーキ(制動)を踏むはずだ。」

など、T運転手の同僚のO氏も、【鑑定士のブログ】で指摘しているとおりだ。

一方、警察の捜査結果や事故調査委員会報告書で、「想定されるもう一つの原因」である前記(2)「何らかの原因によるブレーキの不具合により、ブレーキが効かず、減速できなかった」との原因の事故であることを否定するに十分な根拠が示されているといえるのか、疑問だ。

もっとも、刑事裁判で、弁護側は、この事故原因の問題は主たる争点にはしていないようだ。公判では、最大の争点は、検察が主張する前記(1)の事故原因についての被告人らの「予見可能性」であり、その事故原因に多くの疑問があるということは、そういう原因で事故が発生することの予見が困難だと主張する根拠にもなるので、その分、検察の有罪立証のハードルを高めることになる。弁護側が、公判戦術として、「事故原因」をあえて争わず、「予見可能性」に争点を絞るのは、ある意味で合理的と言えるだろう。

しかし、重大事故の真相解明は、刑事責任の追及のためだけに行われるものではない。

将来への希望に胸を膨らませていた多くの若者達の生命が一瞬にして奪われた重大事故が、なぜ発生したのか。真の原因を究明することは、同様の悲惨な事故を繰り返さないために、社会が強く求めるものであると同時に、尊い肉親の命を奪われた遺族の方々の切なる願いだ。

この重大事故を「社会に活かす」ためにも、真の事故原因の究明に向けての取組みは、刑事裁判とは離れるとしても、可能な限り行っていくべきではなかろうか。そのためには、警察が特定した前記(1)の「運転未熟」による事故原因に対する疑問に向き合うこと、そして、前記(2)の「ブレーキの不具合」を否定する根拠が十分と言えるのか、改めて検討する必要があるのではないか。

警察の事故原因特定に対する疑問

警察が、「ブレーキの不具合」を否定した根拠は、「事故の検証でブレーキに不具合が発見されなかったこと」に加えて、事故現場手前に残る2カ所のバスのタイヤ痕が「ブレーキ痕」だとする科学捜査研究所の鑑定結果だ。

2016年1月30日の【タイヤ痕は「ブレーキ痕」】と題する毎日新聞記事は、

捜査関係者によると、現場直前にある右車輪だけのタイヤ痕と、さらに約100メートル手前の車体との接触痕が残るガードレール付近にある左車輪のタイヤ痕を詳しく検証。どちらもタイヤパターンが読み取れるものの筋状にこすれるなどしており、フットブレーキを踏んだ際の摩擦で付いた痕跡と判断した。高速で車体の荷重が偏ったまま曲がる際にも同様の痕跡が付くとの指摘があるが、捜査関係者は「現場のカーブの角度では可能性は低い」とみている。

と報じている。

このようなタイヤ痕が「ブレーキ痕」だとする見方が、その後、科捜研の正式の鑑定書の内容とされ、刑事公判での証拠とされているものと思われる。

しかし、事故直後の報道では、現場検証を行った警察は、居眠り運転やフットブレーキの踏み過ぎによる「フェード現象」などを想定していたようであり、むしろ、「フットブレーキでの制動が働かなかった」と見ていたように思える。

多数の死傷者が出た重大事故であるだけに、事故直後の事故現場の検証も相当入念に行われ、現場のタイヤ痕から得られる情報を、警察の現場なりに推定しつつ、捜査が進められたはずだ。その時点では、現場のタイヤ痕は「フットブレーキが機能した痕跡」とは見られていなかったということだろう。

事故直後、国交省の依頼で、事故車両の走行状況を記録した監視カメラの映像や、事故現場の道路を撮影した写真等を解析した日本交通事故鑑識研究所の見解でも、

転落直前の路面に残ったタイヤ痕は「遠心力を受けながら右に横ずれしていく時、車体右側のタイヤが残した跡に見える。運転手はフットブレーキを使っていなかった可能性がある

とされていた(1.21 信濃毎日)

ところが、その後、自動車評論家の国沢氏などからブレーキの不具合の可能性が指摘されるや、それを打ち消すかのように出てきたのが、タイヤ痕が「ブレーキ痕」だという話だった。

上記の毎日新聞の【タイヤ痕は「ブレーキ痕」】と題する記事では、

乗客・乗員15人が死亡した長野県軽井沢町のスキーツアーバス転落事故で、現場手前の「碓氷(うすい)バイパス」に残る2カ所のバスのタイヤ痕について、県警軽井沢署捜査本部が「ブレーキ痕」とみていることが捜査関係者への取材で分かった。死亡したT運転手(65)が少なくとも2度フットブレーキを踏んだが十分に減速できなかったことを示している。

事故が29日に発生から2週間を迎えた中、捜査本部は、運転手が大型バスに不慣れだったことが事故につながったとの見方を強めている。

などと、事故現場周辺のタイヤ痕がブレーキ痕であることが判明して「運転手が大型バスの運転未熟のために操作を誤った」という警察のストーリーが裏付けられたかのように報じられている。

しかし、私が記事検索を行った範囲では、この頃、「ブレーキ痕」について報じたのは同記事だけであり、地元紙も含め他の記事は見当たらない。

そして、それから約1年半後、長野県警の書類送検の2日後に公表された【事故調査委員会報告書】では、事故現場付近のタイヤ痕については、

センターライン付近からガードレール付近まで続くタイヤ痕は、遠心力により右側タイヤに荷重が偏り、かつ、同タイヤが横方向にずれたためにその痕が濃く付いたものと推定される

と書かれ、タイヤ痕は車体の傾きによって生じたものとされており、「ブレーキ痕」とは一切書かれていない。

事故調査委員会報告書は、事故原因について警察の捜査結果を参考にした上で取りまとめられたものである。同報告書で、事故現場付近の道路上のタイヤ痕が、事故時にブレーキが有効に機能していたことの根拠とされていないのは、事故調査委員会としては、タイヤ痕が「ブレーキ痕」であることに疑問を持っていたからだと考えられる。

このような経過からも、やはり、「事故時のブレーキの不具合の発生」を否定する根拠が果たして十分なのか、疑問が残ると言わざるを得ない。

事故調査委員会報告書に対する自動車エンジニアの疑問

もし、「事故時にブレーキが効かなかった」のが事故原因だとすると、その直前まで安定走行ができていたのに、碓氷峠の下り坂に至って、突然、ブレーキが効かなくなったのはなぜか、という点が問題になる。そこで想定される原因の一つが、「エアタンク内に水が溜まり、エアブレーキ系の配管が凍結した」という国沢氏の指摘だ。

このような指摘は、事故調査委員会でも把握していたようであり、報告書では、

ブレーキ用エア配管は車体内部に配管されており、外気にさらされていないことや、事故後、後輪ブレーキ用エアタンクからの水分の流出はなかったことから、ブレーキ用エア配管等の内部での凝結水の凍結によるブレーキ失陥が生じてはいなかったと考えられる。

とされている(55頁)。

このような報告書の内容に関しては、私のところに、事故原因に関する見解を寄せてくれた自動車エンジニアの方が、次のような疑問を指摘している。

大型バスの一般的な構造からすると、ブレーキ用エア配管全体が車体内部に配管され、外気にさらされていないというのは考えにくく、タンクより先の様々なバルブ類、ブレーキ本体部品の解体を行って確認しなければ、凍結の原因となった擬水の有無はわからないのではないか。

コンプレッサにより加圧された、水分を含んだ圧縮空気を乾燥させるエアドライヤと呼ばれる装置のメンテナンスが行われていたかも確認が必要で、不具合が有った場合は、水分や油分がエアブレーキのシステムに悪影響を及ぼしていた可能性も考えられる。

ブレーキライニングの分解確認だけでは、ブレーキの不具合の有無は判断できないのではないか。

三菱ふそうの整備工場で行われた本件事故車両の「ブレーキの不具合の有無」に関する検証は、上記のような疑問に答えられるだけものだったのだろうか。

「2005年の三菱ふそう大型バス等リコール」との関係

さらに、同自動車エンジニアの方が指摘するのが、2005年に三菱ふそうが行ったブレーキの不具合についての【リコールの届出】との関係だ。本件事故車両も、そのリコールの対象であり、「改善措置」が適切に行われていたのか確認が必要との指摘である。

このリコールというのは、

制動装置用エアタンクに圧縮空気を供給するパイプ(エアチャージパイプ)の強度が不足しているため、車体の振動等により当該パイプに亀裂が発生するものがある。そのため、そのままの状態で使用を続けると、当該パイプからエアが漏れ、最悪の場合、制動力が低下するおそれがある。

という不具合について、三菱ふそうが、国土交通省に届け出たものだ。

改善措置は、

全車両、当該パイプ、パイプ取付金具及び固定金具を対策品と交換する。

また、対象車のメンテナンスノート・整備手帳に、当該固定金具を1年又は2年毎に交換する旨のシールを追加する。

とされている。

しかし、リコールであるにもかかわらず、対策用の部品は1-2年交換という暫定対策とされている。「交換をお願いするステッカー」を貼るだけの対策であるため、中古購入後に部品を交換していない場合には、制動力不足が発生した可能性がある。

もし、このような制動装置の部品の不良が事故原因に影響していたとすると、三菱ふそうのリコールの際の改善措置と事故の関係が問題になる可能性がある。

三菱ふそうの整備工場で行われた検証では、リコールの改善措置の対象となった部品の不具合による制動力不足の可能性について、十分な確認が行われたのであろうか。

本件事故と同時期に問題化していた「北海道白老町バス事故」

上記のような、事故車両の検証自体への疑問に加えて、「三菱ふそう」という自動車メーカーには、車両の不具合やリコールに関して重大な問題を起こした過去があり、そのような企業を事故車両の車体の検証に関わらせることの妥当性について、特に疑問がある。 

「三菱ふそう」という会社は、2000年にリコールにつながる重要不具合情報を社内で隠蔽している事実が発覚し、長年にわたって、運輸省(現国交省)に欠陥を届け出ずにユーザーに連絡して回収・修理する「ヤミ改修」を行ってきたこと、それにより死傷事故が発生していたことが明らかになって、厳しい社会的批判を浴びた「三菱自動車のトラック・バス部門」が分社化されて設立された会社だ。

分社化されて「三菱ふそう」となった後の2004年には、2000年のリコール隠しを更に上回る74万台ものリコール隠しが発覚。同年5月6日、大型トレーラーのタイヤ脱落事故で、前会長など会社幹部が道路運送車両法違反(虚偽報告)、業務上過失致死傷で疑捕・起訴され、有罪判決を受けた。

しかし、その後も、2012年には、2005年2月に把握していた欠陥を内部告発されるまでリコールしなかったことが発覚するなど、リコールを回避して「ヤミ改修」で済ませようとする安全軽視の姿勢が、長年にわたって批判されてきた。

しかも、ちょうど本件事故が発生した頃は、2013年8月に北海道白老町の高速道路で発生した同社製の大型バスの事故で運転手が運転を誤ったとして起訴された業務上過失致傷事件の刑事公判が、重要な局面を迎えていた。

「突然ハンドル操作不能に陥った」として「車両が事故原因だ」とする被告人の無罪主張に対して、事故車両を製造した「三菱ふそう」の系列ディーラーの従業員は、事故後に同社の整備工場で行った車両の検証結果に基づいて、

「ハンドルの動力をタイヤに伝える部品に腐食破断が認められるが、走行に与える影響は、全くないか軽微なものに過ぎないから、事故原因は車両にはない」

と述べて、「事故原因は運転手の運転操作によるもの」との検察の起訴事実に沿う証言をした。

その証人尋問が実施されたのが2016年1月14日、その日は、奇しくも、軽井沢バス事故を起こしたバスが、多くの若者達を乗せて、東京・原宿を出発した日だった。

この白老町のバス事故では、その後、弁護側鑑定など、真の事故原因を明らかにする弁護活動が徹底して行われた結果、「事故原因は車両にあり、運転手には過失はない」として、無罪判決が出された。

弁護人からは、三菱ふそうの従業員の虚偽供述のために不当に起訴されたとして「三菱ふそう」に損害賠償を求める民事訴訟に加えて、検察官の不当な起訴に対する国家賠償請求訴訟が提起され、国家賠償請求訴訟では、検察官の起訴の過失を認める一審判決が出されている。

この事故に関連して、2016年7月には、国交省が、事故車両と同型のバスで「車体下部が腐食しハンドル操作ができなくなる恐れがある」として使用者に点検を促し、その結果1万3637台中805台で腐食が発見されていたことが分かったため、2017年1月に、805台について「整備完了まで運行を停止」するよう指示が出され、三菱ふそうは、同年2月にリコールを届け出た。

本件の軽井沢バス事故の事故車両も、このリコールの対象車両だった。(もっとも、本件事故では、白老バス事故のような部品の腐食によるハンドル操作不能が問題になっているわけではない。)

本件事故が発生し、事故原因の究明が行われていた2016年から2017年にかけての時期は、「三菱ふそう」にとって、同社製の大型バスによる白老バス事故の原因が車両にある疑いが強まり、対応に追われている時期だった。しかも、白老の事故については、刑事公判での「事故原因は車両にはない」とする同社側の証言に「偽証の疑い」まで生じていたのである。  このような時期に、本件の事故車両は、「三菱ふそう」の整備工場に持ち込まれて、車体の検証が行われた。そして、その検証開始直後から、警察の事故原因の見方は、「運転手のミスで、ギアがニュートラルのまま速度が制御できない状況となり、事故に至った」というストーリーで固められていった。マスコミも、そのストーリーに沿う報道を行い、ブレーキの不具合の可能性が指摘されることはほとんどなかった。そして、事故調査委員会の調査結果も、警察の事故原因捜査を後追いする形で取りまとめられ、公表された。

事業用自動車事故の原因究明と責任追及についての制度上の問題

現在、長野地裁で行われている本件事故の刑事裁判で前提とされている事故原因は、上記のように多くの疑問がある。しかし、公判での最大の争点は、その事故原因を前提とする被告人らの「予見可能性」であり、事故原因に対する疑問について裁判所の判断が示される可能性は低い。

将来への希望に胸を膨らませていた大学生など多くの若者達の生命が奪われ、生存者も深い傷を負った、この悲惨な重大事故の真の原因究明は、遺族・被害者の方々はもちろん、社会全体が強く求めるものだ。これまで述べてきた多くの疑問に蓋をして、このまま終わらせてよいのだろうか。

事故車両が保存されているのであれば、今からでも調査できることはあるはずである。これまで述べてきたような疑問点を解消するため、「三菱ふそう」とは無関係な第三者の専門家が中心となって、車両の詳細な検証など、事故原因の再調査を行うべきである。

本件事故についてこれまで指摘してきたことからすると、バス事故の原因究明と責任追及の在り方については、制度上大きな問題があると言わざるを得ない。

事故原因の解明にとって重要なことは、想定される事故原因について、責任追及を受ける可能性がある当事者には関わらせず、客観性が担保された体制で調査が行われることだ。

軽井沢バス事故については、車両を製造した「三菱ふそう」の整備工場で検証が行われ、ブレーキの不具合等の車体の問題の解明の「客観性」が阻害され、「運転ミス」という人的要因の方向に偏った原因の特定が行われていった。同じ「三菱ふそう」製のバスで発生した白老バス事故についても、「三菱ふそう」が事故車両の車体の検証に関わり、警察、検察は運転手の過失責任を問おうとしたが、刑事公判で、事故原因が車両の側にあったことが明らかになった。

いずれも、当事者ともいえる「三菱ふそう」が事故原因究明に関わったこと自体に重大な問題があり、それが、特定された事故原因に対する不信の原因となっている。そこには、本件事故のような事業用自動車の重大事故の原因調査に関する制度的な問題がある。

「事業用自動車事故」は「運輸安全委員会」の対象とされていない

鉄道事故・航空機事故・船舶事故については、2008年に、航空・鉄道事故調査委員会と海難審判庁の調査部門が改組・統合され、国家行政組織法第3条に基づく独立行政委員会として「運輸安全委員会」が設置されている。職権の独立が保障され、独自の人事管理権が認められたほか、事故原因の関係者となった私企業に対しても直接勧告できるなど、権限が強化された。調査についても、法律に基づく強制権限が与えられている。

ところが、自動車事故は、本件のような「事業用自動車事故」も含めて「運輸安全委員会」の対象とはされていないため、法的根拠に基づかない「事故調査委員会」が監督官庁の国交省の業務に関連して設置されるだけだ。独立機関による事故調査対象の範囲に関しては、かねてから、米国のNTSB(国家運輸安全員会)などのように道路交通事故の一部などについても含めるべきとの指摘があり、2008年の運輸安全委員会設置時にも議論されたようだが、実現には至らなかった。

軽井沢バス事故でも、白老バス事故でも、警察の判断で、車両を製造したメーカー側で事故車両の検証が行われ、事故原因が車両の問題ではなく運転手の運転操作にあったとされた。多数の死傷者を発生させる可能性のあるバス等の事業用自動車による事故も、客観性が担保された体制で、十分な権限に基づいて原因調査が行うことが必要であり、「運輸安全委員会」の調査対象に含めることを真剣に検討すべきである。

「車齢」の制限撤廃の規制緩和に問題はなかったのか

軽井沢バス事故についての再発防止策は、「運転未熟のために操作を誤り、ニュートラルで走行したために、速度が制御できない状況となり、事故に至った」という人的事故原因を前提に、「安全対策装置の導入促進」のほか、運転者の選任、健康診断、適性診断及び運転者への指導監督の徹底など、運転手の運転技能、運転適性の確保を中心とする対策が講じられた。

しかし、もし、事故原因が車両の方にもあった場合には、再発防止策は大きく異なるものになっていたはずだ。

車両自体の危険性に関して見過ごすことができないのは、バスの「車齢」の問題である。

本件事故車両は、2002年登録で車齢13年、部品の腐食破断が原因とされた白老町バス事故の事故車両は、1994年登録で、事故時の車齢は19年である。

過去、貸切バス事業が免許制であった時代には、新規許可時の使用車両の車齢は、法定耐用年数(5年)以内とされていたのが、2000年法改正による規制緩和で、車齢の規制は撤廃された。

本件事故を受けて設置された「軽井沢スキーバス事故対策検討委員会」でも、「古い車両を安価で購入し、安全確保を疎かにしている事業者がいる」との指摘を受けて、車齢の制限も検討されが、同委員会に提出された資料によると車齢と事故件数の相関関係が認められないことなどから、車齢の制限は見送られた。

しかし、この時の対策委員会の資料は、「貸切バスの乗務員に起因する重大事故」とバスの車齢の相関関係を見たものであり、車両の不具合や整備不良等による事故と車齢との関係を検討したものではない。

白老町事故に関連して、同様の部品の腐食破断による事故が多数発生していたことが明らかになり、リコールが行われたことから考えても、表面化していない、車両に起因するバス事故が相当数ある可能性がある。軽井沢バス事故も、13年という、かつての法定耐用年数を大幅に超える車両で起きた事故だった。この事故で、仮に、車両の不具合が原因の事故である可能性が指摘されていれば、「車齢の長いバスの車両の不具合による危険」の問題も取り上げられ、「車齢」と「車両の不具合に起因する事故」の相関関係についても検討され、そもそも、2000年の規制緩和における車齢規制の撤廃が適切だったのか、という議論にもなっていた可能性がある。

知床観光船事故との共通点

今年4月23日に北海道知床で発生した観光船事故と、この軽井沢バス事故は、直接の当事者の運転者が事故で死亡するなどして供述が得られないこと、運行会社の安全管理の杜撰さが問題とされていること、国交省が監督権限を持つ事業であったことなどの共通点がある。

知床観光船事故が、最近の事故であるのに対して、軽井沢バス事故は、6年前に起きた過去の重大事故であり、今後の事故の危険とは直接関係ないと思われるかもしれない。

しかし、コロナ禍での需要の急減によって苦境に喘いできた観光・旅行業界にとって、今後、外国人旅行者の受け入れが再開され、需要が増大すれば、これまでの収入減を取り戻すべく、「背に腹は代えられない」ということで、安全対策を疎かにしても、収益確保を優先する事業者が出てくる可能性が十分にある。

その際、車齢の長いバスに必然的に高まる車両の不具合による事故の危険が高まることが懸念される。知床観光船事故に関しても、監督官庁の国交省の対応が手緩かったと批判されているが、その背景に、観光・旅行業界の窮状への配慮が働いた可能性も指摘されている。同じような「手緩い対応」が、コロナ禍で苦境に喘いできた貸切バス業界に対する国交省への対応でも行われ得るのではないだろうか。

そういう面からも、軽井沢バス事故の真の事故原因は何なのか、その究明のための再調査を行い、必要に応じて再発防止策も見直すべきではないだろうか。

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