「科学的鑑定」に対する“刑事司法の在り方”を問う工具痕鑑定国賠訴訟

2023年12月、常習特殊窃盗事件について14件中12件の窃盗・窃盗未遂について無罪とする控訴審判決が出され、その中で、福岡高裁(松田俊哉裁判長)は、侵入窃盗等の事件で犯人性の立証の決め手とされてきた「工具痕鑑定」について、指紋鑑定、DNA鑑定のような統計的確率論的根拠を有するものではないとして、証拠価値を根底から否定する判断を示したこと、その事件で、鑑定人が一審裁判所を誤認させるためにつかったのが、「別の工具の工具痕が一致する可能性は278億分の1」という虚構だったことをYahoo!記事【揺らぐ科捜研鑑定の信頼性、“「278億分の1」の虚構”で犯人とされる恐怖】で解説した。

この事件で、一審の懲役9年が4年に減刑され、未決勾留日数が刑期を超え、即日釈放されたA氏は、2024年4月、東京地裁に、国と福岡県に対する国家賠償請求訴訟を提起した。私は、A氏の事件の控訴審の弁護を担当し、国賠訴訟の代理人も務めている。

本稿では、これまでの国賠訴訟の経過、原被告の主張と裁判所の対応について、詳しく解説する。

国家賠償請求訴訟を提起した理由

A氏は、工具を所持している際に現行犯逮捕され、「工具は経営していた専門学校の建物の補修に使用する目的だった」と弁解したが不合理だとされて勾留され、その後、その所持していた工具と同一の工具が使われたとして「事務所荒らし」の窃盗・窃盗未遂で次々と起訴され、被害現場からA氏と同じ型のDNAが検出されたとされた2件を含め14件の起訴が完了し「常習特殊窃盗」に訴因変更されるまでに、逮捕から1年4か月もかかった。

A氏は14件すべてについて全面無罪を主張して争い、1審の審理期間は3年余に及んだが、工具痕鑑定などによって全面有罪判決が出された。

控訴審で、A氏のDNAが検出されたとされた2件の窃盗だけで常習性を認め、4年の懲役が維持されたことの理由に、それ以下の量刑だと、5年の身柄拘束が不当勾留となり、裁判所の責任が免れなくなることがあったと推測される。

結果的に、A氏は、5年間も身柄を拘束され、その大半が、最終的な司法判断で信用性が否定された工具痕鑑定を根拠とするものだったが、それに対して、警察からも検察からも謝罪も補償も何もない。そのことに到底納得できるものではなかった。

控訴審の弁護を受任した私が、たまたま現職検察官が書いた解説で別件高裁判決が紹介されていたのを発見し、控訴趣意書で引用したことが、工具痕鑑定の信用性を崩すきっかけとなった。それがなければA氏は9年の実刑が確定し、今も服役が続いていたはずだ。

しかも、A氏の事件で工具痕鑑定を行った鑑定人のT氏は一審の証人尋問で、同種の工具痕鑑定を「過去に500件は行っている」と証言していた。その工具痕鑑定が有罪立証に用いられた事例の中には、工具痕鑑定以外に犯人性の証拠がなかった事例もあった可能性がある。別件高裁判決と、A氏に対する福岡高裁判決と相次いで示された工具痕鑑定に対する一般論を前提にすれば、そのような事件は無罪とされるべき冤罪事件なのであり、有罪判決が確定している人が知れば、再審請求が行われる可能性もある。

当然、そのような事例がないかどうか、福岡県警や検察が再検討すべきだが、そのような対応が行われている様子は全くなかった。

A氏の無念を晴らすため、そして、A氏のような工具痕鑑定による不当逮捕、冤罪を防止するために、検察(国)と福岡県警(福岡県)に対して国家賠償請求を提起することにした。

A氏の特殊窃盗事件の一審公判でも、工具痕鑑定の信用性が最大の争点となっていたが、その時点では、別件高裁判決で、工具痕鑑定について「被疑者が所持していた工具と犯行現場の工具痕が同一であることの証拠」とすることが否定され、「類似性」についての証拠に過ぎないとする判断を示す判決が出されて確定していた。

検察官請求の証人尋問で、鑑定人T氏は、痕跡が1ミリメートル幅あることが一つの基準とされていることと、福岡県警科捜研の「研究報告」の実験と同一の基準で工具痕の同一性を判定したものと証言し、検察官は、論告で、「工具痕鑑定の信用性」は「(被告人が所持していた工具と現場から採取された工具の)線状痕跡が偶然一致する可能性」について、278億分の1と極めてゼロに近い結果が得られているので、工具痕鑑定の信用性が「統計学的に裏付けられている」などと主張した。

国賠請求訴訟では、公判検察官について、別件高裁判決が出て確定していたのに、工具痕鑑定による立証について再検討をせず、工具痕鑑定しか犯人性の証拠がない事件についても従前どおりの方針で工具痕鑑定に科学的根拠があり信用できるとの前提での立証を維持し、工具痕の鑑定人のT氏に証人尋問でそのような趣旨の証言させたこと、福岡県警科捜研の鑑定人T氏について、科学的専門知識を有する鑑定人として、鑑定の性格、その限界を認識していたはずなのに、検察官と共謀して一審裁判所に統計的確率論的根拠があるように誤解させるような証言を行ったことを、それぞれ「公務員の不法行為」ととらえた。

被告国と被告福岡県の「唖然とする訴訟対応」

これに対して、被告国は、「公判担当検察官の対応には国賠法上の違法はない」と主張するだけでなく、別件高裁判決について

「別件東京高裁判決は、一般論として工具痕鑑定の統計学的な根拠に関して疑義を呈したものではない」

などとして、工具痕鑑定に対して別件高裁判決が重要な判示を行ったこと自体を否定し、単なる個別の事例判断に過ぎないかのように主張した。

そこで原告準備書面で、別件高裁判決の判示の内容について、以下のとおり、「第一の命題」「第二の命題」に整理した。

第一に、「本件バールと同種の別のバールでも同じ線条痕が偶然形成される可能性について極めて小さな確率であるとする福岡県警科捜研の研究報告」について、「そのまま本件各擦過痕が本件バールによって印象されたもの(各擦過痕と本件バールによる印象痕とが同一)と認められるとの工具痕鑑定の最終判断を裏付けているか否か」との命題について、「裏付けているとは考えられない」と判断し、

第二に、研究報告について「専門家による多数の組合せに基づく実験結果によるものであることからすると、比較対照部分が工具先端の一部で形成された痕跡であっても、同種の工具でも異なる工具による線条痕が顕著に類似する確率は低いという限度のことはいえる」とした上、工具痕鑑定について、「(犯行現場の)各擦過痕と本件バールによる印象痕とが、高い類似性が認められるという限度では信用できるか」との命題について、「鑑定人の当審証言には相応の根拠、合理性が認められる」との理由で、「高い類似性が認められるという限度での信用性」を認めた。

そして、A氏の事件の公判担当検察官としては、「第一の命題」については否定されることを想定し、「第二の命題」について、DNA鑑定や指紋鑑定のような確率論的根拠はなく、あくまで主観的な判断であるが、高度の類似性があるという限度で証拠価値を持つとの前提で、他の間接証拠をも含めて各窃盗事実について犯人性が立証できるかどうかを検討すべきだった、と主張した。

被告国は、

「別件高裁判決は、工具痕鑑定の統計学的な根拠に疑義を呈していない」

「工具痕鑑定の統計学的な検討結果に対して相応の評価をしている」

と主張していたが、これは上記の二つの命題を混同していると指摘し、それぞれの命題について認否を明らかにした上で反論するよう求めたが、それ以降、国は、原告の主張に対して「完全黙秘」に転じ、認否も主張も何もしなくなった。

被告福岡県の対応は、

「T氏の証人尋問での個別の証言についての『偽証』を主張していないので、不法行為にはならない」

というものだった。

原告準備書面では、工具痕鑑定について、専門家でありながら、統計的確率論的根拠があるような誤った認識を与えようとしたことを不法行為と主張しているのであり、個別の証言を偽証ととらえているのではない。研究報告を行ったこと、所定の手法で工具痕鑑定を行ったことなどについての個別の質問に対する証言は、事実としてはその通りであろう。しかし、そのような証言が、全体として、工具痕鑑定の証拠としての評価に関して誤った認識を生じさせようとする意図で組み立てられていることが、科学的鑑定を行う立場の専門家としての義務に違反することを問題にしているのである。

工具痕鑑定にはDNA鑑定や指紋鑑定のような確率論的根拠はないことを率直に認めつつ真摯に鑑定技法を説明する警視庁鑑定人の証言態度が、別件高裁判決において、その鑑定結果には「高い類似性が認められる」という一定の評価を受けることにつながったと考えられる。

一方、A氏の事件で工具痕鑑定を行ったT鑑定人の一審証言では、

「基準としてバーコードの特徴がきれいにもう一致していると言えるほどぴたりと合致しているかどうかを判断した」

などと述べているだけで、その判断基準に凡そ客観性がないにもかかわらず、自らが行った福岡県警科捜研の研究報告を持ち出し、

「異なる工具で一致と判断される確率は 278億分の1」

という実験結果を紹介しているのである。

被告福岡県の対応は、科学的鑑定に携わる鑑定人としての義務違反を問うものであることを全く理解しようとすらしないものだった。

工具痕鑑定に関する高裁判決確定を受けて必要な対応は行われているのか

この国賠訴訟では、鑑定人T氏が、科学的鑑定の専門家として、工具痕鑑定は確率的、統計的に根拠づけることは困難であると認識しながら、研究報告と工具痕鑑定を結びつけることにより、裁判官の判断を誤らせる証言を行ったことが不法行為に該当すると主張している。

A氏の事件の控訴審判決においても、別件高裁判決を引用し、本件工具痕鑑定について

「被告人が所持していた工具により、被害事務所に残された工具痕が形成されたことを認定できるほどの高い推認力は有せず、せいぜい、類似性が認定できるにとどまる」

との判断を示し、同判決が確定しているのであるから、本件に至るまで、福岡県警のT氏が同様の手法で行った(本件証人尋問の時点でも500件に上る)工具痕鑑定が犯人性の決め手とされて有罪判決が確定した事件については、犯人性に重大な疑義が生じたことになる。

また、本件控訴審判決確定後においては、本件と同種の窃盗事案において工具痕鑑定書を犯人性の決め手の証拠として用いることについて見直しが行われるのが当然である。これらの点について、福岡県の対応について求釈明を行ったが、被告福岡県は、完全に無視している。

原告の人証申請をすべて「不採用」とした裁判所

このように被告国も被告福岡県も、原告の主張に対して全く向き合おうとせず、裁判所も、被告側に何も求めない状況で、原告から、公判担当検察官とT氏、別件高裁判決で証言を行った警視庁科捜研鑑定人の3人の人証申請をした。それに対して、被告国は、

「本件訴訟の争点は、一審の公判活動が国賠法上違法と評価されるか否かであり」

「原告が立証しようとする事実は、争点との関連性が不明」

として、各証人尋問を実施する必要性がないとの意見を述べた。

しかし、「一審の公判活動が国賠法上違法と評価されるか否か」は本件請求における「結論」そのものであり「争点」ではない。このような不誠実な国の意見に対して反論するとともに、そもそも原告の主張に対して認否すら行っていないことを指摘し、認否を行うよう強く求めたが、裁判所は、被告国、福岡県に何ら対応を求めないまま、人証申請はすべて「不採用」との判断を示した。

国賠訴訟の社会的意義、目的は「被害救済」だけではない

確かに、検察官による公権力の行使についての「国賠法上の違法性の判断基準」のハードルは高く、警察の科捜研の鑑定人が、鑑定結果の科学的評価に関する証言で不法行為責任を問われた例も過去にはない。いずれも、不法行為が認定される可能性が低いことは確かだ。 しかし、国家賠償請求訴訟は、単なる金銭的な「被害救済」の場に留まらない。公権力の行使における「適正な手続き」や「科学的誠実さ」を検証する、公共的な監査(チェック)機能を果たすべきであることが指摘されている。

専門的知識を持つ鑑定人の刑事裁判に対する義務は、個別の断片的な事実を証言するだけではなく、その『科学的評価を正しく伝えること』にある。本件では、そのような立場にある検察官と鑑定人が、別件高裁判決の判示をどのように認識し、どのように考えて、A氏の公判での証人尋問に臨んだのか、それらを証人尋問で明らかにすることは、「科学的鑑定」に対する検察官、鑑定人の対応の在り方を論じる上でも極めて重要である。

かかる意味で、「科学的鑑定」として刑事事件の立証に用いられた工具痕鑑定の統計的確率論的根拠が問題となった本件における検察官と鑑定人の対応は、刑事裁判における公正の確保、冤罪の防止という観点からも許し難いものだ。公判担当検察官と鑑定人に法廷で証言させ、「科学的鑑定」が刑事裁判で正しく評価されることについて、どのように考えていたのか、どのように義務を尽くしたのかを問い質すことは、国賠訴訟の社会的機能に照らして不可欠だと言える。

「278億分の1の虚構」で裁判所を欺いた国、福岡県の責任を問う「工具痕鑑定」をめぐる国賠訴訟は、議論が全くかみ合わないまま、3月2日、東京地裁での最終の口頭弁論期日を迎える。

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