メガバンクとして余りにお粗末なみずほ銀行の危機対応

近年、金融機関のコンプライアンス対応の中で、特に重視されてきたのが暴力団等の反社会的勢力への対策である。国際的なマネーロンダリング防止の要請もあって、金融機関の対応のレベルは急速に高まっている。

そうした中で表面化したのが、みずほ銀行が提携ローンを通じて反社に融資をしていた問題だ。反社への融資であることを把握した後も2年間も放置していたとのこと。日本を代表するメガバンクとしては誠にお粗末としか言いようがない。

もちろん、反社と認識しながら直接融資したわけではない。しかし、日本の経済社会全体で反社対策、暴力団対策が一層徹底され、金融機関の義務が強化されている中においては、反社への融資に対して、副頭取等の銀行幹部が認識していながら、長期間何の対策もとらなかったというのは、金融機関の社会的責任という観点からも、厳しい批判を免れない。

反社問題で監督官庁から業務改善命令を受けるというのは、メガバンクにとって極めて深刻である。反社への融資について金融庁の調査で指摘され、何らかの処分を受ける可能性があることを認識した段階で、重大な不祥事として受け止め、そのような問題に対するみずほ銀行としての姿勢、方針を明確に示し、今後の対応と再発防止の基本的な方向性を示すことで、社会からの信頼の維持を図るべきであった。

ところが、みずほ銀行は、金融庁調査の後、業務改善命令が公表され、問題が世の中に対して明らかになった後も、広報部での説明や、幹部が囲み取材に応じる程度で、記者会見も開かなかった。そのため、社会からの批判は否応なく高まっていった。

ようやく、一週間後の昨日、会見を開いたものの、頭取は顔を見せず、副頭取が謝罪に終始した。誰もが注目している「問題を2年間放置した経緯・原因」等については「調査中」としか答えなかった。銀行内でのこれまでの反社問題への対応の経過も、対応が遅れた原因も、今後の対応方針も、ほとんど明らかになっていない。反社取引という不祥事そのものに加え、このようなみずほ銀行の一連の危機対応の稚拙さが、今回の問題を一層深刻化させたことは否定できないであろう。

クライシスマネジメントの迅速さ、適切さは、企業等が不祥事によって受けるダメージの有無・程度に決定的な影響を与える。

私が、第三者委員会の委員長として不祥事の事実関係の調査、原因分析、再発防止策の策定等に関わった新日本有限責任監査法人職員のインサイダー取引問題と、野村証券社員のインサイダー取引問題とを、クライシスマネジメントの面で比較したのが、拙稿【野村証券はなぜ危機管理に失敗したのか 組織の生死を分けるクライシスマネジメントである。ここでは、クライシスマネジメントの違いによって、組織もたらされる結果が大きく異なることを明らかにした。

新日本有限責任監査法人のケースでは、証券取引等監視委員会による調査の早い段階から、問題の表面化に備えて十分な準備を行い、新聞報道の直後に記者会見を開き、第三者委員会の設置を明らかにした。

それに対して、刑事事件に発展した野村証券のケースでは、対応がすべて後手に回り、記者会見での社長の説明も混乱、調査委員会のメンバーが社外取締役中心であることについて「調査の客観性」も問題視された。

この記事を書いたのは2008年5月。もう5年以上も昔のことである。それ以降、経済社会の環境が激しく変化する中で、日本企業のコンプライアンスに対する姿勢も取組みも進化してきたはずだ。

グローバルな事業活動を展開し、様々なコンプライアンス上のリスクにさらされているメガバングの一角をなすみずほ銀行のクライシスマネジメントのレベルが、いまだに、今回のような程度だというのは、何とも情けない限りである。

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大坪・佐賀断罪のために「検察の正義」を丸裸にした控訴審判決

9月25日、大坪弘道元大阪地検特捜部長の犯人隠避事件の控訴審判決が言い渡された。

主文は、「控訴棄却」だった。

大坪氏が特捜部長として指揮した郵便不正事件・村木氏事件での検察の捜査・公判を厳しく批判してきた私が、なぜ一審有罪判決に対して控訴した大坪氏の弁護人という立場での活動を行うに至ったのか。

それは、部下の特捜部主任検察官による証拠改ざんという問題に対する危機管理対応において、長年所属してきた「検察の論理」に従い、組織防衛のために行った大坪氏を、独占する公訴権の「刃」で斬り捨てた検察のやり方が、あまりに理不尽かつ不当なものだと考えたからだった。そのようなやり方は、検察の歴史に重大な禍根を残すだけではなく、検察不祥事の本質から目をそむけ、検察の抜本改革を妨げるものでしかないと考え、私は、大坪氏の弁護人として、検察の「不当な組織防衛」を追及する側に立った。

ところが、判決は、控訴趣意書・補充書での弁護人としての私の主張をことごとく退け、大坪・佐賀両氏を逮捕・起訴した検察の主張と一審判決を、丸ごと容認した。その結論だけを見ると、判決は、大坪・佐賀両氏の「組織防衛」のみを断罪し、検察組織の「組織防衛」を丸ごと許したかのように見える。

しかし、判決書を熟読すると、そのような結論を導き出すために判決が示した判断には、検察組織に対して重大な影響を生じさせる論理が含まれていることがわかる。

検察が行った両氏の逮捕・起訴、それを丸呑みした一審判決は、明らかに無理筋だった。それが無理筋であることを指摘する控訴趣意書の主張を排斥するために、控訴審判決が用いた論理は、検察組織、検察実務に対して、猛毒となるものだった。

この事件の特異性、公判の経過、争点などについては、【控訴審で「立ち往生」する検察~明日から元特捜部長控訴審公判】【大坪元特捜部長逮捕・起訴は、検察組織の重大な不祥事・歴史上の汚点】で詳しく述べた。

一審判決は、1月30日の電話で、佐賀氏が前田から故意改ざんの告白を受けたことを、2月1日午前に、大坪氏に報告し、大坪氏は前田の故意改ざんを確定的に認識していたと認定した。しかし、佐賀氏は、1月30日に前田と電話で話した事実自体を否認し、当然のことながら、その電話で前田から故意改ざんの告白を受け、それを大坪氏に報告したことも否定している。その点についての直接証拠は全くない。

一審判決が認定の根拠にした「推認」は、「佐賀は、『もし、前田から故意改ざんの告白を受けていたら部長の大坪に報告しているはずだ』と述べている。当裁判所は、佐賀が故意改ざんの告白を受けたと認定した。だから、佐賀は大坪に報告している」というものだった。しかし、そのような「推認」が刑事事件において凡そ通用しないものであることは少し考えればわかるだろう。そのような「推認」がまかり通るのであれば、自宅から拳銃が発見されて不法所持で取調べを受けている暴力団組員が「もし、拳銃を入手したら、必ず組長に報告しているはずです」と供述して、拳銃所持の認識を頑強に否認していたとしても、何らかの根拠で、「その組員が拳銃所持を認識していた」と認定できれば、組員の「供述」によって拳銃所持の組長への報告も認定でき、組長も共同所持で処罰できる、という話になってしまう。さすがにこんな乱暴な事実認定は刑事事件においてはあり得ない。

私は、控訴趣意書で、その点を徹底して主張し、それに加えて、仮に、1月30日に、佐賀氏が前田と電話で話した事実があり、その際、前田から故意改ざんの告白を受けたとしても、佐賀氏が、それを大坪氏に報告しなかった可能性を示す事情が多々あることも主張した。

しかし、控訴審判決は、このような弁護人側の主張を退け、一審判決と同様に、「もし前田から故意改ざんの告白を受けていたら、大坪部長に報告していたはず」との佐賀供述を根拠に、大坪氏の故意改ざんの確定的認識を認定した。しかし、さすがに、それだけでは、推認の根拠があまりに薄弱と考えたのか、「被告人の弁解の不合理性」を殊更に強調した。

大坪氏が佐賀氏から前田の告白について報告を受けていなかったとしても、「前田の過誤説明」を鵜呑みにして、検事正、次席検事に報告し、何らの裏付け調査も行わなかったことは「特捜部長の要職にある者」の対応として厳しく非難されるべきものだと述べた上で、そのような特捜部長にあるまじき対応を行ったと述べる大坪氏の供述自体が不自然・不合理で信用できないとしたのである。

判決は、次のように述べている。

故意または過失のいずれの場合であっても、前田個人にとどまらず検察庁全体に対する信頼を大きく傷付け、刑事司法の威信をも損なうおそれのある重大な不祥事になることは必定というべきである。したがって、いずれにしても、前田の直属の上司である被告人両名としては、前田による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにして、検察庁ないし刑事司法の自浄作用を迅速に機能させることにより、検察庁に対する信頼や刑事司法の威信をできるだけ保持するとともに、同事件に関する公正な公判審理を早期に進行させるためにも、その全容の解明が急務であった。

つまり、判決は、「仮に過失であったとしても、大坪氏・佐賀氏は、前田による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにすべきだった。FDデータ改変問題を把握していながら、その問題の全容を解明して村木事件公判に反映させることなく、有罪をめざした公判活動を継続しようとすること自体が許されない。」と述べているのである。

大坪氏が、前田の故意改ざんの告白について佐賀氏から報告を受けたか否か、故意改ざんについて確定的認識を持ったか否かに関わりなく、村木公判の最重要証拠についてデータが改変された事実があるのであれば、それを公表して、村木事件の有罪立証を断念し、白旗を上げろ、と言っているのである。

しかし、このような控訴審判決の論理を前提にすれば、断罪されるべきは大坪氏・佐賀氏だけではない。

大阪地検の小林検事正、玉井次席検事は、村木公判に関して、関係者供述と作成された文書のFDのプロパティ問題が矛盾するという、証拠上重大な問題があることの報告を受けていた。そのFDのプロパティ・データが、主任検察官の前田によって改変された疑いがあるとの報告を受けたが、被告人側に還付されたFDデータの再提出を求めるなどした調査を行うことも、問題を公表することもせず、村木事件での有罪をめざした立証を継続することを了承した(判決も、「大阪地検最高幹部」としての検事正・次席検事の対応の問題を指摘している)。

村木事件公判担当主任検察官の白井は、前田が佐賀氏に故意改ざんを告白した1月30日の電話を見聞したと証言し、検察の立証の大きな支えとなったが、その白井は、2月1日に、特捜部長の大坪氏に前田の改ざん問題についての公表を強く迫っていながら、その後、特捜部長から検事正・次席検事にどのような内容の報告が行われたのかを確かめもせず、捜査主任検察官による故意の証拠改ざんの事実を認識しつつ、村木公判で、村木氏を有罪にするための主張・立証を継続し、有罪論告まで行っている。

公判部長も、白井から前田の故意改ざんについて報告を受けていながら、村木事件の公判対応に関して何らの措置もとろうとしなかった。

さらに、過失によってデータが改変された可能性があることは、特捜部長の大坪氏から大阪高検榊原刑事部長にも報告されたが、刑事部長は、調査を行わないことを了承し、何らの措置もとらなかった。

その後、村木事件公判で、検察官調書の大部分が証拠請求を却下され、FDプロパティ問題が最高検の知るところとなり、調査が行われたが、この際、FDデータが主任検察官によって改変された可能性があることを、これら検事正、次席検事、公判部長、主任検察官、高検刑事部長など多くの人間が認識していたはずなのに、その点は全く問題にされることなく、検察は、村木氏に対して有罪論告を行っている。

検察は、「検察組織の論理」にしたがって部下の証拠改ざん問題への危機管理対応を行った大坪・佐賀両氏を、「組織防衛」のために斬り捨て、事件を検察の組織的問題から切り離すために、「故意改ざんの過失へのすり替え」を強調した。それによって、「過失によるデータ改変」に対して何らの対応をとらなかった検察組織を守ろうとした。

しかし、大坪氏の故意改ざんの確定的認識についての証拠があまりに希薄だったために、控訴審判決は、検察の論理だけでは大坪氏を有罪にできないと考え、「過失によるデータ改変」であっても、村木事件の最重要証拠について疑念が生じた以上、特捜部長としてそれを見逃すことは許されないという論理を展開した。「公判での重要証拠に関して何か問題があれば、ことごとく公判で明らかにせよ」という「裁判所の論理」に基づくものであろう。

その論理は、従来からの「検察組織の論理」にしたがって、「過失によるデータ改変」の事実があったとしても、改変前のFDデータの内容が捜査報告書に記載されて公判で明らかにされている以上、大きな問題ではなく、FDの再提出を求めず、村木事件公判での有罪立証を継続することに問題はない、と判断した検察組織の側にとっては、思いもよらないものだったはずだ。

この控訴審判決の論理が、検察にとって、いかに「猛毒」であるかは、陸山会事件捜査の過程での田代元検事による虚偽捜査報告書作成事件に対する検察の対応との比較を考えてみれば明らかであろう。

この事件については、市民団体が、田代検事等を虚偽有印公文書作成・同行使、偽証で告発するとともに、東京地検幹部等を、実際の取調べでのやり取りとは全く異なった内容の捜査報告書が作成され検察審査会に提出されていたことを把握したのに、捜査・調査を行わず、公表も行わなかったことについて犯人隠避で告発したが、最高検は、いずれも不起訴とした。

この事件に、大坪氏控訴審判決の論理を当てはめれば、こうなる。

検察審査会での小沢氏の議決に重大な影響を与えた田代捜査報告書の内容が虚偽であることが判明し、石川氏の供述経過について検察審査会の審査員に誤った認識を与えた疑いが生じた以上、田代検事が「記憶の混同」などと弁解していても、それを鵜呑みにすることなく、田代による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにして、検察庁ないし刑事司法の自浄作用を迅速に機能させることにより、検察庁に対する信頼や刑事司法の威信をできるだけ保持するとともに、同事件に関する公正な公判審理を早期に進行させるためにも、その全容の解明が急務であったということだ。

そして、検察は、虚偽捜査報告書の問題を公表しなかった理由を「秘書事件の公判を控え、小沢氏の起訴も間近に予想される段階で、証拠の内容を、その公判の前に明らかにすれば、裁判に予断を与えることになりかねず、指定弁護士等の今後の公判活動にも影響を与える可能性もあった」としているが、控訴審判決の論理からすると、「小沢事件や秘書事件の公判への影響を理由に、田代検事や当時の特捜幹部が行った重大な職務犯罪の疑いを放置することも許されない」ということになる。

「過失によるデータ改変であったとしても、そのまま放置すべきではなく徹底調査し、その結果を公判に反映すべきであった」という控訴審判決の論理は、これまで身内の不祥事に対して、できるだけ内部にとどめ、公判での立証を優先する対応をしてきた検察組織全体への厳しい批判でもあるのだ。

控訴審判決が検察官の職務行為に関する犯人隠避罪の成立に関して示した法解釈も、検察実務、特に、特捜部の捜査に重大な影響な影響をもたらすものである。

私は、控訴趣意書で、検察官は、刑事事件の起訴不起訴だけではなく、事件を認知立件して捜査すべきかどうかについても裁量権を有しているのだから、その職務行為について犯人隠避罪が成立するとすれば、一般的な検察官の職務行為から逸脱している場合に限られると解するべきだという主張をした。

それに対して、控訴審判決は、検察の実務からの「逸脱性」を全く問題にせず、「捜査機関である検察庁内において、検察庁の幹部が、部下である検察官による職務犯罪を覚知した場合において、犯人を隠避させたといえるためには、上級庁を含む検察組織全体として犯人逮捕に至るべき捜査に着手させない状況を作出することを要する」「上司や上級庁に対しては、証拠隠滅に関する嫌疑を抱かせないための工作を行うとともに、地検の内部及び部下の検察官らに対しては、当該嫌疑に関する情報を管理し、捜査に向けた動きを封じる工作を行うことが必要」と判示した。

このような考え方で、犯人隠避罪の成立が認められることになると、特捜部の実務は成り立たない。特捜部では、情報提供、告発などの様々な捜査の端緒の中から、捜査の対象事件を取捨選択し、その捜査結果に基づいて、さらに、捜査を継続するかどうか、強制捜査に着手するかどうかを、事件の性格や規模、他の事件の捜査との関係、捜査に動員できる人員などを考慮して判断する。犯罪の嫌疑について有力な証拠が得られている事件でも、特捜部としての政策的な判断によって、本格的な捜査着手、立件を見送ることもある。その場合には、捜査着手を見送ることを検事正、次席検事、上級庁等に報告し、了承を得るわけだが、その際に、有力な証拠が得られているとか、被疑者が自白していることなど、敢えて報告しないということも、従来の検察実務としては十分あり得る。そして、捜査着手が見送られることになれば、その事件について部下に厳しい箝口令を敷くことになる。

「上司や上級庁に対しては、証拠隠滅に関する嫌疑を抱かせないための工作」「地検の内部及び部下の検察官らに対しては、当該嫌疑に関する情報を管理し、捜査に向けた動きを封じる工作」の両方を行うことで犯人隠避罪が成立するという控訴審判決の法律解釈によれば、これまで特捜部で当然のように行われてきた事件の取捨選択と、それについての上司・上級庁への報告は、すべからく犯人隠避罪に当たることになる。

しかも、判決は、このような法律解釈の本件への当てはめについて、「本件改ざんの隠蔽に関する成算は、かならずしも十分なものであるまでの必要はなく、被告人両名としては、本件改ざんの隠蔽の動機や思いから、上司に対する報告の成り行きに賭けてみようとするだけの成算があれば足りる」と述べている。この考え方によれば、特捜部幹部が、事件の捜査着手見送りについて上司の了解を得るための報告をする際に、「上司から質問されたらありのままに報告せざるを得ないが、取りあえず犯罪の嫌疑に関する有力な証拠があることは報告しないでおこう」と考えて証拠の存在を秘匿した場合は、それだけで犯人隠避罪が成立することになる。

従来の刑事司法においては、刑事事件に関する情報、証拠の管理、取扱いは、基本的に検察の判断に委ねられており、検察が、起訴後に想定外の特別の事情が生じない限り、有罪判決を得ることを目的とした「公判維持最優先」で対応することで、100%近い有罪率が維持されてきた。それが、「検察の正義」中心の刑事司法の構図を支えてきた。

そして、その「検察の正義」の象徴となってきたのが、広範な裁量で捜査の対象を取捨選択し、一度ターゲットを定めると、捜査権限を最大限に活用して徹底的に追い詰める、特捜検察であった。

今回の控訴審判決で示された「裁判所の論理」は、そのような「検察の論理」を根底から揺さぶりかねない。まさに検察による、情報と証拠の独占によって支えられてきた「検察の正義」そのものを丸裸にするものである。

それは、「検察の論理」にしたがって対応した両氏を、検察が「組織防衛」のために斬り捨てたことが招いた、当然の結果といえる。

このような「裁判所の論理」が、控訴審で確定するのか、上告によって最高裁に持ち込まれることとなるのか、検察幹部は固唾を飲んで見守っていることであろう。

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ビッグデータは誰のものか

JR東日本が、共通乗車カード・電子マネーのスイカに記録された乗降データ(以下、「スイカ・データ」と言う。)を、利用者に無断で日立製作所に有償で提供していたことが明らかになって、利用者側から大きな反発を招いた。JR東日本は、利用者側の要望に応じて提供データから除外する措置をとったが、それに続いて、NTTドコモが、携帯電話事業によって把握している基地局エリア内の携帯電話の位置情報(以下、「ドコモ・データ」と言う)に基づいて、特定地域の時間ごとの人口変化などの情報をまとめた報告書を作成して流通業や外食企業などに販売する方針を打ち出し、話題になっている。

このような企業のビッグデータの活用に関して問題にされているのは、個人のプライバシーの侵害の恐れの有無である。匿名化されたデータであっても、何らかの形で特定される可能性があるのではないか、それに関して、情報を把握される側に事前に了解を得たのかどうかなどの点である。

スイカ・データについては、個人が特定されて、情報が活用されることがないよう一応の措置はとられていたが、利用者側の事前の了解が得られていなかったことが問題とされた。そのことを踏まえて、NTTドコモは、個人が特定されないための措置をとるだけではなく、契約者が電話で申請すれば、予め個人データの利用を停止することとしている。

「個人のプライバシーの保護」に関して、個人情報保護法の規定に反しないという「法令遵守」だけではなく、それ以上に、同法の目的であるプライバシーの保護を徹底していくことが必要との認識で、企業側の対応の在り方が議論されているというのが現状である。

拙著「法令遵守が日本を滅ぼす」(新潮新書)などで、かねてから述べているように、複雑・多様化した現在の社会においては、法令・規則の「遵守」だけで社会の様々な要請に対応できるものではない。コンプライアンスとは、法令遵守を超え、「社会の要請に応えること」でなければならない。とりわけ、司法の社会的機能が限定的であった我が国においては、「法令遵守」にこだわることの弊害が顕著に表れる。

そういう観点からは、まさに「社会の複雑・多様化」が極端に表れる「情報空間をめぐる問題」に関して、企業のコンプライアンスとして、個人情報保護法という法令の遵守を超えた対応が求められるのは当然のことである。

問題は、ここで求められる「法令遵守」を超えた対応を、どういう次元で考えるかである。私は、情報の価値が一層大きくなり、世の中が情報を中心に動いているとすら思える状況において、有体物が価値の中心だった社会を前提とする旧来の法体系での解決は限界にきているのではないか、という問題提起を、かねてから行ってきた。

旧来の私有財産制は、物理的な支配・管理が可能な有体物についての権利を、個人の意思に基づいて移転することを基本としている。物理的に支配・管理が可能な物に対しては、「所有」を観念することが容易である。有体物は、売買・贈与など所有者の意思によって所有権を移転することができ、何らの権限もないのに、他人の「所有物」の支配・管理を侵害することに対しては、支配・管理を回復し、損害賠償を請求する法的手段が認められる。

一方、情報に関しては、そもそも、物理的・直接的な支配・管理は困難である。情報の流出・拡散は不可逆的に生じ、原本と複製の区別、情報流出元の特定は極めて難しく、原状回復も事実上不可能であり、返還請求という手段もあり得ない。有体物を個人の意思によって移転することを中心とする伝統的な法体系による解決方法は、基本的に当てはまらない。

スイカ・データ、ドコモ・データなどビックデータの活用をめぐって生じている問題は、まさに、情報を中心とする社会が旧来の法体系では解決し得なくなっていることを端的に表すものと言えよう。

これらのデータの活用に当たって、「個人情報の保護」「プライバシーの保護」が重要な社会的要請となるのは当然であるが、それは問題の本質ではない。

根本的問題は、企業・団体、国・自治体等の組織内に、組織の活動に伴って消費者に関する大量の情報が蓄積され、それらを活用することで経済的利益が生じる場合に、情報を活用する権利は誰に帰属するのか、という点である。

スイカ・データ、ドコモ・データがまさにそうであるように、これらのビッグデータは、多額の対価を得ることができる大きな経済的価値を有するものであるが、当該企業自らがコストをかけて創造したものではないし、データに対する対価を払って取得したものでもない。鉄道事業や通信事業における大量の消費者との取引の中で「事実上取得した情報」に過ぎない。

利用者は、電車に乗車するためにスイカを購入しているのであって、その際、乗降データをJR東日本に提供することなど考えてはいない。ドコモの携帯電話を使用する消費者も、位置情報をドコモに提供して、それを利用させる認識はない人が殆どであろう。

そのような形で、消費者に対して何らかのサービスを提供する企業の側に、消費者に関する大量の情報が蓄積され、大きな経済的価値が生じるというのは、まさに、高度情報化社会において出現した現象である。このような場合、その情報が誰に帰属するのか、それを活用して利益を得ることが許されるのか、ということに関して、現行法では何も定められていないし、そもそも、有体物を個人の意思によって移転することを中心とする伝統的な法体系によって解決することは著しく困難なのである。

企業の事業活動において、当該企業が所有する生産設備、原料、当該企業に雇用された労働者の労働によって「有体物たる製品」が生み出されれば、「原始取得」によって当該企業にその所有権が帰属する。副産物が生じた場合も、有体物である限り、当該企業の所有物となる。伝統的な民事法体系における「所有」と「占有」の法的効果からは、当然の帰結である。

一方、無体財産の場合は、直接的・物理的支配は不可能で、「占有」が観念できない。そのため、無体財産に関する排他的な権限を認めるためには、法律によって、その権利を認める枠組みが必要となる。事業活動の中で生み出された発明、ノウハウ、顧客情報などが誰に帰属するのかは、法令や契約等で定められることになる。

その典型例が知的財産権の制度である。知的創造活動の成果としての知的財産については知的財産の創出者は、知的財産法によって、特許権、実用新案権等の知的財産についての特別の権利を得ることができ、その権利は、侵害者に対する損害賠償請求権や罰則等で保護される。

ビッグデータは、知的創造物と同じように、場合によってはそれ以上に、大きな経済的価値を生み出すものであるが、それを誰に帰属させるのか、どのような手続をとることによって活用できるのかについて、知的財産法のような法制度が存在しない。それに関する社会的ルールも未整備である。それが、スイカ・データ、ドコモ・データのような問題が生じる根本的な原因なのである。

ビックデータを最先端の情報処理技術によって活用することは、消費者にも大きな利便をもたらし、経済社会にも大きな価値をもたらす行為である。その有効活用は、まさに、社会の要請に応えるものと言えよう。そのために、有効活用していくことについて利用者側・消費者側にも納得が得られるよう社会的コンセンサスを形成することが必要なのである。

現状では、ビックデータ問題に対して、企業側がとっている対応は、①データを匿名化し、絶対に個人が特定されないような措置をとる、②HPなどで、データの活用に同意しない利用者・消費者には、「データの除外」の要請をするように呼びかける、の二つが中心である。JR東日本がスイカ・データを利用者に無断で日立製作所に有償で提供したことに対して、利用者側からの強い反発が生じたことに対応するものであろう。

しかし、ここで生じた反発は、「個人が特定され個人情報が使用される恐れ」に対する不安によるものだけではない。根本的なのは、「電車の乗降という自分自身の行動に関する情報を鉄道会社側が勝手に使って利益を得ることに対する反発・違和感」である。

①の個人情報の取扱いについて万全の措置をとることで、前者に対する不安は払拭できても、それだけでは、後者についての反発・違和感を抑えることはできない。②の措置について十分な周知徹底が行われば、データ除外の要請が相当数に上ることになるであろうが、それによって、データは「歯抜け」になり、情報そのものの価値が低下することになる。

それは、ビッグデータを有効活用していくことによって、社会の要請に応えていくことに逆行することになりかねないのである。

では、ビッグデータの有効活用のための制度的枠組みを、今後、どのような方向で考えていったら良いのであろうか。

本来、企業が「事実上取得した」ビッグデータを活用する権利は、当然にその企業に帰属するものではない。個々のデータの主である利用者との間でどのような手続き・措置をとることで当該企業がそれを活用する権利を取得できるのか、あらかじめルールを定めておく必要がある。

その際重要なことは、このようなビッグデータは、利用者全体に由来する情報であり、それによる利益は社会に還元されるべきだということである。そこで問題になるのは、ビッグデータの経済的価値をどのように算定し、企業活動に関連する料金の算定、企業会計に反映させていくのかということである。

情報処理技術の高度化により、ビッグデータは、一個人や一企業の思い付きと特殊な技術との結び付きでのみ活用され価値を有するものではなく、それ自体が汎用的な価値を持つに至っているように思われる。そうであれば、ビッグデータ自体の経済的価値、価格が算定可能なはずである。その価格形成を公正に行うために考えられるのが「ビッグデータ市場の創設」である。

例えば、スイカ・データは、JR沿線の各駅の乗降客についての膨大な情報であり、それは、その沿線の商業施設の建設や出店計画、関連する企業の経営方針の策定に関する貴重なデータといえる。それがどれだけの経済的価値を有するのかは、市場原理による価格形成に委ねるのが最も合理的ではないか。

そして、ビッグデータの市場価格が明らかになれば、それは、上場企業であれば開示される貸借対照表上も資産として計上することになり、会計処理上も重要な要素となる。そして、鉄道事業等を営む公益企業であれば、その資産額は公共料金としての運賃の認可においても考慮されることとなる。

このように、市場化によってビッグデータの経済的価値を企業会計や公共料金算定の要素としていくことが、ビッグデータを社会的資産として活用していくことにつながるのである。

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「消費増税の前にやるべきこと」論はどこにいったのか

昨年、民主党野田政権が、消費増税実施の方針を打ち出した際、選挙公約に反してまで増税を行うべきか否かをめぐっての民主党内での最大の争点は、「消費増税の前にやるべきことがあるのではないのか」、つまり、税金の無駄遣い、天下りの排除、特殊法人改革など、予算執行の面での課題を残したままで、納税者に負担増だけを求めるのは筋違いではないか、という点であった。

野田政権が、そのような民主党内の反対を抑え込んで、自公の協力で増税法案を成立させたこともあり、その後、「消費増税の前にやるべき」論からは、急速に世間の関心が離れていった。

今、自民党安倍政権が来年春に予定通り消費税の増税を実施すべきか否かをめぐる議論は、もっぱら、アベノミクスによってようやく好転しつつある景気が、消費増税によって「腰折れ」しないかどうか、というマクロ経済的な面に集中している。
しかし、マクロ経済の観点からいかに優れた政策論であっても、最終的には、ミクロ経済の実態と無関係ではあり得ない。財政の均衡も、税収を計算上増加させることだけではなく、予算執行が適正かつ効率的に行われ、所期の経済的効果を及ぼすことで初めて実現されるものである。そういう意味では、消費増税をめぐる議論も、財政の均衡、金融政策などのマクロ経済的な観点だけではなく、予算執行の現場で何が行われているのかというミクロ経済的な実態論が不可欠のはずである。

先週、久々に、女川、石巻、名取などの東日本大震災の被災地を訪れ、公共事業に携わる業界関係者から復興事業の現状について話を聞いた。そこで目にしたこと、耳にしたことからは、現在の復興事業をめぐる予算執行の適正性、効率性に多大な疑問を感じざるを得ない。「消費増税の前にやることがあるのではないか」という、ある意味では当然の議論を思い起こさせるものであった。

復興予算が被災地の自治体の発注能力を超えて配分されるために、その多くが基金として積み上げられ、自治体側は予算を使い切ることに汲々としている。このような状況においては、自治体側関係者の非公式の要請や裁量が幅を利かせ、本来、公共調達において求められる手続きの公正さ、効率性、競争性が軽視されることになりかねない。そして、発注者と受注者との間に「非公式」の不透明な関係ができることで、ムダが生じていく。

被災した自治体の職員や応援派遣の全国の自治体職員、業界関係者が、被災者の救援や被災地の復興に向けて、使命感を持ち、懸命の努力をしている。しかし、膨大な公共工事を公正に、効率的に発注する予算執行のシステムが整備されていないと、そのような復興事業関係者の努力も、納税者に課せられる重い負担も、本当の意味の被災地の復興、被災者支援につながらない、ということになりかねない。

このような公共事業の発注をめぐる問題状況は、震災復興事業に特有なものなのか、現在の公共事業一般には問題はないのだろうか。

民主党への政権交代後、「コンクリートから人へ」のスローガンで公共事業費が大幅に削減されただけでなく、極端な競争入札至上主義によって、中小の建設業者はダンピングの嵐に飲み込まれ、倒産・廃業が相次いだ。そして、昨年暮れ、再度、自民党が政権に復帰した後は、安倍政権が打ち出した「国土強靭化計画」の下で、公共事業費は再び大きく膨れ上がり、平成26年度概算要求では、前年の17%増にも達している。まさに、この数年間、公共事業の発注をめぐる環境は激変の連続である。
復興事業における上記のような現状も、過疎化に伴って低下していた工事発注量が、震災復興で激増し、自治体の能力を超えた発注を行わざるを得なくなったという急激な環境変化によるものであろう。このところの環境の激変が、品質・価値の高い社会資本の整備を可能な限り安価に行うという公共事業の目的に反する事態を生じさせている疑いは、否定できない。
しかし、実際には、このような公共事業予算の執行の現場の問題には全く目が向けられることなく、消費増税の是非に関して、消費増税による景気の「腰折れ」への対策として、「景気対策としての公共事業発注」が当然のように話題に上っている。

そもそも、消費増税の理由となった巨額の財政赤字が大きく膨らんだ原因の一つが、バブル経済崩壊後の1990年代の数次にわたる景気対策の公共事業発注である。国債を増発して投じられた膨大な国家予算が投じられたことが、十分な景気浮揚の効果も生じないまま、乗数的に国家債務を膨らませていった。
この頃の公共工事の発注には、バブル経済とその崩壊によって公共事業をめぐる環境が激変したのに、それ以前からの非公式システムとしての「談合システム」が公共調達全体に蔓延していたという重大な問題があった。

高度経済成長期にほぼ完成し、日本の公共調達全体に、非公式システムとして定着した業者間の話合いで受注者を決定する「談合システム」は、右肩上がりの成長経済においては、不良業者の排除、業者側の発注官庁に対する非公式の協力の確保など様々なメリットももたらす一方、予定価格によって落札価格の上限が拘束され、談合による受注業者側の利得も限定されることで、デメリットもそれ程大きくはなく、高度経済成長期の膨大な社会資本整備に一定の機能を果たした(拙著【法令遵守が日本を滅ぼす】(新潮新書:2007年) 第1章)。

ところが、バブル経済の崩壊で、経済は右肩上がりからデフレに大きく変化、それ以降の公共調達においては、入札における競争での価格競争による効率性、事業者の価格低減が求められていた。しかし、それ以前からの旧態然たる談合システムが維持されたことで、価格競争が制限されたまま膨大な公共事業が発注され、公共事業関連業界に膨大な超過利潤をもたらし、そこへの新規参入も相次ぎ、受注業界は非効率な経営状況のまま水膨れしていった。この時期の公共事業は、砂地に水をぶちまけている状態で、景気対策の効果が殆どなかった。

談合システムは、その後、21世紀に入り、独禁法の運用強化、相次ぐ談合摘発などを受け、2006年に大手ゼネコン間で「過去のしきたり」からの訣別の合意が行われたことでようやく解消された。しかし、それ以降も、公共事業をめぐる環境は激変を繰り返し、発注官庁や業界の混乱は今なお続いている。

公共工事の発注が不透明、不公正なまま行われ、公共事業のムダや非効率が横行する状態が続けば、1997年の消費税増税時と同様に、消費増税によって税収が増加しても、公共投資による景気刺激効果は限定され、財政収支の改善にはつながらないという最悪の事態になりかねない。
来年春に予定されている消費増税が、予定通り実施されるにせよ、延期ないし修正が行われるにせよ、国家予算の執行が、適正かつ効率的に行える状況にあるのか、という問題から、決して目を背けることはできない。

今一度、「消費増税の前にすべきこと」を考えてみる必要があるのではなかろうか。

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ノバルティス疑惑、独禁法適用の可能性 厚労省にとって「最悪の事態」も

今日の毎日新聞朝刊に掲載された【クローズアップ2013:バルサルタン臨床試験疑惑 元検事の郷原信郎弁護士の話】にも書いたように、ノバルティス・ファーマの降圧剤バルサルタンをめぐる臨床試験への同社の社員の関与、論文でのデータ操作等の問題について、「不公正な取引方法」を禁じる独禁法19条の「欺まん的顧客誘引」に該当する可能性がある。

この点については、検事時代の公取委出向の頃からの知り合いの公取委幹部にも感触を聞いてみたところ、「厚労省が薬事法できちんと対応しないようであれば、ウチが独禁法で出ていくこともあり得ますね」とヤル気を見せていた。

公取委には、過去にも厚労省の領域に独禁法で踏み込んだ実績がある。1996年に独禁法3条前段の「私的独占」を適用して排除措置命令を行った「財団法人日本医療食協会及び日清医療食品株式会社に対する件」だ。この件で、厚労省は、貴重な「天下りポスト」をいくつも失った。今回は、医薬品業界という、厚労省が薬価決定を通して支配する、まさに厚労省の「本丸」の問題だ。厚労省にとって、公取委による独禁法の適用は、想像したくもない「悪夢」以外の何物でもないだろう。

独禁法19条で禁止する「不公正な取引方法」の具体的な禁止行為は公取委告示に委ねられており、公正な競争を阻害する行為に対して機動的に適用できる。

「欺まん的顧客誘引」に関しては、「自己の供給する商品又は役務の内容又は取引条件その他これらの取引に関する事項について、実際のもの又は競争者に係るものよりも著しく優良又は有利であると顧客に誤認させることにより、競争者の顧客を自己と取引するように不当に誘引すること」と定められている(告示8項)。

今回のノバルティスの問題では、降圧剤バルサルタンの心疾患等への効能を、多数の大学の研究者の論文によって根拠づける宣伝広告を行っていたが、データの不正操作等があったことが判明したことによって論文が撤回されたことで、心疾患等に対しての効能の根拠は失われた。降圧剤が高血圧だけでなく心疾患等に対しても顕著な効能があるという広告宣伝は、現状では、明らかに「著しく優良であると誤認」させるものであり、それが、ノバルティスの事業活動の一環として行われたと認められれば、公取委が「欺まん的顧客誘引」に該当するとして、当該宣伝広告を排除する命令を出すことも可能だ。

この排除措置命令は、あくまで、「著しく優良であると誤認」させる広告宣伝が、医薬品事業者間の公正な競争を阻害するということで排除することが目的であり、その点についての故意は要件ではない。ましてや、効能の根拠とされた論文が不正であったことを会社側が認識していたことも不要だ。そういう意味で、独禁法を適用しようと思えばハードルは低い。公取委には、強制手続を含めた「正式審査」を行うことを決断し、立入検査を実施して会社から関係書類を提出させ、会社関係者の事情聴取等を通じて事実解明をしていくこともできる。

もちろん、厚労省の側が薬事法に基づいて十分な対応をするというのであれば、公取委が敢えて踏み込む必要はないであろう。しかし、現在のところ、この問題についての厚労省の対応は「厚労大臣直轄の有識者の検討委員会」による調査・検討に委ねられているようだ。それが、事案の真相解明や薬事法適用による厳正な対応につながらないようであれば、独禁法の出番となる可能性も十分にある。

今朝の毎日新聞朝刊の記事によると、この検討委員会の委員には、以前よりノバルティス社によるプロモーション戦略に参画し、バルサルタンの臨床試験の経過や成果を大きく紹介していきた日経BP社の特命編集委員の宮田満氏が就任しており、他の委員から「委員会の信頼性が疑われかねない」と懸念する声が出ているとのことだ。ネットで調べたところ、日経BP社とノバルティス社という企業間の関係だけではなく、宮田氏個人も、「ノバルティス バイオキャンプ2007国際大会」と題するノバルティス社主催のバイオ研究者の国際交流のための大イベントで審査員代表を務めるなど、同社との接点がある。個人的にも、同社のプロモーションにも深く関わっていた疑いがある。

このような人物が、ノバルティス社の疑惑を含む問題について調査・検討する委員会の委員として加わるのは典型的な「利益相反」である。上記毎日新聞の記事で、日経BP側は「当社としても今回の問題について検証報道を続けており、就任に問題はないと認識している」とコメントしているが、検証報道を行っていても、それによって、日経BP社及び宮田氏個人とノバルティス社との関係から生じる「利益相反」が解消されるものではない。このような委員の人選に何の問題意識も持たなかったとすれば、厚労省には、そもそも、ノバルティス社の問題も含めて、委員会の調査・検討を公正・厳正に行わせる意図がないのではないかと疑わざるを得ない。

厚労省がこうしたことを続けている限り、今回のノバルティスの降圧剤バルサルタンをめぐる疑惑の解明に真剣に取り組むことを期待するのは無理であろう。公取委がこの問題に独禁法で斬り込むという、厚労省にとって「最悪の事態」も起こりえないわけではない。

 

 

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「カネボウ美白化粧品」、なぜか話題にされない“3つの重要な論点”

カネボウ化粧品が、「ロドデノール」という美白成分を含有する化粧品で「まだらに白くなる症例」が報告されたために、全製品の自主回収を発表した問題。その後の問い合わせの件数は22万件を超えるなど、大きな社会問題になりつつある。

この問題は、化粧品の品質・安全性に関する問題が指摘されたのに、企業側の対応が遅れ、健康被害が拡大した不祥事のように単純化され、あたかもカネボウ化粧品だけが悪いかのような報道が続いているが、この問題が、そのように単純化できる問題ではないことは、【カネボウ美白化粧品、「花王の判断」は正しかったのか?】などの拙稿でも述べてきた。

この問題に関しては、重要な3つの論点についての議論が抜け落ちている。
第一に、カネボウ化粧品の美白化粧品を使用した2424人について「3箇所以上の白斑」「5cm以上の白斑」「顔に明らかな白斑」のいずれかの症状があり、2125人にこれら以外の症状があることが確認されているが(8月9日カネボウリリース)、これらの「白斑様症状」の中のどれだけの数が、他の原因ではなく「ロドデノール」によって発症したものなのかが不明だという点である。
第二に、「ロドデノール」以外の他の美白化粧品について、同様の「白斑様症状」が発生していないのかという点。
第三に、今回の問題について、「ロドデノール」を医薬部外品として承認した厚生労働省にも責任があるのではないかという点である。

第一の点に関しては、上記拙稿でも繰り返し指摘しているように、「ロドデノール」と「白斑様症状」との因果関係は全く明らかになっていない。
今回のカネボウ化粧品の自主回収の措置を受けて、7月17日、日本皮膚科学会において「 ロドデノール含有化粧品の安全性に関する特別委員会」が設置され、「美白成分ロドデノール含有化粧品使用後に生じた色素脱失症例 医療者(皮膚科医)向けの診療の手引き」が公表されているが、同手引きでは、「本事例は、化粧品の使用後に発症している症例が少なからず確認された事実から、因果関係を強く疑っているものの、まだ十分に解明されていない状況のなか、企業の判断による自主回収に至ったものです」と述べて「企業の判断」を強調した上で、「白斑様症状」の診断についての留意点を指摘している。その中で、「美白成分による白斑様症状から除外すべきもの」として、白色粃糠疹、乾癬、強皮症、熱傷、老人性白斑などが、「鑑別が困難なもの」として、薬剤性の光線過敏症、尋常性白斑を挙げている。
特に注意を要するとしている「尋常性白斑」は、原因不明の後天性の脱色素斑で、皮膚の色を作っているメラノサイト(色素細胞)が消失することにより発症するものであり、自己免疫疾患、環境要因の組み合わせにより引き起こされ、2010年の調査の結果、疾患発生率は1.68%だったとされている(尋常性白斑 – Wikipedia)。 カネボウの美白化粧品の使用者は25万人とされているが、その1.68%は、4200人である。
また、美白成分ロドデノールによる白斑様症状との鑑別が難しいと思われる症例数は、相当な数に上ると思われ、症状が確認されている人数の中の、「ロドデノール」の使用に起因する白斑様症状の「被害者」の数が、実際にどのような数なのかは、現時点では全く不明である。しかし、多くの新聞、テレビ等の報道では、申告者数が、そのままロドデノールによる「被害者数」であるかのように扱われている。

第二の点について、上記手引きでは、「(株)カネボウ化粧品は他社製品に問題が波及することを危惧しており自社製品のみが問題であると報告しています。しかしながら同じ作用機序を有する美白化粧品の安全性についての情報はまだ得られておらず、安全であるとも、危険であるとも言えない状況です。」と述べている。皮膚科学会の側が、「自社製品のみが問題」とするカネボウ化粧品側の姿勢を疑問視しているのであるが、この点は、上記手引きが公表された後も、見事なまでに無視されてきた。
美白化粧品、使っても大丈夫? 白斑はトラブル品だけ、過剰に恐れる必要なし>(産経)などと、他の化粧品の使用では「白斑様症状」が起きないかのような報道もある。この産経のネット記事では、「東京医科大学皮膚科の坪井良治教授は『化学構造のほんの少しの違いで人に与える影響が異なってくる場合もある。白斑の症状が出たのはロドデノールという成分特有の可能性が高い。全ての美白化粧品に問題があるわけでなく、必要以上に恐れる必要はない』と指摘する」などと、上記の皮膚科学会の手引きの記載に反する内容の「専門家コメント」を掲載している。
ようやく、最近になって、<白斑被害はカネボウだけの問題なのか>(東洋経済オンライン) など、他の美白化粧品の使用による「白斑様症状」を問題視する記事が見られるようになり、8月8日には、田村厚生労働大臣も、記者会見で、同様の白斑被害がないか他の化粧品メーカーなどに自主点検を求める方針を明らかにした。
今回の騒ぎを他の美白化粧品にまで拡大させるべきだという意図は毛頭ない。私が言いたいのは、「ロドデノール」と「白斑様症状」との因果関係が全く不明である以上、他の「美白成分」についても「白斑様症状」の発現の有無を確認し、比較してみないことには、疫学的な観点からも、「ロドデノール」を含有する美白化粧品の品質・安全性について、どの程度の問題があったのかは、判断できないのではないか、ということである。

そして、第三の論点は、仮に、美白成分ロドデノールを含有する化粧品の品質・安全性の問題であるとすれば、厚労省の医薬部外品としての承認に問題はなかったのか、という点が問題になるはずであるのに、その点は殆ど話題にすらなっていないことである(この点を問題にする数少ない記事の一つが、上記の東洋経済オンラインの記事である)。
ロドデノール(4-(4- ヒドロキシフェニル)-2-ブタノール)が、メラニンの生成を抑え、しみ、そばかすを防ぐ新有効成分として医薬部外品の承認を受けた際の、平成19年9月21日薬事・食品衛生審議会化粧品・医薬部外品部会の議事録を見ると、ロドデノールを含む薬用化粧品の承認に関する議事の中で、いくつか重要な指摘や議論が行われている。
まず、医薬品医療機器総合機構の審査結果の説明の中で、「329例という多数例のモニター調査が実施され、製剤濃度の倍の濃度のものを長期間使ってみても、白斑など細胞毒性作用を有さないことが確認された」と報告されている。つまり、厚労省は、この薬用化粧品の成分について「白斑を生じさせる恐れ」についても審査し、問題ないとの判断を下している。
また、委員の一人が、「効能・効果に『日やけ・雪やけ後のほてり』と書いてあるのに、一方で、使用上の注意に『日やけ後は肌の赤みやひりひり感が治まってからお使いください』と書いてあるのは矛盾しているのではないか」と指摘し、機構の審査担当者が、「肌が赤いときやひりひりするときは使用しない、肌状態が悪いときには使用しないということです。日やけ、雪やけ後のほてりに使うというのは、日やけしたり雪やけしたりする前に塗っておくと少しは抑えることができるということです。」と答えたのに対して、「それなら『日やけ・雪やけ後のほてりを防ぐ』と書かなくてはおかしいのではないか」と指摘し、厚労省の審査管理課長が、「『ほてりを防ぐ』という表現の方向で検討する」と答えている。
しかし、結局、同部会で「ロドデノール」の医薬部外品としての承認が議決されているが、この点について、「効能・効果」「使用上の注意」の書き方について変更が加えられた形跡はない。
そして、皮膚科の専門医である部会長が、ロドデノールに含まれている成分の一つについて、「食品や化粧品として国内でも外国でも使われていると書いてあるが、接触皮膚炎のような報告はないのでしょうか。というのは、ハイドロキノンがベンゾキノンに変わった途端に非常にかぶれやすくなるのです。資料を見ると非常に安定して、紫外線にも安定のようですが、実際に顔に付けて日に当たると事情が変わる可能性もある」と指摘したのに対して、機構の審査担当者が「それについては把握しておりません。」と答えただけで終わってしまっている。
今回の「白斑様症状」が日焼け後に発症するケースが多いことは、カネボウ側の発症事例の説明の中でも、当初から言われてきたことであるが、その中には、「日やけ後は肌の赤みやひりひり感が治まってからお使いください」という使用上の注意を守らなかったために発症した事例が含まれている可能性がある。使用上の注意と矛盾する「日やけ・雪やけ後のほてり」という効能・効果の記載にも問題があったのではないか、日に当たると接触皮膚炎を起こしやすくなるのではないか、などの点について上記部会での指摘があったのに、それらの意見、指摘を反映させることなく、機構の審査結果に基づいてそのまま承認したことが、今回の「白斑様症状」の発生につながった可能性もある。
厚労省の医薬部外品としての承認に問題があったということであれば、カネボウ化粧品の責任にも少なからず影響を与えることになろう。

冒頭に述べたように、今回の「カネボウ美白化粧品問題」は、「化粧品の品質・安全性に関する問題が指摘されたのに、企業側の対応が遅れ、健康被害が拡大した不祥事だ」と単純化できる問題ではない。「白斑様症状」が本当に美白成分ロドデノールによるものなのか、他の美白成分を含む化粧品には同様の問題は生じていないのか、厚労省による医薬部外品としての承認には問題がなかったのか、というような観点も含めて、考えてみなければ、そもそも何が問題なのか、どこに問題の本質があるのかが明らかにならないし、カネボウ化粧品及び親会社の花王が、今回の問題をどのように受け止め、どのような再発防止措置をとるべきなのかについて適切な判断を行うこともできない。

今回の問題の報道に関して、マスコミが、上記の3点を殆ど報じない理由は不明であるが、「ロドデノール」と「白斑様症状」の関係に関する現時点での客観的事実について十分に理解しないまま、非を認めて自主回収したカネボウ化粧品を叩くことに終始しているように思える。上記の皮膚科学会の「診療の手引き」や、今後も、同学会から出される「白斑様症状」に関する客観的な検討結果・判断を踏まえた冷静な報道を行うべきであろう。

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カネボウ美白化粧品問題、「花王の判断」は正しかったのか?

花王の100%子会社のカネボウ化粧品が、美白化粧品で「肌がまだらに白くなる」などの被害が報告されたために、同社が製造・販売する多数の製品の自主回収を行うことを発表した「カネボウ美白化粧品問題」、発表時点では、カネボウ化粧品が調査で確認したとしていた発症事例は39件だったが、自主回収の発表以降、問い合わせは10万件を超え、6808人から症状や不安を訴える申し出があり、うち2250人は、症状が重いとされている(7月23日時点)。

カネボウ化粧品は、自主回収の発表時の記者会見で、2011年ころから発症事例がお客様窓口に報告されていたが、使用者側の病気(持病)であるという(窓口担当者の)思い込みのために問題の認識が遅れたとして、対応の遅れを認めた上、 「当該製品を使用し、白斑様症状を発症したお客様には、完治するまで責任をもって対応する」という基本方針を掲げている。つまり、会社側としては、全面的に非を認めた上で、「カネボウの美白化粧品を使用し、白斑様症状を発症したお客様」に対しては、治療費その他の費用を負担するだけではなく、すべての責任を負う方針を明らかにしたということだ。

自主回収の発表後、被害申告が予想以上の数に上ったことから、今回の自主回収の決定は当然で、むしろ、もっと早期に自主回収を行うことで被害の拡大を防止すべきだったという声が高まっており、2011年の時点で自主回収を行い、ブランドイメージの毀損を防ぐべきだったとの意見もある。

当初、受動的・消極的な姿勢に終始していたカネボウ化粧品側の対応が、全面的に非を認めて自主回収を行うという、顧客保護の方向に一気に転換したのは、親会社の花王の主導によるもので、まさに、花王グループとしての決断によるものだったのではないかと思われる。

「企業は、利潤追求だけではなく、ステークホルダー、消費者にも真摯に向き合い、要請に応えていくべきだ」というコンプライアンスの観点からは高く評価すべき企業の対応ということになるであろう。

しかし、自主回収の発表直後に出した拙稿【カネボウ美白化粧品回収、「コンプライアンスの失敗」か「クライシスマネジメントの失敗」か】でも述べたように、今回の自主回収等の措置は、そのように単純に評価できるものとは必ずしも言えない。自主回収の発表後、被害者数が予想を超える数に上っている現状が、この自主回収の措置が、いかに重大な判断であったかを物語っている。

今回問題になったのは「ロドデノール」という美白成分を含有する化粧品であるが、その成分と「白斑様症状」との因果関係は全く明らかになっていない。因果関係が明らかになっていない以上、その症状で生じた被害について、化粧品メーカー側が責任を負うべき問題なのかは、わからないはずである。また、カネボウ化粧品と「白斑様症状」との因果関係が不明なのであるから、例えば、別の美白成分を含む化粧品についても同種の症状が発生している可能性もある。今回のカネボウ化粧品の対応を前提とすると、同種の発症事例に対して他の化粧品メーカーがどのような対応をとるべきなのかも、極めて困難な判断となろう。

今回のカネボウ化粧品の自主回収の措置を受けて、日本皮膚科学会において「 ロドデノール含有化粧品の安全性に関する特別委員会」が設置され、「美白成分ロドデノール含有化粧品使用後に生じた色素脱失症例 医療者(皮膚科医)向けの診療の手引き」が公表されている。それによると、「現時点で病態はまったく解明されていない」とのことであり、薬剤性の光線過敏症など、鑑別の難しい事例があることも指摘されている。

また、同手引きでは、他の美白化粧品との関係について、「同じ作用機序を有する美白化粧品の安全性についての情報はまったく得られておらず、安全であるとも、危険であるとも言えない状況であり、診察においては、美白化粧品では本剤のみならず他の製品の使用歴についても必ず聴取する必要がある」とされている。

皮膚科学会としては、「白斑様症状」について、カネボウ化粧品のロドデノール含有化粧品によるものと決めつけないで冷静に対応することを呼びかけているわけであるが、当事者のカネボウ化粧品側が、全面的に非を認め、該当する化粧品の使用者で「白斑様症状」を発症したすべての使用者に対して責任を負うとしているのであるから、「被害者」の範囲はどこまで拡大していくのか計り知れない。

しかも、現時点での会社の対応は、「白斑様症状」の確認や治療に関する相談等が中心だが、「被害者」側からの要求は今後、様々な内容に発展していく可能性がある。「白斑様症状」による精神的損害や、それが就職、結婚、家庭生活等に与えた影響も含めて「被害」ととらえることになれば、「被害」の範囲は無限に拡大し、慰謝料を含む賠償の総額が膨大なものになりかねない。

さらに、同社は対象製品を台湾、香港、韓国など海外10カ国・地域で販売していることから、今後、海外からも被害申告、賠償要求が押し寄せる可能性がある。文化的、社会的背景の違いもあり、要求が国内より激しいものとなる可能性もあるが、不当、過剰な要求があった場合にどう対応ずるかは困難な問題である。国内の「被害者」と異なった対応をすれば、国際的なトラブルに発展する可能性もある。

このような美白化粧品使用による「白斑様症状」について、国内、海外からの様々な賠償要求に対して、カネボウ化粧品として、花王グループとしてどの範囲まで応じるのか、最終的には民事訴訟による解決に委ねざるを得ない事例も出てくるように思える。訴訟に持ち込めば、当該美白化粧品と症状との因果関係が明らかになっていない以上、カネボウ化粧品側の勝訴の可能性が高いが、そうなると、発症者が完治するまで全面的に責任を負うとの会社側の方針に反することになる。自主回収に伴って、会社として非を認め、全面的に責任を負う方針を公表したことで、今後の対応は非常に困難なものとなりかねない。

他の美白成分を含有する化粧品に与える影響も深刻である。美白成分には様々なものがあるが、他の美白成分の中には、漂白作用が強く、長期的な使用によって「白斑」が生じた事例の発生が指摘されているものもあった。

厚生労働省は、そのような美白成分を含有する「美白化粧品」も含め、医薬部外品として承認してきたわけであるが、今回のカネボウ化粧品の自主回収を受けて、美白成分の承認を見直すわけにもいかず、対応に頭を抱えていることであろう。今後、「被害」「被害者」の範囲をめぐってカネボウ化粧品と使用者との問題が訴訟に発展した場合、承認を与えた厚労省に対しても、国家賠償請求が提起される可能性もある。問題が他の美白成分を含有する化粧品にも拡大すれば、厚労省による美白成分の承認そのものの是非が問われることにもなりかねない。

このように、製品の全面的な自主回収という「市場対応」を行い、該当する化粧品の使用者の発症に対して全面的な被害回復措置をとる方針を示したことによって生じる、経営への影響、社会的影響は、予測困難な面がある。

薬用化粧品は、その効能と安全性について、動物実験等の根拠に基づいて厚労省が承認を行っている商品であり、「医薬品的要素」を有している。効能の発現の仕方については個人差があり、表示された効能がほとんど表れない人もいれば、予想以上に効能が表れる人もいるであろうし、効能の表れ方が、使用者の意図に反する結果になることも完全に防止することは困難である。

そういう薬用化粧品の使用の問題についての従来の化粧品会社の対応は、持ち込まれたトラブル、症例について、商品の使用方法や使用中止の助言を行ったり、医師を紹介したりするという個別対応が中心であり、今回のような全面的な「市場対応」というのは稀なケースだと思われる。

カネボウ化粧品の対応に関しては、最初に症状の発生について報告があった2011年の時点で情報として集約し、美白化粧品の使用との関連性について検討し、情報提供や注意喚起を行うことが必要だったのではないか、今年5月に皮膚科医からの報告があった時点でも、早期に調査に着手し、速やかな対応を行うべきだったのではないか、などの問題があり、自主回収までの対応が全体として緩慢であったことは否めない。しかし、それが、薬用化粧品をめぐる化粧品会社の一般的な対応から逸脱していたとまでは言えないであろう。

むしろ、親会社の花王主導で行われたと考えられる自主回収と被害回復措置を中心とする対応の方が、従来の化粧品会社の対応とは、かなり異なったものだったと見るべきではないだろうか。

個別事例への受動的対応から、積極的な市場対応という方向に大きく舵が切られたことの背景には、花王という会社の歴史と沿革と企業グループ全体の事業内容が関係しているように思える。

花王は、明治20年(1887年)に石鹸製造会社として創業し、生活用品を中心に事業を展開してきた企業である。カネボウ化粧品の買収によって、ビューティーケア商品の売上構成が4割を超えたが、「花王ソフィーナ」ブランドで本格的に化粧品事業に進出したのは1982年と、比較的歴史が浅い。

もともとの花王の主力製品であった生活用品は、大規模小売店、量販店等を通じての大量流通販売が中心であり、品質保証体制も、マスとしての消費者からの直接の情報提供に基づく画一的・統一的対応が中心となる。

花王は、ホームページで公開している、「よきモノづくり」という企業理念に基づく商品の安全性と品質保証への取り組みの中で、「安全性はもちろん、消費者・顧客が安心して使える商品をお届けする」との基本方針を示し、「発売後の安全管理基準」の中で、「万一、重大な問題やそのおそれがあった場合には、安全性を最優先に、消費者の皆さまへの告知や商品回収等の必要な措置を速やかに講じるために『緊急・重大トラブル対応体制』を定めており、顧客への責任、社会的責任、説明責任を明確かつ迅速に果たせるよう、社内関連部門だけでなく、行政や関連機関、流通との連携も含めた体制を整えています。」という対応方針を明らかにしている。

花王は、このような方針を徹底するため、消費者から直接情報を収集し管理する品質管理体制の整備を行っており、このような、花王の消費者の安全・安心に向けての取組みは高く評価されている。

このような花王グループの品質保証の基本方針を、医薬部外品としての薬用化粧品の品質問題という極めて微妙な問題においても徹底すれば、原因や、因果関係が不明のままでも自主回収・被害回復措置を行うという今回の対応につながる。

それは、法令に基づくものでも、監督官庁の命令や指導によるものではない。まさに、『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書:2007年)などで私が提唱してきた、「法令上の義務に従うだけではなく、積極的に社会の要請に応える」というコンプライアンスの方向に沿うものと言えるであろう。

しかし、この「『法令遵守』を超えて社会的要請に応える」というコンプライアンス対応には、常に、「法的責任による逆襲」のリスクが付きまとう。その対応が、社会的責任のみならず法的責任を認めることにつながり、それが、当該組織に辛辣に襲い掛かり、ダメージを与えることは予想しておかなければならない。不祥事を起こした企業にとって、発生した問題、不祥事を真摯に受け止め、再発防止のために積極的な措置をとることは不可欠だが、その問題についての法的責任を認めることにつながる対応については慎重な検討が必要となる。

今回の美白化粧品の問題についても、薬用化粧品という商品の特質を考えた時、自主回収・被害回復措置という積極的なコンプライアンスが、花王グループに、化粧品業界に、そして、薬用化粧品という商品と社会の関係にどのような影響をもたらすのか、予測は困難である。

その点に関して、花王側の対応で一つ気になる点がある。花王グループは、カネボウ化粧品以外に、花王本体でも、ソフィーナ等のブランドで化粧品を製造・販売しているが、カネボウ以外の美白化粧品についてのホームページでのコメントは『花王の美白化粧品には、医薬部外品有効成分「ロドデノール」は配合されておりません。』という極めて簡単なものにとどまっている。

「白斑様症状」が「ロドデノール」に特有のもので、他の美白成分にはその恐れはない、というのであれば、上記のコメントも理解できる。しかし、そうではないことは前記の皮膚科学会の「手引き」からも明らかだ。そうだとすると、花王グループの基本方針からすれば、他の美白成分についても、「白斑様症状」などの使用者の肌トラブルが発生しているのか否か、積極的な情報の収集・開示や対応を行うのが当然ということになろう。

花王のカネボウ化粧品以外の美白化粧品への対応が、そのようなものになっていないのは、自主回収公表後、これほどまでに被害申告が拡大することを予想していなかったからではなかろうか。

花王・カネボウ化粧品の自主回収・被害回復措置の公表で示した製品の品質保証に対する積極的姿勢、全国の「被害者」に対して膨大な労力をかけて行っている訪問調査などの努力が前向きに評価され、「被害者」の理解・納得が得られて、花王グループに対する消費者の信頼が一層確かなものになるという「コンプライアンスの成功」につながるのか、それとも、原因・因果関係不明なまま責任を認めたことによる「被害」及び「被害者」の拡大が、花王側の想像を遥かに超えたものとなり、その要求に対応できず、方針の不徹底、混乱を招いて「コンプライアンスの失敗」に終わるのか。

薬用化粧品について原因・因果関係不明のまま自主回収・被害回復措置の公表という大きな決断を行った花王グループにとって、これからが、まさに正念場である。

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菅元首相は安倍首相提訴で何を狙っているのか

官僚主導からの脱却を掲げて政権交代を果たした民主党政権を「財務省ベッタリ」に変質させ、陸山会事件捜査での検察権力による不当な政治介入に対しても何らの措置もとらず、「小沢派対反小沢派」の党内抗争を一層激化させるなどして、民主党政権崩壊の最大の戦犯となった菅元首相が、いまさら何をクダラナイことをやってるんだろうか、と思っただけで、殆ど関心もなかったが、早川忠孝弁護士のブログで、菅元総理の訴訟提起についてそろそろ郷原氏のコメントを聞いてみたいなどと わざわざ「ご指名」を受けたので、菅氏がいったい何を提訴したのか、それに関して、どういうことを言っているのか、少し確認してみた。その結果、菅氏の「魂胆」らしきものが見えてきたように思えたので、その点について、簡単に書いてみることにしよう。

仮に、安倍首相のメルマガの内容に事実に反する部分があったとしても、そもそも、東日本大震災、福島原発事故への対応もパフォーマンスに終始し、数々の失態を犯した菅元首相に、その際の対応に関して守られるべき「社会的名誉」がどれだけあるのか疑問であるし、2年以上も経った現時点で、名誉棄損で民事提訴自体、特に意義があることとは思えない。

そういう受け止め方は、多くの国民も同様だと思うし、この時期に民事提訴することが、参議院議員選挙を控えた時期の安倍首相や自民党に対して格別不利になるとも思えない。

それでも敢えて、この時期に民事提訴した目的は、菅氏が、オフィシャルブログに、7月13日付で【ネット選挙解禁で、虚偽事項をネット上で選挙期間中に公表した場合、許されるのか検討している】などと書いていることと関係しているように思える。

このブログで菅氏は、「落選させるために相手候補が犯してもいないのに社会的に大きな悪影響を及ぼすような大間違いを犯したとウソの情報を流せばこれにあたる。参院比例選では党名投票が可能で、党が候補者と考えられるので相手党の落選者の増大を図るために党首や党首経験者に関して虚偽の事項を公表した場合もこれにあたると考えられる。安倍総理は参院選の選挙期間に入ってからも虚偽情報を載せた2011年5月20日付のメルマガをネット上で公表し続けている」などと述べ、安倍首相について、公職選挙法135条2項の虚偽事項公表罪が成立するかのように言っている。

その2日前のブログで、同じ問題について「ネット選挙が解禁された中で、ネットを利用して嘘の情報を選挙開始前に流しておいて、それを訂正しないという事は選挙の公平性からも許されない行為だ」と述べていることから考えると、民事提訴しているのは2年余り前のメルマガ記事だが、それが、選挙期間中も掲載されているということをもって、「公表」ととらえようとしているのではないか。

しかし、このメルマガ記事が出されたのは2年以上前だ。それが削除されずにネットに掲載されているだけなのに、今回の参議院選挙に関して「公表」したというのは、さすがに無理がある。そこで、自分の方から、その記事について名誉棄損で提訴して、そのような記事が掲載され続けていることを世の中に広く知らしめて、安倍首相にその削除を求め、「削除しない不作為」を「公表」と同視できるとして、選挙後に、公職選挙法違反で検察庁に安倍首相を告発する、というのが、今回の民事提訴の目的なのではないだろうか。

もちろん、仮に、安倍首相のメルマガ記事に虚偽事項が含まれていて、今回の提訴騒ぎを受けてもなお削除しなかったことを、無理やり「公表」ととらえることができたとしても、そもそも、菅氏が言うところの、「党名投票が可能で、党が候補者と考えられる」というのは公職選挙法の解釈としては無理である。参議院選挙の候補者は、比例区であっても、候補者個人であり、その当落を決める方法に関して、政党への投票が認められるだけである。政党が「候補者」になるのではない。

しかし、もし、このような事実で安倍首相が公職選挙法違反で告発された場合、告発を受けて捜査し、処分を決めるのは検察庁である。検察庁も行政組織の一つであり、検事総長に対する法務大臣の指揮権などを通して、検察の権限の行使に対して最終的に責任を負うのは内閣である。その内閣の長の刑事事件について検察庁が処分を行うということになれば、それが当然の処分であっても、憲法75条で「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。」とされていることにも関連づけて、いろいろ難癖をつけることが可能だ。

しかも、検察庁で不起訴処分が行われても、それに対しては、検察審査会への審査の申立てという手段がある。審査補助弁護士の誘導があれば、「党名投票が可能だから党が候補者になりうる」という理屈が法律上は通らないことが素人の審査員には理解されず、「検察だけで決めるべきではない。裁判で決着をつけるべき」という判断が行われる可能性も全くないとは言えない。

それと同じようなことは、まさに菅首相時代の民主党政権の間に起きていた。

鳩山首相辞任、菅首相誕生の大きな要因になったのが、鳩山首相、小沢幹事長の「政治とカネ」問題であり、菅首相が参議院選挙惨敗の後の代表選挙で、小沢氏を破って首相の座を守った最大の原因が、「小沢氏は政治資金規正法違反で検察審査会の議決で強制起訴される可能性がある」という話だった。その際、もし、「小沢氏が代表選に勝利して首相になったら、検察審査会が起訴議決をしても、憲法75条の規定で起訴されないのではないか」というようなことも言われていた。

菅氏は、「政治とカネ」についての検察や検審をめぐる騒ぎがあったからこそ首相になり、その問題が継続していたからこそ、首相の座を守ることができたのである。そのことに、余程味をしめたのであろうか。

もし、菅氏の今回の安倍首相に対する提訴が、同じような司法の政治利用を狙って行われたのだとすれば、もういい加減にしてもらいたい。

 

 

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大坪元特捜部長逮捕・起訴は、検察組織の重大な不祥事・歴史上の汚点

昨日(平成25年7月17日)、大坪弘道元大阪地検特捜部長、佐賀元明元大阪地検特捜部副部長に対する犯人隠避事件の控訴審第2回公判が、大阪高裁で開かれ、佐賀氏の被告人質問に続いて、両被告人の弁護人が弁論を行って結審した。判決は、9月25日に言い渡される予定だ。

控訴審公判をめぐる状況については、控訴審で「立ち往生」する検察~明日から元特捜部長控訴審公判控訴審での大坪氏の弁護人としての私の主張については、大坪元特捜部長控訴審第1回公判での弁護人陳述で詳しく述べている。

私は、大坪氏の弁護人として行った弁論を、以下のような言葉で締めくくった。

本件は、最高検察庁も含め、検察の組織としての決定によって、中央官庁現職局長村木厚子氏を逮捕・起訴し、有罪論告を行った事件で、一審無罪判決が出された上、控訴も断念せざるを得ないという、前代未聞の失態を犯したのに加えて、同事件の捜査の過程での大阪地検現職検察官による証拠改ざん問題が新聞報道で表面化したため、最高検が、同検察官を即日逮捕して直接捜査に乗り出したものの、その後も更に拡大激化する検察批判に狼狽・恐怖し、特捜部長の職にあった被告人大坪と副部長の被告人佐賀を、証拠改ざんの犯人を隠避した罪で逮捕・起訴して斬り捨て、本来、検察が組織全体として負うべき責任を、大阪地検特捜部長以下に押し付けて回避しようとした事件である。

最高検は、現職検察官による証拠改ざんという前代未聞の不祥事に対して、検察の組織としての対応が遅れたのは、特捜部長らが、上司・上級庁に対して、その事実を隠ぺいしたためであるとのストーリーを作出し、それを証拠改ざん事件の犯人隠避事件として刑事事件化した。

当初の被告人両名の逮捕・勾留事実とされた「捜査(検挙)の不作為」に関しては、そもそもその前提となる作為義務がないという重大な問題があり、起訴の段階で追加された上司への虚偽報告という「作為の犯人隠避」に関しては、虚偽報告の主犯者とされた被告人大坪に、その前提となる証拠改ざん行為についての確定的認識があったとは認められないという証拠上の問題があったにもかかわらず、逮捕・起訴の結論ありきで臨んだ最高検は、十分な検討も行わないまま、拙速に被告人両名を逮捕し、強引に起訴を行うに至った。

一審では、検察官が、被告人佐賀が前田から証拠改ざんの告白を受けたと主張する1月30日の前田佐賀間電話の存在について客観的証拠を提出できなかったために、その電話の有無に争点が絞られたこともあり、上記のような本件公訴事実の構成及び立証に係る重大な問題は殆ど見過ごされたまま、被告人両名に対して有罪判決が言い渡された。

しかし、控訴審に至り、控訴審裁判所の適切な求釈明及び訴訟指揮により、「不作為の犯人隠避」が成立する余地がないことが明らかになったほか、「作為の犯人隠避」についても、前田が故意改ざんの告白をしていることが、被告人佐賀から主犯者とされる被告人大坪に報告された事実がなく、故意改ざんの確定的認識がなかったことが、郷原趣意書・同補充書に加え、既に指摘した被告人佐賀の被告人質問での供述等からも明白となっており、検察官の各公訴事実についての主張・立証は、殆ど崩壊していると言わざるを得ない状況にある。

法律上、証拠上の問題点を無視し、本来刑事事件として立件すべきではない検察の内部的な問題を、無理やり犯人隠避事件に仕立て上げ被告人大坪らを逮捕して組織防衛を図った行為は、「公益の代表者」として公正に権限を行使すべき検察組織にとってその責務を自ら破棄した重大な不祥事であり、まさに、検察史上にも重大な汚点を残すものとの非難を免れない。

原判決は、「組織防衛、あるいは、部下の身を思うなど、組織に身を置く者として、目的だけから見れば一見正当と思われる行為であっても、あくまでも、法令を順守する中で行われるべきであり」、などと、被告人大坪の「組織防衛」を非難している。しかし、その非難は、十分な法律上の検討も行うことなく被告人大坪らを逮捕・起訴することによって「不当な組織防衛」を図った検察にこそ向けられるべきではなかろうか。

そして、公判終了後の記者会見で、大坪氏は、次のようなコメントを読み上げた。

本件控訴審の審理によって、改めて原判決が何らの法的解釈もしないまま根拠のない推認で大坪有罪を導いたまさに結論先にありきの空疎なものであるとともに、最高検による逮捕起訴が確たる証拠もなく、十分な法的検討もなさずに実行された不当かつ極めて杜撰なものであったことの認識を強くするに至りました。

公益の代表者として公正にその権限を行使することを求められ、長い歴史の中でその信頼を築き上げた検察が、組織防衛という自己目的のためになりふり構わずその権力を濫用行使したことに、かつて検察の不偏不党と公正・剛毅にあこがれた者の一人として深い失望と義憤の念を禁じえません。

本件当時、私のとった一連の所為はあくまで検察組織内における危機対応の一環であって、その当否を論ぜられることはあっても、最高検によって犯人隠避罪に問われ法廷に立たされるいわれは全く存せず、かつ自らの検事生命と、検察官としての誇りと、そして家族の平穏な生活を全て犠牲にして、前田検事と運命を共にする理由はどこにも存しません。

高裁において公正、公平な判断がなされることを強く期待します。

大坪氏には、一審で無罪判決が確定し、検察も冤罪を認めた村木厚子氏の事件の捜査を、特捜部長として指揮したことについて重大な責任があることは事実である。その捜査のどこがどのように間違っていたのか、特捜部長としての対応にどのような問題があったのかについて総括・反省しなければならない。その上で、村木氏への謝罪にも真摯に向き合わなければならない。

しかし、これまでの経過、そして、置かれている状況からは、現時点の大坪氏にそれを期待することは到底無理である。

大坪氏は、村木氏の事件の無罪確定とほぼ同時に表面化した証拠改ざんによって、検察への批判が激化する中で、犯人隠避罪で逮捕・起訴され、120日余にわたって身柄を拘束され、その間に行われた村木事件及び証拠改ざん事件の検証からも排除された。本件に関して行われた最高検の検証結果をとりまとめた「いわゆる厚労省元局長無罪事件における捜査・公判活動の問題点等について(公表版)」においては、被告人大坪について、「捜査の過程において、大坪部長及び佐賀副部長に対しては、供述調書の写しが届けられ、両名は、その内容を確認していたが、大坪部長は、本件の捜査・処理について、検察官を集めて捜査会議を開くこともなく、佐賀副部長には、実質的な関与をさせず、自ら前田検事から直接報告を受けて指示を与えるなどしており、重層的ないし組織的な検討やチェックをさせていなかった。大坪部長らは、捜査の着手及び処分等の決裁時においても、前田検事に対し、関係者の供述とこれに対応する客観的証拠の有無・内容を対照した資料等を作成させることもなく、また、主要な証拠物の報告や提示を求めることもなかった。また、大坪部長は、かねて、特捜部所属の検察官が消極的な意見を述べることを好まず、そのような検察官に対し、理不尽な叱責を加えることもあった。そして、決裁官である大坪部長のこのような対応が、部下の検察官に、消極証拠についての報告をためらわせ、ひいては、前田検事が本件FDの問題を大坪部長に報告しなかった要因の一つとなったものと認められる。これらの点からみて、本件における大阪地検特捜部の指導及び決裁の在り方には重大な問題があった。」(検証結果報告書19頁)などと、歴代の大阪地検特捜部長の中でも特異な人物でその個人的資質が一連の大阪地検不祥事であるかのように決めつけている。このような大坪氏の特捜部長としての特異な対応について、大坪氏には全く弁解・反論の余地すら与えられず、直属の副部長の佐賀氏からも、大坪氏と同時に犯人隠避で逮捕されたために、聴取すら行われていないのである。(このような、大坪氏側に全く弁解・反論の機会を与えない最高検の検証のやり方について、2010年12月24日に開催された第3回「検察の在り方検討会議」議事録14ページで、厳しく問題を指摘している)。

そして、大坪氏は、その後、不当な犯人隠避罪による起訴に対する長く苦しい戦いを強いられることになった。

このような大坪氏に、郵便不正事件、村木事件に対して総括・反省することも、村木氏に謝罪することもできないのは、無理からぬところであろう。強引な逮捕・起訴でその機会を奪ったのは、ほかならぬ検察なのである。

こうして、検察が、強引な大坪氏・佐賀氏の逮捕・起訴で組織防衛(当時の検察幹部の保身)を図り、検察の在り方を抜本的に見直し、反省することを回避した結果が、現在もなお続く、検察の信頼崩壊の状況である。

陸山会事件での「検審騙し」による小沢氏強制起訴の画策の首謀者と目される当時の特捜部長の佐久間氏が前橋地検検事正に栄転したことからも、検察に、この不祥事について真摯に反省する意思が全くないことは明白となった。田代元検事による虚偽捜査報告書作成事件に関して検察審査会の不起訴不当議決を受けて行われている再捜査も、近く、参議院選挙のドサクサに紛れて、再度の不起訴という結末で終わらせようとしているのであろう。

大阪地検不祥事については、大坪氏・佐賀氏の対応を無理やり犯人隠避の刑事事件に仕立て上げることで、東京地検の陸山会事件不祥事については、「ごまかし」「詭弁」だらけの「最高検報告書」を公表することで(拙著【検察崩壊~失われた正義】)、組織としての責任を回避した検察という組織には、もはや自浄能力が全くないことは明らかである。

社会常識から逸脱した検察による「不当な組織防衛」に対して、最後の拠り所である裁判所による健全な常識に基づく判断が下されることを期待する。

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カネボウ美白化粧品回収、「コンプライアンスの失敗」か「クライシスマネジメントの失敗」か

花王の子会社であるカネボウ化粧品が製造販売する美白化粧品で「肌がまだらに白くなる」などの被害が報告されたために、同社は、4日、記者会見を開き、化粧水や乳液など約45万個を自主回収することを発表した。

この問題に関しては、コンプライアンス専門家である山口利昭弁護士が、ブログで、【他人事ではないカネボウ化粧品の自主回収事件-二次不祥事のおそろしさ】と題して、「2011年ころから発症事例がお客様窓口に報告されていたのだから、この時点で、同社が真摯に対応し、「被害のおそれがある」という段階で自主回収に出ていれば、多大な回収費用を必要とすることにはなっても、一番大切なブランドイメージの毀損は防ぐことができたのではないか」との指摘を行っている。

企業は、利潤追求だけではなく、ステークホルダー、消費者にも真摯に向き合い、要請に応えていくこと、そのための体制整備が必要だという企業コンプライアンスの立場からは当然の適切な指摘というべきであろう。

実際に、今回、会社側が自主回収を決定し、社長が、対応が遅れたことを認め、「病気(持病)であるという(窓口担当者の)思い込みが問題の認識を遅らせた」と述べているのであるから、少なくとも、会社自身が、過去の対応の誤りを認めているのであり、企業としての対応が遅れたことによる「コンプライアンスの失敗」の問題であるように思える。

しかし、果たして、そのように単純に言い切れる問題だろうか。2011年頃にお客様窓口への発症事例の報告があった時点で、今回行ったのと同様の自主回収という対応を行うことが正解だったと結論づけることには、若干の疑問がある。

今回、大規模自主回収に踏み切ったカネボウ化粧品及びその親会社の花王の判断の方には問題はなかったのだろうか。自主回収という措置は、当事者企業に多額の回収費用発生、ブランドイメージの低下などの大きな損失をもたらすだけではなく、自分の肌には適合し全く問題なく、対象商品を長い間愛用してきた化粧品ユーザーにとっては、その商品の使用が継続できなくなるという迷惑を生じさせることになる。

私は、コンプライアンスとは「法令遵守」ではなく、「組織が社会の要請に応えること」という観点から、コンプライアンスの指導啓蒙の活動を行ってきたが、企業との関係では、危機的事態への対応、クライシスマネジメントに関して、具体的事案に関する助言を数多く手掛けてきた。(その基本的な考え方と代表的事例については【組織の思考が止まるとき 「法令遵守」から「ルールの創造」へ】(毎日新聞社)第4章で述べている。)

そのような経験に基づき、今回のカネボウ化粧品の美白化粧品の問題への対応について、クライシスマネジメントの観点から考えてみたい。

今回の回収措置は、厚労省の命令や指導によるものではない。回収を行わなかったとしても、法令上は全く問題はない。カネボウ化粧品の夏坂社長の会見での発言からも、自主回収が苦渋の決断だったことが見て取れる。

同じ「商品の回収」でも、食品表示の問題等による商品の回収であれば、回収対象となるのは既に出荷済の商品だけで、その後の製造販売とは関係ない。しかし、今回の美白化粧品の自主回収は、現に流通している商品、顧客の手に渡っている商品を回収するというだけに留まらない。今回問題となった美白成分(ロドデノール)を含む化粧品の販売はすべて中止することになるのであり、「まだらに白くなる現象」の原因が判明しない限り、製造・販売の再開は行えない。つまり、事実上、関連商品の全面的な製造販売の中止に直結する。

本件について、自主回収という措置をとる必要があったのか、他の手段はとれなかったのか。

カネボウ化粧品の親会社でもある花王は、2009年に、エコナ関連製品の問題で、商品の安全性の問題について会社としての判断・対応を求められるという同種の事例を経験した。その問題では、「製造・販売の自粛」という「自主回収」に近い対応をとったが、最終的には、当時年商200億円を超えていたエコナ製品の製造・販売を全面的に中止することとなった。

エコナに関して問題にされたのが、その食品に多量に含まれているグリシドール脂肪酸エステルという成分に「発がん性の疑い」があることが指摘されたことであった。しかし、その指摘の発端になったドイツの研究所の調査結果というのは、動物実験の結果を客観的に報告しているだけで、発がんのリスクがあるとの指摘ではなかった。(前記拙著218頁参照)

その程度の問題で、花王が、エコナ製品全体の製造・販売の自粛に踏み切った理由は、その問題が、食品安全委員会専門委員会で取り上げられたことを複数の消費者団体が問題視し、花王に対する批判が強まり、ちょうど、消費者安全委員会の発足の直前だったことから、エコナがその第一号事案になることを恐れ、早期に対策を講じたということだと思われる。

一方、美白化粧品の方は、使用者の中に、「肌がまだらに白くなる」という事例が発生しているが、その症例は、数百万個という過去の販売数量に対して39件と極めて少なく、美白化粧品の使用と症例との因果関係も明らかになっていない。

そして、もう一つ重要なことは、この美白化粧品の問題に関しては、消費者団体の側から問題視する動きがほとんど見られなかったことである。

共同通信の記事で引用されている日本消費者連盟共同代表の「そもそも化粧品はさまざまな化学物質でできており、使用者に何らかの被害が生じることは避けられない面がある。危険性を認識した上で使うべきだ。自分の肌は自分で守るしかない。異常を感じたらすぐ使用をやめることが大切だ。」というコメントからも、消費者団体側も、この美白化粧品の問題について企業側の対応を問題にしている様子はなく、比較的冷静に見ていることがわかる。

では、今回、会社側が自主回収を決定した際に、リスク要因として考慮されたのは何だったのか。

そこでは、この問題をカネボウに指摘した「皮膚科医」の動きが重要な要因になった可能性がある。各紙の記事には、「今年5月に皮膚科医から、同製品を使って肌がまだらに白くなった人が3名いるとの連絡を受け、調査を開始した」とされている。症例の発生頻度から考えて、この皮膚科医が、この3名の「被害者」すべての主治医だったとは考えにくい。皮膚科医の側で「肌がまだらに白くなる」症例を集め、3名の症例が確認できたことを理由に、カネボウ化粧品に対して、何らかの措置をとることを求めたのではなかろうか。会社側の対応如何では、マスコミ等への告発が行われる可能性があったのかもしれない。

そうだとすると、「自社製品の品質・安全性に関する専門家の指摘と行動に対して、企業がどう対応するべきか」というクライシスマネジメントの問題だったことになる。

私が企業から相談を受け助言を行ったクライシスマネジメント案件の中に、某企業が販売するサプリメントに関して、専門医からの指摘があり、しかも、当初の会社側の対応の拙さもあって、その問題が厚労省に持ち込まれ、会社としての判断・対応が必要となったケースがあった。

そのサプリメントの主成分は一般的には健康増進機能を持つとされているが、その専門医によれば、その成分の血中濃度が異常に上昇する疾患があり、その疾患をもつ患者がサプリメントを摂取すると、症状が悪化するとの指摘であった。

その専門医は、①当該疾患の患者に対してサプリメント使用を差し控えるよう注意喚起すること、を求めただけではなく、②健常者に対しても、同サプリメントは有害である可能性があるので販売を中止することを求めた(その専門医は、当該疾患の研究に関しては第一人者であったことから、もし、その専門医がマスコミ等に、②を強調して問題の指摘を行い、それが記事になった場合、当該サプリメントの販売に重大な影響が生じる恐れがあった)。

会社側としては、①については異論がなかったが(当該疾患は何十万人に一人という極めて稀な疾患であり、販売への影響は皆無に近かった)、②については、過去の実験データ等から、一般人に対する安全性、有効性については確信をもっており、到底受け入れられないとのことであった。

このような状況で、私が行った助言は、その専門医がマスコミに問題を持ち込む前に、①について、特殊な疾患の患者や主治医に対して注意喚起を行うとともに、②について、健常者のサプリメント使用には全く問題がないことを、実験データ等を示して詳細に説明するプレスリリースを行うことであった。

その企業は、私が助言した通りに、先行プレスリリースを行った。リリースを受けたマスコミの報道はほとんどなく、日経のプレスリリース欄に掲載されただけだった。そして、そのプレスリリースは、②についての会社側の説明と根拠をマスコミ側に資料・情報として提供しておくことで、専門医がマスコミに対して問題を指摘する動きに出ても、マスコミ側が一方的に専門医の見解を取り上げることを防止するという目的も果たした。

そのプレスリリースの効果もあり、そのサプリメントに関して、その後、専門医の目立った動きはなく、クライシスマネジメント案件は、無事に決着した。

カネボウ化粧品は、美白化粧品について、皮膚科医の指摘を受けて調査を行い、39例の「まだらに白くなる」症例が確認されたことから、自主回収を決定した。夏坂社長の会見での説明によれば、その際、他の選択肢として「注意表示の強化」もあったが、注意表示を強化しても使い続ける方のことを考え、自主回収に至った、とのことである。

「注意表示の強化」というのは、化粧品の容器や本体に、「まだらに白くなる」症例が稀に発生していることを記載して注意を喚起することだと思われるが、この時点での選択肢として、「自主回収」と「注意表示の強化」の2つしかなかったのだろうか。

もう一つの方法として、自主回収は行わず、新聞広告や小売店の店頭等で、美白成分を含有する化粧品について、極めて稀に「まだらに白くなる症例」が発生していることを告知し、異常が発生したらただちに使用をやめるよう呼びかけ、また、そのような症例が発生していれば、会社の窓口で相談を受け、真摯に対応するという案内を行う方法があったのではないか。

要するに、症例が極めて僅少で、化粧品使用との因果関係も明らかではなく、症状も重篤ではないことから、美白化粧品の品質や安全性には問題はない、との会社の見解は維持し、商品に問題あったことを前提とする自主回収は行わないが、極めて僅かとはいえ「肌がまだらに白くなる症例」が発生していることを深刻に受け止め、その時点で明らかになっている事実を可能な限り開示し、最終的には、消費者の選択に委ねる、という姿勢を貫く方法である。

そのようにして、マスコミを通じて大々的に情報開示を行えば、ネット空間を通じて、様々な情報や意見の交換が行われ、「肌がまだらに白くなる」現象についても、その原因や発生のメカニズムについて、新たな事実が判明する可能性もある(自主回収の公表後、ネットで意見を述べている皮膚科医のサイトもあるが、会社側に同情的なものが多い。)。

そのような対応は、「化粧品の自主回収問題」として単純化され、一方的なブランドイメージの低下を招くのとは異なり、化粧品の品質・安全性に対する会社としての姿勢を社会に示すことにもなる。

そして、少なくとも、長期間にわたって、当該化粧品を問題なく愛用し、引き続き美白化粧品を使用し続けることを希望するユーザーには、引き続き、商品を供給し、使用を継続してもらうこともできたはずだ。

もちろん、以上のようなクライシスマネジメント的分析は、報道等で明らかになった極めて限られた情報に基づいて行ったものに過ぎず、実際には、会社側が判断する際には、全く別個の要因が考慮されたのかもしれない。

ただ、いずれにしても、企業の消費者対応に関わるクライシスマネジメントの問題として、極めて判断が難しい究極の事例であることは明らかであり、今後、同様の事例における企業の対応を考える上でも、貴重な先例だと言えよう。

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