プロ野球「統一球問題」、不祥事の本質は「環境変化への不適応」

日本野球機構(NPB)の統一球問題で、第三者委員会が設置され、6月28日に、第一回会合が開催された。9月末を目途に報告書を取りまとめるとのことだ。

組織の重大な不祥事が発生した際、内部調査だけではなく、第三者委員会が設置され調査が行われる場合が多い。その主たる目的が、利害関係のない第三者が調査を行うことで、調査の客観性を確保し、問題の真相を明らかにすることにあるのは言うまでもない。

しかし、第三者委員会の設置には、もう一つ重要な意義があることを忘れてはならない。それは、問題の本質を明らかにし、組織の在り方について抜本的な是正策を提案することだ。重大な不祥事が発生する背景には、必ずと言っていいほど、何らかの構造的な問題が存在する。しかし、その構造に組み込まれている内部者は、もともと、その認識自体希薄である上、様々な利害が絡んでいるため、その構造的問題を原因として指摘することは極めて困難だ。構造と無関係な第三者だからこそ、事実関係を徹底して明らかにし、構造的な問題を本質的な原因として指摘することが可能となる。そして、それこそが、不祥事を契機に組織の在り方を抜本的に変革することにもつながる。

私が委員長を務めた九州電力「やらせメール」問題の第三者委員会では、福島原発事故によって「絶対安全神話」が崩壊したことによる原発の世界をめぐる環境激変に九州電力の組織が適応できなかったことが問題の本質であること、その背景に、電力会社と原発立地自治体との不透明な関係という構造があることを指摘したのに対して、九州電力の経営トップは反発し、その点を除外して都合の良いところだけを「つまみ食い」した報告書を経産省に提出し、経産大臣から厳しい批判を受けた。⇒拙著【第三者委員会は企業を変えられるか~九州電力「やらせメール」問題の深層】(毎日新聞社)

今回の「統一球問題」というのは、日本野球機構(NPB)による「二つの隠ぺい」が問題になったものだ。

第一に、野球というスポーツにとって、まさに「魂」とも言える試合球について、反発係数という重要な要素が変更されたにもかかわらず、それが、試合の当事者である球団やプロ野球選手たちに「隠ぺい」されていた問題、そして、第二に、そのような当事者側から、反発係数が変更されたのではないかとの疑問の声が上がり、プロ野球ファンの間でも話題になっていたのに、変更した事実が否定され「隠ぺい」されていた問題である。この「二重の隠ぺい」が、NPBという組織の不祥事であることは、誰の目にも明らかであろう。

加藤コミッショナーは、記者会見で、「2日前に知らされた。不祥事ではない」と繰り返した。同氏の言い分によれば、「組織のトップが認識した上で起こした問題だけが『不祥事』」ということになるが、それが通用するとでも思っているのであろうか(下田事務局長は、当初は、加藤コミッショナーに相談した上でボールを変更したと認めていたものであり、問題を認識していなかったという加藤コミッショナーの弁解も極めて疑わしい)。国民の関心が高いプロスポーツを担う組織のトップとして、常識を疑わざるを得ない発言である。

今回、第三者委員会が設置されることになったことも、今回の統一球問題が立派な「不祥事」であることを、加藤コミッショナー自身も認めざるを得なくなったことを示していると言えよう。

関連する報道によると、この問題の経過は以下のようなものだったようだ。

プロ野球の試合球は、かつては各球団が独自に調達していたが、ワールド・ベールボール・クラシック(WBC)というプロ野球の国際大会等の国際基準に合わせることなどを目的に、プロ野球全体で試合球を統一することになり、2011年度からミズノ製の低反発ゴム材を用いた球が採用されることになった。(かつてはミズノ、アシックス、ゼット、久保田スラッガーの4社が供給していた)。この制度を導入したのが加藤現コミッショナーであった。

ところが、統一球導入後のシーズンから極端な投高打低となり、導入された統一球が大リーグで使用されている球より反発係数が低いのではないかとの疑問が選手から上がったことから、2012年4月24日、日本プロ野球選手会は、NPBと12球団に対して、統一球について改めて検証と見直しを求めた。だが、NPB側は統一球の見直しについて否定的な回答をし、2013年度も従来の統一球が使用されることになった。

しかし2013年度シーズンが開幕すると、ホームラン数、打率ともに、前シーズンを大幅に上回り、全体的に打者成績が向上したために、各方面から、今シーズンから試合球が変わったのではないかと疑惑が出始める。当初、NPBも製造元であるミズノも一貫して否定していたが、ついに、6月11日に行われた日本プロ野球選手会との事務折衝で、選手会が統一球の検証と説明を求めると、NPBは、仕様を変えていた事を認めた。

下田事務局長によれば、本来の規格では球の平均反発係数を0.4134~0.4374に定めているが、NPBが昨季中(2012年度)ボール検査を行った結果、反発係数の平均が基準の下限値を下回るケースが出たという。そのため、夏ごろにミズノに「13年の統一球では反発係数が下限値を下回らないように」と調整を指示する一方、ミズノに対しては、統一球に関する問い合わせには「全く変わっていない」と答えるよう口封じを指示していたとのことだ。

では、今回、元最高裁判事を委員長、元特捜検事の弁護士もメンバーに加わり、日米のプロ野球で活躍した桑田真澄氏をアドバイザーとする第三者委員会での調査・検討において重要となるのは、どのような点であろうか。

最も重要なのは、この問題の本質をどうとらえるかである。

コンプライアンスは「法令遵守」ではなく、組織が社会的要請に応えることだ、と私はかねてから強調してきた。そして、最近、組織の活動が社会の要請に反し、社会から批判・非難を受ける「組織の不祥事」の最大の原因になっているのが、「環境変化への不適応」である。社会はますます複雑化・多様化し、しかも、激しく変化している。それに応じて、組織は変わっていかなければならないが、組織にはもともと「変わることへの抵抗」があり、抜本的な変化を遂げることは容易ではない。変わらなければ社会の要請に応えることができないのに、変わることができない。それが、組織の不祥事につながる。

前述したように、九州電力の「やらせメール問題」も、まさに、原発事故をめぐる環境の激変に適応できないことによって発生した不祥事なのである。

今回の問題の背景にも、プロ野球の世界をめぐる大きな環境変化があったのではないか。

この20年程の間に、プロ野球をめぐる状況は大きく変わった。かつては、僅かな数に制限されていた外国人選手枠も大きく拡大し、一方で、野茂、佐々木、イチローなどを始め、大リーグで活躍する日本人選手も飛躍的に増えた。そして、2006年からはプロ野球の国際大会のワールドベースボールクラシック(WBC)も開催され、日本チームは優勝も成し遂げている。

こうしたプロ野球の国際化の中で導入されたのが統一球という制度だったと言ってよいだろう。かつての日本のプロ野球は、各球団がフランチャイズの球場で主催する「興行」的な性格のものに過ぎなかった。使用する試合球についても、その主催者の球団側の裁量に委ねられていた。しかし、プロ野球の世界が国際化し、選手の能力評価も国際レベルで行われるようになれば、試合で使われる球の品質にも統一性が求められることになる。こうした背景の下に、統一球という制度の導入が行われたのであろう。

問題は、そういう国際化の流れという大きな環境変化の中で、統一されたプロ野球全体を管理・運営する組織としてのNPBが担う役割が一層大きなものになっているにもかかわらず、組織の中身がそれに適応できていなかったのではないかということである。統一球問題は、まさに、その結果として発生したものとみることができる。

プロ野球全体で使用する試合球を統一するのであれば、試合球が統一球としての品質を充たしていることと、大量の試合球を安定的に供給することの二つが必要となる。

統一球については、重量や反発係数等に関して客観的な基準が設定され、すべての試合球の品質が基準を充たしたものである必要があることに加え、プロ野球のすべての試合で使用するための試合球に不足が生じないようにするため、相当な数量の在庫を確保しておく必要があるのである。

プロ野球全体を管理・運営するNPBが、その一つひとつにコミッショナーのサインを入れて統一球という制度に責任を持つのであれば、この「品質確保」と「安定供給」に責任を負うこととなる。

かつてのように、各球団が個別に試合球を調達していた頃は、このような問題は生じなかった。NPBがプロ野球全体の試合球を統一する制度を導入するのであれば、それに伴ってNPBにも重大な責任が生じることになるのである。

そこで問題となるのは、「品質確保」「安定供給」を実現するための方策である。

「品質」の維持という面で、反発係数等の球の性能を一定に維持しようと思えば、同一の製造設備で生産される製品が望ましいのであろう、そういう意味では、一社から独占的に供給を受けることになるのは致し方ないことのように思える(実際に、アメリカのプロ野球でも、一社が独占して供給している。)。

しかし、その「一社独占」には別のリスクが伴うことも否定できない。もし、独占的に供給するその一社が供給する試合球が基準を充たしていないことが判明した場合、他社から供給を受けることが困難であれば、試合球の供給に重大な問題が生じることとなる。

まさにそのリスクが表面化したのが今回の問題だったと見ることもできよう。

今回の問題は、2012年のシーズン途中に、ミズノ製の試合球の反発係数を調べたところ、下限値を下回っている球があることが明らかになったことに端を発する。この段階で、NPBには、反発係数が低い球が含まれる統一球の在庫が相当な量あったはずだ。

その段階で、統一球の反発係数が基準を下回っていることを公表すれば、在庫の統一球は使用できなくなる。統一球を独占的に供給するミズノには13年の統一球の反発係数が下限値を下回らないように調整を指示することはできても、12年のシーズンに使う試合球には間に合わない。それによって、試合球が不足するだけでなく、使えなくなった統一球を廃棄せざるを得なくなることで多額の損失が生じることになる。

ミズノ製の統一球の反発係数が下限値を下回っていることが明らかになった段階で、その事実を公表せず、ミズノにも口封じを指示したのも、NPBにとっては、シーズン中のプロ野球の試合を続行するために、やむを得ない、苦渋の選択だったということなのかもしれない。

そして、2013年のシーズンには、ミズノの側で、反発係数が下限値を下回らないよう改善が行われ、それによって前シーズンとは様変わりで、明らかに打撃優位の状況になったが、反発係数を高めた事実を公表すると、前年のシーズン途中での「隠ぺい」が明らかになるので、選手会側からの質問にも、その事実を否定し続けるという「第2の隠ぺい」が行われることになったのではないか。

以上は、関連する報道等から、今回の統一球問題の経過を私なりに推理してみたものに過ぎないが、もし、実際の経過がこの通りであるとすると、根本的な問題は、「二つの隠ぺい」ではなく、統一球の導入の時点で、ミズノ一社から独占的に供給を受けることにしたことに伴って、このような「品質問題」が発生するリスクを想定し、対策を考えていなかったところにあったということになる。

そうだとすれば、今回の問題について責任を負うべきは、反発係数の低下の問題に実務的に対応した下田事務局長ではなく、統一球という制度の導入を決定し、すべての球に「日本野球機構 コミッショナー 加藤良三」と署名を入れて品質を保証した加藤コミッショナーということになる。

第三者委員会は、9月末を目途に、調査結果を報告書として取りまとめて公表するとのことであるが、調査においては、以下の点がポイントとなるであろう。

第1に、統一球の導入時、ミズノ一社に独占的に供給させることに決定した手続きに問題がなかったのかどうか。統一球の「品質確保」「安定供給」に関して、NPBにおいてどのような検討が行われたのか。

第2に、2012年のシーズン途中に、統一球の反発係数が下限を下回ることが明らかになった際、NPBとミズノとの間でどのような交渉が行われ、その際、両者の利害関係がどうなっていたのか(もし、その事実を公表した場合、既に製造されていた基準外の統一球が使用できなくなることによる損失はどちらが負担することになっていたか)。そして、その点についてNPB内部においてどのような検討が行われたのか。

第3に、選手会側から、統一球について検証と説明を求められた際の対応について、NPB内部でどのような検討が行われ、対応が決定されたのか。

今回の統一球問題の経緯が、前述したとおりであり、統一球導入時の際のNPBの対応に根本的な問題があるとしても、この問題に関して指摘されている様々な問題や、取りざたされている疑惑に関しても、十分な事実解明が行われる必要がある。まずは、第三者委員会による真相が行われなければ、日本のプロ野球を担うNPBの組織としての信頼回復は望めない。

今回の第三者委員会には、現役時代「マムシの善三」と称され辣腕検事として活躍した元特捜部副部長の佐々木善三弁護士が加わっている。NPBとミズノとの間に不透明な関係がなかったのか、加藤コミッショナーは問題にどのように関わったのかなどの事実の解明に元特捜検事としての手腕が発揮されることが期待される。

そして、最終的には、第三者委員会の調査により、事実関係が明らかになった上で検討すべきことであるが、統一球という制度の是正策の方向性について、現時点で考え得ることを指摘しておこう。

組織をめぐる環境が激しく変化する中で、あらゆる組織にとって、新たな環境に適応し、社会の要請に的確に応えていくことはますます困難になっている。そこで、重要となるのが、変化しつつある組織活動の現場の実態に適合したルールを、組織が自主的に作り上げていく、という「ルールの創造」である(この考え方は、拙著【組織の思考が止まるとき~「法令遵守」から「ルールの創造」】(毎日新聞社:2011年)で、初めて提唱した。)。

NPBが統一球を導入する際、プロ野球全試合で統一して使用される試合球に求められる「公正さ」を担保し、なおかつ、「品質確保」と「安定供給」を両立する仕組みについて、ルールを整備しておく必要があった。

このルールに関して重要となるのが、選手にとって「魂」とも言える試合球の品質・属性についての情報を、選手に十分に開示することである。反発係数は、選手にとって、投球や打撃の組み立てにも影響するものなのであるから、その情報が選手や球団の側に逐次開示されることがルール化される必要がある。その点についてルールが設定されていれば、統一球の反発係数が下限を下回っていることが明らかになった場合も、そのルールに則って情報開示を行うことで、混乱は最小限に抑えることができたはずだ。

プロ野球の国際化に伴って環境が激変し、プロ野球全体を運営する組織に対する社会の要請が変化する中で、NPBは試合球の統一という課題に直面し、その対応に関して重大な不祥事を起こした。この不祥事を機に、新たな環境に適応し、新たな社会的要請に応えられるNPBとなるよう抜本的な改革を行うことが不可欠であり、そのためにも、今回設置された第三者委員会には、徹底した真相解明と、問題の本質を踏まえた是正策の提言を行うことが求められている。

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大坪元特捜部長控訴審第1回公判での弁護人陳述

本日午後2時から、大阪高裁で、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件で犯人隠避で起訴され、一審有罪判決を受けた、元特捜部長の大坪弘道氏と副部長の佐賀元明氏に対する控訴審第一回公判が開かれた。
控訴審から大坪氏の弁護人に加わった私が、今日の公判で行った陳述の内容は以下の通り。
なお、今日の、公判の審理の概要、これまでの経過については、当ブログ記事「控訴審で「立ち往生」する検察~明日から元特捜部長控訴審公判」 参照。

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 本件は、大阪地検特捜部長として、検察独自捜査を総括指揮する立場にあった大坪弘道氏が、厚生労働省の現職局長村木厚子氏に対する郵便不正事件の捜査の過程で主任検察官が証拠物を改ざんしたという重大な不祥事の疑いが生じた際、それを知ったのに捜査を行わなかった不作為と、上司に虚偽報告をして捜査を行わないようにさせた作為が犯人隠避罪に当たるとして、特捜部副部長であった佐賀元明氏とともに、犯人隠避罪に問われた事件です。
 検察庁内部における、捜査の実行に関する判断及びそれに関連する上司への報告という検察官の職務行為そのものが犯人隠避罪に問われた、まさに過去に例のない事件です。
 大坪氏が行ったのは、部下の特捜部主任検察官による証拠改ざんという前代未聞の問題に対する、組織防衛のための危機管理対応であり、決して、私利私欲を図ったわけでも、個人的動機で動いたわけでもありません。まさに、長年所属してきた「検察の論理」に従って最大限の努力をしたに過ぎないのです
その大坪氏を、検察が敢えて逮捕・起訴したのは、「いくら検察組織のためを思う行為であったとしても、法を犯したのであれば厳罰をもって臨むしかない」という苦渋の決断だったのだろうと誰しも思ったはずです。
 そうであれば、検察は、大坪氏が、いかなる「法」を犯したのか、かかる事態において特捜部長として従うべき「法」とは何であったのかが示されるのが当然です。
 刑事事件の捜査・処分に関して広範な裁量を認められている検察官の職務は、それが起訴・処罰の方向に向かうこともあれば、不起訴・不処罰の方向に向かうこともあり、職務自体が、本来的に、犯人の処罰を免れさせることと境を接しています。
検察官が判断を誤った場合でも、それが検察官の職務上の評価に影響したり、懲戒処分の対象になったりすることはあり得ても、直ちに犯人隠避という犯罪に問われるものではない。例外的に検察官の職務行為が、犯人隠避罪に該当する場合があり得るとすれば、それは、検察組織における判断、報告についての枠組みや実情等に照らし、許容される範囲を逸脱して不当な判断が行われたり、事実に反する報告が行われた場合、すなわち、「当該職務行為が一般的な検察官の職務から逸脱している場合」に限られるはずです。
 本件では、大坪氏の行為が検察官の一般的な職務行為から逸脱していることが明らかにされなければなりません。
 ところが、原審において、検察官は、その点を全く主張・立証しようとしなかった。つまり、違反した「法」というのが何であるかを示そうとしなかった。そして、原判決も、検察の主張を丸呑みし、特捜部長であった大坪氏がいかなる「法」に反したのかを明らかにしないまま有罪判決を言い渡しました。
 そこで、検察が、唯一の拠り所にしたのは、「大坪は、副部長の佐賀から、前田が故意改ざんを告白していると報告を受け、前田の故意改ざんを確定的に認識したのに、証拠隠滅について捜査せず、過失ストーリーで上司に虚偽報告したのだから、検察官の職務から逸脱していることは明らかだ」という理屈でした。その理屈によって、検察官の一般的職務からの逸脱性についての主張・立証を回避してきたのです。
 しかし、そこには重大な「ごまかし」がありました。「故意改ざんの過失へのすり替え」論は、大坪氏が、佐賀氏から前田が故意改ざんを告白しているとの報告を受けて、故意改ざんを確定的に認識したことを前提とするものです。しかし、大坪氏は、その事実自体を一貫して否定しており、実は、それを認める証拠も、推認の根拠も全くないのです。

 原審では、1月30日の前田佐賀間電話があったのか、そこで、前田が佐賀氏に改ざんの告白を行ったのかが、最大の争点とされ、原審の審理の大部分の時間が割かれました。
 佐賀氏は、1月30日の前田佐賀間電話の事実自体を否認し、当然のことながら、その電話で前田から故意改ざんの告白を受け、それを大坪氏に報告したことも否定しており、告白を受けた事実を報告したことについて直接証拠は全くありません。
 仮に、同電話の事実及び告白を受けた事実があったとしても、それを、その後、佐賀氏が大坪氏に報告したのか、報告したとしてどの時点でどのように報告したのかは別の問題であり、その点こそが、大坪氏が前田の故意改ざんを確定的に認識していたか否かについての最大の問題点のはずです。
ところが、検察官は、「検察内部においては、重要な事項について虚偽報告、不報告はあり得ない」という組織論的ドグマを振りかざし、前田との電話の内容が佐賀氏から大坪氏に正確に報告されたのが、あたかも当然であるかのように述べて、その問題を誤魔化してきました。
 そして、原判決は、ほとんど根拠を示さないまま、2月1日午前に、佐賀氏が大坪氏に、前田から電話で改ざんの告白を受けたことを報告し、大坪氏が故意改ざんを確定的に認識したとの事実を認定したのです。

 控訴審段階から弁護人となった当職らは、原審からの弁護人とは別個に控訴趣意書を提出し、検察官の職務行為についてどのような場合に犯人隠避罪が成立するのか、について法解釈を示していない原判決の法令適用の誤りを指摘するとともに、大坪氏が前田の故意改ざんを確定的に認識していたとの原判決の認定が何ら証拠にも根拠にも基づかないものであること、故意改ざんを不確定、未必的にしか認識していなかった大坪氏が、いかなる方針で、改ざん問題への危機管理対応に臨んだのかを詳細に明らかにし、検察官の一般的な職務対応から逸脱していないことを主張しました。
 この主張に対し、検察官は、答弁書で、法令適用の誤りの主張は事実論に過ぎないと述べて、反論を回避し、原審論告と同様、「検察内部においては、重要な事項について虚偽報告、不報告はあり得ない」という組織論的ドグマによる主張を繰り返しました。
 しかし、そのようなドグマが凡そ成り立ちえないことは本件の経過をみれば明らかです。
 そもそも、本件は、村木事件の主任検察官であった前田が、「プロパティ問題」、すなわち、関係者の供述調書と客観的証拠とが整合しないという重大な問題があることを、特捜部長はじめ一連の決裁官に隠したまま、上司、上級庁の決裁を受けて起訴したことに端を発した問題です。
 そして、上村の取調官であった國井も、自ら作成した調書に重大な欠陥があることを特捜部長であった大坪氏に報告しなかったばかりか、起訴後に、前田から、その客観的証拠のフロッピーディスクを供述調書と整合するように改ざんしたことを打ち明けられても、上司の特捜部長、副部長には一切報告しなかった。
 そして、村木事件の公判担当主任検察官である白井は、村木氏の弁護人の主張予定事実の開示によって、「プロパティ問題」が検察官証拠の矛盾点として主張されることを早い時期に知ったのに、第一回公判期日に弁護側から「検察立証は破綻している」と指摘され、マスコミで大きく取り上げられるまで、上司にも、検事正、次席検事にも報告せずにその問題を秘匿していた。
 まさに、本件に関連して検察内部で起きていたことは、虚偽報告、不報告だらけだったのです。それなのに、どうして、「重要な事項について虚偽報告、不報告はあり得ない」などということが言えるのでしょうか。

 また、検察官が、副部長の佐賀氏が電話で聞いた内容を部長の大坪氏に正確に伝えないことはあり得ないとする根拠として強調しているのが、1月30日の前田佐賀間電話は、非公式の電話ではない、副部長としての正式の事実確認だったということです。弁護人が主張しているような、前田がたまたま國井にかけてきた非公式の電話ではなく、佐賀氏が、故意の改ざんか否かを確認するため、國井を通じて前田に、いつまでも待っているから電話をするように伝えた上、電話を待っていたものだというのです。
 しかし、この電話というのは、その前に佐賀氏と國井とが、検察庁内で、午後8時前から3時間以上にわたって相当量のビールを飲み続け、午後9時~10時の間には、白井も飲酒に加わり、さらに飲酒を続けた末に、11時過ぎ頃、前田が國井の携帯電話に電話をかけてきたので、その電話を佐賀氏に代わったものです。
白井は公判で次のように述べています。
 
 まず、飲酒に加わった経緯について、「『ちょっといいですか』と声を掛けて入ろうとしたところ、佐賀副部長の方から、『おう』と声を掛けてもらいまして、『おまえもやっていくかと、飲んでいくか』と言われましたので、『じゃあ頂きます』ということで、その場に加わりました。」
 前田が國井にかけてきた電話を代わった際の、佐賀氏の話し方については、「ところで、ちょっと耳に挟んだんやけど、上村のフロッピーが書き換えられとるっちゅう話があるんやけどな。」「そんなことができるんか、どうやってやるんや」「で、結局どうなっとるっちゅうことや」
 そして、電話を終えた佐賀氏は、いわゆる「泣き上戸」のように、部下の前で涙を流すわけです。
 
 検察庁において、昔から庁舎内で飲酒する慣行があることは、当職らも承知していますが、それにしても、もし前田が証拠改ざんを行ったとしたら、大阪地検特捜部のみならず検察の組織そのものを揺るがす極めて重大かつ深刻な問題だというのが検察官の主張です。そういう問題について、特捜部副部長が正式に当事者の検事から事情を聞くことを予定していた電話の前に、数時間にわたって執務室で飲酒をするなどというのは、あまりに非常識で、検察の実務からしても凡そあり得ないものです。検察官がそのようなことを抵抗感なく強弁できることこそ、その感覚が社会常識からかけ離れていることを示していると言わざるを得ません。
 原審でその有無が最大の争点になった、1月30日の前田佐賀間電話の場面というのは、このようなものなのです。仮に、この時、佐賀氏が前田と電話で話した事実があったとしても、副部長として正式に改ざん問題について事実確認をしたというものではなく、偶発的な経緯の電話だったことは明らかで、電話の内容を佐賀氏が正確に記憶しているかどうかも疑問です。さらに、その内容が特捜部長の大坪氏に正確に伝わっていると決めつけることが到底できないことは明らかです。

 しかも、検察官の主張と原判決の認定を前提にしたとしても、1月30日の前田佐賀間電話の後の佐賀氏の言動の中には、それをただちに大坪氏に報告して指示を仰ぐのではなく、独自の判断で行動しようとしていたことを窺わせる事実があります。
 佐賀氏が、上村の弁護人に連絡を取って証拠物を回収した上で、改ざんを元に戻したい旨発言し、その際、「俺は前田と一緒にもう辞めるんだ。責任をとって辞めるんだ。最後くらいは好きにさせろ。」などと発言した事実を原判決も認定しています。
 当職らが、この点を控訴趣意書で指摘したのに対して、検察官は、答弁書で、「被告人佐賀は、1月30日に突然、前田が本件フロッピーを故意に改ざんしたという衝撃の事実を知らされ、狼狽し、何とか前田を守りたい、特捜部、検察を守りたいと思い、改ざんの発覚を防ぐ方法を考え、咄嗟に、本件フロッピーを回収して前田が改ざんしたデータを元通りに戻そうと考えて口に出したり、あるいは、被告人大坪氏に報告を上げることを躊躇するような言動を取った」と述べ、「この時点では、狼狽した被告人佐賀が、単独行動を考えた可能性がある」と認めました。
 その上で、「このような危機を乗り切るためには、特捜部長に事の次第を正確に報告し、全ての情報をきちんと伝え、特捜部長と一致協力するしかないということは、少し冷静さを取り戻せば、すぐにわかることである。」「結局、被告人佐賀としても、自分よりも管理職としての経験が豊富で特捜部長の要職に就いていた被告人大坪に報告して判断を仰ぐ必要があると判断するとともに、それに当たり、前田の改ざんが上村など検察外部から発覚する可能性の程度などの情報分析をするなどした上、2月1日月曜日に、被告人大坪に対し、前田が改ざん事実を認めたことを報告した上、情報分析の結果等も報告したと認められる」などと述べて、その後の佐賀氏の思考と行動を一方的に決めつけ、単独行動の可能性を否定しています。
 しかし、検察官が主張していることを前提にすると、佐賀副部長にとって、大坪特捜部長は、このような場面で、全幅の信頼を置いてすべてを報告するのが当然の上司だったと言えるのでしょうか。
 検察は、大坪氏を、前田の故意改ざんの告白の報告を受けた上で、過失による改変にすり替えて虚偽報告するという、特捜部長にあるまじき行為に及んだとして逮捕・起訴して断罪しています。それだけはなく、本件に関して公表された最高検の検証結果報告書においては、「大坪部長は、捜査の着手及び処分等の決裁時においても、前田検事に対し、関係者の供述とこれに対応する客観的証拠の有無・内容を対照した資料等を作成させることもなく、また、主要な証拠物の報告や提示を求めることもなかった。また、大坪部長は、かねて、特捜部所属の検察官が消極的な意見を述べることを好まず、そのような検察官に対し、理不尽な叱責を加えることもあった。」などと、歴代の大阪地検特捜部長の中でも特異な人物で、その個人的資質が一連の大阪地検不祥事の原因であったかのようにとらえているのです。
 郵便不正事件をめぐる不祥事の責任を、特捜部長であった大坪氏に押し付ける際には、その評価について、副部長の佐賀氏を遠ざけ、部下に理不尽な要求を行い、独断専行する、指導力に欠けた特捜部長であるかのようにこきおろす。一方で、佐賀氏から大坪氏の報告について証拠がないと指摘されると、逆に、大坪氏が、部下にとって、あらゆる情報を挙げて指示を仰ぐべき信頼に足る特捜部長であるように持ち上げる。要するに、検察官の主張は、大坪氏の「特捜部長としての人物像」を、その場、その場で都合よく使い分けているのです。

 そして、検察官は、もう一つ重要な事実から目を背けようとしています。
 検察官は、極めて深刻かつ重大な本件改ざん問題を、前田から告白を受けた佐賀氏が大坪氏に報告しないことはあり得ないと主張していますが、それ程重大な問題であれば、副部長の佐賀氏は、なぜ、それを、1月30日の夜の電話の後、1月31日、丸一日時間があったのに、特捜部長の大坪氏に報告しなかったのか、行事が予定されていてゆっくり時間がない2月1日の午前10時前になって、あわただしく報告したのか、全く説明が困難です。
 検察官は、この間の佐賀氏の行動について、「前田の改ざんが上村など検察外部から発覚する可能性の程度などの情報分析をするなどした上」としていますが、31日の佐賀氏の行動についての証拠は全くなく、その「情報分析」というのは一体何なのか全く不明です。この点の検察官の主張は、「憶測」にすらなっていません。要するに佐賀氏の独自行動を否定できないための苦し紛れの言い逃れです。
 佐賀氏が、大坪氏に事の次第を正確に報告しなかった可能性も十分にあると言わざるを得ません。
 以上述べたところから、大坪氏が、いかなる「法」に違反したのか、という問に対して、検察官が唯一の拠り所にしている「故意改ざんを過失ストーリーにすり替えた」という「すり替え」論は、その大前提となっている「大坪氏の故意改ざんの確定的認識」に関して、完全に破たんしていると言わざるを得ません。
 当職らは、これらの点を、控訴趣意補充書で詳細に指摘し、「大坪氏の故意改ざんの確定的認識」が認められないとの前提で、検察官に対して、検察官の職務行為についていかなる場合に犯人隠避罪が成立するかについての法律論や、検察官の職務からの逸脱性についての反論を行うことを求めたのですが、検察官は全く反論を行わない、というより、反論ができないのです。
 こうした中、控訴審裁判所から、検察官に、一審有罪判決に対する弁護人控訴の事案としては異例の「求釈明」が行われました。公訴事実の構成に関して、大坪氏が行うべきであった職務行為の内容を、上司に対する行為と部下に対する行為との関係に整理して明らかにすることなどを求められたのです。
この求釈明は、そもそも、特捜部長であった大坪氏に、前田の証拠改ざんを認識した段階で、独自の判断で捜査を行うべき義務があったのか、その点について捜査の不作為の犯人隠避罪が成立するのか、という根本的な疑問を背景にしているものと思われます。
 巡回警ら中の警察官のように、現行犯人を発見した時に逮捕する職務上の義務を負う立場とは異なり、個々の検察官は、捜査権限を有していますが、それは、あくまで、組織としての決定に基づいて行使すべき権限であり、検察官個人が犯罪を認知したからと言って捜査権限を行使すべき義務があるわけではありません。ましてや、特捜部の現職検察官の不祥事について、刑事事件を立件して捜査の対象にするのか、内部処分で済ますのかは、上司、上級庁に報告した上での、検察の組織としての判断の問題です。本件の場合、捜査を行わなかった不作為を犯人隠避ととらえている検察の主張には重大な疑問があります。
 この求釈明に対して、検察官が提出した「釈明書」の内容は、ほとんど意味をなさない抽象的文言に終始しており、異例の求釈明を全く無視したに等しい内容でした。このような釈明書を、提出期限より6日も早く提出したのは、釈明不可能と自白したようなものです。
 大坪氏の公訴事実について検察官の主張・立証は、少なくとも当職らの控訴趣意書の主張に対しては、全く答弁不能の状況に追い込まれています。要するに、検察官が犯人隠避の事実として主張する二つの事実のうち、「捜査の不作為」については、検察官が作為義務の内容を全く明らかにできず、もう一つの「虚偽報告による捜査の妨害」は、その前提となる大坪氏の「虚偽」の認識についての立証が完全に破綻していると言わざるを得ないのです。

 検察が、前田逮捕のわずか10日後に行った、特捜部長逮捕という、大坪氏の検事生命を絶つ判断は、十分な法律解釈、証拠の検討も行うことなく、公訴権という「刃」を苦し紛れに振り下ろしただけの、単なる組織防衛のための「斬り捨て」に過ぎなかったのではないのか。そのような検察が、検察の論理に従い、検察のために「組織防衛」を行った大坪氏を断罪するのは、全くの筋違いだというべきです。
 控訴審裁判所におかれては、すみやかに、原判決を破棄し、被告人大坪氏に対して、無罪の判決を言い渡して頂きたい。

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控訴審で「立ち往生」する検察~明日から元特捜部長控訴審公判 

明日(6月17日)午後2時から、大坪弘道元大阪地検特捜部長の控訴審第1回公判が開かれる。昨年5月に控訴審の弁護人を引き受け、大坪氏とともに最高検と戦うことを宣言して以来1年余、控訴趣意書、控訴趣意補充書(検察官の答弁書に対する反論)、検察の釈明に対する意見書など「書面での戦い」を展開してきたが、明日、控訴審公判廷での戦いの火蓋が切られる。

一審有罪判決に対する弁護人側控訴の事案にしては異例とも言える、公訴事実に関する裁判長からの検察官への求釈明に対して、検察官がほとんどまともな釈明ができなかった経緯もあり、控訴審の展開は予断を許さない。

大阪地検特捜部を含め、特捜検察を徹底批判してきた私は、村木氏冤罪を招いた郵便不正事件捜査の真相を徹底検証し、検察の抜本改革に結びつける必要性を訴えてきた。そういう意味では、「郵便不正事件捜査を指揮した大阪地検特捜部長としての大坪氏」を支持するものではない。

しかし、その大坪氏は、部下の特捜部主任検察官による証拠改ざんという問題に対する危機管理対応で、犯人隠避の罪名で斬り捨てられた。長年所属してきた「検察の論理」に従い、組織防衛のために行った対応を、検察は、その独占する公訴権の「刃」で斬り捨てたのだった。そのようなやり方は、検察の歴史に重大な禍根を残すだけではなく、検察不祥事の本質から目をそむけ、検察の抜本改革を妨げるものでしかない。

私は、そのように考え、大坪氏の弁護人に加わり控訴審の公判で検察と戦うことを決意し、それから一年余、私は、大坪氏の弁護人としての活動を行ってきた。

検察は、検察官の職務行為について犯人隠避罪の成立の範囲に関する法律解釈上の検討も、前田の故意改ざんについて、副部長の佐賀氏から部長の大坪氏にどのような報告が行われたのかについての証拠上の検討も行うことなく、拙速に、大坪氏と佐賀氏を逮捕した。

本来、捜査権限の行使や上司への報告という検察官の職務行為そのものを犯罪行為ととらえて起訴したのであるから、検察内部における職務の実情を明らかにし、大坪氏の対応が検察官の一般的職務行為からいかに逸脱しているのかが最大の問題になるはずだ。ところが、検察は、一審では、「被告人大坪氏は、副部長の佐賀氏から、前田が故意改ざんを告白していると報告を受け、前田の故意改ざんを確定的に認識したのに、証拠隠滅について捜査せず、過失ストーリーで上司に虚偽報告したのだから、検察官の職務から逸脱していることは明らかだ」という理屈で、その点を見事に誤魔化した。

そのような検察の主張では、大坪氏の犯人隠避罪の成立は到底認められないことを、私は、控訴趣意書と控訴趣意補充書で徹底して明らかにした。しかし、検察の答弁書等での対応は、ほとんど一審論告の繰り返しに過ぎなかった。その「ごまかし」を厳しく指摘した控訴趣意補充書に、検察は沈黙した。そして、裁判長からの公訴事実に関する求釈明にもほとんど意味のない釈明しかできなかった。まさに、検察は、控訴審を控えて立ち往生しているようだ。

そのような検察の姿勢は、昨年9月に出版した拙著【検察崩壊 失われた正義】(毎日新聞社)で指摘した、虚偽捜査報告書作成事件等の陸山会事件不祥事に関する最高検報告書の「詭弁」「ごまかし」と相通ずるものであった。

検察は、大阪地検のみならず東京地検特捜部でも「割り屋」として重用した前田検事が証拠改ざん問題を起こすや、「トカゲの尻尾切り」を図ったが、社会的非難の大きさに慌てふためき、大阪地検特捜部長以下の「足」を斬り捨てて逃げ切ろうとした。一方、陸山会事件の不祥事では、検審騙しを画策した疑いが強い特捜部長等の上司の責任は不問にして、田代検事という「尻尾」だけを依願退職という決着で切り離して、開き直った。そこに共通するのは、問題の本質に向き合うことなく、「その場しのぎ」で、ごまかそうとする姿勢である。

今回の事件で、私が弁護人を引き受けるに当たって、大坪氏は、郵便不正事件および証拠改ざん問題に関して真相を明らかにし、反省すべき点は反省すること、村木氏への謝罪等にも真摯に対応することを約束したが、残念ながら、その点については、進展があったとは言い難い。

しかし、検察は、「故意改ざんの過失へのすり替え論」だけにこだわり、私が控訴趣意書で詳細に述べた、証拠改ざん問題についての大坪氏の特捜部長としての対応が、検察官の一般的職務行為から逸脱しているかどうかという点に関しても、全く何の反論も立証もしようとしていない。現状においては、犯人隠避の容疑で逮捕・起訴されて「斬り捨て」られ、検事生命を奪われた被告人大坪氏にとって、その汚名を晴らすことがすべてで、郵便不正事件の捜査の反省・総括に正面から向き合うことができないのも致し方ないだろう。

明日の公判では、弁護人の私の方から20分間の控訴趣意書、補充書に関する口頭陳述と、約1時間の大坪氏への被告人質問を予定している。その中で、大坪氏を犯人隠避で逮捕・起訴した検察の捜査・公判がいかにデタラメかを、一般の人にもできるだけわかりやすく説明したいと考えている(私の陳述内容についは、当ブログで公開の予定)。

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参議院選出馬の若狭勝弁護士、「法律実務家としての魂」はどこに?

2009年に検事退官後、「元東京地検特捜部副部長」などの肩書で、テレビニュースやバラエティ番組のコメンテーターなどでメディアに露出することが多い若狭勝弁護士が、自民党公認で参議院議員比例区に立候補することを正式に表明した。

公人たる参議院議員に立候補する若狭勝氏(同期任官の間柄でもあるので、以下、「若狭」と略称する。)の人となりについて、選挙での有権者の選択の参考に供するため、記憶をたどりつつ、できるだけ客観的に、書いてみようと思う。

同期の検事同士だった頃の若狭は、私にとって悪い印象・記憶は殆どない。理科系出身という「変わり種」で2年年長だった私に対して、若狭は、それなりに敬意を払ってくれており、同期会の際などにはいろいろ親しく話をした記憶がある。

1990年4月、私は、公正取引委員会に出向し、若狭は、東京法務局に訟務検事(国に対して提起された国家賠償訴訟や行政訴訟で国の代理人として訴訟を担当する)として出向した。その頃の同期会で、私は、「訟務検事は、訴訟で国を勝たせることばかりを考えるのではなく、行政の対応についての指導的機能を果たすべきではないか。」ということを、公取委の行政に関する問題意識を踏まえて話したことがあった。若狭は、「そういうことは考えたことがなかった。訟務にもそういう観点は必要だ。」と私の意見に全面的に賛成してくれた。当時の彼には、人の話を素直に受け入れる柔軟性があったと思う。

1993年春、私は、公正取引委員会から東京地検に戻り、特捜部に配属された。その年の夏から、特捜部が手掛けたのがゼネコン汚職事件だった。私が、別の事件で逮捕した被疑者を小菅の東京拘置所で取調べていた時、刑事部からの応援でゼネコン汚職事件の被疑者を取調べるため、同じ東京拘置所に来ていたのが若狭だった。身柄を拘束した事件の取調べを担当する検事は、朝から晩まで東京拘置所での取調べを行う毎日が続き、食事も昼夜の二食は拘置所の職員食堂で一緒にとる。同期だった彼とは話をする機会も多かった。

このゼネコン汚職事件の内実がいかにひどいものであったのかは、拙著【検察が危ない】(ベスト新書:2010年)の第三章「世論に煽られ、世論を煽る」に書いてあり、それをモデルにした推理小説【司法記者】(講談社:2011年)もペンネーム「由良秀之」で出版してある。

私は、ゼネコン業界の談合構造を解明することなく、古典的な贈収賄ストーリーに沿った供述調書をとるために手段を選ばないという特捜部のやり方に、疑問を感じていた。しかし、若狭は、特捜部の捜査に批判的なことは一切言わなかったし、捜査方針を丸ごと受け入れ、上司や主任検事の指示どおりに仕事をしていた。特捜部の捜査に幻滅し、二度とこのようなところで仕事をしたくない、と思っていた私とは、全く正反対の考え方だった。

ある時、彼が、私に本音を語ってくれた。「自分は、今、刑事部から応援に来て、特捜部に試されているところだ。何とか評価されて特捜部の正検事として仕事をしたい。」恰好をつけず、そういう本音を語る、ある種の率直さが、彼にはあった。

翌年度から、彼は、希望どおり、特捜部の正検事となった。一方、私は、ゼネコン事件の捜査の最終段階で検事辞職を決意し、最終的には慰留されて検察にとどまったものの、その時から特捜部とは訣別した(拙著【検察の正義】(ちくま新書):2009年、第一章「私が見てきた検察」)。その後、私は、広島、長崎などの地方の検察庁での独自捜査、法務総合研究所での企業犯罪に関する研究など独自の世界を歩み、特捜部中心の人事コースに乗った若狭と、仕事上の関わりを持つことは殆どなかった。

長崎地検次席検事として捜査を指揮した自民党長崎県連事件で、自民党地方組織の公共事業をめぐる集金構造を解明し、地方での検察独自捜査の新たな世界を切り開いた私は、2003年春に、東京地検に異動になった(前掲拙著【検察の正義】終章「長崎の奇跡」)。

地方の中小地検が東京地検特捜部から応援までとって政界捜査を行ったことで、特捜部や検察幹部から反感を買ったためか、公判部(捜査担当ではなく裁判担当)の班長として窓際で仕事をさせられていたころ、特捜部の直告班の班長の若狭が捜査し起訴した背任事件の公判を担当したことがあった。

特捜部が政界捜査への展開をめざし、「入り口事件」として大企業に強制捜査を行ったものの、政界捜査は不発に終わり、残渣のような事件が公判部に回ってきたものだった。証拠を検討してみると、関係者の供述の内容に重大な矛盾があることがわかった。その経緯などについて説明を受けた上で公判立証を行う必要があると考え、特捜部の若狭の部屋を訪れて協議を行った。私としては、淡々と問題点を指摘したつもりだったが、若狭は怒り出した。「特捜部が検事正、次席の決裁をもらい、最高検まで了承を受けて起訴した事件に問題があると言うのか。公判部がそういうことを言ってきたと、検事正に報告する。」

そこで見た姿は、私の記憶の中にある、謙虚さをもっていた同期の検事の若狭とは全く違うものだった。私は検察部内の評判や出世など全く気にしていなかったので、そのようなことを言われても動じなかった。しかし、他の公判担当検事であれば、そもそも特捜部が起訴した事件について、問題点を指摘することなどできないだろうし、指摘したとしてもこのような対応をされれば、自分の出世を考えてその後口を閉ざしてしまうだろう。

後々、検察をめぐる不祥事が相次ぎ、検察改革の中で、「引き返す勇気」という言葉が使われた。しかし、少なくとも、特捜事件に関しては、公判部の担当検事が問題に気付いても「引き返す」提案をすることは、到底できないというのが実情だった。若狭の態度は、まさに、そういう「特捜至上主義」を象徴するものだった。

その後、私は、検察の現場勤務の傍ら、大学の特任教授を兼職し、独占禁止法をベースとする経済法令の制裁制度論の研究を行った。それを、コンプライアンスの研究という独自の分野に展開させ、2006年に検事を退官して弁護士登録、コンプライアンスの専門家としての活動を本格化させた。特捜部の副部長となり、その後も、検察の現場の中枢で仕事をしていた若狭との接点は全くなくなった。

2009年春、若狭が、東京地検公安部長を最後に、検事を辞めたことを聞いた。「裁判員制度が始まり、冤罪を防ぐためには弁護士の役割がより大きくなるため、裁判員裁判の法廷に立ちたい。」というのが理由とのことだったが、その意味はよくわからなかった。その後、彼が、実際に裁判員裁判の法廷に立ったという話も聞かない。

そして、久々に若狭と再会したのが、2010年1月、陸山会事件での検察の小沢一郎氏への捜査が行われていた最中の、テレビ朝日の番組「朝まで生テレビ」だった。特捜捜査を徹底批判する私と、検察の捜査を正当化し、その言い分を代弁する若狭とは全く正反対の立場だった。

そして、今年の春になって、若狭が参議院議員選挙比例区に、自民党公認で立候補するという話を聞き、正直なところ、「まさか」と思った。

特捜検察は、政治権力と対峙・対決してきた存在だ。若狭は、その特捜の世界をめざし、その中枢で、班長、副部長を務めた人間だ。その政治権力の座をずっと占めてきたのが自民党であった。若狭も、特捜部副部長として、日歯連事件など自民党政治家をターゲットとする捜査に関わってきた。

そして、検事退官後は、テレビのニュースやバラエティ番組に多数出演してきたが、それは、特捜部副部長経験者としてキャリアによるものであり、そういう意味では、現職時代も、退官後も、まさに「特捜部の看板」で仕事をしてきた、というのに近いのではなかろうか。

そういう若狭が、自民党の総裁から公認証書を受け取り、自民党候補として、自民党への支持を訴える選挙活動を行っていくことには、彼のこれまでを知る人間であれば、誰しも違和感を持つであろう。

そのような違和感を持たれてまで、彼が、国会議員になろうとする理由は何なのか。

「わかさ勝」のオフィシャルサイトの「決意と政策」には、「法律のプロとして、社会の基盤である法律を正しく整備して社会の崩壊を防ぎ、豊かな日本を築きます。」と書かれている。「不合理、不平等な規定」の具体例として、「強盗が懲役5年以上の刑罰なのに対し、女性に精神的・肉体的苦痛を与える強姦は懲役3年以上の刑罰にすぎません。明治時代に制定された刑法は、財物より女性の貞操を軽視していましたが、未だにその影響が残っているのです。」と述べている。

確かに、同じ「暴行」「脅迫」を手段とする犯罪なのに、財物を取得する強盗は、「5年以上」、貞操を奪う強姦は「3年以上」という法定刑の違いが不合理だというのは、性犯罪被害が女性にもたらす肉体的、精神的苦痛の重大さ、深刻さを思えば、女性の側の心情としては理解できる。

しかし、両者の法定刑の「下限」が異なることを、「女性の貞操の軽視」の影響と、単純に言ってしまって良いのであろうか。

暴行、脅迫を手段して財物を取得する犯罪として、強盗罪のほかに恐喝罪がある。強盗罪と恐喝罪は、暴行、脅迫が「被害者の犯行を抑圧する程度」か否かで区別される。つまり、強盗罪は、暴行、脅迫の程度が著しいものに限られる。しかも、強盗も強姦も法定刑の上限は同じ「有期懲役」であり、悪質・重大な犯罪に対しては、その悪質・重大性を十分に立証することで、上限一杯まで厳しい量刑をすることも可能だ。果たして、刑法が、財物との比較で貞操を軽視しているという見方が適切であろうか

また、刑事事件の実務の観点からは、強姦事件の中には、犯人と被害者との間にもともと男女関係があり、関係のもつれが告訴につながった場合などのように「和姦」かどうかが微妙な場合、また、被害者側の行動が犯行の引き金になった場合など、暴行、脅迫と姦淫の因果関係は否定できないので、形式上、強姦罪の成立は否定できないが、厳罰を求めることには躊躇を覚えるという事案もあり得る。2004年に2年から3年に引き上げられた強姦罪の法定刑の下限をさらに引き上げることで、そのような事件の処分が適切に行えなくなることを懸念するのが、検察の現場経験に基づく実務家的発想ではなかろうか。

確かに、かつての我が国では、性犯罪に対する量刑が諸外国と比較して異常に低かったが、10年程前から量刑の水準は相当厳しくなっている。それは2004年の法定刑の引き上げだけではなく、性犯罪被害の実態を刑事処分や公判立証に反映させ厳しい処罰を求めることに関して、警察や検察の現場の姿勢が大きく変化し、地道な努力が行われてきたことによるところが大きいのではなかろうか。

私も悪質な性犯罪に対する量刑をさらに厳しくすることの必要性を決して否定するつもりはない。「女性の尊厳を害する強姦は殺人に等しい」という女性の側の悲痛な訴えがあることも十分に理解できる。しかし、「法律のプロ」が国会議員に必要であることの理由として、強盗と強姦の法定刑の下限の違いが不合理・不平等であることを真っ先に挙げるというのは、実務家の感覚としてはは理解できない。

ここ数年相次いだ不祥事によって、かつては「最強の捜査機関」と言われた特捜部の看板は大きく傷つき、信頼は地に墜ちている。私は、そういう特捜検察の捜査のやり方を一貫して批判し、特捜検察が、政治権力に対抗する政治的影響力を及ぼすことの問題を指摘してきた(拙著【検察崩壊 失われた正義】毎日新聞社:2012年)。そういう私ですら、つい数年前まで特捜部の現場で政界捜査を率いていた特捜幹部OBの、「特捜幹部経験者としてのテレビ出演から更に政権与党の国会議員への転身」には違和感がある。かつて捜査を共に行った部下の検事達や、その捜査を取材していた司法関係の記者達の違和感は一層大きなものであろう。それでもなお、彼が国会議員になろうとする理由は、私には、どうしてもわからない。

長年特捜部に勤務し、「特捜の看板」を背負う中で、その謙虚さ、素直さを失ってしまったように思えた若狭は、テレビコメンテーターから政治家への転身の中で、法律実務家としての魂すらも売り渡してしまったのだろうか。

今回の若狭の参議院議員選挙への出馬は、「特捜検察の凋落」を象徴する出来事のように思える。その当事者である若狭が、参議院議員選挙でどのような選挙活動を行い、有権者がどのように評価・判断するのか、注目したい。

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猪瀬知事の「謝罪」に見る「法令遵守」への逃避

猪瀬直樹東京都知事が、4月16日、2020年の夏季五輪招致をめぐって、米ニューヨークタイムズ紙のインタビューで、他の立候補都市と東京とを比較し、「イスラム諸国は互いにケンカばかりしている」「イスラム諸国が共有しているのはアラー(神)だけで、お互いにけんかばかりしている。階級もある。」と述べたことを、27日付の同紙が報じたことで、「各都市は他都市の批判や他都市との比較を行ってはならない」としている五輪招致規範に抵触することなどが問題にされ、批判を浴びている。
この問題で、猪瀬知事は、4月29日には、「私の真意が正しく伝わっていない。ほかの立候補都市を批判する意図は全くなく、このようなインタビューの文脈と異なる記事が出たことは非常に残念だ。」とコメントしていたが、30日には、記者会見で、一転して、発言を撤回し、謝罪した。
その会見で、猪瀬知事が強調しているのは、「東京のPRのためだった」ということ。東京の良さを中心に話す中で他都市との比較もしたと説明し、「98%は東京の話であり、インタビューの終了間際に、他の都市についてどう思うかと聞かれたので、それに答える中で、誤解される表現があった。」として、「不適切な発言」を撤回している。そして、その後の質問に対して。「今回のニューヨークタイムズのインタビューで、どういう発言が規範に触れるかがわかったので、いい経験になった。大変良かった。今後は、IOCの規範を遵守していきたい。」と繰り返し発言している。
猪瀬知事の発言は、真摯な謝罪とは凡そ程遠いものである。自分の発言の何が問題だったのか、何がいけなかったのか、全く理解できていない。

猪瀬知事の話は、「『五輪招致規範』の『規定』がよくわかっていなかった。今回の件でよくわかった。今後は『規定』を遵守する。『規定違反』は繰り返さない」ということだ。
しかし、重要なことは「五輪招致規範」という「規定」に反したことではない。
その規範の背後には、オリンピックの歴史と伝統の中で育まれてきた基本理念があるはずである。それは、様々な人種、文化、宗教の国、富める国、貧しい国、平和な国、戦乱にあえぐ国など、多種多様な国からスポーツ選手が集い、そのような国や社会の違いを超えて、国の栄誉を賭けて、能力を出し合い、フェアに戦い抜く。そこに、スポーツの祭典としてのオリンピックの最大の意義があるはずだ。
そういうオリンピックの開催地を決めるプロセスの中で、招致立候補都市が、他の都市を批判すべきではない。最終的には、招致立候補都市が相互に比較され最も適切な都市が開催都市に選ばれることになるが、その「比較」を、当事者である招致立候補都市の側が行うことは、オリンピックの基本理念に反するというのが、この五輪招致規範が定められている理由であろう。
猪瀬知事の発言の最大の問題は、招致立候補都市の首長として、そういうオリンピックの基本理念に反する発言をしたことにあるのである。
「薄ら笑い」を浮かべながら会見に応じた猪瀬知事は、「どういう発言が五輪招致規範という『規定』に反するかがよくわかっていなかった。今回の件でそれがわかって良かった。」と言っているが、何が「良かった」のであろうか。
「98%が東京のPRである」というのは猪瀬知事の立場からは当然のことであろう。しかし、ニューヨークタイムズの記者には、東京開催のメリットなど十分にわかっており、さしたる関心はなかったはずだ。客観的な比較からは優位だと思える東京と他都市との比較について聞かれて、どのように答えるのか、東京五輪招致の中心人物である猪瀬知事の基本的な考え方を「2%」の時間で聞いたところ、図らずも「本音」が出てきたので、記事にしたということであろう。
猪瀬知事は「他都市との比較を聞かれたから答えた。答えなければ良かった。」というようなことを言っているが、そのような質問に対しては、「他の立候補都市もそれぞれ開催地に相応しい都市だと思うが、我々は東京での五輪開催が素晴らしい大会となり、世界中の人々に喜んで頂けるものと確信している。」というのが、オリンピックの基本理念をわきまえた見識ある答え方であろう。

私は、『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書・2007年)『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書・2009年)などで、形式的に法令規則を守りさえすれば良いという考え方、「遵守」の自己目的化の弊害を指摘してきた。重要なことは、法令・規則の形式的な文言ではなく、その背後にある社会の要請であり、その社会の要請に応えることこそが、真のコンプライアンスなのだということを強調してきた。
猪瀬知事の発言の最大の問題は、オリンピックの基本理念に反し、オリンピックを通して実現しようとする「他者、他国を尊重し合うフェアネス」という社会の要請そのものに反したところにある。
猪瀬知事の会見での「謝罪」は、問題を「五輪招致規範」の規定の「遵守」にすり替え、「法令遵守」に逃避しているに過ぎないのである。
東京五輪招致をめざす都知事としての基本的な姿勢自体を問われかねない発言をしたことを真摯に反省し、謝罪しない限り、東京五輪の招致活動に重大な支障となることは避け難いであろう。

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「不起訴不当」議決を検察はどう受け止めるのか

陸山会事件をめぐる虚偽捜査報告書等の事件に関して、昨年6月、検察が田代政弘元検事(以下、「田代」と略称)らに対する不起訴処分について、「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」(以下、「市民の会」と略称)による検察審査会への審査申立てが行われていたが、今月22日、東京第一検察審査会は、田代元検事について「不起訴不当」、佐久間達哉元特捜部長(以下、「佐久間」と略称)、主任検察官だった木村匡良検事(以下、「木村」と)ら上司について「不起訴相当」の議決を出した。

この虚偽捜査報告書作成等の問題は、検察審査会の起訴議決によって起訴された小沢一郎氏に対する東京地裁での審理の中で表面化し、「市民の会」が田代らを告発していたものだった。最高検は、昨年6月28日に田代らを不起訴処分にしたが、昨年4月に出された小沢氏に対する一審判決の中で、「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」などと異例の厳しい指摘が行われたことなどもあって、不起訴処分の際に、「国会議員の資金管理団体に係る政治資金規正法違反の捜査活動に関する捜査及び調査等について」と題する報告書をマスコミ等に開示し、同事件の不起訴処分の理由を明らかにした。

この報告書の内容については、本ブログ【社会的孤立を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している】において、「今回の問題に対する真相解明にはほど遠く、この問題に関する疑惑の説明にも全くなっていない。そして報告書の中で述べられている考え方や物の見方の多くは、内部だけで全てを決められる閉鎖的な組織の中だけにしか通用しない「身内の理屈」であり、社会の常識から理解できず、到底受け入れられるものではない。」と厳しく批判した。

また、昨年9月に公刊した【検察崩壊 失われた正義】(毎日新聞社)[kindle版]では、田代元検事の取調べの対象者で虚偽報告書作成問題の当事者の石川知裕衆議院議員、元法務大臣の小川敏夫参議院議員など4名との対談を交えて、同報告書が、全くの「詭弁」と「ごまかし」だらけのものであることを指摘した。

そして、最近になって、小川参議院議員が、『指揮権発動 検察の正義は失われた』と題する著書を公刊し、最高検報告書を厳しく批判するとともに、指揮権発動について当時の野田首相に了承を得られず不発に終わった経緯を明らかにした。

田代らに対する虚偽捜査報告書作成等の事件の不起訴処分に対して、昨年8月、「市民の会」による検察審査会への審査申立てが行われ、8ヶ月の期間の審査の末に出されたのが今回の議決である。

今回の議決は、田代の事件については、「田代報告書の提出を受けた東京第五検察審査会は、田代報告書を基に、B(石川知裕氏)がA(小沢一郎氏)への報告・相談等を認める旨の供述を維持した再捜査の供述の信用性を認めるなど、公文書の内容に対する公共的信用を害している」などとして報告書の虚偽性を認めた上、「記憶の混同」だとする田代の弁解やそれを是認した検察の判断を厳しく批判し、「不起訴不当」の結論を出している。

一方、田代の上司の佐久間、木村については、田代報告書の内容が事実に反するものであることは容易に知り得たのではないかという状況的な疑いは残るものの、田代も上司の虚偽報告書作成の指示を否定しており、その認識を窺わせる証拠がないとして、「不起訴相当」としている。

田代についての「不起訴不当」の議決を受けて、検察は再捜査を行うことになる

検察審査会が出す議決には「起訴相当」「不起訴不当」「不起訴相当」の3つがある。検察の不起訴処分を是認するのが「不起訴相当」。「起訴相当」「不起訴不当」は、いずれも検察の不起訴が不当だとして再捜査と再検討を求めるものだが、「起訴相当」の場合、検察が、再度の不起訴処分を行っても、その後、検察審査会の再審査で、「起訴議決」が出ると、指定弁護士による起訴手続きが行われることになるので、「法的拘束力」が生じる可能性があるのに対して、「不起訴不当」の場合は、検察が再捜査の結果、再度不起訴処分を行えば、それで事件は終結するので「法的拘束力」はない。

「起訴相当」ではなく「不起訴不当」にとどまったという議決の結論を重視すれば、「検察に対して生ぬるい議決」だと見ることもできる。審査補助員として委嘱された弁護士が検察幹部出身者だったことが、そのような議決の結論に至った原因だとして、判断の公正さに疑念を示す意見もある。

確かに、「検察の身内の犯罪に関する不起訴処分」に対する検察審査会への申立ての案件において、その検察の幹部出身の弁護士が審査補助員を務めるということは、判断の公正さに重大な疑問を生じさせるものである。いかなる経過、事情でこのような審査補助員の選任が行われたのかを解明することが必要である。

しかし、逆に言えば、そのような「検察寄り」の審査補助員の助言や働きかけが疑われる状況にあったにもかかわらず、検察審査会が、検察の不起訴処分に対して「不当」との結論を出したことの意味は、逆に大きいと言えるのではなかろうか。

議決書の中には、検察の不起訴理由に対する厳しい指摘、疑問が並んでいるが、それらは、「検察寄り」の審査補助員の意見、一般市民の審査員の率直な意見に基づくものといえるであろう。

しかも、この事件での「不起訴不当」議決に対する検察の対応は、通常の事件と同程度で済まされるものではない。

通常の事件であれば、検察審査会の「不起訴不当」の議決に基づいて検察の再捜査が行われても、その結果、再度「不起訴」の処分について理由の説明が求められることはない。検察としては、何らかの再捜査を行って、不起訴にすれば、それでお終いである。

しかし、当初の不起訴処分の段階で、「最高検報告書」まで公表して、実質的に不起訴理由の説明を行っている本件においては、そのようなことでは済まされない。

検察審査会の議決で不起訴が「不当」とされた理由に基づいて、その疑問や問題の指摘に応えられるような捜査を行い、その捜査結果について、議決書の「不起訴不当」の意見・指摘に応える形での説明が十分に行うことが求められることになる。

そういう意味では、本件議決は、法的拘束力はなくても、一般的な「不起訴不当」議決とは異なるのであり、検察は、議決に正面から応えられるよう、捜査を尽くす重い義務を負ったと見るべきである。

では、今回の検察審査会の議決では、検察の不起訴理由に関して、具体的にどのような問題が指摘されているのか。検察官が検察審査会に説明した不起訴理由は、前記の最高検報告書と同様だと考えられるので、そこに記載された不起訴理由と、議決書の内容、「市民の会」ホームページで公開されている検察審査会への審査申立書等とを比較対照してみよう。

議決書で示された田代の不起訴処分を不当とする理由の多くは、上記審査申立書の申立理由を認めたものであり、同審査申立書及び別紙「最高検報告書の不当性と本件の明白性」と対比しながら読むことで、その趣旨が良く理解できる。

最高検報告書では、「田代報告書と録音記録との間の趣旨の不一致の有無」として、田代報告書の記載と実際の取調べでのやり取りとを比較すると、田代報告書の記載に「相応するやり取り」が録音記録の中にあるので、「田代報告書に記載されている内容と実際の取調べにおける供述の趣旨とは実質的に相反するものではない」としている。

田代報告書の中では、石川氏が、「検事から,『貴方は11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしょ。そのほとんどは,貴方が小沢一郎の秘書だったという理由で投票したのではなく,石川知裕という候補者個人に期待して国政に送り出したはずですよ。それなのに,ヤクザの手下が親分を守るために嘘をつくのと同じようなことをしていたら,貴方を支持した選挙民を裏切ることになりますよ。』って言われちゃったんですよね。これは結構効いたんですよ。それで堪えきれなくなって,小沢先生に報告しました,了承も得ました,定期預金担保貸付もちゃんと説明して了承を得ましたって話したんですよね。」と供述したことになっている。しかし、これに「相応するやり取り」というのは、録音記録中の「なんか、ヤクザの事件、ま、検事も言ってたけどね。『石川さん。ヤクザの事件と同じなんだよ』って」という石川氏の発言だというのである。

この点について、議決書は、捜査報告書の記載内容に関する一般論として(以下、議決書の主な引用部分は[])、[読みやすくするために、誤解を与えない範囲で文言を付加して話を若干膨らませるようなことはあり得る]と認めた上で、[このような理解に立って、田代報告書の被疑事実該当部分と取調べにおける実際のやり取りを記載した反訳書を比較するに、田代報告書の当該部分が、実際のやり取りの「ヤクザの事件」云々等からどのように連想されたか理解できない。両者の内容は実質的にも相反していると言わざるを得ない。]と述べて、両者の内容が実質的に相反していることを明確に認めている。

また、議決書は、審査申立書で虚偽公文書作成罪等に当たるとして審査申立ての対象事実としていた、「色々と考えても、今まで供述して調書にしたことは事実ですから、否定しません。これまでの 供述を維持するということで、供述調書を作ってもらって結構です。」 と供述した旨の記載についても、[読み手に誤解させるおそれを払拭できないので、虚偽記載の疑いがある]としている。

「虚偽公文書作成罪の故意」については、

[上記「ヤクザの事件」の前後のやり取りを子細に検討すると、Bが勾留中の供述を翻した場合のAの起訴の可能性やAの共犯性のやり取りに関して、上記「ヤクザの事件」の発言が出たものと推察される。一方、田代報告書では、選挙民に支持されたことやヤクザの親分を守るために嘘をついたら選挙民を裏切る旨説得したことが記載されている]

と指摘し、田代報告書に記載された「ヤクザの事件」の話と実際の取調べでのやり取りが全く異なったものであることから、平成22年5月17日の取調べにおいては存在しなかった「ヤクザの事件」に関する問答を、虚偽と認識しながら意図的に取り込んで報告書を作成した可能性を指摘している。

田代が、捜査報告書作成時点において、石川氏が「ヤクザの事件」について発言したことを記憶していたのであれば、それが「ヤクザの親分を守るために嘘をついたら選挙民を裏切ることになる」という意味ではなく、Bが勾留中の供述を翻した場合のAの起訴の可能性やAの共犯性のやり取りに関するものであることを認識していたはずであり、それは「記憶の混同」を基礎づけるものではなく、逆に、意図的に虚偽の記載をしたことを示すものだという指摘は、審査申立書でも、拙著でも指摘していない、田代の虚偽文書作成の故意に関する新たな指摘である。市民の審査員の大変鋭い視点だといえよう。

要するに、議決書では、最高検報告書の「田代報告書の記載が録音記録中の『ヤクザの事件』の話と実質的に相反しない」という見方を明確に否定し、田代報告書の虚偽性を明確に認めた上、両者の内容の比較からも「記憶の混同」の弁解は全く通らないと厳しく指摘しているのである。

さらに、議決書は、取調べ中にメモを作成しないか、作成してもごく簡単な内容のものしか残さないという田代元検事の一般的な取調べ方法にも触れ、

[その様な取調べ方法を採る検事は、それなりに自己の記憶に自信を持っているはずで、その記憶の自信からしても、簡単に記憶の混同を起こすとは考えられない]

として、田代元検事の「記憶の混同」があり得ないことを重ねて述べている。

そして、注目すべきは、この点に関連して、検察審査会での検察官の説明の際の審査員とのやり取りについても異例の言及を行っていることである。

[検察審査会において説明した検察官は、審査員からの「駆け出しの検事ならいざ知らず、40才台のベテランの検事である田代が、簡単に記憶の混同を起こすとか、勘違いをすることが有り得るのか」という趣旨の質問を受け、「検事も人の子ですから、間違いはあると思う」旨答えているが、それでは答えになっておらず、むしろ、答えに窮して、表現は悪いが、誤魔化していると評さざるを得ない。]

と厳しく批判している。

議決書が、検察官の不起訴理由説明の際の審査員と検察官のやり取りに言及したのは、田代の「記憶の混同」の弁解を崩せないという不起訴理由の説明が、審査員に全く納得できないものであったこと、そして、その検察官の説明の姿勢が「誤魔化し」に近いものであったことに対する審査員の強い不満を表したものと見るべきであろう。

さらに、議決書は、

[検察官の不起訴裁定では、虚偽の内容の報告書を作成しても、過失を処罰する規定がないので、認識していなかったとか、間違えて書いてしまったと言えば、結局のところ責任逃れになり責任追及はできなくなるのではないか。]

とまで言っている。

過失による虚偽の捜査報告書作成が処罰されない現状の下では、「記憶の混同」の弁解を安易に認めれば、検察官が捜査報告書に意図的に虚偽記載をする行為が野放しになるとして、田代の「記憶の混同」の弁解を「鵜呑み」にした検察の不起訴処分を厳しく批判するものである。

議決書は、これらの厳しい指摘を踏まえて、田代の不起訴処分についての「結論」として、

[虚偽有印公文書を作成するにつき故意がなかったとする不起訴裁定書の理由には十分納得がいかず、むしろ捜査が不十分であるか、殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られるので、以上に指摘した点を踏まえて、本件(被疑事実の要旨第1の1)についての不起訴処分は、不当であると判断し、より謙虚に、更なる捜査を遂げるべきであると考える。]

と述べている。

「殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られる」との表現は、身内の犯罪に関して、「記憶の混同」などという明らかに不合理な弁解を容認した検察の捜査・処分に対して重大な疑念を示したものである。検察の再捜査は、このような検察の捜査・処分に対する異例の厳しい指摘、批判に応えられるものでなければならないもし、再度不起訴にするのであれば、当初の不起訴処分の際と同様に、検察には十分な理由の説明が求められることになる。当初の不起訴処分と同様に「記憶の混同」の弁解を理由に再度不起訴にすることは、検察審査会の議決を無視するものであって、到底許されるものではない。かかる意味で、再捜査の結果に基づく検察の処分は、法的な拘束力は受けなくても、社会的には大きな制約を受けることになる。

もう一つ重要なことは、田代報告書が対話形式で記載されていること、(石川氏の反応について)「『うーん』と唸り声を上げ」などというリアルな記載があることなどから、「何らかの意図」をもって、虚偽の内容の捜査報告書を作成したのではないかとの「推察」を示していることである。

[記憶が曖昧であるにもかかわらず、対話形式で書いたということは、そういう心証を持たせたいという意図があったのではないか。さらに、捜査の対象の社会的影響の大きさなどを考え合わせると、田代報告書の作成において慎重な姿勢はうかがわれず、むしろ何らかの意図があってこのような報告書を作成したのではないかと推察される。]

と議決書では述べているが、ここで言うところの「何らかの意図」というのが、「小沢氏の事件に対する検察審査会の議決を起訴相当の方向に誘導すること」であることは明らかであろう。そのような「意図」は、田代の「個人の意図」とは考えられない。

議決書では、田代の上司であった佐久間及び木村についての不起訴処分について、[佐久間及び木村は、平成22年5月17日のBに対する取調べ中に、数回にわたり、その取調べ状況、とりわけ供述内容について報告を受けたり質問したりして、供述調書の作成方針に関する指示を出していたことがうかがえるので、田代報告書が事実に反することは容易に知り得たのではないかという状況的な疑いは残るものの]と述べて、佐久間及び木村が、田代の虚偽報告書作成に関与した疑いを指摘した上で、[田代自身も、上記両名から田代報告書の虚偽記載に関する指示は一切ない旨供述していること]を理由に、[佐久間及び木村の供述に不自然な点はあるものの、虚偽公文書作成、同行使罪の成立を認める証拠は見当たらない]として、結論としては、不起訴処分を[相当と言わざるを得ない]としている。

要するに、「佐久間及び木村が虚偽捜査報告書の作成に関与した疑いはあるが、田代が、両名からの指示を否定しているので、その証拠がない」という理由で、不起訴処分は致し方ないと言っているのである。

そこで問題とされる田代の供述内容に関して、議決書は、田代の「記憶の混同」の弁解は到底信用できないばかりではなく、「何らかの意図」を持って虚偽の捜査報告書を作成したと「推察」している。

再捜査で、田代に対して、議決書の内容を踏まえた十分な取調べが行われれば「記憶の混同」の弁解が容認されることはあり得ないし、田代が真実を供述すれば「何らかの意図」を持って虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになり、それが、佐久間及び木村の側の「何らかの意図」に基づいて行われた可能性が十分にある、という趣旨であろう。

今回の事件に関して検察審査会の議決が検察に求めているのは、現時点の証拠関係のままで田代を起訴することで決着させることではない。

「記憶の混同」などという明らかに不合理な弁解を許すのではなく、議決で指摘した事実を含め、十分な追及を行うことで、田代に、虚偽の内容の捜査報告書の作成の経緯、「何らかの意図」の内容について真相を語らせ、上司の関与、組織的背景も含めて明らかにした上で、田代の処分を決することを求めていると見るべきであろう。

十分な事実解明が行われれば、田代は、上司に命じられるままに虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになるかも知れない。そうであれば、田代の処分は起訴猶予にとどめ、上司の刑事責任を追及するのが適切ということも考えられる。また、「虚偽の捜査報告書による検察審査会の議決の誘導」という、検察にとってあってはならない重大な不祥事が発生させることになった東京地検特捜部の陸山会事件捜査が、どのような経緯で、いかなる方針で行われ、そこにどのような問題があったのかについて、外部者も含めた客観性を確保した体制による検証を行われることが、何より重要なのであり、それが、検察或いは法務省によって適切に行われ、検察の抜本改革に結びつくのであれば、田代やその上司個人の刑事処罰は必ずしも不可欠ではない。

今回の議決を受け、検察は、田代に対する再取調べで、議決書での指摘及びその背景となった審査申立書及び別紙「最高検報告書の不当性と本件の明白性」での指摘を十分に踏まえた徹底した再捜査を行うべきである。議決書での異例の言及を行って批判した審査会において行われた検察官説明のような「誤魔化し」の姿勢は決して許されない。

田代に対する徹底した再取調べを行えば、田代も「記憶の混同」の弁解を維持することはできないはずである。田代から真実の供述を得ることができれば、それを発端に、日本の民主主義に重大な脅威を生じさせた陸山会事件捜査の真相を解明することは決して不可能ではないはずだ。

「法的拘束力」のない「不起訴不当」だが、最高検報告書の不起訴理由を正面から否定した厳しい内容の今回の議決が、検察組織に対して、抜本的な改革を求める「刃」となるかどうかは、この議決を受けて行われる検察の再捜査に対して、多くの国民とマスコミが関心を持ち続け、捜査の結果行われる処分についての説明責任をどれだけ厳しく追及するかにかかっている。

検察の権力行使にかかる犯罪に対して厳正な捜査・処分が行われるようチェック機能を果たすことは、検察審査会による審査制度の最も重要な機能である。本件議決後の事件の展開は、制度の真価を問うものと言っても過言ではない。

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法曹養成改革の失敗に反省のかけらもない「御用学者」

政府の法曹養成制度検討会議が、中間提言をまとめ、教育の質が低い法科大学院に対して「公的支援の見直し」を含む厳しい措置で臨む方針を確認し、司法試験の年間合格者数を「3000人程度」とした政府目標の撤回を了承した。

法科大学院の創設、法曹資格者の大幅増員を柱とする法曹養成制度改革は、2001年の司法制度改革審議会の提言で、「平成30(2018)年ころまでには、実働法曹人口は5万人規模(法曹1人当たりの国民の数は約2,400人)」との目標を掲げ、「平成22(2010)年ころには新司法試験の合格者数を年間3,000人とすることをめざすべき」との方針が打ち出されたことに基づいて進められてきたものだったが、今回の政府の検討会議の中間提言により、そのような政府の施策が無残な失敗であったことは動かし難いものとなった。

2004年の法科大学院設置以降の「法曹資格者の大幅増員」をめざして行われてきた法曹養成改革は、文科省から法科大学院に無駄な補助金を出させることで膨大な財政上の負担を生じさせたばかりでなく、拡大する司法の世界をめざして法科大学院に入学した多くの若者達を、法曹資格のとれない法科大学院修了者、法曹資格をとっても就職できない司法修習修了者として路頭に迷わせるという悲惨な結果をもたらした。

法科大学院創設時には、新司法試験の合格率が7割程度になるとされていたが、実際には、当初の前提を大幅に上回る数の法科大学院が設置され、定員も大幅にオーバーしたことに加えて、合格者も当初予定されていた3000人を大きく下回ったため、合格率はどんどん低下して25%程度となり、法曹資格が取れない法科大学院修了者を大量に生みだされる結果になったしてしまった。

そういう状況になると、優秀な人材が、法曹資格が取れないリスクを覚悟してまで法科大学院に入らない。志願者が減少し、人材の質も落ちるので、合格者も増やせない、という悪循環に陥っている。

一方、法科大学院を修了して司法試験に受かって、司法研修所を出て弁護士資格を取っても、弁護士に対する需要が高まらないので、なかなかまともに仕事にありつけない、弁護士の就職難が深刻な問題になり、ワーキングプア状態の弁護士が急増していると言われている。

まさに、法曹養成の現状は、司法制度改革の当初の想定とは全く異なる極めて厳しい状況になっている。

合格者が2000人にとどまっているのは、司法試験で客観的に能力を評価、判定した結果だというのが法務省側の説明だ。しかし、果たして、司法試験による選別が、本当に、法律家として社会の要請に応えられるかどうかの判定として正しいと言い切れるのであろうか。私の法科大学院の教員としての経験から言えば、司法試験に合格した修了者の中には、実務家としての能力・適性に疑問を持たざるを得ない者もいる一方で、最終的に司法試験に合格できず法曹資格を取得できなかった修了者の中にも、法律実務家としての十分な能力・資質を持った者も少なからずいた。司法試験合格者が500人だった時代とは異なり、合格者が2000人にもなると、法律実務家の能力・適性について試験で適切な選別を行うのは容易ではない。司法試験が適切な選別機能を果たしているのか否かについては、関係者からも疑問が指摘されている。

私は、「法令遵守」が世の中にもたらす弊害を説く中で、旧来の司法の世界の構造を根本的に変えることなく、法曹資格者を大幅に増員しても、市民に身近な司法を実現することにはつながらず、法曹資格者の需給ギャップの拡大と法科大学院修了者の就職難を招くだけであることを、かねてから、指摘してきた。

桐蔭横浜大学法科大学院教授として法科大学院教育に関わっていた2005年に、法科大学院の乱立によって司法試験合格率が当初の予定より大幅に低下することが予想される中で、司法試験合格に特化した法科大学院教育は早晩行き詰まらざるを得ないこと、司法試験合格をめざす教育だけではなく、経済社会における様々なニーズに応えられる教育を実施することができるよう、法科大学院教育の内容や司法試験制度を改める必要があることを指摘する新聞への寄稿を行った(「新司法試験 実務経験者に受験枠新設を」(2005年2月3日 朝日新聞「私の視点」)。

2009年1月に出した「思考停止社会」(講談社現代新書)では、最終章でこの問題について、次のように述べている。

旧来の日本では、司法の世界は社会の周辺部分でしか機能していませんでした。それは、社会内の普通の人が普通に起こすトラブルではなく、異端者・逸脱者や感情的対立の当事者など、普通ではない人が起こす特殊なトラブルでした。そういう特殊な問題の解決を委ねられるのが法曹資格者で、そういう人たちに「遵守」させるべき法令の解釈を行うことや適用されるべき法令を示すことが法曹資格者の仕事の中心でした。法廷という一般社会や経済社会からは隔絶された司法固有の世界での争訟に関連する業務が中心で、非日常の世界である水戸黄門のドラマに例えれば、「控えおろう」と言って印籠を示して人々をひれ伏させる「助さん」の役割が法曹資格者の基本的な役割だったのです。

「社会的要請に応えること」をめざしていく場合は、法律家には、従来とは異なった重要な役割が期待されることになります。それは、一言で言えば、個人や組織が法令を使いこなすことをサポートしていくことです。法令と社会的規範の相互関係を把握し両者のインターフェース(接点)の機能を果たしていくことです。

今後、日本の経済社会において、「社会的要請に応えること」をめざす活動によって「法令遵守」による思考停止状態からの脱却を図っていくのであれば、あらゆる分野で、経済社会の実態を十分に理解した上、問題になっている事項について事実関係を解明し、法律の解釈と適用ができる能力を持つ法律家が、原動力になっていく必要があります。そのためには、法律家、とりわけ、その中心的役割を果たすべき法曹資格者が、経済社会に対して開かれた、身近な存在になり、「社会的要請に応えること」という意味のコンプライアンスを共通言語にして、企業人、経済人と本当の意味でコラボレーションできる関係を構築していかなければならないと思います。

裁判員制度導入と並ぶ司法制度改革のもう一つの目玉が法科大学院の創設による法曹資格者の大幅増員です。しかし、この改革の法曹養成制度の改革によって、その目的とされている「市民に身近な司法」の実現、経済社会における司法の機能の拡大ができるかと言えば、まったく期待できないと言わざるを得ません。法科大学院修了者の司法試験合格率が3割余に低迷する一方、若手弁護士の就職難が深刻化している現状は、法曹資格者の増員という改革を思考停止状態で行ってきたことの当然の結果です。

制度改革の前提として、法曹資格者を大幅に増やせば、それに伴って法曹資格者に対するニーズが拡大するだろうとの予測があったわけですが、それは、まったく的外れの予測です。日本の司法はこれまで社会の周辺部分で特殊な問題を解決する機能しか果たしておらず、市民生活や経済活動の中で発生する様々なトラブルの解決という経済社会の中心部のニーズに応えるものではありませんでした。そういう司法の世界を担ってきたのが法曹資格者の世界です。その世界を従来のままにしておいて、法曹資格者の数だけを増やしても、ニーズが高まるわけではありません。大幅な需給のミスマッチが生じるのは当然です。

法曹資格者に対するニーズを拡大しようと思えば、経済社会の中心部で使いこなせるように法曹の世界を変えていかなければいけないのですが、従来の司法の世界に慣れ親しんできた従来の法曹資格者によって構成されている法曹教育の世界はそういう方向には向かっていません。従来の法曹資格者が、基本的に従来と同じ考え方で司法試験制度が維持され、その試験に合格することを主たる目的として法科大学院の教育が行われているわけですから、旧来の司法の世界と何ら変わらないのは当然です。そういう世界に、法曹資格者をめざして大量の若者達が迷い込んだ結果、司法試験に合格して司法研修所を出てもまともな就職ができない弁護士が多数出る一方、司法試験に合格できない大量の司法浪人が発生しているという、深刻な事態が生じているのです。

このような指摘を行ってきた私にとっては、今回の事態は当然の結果であり、むしろ、政府が司法制度改革の一環として行おうとした法曹養成制度改革が誤りであることを政府として認めるのが遅きに失したと言わざるを得ない。

問題なのは、このような法曹養成制度改革の失敗が、国家財政にも大きなマイナスを生じ、制度の混乱の中で有意な若者達の人生にも影響を与える結果になったことに対して、誰が反省し、誰が責任をとるのかということである。

この問題に関しては、2010年に、総務省行政評価局による「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価」が開始された。その論点整理と調査の方向性を検討するために「法科大学院(法曹養成制度)の評価に関する研究会」を開催し、その成果を取りまとめた報告書を公表して一般から意見を募集した後に、研究会の検討結果に基づいて調査を開始し、その結果を、2012年4月に政策評価書として公表した。この政策評価では、「司法試験の年間合格者数の数値目標については、これまで及び今後の弁護士の活動領域の拡大状況、法曹需要の動向、法科大学院における質の向上の状況等を踏まえつつ、速やかに検討すること」「定員充足率が向上しない法科大学院に対し、実入学者数に見合った更なる入学定員の削減を求めること」「法科大学院の公的支援の見直し指標については、未修者への影響や、法科大学院における教育の質の改善の進捗状況などを踏まえ、必要な改善措置を講ずること」などの勧告が行われている。

今回の法曹養成制度検討会議の中間提言は、概ね、総務省の政策評価における勧告内容に沿ったものだ。

私は、総務省顧問として、同政策評価の企画にも参画し、研究会でも副座長を務めるなど、この政策評価に深く関わった。

【研究会報告書】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000095209.pdf

【報告書に対する意見】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000102517.pdf

【政策評価書の概要】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000156306.pdf

ところが、このような経過で行った総務省の政策評価に対しては、法科大学院協会の側から強い反発があった。

以下は、政策評価に関する総務省の調査が開始された2011年6月に、法科大学院協会が、「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価に対する意見」と題して出したプレスリリースである。

http://www.lawschool-jp.info/press/press11.html

法曹養成に関するフォーラムというのが設置されて検討が開始されたのだから、総務省などがしゃしゃり出てくるべきではない。教育研究に関して専門的能力や経験がない者が、大学の教育研究について調査を行うことは、憲法23条の「学問の自由」を侵害するというのだ。

このような法科大学院協会側からの「横槍」に対して、当時、総務省顧問・コンプライアンス室長として、総務省顧問室での「記者懇談会」を開催していた私は、2011年7月14日の記者懇談会でこの問題を取り上げた。

その際の私の発言内容が総務省のHPに掲載されている。

http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3196505/www.soumu.go.jp/main_content/000122765.pdf

この中でも述べているように、法科大学院協会から会員校に対して出された非公式の文書には「法科大学院制度をはじめとする現在の法曹養成制度や趣旨を否定するための調査が実施されていると受け取られかねない内容になっているのではないか」というようなことが書かれている。要するに、現在まで行われてきた司法制度改革に重大な問題があることを棚に上げて、それを否定する方向での調査が行われること自体がけしからんと言っているのだ。

司法制度改革は、従来、社会の周辺部分でしか機能していなかった司法を社会の中心部で機能するようなもの変えていかないといけない、そのためには、従来の司法の世界自体を抜本的に改め、社会に対して開かれたものにしていかなければいけない、その世界を変えていかないといけない。ところが、この法科大学院協会の反応からも明らかなように、司法の世界の「中心」にいる人たちは、司法の世界が外からの力で変わることを最初から拒もうとしているのだ。

このような総務省の政策評価に対する法科大学院協会側の反発の中心になっていたのは、司法制度改革審議会の中心メンバーとして法曹養成制度改革を主導してきた大学教授だったようだ。

この大学教授は、典型的な法務省の「御用学者」で、検察不祥事からの信頼回復のための法務省の「検察の在り方検討会議」にも委員として加わり、刑事司法に関して長々と大学の講義のような発言を行ったり、検察に厳しい意見を述べる江川紹子氏や私の意見に対して異論を述べたりして、会議の議論が抜本的な改革の方向に向かうことに抵抗してきた。

そして、今回の政府の法曹養成制度検討会議にも委員として加わり、「司法制度改革審議会報告書の提言の方向性は間違っていなかった」「現状で合格者が2000人にとどまっているのは、受験者の能力がないからに過ぎない」などと述べて、司法試験の年間合格者数を「3000人程度」とした政府目標を撤回することに反対している。

自分が主導して進めてきた法曹養成制度改革が根本的に誤っていたために、制度が立ち行かなくなり、国に膨大な財政上の損失を与え、多くの若者達を露頭に迷わせる結果になったことについて、何の責任もとることなく、反省をすることもない。そればかりか、その誤りを是正する政策評価の動きに対しても「学問の自由」を盾にとって抵抗し、制度改革の見直しを遅らせようとする。それが、法学の世界の「大御所」の実態なのである。

それは、前回の当ブログ【佐藤真言氏の著書『粉飾』で明らかになった「特捜OB大物弁護士」の正体】で取り上げた、「特捜OB大物弁護士」、すなわち検察OBの世界の「大御所」の問題と相通ずるものがある。

このような「大御所」が、法務・検察の「守護神」として存在している限り、司法制度改革による司法の世界の混乱は収まることはないし、真の検察改革は遅れ、不当な冤罪も絶えることはない。

それが、現在の日本の司法の「残念な現実」なのである。

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佐藤真言氏の著書『粉飾』で明らかになった「特捜OB大物弁護士」の正体

「貸し渋り」「貸し剥がし」が横行する中小企業金融の実態に幻滅して大手銀行を退職、中小企業経営者に寄り添い、経営改善の支援に懸命の努力をしていた経営コンサルタントの佐藤真言氏が、粉飾決算の指南で多額の報酬を受け取っているとの誤った「見立て」をした東京地検特捜部に狙われ、引き返さない捜査に追い詰められていく経過を描いた迫真のノンフィクション『粉飾~特捜に狙われた元銀行員の告白』が出版された。51qzRri-WyL._SL500_AA300_

粉飾決算による融資詐欺で一審、二審で懲役2年4月の実刑判決を受け、上告審に最後の望みを託して戦い続けている佐藤氏の悲痛な叫びが、最高裁にも届くことを祈りたい。

当ブログでは、昨年9月、「『正義を失った検察』の脅威にさらされる『400万中小企業』」で、この事件を世の中に知らしめた石塚健司氏の著書『400万企業が哭いている 検察が会社を踏み潰した日』を紹介した。懸命に中小企業の経営改善に取り組む経営者朝倉亨氏と、それを必死に支える経営コンサルタントの佐藤氏を踏み潰した捜査というのが、実は、廃止される寸前の東京地検特捜部直告2班が「起死回生の一打」を狙って手掛けたもので、まさに検察改革の生み出した悲劇であることを明らかにした。

その後、私は、控訴審第1回公判を直前に控えた朝倉氏の弁護人に就任、検察の捜査・起訴が、誤った認識に基づくもので、刑事事件として立件されるべきではないこと、この事件での実刑はあり得ないことを訴え、「朝倉亨さんを支援する会」に全国から寄せられた400万円を超える支援金で被害弁償を提供するなどして、刑の執行猶予を求めたが、昨年11月に出された判決は、実刑を維持し、被害弁償を考慮して懲役2年という、4か月分の軽減にとどまった。朝倉氏はただちに上告するとともに、法律問題に関して上告受理申立ても行ったが、今年3月に上告は棄却。朝倉氏は、間もなく収監される。

今回の佐藤氏の著書『粉飾』では、『400万企業が哭いている』には書かれていない、この事件のもう一つの断面が明らかにされている。それは、一審と二審で佐藤氏の弁護人を務めた弁護士のことだ。

この弁護士は、『粉飾』では「義家」という仮名で登場するが、『400万企業が哭いている』の中では実名で登場する。その特捜部長・検事長OBの「大物弁護士」は、特捜捜査に立ちはだかった「現役の特捜検事たちにとって『最も厄介な敵』」として描かれている。しかし、その「大物弁護士」と、佐藤氏の『粉飾』に出てくる「義家弁護士」とが、同一人物とはとても思えない。

『400万企業が哭いている』の「大物弁護士」は、「特捜部など検察で多くの華々しい成果を挙げ、高検検事長まで上り詰めた後、退官後は母校の法科大学院教授として教鞭をとる、その一方、弁護士として古巣に真っ向から立ち向かい、後輩たちにひと泡もふた泡も吹かせる判決を勝ち取っている」。本来であれば、佐藤氏が弁護を依頼できるような人物ではないが、佐藤氏が事務所への「飛び込み」で相談をしたところ、「大物弁護士」は、「中小企業を助けるコンサルタントという仕事に対する情熱」、「真剣なまなざし」、「己のやったことへの確かな信念に触れて感銘を受け」、「君、お金がないんだろ。お金のことは心配しなくていいよ。私は君から取ろうとは思っていないから」と言って、弁護を受任することにした。そして、主任検事と直接何度か話し合い、捜査拡大に苦言を呈する。特捜の手の内を知り尽くし、特捜の先輩たちも苦渋をなめさせた人物、しかも、検察首脳にも太いパイプを持った「大物弁護士」の動きによって、捜査拡大にブレーキがかかり、幕引きに向かう。

検察に大きな影響力を持つ「大物弁護士」が、まさに手弁当で、懸命の弁護活動を行ったことが、佐藤氏を最悪の事態から救ったかのように書かれている。

ところが、『粉飾』で描かれている「義家弁護士」は、それとは全く違う。

起訴され、保釈になった後の「義家」弁護士と佐藤氏との話合いの場面が出てくる。粉飾決算書による融資詐欺での起訴自体に、佐藤氏は全く納得ができず、事実関係を争い、無罪の主張をしたい意向だったが、「義家弁護士」は、「一発実刑もあり得る」と言って、事実関係を争わず、執行猶予狙いで行くことを勧める。その際、「義家」の「執行猶予が当然の事件」という言葉で、佐藤氏は、「義家弁護士」に全幅の信頼を置いて裁判に臨むことにし、反省と謝罪を行い、情状酌量を求めることに徹した。

しかし、一審判決は2年4月の実刑。執行猶予はつかなかった。判決の内容は、多くの点で事実と異なり、佐藤氏にとって全く納得のいかないものだった。

その判決に先立って、「義家弁護士」は、万が一の実刑判決の場合、再保釈のために保釈保証金を積み増す必要が生じるので500万円を用意しておくよう佐藤氏に求めていた。佐藤氏は、やむなく、末期がんで余命僅かの宣告を受けていた実母が形見として名義変更して残してくれていた保険を解約した500万円を「義家弁護士」に渡していた。

一審の実刑判決後、200万円の保釈保証金増額で再保釈が認められたが、その際、「義家弁護士」は、「控訴審をこれから戦うのに費用もいろいろかかる」「刑法の大先生にも控訴趣意書を書いてもらわないといけない」「残りの300万円は控訴審の費用として頂いておく」と言ってきた。佐藤氏は、有無を言わせない「義家弁護士」の言葉に従うしかなかった。

その際、佐藤氏は、妻から、逮捕時にも、「義家弁護士」から弁護費用として200万円を要求され、支払っていたことを聞かされた。

「義家弁護人」ら弁護人が提出した控訴趣意書が、「佐藤真言さんを応援する会」のホームページにアップされているが、それを見る限り、一審の実刑判決が破棄されることが期待できるような「控訴審での戦い」が真剣に行われたとは全く思えない。

控訴趣意書で、情状に関する事実として述べているのは、①粉飾決算は、朝倉氏など融資を受けた会社経営者の判断によって行われたもので、経営コンサルタントとして指導・助言を行った佐藤氏は、「幇助的役割」に過ぎないこと、②粉飾決算に関与した佐藤氏の動機、心情は、中小企業の経営再建に貢献したいという思いからであること、③佐藤氏は、朝倉氏などに、決算期ごとにリスケ(返済延期)を進言していたが、朝倉らが、これを拒否して、粉飾決算のままで融資を受けていたものであること、④佐藤氏が行っていたコンサルタント業務は、粉飾決算による融資に関するものだけではなく、他の経営指導も行っていたこと、⑤佐藤氏は粉飾決算の違法性、危険性を説き、粉飾決算に関与することに躊躇していたのに、朝倉氏らが、粉飾を強く依頼し、協力させたものであることなどである。要するに、責任が佐藤氏ではなく、朝倉氏などの経営者の側にあることを繰り返し、佐藤氏が自らの非を認めて反省していることを強調しているだけである。

驚くのは、「銀行関係者の処罰感情が厳しい」と一審判決が指摘していることに関しては、「処罰感情が厳しくても、行為者が既に改しゅんの情を示し、改善・更生が確実に期待できるときは、施設内処遇(実刑)を選択すべきではない」というような、一般的な刑事政策論を展開していることである。このようなことを弁護人が言わざるを得ないのは、被害者側の被害感情が峻烈で、それを尊重すれば実刑しかあり得ない場合であろう。しかし、本件は、そもそも「処罰感情が厳しい」といえるような事案ではない。

朝倉氏の控訴審で提出した「控訴趣意補充書2」(私が朝倉氏の弁護人に加わった時点で、既に控訴趣意書は提出されていたので、主張を再構成して「控訴趣意補充書」として提出した)で述べているように、一審判決で、「銀行関係者の処罰感情が厳しい」という一審判決の認定は誤っている。本件では、「被害者」の銀行及び信用保証協会の側が出した書面は、犯人の処罰を求める「告訴状」ではなく、被害事実を申告する「被害届」に過ぎず、しかも、その時期は逮捕前ではなく、起訴の直前である。そこでは「厳正な処罰」を求めているが、「厳重処罰」という言葉は使っていない。通常の窃盗・詐欺等の財産犯において、被害者の被害申告・告訴等による「厳重処罰」の要請を受けて刑事事件が立件されるのが一般的であるのに対して、本件では、被害者側から自発的に「被害届」が提出されたものではなく、検察官側から、起訴することを告げられた上、強く要請されたために提出されたものであることは明らかだ。

要するに、刑事事件として立件し、債務者側を処罰することを、銀行等の被害者側も決して望んではおらず、検察官に強く要請されて、しぶしぶ被害届の提出に応じたものであり、「処罰感情が厳しい」という一審判決の判示は誤っている。

その点は、元銀行員の佐藤氏が、今回の事件について最も強く訴えたいことのはずだ。少なくも、朝倉氏の関係に関して言えば、検察の強制捜査がなければ、会社が破産することもなく、それまで通り約定返済を続けることは可能であった。銀行側にとっても、検察の強制捜査のために、融資先が返済不能になってしまったのであり、まさに迷惑至極だったはずだ。

ところが、「義家弁護士」らの控訴趣意書では、このような被告人が最も訴えたい本質的な問題には全く触れず、「処罰感情が厳しい」という一審判決の認定を当然の前提にして、使い古されたような「刑事政策の一般論」を持ち出して「刑務所に入れるべきではない」と言っているだけなのである。

それ以上に不可解なのは、「東日本大震災復興緊急保証制度を悪用したことを真摯に反省して贖罪寄附をする予定」と書かれていることである。佐藤氏から直接確認したところでは、実際に、弁護士会を通じて300万円の「東日本大震災被災者のための贖罪寄附」を行い、それを控訴審で立証したそうである。

通常、贖罪寄附というのは、被害者がいない刑事事件などで、改悛の心情を表すために行うものである。本件では、前記のような経緯に問題があるとはいえ、被害届を提出している「被害者」たる銀行等が存在しているわけで、資金があるのであれば、まず、被害弁償を行うのが当然である。佐藤氏の贖罪寄附については、控訴審の裁判官も首を傾げ、被告人質問で「なぜ、被害弁償をしないで贖罪寄附をしたのか」と質問したそうである。

朝倉氏の控訴審では、本人には被害弁償を行う資力がなかったが、「朝倉亨さんを支援する会」に全国から寄せられた400万円の支援金を「被害者」の銀行側に提供し、供託したことが情状面で評価され、一審の2年4月の実刑が4月軽減されて2年の実刑となった。佐藤氏の300万円が被害弁償に回っていたら、量刑面でも相当な影響があったのではないかと悔やまれる。

もちろん、本件は、2つの銀行と信用保証協会が「被害者」とされており、権利関係は単純ではない。実際に、朝倉氏関係での被害弁償金の提供に対しても、当初、銀行側は受領しようとせず、弁護人側で供託の手続きをとった。弁護士会にお金を持ち込むだけで行える贖罪寄附などとはとは、かかる手間もコストも全く異なる。しかし、そのような手間を厭わず、何とかして、なけなしの被告人の資金を有利な情状評価につながるよう活用するのが弁護人の職責と言うべきであろう。「被害届」を出している銀行側が被害弁償を受領しようとしないことは、銀行側の処罰感情がもともと希薄であることを示す事実とみることもできる。朝倉氏の控訴趣意補充書2では、その点も主張している。

控訴趣意書で述べていることは、殆どが一審での主張の「焼き直し」であり、一審の実刑判決が破棄されるわけがない。佐藤氏の控訴審判決は、弁護人の量刑不当の主張を簡単な理由で退けて「控訴棄却」、一審の2年4月の実刑がそのまま維持された。

そして、控訴審判決の一ヶ月半後、佐藤氏は、「義家弁護士」から、一方的に、弁護人辞任を通告される。佐藤氏が、自分の事件のことをネットで発信したり、明治大学で開かれたシンポジウムに参加して、事件の内容・問題点について発言したりしているのが「弁護方針と合わない」ということが理由なのだという。控訴審でも実刑判決を受け、厳しい状況に追い込まれた佐藤氏が、不当な捜査や裁判によって世の中に広まった汚名を、社会への発信によって少しでも晴らそうとするのは、当然のことではないか。上告趣意書提出期限を1ヶ月後に控えた時期に、「義家弁護士」から、突然、見捨てられた佐藤氏は、途方にくれる。

特捜捜査も全くデタラメであるが、そのような不当な捜査で起訴された佐藤氏が、二審まで実刑判決という厳しい裁判になっていることの大きな原因は、この「義家弁護士」の弁護活動にあるように思える。

『400万企業が哭いている』の中(238頁)で、「大物弁護士」は、石塚氏のインタビューに答えて、東京地検特捜部が佐藤氏・朝倉氏を粉飾決算書の提出による融資詐欺を立件して捜査の対象としたことについて、次のような「本音」を語っている。

《震災復興の保証を受けた会社を調べていったら、かなりの数がそれ(粉飾)をやっているはずだよ。捜査をもっと広げたいんなら、中小企業向けの保証融資を受けている会社を全部調べてご覧よってことだよ。ほとんどマイナスの会社だよ、多分。そんな捜査をやっていったら大変なことになるでしょ。だからつまりね、こんなものは検察のやるべき領域じゃないんだよ。金を貸す銀行が相手企業の与信について検討して判断するわけなんだから、銀行の判断の誤りを検察がやる話じゃないんだよ。そんなものを検察がやっていたらおかしくなる》

そのように認識しているのであれば、なぜ、『震災復興の保証を受けた会社を調べていったら、かなりの数がそれ《粉飾》をやっている』という認識に基づいて、本件は、本来、立件されるべきではない事件が立件され、捜査の対象にされたものだということを主張しないのか。証人尋問で「被害者」の銀行側の真意を問いただせば、「融資詐欺」の実態が、検察の主張とは全く異なったものであったことも明らかにできたであろう。

証人尋問まで求めないとしても、特捜OBの「大物弁護士」が、石塚氏のインタビューで語ったような、中小企業の粉飾決算による「融資詐欺」を刑事事件として取り上げることに対する根本的な疑問を少しでも公判で主張していたら、裁判所の事件の見方にもかなりの影響を及ぼしていたはずだ。

ところが、「義家弁護士」が行ったのは、佐藤氏が著書で述べているような、特捜部の捜査・起訴に対して、最も言いたいこと、納得できないことを一切主張せず、佐藤氏の事件への関与は「従犯的」であり、粉飾決算を主導したのは朝倉氏などの経営者側だなどと経営者側の責任を強調することと、佐藤氏の反省・悔悟を強調することばかりだった。そして、前記のように、一審判決での「被害者」の銀行側の「処罰感情が厳しい」と認定には誤っているのに、それに対して何ら異論を差し挟まず、一方で、何とかして執行猶予を得るために佐藤氏が用意した300万円も、その「被害者」への弁償ではなく、贖罪寄附に提供してしまう。

このような「義家弁護士」の対応が、佐藤氏の情状立証に殆ど役立たなかったばかりか、経営者側の朝倉氏などの責任を強調したことで、朝倉氏も含めて経営者側が二人とも実刑判決を受けることの一因になり、それが、結局、佐藤氏も実刑判決を受けることにつながったと見ることもできる。

特捜部が誤ったストーリーや事件の評価に基づいて、不当な捜査が行われ、被疑者、被告人が、刑事裁判による救済を求めているのに、弁護人の特捜OB弁護士が、「争っても勝ち目はない」「身柄の拘束が長期化する」などと言って、事実を争うことを断念させるということが、過去の多くの事件で行われてきた。それが、特捜捜査の問題を表面化させないようにすることにつながってきた。

今回の事件の当事者である佐藤氏が、「義家弁護士」について、敢えて著書『粉飾』で書いていることは、事実としてほぼ正確と考えてよいであろう。

『400万企業が哭いている』が書かれた頃は、まだ、弁護人の「義家弁護士」に全幅の信頼を置き、その刑事弁護の手腕に望みを託していた佐藤氏が、石塚氏の取材に対して、「義家弁護士」のマイナス面の事実は話さなかったことが、同書で「大物弁護士」が極端に持ち上げられて描かれることにつながったものと思われる。

『400万企業が哭いている』が出版されたのをきっかけに、事件の中身について、自ら社会に対する発信を行うようになった佐藤氏を、「義家弁護士」が一方的に切り捨てたことで、「義家弁護士」、すなわち「大物弁護士」の「実像」が明らかになった。佐藤氏がそのような行動をとることがなければ、『400万企業が哭いている』に実名で書かれた「大物弁護士」が、手弁当で特捜部に立ち向かう正義の味方であることについて、誰も疑いすら抱かなかったはずだ。

この「実像」と「虚像」の違いは、「検察の正義」の象徴として絶大な信頼を得てきた東京地検特捜部のイメージが、実はマスコミに作られた「虚像」であったのと相通ずるものがある。

「普通の市民」が特捜検察に狙われ、踏み潰されそうになったとき、救いを求めるのは弁護人しかいない。特捜部の現場にも影響力がある検察OBの「大物弁護士」に依頼できたとなれば、それ以上心強いことはない。全幅の信頼を寄せるのも当然であろう。その「大物弁護士」が、実は「義家弁護士」のような存在であったとしたら、「普通の市民」はどこに救いを求めたらよいのか。

私は、『400万企業が哭いている』を読んで、特捜部が、中小企業の経営に懸命に取組む経営者と、使命感に燃えて中小企業の経営指導に当たっていた経営コンサルタントに捜査の「刃」を向け、踏み潰したことを知り、大きな衝撃を受けた。西松建設事件、陸山会事件などに関して特捜捜査を厳しく批判してきた私だったが、その力が及ばす、検察改革の動きの中で、失地回復を図った特捜部の常識はずれの捜査のために、佐藤氏・朝倉氏が犠牲になったことは痛恨の極みだった。

だからこそ、既に控訴審の第一回期日を直前に控えていた朝倉氏の弁護人を頼まれた際、迷うことなく引き受け、殆ど手弁当で、控訴審での主張や「朝倉亨さんを支援する会」の支援金による被害弁償を行い、上告審でも、上告受理申立理由書上告趣意書で、この事件の根本的な問題を必死に訴えた。それは、検察に23年間所属し、検察に育てられた人間として、その検察の犠牲になろうとしている朝倉氏、佐藤氏のために少しでも力になることが、自らの責務だと思ったからだ。

一方、佐藤氏の弁護人を務めた特捜OBの「大物弁護士」は、一体、どのような気持ちで、弁護を引き受けたのであろうか。特捜検察に踏み潰され、全幅の信頼を置き公判対応を全面的に委ねていた弁護人にも切り捨てられ、上告審に、最後の、一縷の望みを託す佐藤氏に対して、今、彼は、どのように思っているのであろうか。

佐藤氏が著書『粉飾 特捜に狙われた元銀行員の告白』に込めた心からの叫びを、少しでも多くの方々に受け止めてもらいたい。そして、それが、さらに大きな支援の動きにつながることを祈りたい。

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「刑事裁判の絶対権力者」による「ざまあ見ろ」判決の傲慢

3月13日、石川知裕衆議院議員など小沢一郎氏の秘書3人に対する政治資金規正法違反事件について、東京高裁(飯田喜信裁判長)は、弁護人の控訴を棄却し、一審の執行猶予付懲役刑の有罪判決を維持する判決を言い渡した。

刑事事件の控訴審というのは、一体何のためにあるのだろうか。

刑事事件の裁判で誤った判断が行われることが、被告人に対する重大な人権侵害につながることに鑑み、一審判決の事実認定、法律適用等についての誤りがないかどうかを、必要に応じて新たな証拠も取り調べた上、慎重に審査するというのが、控訴審の最大の目的のはずだ(現行刑訴法は、被告人に不利な方向で誤判を是正することも認めてはいるが)。

陸山会事件では、小沢氏の秘書3人が政治資金収支報告書の虚偽記入で逮捕・起訴された事件(以下、「秘書事件」)と虚偽記入について秘書3人との共謀の刑事責任が問われ、検察では不起訴となったものの検察審査会の起訴議決によって起訴された小沢氏本人の事件(以下、「小沢氏事件」)の二つの刑事裁判が行われたが、この中で、東京地検特捜部の捜査において、不当な威迫、利益誘導等による取調べを行ったり、虚偽の捜査報告書によって検察審査会の判断を誤らせようとするなどの重大な問題があったことが、小沢氏を無罪とした一審の東京地裁判決(大善文夫裁判長)で指摘されただけではなく、最終的には秘書3人を有罪とした一審の東京地裁の公判の過程でも指摘された(検察官調書の証拠却下決定)。

そして、昨年11月12日、小沢一郎氏に対する政治資金規正法違反事件の控訴審判決(小川正持裁判長)では、一審の無罪判決が維持されただけでなく、一審判決は認めていた小沢氏の秘書3名の虚偽記入の犯意や、4億円の銀行借入れ、定期預金担保が隠蔽の意図によるものであったことも否定する判断が示され、この事件の捜査で検察が前提にした事件の構図そのものが否定された。秘書3人を有罪とし、虚偽記入の犯意だけではなく、4億円の隠蔽の意図まで認めた東京地裁判決(登石郁朗裁判長)とは大きく異なった判断であり、上記小沢氏無罪判決の直後に開始された、秘書3人に対する控訴審では、これらの地裁、高裁の審理経過、判決を踏まえて、秘書3人に対して、慎重な見直し判断が行われるであろうと誰しも思ったはずだ。

しかし、その後、開かれた秘書3名の控訴審第一回公判で、裁判所は、弁護側の証拠請求を、情状関係を除き全て却下し、事実関係に関する審理は一切行わず結審した。控訴審裁判所が、一審の事実認定を見直す気が全くないことは明らかになった。そういう意味では、今回の控訴審判決の結論は予想通りではあった。

しかし、驚いたのは判決文の内容だった。一審判決が「論理則、経験則に違反しない」と念仏のように繰り返しているだけで、何の根拠も示しておらず、小沢氏控訴審無罪判決での認定や指摘は、殆ど無視しているに等しい。

このようなデタラメな判決がなぜ出されたのか、その背景には、刑事事件の事実認定、法令適用の最終判断を行う控訴審の裁判長が絶対的権力を持つ、刑事司法の歪んだ構図がある。裁判長の意向一つで、控訴審に持ち込まれた刑事事件の判断は如何様にもなるという専制君主の裁きのような異常な世界で、控訴審の裁判長が、極力排除しなければならないはずの「個人的な感情」に支配されて判断を行った場合、控訴審判決は単なる「意趣返し」の手段になってしまう。今回の事件は、そのような恐ろしい日本の刑事裁判の現実を示すものと言える。

陸山会事件の判決の経過と東電OL事件の屈辱的結末

秘書事件の一審判決については、本ブログで、「東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図」と題して、一審判決が事件の実体を完全に見誤ったものであること、検察が4億円の虚偽記入の動機に関して、水谷建設からの裏金1億円を立証するという本来関連性のない事実の立証を認めてしまったために、土地購入代金の原資が「ゼネコンからの裏金であることの隠蔽」が動機であるような無理な事実認定をせざるを得なかったと考えられることを指摘した。そして、その構図は、再審で無罪となった東電OL事件において、一審無罪判決直後に、控訴審の審理を行う東京高裁の裁判部が、無罪判決を受け無罪の推定が一層強く働くべき被告人に対して「罪を犯したと疑うに足る十分な理由がある」と判断して、勾留を認めた段階で、事実上、控訴審の逆転有罪判決の結論が決まってしまったのと共通していることを指摘した。

今回、秘書事件の控訴審判決を出した飯田喜信裁判長は、東電OL事件の逆転有罪判決を出した裁判部の裁判官の一人であり、しかも、主任裁判官として勾留決定においても判決においても中心的な役割を果たしたとされている。裁判長だった高木俊夫氏は既に死亡しており、再審開始、再審無罪判決が確定し、ゴビンダ氏の冤罪が明らかになった今、「一審無罪になった被告人を勾留し控訴審の逆転有罪判決を出して無実のゴビンダ氏を15年にわたって服役させた冤罪裁判官」としての汚名を一身に背負うことになった(裁判所での審理を含めて、この事件の冤罪原因の究明を求める動きもある。)。

飯田裁判長にこのような屈辱を与えることになった東電OL事件の再審開始決定、再審無罪判決を出したのが、同じ東京高裁の小川正持裁判長の裁判部(以下、「小川裁判部」)であった。しかも、この再審開始決定は、「新証拠の有無」だけではなく確定判決の心証形成にまで踏み込んで事実認定の誤りを指摘したもので、従来の再審に関する判断と比較すると異例の積極的な再審判断との受け止め方もあった(その後冤罪の決定的証拠が発見されたことで、結果的には再審開始決定の事実認定が正しかったことが証明された。)。飯田裁判長にとって「誤判」「冤罪」という結果に終わった東電OL事件は、まさに屈辱以外の何物でもなく、終わり間近の裁判官人生の最大の汚点となった。この事件がそういう結末に終わったのは、同じ東京高裁の小川裁判長の裁判部が、再審開始決定で異例とも思える踏み込んだ判断を下し、冤罪であることを積極的に明らかにしたからにほかならない。

そして、その小川裁判部が、東電OL事件の再審無罪判決の僅か5日後に出したのが、小沢氏の控訴審無罪判決であった。

しかも、陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応でも詳述したように、小沢氏の控訴審無罪判決は、無罪の結論は一審判決と同じでも、その結論に至る過程が大きく異なる。一審では、石川氏ら秘書の収支報告書の虚偽記入については犯意も含めて認めた上で、「小沢氏に収支報告書が虚偽であることの認識がなかった可能性がある」との理由で小沢氏を無罪にしたものだったが、控訴審無罪判決では、収支報告書虚偽記入について秘書と小沢氏の「共謀」を否定しただけではなく、更に踏み込んで、秘書の虚偽記入の犯意自体も否定した。そして、検察と指定弁護士が事件の核心としていた4億円をめぐる偽装・隠蔽の意図がなかったとして、陸山会事件の構図そのものを否定した。

東電OL事件のことだけでも、飯田裁判長としては、小川裁判部に対して心中穏やかではなかったであろう。それに加え、小川裁判部は、秘書事件に関しても、小沢氏の犯意を否定するだけでなく、敢えて、秘書の犯意まで否定する判示を示すことで、秘書事件を担当する飯田裁判長に対して、「適切に証拠により事実認定を行えば、秘書についても無罪しかあり得ない」という強烈なメッセージを送ってきた。

飯田裁判長は、小川裁判部に対しては、内心「恨み骨髄」だったのではないか。

飯田裁判長にとって、小川裁判部からのメッセージを受け入れて、秘書事件について一審の有罪判決を覆して無罪の判断をするのは、何より耐え難いことだったはずだ。小川裁判部とは全く反対の結論、つまり、一審判決秘書の犯意や隠蔽の意図を認める結論を出そうとするのも、小川裁判部にここまでコケにされた飯田裁判長の「心情」としては、わからないでもない。

問題は、その判決の中身だ。小川裁判部とは反対の結論を出すことでリベンジしたいというのなら、自ら、或いは合議体の他の裁判官の力も活用して、小沢氏無罪判決の秘書に関する判示について問題点を徹底的に洗い出し、それを否定する根拠を示す方向で最大限の努力を行い、その方向で、説得力のある判決文を書くというのが、刑事裁判官の最上位の東京高裁部総括にまで上り詰めた「刑事裁判のプロとしての矜持」というものであろう。

しかし、実際の判決文の内容は、それとは凡そかけ離れたものだ。

前記ブログ東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図でも詳しく述べたように、健全な常識に基づく事実認定とは凡そかけ離れた異常な「推認」判決としか言いようのない秘書事件一審判決を丸ごと容認したものであり、秘書事件の控訴審開始の直前に出された小川裁判部の小沢氏控訴審無罪判決の緻密な事実認定と比較すれば、その中身のひどさ、杜撰さは素人目にも明らかだ。

そして、それ以上に異様なことは、飯田裁判部による秘書事件控訴審判決の中に、小川裁判部による小沢氏無罪判決の判決文を意識し、敵意をむき出しにしたと思える記載があることだ。

小沢氏事件控訴審判決

まず、小川裁判部の小沢氏控訴審判決の中の、小沢氏の秘書の石川知裕氏らの虚偽記入の故意を否定した部分を見てみよう。

《原判決は,石川は,Xとの交渉の結果,決済全体を遅らせることはできず,所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成し,所有権の移転時期を遅らせるには至らなかったとする。そして,原判決は,所有権移転の先送りができたと認識していた旨の石川の原審公判供述は信用できないとする。

しかし,関係証拠に照らすと,残代金全額の支払がされ,物件の引渡しがされて,本件土地の所有権移転登記手続に必要な書類の引渡しがされるなどしたことから,平成16年10月29日に本件土地の所有権が移転したとした原判断を不合理とすることはできないが,石川の上記原審公判供述は信用できないとする原判断は,経験則等に照らし,不合理というほかはない。

(ア)石川は,「本件合意書の1条において,本件土地の所有権を平成17年1月7日に移転することが取り決められたと考えていた。また,当時,所有権の移転と登記名義の移転との違いをよく理解していなかったことや司法書士からの説明で所有権移転の先送りができたと認識していた。」旨を原審公判で供述した。

これに対し,原判決は,本件売買契約書の記載を見れば,所有権の移転と登記名義の移転が異なるものとして扱われていることは専門家でなくても容易に理解できる,高額の不動産購入に当たり本件売買契約書の内容を慎重に検討したはずであり,所有権の移転と登記名義の移転とが区別されるものであることを理解していたはずであるから,本件合意書により本件土地所有権の移転時期の変更などは合意されていないことも認識していたものと認められる,司法書士は,その立場等に照らせば,陸山会における経理処理や収支報告書の計上方法について,石川に助言をするはずがない, として,石川の前記公判供述は信用できない旨認定判示する。

(中略)

これらからすると所有権の移転時期については本件合意書によって変更されておらず,本件売買契約書に従って処理されることになると理解することも可能といえる。

しかし,本件合意書作成の経緯等を見ると,関係証拠によると,次の事実が認められる。

すなわち,石川は,本件売買契約後に先輩秘書からの示唆を受けるなどして本件土地公表の先送りの方針を決め,当初は本件売買契約の決済全体を来年に延ばすようにYに求めた。しかし,売主の意向が残代金は10月29日に支払ってほしいというものであったことから, Yの担当者が,司法書士から聞いていた仮登記を利用して,本登記を延ばすことを提案し,陸山会側がこれを了承し,本件合意書の作成に至った。その際,所有権の移転時期についての具体的なやり取りがされた様子はない。(下線は筆者)そして,前記のとおり,本件合意書の第1条には,残代金の支払時期及び物件の引渡し時期は明記されているが,所有権の移転時期については何ら明記されていない。

(イ)そこで,石川の認識についてみると,仮に原判決のいうように石川が所有権の移転と登記名義の移転とを区別して理解していたとすると,本件合意書の作成に当たり,所有権の移転時期はどうなるのかと聞いたり,本登記の先送りだけでなく所有権移転時期の先送りも本件合意書に明記してほしいなどという要望をすることになるのではないかと思われる。石川がそのような行為に出ていないということは,石川としては,所有権の移転と登記名義の移転とを区別して認識しておらず,これらを一体のものとして認識していたためではないかとみるのがむしろ自然ともいえる。

また,本件売買契約書及び本件合意書の内容について,原判決は,石川が慎重に検討したはずであり,専門家でなくても容易に理解できるとする。しかし,石川は, 10月29日の決済直前にいわば駆け込みで先送りを実現しようとするなど,慌ただしい状況にあったといえるのであるから,時間をかけて慎重な検討をするような心理的余裕がなかったのではないかとみる余地がある。しかも,陸山会側からの要望が契機であるとはいえ,本件合意書自体は,司法書士という専門家も関与した形でYから提案されたものである。法律の専門家でもない石川がそれを十分な検討を経ることなく信頼したということはあり得ることといえる。したがって,原判決のいうように石川が慎重に検討して理解したとはいい難いというべきである。

そうすると,石川が,本件合意書により,自らの要望どおりに所有権の取得も先送りできたものと思い込んだということもあり得ることといえる。

他方,本件合意書作成の経緯等からすると,売主であるXとしても,陸山会側の当初の要望である決済全体の先送りに応じることはできないが, 10月29日に残代金の支払が受けられ,物件の引渡しができれば足りると考えていたものとみられ,登記と所有権取得とを一体のものとして先送りするという陸山会側の明示的な要望があれば,これに反対するような状況は何らうかがえない。これは,前記のような石川の認識に矛盾しない。

以上からすると,石川としては,原判決がいうような所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成したとの認識であつたとは認め難く,登記と一緒に本件土地取得も先送りされたと理解したとみる余地があるといえる。したがって,これまで検討したような考察を欠いたまま石川の前記公判供述は信用できないとした原判決の判断は,経験則等に照らし不合理というほかはない。

以上のとおり,石川は,本件土地の取得を平成17年に先送りできたと思い込んでいた可能性があり,石川から本件土地購入等に関する引継ぎを受けた池田についても,石川と同様の認識であった可能性を否定できない。そうすると,本件土地の取得について,石川の平成1 6 年分の収支報告書不記載(本件公訴事実の第1の3 ) の故意,池田の平成1 7年分の収支報告書虚偽記入(本件公訴事実の第2の2 ) の故意はいずれも阻却されることになるので,これらの故意を認めた原判決の判断は,論理則,経験則等に照らし不合理であって,是認することができない。》

この中で重要なのは下線部分の「石川氏が登記と一緒に本件土地取得も先送りされたと理解した」と認める根拠についての判示である。不動産業者Yの担当者の公判供述を踏まえて認定されたものである。

そして、このような事実認定を踏まえ、小沢氏から提供された4億円の処理に関する石川氏の認識について、

《石川は,平成16年10月28日から29日にかけて,預金担保貸付の手続や送金手続を短期間で実行するという慌ただしい状況にあったこと,返済計画等の事後処理は池田に任せていることなどに鑑みると,本件預金担保貸付を利用した本件4億円の簿外処理は,ある意味で,その場しのぎの処理として慎重に検討することなく実行されたとみられるのであり,石川としては,前記のような本件4億円の簿外処理のスキームについてそれなりの形がつけられたなどと安易に認識していた可能性がある。また,前記のとおり,石川としては,本登記と共に本件土地の取得の先送りが実現できたと思い込んだ可能性があり,本件土地取得費等支出の計上についても,本登記と合わせて計上することで一応の説明がつかなくはないと考えていた可能性があることは否定できない。》

と判示して、石川氏の処理が、「その場しのぎの処理として慎重に検討することなく実行された」ものであると認定した。

また、「石川らが本件4億円の簿外処理(りそな4億円の借入れ)を実行したのは,被告人が4億円もの巨額の個人資産を陸山会に提供し陸山会が本件土地を購入したことについて想定される追及的な取材と批判的な報道を避けるため」だとする指定弁護士(検察官役)の主張に対しても、

《前記のとおり,石川は,本件土地公表の先送りの方針について,短期間で慌ただしく実現しようとしており,ある意味で場当たり的な計画であったといえ,所論がいうようなところまで石川が考えていたとは疑わしいといえる。本件土地公表の先送りと本件4億円の簿外処理を行っただけでは,つじつまの合わない状況は平成1 7 年分に先送りされるだけで根本的には解消されないし,そうした状況が生ずるのを避けるより有効な別の方法が考え得るところである(例えば,本件4億円を原資とする定期預金の名義を陸山会ではなく被告人とし,これを担保に陸山会がりそな銀行衆議院支店から必要な金額を借りたり,本件売買代金全額を陸山会等が保有する現金で支払い,それによる陸山会等の日常的な資金繰りの不足分をその都度必要な限度で被告人が負担したり,端的に本件売買代金のうち必要な限度でその一部を被告人の個人口座からの借入金で賄うなどの方法)。これらからすると,本件土地公表の先送りと本件4億円の簿外処理とが専ら連動しているとはいえない。そうすると,原判決の判断を不合理とすることはできない。》

と判示して、石川氏の処理が意図的な隠蔽であることを否定した。

小川裁判部の小沢氏控訴審無罪判決での石川氏の虚偽記入の故意、隠蔽の意図を否定する論旨は極めて明快である。

秘書事件控訴審判決

これに対して、秘書事件の控訴審判決(飯田喜信裁判長)は、石川氏らの故意に関して、以下のように述べている。

《原判決は,本件4億円の借入れ等に関する「不記載」及び「虚偽記入」について,被告人  石川の故意及び動機が認められるとしているところ,その理由付けを要約すると,次のようになる。

ア 被告人石川は,小沢から受け取った本件4億円を分散入金した上,後日りそな衆院口座に 集約している。このような迂遠な分散迂回入金は,本件4億円を目立たないようにするための工作とみるのが自然かつ合理的である。

イ 本件4億円は,本件土地購入の原資として小沢から借り入れたもので,実際に本件土地の取得費用等に充てられている。それにもかかわらず,被告人石川は,本件土地の残代金等を支払った後に,小沢関連5団体から集めた金員を原資とする本件定期預金を担保にした本件預担融資を組み,小沢を経由させた上で陸山会が転貸金4億円を借り受けている。本件預担融資を巡るこれら一連の経過をみると,被告人石川において,平成16年分収支報告書上,本件4億円の存在を隠そうとしていたことが強くうかがわれる。

被告人石川は,本件土地の購入を平成16年分収支報告書に記載せず,平成17年分収支報告書に記載しようと考え,被告人大久保を介して売主側と交渉し,所有権移転登記を平成17年1月7日に延期している。このような画策行為も,前記イと同様に,被告人石川が本件4億円の存在を隠そうとしていたことをうかがわせるものといえる。

エ 以上を総合すれば,被告人石川は,本件4億円の収入や,これを原資とした本件土地取得費用等の支出が平成16年分収支報告書に載ることを回避しようとする強い意思をもって,それに向けた種々の隠ぺい工作を行ったものと推認することができる。

被告人石川が本件4億円の収入等を平成16年分収支報告書に載せないように,種々の隠ぺい工作を行っていたとする原判決の推認の過程は,自然かつ合理的であって,種々論難する所論を踏まえて検討しても,被告人石川の故意及び動機を認定した原判決の判断に,論理則及び経験則に違反するところはない。》

これを、前に引用した小川裁判部の小沢氏事件の控訴審無罪判決の判示と比較すれば、秘書事件判決の石川氏の犯意と隠蔽の意図についての判示が全く理由になっていないことは明らかである。

例えば、小沢氏事件の控訴審判決では、不動産の所有権移転の時期についての石川氏の認識に関して、不動産業者Yの側からの提案によって、所有権移転の延期の合意が行われたと認定しているが(下線部分)、秘書事件控訴審判決では、「石川氏が売主側と交渉して所有権移転登記を延期した」とだけ認定している(下線部分)。

判決後の記者会見で、石川氏の弁護人の安田好弘弁護士が明らかにしたところによると、秘書事件控訴審でも、小沢氏の控訴審判決の記録の取り寄せが行われ、その記録中に含まれる不動産業者Yの証人尋問調書を弁護人が証拠請求したのに、請求却下されたとのことである。

所有権移転登記が延期された経緯や、それについての石川氏の認識等について小沢氏控訴審判決では様々な証拠に基づいて緻密な事実認定をしているのに、秘書控訴審では、その点について、小沢氏控訴審判決が根拠とした証拠を検討しようとすらしなかったのだ。

また、小沢氏事件では指定弁護士(検察官役)が主張しなかった水谷建設からの5000万円の授受の問題等については、

《原判決は,検察官が本件の動機ないし背景事情として主張する,① 本件4億円がその原資を公表できないものか否か,② 水谷建設からの5000万円の授受の存否の2点についても考察を加えて,① については,本件4億円は,その原資を明快に説明することが困難なものとの限りで認定することは可能であると,② については,水谷建設の社長が平成16年10月15日被告人石川に現金5000万円を手渡した事実が認められ,それが本件4億円隠ぺいの動機形成の一因になっていると説示しているが,そこまで至らずとも,被告人石川の故意及び動機は,前記隠ぺい工作自体から推認するに十分である。(下線は筆者)》

と述べた上、

《次に,② については,原判決は,前記社長の原審証言が信用できることについて詳細な説示をしているところ,所論を踏まえて検討しても,関係証拠に照らせば,その説示に不合理又は不相当な,点は何もないから,原判決の認定に誤りはない。》

と述べて、原判決の認定を丸ごと容認し、

《原判決は,それを前提に,平成16年10月当時,胆沢ダム建設工事の利権を巡って小沢が金員を受領した疑いがあるとの報道がなされ,同月19日にその記事が被告人石川にファックス送信されていることなどを併せみれば,被告人石川が,同記事の受領を契機として,よりー層本件4億円を隠ぺいする必要性を感じて,そのための工作に及んだとみるのが合理的である旨説示しているところ,被告人石川において,被告人大久保に前記2ウの交渉を依頼したのが平成16年10月24日か同月25日頃であり,また, りそな銀行衆議院支店長に預担融資を申し込んだのが同月28日であって,いずれも,前記送信から数日後に行われていることに加えて,小沢の選挙地盤で行われる工事の受注に絡みゼネコンから多額の金員を受領したという事柄の性質を併せ考慮すれば,被告人石川が,同記事の受領を契機として本件4億円隠ぺいの必要性をよりー層感じ,それが,上記交渉や本件預担融資等の各工作を押し進める方向に影響を与えたことは否定できないというべきである。②の点も,被告人石川の本件4億円隠ぺいの動機形成の一因になっており,ひいては,被告人石川の故意の存在を裏付けるものということができる。原判決は,同旨の判断を示しており,その判断に誤りはない。》

と判示して、裏金受領の事実が4億円の隠蔽の動機であると認定している。

「敵意丸出し」の判示

この中の下線部分の「そこまで至らずとも、被告人石川の故意及び動機は,前記隠ぺい工作自体から推認するに十分である。」の判示には、飯田裁判長の個人的感情が相当程度影響しているように思える。

その後に、その水谷建設からの5000万円の事実を、原判決と殆ど同じ理由で認め、しかも、それが、石川氏の隠蔽の動機形成の一因になったと認定しているのだから、「小沢氏事件では主張立証されていない水谷建設からの5000万円のことを除外しても、石川氏の犯意や隠蔽の意図は十分に認定できる」などと言う必要はないはずだ。わざわざ、そのようなことを言うのは、水谷建設からの5000万円の受領の主張・立証が行われなかった小沢氏事件の公判で、石川氏の犯意や隠蔽の意図を否定した小川裁判部に「喧嘩を売っている」としか思えない。

しかし、わざわざ「喧嘩を売っている」わりには、納得できるような根拠は何一つ示していない。その理由とされているのは、前記ブログでも詳述したように明らかに不合理な一審判決の「推認」を丸ごと容認しているだけだ。

しかも、石川氏の弁護人の安田弁護士が記者会見で明らかにしたところでは、秘書事件の一審で、全日空ホテルで5000万円を石川氏に渡したことを認める証言をした水谷建設関係者が、その証言が検察官の誘導によるもので、実際には渡した日時も相手も記憶にないことを認める陳述書等、5000万円の授受がなかったことを明らかにする証拠を請求したのに、飯田裁判長は、その証拠請求を却下したとのことだ。飯田裁判長には、事実に向き合う気も、小川裁判部の認定や判断と異なる判断を示すことについて納得できる根拠を示す気も全くないと言わざるを得ない。

要するに、「小川裁判部がどういう認定をしようとクソくらえだ。私の裁判部では、どんな判断をしようと私の勝手だ。ざまあ見ろ」と言っているようなものだ。

控訴審裁判長が「絶対権力者」となる日本の刑事裁判の歪み

日本の刑事裁判は、三審制とは言え、上告理由は、憲法違反、判例違反等に限られており、事実認定、法律適用については、事実上控訴審が最終判断であり、その当否が上告審で見直されることは殆どない。こうした日本の刑事裁判の現実の下では、控訴審の裁判長を務める高裁部総括判事というのは、まさに「刑事司法の絶対権力者」なのだ。

しかし、人の命や人生そのものを決定的に左右しかねない刑事裁判で、このような野蛮な判決が行われることは到底許容できない。

たしかに、刑事裁判では、共犯者間で、証拠が違えば同じ犯罪事実についても結論が異なることはあり得る。例えば、甲は、事実を全面的に認めて検察官請求の証拠をすべて同意し、同じ事実で起訴された共犯の乙は全面否認して証拠をすべて不同意にした、ということであれば、甲の裁判では、検察官請求の証拠だけで事実認定をせざるを得ないのだから、乙の公判での証人尋問の結果如何で、甲、乙の裁判の結果が異なるのは致し方ない。

しかし、今回の飯田裁判部による控訴審判決の問題はそれとは全く異なる。

同じ東京高裁の小川裁判部の小沢氏事件の控訴審で、秘書の犯意、隠蔽の意図等についても認定が行われ、判断が示された。そして、その根拠とされた証拠について、記録の取り寄せも行い、弁護人が証拠請求しているのであるから、その証拠を採用し、必要なら証人尋問も行うことも可能だった。そのような審理を尽くした上で、小川裁判部の認定がおかしいというのであれば、堂々とそういう判断を行い、最終的には最高裁の判断に委ねるべきだ。

ところが、この飯田裁判部の判決文には、そのような姿勢は全く見られない。東電OL事件での冤罪裁判官の汚名にもかかわらず、「刑事司法の絶対権力者」の地位にある飯田裁判長の傲慢さを象徴した判決と見るべきであろう。

石川氏は、控訴審判決を不服として即日上告した。憲法違反、判例違反等の上告理由はなくても、高裁の二つの判決で同一の事実についての認定・評価が真っ二つに割れているのであるから、「原判決を破棄しなければ著しく正義に反する」事由が問題になることは明らかだ。最高裁は、事実審理を行った上、小川裁判部の判断と飯田裁判部の判断のいずれが正しいのか、裁判所としての最終判断を示すべきである。

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PC遠隔操作事件:反省なき「有罪視報道」の構図

「PC遠隔操作事件で警察が容疑者を逮捕」というニュース速報を見て、「完璧なサイバー犯罪者の仕業のように思えたが、とうとう警察の手に落ちたか。写真をメールで送りつけたり、猫に首輪を付けたりして現実空間に表れたことで墓穴を掘った。少し調子に乗り過ぎたということか。」というのが率直な感想だった。

「誤認逮捕で煮え湯を飲まされた警察が、まさに威信をかけて行った捜査の末に、マスコミに顔までさらさせて逮捕しているわけだから、余程の自信があってのことだろう。」と思ったし、逮捕直後の報道の内容からは、容疑者が犯人であることはほぼ間違いがないように思えた。

例えば、容疑者逮捕直後の2月12日の毎日新聞のネット記事。

《首輪に記憶媒体が取り付けられた神奈川県・江の島の猫をめぐり、片山容疑者とみられる男が猫に首輪を取り付けていたのは1月3日だった。5日に報道関係者らへ送りつけられたメールには、4日付の神奈川新聞と猫の首輪の写真が添付されていた。4日以降に取り付けたと見せかけるため、わざわざ、4日付の新聞を入手して偽装していたとみられる。合同捜査本部が防犯カメラを解析した結果、片山容疑者が記憶媒体の付いた首輪を猫にはめたのは3日午後3時ごろだった。

また、片山容疑者はこの猫が映った写真を保存していた携帯電話を先月、売却していたことも分かった。合同捜査本部はこの携帯電話を入手。写真は既に削除されていたが、データを復元したところ、問題の猫とみられる写真が見つかったという。この写真は5日に報道関係者らに送信されてきた猫の写真と同じ物だった。》

この記事によれば、容疑者が猫に記憶媒体を付けた首輪を取り付けているところが、防犯カメラの映像に残されており、しかも、容疑者が売却した携帯電には犯人が報道関係者に送信したのと同じ写真のデータがあり、それが復元できたように思える。そうであれば、容疑者の犯人性にはほぼ問題はないことになる。

容疑者逮捕の日に、私宛の「遠隔操作事件についてもご発言を!」というツイートに対して、「報道を見る限りでは、さすがに今度は間違いなく犯人という感じがしますが、万が一、真犯人が別にいて、いかにも犯人らしい人間が逮捕されるように仕向けたなどということが絶対にないと断言はできないので、今の段階ではコメントは差し控えます。」というツイートにとどめた。

私としては、まさか警察がまた誤認逮捕を繰り返すことはないだろうと思ったし、それを疑う根拠もなかったが、それでも、逮捕された容疑者は事実を全面否認していることに関して、「本当に大丈夫なのだろうか」という懸念は捨てきれなかった。それを、「万が一」という言葉に込めたものだった。

4人もの人が、身に覚えのない犯罪で誤認逮捕され、重大な人権侵害を受けた。その一方で、誤認逮捕した人から虚偽自白までとっていた警察・検察は厳しい批判を受け、面目は丸つぶれとなった。刑事司法機関を手玉にとり、重大な人権侵害を引き起こした「前代未聞の大犯罪者」の逮捕となれば、報道が過熱するのは致し方ないようにも思える。しかし、それにしても、逮捕後のバラエティ番組等で繰り返し映し出される容疑者の映像は異常だった。各社のカメラが、逮捕前から容疑者の周辺に殺到し、人気芸能人さながらに密着取材していたようだ。それら取材・報道は、明らかに「有罪視」「有罪決めつけ」そのものだった。少なくとも、読者・視聴者の多くは、そのような印象を持ったはずだ。

それから1週間が経ったが、その後の「報道を見る限り」、「万が一」の懸念は払拭されるどころか、逆に、高まっているように思える。

逮捕の2日後には、容疑者の弁護人となった佐藤博史弁護士が記者会見を行い、容疑者が「真犯人は別にいる。自宅や会社から遠隔操作ウイルスの証拠が出るはずがない。」と述べていることを明らかにした。

容疑者逮捕の最大の決め手となったのは、容疑者が江の島で、犯行に使われたウイルスのソースコードを含むメモリーカードを付けた首輪をぶら下げた猫と接触している映像が防犯カメラに残っていたことのようだ。しかし、首輪を付けた猫と接触しただけではなく、猫に首輪を付けたのが容疑者だと言えなければ、犯人性を認定するに足る証拠にはならない。

佐藤弁護士の会見を踏まえて、改めて、前記の毎日新聞のネット記事を見ると、「防犯カメラを解析した結果、片山容疑者が記憶媒体の付いた首輪を猫にはめたのは3日午後3時ごろだった」と言っているだけで、容疑者が猫に首輪をはめた映像が防犯カメラに残っていたとは書いていない。また、携帯電話に残された写真のデータについても、「この写真は・・・『同じ物』だった」という意味不明の表現が使われている。果たして、容疑者の犯人性の根拠となる客観的証拠があるのだろうか。新聞記事は、それを承知の上で、あえて、曖昧な表現で、読者に容疑者の犯人性を印象づけようとしたようにも思える。

警察に誤認逮捕をさせるという犯行態様からも、「警察・検察への恨み」が犯行動機になった可能性が高く、犯人を名乗るメールでもそのことは自認している。容疑者には、ネットへの殺害予告の書き込みの強要未遂事件で実刑判決を受けた前科があるため、そのことが、動機面で犯行を裏付けているようにも思える。

しかし、弁護人の接見で、容疑者は、「(過去の事件は)悪いことをしたと思っている。警察に恨みはない。」と説明しているという。過去の事件で警察に逮捕された際には、逮捕直後から素直に事実を認めていて、警察で自白を強要された事実もないということであれば、「警察・検察に恨みはない。」という容疑者の話も真実味を帯びてくる。単に同種前科があるというだけではなく、事件を起こしてから処罰されるまでの状況を詳しく調べてみなければ、前科から動機が裏付けられるとは限らない。

この他にも、容疑者に関して様々な事実が報じられているが、「犯人であることと整合する事実」、或いは「矛盾しない事実」ではあっても、犯人性を認定する決め手になるものではない。

逆に、容疑者の犯人性の立証の妨げになりかねない事実もある。

犯人が、1月5日に、マスコミ等に送りつけたメールに添付されていた写真に写っていた1月4日の神奈川新聞は、都内江東区在住の片山容疑者が入手可能だったのか、という点である。

この点について、《神奈川新聞は東京都内でも購入可能で、警視庁などの合同捜査本部は、都内で購入して写真を撮り、メールに添付したとみて調べている。》としている記事があるが(2月16日付時事)、神奈川新聞が都内で購入可能だと言っても、販売箇所が町田市内の駅の売店と中央区銀座の神奈川新聞東京支社だけに限られているようだ。「東京都内で購入可能」で片づけられる問題ではなく、1月4日中にこの2箇所のいずれかに容疑者自身が移動して購入した事実、或いは、他人から入手した事実が裏付けられないと、逆に、犯人性を否定する根拠になりかねない。

上記時事記事では「東京都内でも購入可能」としか書いておらず、容疑者の購入の可能性や裏付けについては全く触れられていない。何の問題意識もなく警察リークを垂れ流したのではなかろうか。

注目されるのは、アメリカのFBIの協力によって、遠隔操作に用いられたウイルスが、片山容疑者の関係先で作成されたことが裏付けられたと報じられていることである。

2月16日から、新聞、テレビなどで、「遠隔操作された名古屋市の会社のパソコンはインターネット掲示板を経由して、アメリカ国内のサーバーに保管されたウイルスに感染していた。警視庁から協力要請を受けたFBI=アメリカ連邦捜査局がサーバーの管理会社を捜索し、サーバーを差し押えたところ、遠隔操作ウイルスが見つかった。そのウイルスを解析したところ、容疑者関係先で作られたことを示す情報が含まれていたことが分かり、FBIから情報提供があった」と一斉に報じられている。

この報道は、犯行に使われたウイルスが「容疑者の関係先で作られた」ことを示す証拠が得られたことを報じようとしているのかもしれない。そうであれば、容疑者の犯人性に関する決定的な証拠ということになる。

しかし、もし、そのような決定的証拠が、外国の捜査機関の捜査協力によって得られたのだとしたら、情報の取扱いは慎重の上にも慎重に行われるのが当然であろう。取調べで被疑者に提示して自白に追い込む材料に使われるか、公判まで秘匿しておくべきものであり、それをマスコミが先行して報道することには強い違和感を覚えざるを得ない。このウイルス解析結果についての報道を額面どおりに受け取ることはできないように思える。

「記憶媒体を付けた首輪が猫に取り付けられたのと同時期に、わざわざ東京江東区から江の島まで出かけ、どこにでもいるような野良猫を抱いて写真まで撮っていたのが単なる偶然とは考えられない」というのは、容疑者を犯人と疑う有力な根拠のように思える。しかし、この「江の島の野良猫」は猫マニアの間では有名な猫だったという話もある。そうだとすると、猫マニアの容疑者が江の島に行ってその猫と写真をとること自体は必ずしも不自然な行動とは言えない。

容疑者が、問題のウイルスを作成するためのコンピューター言語を理解していて、ウイルス作成が可能だったことが立証できれば犯人性の有力な根拠となる。しかし、佐藤弁護士が明らかにしているところでは、現時点で、容疑者は、当該コンピューター言語は使えないと供述しているようだ。この点について容疑者の弁解を覆す立証を行うことは容易ではない(一方で、「当該言語が使えないこと」を弁護人側で立証することも困難であり、この点は、いずれの方向にも決定的な事実とはなり難い)。

今後の捜査の最大のポイントは、容疑者の自宅や職場から押収されたパソコンの分析結果だ。そこから、容疑者がウイルスを作成したしたことを示す何らかの痕跡が発見されれば、事件は一気に解決に向かうことになる。逆に、何も新たな証拠が得られなかった場合、起訴不起訴を決する検察官は極めて困難な判断を迫られることになる。

この種の事案に対しては、最も疑わしい容疑者の逮捕と関係箇所の捜索を同時に行い、パソコンを押収して分析結果に全てを託す、という手法に頼らざるを得ないのは、事件の性格上致し方ない面もある。そうだからこそ、逮捕した容疑者を犯人と決め付けることに関しては、慎重な対応が必要であるのに、これまでの報道で、そのような配慮が十分で行われているとは言い難い。

誤認逮捕までさせられ、犯人にコケにされてきた警察にとって、まさに威信をかけた捜査だったはずだ。それだけに、コンピューターの専門家も動員した特別チームで、徹底した密行捜査を行った上に、突然の容疑者逮捕、という展開になるべきであった。しかし、今回の事件の捜査をめぐる状況は、それとは凡そ異なっており、逮捕前からマスコミが容疑者に殺到し、逮捕直後は、有罪視報道に埋め尽くされている状況は、過去の重大事件の度に繰り返されてきた歪んだ犯罪報道の構図そのものだ。

 

裁判員制度の導入の是非をめぐって議論が行われていた時も、重大な刑事事件の容疑者が逮捕されたときに、マスコミの露骨な有罪視報道が裁判員に犯人性についての予断を与えかねないことが大きな問題点とされ、マスコミ倫理協会、新聞協会等でも様々な議論が行われた。その後も、有罪視報道が行われた末に、起訴されて無罪となった事件、再審無罪となった事件など、冤罪事件が相次ぎ、その度に、犯罪報道の在り方、捜査機関とマスコミとの関係が問題とされ、真摯な反省がなされたはずだった。

しかし、今回の事件をめぐる警察捜査の経過、マスコミの動き、報道内容を見ると、そのような過去の問題への反省は、殆ど忘れ去られていると言わざるを得ない。

この事件の捜査の展開や起訴の見通しについては予断を許さない。まずは、捜査の経過を冷静に客観的に見守るべきであろう。その上で、今回の事件の報道を全体的に検証し、今後の犯罪報道の在り方、捜査機関とマスコミの関係等について、改めて検討する必要がある。

 

 

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