映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」と「供述調書中心主義」

 欧米で導入され、組織的犯罪に関して証言を得るために重要な機能を果たしていると言われる「証人保護プログラム」を題材にした映画が上演されていると知り、久しぶりに映画館に足を運んだ。

 タイトルは「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」

 火災現場で、消火・救助活動に大活躍する若い消防士Aが、偶然立ち寄った街角の小さなグローサリー・ショップで、店主親子が、店の立退きを要求していた男達に、銃で惨殺されるのを目の当たりにする。唯一の目撃者となったAも殺されそうになるが、命からがら逃げ延び、警察官、検察官から、犯人が、過去にも同様の凶悪犯罪を繰り返しながらも、重要証人やその家族を殺害することで処罰を免れている、最も凶悪な犯罪集団のボスであることを知らされた上で、法廷で目撃証言を行うことを求められる。幼い頃に両親と死別し、家族のいないAは、証言をすることを決意する。Aは、「証人保護プログラム」によって、名前を変え、戸籍、住民登録などもすべて抹消され、幽霊のような存在になって、もともとの住居地から遠く離れた都市に移り住んで、警察の保護下に置かれる。しかし、犯罪組織の側は、警察内部者を賄賂で籠絡するなどしてAの個人情報を突き止め、Aの所在だけではなく、そこで知り合った女性警察官との関係まで突き止め、二人を殺そうとする。そして、組織のボスである犯人が直接、Aの携帯に電話し、「証言したら、将来、結婚して子供を作っても、目の前でその子供を殺してやる」と脅す。Aは、自らその犯人を殺すこと決意し、犯罪組織に立ち向かっていく…。

刑事裁判の在り方、とりわけ、供述調書の位置づけに関して、深く考えさせられる映画だった。組織を背景にした犯罪の証人が、「幽霊」のような存在になって、身を隠さなければならず、家族や親友まで危険にさらされる。アメリカ、イギリスなどでは、そういう事態が現実に発生するからこそ「証人保護プログラム」が導入されている。

 これまで、日本では、このような事態があまり起きることがなく、「証人保護プログラム」が制度化されなかったのはなぜか。その大きな要因は、日本の刑事裁判が、基本的に「調書裁判」だったことだ。供述調書による立証が基本的に否定され、法廷証言による立証に頼らざるを得ないアメリカ等の国では、その証人を威迫し、場合によっては抹殺して証言をできないようにしてしまえば、どのような犯罪を行っても、処罰を免れることができる。犯罪組織の力が強大であればあるほど、証人は危険にさらされることになる。その証人を守るための徹底した「証人保護プログラム」が必要となるのは、ある意味では必然だ。供述調書が刑事事件の立証の重要な手段として位置付けられてきた日本では、このようなことはあまり起きなかった。

 映画の中に、犯人が、身柄も拘束されず、ウイスキーを飲みながら証人出廷を予定している目撃者に電話で脅しをかけるシーンがある。日本では、このようなことは考えられない。目撃者が警察、検察に対して供述し、法廷で証言することを約束している場合、犯人は、その供述調書に基づいて逮捕され、起訴後も、「罪証隠滅の恐れがある」という理由があるので、保釈は認められない。そして、日本の場合は、証人が、公判廷の犯人の前で供述を翻した場合でも、検察官の取り調べで作成した供述調書の内容が、「特に信用できる情況で行われた」と裁判所が認めれば、刑訴法321条1項2号の書面として調書が証拠として採用され、有罪認定を行うことが可能であるし、仮に、供述者が殺害された場合には、「供述者の死亡で公判供述が不能」ということで、供述調書を同条項3号書面として証拠とすることもできる。日本でも、広域暴力団等の反社会的組織の間で、拳銃等による抗争事件が発生することはあるが、暴力団犯罪でも、証人を威迫したり、殺害したりする事例は、決して多くない。それは、証人を抹殺したり、威迫しても、供述調書による立証という手段が可能である以上、罪を免れることができないからだ。捜査機関や検察官が、犯人と証人の間に、「供述調書」という手段によって強力に介入することが可能となる、日本の刑事裁判における「調書中心主義」は、少なくとも、凶悪な組織的犯罪の抑止という面では、効果的なものだったと言えよう。

 一方で、「調書中心主義」による刑事裁判が、供述調書をとることの自己目的化、意に反する供述の強要などの不当な取調べ、供述の捏造などによる冤罪の危険を孕んでいることも否定できない。大阪地検特捜部の郵便不正事件、東京地検特捜部の陸山会事件をめぐる不祥事等は、まさに「調書中心主義」の問題点が露呈したものだ。こうした取調べや供述調書の作成をめぐる問題の発生を受けて、冤罪防止のための刑事司法の抜本改革に関して、「調書中心主義」を「法廷証言中心主義」に変えていくべきとの声や、取調べの全面可視化を求める声が高まっている。

 そこで、しばしば持ち出されるのが『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ』という刑事裁判における格言である。確かに、理念としてはその通りであり、密室での取調べで作成される供述調書によって無辜が罰せられたり、不当な身柄拘束を受ける事例が多発している以上、それを根本的に見直そうという動きが出てくるのは当然だ。しかし、一方で、法廷証言中心主義がもたらす現実の世界は、映画で描かれているように、証人ばかりでなく家族や親友までが危険にさらされ、証人は「証人保護プログラム」によって「幽霊」のように身を潜めざるを得なくなり、凶悪犯罪組織が野放しになってしまう危険があることも否定できない。「調書中心主義」そのものを否定することが、日本社会にとって正しい選択であると言えるのか、躊躇を覚えざるを得ない。

 この「証人保護プログラム」の必要性の問題は、取調べの全面可視化に関する議論にも密接に関連する。英米などでは、捜査機関が、弁護人の立ち会いなく、密室で、被疑者を取り調べること自体が認められていない。取調べはすべて録音・録画によって可視化され、その内容は、法廷での証言と同様に扱われ、検察官、弁護人、双方から証拠として使うことができる。日本で、検察などで既に実施されている取調べの可視化は、録音・録画は、調書の読み聞かせをしている場面など取調べの一部に限定するもので、弁護人の立ち会いも認められない。基本的に、調書中心の立証を維持し、それを補完するものとして、取調べの録音・録画を活用しようというものだ。これに関して、日弁連などからは、録音・録画の範囲を「一部」ではなく、「全過程」とするべきとの意見が出されている。確かに、現在、検察が導入している取調べの可視化は、都合の良いところだけを録音・録画して、都合よく有罪立証に使おうというもので、密室での不当な取調べによって供述者の意に反する供述調書が作成されることによる冤罪を防止のために効果的なものとは言えない。取調べを全面的に可視化し、録音・録画するというのは、冤罪防止という面では最も徹底したやり方ともいえる。

 しかし、取調べが全面可視化され、その録音・録画が裁判の証拠として使われることになると、アメリカ、イギリスの刑事裁判のように、供述調書による立証は基本的に否定されることになる。その方法を、あらゆる刑事事件について導入するとすれば、凶悪な組織犯罪に対しては、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」のような「証人保護プログラム」の導入も必要になる。現在日本で導入されている取調べの可視化では、録音・録画した記録媒体は、それ自体が犯罪事実を証明するための証拠としても使われている。しかし、日本の制度を手本に刑事訴訟制度を作っている隣国韓国では、録音・録画は、取調べが適切に行われ、供述者の供述が正しく調書に記載されたことを示す証拠とされるが、直接、犯罪事実の証拠とされるのではない。

 大阪地検不祥事からの信頼回復のために設置された「検察の在り方検討会議」でも、検察の取調べの可視化の在り方が中心的議題となったが、そこで、私は、取調べの「全過程」を記録化するが、「直接証拠化」せず、検証の際の材料とすること、すなわち、取調べの記録は、弁護側から取調べの状況に関して問題が指摘された際に、実際の取調べの状況を確認するためだけに用いることを提案した。しかし、会議では、「直接証拠化」の是非はほとんど争点とはならなかった。取調べに関して問題となったのは、供述調書が、検察官のストーリーの押し付け、威迫、利益誘導等の不当な取調べによって作成されたことであり、まず必要なことは、そのような不当な取調べが行われないようにすることだ。最大の問題は、不当な取調べが行われても、捜査機関側が否定すると、その事実を公判で立証することが困難だったことである。そのような不当な取調べを防止するためには、取調べの全過程を録音し、供述調書の信用性に関して取調べ状況が公判で問題とされた時に、録音記録で確認できるようにしておくことが有効だ(陸山会事件の虚偽捜査報告書作成問題において、隠し録音をしていたことで取調べの問題が判明したことからも、録音だけでも十分に有効なことは明らかだ。)。この方法であれば、「供述調書による立証」を基本的に維持しつつ、不当な取調べを抑止することが可能だ。録音・録画を直接証拠として使わなければ、「証人保護プログラム」が必要となる事態も避けられる。

 刑事裁判における立証が、供述調書中心に行われてきたことと、検察が日本の刑事司法の中核として「正義」を独占してきたこととは不可分一体の関係にある。刑事事件の真相は、公判廷ではなく、検察官の取調室で解明され、その解明された真実が供述調書化され、判決で調書どおりの事実認定が行われるというのが、日本の刑事司法の枠組みであった。それが、「供述調書至上主義」の特捜検察の独善、暴走を招き、大阪地検の郵便不正事件の不祥事では「ストーリー捜査」による冤罪、陸山会事件では、虚偽の捜査報告書で検察審査会を欺くという重大な問題が明らかになった。しかし、一方で、このような検察中心の旧来の刑事司法の枠組みの下で、公判証言に頼ることなく検察官調書によって犯罪の立証が可能だったことから、凶悪な組織犯罪で証人が危険にさらされることも防止できた。それが、日本社会の安全に貢献してきたことも確かである。

 このように検察官が刑事司法の正義を独占し、供述調書中心の立証が可能であったのは、取調べを行い供述調書を作成する検察官に対する、高度の信頼があったからである。取調べに関する問題が多発し、検察に対する信頼が根底から失われていることが、刑事裁判における供述調書の活用を否定する方向の議論の背景になっていることは否定できない。度重なる不祥事によって信頼を失墜し、特に、拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)でも詳述した陸山会事件をめぐる不祥事への対応で、当時の法務大臣をして「検察は今後50年信頼を回復できない」と言わしめるほどの大失態を犯してしまった検察には、もはや、刑事司法の中核機関として「調書中心主義」を支える資格も能力もない、とされるのも無理からぬところである。

 しかし、少なくとも、凶悪な組織犯罪に対しては、従来のような、検察を中核とする「供述調書中心主義」で対抗していくことが極めて有効な手段であることは間違いない。日本の社会を、「証人保護プログラム」が必要とされる世界にしてしまわないために、「供述調書による立証」という日本の刑事裁判の伝統的手法を維持することの意義は大きい。そのために不可欠なのが、検察に対する社会の信頼が確保されることである。これまで、凶悪組織犯罪とは基本的に無縁であった特捜部が「検察の正義」の象徴のように位置づけられ、その威信や看板を維持することを目的とした捜査によって様々な不祥事を起し、検察全体の信頼の崩壊につながってしまったことは、日本社会にとって、誠に残念なことだと言えよう。検察の信頼を回復するためには、信頼崩壊の最大の原因となった特捜部の不当捜査の実態、とりわけ、「陸山会事件捜査の暴走」と「検審騙しの策略」の内実を自ら検証し、そのような事態を招いた検察組織自体に関する問題(拙著「検察の正義」ちくま新書、「検察が危ない」ベスト新書等を参照)を明らかにすることだ。

 日本の社会を、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」の世界にしないよう、凶悪組織犯罪に対峙できる刑事司法を維持するために、「供述調書による立証」は極めて重要な手段だ。そのためには、検察が「供述調書」の適正さ、公正さを担保できる信頼できる組織であること、そのために組織の在り方を抜本改革することが不可欠だ。

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原発問題をめぐり交錯する議論の座標軸

12月4日公示、16日投票の今回の総選挙に向けて、原発問題が最大の争点になることが必至の状況の中、各党の原発に対する政策・議論が揺れ動いている。

橋下徹大阪市長が率いてきた「日本維新の会」は、当初は「脱原発」を明確に打ち出していたが、都知事を突如辞任した石原慎太郎氏の「太陽の党」と合流したことでトーンダウン、「先進国をリードする脱原発依存体制の構築・原発政策のメカニズム ・ ルールを変える=ルールの厳格化」という方向に変わった。政策実例の中に「結果的に2030年代までに原発はフェードアウトすることになる」という文言を残したことをめぐっても、石原氏との対立が表面化するなど混乱が生じている。

既成政党の中では、「2030年代の脱原発」の閣議決定をめざしていた政権与党の民主党は、明確な閣議決定を見送り、「革新的エネルギー・環境戦略を踏まえて、関係自治体や国際社会などと責任ある議論を行い、国民の理解を得つつ、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という閣議決定にとどまった。

一方、かつて長期政権で原発推進を一貫して続けてきた自民党は、「原子力の安全に関しては、『安全第一』の原則のもと、独立した規制員会による専門的判断をいかなる事情よりも優先します。原発の再稼働の可否については、順次判断し、全ての原発について3年以内の結論を目指します。」と基本的に原発維持の方針を堅持している。一方、共産党、社民党は、「原発を再稼働せず、即時廃止」の方針を掲げている。

こうした中、嘉田由紀子滋賀県知事が、10年後の原発廃止をめざす「卒原発」を政策の中心に据えた「日本未来の党」を結党し、小沢一郎氏が代表を務める「国民の生活が第一」、亀井静香・山田正彦氏らによる「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」、河村たかし名古屋市長が代表を務める「減税日本」などの政党が合流し、にわかに日本維新の会と並び「第三極」の中で注目される存在となった。

しかし、現状を見る限り、総選挙に向けての原発をめぐる議論が、十分にかみ合っているとかと言うと、決してそうとは思えない。

これまでの議論は、「再稼働を容認するか否か」、「脱原発を認めるか否か」についての二分法的な評価に終始し、また、政党の側も、選挙での勝敗への影響ばかりを意識し、原発に関する根本的な議論を敢えて避けているように思える。

原発問題に関しては、これまでは、現在福島原発事故によって殆どが停止している全国の原発の再稼働を認めるか否かに関して、個々の原発の安全性と、短期的な電力需給に関わる問題ばかりが議論されてきた。

しかし、国政選挙の政策として争われるべき原発をめぐる議論は、決してそのような表面的なものにはとどまらない。原発問題は、文化的・社会的要因、経済システム的要因、軍事外交的要因など、まさに国家や社会の問題に関わる根本的な要因が複雑に絡み合っている。原発に関する各党の政策を判断・評価するためには、原発問題に関する根本的要因と関連づけて、原発の是非に関する基本的視点と実質的な理由が論じられなければならない。そのような議論をなおざりにしたまま、再稼働の是非と「脱原発」の標榜の有無という、2つの論点のみを表面的に取り上げていることが、この問題をめぐる議論を混乱させているように思える。

福島原発事故という重大な原発事故を経験した我々日本人が、当面の原発再稼働や将来的な原発への依存の是非という、総選挙の争点としての原発問題について、賢明な選択を行っていくためには、原発に関する積極論、消極論の論拠を的確に整理し、議論を客観化していくことが必要であろう。

原発肯定否定の理由(ABC左右)

原発消極論の論拠

まず、原発への消極論、原発の再稼働に反対し、原発を廃止すべきとする方向の意見について見てみよう。何と言っても、現時点での最大の理由とされているのは、「原発の危険性」[A]の問題である。

福島原発事故という悲惨な原発災害を経験したことを受けての議論であるだけに、原発事故の危険性の観点が原発への消極論の最大の理由となるのは当然である。危険性を理由とする消極論の中で中心となってきたのは、福島原発事故を踏まえた個別の原発の危険性の指摘[A―①]である。地震によって引き起こされる重大な原発事故のリスクに関して活断層の有無などが問題とされ、一方で、原発事故に対する備えとして、福島原発事故で問題となった防潮堤の高さ、非常用電源の装備、事故対応に重要な機能を果たした「免震重要棟」の存否などが問題とされるが、このような問題がクリアされさえすれば、将来的にも原発を維持してよいということにはならない。

原発の危険性という観点から、より根本的なのは、地震国日本に原発が存在すること自体が危険だという理由[A―②]である。そのような視点からの原発に対する慎重論、反対論は、かねてから存在していた。その観点の原発消極論からみると、福島原発事故は、まさに、地震国日本における原発の本質的な危険性が現実化したものと捉えられることになる。

次に、原発の稼働・活用に関して重要な要因として指摘できるのが、原発を所有し、運営する主体の「電力会社の問題」[B]である。

原発の稼働は、電力会社の経営問題と密接に関連する問題である。原発の停止は、火力発電の燃料費を増大させ、電力会社の経営に大きな打撃を与える。電力会社側にとって原発の再稼働を求める最大の理由はその点にあるのであるが、そのことは、表面的には理由とされない。地域独占、発送電の一体的運用によって競争から守られてきた公益企業としての電力会社に対する潜在的な批判に火を付けることになりかねないからである。むしろ、電力会社が経営上の理由によって原発を稼働させ、維持しようとしていることは、逆に、そのような電力会社の利益保護のために原発を稼働させることへの抵抗感につながっている。それは、電力会社の経営問題が、原発消極論の実質的な根拠になっているともいえる[B-①]。

そして、さらに根本的な問題として、発送電を一体的に管理運営してきた電力会社のこれまでの経営姿勢が、原発の存在を前提とする電力の大量供給・大量消費の体制を構築維持することにつながってきたとの見方がある。それが、電力会社をめぐる競争構造を発送電分離の方向に抜本的に改革すれば原発依存から脱却できるとする議論[B-②]につながり、消極論と密接な関連を持つことになる。

もう一つの重要な原発消極論の論拠は、環境破壊の視点[C]である。その中心にあるのは、福島原発事故で現実化したように、原発が重大事故を起こした場合、放射性物質を拡散させ、甚大な環境汚染につながること[C-①]である。そして、より根本的な問題として、使用済み核燃料の処理が困難であることから、原発の活用を続けることは、地球史的レベルの環境破壊につながることを問題にする視点[C-②]がある。

もともと、環境破壊を問題視する視点は、原発の絶対安全の神話が定着する中で、福島原発事故以前は、原発を資本主義の下での経済成長優先の考え方の象徴とみなす反資本主義的イデオロギー[C-③]と結びつけて見られることが多く、それが、原発反対派を異端視する見方にもつながっていた。福島原発事故によって放射能汚染が現実化したことで、原発と環境保護の関係についての世の中の見方は大きく変わったが、それは、ただちに、イデオロギー的な原発反対論につながるかといえば、必ずしもそうではない。

原発積極論の論拠

一方の、原発の再稼働に賛成し、原発を廃止すべきではないとする原発への積極論の論拠について見てみよう。

まず、原発再稼働の最大の理由とされてきたのが、電力の逼迫の問題[X]である。今年の夏の大飯原発再稼働の理由とされたのも、再稼働を認めないと猛暑となった場合の電力使用のピーク時に大停電が起き、一時的にでも病院等への電力供給が停止すると、患者の命に直結するという話だった[X-①]。しかし、実際には、記録的な猛暑となった今年の夏でさえ、大飯原発が稼働しなかったとしても、電力不足による停電等は起きなかったとされている。

むしろ、電力の逼迫に関して需要なのは、中長期的な観点からの国家的なエネルギー需給の問題であろう。エネルギー資源を殆ど持たない日本の場合、万が一、国際情勢の変化によって他国から原油等のエネルギー源が調達できなくなった時には、国民生活に致命的な影響が生じることとなる。そのような事態への安全保障の観点から、最低限の原発を保有すべきという考え方[X-②]が出てくる。

次に、経済的な観点からは、原発が稼働できないことによって火力発電の燃料代が高騰し、電気料金が大幅に上昇すること[Y]が、原発の稼働や廃止を求める意見に対する反対論の重要な根拠とされている。

この電気料金に関する視点も二つに大別できる、一つは短期的かつミクロな問題であり、電気料金の上昇が電力使用量の多い中小企業の経営に大きな打撃を与える[Y-①]という点が中心である。もう一つは、エネルギーコストの上昇が経済成長を抑制するというマクロの問題[Y-②]である。

もう一つ、現在の原発をめぐる議論の中で表面化することは少ないが、原発維持論の背景にある最も根源的な視点は、国家の外交・安全保障上の理由[Z]だと思われる。

まず、資源を持たない日本にとって、エネルギー源としての原発を保持しておくことのエネルギー外交戦略上のメリットを重視する考え方[Z-①]である。それから、被爆国であるとともに、戦争放棄を規定する憲法9条との関係で表立って口にされることは殆どないが、究極的な原発保持の理由として、核利用技術を自国に温存しておくことによる軍事上のメリット[Z-②]も考えられる。

要するに、国家として「強い日本」をめざす上で、原発の存在は大きな意義を持つことになるのである。

各論拠の相互関係

では、このような積極論、消極論の理由・根拠が、各政党の、実際の原発の再稼働の是非、原発廃止をめぐる議論の中で、どのように論じられているであろうか。

まず、これまで原発再稼働をめぐる議論の中で、主として消極論の理由とされてきたのは原発の危険性の問題であり、その中でも、実際に起きた福島原発事故との関連を強調しやすい [A-①]の個別の原発における具体的な危険性の指摘が中心であった。これに対して、積極論の理由とされてきたのは、基本的に電力需給の逼迫の問題であり、その中でも、弱者保護的な意味合いも持つ[X-①]の短期的な電力の逼迫による生命・身体の危険が強調された。

「原発の危険性」も「電力の逼迫による生命・身体の危険」も、それぞれ国民に分かりやすい話であり、しかも、それを100%否定することはできず、反論を受ける余地が小さいからであろう。

しかし、実際には、原発の廃止を求める意見には、上記のような理由・視点、が、それぞれ複雑に交錯しているのであり、決して単純な理由ではない。それらが必ずしも明確に整理して説明されないのは、根本的理由・論拠を明確に示すことが、政治的に、そして、選挙対策的に、必ずしもプラスにならないと考えられるからであろう。

原発積極論の立場から、[Z]の外交・安全保障上の理由を持ち出すことは、外交という政策判断に絡む問題であるだけに微妙な面がある。とりわけ、[Z-②]の核武装との関連性を口にすることは、被爆国であり、なおかつ、福島原発事故という未曾有の原発災害を経験した我が国においては「タブー」と言っても良いであろう。このような原発積極論は、いかなる理由の脱原発論とも、根本的なところで相容れないのは当然だ。

一方、原発消極派の側においても、[C]のような抽象的な論拠を持ち出すことは、「理屈抜きの反原発論」と受け取られ、反発を招く恐れもある。特に、反資本主義的イデオロギーによる[C-③]はなおさらである。そのため、[C]の論拠に基づく意見においても現実的な政策論として、[A]、あるいは[B]の論拠の方が重視される傾向がある。

上記のような原発に関する積極論、消極論の論拠の整理に基づいて、各政党の原発に関する政策を比較することで、議論を客観化できるのではなかろうか。

 

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陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応

11月12日、東京高等裁判所において、陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件で、検察審査会の起訴議決に基づいて起訴された小沢一郎氏に対する控訴審判決が言い渡された。

検察官役の指定弁護士の証拠請求がすべて却下され、即日結審したことから、控訴棄却で一審の無罪判決が維持されるという判決結果自体は、想定されたことであった。しかし、その判決理由が、私の予想を超えたものであった。

政治資金収支報告書への虚偽記入についての小沢氏の故意を否定しただけでなく、更に踏み込んだ事実認定を行い、重要な事項について、実行行為者である秘書の石川知裕氏及び池田光智氏について虚偽記入の故意がなかったと認定した。そして、それ以上に重要なことは、りそな銀行からの4億円の銀行借入れと定期預金の担保設定に関する指定弁護士や検察の主張の根幹部分を正面から否定する認定をしたことだ。

控訴審判決は、一審判決が認定した「4億円の簿外処理」について、土地代金支払いと融資金の口座への振込みの時間を細かく認定し、僅かな時間のずれだけなので、「石川としては、実質的には本件土地の取得費にりそな4億円を充てたことになると思っていた可能性があり、所論がいうような虚偽の説明をしているという認識がないということもあり得ることといえる」と認定した。
この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、マスコミも、その偽装・隠蔽を「水谷建設からの裏献金疑惑」に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。しかし、今回の判決では、被告人がそれを「違法な処理」と認識していたことを否定しただけでなく、実行者の石川氏にも虚偽の説明をしているという認識自体がなかった可能性があると認定したのである(一審判決も、この「4億円簿外処理」の偽装・隠蔽の意図を否定し「その場しのぎ」と認定していたが、マスコミは、それを一切報じなかった)。

そして、この「4億円の簿外処理」については、「石川が、先輩秘書からの示唆を受けるなどしたことを契機に、マスメディア等からの追及的な取材や批判的な報道を避けるため、本件土地の取得費の出所を説明しやすくするという目的で考え出したスキーム」と認定しているだけで、それが、「違法な処理」だとの判断は示していない、ということすら何ら判示していない。

今回の控訴審判決では、検察と指定弁護士が事件の核心であると考えた、4億円をめぐる偽装・隠蔽そのものを否定したところに重大な意味がある。

秘書事件の一審判決(登石判決)は、4億円の虚偽記入とは全く関連性がないにもかかわらず、水谷建設からの裏献金についての検察官立証を認め、証拠に基づかない推認に推認を重ねて4億円の銀行借入れと定期預金設定が、水谷建設からの裏献金と小沢氏からの現金4億円を隠蔽する目的であったと認定した。しかし、小沢氏の一審、二審で偽装・隠蔽の目的自体が否定された。その判断を前提にすると、登石判決における水谷建設の裏献金の認定は、完全に宙に浮いてしまうことになる。今回の小沢事件の控訴審判決が、同じ東京高裁で本日から始まる秘書事件の控訴審に大きな影響を与えることは必至だ。

そして、検察にとって更に重大なことは、こうして陸山会事件の構図そのものが否定されたことによって、それを前提にしてきた検察捜査が暴走であったということと、虚偽の捜査報告書まで作成して検察審査会を起訴議決に誘導していたという、東京地検特捜部の行なった行為の不当性・重大性が一層明らかになったということである。
「検察崩壊」書籍表紙写真
この虚偽捜査報告書作成事件と関連事件については、市民団体「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」による告発が行われていたが、本年6月末に、検察は、すべての事件を不起訴とした。本年9月に公刊した拙著「検察崩壊 失われた正義」では、厳正捜査・処分に向けて法務大臣指揮権の発動を検討していたことを退任会見で明らかにした小川敏夫元法務大臣、虚偽捜査報告書の被害者の立場である石川知裕衆議院議員などとの対談を行い、不起訴理由に関する最高検報告書が、全くの「ごまかし」「詭弁」だらけであることを明らかしたところ、発売前からAmazonのランキングで高順位を続け、長期間在庫切れになるなど、このようなジャンルの本としては異常なまでの注目を集めた。相次ぐ不祥事による検察の信頼失墜に対して世の中の批判的注目が高まる中、東電女性社員殺害事件における再審無罪判決や、PC遠隔操作事件での全く事実に反する自白調書の作成などで更に厳しい批判を受け「検察崩壊」が現実のものとなっているだけに、今回の判決で、検察が打ち立てた陸山会事件の構図そのものが根底から否定されたことは、検察にとって計り知れない打撃になったはずだ。

ところが、この陸山会事件の捜査・公判という司法の動きを、小沢氏の「政治とカネ」問題の追及材料として最大限に利用してきたマスコミは、事件の根幹となる「4億円簿外処理」の偽装・隠蔽目的が否定されただけではなく、石川氏の虚偽性の認識についてまで消極的な司法判断が示されたことを 、殆ど報じない。一審無罪判決も「黒に近いグレーの判決」などと歪曲して報じていたが、控訴審判決については「二審も無罪」という結論と検察審査会の起訴議決制度の見直しの必要を報じるだけ。この判決が陸山会事件の構図そのものを否定する内容であることは一切無視している。

陸山会の政治資金問題を最初にスクープし、検察捜査を先導する役割を果たしてきた読売新聞に至っては、『判決は、「現金4億円を記載すべきだとした1審の判断は是認できる」と指摘。虚偽記入が成立するかどうか具体的な言及はなかったが、「マスコミの追及を避けるため、石川被告が代表の4億円を簿外処理するスキームを考えた」と明確に述べている』などと判決を引用した上、「この日の判決が、元秘書らの控訴審にマイナスに働くことはないだろう」などという匿名の検察幹部のコメントを引用している。

しかし、判決は、(小沢氏の)「4億円の収入計上の必要性の認識に関する原判決の判断」に関して「おおむね是認できる」と述べて、小沢氏の認識を否定する一審の判断を是認しているに過ぎない。「現金4億円を記載すべきだ」との判断を是認するとは、どこにも書いてない。それどころか、石川氏についても、「実質的には本件土地の取得費にりそな4億円を充てたことになると思っていた可能性」を認めており、むしろ、同氏の4億円の記載義務自体についても消極的な判断をしているのである。同記事は判決の趣旨を歪曲し、過少評価するものと言わざるを得ない。
今回の判決によって陸山会事件の構図自体が否定されたことを正面から受け止め、これまでの報道内容について検証し、反省しなければならないのに、今のところ、マスコミには、そのような動きは全くない。

検察官役の指定弁護士の言動にも、検察官役の法律家の対応として、甚だ疑問がある。一審で、指定弁護士は、4億円の銀行借入と定期預金の預入・担保設定という「簿外処理」が、「資金の動きを複雑にして、第三者の目からわかりにくくすることを意図して行った巧妙な隠ぺい、偽装工作」と主張したが、一審判決は、「本件預金担保貸付について短期間で巨額の返済をすればかえってその異例さが浮き彫りになるおそれもあり、隠ぺい、偽装工作として積極的な意味があるかには疑問がある」「『金額が大きいので、被告人を借入名義人とした方が借りやすいと考えた』旨の石川供述を否定することはできない」「その場しのぎの処理として行われたとみるのが相当である」「指定弁護士の主張は採用することができない」と述べて、その主張を明確に排斥した。

一審判決は、事件の性格に関する指定弁護士の主張の根幹を否定したものであり、マスコミが大合唱していたような「黒に近いグレーの判決」ではないことは、判決文を法律家の頭で虚心坦懐に読めば理解できたはずである。「元代表の共謀共同正犯の成立を疑うことは相応の根拠がある。」というような表現も「検察審査会の民意」に対するそれなりの配慮が働いたと見ることもできた。

ところが、指定弁護士は、本来、「検察官としての控訴」なのであるから、原判決破棄に向けての相当程度の見込みを持って行うべきであるのに、敢えて無謀な控訴を行った。それは、消費増税法案の審議を控え、政治的にも重要な局面にあった時期の小沢氏を、さらに被告人の立場におくことで重大な政治的影響を与え、小沢氏は、民主党内で復権を果たすどころか、小沢派議員とともに離党し新党を結成するという行動に至った。
その無謀な控訴の結末が今回の判決である。審理不尽の控訴理由に至っては、僅か9行で「所論に理由がないことは明らかといえる」と斬り捨てられ、事実誤認の主張についても、一審判決では若干は働いていた可能性がある「検審の民意への配慮」もすべてそぎ落とされ、石川氏ら秘書の故意も含めて指定弁護士の立証の構図そのものが否定されるという、まさに「惨敗」を喫したのである。

ところが、判決を受けて指定弁護士が行った会見での発言が、また信じ難いものであった。「判決が政治資金の処理は秘書に任せておけばよいというメッセージにつながらなければよいが」などと凡そ法律家とは思えないコメントをしたり(現行政治資金規正法が政治資金の処理を会計責任者・事務補佐者に委ねているのであり、そのことで裁判所を批判するのは全く的外れである)、検察の捜査資料の“不備”を敗訴の理由にしたりしたと報じられている。

確かに、検察の暴走捜査の末、虚偽の捜査報告書まで用いて誘導された検察審査会の起訴議決に基づいて選任され、公訴維持のみの役割を担わされた指定弁護士の立場には気の毒な面もある。その中で、一審において起訴事実の立証に最大限の努力が行われたことには敬意を表すべきであろう。しかし、一審判決後の対応は、検察官としての役割を担う法律家としてあるべき範囲を超えているように思える。事件の性格、判決の内容から考えてそもそも憲法違反、判例違反の上告理由などあろうはずもない。100%覆る可能性のない控訴審判決を謙虚に受け止め、すぐにも上告断念を表明すべきである。

もう一つ、全く不可解なのが、控訴審判決が、これだけの完全勝利に終わったのに、「指定弁護士が上告を断念し、事件が確定した段階でコメントする」ということで、何のコメントもしていない小沢氏本人の対応である。
無謀な控訴を行ったのと同じ弁護士であり、上告されたら政治的なダメージが大きいので、指定弁護士を刺激することは避けたい、という配慮もわからなくはない。しかし、判決を報じるのは、同日・翌日のニュース、記事であり、その後にコメントしても殆ど意味はない。上告理由もないのに上告するという暴挙を恐れて、判決に対する必要なコメントを行う機会を失するべきではない。まずは、裁判所の公正な判断を評価し、それまでの検察の不当捜査、虚偽捜査報告書による検審騙し疑惑についても、適切な批判を行うべきであろう。

小沢氏は、検察の陸山会事件の暴走捜査の被害者である。しかし、西松建設事件での秘書逮捕以来の小沢氏のこの問題への対応には、首を傾げざるを得ない点が多々あった。陸山会事件での秘書3人の逮捕に対しては、翌日の民主党大会で「民主主義の危機」と徹底批判した小沢氏が、その秘書3人が起訴され、自らが不起訴になったときに「公平・公正な検察捜査の結果と受け止める」とコメントしたことについては、朝日新聞「私の視点」で、「小沢氏の対決姿勢はどこへ」と題して厳しく批判した。そのような対応が、秘書を「人身御供」にして自らは助かろうとする姿勢のように受け取られたことが検審の素人の審査員の判断に影響した可能性もある。そして、その検審の議決を受けて起訴された第一回公判では、小沢氏は、「公正・公平」と持ち上げていたはずの検察を、一転して厳しく批判した。このような首尾一貫しない対応のために、検察の暴走、マスコミのバッシング報道に対して、適切な批判を行う機会を失った面があることは否定できない。
そして、信じがたいのは、小沢派議員の中には、この事件について「小沢潰しの陰謀論」が渦巻き、裁判所までもがその陰謀に加担しているかのような見方があったことだ。4月26日の小沢氏一審判決を前に、多くの小沢派議員が「有罪判決」を予想していたという信じられない話も聞いた。そのような極端な見方をすることが、逆に、小沢派議員を異端視する見方につながり、検察やマスコミを利することになることに思いを致すべきであろう。

今回の事件では、検察の暴走捜査、マスコミによる小沢バッシング、検察審査会の「民意」などによって、世の中に「小沢悪玉論」が蔓延する中で、一審、二審とも法と証拠に基づく冷静で客観的な判断が行われ、裁判所の司法判断の公正さが示されたことに敬意を表したい。
一方で、暴走捜査の結末が、裁判所に事件そのものの構図が否定されるという惨憺たる結果に終わった検察、暴走を煽り、一体化してきたマスコミ、そして、上訴の判断の冷静さを欠いた指定弁護士には猛省が必要である。一方の被害者である小沢氏の側にも、検察の暴走捜査への対応について率直に反省すべき点があると言わざるを得ない。

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法務大臣人事の怪

田中慶秋氏が、とうとう法務大臣を辞任した。
就任時の記者会見で、検察と警察の違いもわかっていないかのような、しどろもどろの答えを繰り返して、記者達を唖然とさせ、数日後に、外国人からの違法献金が指摘されても、過去の暴力団関係者との交際等の問題が次々と報じられても、「大臣の職責を果たしてまいりたい」と開き直り、法務大臣としての答弁を求められて国会の委員会に呼ばれると「公務」を無理やり作って欠席、翌日の閣議にも欠席して病院に入院、退院後も辞任を拒んでいたが、結局、「体調不良」を理由とする辞任コメントを出しただけで、記者会見も開かず辞任。就任後、僅か3週間だった。

そのような大臣を任命したことへの反省があれば、さすがに後任の大臣の人事は、十分に職責を全うできる、これ以上はないという人物が選ばれなければならないはずだ。

ところが、何と、そこで後任に選ばれたのは、前任の法務大臣の滝実氏だった。
滝実氏は、6月初めに野田首相から交代を言い渡され、辞任会見の場で、「陸山会事件をめぐる虚偽捜査報告書事件で、検察が国民の納得が得られない処分をすることに対して、指揮権発動を検討していた」と明らかにした小川敏夫氏の後任として法務大臣に就任したが、「僕自身はもう年なので、できるだけ外してもらった方がいい」と発言して、在任僅か4ヶ月で交代した。その後任として田中慶秋氏が登場し、法務大臣史上に残る醜態を晒す原因を作ったのも、滝氏の「年齢を理由とする退任希望」だったと言える。

滝氏はなぜ退任を希望したのか。僅か4ヶ月での自ら交代を希望するぐらいなら、最初から大臣就任を受諾しないのが普通だ。年齢の影響もあって、体力・気力がもたない、或いは体調が悪いので、到底大臣の職を続けられないという実質的なことが理由だと誰しも思ったはずだ。
野球で言えば、4回途中で、「もう年なので、これ以上投げられない」と言って自ら希望して降板したようなものだ。
その後に登板した投手は被安打と暴投の連続、1回ももたず、史上稀にみる大量失点を浴びて降板、すると、ついさっき降板した高齢投手が、またマウンドに。前日の試合で途中降板させられたのが不満で、再登板を命じられれば喜んで投げる投手がブルペンにいるのに。
なぜ、法務大臣を交代させられたことに強い不満を表明し、まさに「やる気満々」だった前々任者小川敏夫氏ではなく、自ら大臣降板を申し出た滝氏が選ばれなければならないのか。

現在、検察が直面している問題との関係で、法務大臣は、歴史上、かつてない程重要な職責を担うべき立場にある。その立場との関係で言えば、前任者滝氏と前々任者の小川氏との間には決定的な違いがある。

陸山会事件をめぐる虚偽報告書作成事件については、検察は、6月末に、田代検事、佐久間元特捜部長ら関係者すべてを不起訴処分にするという、「身内に大甘」の処分を行い、マスコミから厳しい批判を浴びた。まさに検察が行ったのは、小川氏が在任していたら、指揮権発動も辞さず、決して容認しないと言っていた「国民に納得できない処分」だった。そのような処分に対して、法務大臣として何らの対応もせず、容認したのが、後任の滝実氏だった。

「検察崩壊」書籍表紙写真その際、不起訴理由と調査・捜査結果としてとりまとめられた最高検報告書が、全くの「ごまかし」「詭弁」だらけであることを指摘、徹底的に追及したのが拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)。同書では、小川敏夫氏との対談も収録している。以下に、その一部を引用する。

小川 僕自身が指揮権を発動しようと考えていたのは、まさにそこに理由があります。こういう結果が出ることは、ほぼ間違いない状況だったからこそ、指揮権を発動することを考えた。法務大臣がそれを了承してしまえば、それでおしまいになる。しかし、検察は国民からすごい批判を受けますよね。検察の不正・腐敗を国民から隠すのが法務大臣の役割かというと、そうではない。国民の側に立って、事実を明らかにするのが役割です。
郷原 私も『組織の思考が止まるとき』(毎日新聞社 2011年)の中に書きましたけど、法務大臣の指揮権というのは、まさにそういう検察不祥事のときにこそ前面に出して、積極的に使わなければいけないものだと思います。
小川 僕もそう思ったし、今でもそれは自信を持っています。
郷原 もし小川さんが法務大臣だったときに、検察がこういう内容の報告書をまともにあげてきたとしたら、具体的にはどういう対応をされていたでしょうか。
小川 このような報告書が出るまえに、指揮権を発動してしまっていたはずなので、そういうことは起こらないですね。(笑)
郷原 具体的にはどのように指揮権を発動されたでしょう。
小川 僕もそこまでの証拠関係をにぎっているわけではないから、何が何でも刑事事件として立件しろ、とまでは言えない。だけど、万が一、結果が不起訴であったとしても、捜査、調査等について、国民が納得するだけのことはとことんやった上での判断でなければだめだ、ということです。だから納得できるだけの捜査をとことんやりなさい、と指示するでしょう。
郷原 もし検事総長に対してそういう指示をされても、なおかつ、同じような結果を持って来られたとしたら。
小川 納得できるまで質問します。
(中略)
郷原 要するに、小川法務大臣が考えられていた指揮権の発動というのは、国民が納得できるだけの十分な捜査を指示する。そして、大臣自身が納得するまでは、大臣として人事上の処分を了承しないということですね。そうすると、なかなか決着しないということになりますね。
小川 でも、今回の問題を、なにも急いで5月、6月に不十分な形で終わらせなきゃいけない客観事情はないんです。
郷原 そうですね。
小川 時間がかかっても、事実を徹底的に明らかにしたほうがいいわけだから。
郷原 それは結局、検察内部で、笠間治雄総長が退任して小津博司総長に引き継ぐ、という事情があるから・・・。
小川 人事の都合かなにかでこうなっている。
郷原 検察はそんなことを言っていられる場合じゃないと思うんですけどね。
小川 僕は、今回のようなことをやってしまったからには、もう今後50年は、検察は信頼回復できないと思います。
(中略)
郷原 検察がこんな報告書を出してしまったことは、もう今更どうにもならないんですが、一つ不思議なのは、それに対して滝法務大臣は何をしているのかということです。検察にとっても歴史上の汚点ですが、法務大臣にとってもそうです。しかも、滝法務大臣は、小川法務大臣が検察に対して厳しい方向で対応をされたときに副大臣だったわけですよね。
小川 そうです。
郷原 小川法務大臣が検察にどういう対応をされているのかを、政務三役として滝さんも基本的に理解していたのではないか、と思いますが。
小川 はい。やはり滝さんも、きちんとやらなければならないと言っていましたね。
郷原 それなのに、小川大臣が退任された後、滝法務大臣になってから最高検の処分や調査結果が出て、それに対して滝さんは何もやらないまま終わってしまった。これは、どういうことなんでしょうか。
小川 僕の場合は、法務省の役人の言うことではなく、自分自身で判断していましたから。でも、もし、最終的な処分や調査結果について、法務省の役人の話だけを聞いていれば、あ、そうかで終わってしまうのではないでしょうか。
郷原 ということは、法務・検察(法務省と検察庁)的には、やはり普通の法務大臣なら、こういう明らかにでたらめの処分や調査でもごまかせる。しかし、小川法務大臣だとどうしても具合が悪かった、ということでしょうか。
小川 まあ、物事が前に動かないってわけですよね。
郷原 小川法務大臣はしっかり原資料を見られているし、しかも検事・裁判官・弁護士の経験もある方。ちょっとごまかしがきかないということなんですかね。
小川 はい。結局、記憶違いなんかありえないのではないか、という僕の考え・姿勢は変わらないですよね。しかし、記憶違いでなければ困る、という検察の姿勢も変わらない。

就任後3週間で、法務大臣史上稀に見る醜態を晒したのが田中慶秋氏だが、その後任に選任された滝実氏は、検察の歴史上の汚点となった陸山会事件をめぐる虚偽報告書問題に関して、法務大臣としての職責を全く果たさなかったことで「法務大臣の歴史に汚点を残した人物」なのだ。

重要なことは、この陸山会事件をめぐる問題は、決して過去の問題ではないということだ。小沢氏の公判は11月12日に判決が予定されており、指定弁護士による無理筋の控訴に対する高等裁判所の判断が示される。
本来、検察が絶対に行ってはならない、無理筋の不当な捜査で政治に重大な影響を与えた陸山会事件に関して、東京地検特捜部が引き起こした「内容虚偽の報告書で、検察審査会の判断を誤らせる」という重大な問題に対して、裁判所がどのように判断するのかが注目される。

しかも、虚偽報告書作成事件等に関する検察の不起訴処分に対しては、告発を行っていた市民団体が、8月に検察審査会への審査を申し立てている。その議決も近く出されることになる。田代元検事等に対する検察の不起訴処分は、常識的にも到底納得できないものであり、起訴相当の議決が出される可能性が相当程度あるとみられている。

一回目の起訴相当議決が出ると検察が再捜査することになるが、その上で行う検察の処分がどうなるか、もし、検察が再度不起訴処分を行い、検察審査会で2度目の「起訴議決」が出された場合、検察の犯罪が、その検察自身ではなく、指定弁護士の手によって起訴され、立証されて裁判所で断罪されるという、検察にとって壊滅的な事態になる。
そのような事態を容認できるのか、検察の捜査・処分に対して指揮権を有する法務大臣が、どう対応するか、まさに、法務大臣にとって歴史上最も重要な判断が求められる場面がこれからやってくるのだ。

マスコミの多くが、小川敏夫元大臣の辞任会見時の指揮権発言を批判したが、その際、理由としたのが、検察の処分が不当であれば、法務大臣の指揮権ではなく、検察審査会の議決によって正すべきだ、という理屈だった。それが検察庁法の趣旨からしても通らないものであることは、上記拙著(207頁以下)でも詳しく指摘したが、仮に、そのようなマスコミの理屈を前提とするにしても、検察審査会で、検察の不起訴処分が不当で起訴すべきとの「民意」が示された後、なおも、検察が、不当な不起訴処分を維持するという「暴挙」に出たとき、それに対して法務大臣の指揮権発動が、「検察の信頼の全面的崩壊」を防止する唯一の手段であることは否定できないであろう。

他人のパソコン(PC)の遠隔操作による警察の誤認逮捕の問題でも、警察や検察の取調べで、不当な自白誘導が行われ、自白の信用性の必要な裏付け捜査も行われなかったことに関して、次々と新たな事実が明らかになるなど、検察官調書中心の立証という刑事司法のシステム自体に対しても、抜本的な見直しが必要になっている。

検察に対する国民の信頼が崩壊し、しかも、それが国民に対する重大な脅威になっていることが明らかな現状において、その検察に対する指揮監督者である法務大臣こそ、今、最も重要な職責を担う大臣だと言えよう。
そういう法務大臣に、醜態大臣の田中慶秋氏が全く不適任であったことは、あまりにも明白である。しかし、虚偽報告書作成問題に対して何の対応もせず、「法務大臣の歴史上の汚点」を残した後、年齢を理由に自ら降板を申し出た滝実氏に、この重責が担えるとは到底思えない。同じ直近の法務大臣経験者の中で、なぜ、小川敏夫氏ではなく、敢えて滝実氏を選任したのか、あまりにも不可解である。それでもあえて滝氏を法務大臣に選任するのであれば、野田首相には、極めて重い説明責任がある。

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孫崎亨著「戦後史の正体」への朝日書評の不可解

 本日(9月30日)の朝日新聞に、佐々木俊尚氏による孫崎亨著「戦後史の正体」の書評が掲載されている⇒http://bit.ly/V0wg4Z 私が読んだとは違う本の書評ではないかと思える不思議な書評だ。
孫崎氏自身もツイッターで批判しているように、同書では、「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などとは書いていない。同書が取り上げている、アメリカの意図によるとする検察による政界捜査は、昭電疑獄とロッキード事件だけであり、検察問題を専門にしている私にとっても、従来から指摘されている範囲を出ておらず、特に目新しいものではない。
 西松建設事件以降の小沢一郎氏に対する一連の検察捜査がアメリカの意向によって行われたものだという見方もあるが、私はそのような「陰謀論」には与しない。検察をめぐる問題は、そのような単純な話ではなく、むしろ検察の独善的かつ閉鎖的組織の特質にに根差す複雑な問題だ。私は、そのような検察に対する「アメリカの陰謀論」を基本的に否定してきたが、その私にとっても、同書の検察に関する記述には全く違和感がなかった。

 佐々木氏は、同書を「典型的な謀略史観」だというが、その「謀略」という言葉は、一体何を意味するのだろうか。
 日本の戦後史と米国との関係について、「米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきた」と述べているが、それは、孫崎氏が同書で述べていることと何一つ変わらない。孫崎氏の著書は、アメリカ側の誰かと日本側の誰かとの間で、具体的な「謀議」があって、そのアメリカ側の指示に日本の政治や行政がそのまま動かされてきたというような「単純な支配従属の構図」だったと言っているわけではない。むしろ、孫崎氏の戦後史には、「謀略」という単純な構図ではなく、政治、行政、マスコミ等の複雑な関係が交錯して、アメリカの影響が日本の戦後史の基軸になっていく構図が、極めてロジカルに描かれている。従来の「陰謀論」とは一線を画した、具体的な資料に基づく、リアリティにあふれるものであるからこそ、多くの読者の共感を得ていると言うべきであろう。
 「戦後史の正体」を佐々木氏のように読む人がいるというのも驚きだが、あたかもそれが同書に対する標準的な見方であるように書評として掲載する朝日新聞の意図も私には全く理解できない。
 孫崎氏の「戦後史の正体」に関連して、拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)が注目されたのも、これまで、秘密のベールに包まれてきた検察の組織の現状が、いかに惨憺たるものであるかを明らかにしたからだと思う。朝日新聞は、その拙著も、「検察の正義」をおとしめる「謀略」と捉えるのあろうか。

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特捜検察が「普通の市民」に牙をむくとき

 本ブログ記事【「正義を失った検察」の脅威にさらされる「400万中小企業」】で紹介した、中小企業経営者の朝倉亨氏と経営コンサルタントの佐藤真言氏の二人とお会いし、じっくり話をした。
政治権力者でも、著名な企業経営者でもない、普通の市民の二人は、特捜捜査に情け容赦なく踏み潰され、粉飾決算書を提出して金融機関から融資を受けたという詐欺で実刑判決を受け、裁判は継続中だ。
 佐藤氏は、「刑務所に入ることになっても、出てきて10年たったら法曹資格がとれると聞いています。自分のような目に遭わされる人が出ないように、弁護士になりたい」と考え、法科大学院の入学試験を受け合格した。検察の不当な捜査、起訴によって、実刑判決を受けるという自らの厳しい境遇を感じさせないほど、本当に前向きだ。
 一方の朝倉氏、懸命に経営してきたアパレル会社は、社長が検察に逮捕されたことで、一瞬のうちに破産した。従業員は路頭に迷い、取引先の連鎖倒産まで生じさせた。それは検察の理不尽な捜査の結果なのだが、朝倉氏は、そのことで自分を責める。裁判が終わった後は、刑務所に入ることしか考えられないという。朝倉氏は、毎日運送会社の夜勤を務め、自分の体をも責めつづける。
どうして彼らが、このような境遇にさらされなければならないのか。「検察の正義」、「刑事司法の正義」は、どこにあるのか。

 30年前検事に任官した時、私にとって東京地検特捜部は憧れの的であった。
検事になった以上は、特捜部で活躍したい。経済事件、政界汚職事件の捜査の最前線で働き、自分の能力を活かしたい、ということを強く願っていた。しかし、私は特捜部への応援という形で捜査に関わる中で、特捜部という組織が、私が期待していたものとは、凡そかけ離れたものであることを思い知らされた。私は、特捜部という組織が持つ暴力性、それが普通の市民に向けられた時、いかに理不尽で、非道なことになるのかを、自分自身が特捜部での検察官の勤務の中で体験したのである。
 その一つが「検察の正義」(ちくま新書)の中でも紹介したある証券担保ローンをめぐる背任事件だった。その事件では、特捜部が経済社会の実態にあまりに無知であるために、誤った捜査を行い、そして、そこで歯止めが効かずに無理をした時に、普通の市民に対して大きな脅威を与える、ということを知った。そういった面で、今回の朝倉氏、佐藤氏の事件と共通性がある。

 その事件は、まさにバブル経済の真っ直中、株式売買への国民の関心が高まる中で、買い付けた株式を担保にしてノンバンクから融資を受けて、さらに株式売買を行う資金にするというやり方で、大規模な株式売買を行っていた男Aが、投資に失敗して巨額の損失を出した。その男に対するノンバンク側からの融資には、社内規定どおりの担保を十分にとっていないものが多数あり、ノンバンクの担当者が背任罪、融資を受けて株式売買を行っていた側が、背任罪の共犯に問われたものだった。
 背任事件だったが、主たるターゲットとされていたのは、融資した側ではなく、融資を受けた側の投資家のAだった。ノンバンクの内規に違反しているとわかった上で多額の融資を受けたことが、背任の共犯にあたるということで捜査を進めていたが、少しでも多くの資金がほしい投資家側としては、ノンバンク側が融資してくれるというのであれば、ノンバンク内部の手続きがどうであれ、有り難く融資を受けるのは当然であろう。担当者に金品や利益を提供して内規違反をさせた、ということでもない限り、刑事責任を問う必要のある事件とは思えない。
 また、ノンバンク側が証券担保ローンで融資を実行する場合に、どの程度の担保をとるか、ということも、大口の融資であれば、投資家の投資歴、投資成績や全体的な資金状況などを考慮して判断をすべきであろうし、形式的な内規通りにやっていれば良いという話ではないであろう。
 そう考えると、その事件には、そもそも犯罪が成立するのかどうか、という点に相当問題があるように思えた。しかし、Aを含む被疑者の逮捕という捜査方針は確定していた。下っ端の応援検事が口を出せるようなことではなかった。
 
 この証券担保ローンの背任事件に関しては、不正融資とされる証券担保ローンの実行の時点で、融資先の投資家の株式損益がどのような状況だったかが重要な事実だったはずだ。全体として利益が出ているのであれば、ある程度、担保評価を緩めて、融資額を増額することも、あながち不合理な判断とは言えない。しかし、特捜部の捜査では、その点についての客観的な証拠は殆どなかった。単に、供述だけで、「Aは株で大損をしていた」と決め付けられた。
私は、その頃、まだあまり普及していなかった「表計算ソフト」を活用して、頻繁に株式売買を繰り返している投資家の損益を逐次計算できるマクロプログラムを完成させ、背任事件の共犯とされている投資家の損益状況を調べてみた。すると、背任融資とされている融資の実行の時点の大半で、トータルでは十分に利益が出ており、大幅な損失は、投資の最後の時点で特定の銘柄が膨大な損失となったため、それでトータルの損益が大幅なマイナスになったものだということがわかった。
そうして判明した事実を、思い切って、主任検事、副部長に報告してみた。しかし、「関係者が全員、Aはずっと株で損をしていたと言っているじゃないか。お前のパソコンはおかしいんじゃないか。」と一笑に付されてしまった。
それから間もなく、Aは逃亡し、所在をくらましてしまった。それ以降、事実関係を詰める捜査は棚上げにされ、Aの所在を突き止めるための捜査一色になった。
株式売買に手を出し、証券担保金融で投資額が拡大、会社を辞めてプロの投資家のようになっていたが、もともとは一流大学卒の大企業のエリート社員だったAには、特捜部のに逮捕されるプレッシャーが耐え難かったのであろう。
 こうして捜査対象の被疑者が所在不明になってしまうと、検察独自捜査にとっては、非常に苦しい事態になる。全国の都道府県警に指名手配をして協力を求めることができる警察とは違い、検察は所在不明になった被疑者の行方を追うことには制約がある。
しかし、被疑者の逮捕、本格的捜査が予定され、応援検事まで確保している場合に、捜査をあまり先延ばしすることはできない。つのる焦燥感の中で、そのときの主任検事が命じたのは、所在不明となったAの家族・親類縁者を片っ端から呼び出して、「かくまっているのではないか」と疑って、徹底的にいじめるというやり方だった。それを徹底していけば、そのプレッシャーを受けた家族、親類縁者が、積極的に心当たりに連絡することで、どこかでAの所在が明らかになって、通報してくるのではないか、という作戦だった。
 確かに、それは、検察として取り得る手段の中では有効なものなのかも知れない。しかし、Aは、殺人犯のように、本当に草の根分けても探し出さなくてはならないような犯罪者ではない。要するに、その所在を明らかにしないといけないというのは、「検察の都合」に過ぎないのだ。私も、その「家族、親類縁者いじめ」の取調べに駆り出された。上司の指示・命令を受けてやらされる仕事の中で、これほど気の進まないことはなかった。

 ある日、主任検事から、所在不明のAの従弟のB氏を呼び出して取り調べるようにとの指示を受けた。「前日にX検事(私の同期)が呼び出しの電話をかけたが、どうしても都合が悪いと言って来なかった奴だ。何か隠しているから来たくないんだろう。徹底して締め上げろ」という指示だった。
私が電話をかけたところ、Aの従弟のB氏が出た。私は、東京地検特捜部の検事であることを告げ、「Aさんのことでお伺いしたいことがあるので、明日、東京地検まで来てもらえませんか」と言うと、「Aとはもう何年も会っていません。何も知りません。どうしても行かなければいけませんか。」と言ってきた。「それでも、どうしても直接お伺いしたいことがあるのです。」と言うと、「では、行きます。」と言ってくれた。
翌日の朝、霞ヶ関の東京地検に出向いてきたB氏は、私の「取調べ」が始まるなり、淡々と話し始めた。
「一昨日の夜も、X検事から電話があって、明日東京地検に来てくれと言われました。私が、仕事があって無理ですと言うと、『お前はAの行き先を知っているだろう。嘘をついてもわかる。隠しているから調べに応じたくないんだろう。隠したりしていると捕まえるぞ。』とさんざん脅されました。ちょうど、我が家では、子供にいろいろ大変なことがあって、とても深刻な家族会議をしていた最中でした。中学生の息子がイジメで登校拒否をしています。それに加えて、一昨日、小学生の息子が、重い心臓病だということがわかって、私たち家族はどうしたら良いんだろうと、目の前が真っ暗になって、そこに、夜の10時過ぎにX検事から電話があったのです。どうしても都合が悪いからと言って、東京地検に行くのは一日待ってもらいました。そこで、昨日、また電話がかかってきた。それが、検事さんからでした。私が検察庁に呼び出されたということで、今朝出てくるときに、女房が取り乱していて、私が逮捕されるんではないかと心配で頭がおかしくなりそうだと言っていました。」
私が、その話を聞いて驚き、黙っていると、B氏はさらに言葉を続けた。
「私は、市役所の職員として、20年余り仕事をしてきました。人から後ろ指を指されるようなことをしたことはありません。もし、私がAのことで何か知っていたら、すべてお話しします。でも、何も知りません。生意気なことを言うようですが、私も、少しばかりですが国にも市にも税金を納めている市民です。どうしてこういう目に遭わされなければならないんでしょうか。」
私は、このときほど、恥ずかしく惨めな思いをしたことはなかった。自分がやっていることは人間のやることではないと思った。
 私は、すぐに、B氏の自宅に電話をかけて、B氏の妻と話をした。「何も心配することはありません。ご主人に何か疑いがかかっているということではありません。こちらの都合で、どうしても今日、一日、こちらにいてもらわないといけないのですが、まったく心配は要りませんから安心してください。今日の夜にはお返しします。今日だけで、明日以降は来てもらうこともありません」
そして、B氏には「あなたから聞くことは何もありません。でも、どうしても、我々の組織の内部的な問題で、今日一日、この建物にいてもらわなければならないんです。待合室で待っていてください。時折、部屋に入ってもらいます。夜には帰ってもらいますから。」
 私は、昼と夕方に、主任検事に取調べの状況を報告した。
「しぶとい奴です。さっきからガンガンやってるんですが、何も話しません。本当に何も知らないのかも知れませんが、もう少し頑張ってみます」と真っ赤な嘘をついた。
主任検事に評価してもらおうなどという気持がまったくなかったことは言うまでもない。私が恐れたのは、私の「取調べ」が生ぬるいという理由で、B氏の「取調べ」がX検事に担当替えになることだった。とにかく、一日で終わらせなければならない。そのためには手段を選んでいる場合ではなかった。
 その日のことは、私にとって衝撃だった。この特捜部での応援勤務の経験によって、それまで、ある種の「憧れ」を持っていた特捜部という組織の権力が、使い方によっては市民に対する恐ろしい暴力になりかねないことを実感した。
 
 私は、この事件をきっかけに特捜部という組織に幻滅し、やがて訣別した。その後、地方の検察庁で独自の検察捜査の手法を切り開いていこうとしたが(前出「検察の正義」の最終章「長崎の奇跡」参照)、それも、検察の組織として受け入れるところとはならず、結局、検察組織から離れた。そして、その後、検察の外から、特捜捜査を中心に検察を厳しく批判し続けてきた。
 大阪地検不祥事以降、社会から厳しい批判を受けている検察が、検察改革の最中に手掛けた捜査が、今回の朝倉氏と佐藤氏の「詐欺事件」である。それは、私が検察にいて経験した、そして、これだけは絶対に許すことができないと考えた「検察の市民への暴力」そのものである。
 彼らを検察の暴力から救い出すために、私として精一杯のことをしたいと考えている。今回の事件に、関心を持つ方々、特捜捜査の理不尽さに憤りを覚える方々、今後の裁判の展開に注目して頂きたい。

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「戦後史の正体」と「検察崩壊」

「検察崩壊」書籍表紙写真拙著「「検察崩壊 失われた正義」」(毎日新聞社)が、出版社の当初の想定を大幅に超える注目を集めているのは、大ベストセラーとなっている孫崎亨氏の著書「戦後史の正体」の読者の関心が拙著にも向けられたことが大きな要因になっていると思われる。
数日前、その孫崎氏とお会いし、ゆっくりお話をした。私は、検察問題を基本的に司法問題としてとらえてきた。検察の動きとアメリカの対日政策との関係を重視する孫崎氏とは問題を捉える基本的視点には違いがあるが、孫崎氏の視点は、検察の信頼崩壊の経緯・現状と今後の在り方を考える上で重要であることを改めて認識した。

孫崎氏との議論の中で、一つの重要な論点が浮かび上がってきた。
造船疑獄における犬養法務大臣の指揮権発動が、吉田内閣総辞職、保守合同、55年体制の確立につながっていった経過と、アメリカの対日政策との関係という問題だ。
この指揮権発動が国民から大きな批判を受けたことで、それ以降、法相指揮権は封印され、検察は「聖域化」されて政治の介入から免れてきた。まさに、特捜を中心とする「検察の正義」が確立されたのが、この造船疑獄であり、その後、ロッキード事件等の疑獄事件で政治的介入を受けない独立性を保障された「検察の正義」が、実際には大きな政治的影響を及ぼすという構図がここでできあがった。その「検察の正義」が実はアメリカの政治的意図に利用されていたというのが孫崎氏の見方である。ところが、最近では、造船疑獄における犬養法務大臣の指揮権発動は、名誉ある撤退をするために検察が仕掛けた策略だったというのが、多くの関係者証言によってほぼ定説になりつつある(拙稿『「法務大臣指揮権発動」をめぐる思考停止からの脱却を』日経BOL)。それは、「検察の正義」の歴史的認識を大きく変える事実である。その策略を仕掛けたのは誰か、吉田内閣側でそれに関わったのは誰か、そこにアメリカの意向はどう関係していたのか、多くの疑問が浮かび上がってくる。それは、日本の戦後史と検察の戦後史とが交錯する重要な歴史的事実である。

孫崎氏の「戦後史の正体」によって、戦後の日本が、どのような力学によって、どのように運営されてきたのかについて、国民には重要なことが知らされていなかったことが明らかになった。現在の日本の閉塞状況が、国民が知らないままに、アメリカという国の大きな影響力の下に国が運営されてきた結果であることを知り、我々は愕然とした。
その外交の分野と並んで、秘密のベールに包まれてきたのが刑事司法である。それは、「検察の正義」を中心とする世界であった。国民は、検察という組織が、あらゆる刑事事件を法と証拠に基づいて適切に処理しているものと信じてきた。そして、その適切さに関して何か問題が指摘された時も、捜査・処分について一切の情報を開示せず、説明責任も果たさないのが当然のこととされ、情報が一切開示されず、批判もされないことで「検察の正義」は絶対的なもののように思われてきた。
「検察崩壊 失われた正義」では、その「検察の正義」の象徴であった東京地検特捜部が、虚偽の捜査報告書で検察審査会を騙して起訴議決に誘導するという大罪を犯した疑いが表面化、それに対して検察が行った不起訴処分の理由を示す「最高検報告書」が、いかに「詭弁」「ごまかし」で埋め尽くされているのかを指摘し、「検察の正義」が崩壊している現実を白日の下に晒すことになった
戦後史の重要な部分が国民に隠されてきたのと同様に、検察が行ってきたことの中身は、すべて検察の組織内部で隠蔽され、「従軍記者」のように検察に寄り添う司法マスコミの報道で、国民は無条件に「検察の正義」を信じ込まされてきた。しかし、少なくとも特捜検察に関しては、実は、それは全くの幻想にすぎなかった。

孫崎氏の「戦後史」は、多くの資料に基づくもので、「対米追従派」と「自主派」の対比も、客観的かつ合理的に行われている。「検察崩壊」では、巻末に、最高検が記者会見で配布しただけで一般公開を拒否し、ひた隠しにしている「最高検報告書」と、田代検事作成の虚偽捜査報告書を全文掲載し、検察の厳正捜査に向けて指揮権発動を検討していた小川敏夫前法務大臣、特捜部長経験者の大坪弘道氏、田代検事の取調べを受けた当事者の石川知裕氏、そして、市民の立場から今回の検察の問題を追及し続けてきた市民団体の代表の八木啓代氏の4名との対談を通して、それらの「報告書」が、「検察の正義」の崩壊を端的に示すものであることを明らかにした。

国家の独立と自主性を維持するための外交が国家の基本的作用であるのと同様に、法律の適切な執行のための制裁を科す刑事司法も、国家の存立に不可欠な基本的要素だ。外交をめぐる真実が、「国益」を理由に、国民の目から覆い隠されてきたのと同様に、刑事司法の中核を担う検察の内実も、「正義」のベールに覆われ殆ど明らかにされてこなかった。それだけに、「検察崩壊」で明らかにした検察の信頼崩壊の実情は、読者にとって衝撃的であろう。

「政治的中立」のドグマが維持されながら、実際には大きな政治的影響を及ぼしてきた「検察の正義」が崩壊している現状は、国の権力作用の根幹に関わる重大な問題だ。検察も行政機関の一つなのであり、その権限行使についての最終的な責任は内閣にある。検察が自浄能力を失っている現実の下で、検察の組織の抜本改革を実行するのは政治の責任である。しかし、民主党代表選挙においても自民党総裁選挙においても、「検察改革」という言葉は全く聞かれない。政治は検察問題に関わるべきではないというドグマが、「検察の正義」が崩壊した後にも、未だに政治の世界に色濃く残っていることに、この問題の根深さがある。

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「正義を失った検察」の脅威にさらされる「400万中小企業」

「検察崩壊」書籍表紙写真検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)、Amazonに予約が殺到、9月1日の発売未だに在庫切れの状態。このようなジャンルの本が、なぜこれ程までに注目されるのか、その理由は、著者の私にもわからない。孫崎亨氏の「戦後史の正体」が大ベストセラーになっているのと同様に、これまで、秘密のベールに包まれてきた戦後のわが国の中枢部分の真相が明らかになりつつあることに、世間の関心が集中しているということなのかもしれない。

こうした中で、検察捜査が「普通の市民」に牙を向くことの恐ろしさを描く迫真のノンフィクションが公刊された。産経新聞多摩支局長の石塚健司氏の著書「四〇〇万企業が哭いている ドキュメント検察が会社を踏み潰した日」(講談社)だ。

「検察崩壊 失われた正義」で明らかにした「検察の信頼崩壊」の深刻さは理解されても、多くの国民にとって、それは「自分達には関係のない世界」と思われているであろう。東京地検特捜部と言えば、政界捜査や大規模な経済事犯を手掛ける捜査機関、対象になるのは小沢一郎氏のような政治家や堀江貴文氏のような大企業の経営者で、一般の中小企業経営者や普通のサラリーマンには無縁の世界と思われていたはずだ。しかし、石塚氏の本では、長引く不況の中、懸命に中小企業の経営に取り組む経営者と、それを必死に支える経営コンサルタントが、特捜捜査に踏み潰されていく経過が生々しく描かれている。

それは、大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事等で失墜した検察への信頼を回復するための「検察改革」が進められている最中の昨年9月に、東京地検特捜部が独自捜査に着手した事件だった。
2011年4月に「検察の再生に向けての取組み」が公表され、分野別専門委員会、監察指導部の設置、特捜部の身柄事件についての検事長指揮、総括審査検察官の指名、取調べの可視化の試行など施策が打ち出された。この事件は、まさに、それらの改革策が実行されていた最中に、東京地検特捜部が手掛けたものだ。
しかも、その捜査を行ったのは、特捜部の特殊直告2班であり、検察改革の一環として廃止される直前に着手した事件だった。
「財政経済関係事件の捜査処理のための態勢を充実強化」の一環としての特捜部の組織体制の見直しによって特殊直告班(主として政界汚職事件など特捜部の独自捜査を担当する部門)は縮小し、一班体制とされることとなった。その同班が「起死回生の一打」を狙って手掛けたのがこの事件であった。

まさに、この事件は、検察改革によって生み出された事件と言っても良いのである。
検察への信頼が崩壊し、正義を失った検察は、本来の使命である政界捜査、大規模経済犯罪捜査を行う力をなくしたが、それでもなお強大な捜査権限を持っている。行き場を失った捜査の刃が、普通に働き、普通に生活する、普通の市民に向けられ、その仕事と生活が破壊されていく。
それがいかに恐ろしいことか、まさに「検察崩壊」の実相をまざまざと見せつけてくれる書だ。

書籍表紙写真エス・オーインクはメンズカジュアル衣料品の製造卸売会社、13年前に、朝倉亨氏が、妻とアルバイトの3人で始め、年商7億円の会社にまで成長していた。消費不況や東日本大震災の影響で販売が落ち込み、資金繰りに追われ、厳しい経営状況が続いているものの、人気ブランド商品を中心に販売は回復の兆しを見せ、社長の朝倉氏を中心に、社員が一丸となって、事業に取り組んでいた。
一方の佐藤真言氏は、中小企業向けの経営コンサルタント、「小説 日本興業銀行」(高杉良)に登場する中山素平氏のような「野戦病院さながらに駆け込んでくる傷ついた企業を建て直すために英知を尽くす『昭和のバンカー』」にあこがれて銀行員となったが、厳しいノルマを課され、「貸し剥がし」を強いられる銀行の支店営業の世界に幻滅し、入社6年目で退職。銀行の先輩が始めていた中小企業の経営コンサルタントの仕事に加わる。経営不振に喘ぐ中小企業の経営改善を指導し、銀行からの融資が受けられるよう経営者をサポートする。自分の利益を追求するのではなく、会社からの僅かな定額の報酬で、そのままでは破綻してしまいかねない中小企業を立ち直らせることに精魂を傾けていた。
そういう両氏に、東京地検特捜部の捜査という思いもよらぬ厄災がふりかかってきたのが2011年の7月だった。

きっかけとなったのは、前年におきた事件であった。2010年に、元銀行員Aが代表取締役を務める経営コンサルタント会社が国税局の査察を受け、Aが銀行に在職していた時に、大口の融資話をまとめてはリベートを吸い上げて巨額の利益を得、しかも、その融資先会社は殆ど営業実体がないにもかかわらず虚偽の決算報告書で優良企業のように見せかけていたことが明らかになった。査察調査の結果を受けて、東京地検特捜部がAを詐欺で立件し、その被害額は、立件された事件だけで15億円に上った。

この詐欺事件における元銀行員Aと、「元銀行員の中小企業向け経営コンサルタント」というところだけ共通していた佐藤氏を、検察は「粉飾決算の指南役」として捜査の対象とした。その顧客であったエス・オー・インクが「東日本大震災復興緊急保障制度」に基づく保証融資を受けたことが、粉飾決算によって融資金を騙し取った詐欺だとし、佐藤氏と朝倉氏を逮捕・起訴した。その捜査を手掛けたのが東京地検特捜部特殊直告2班、上記のように同班が廃止される直前の同年9月のことだった。

佐藤氏が関わっていた会社の経営者Bが、Aがいた銀行の支店から3億円もの融資を受けており、しかも、その融資金の使途が不明だった。石塚氏も著書で指摘しているように、Aと同様の経歴を持つ佐藤氏がこの融資スキームと使途に関わっていると睨んだところに特捜部の根本的な見立て違いがあった。

佐藤氏を、Aと同様の「不良コンサル」と見た特捜部は、Bに関する容疑で佐藤氏の自宅を捜索、捜索に赴いた係官は、佐藤の住まいのあまりの質素さに驚く。札束も、隠し財産も全くない。佐藤氏への取調べが始まり、その説明から、特捜部の見立てが完全に誤っていたことが明らかになっていくが、特捜部は、引き返そうとはしなかった。そして、佐藤氏が経営コンサルタントとして関わっていた中小企業の中から、融資詐欺の立件の対象とされたのが、朝倉氏が経営するエス・オー・リンクだった。単なる金融機関からの融資ではなく、東日本大震災の復興に関連する保証制度に基づく融資だったことを、「悪徳コンサルタント会社が実質破綻の中小企業を利用して震災復興の保証制度を食い物にした」という構図で組み立てたのだ。
朝倉氏の突然の逮捕で、銀行融資はストップ、会社は破産に追い込まれ、取引先の零細業者も連鎖倒産していく。詐欺に問われた信用協会の保証付き融資も、結果的に返済不能となる。被害弁償もできない1億円を超える詐欺事件では執行猶予もつかない。二人とも一審で実刑判決を受けて控訴中だ。

粉飾決算書の提出が詐欺罪の欺罔行為に当たるのか、証券市場への企業内容の公正開示を求められる上場企業と、非公開の中小企業とでは、粉飾決算の意味合いが違うのではないか、日本の中小企業の多くが粉飾決算を行っている実情はどう考えるのか、など法律上の論点はいろいろある。しかし、そういう理屈の問題は別として、まず、この石塚氏の著書を読み、そこで淡々と客観的に描かれている事実を基に、常識で考えてもらいたい。日々の仕事に、自らの使命に忠実に、懸命に生きている普通の市民の二人がやっていたことが、犯罪として処罰され、刑務所に入れられなければならないようなことなのだろうか。彼らを「悪人」に仕立て上げ、踏み潰していく東京地検特捜部のやり方こそ、まさに「悪魔の所業」そのものではないか。

借金なしでやっていける中小企業など殆どない。その借入に関して、「粉飾決算で騙して銀行から金を借りたから詐欺だ」という理由で一度強制捜査が行われれば、中小企業はただちに破産する。残された借金が「詐欺の被害」になる。石塚氏の著書のタイトルにもなっているように、検察がその気になれば、「400万中小企業」のどれを踏み潰すことも不可能ではないということだ。

刑事事件の公訴権(起訴権限)を独占するとともに、訴追裁量権が与えられている日本の検察は、犯罪事実が認められても、起訴を見送る「起訴猶予」の処分を行うことができる。世の中には、形式上は法令に違反し、罰則の対象となる行為であっても、それを敢えて刑事処罰の対象にする必要はない行為が無数にある。形式的には犯罪が成立しても、事件の実体からして処罰する必要のない事件を不起訴にする権限が与えられている検察は、独自の判断で事件を立件し捜査の対象としていく場合にも、事件の中身を的確にとらえ、刑事処罰に値するものなのかを適切に判断することが求められる。検察が判断を誤り、立件すべきではない事件を立件し、起訴すべきではない事件を起訴してしまった時、裁判所が無罪の判断を下すことは困難であり、しかも、形式上「弁償されていない財産上の被害」があれば、量刑も軽いものではすまない。

組織の内部だけで判断が完結する閉鎖的な検察組織は、社会の変化に適応することができない。経済社会で生起する様々な事案について、実態に即した適切な判断を行うことができない。それが検察が多く不祥事を起こし、組織の信頼が失われていった根本的な原因であることを、私は、「検察の正義」(ちくま新書)、「検察が危ない」(ベスト新書)、「組織の思考が止まるとき」(毎日新聞社)等で指摘してきた。しかし、その後も、検察は、暴走・迷走を繰り返した末、陸山会事件不祥事をめぐる対応で、組織としての自浄作用の無さを露呈、守り続けてきた「正義」をも失った。石塚氏の渾身のドキュメントは、そうした「検察崩壊」の現状が、社会全体にとっていかに危険なものになのかを、まざまざと見せつけてくれている。

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“検審騙しアンダーライン”を「価値中立的」と強弁する法務省稲田刑事局長

今年6月27日に田代政弘検事(同日付けで辞職)などに対する不起訴処分を公表した際の記者会見で、最高検察庁は、捜査・調査の結果と不起訴理由をとりまとめた「国会議員の資金管理団体に係る政治資金規正法違反事件の捜査及び調査等について」と題する書面を配布した。この書面は、一部の国会議員にも渡され、そのブログで公開され、既にネットの世界では広まっているが、最高検は、一般人への提供を頑なに拒んでいる。
その内容が「詭弁」「ごまかし」だらけで、不起訴処分の理由の合理的説明には全くなっていないことは、当ブログの「社会的孤立」を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している~で詳述した。
7月31日と8月28日の参議院法務委員会で、この「最高検報告書」について、法務省刑事局の稲田伸夫刑事局長が答弁していることを知り、インターネット審議中継の録画で視聴した。
陸山会事件捜査をめぐる今回の検察不祥事でまず問題になったのは、田代政弘検事が、石川知裕議員の取調べ状況に関して、全く事実に反する捜査報告書を作成していたことだった。しかし、疑惑の捜査報告書は、この「田代報告書」だけではなかった。
佐久間達哉特捜部長(当時)が作成して、斎藤隆博副部長(当時)に署名させたとされる捜査報告書(以下、「斎藤報告書」)、誰が見ても、検察審査会の判断を誤らせ、起訴議決の方向に誘導するために、作られたとしか思えない内容だった。
ところが、驚いたことに、稲田刑事局長は、その委員会で、斎藤報告書について、「石川供述の信用性を減殺する部分にもアンダーラインが引かれており価値中立的」と答弁しているのだ。余りに国民を馬鹿にした答弁と言わざるを得ない。

この検察不祥事に関して、指揮権発動まで考えていたことを明らかにした小川前法務大臣、不当な取調べ、虚偽報告書作成の被害者の石川知裕氏、元大阪地検特捜部長の大坪弘道氏、この事件を告発し検察審査会に審査を申し立てた「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」代表の八木啓代氏との緊急対談を収録し、この最高検報告書も全文掲載した拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)が、昨日全国発売されたが、発売前から、Amazonランキングでベストテンに入るなど、「検察に関連する書籍」としては考えられない程の注目を集めている。
孫崎亨氏の「戦後史の正体」が大ベストセラーになっているのと同様に、この国のどうにもならない現状への絶望感の中で、これまで知らされていなかったこと、隠されていたことを知りたいという国民の情念が、この本にも向かっているのかもしれない。何かが大きく変わりつつあるとしか思えない。
ところが、その委員会答弁で、稲田刑事局長は、「訴訟記録の非公開」「不起訴理由の不開示」などの原則を振りかざして、国民の間では既に崩壊してしまった「検察の正義」にしがみつき、国会での質問に対しても、「あなた達素人には、この程度の理屈で十分」とでも言わんばかりの態度で、客観的には完全に破綻した「詭弁」を平然と言ってのけているのである。その感覚のズレが、検察をめぐる問題がここまで深刻化した最大の原因であるということに、残念ながら、稲田局長を始め、法務・検察の幹部は全く気づいていないようだ。

斎藤報告書は、政治資金規正法違反事件で小沢氏が不起訴処分となった後、検察審査会で起訴相当議決が出されたことを受けて行われた再捜査を踏まえ、共犯性を検討した結果を報告する報告書である。
そこには同事件で起訴された石川知裕氏・池田光智氏の供述概要と小沢氏の弁解内容が書かれ、小沢氏への報告了承を認める石川、池田氏の供述と小沢氏の弁解の不合理性に関する記述にアンダーライン(下線)が引かれて強調されている。石川氏の供述内容は、起訴前の勾留段階のものから、保釈後、検審の議決を受けての再捜査の段階でのものまで含まれている。
そのアンダーラインの箇所は、石川氏の供述に関しては、「石川氏が小沢氏に政治資金収支報告書に虚偽の記載をすることについて報告した事実」「小沢氏がそれを了承した事実」、或いは、「それを認める石川氏の供述が真意に基づくもので信用できることを示す事実」などを述べている部分で、これらの箇所だけを拾い読みすれば、素人であれば間違いなく、小沢氏との共謀を何の問題もなく認定できると考えるはずである。
しかも、アンダーラインは、記載の内容を確認して供述者が署名した供述調書の引用部分だけではなく、田代検事が供述者の確認もとらず一方的に作成した捜査報告書の記載内容の引用部分にまで引かれている。その中に、「私が『小沢先生は一切関係ありません』と言い張ったら、検事から、『あなたは11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしょ。小沢一郎の秘書という理由ではなく、石川知裕に期待して国政に送り出したはずです。それなのに、ヤクザの手下が親分を守るためにウソをつくのと同じようなことをしたら、選挙民を裏切ることになりますよ。』と言われたんですよね。これは結構効いたんですよ。堪えきれなくなって、小沢先生に報告し、了承も得ましたって話したんですよね。」と話したとする記述が含まれている。まさに、石川氏の小沢氏への報告・了承についての供述経過が全く問題なく、信用できるように読める部分であり、田代検事が虚偽有印公文書作成罪の告発の理由とされたものだった。
このアンダーラインの問題は、検察の不起訴処分が出されるずっと前から、新聞等で報じられていた。5月6日付毎日新聞朝刊では、【特捜部長、検審への報告書に下線 「小沢元代表関与」部分】との見出しで、「当時の東京地検特捜部長が元代表の関与を疑わせる記述部分にアンダーライン(下線)を引いていたことが分かった。報告書は元代表と元秘書の共謀について肯定・否定の両論を併記しているが、強制起訴を議決した検察審査会に提出されており、検察当局は下線を引いた意図などを慎重に調べている。」などとしており、小沢氏の関与の疑いを強調する目的でアンダーラインが引かれた疑いがあることが指摘されていた。

これに対して、最高検報告書では、6月27日に検察が行った田代検事の不起訴処分等の理由について、、「斎藤報告書には、佐久間部長により、A氏(小沢氏)の共謀の認定に関わる部分にアンダーラインが引かれているところ、B氏(石川氏)の供述の信用性を減殺する事情に関わる部分にも、佐久間部長によってアンダーラインが引かれている。これらアンダーラインは、A氏への報告等に関するB氏及びD氏(池田氏)の供述については、起訴相当議決において、共謀に関する直接証拠と位置付けられている重要な証拠であり、他方、検察は、そのやり取りについて具体性に欠けるなどと評価していたので、そのやり取り部分等が検察審査会にわかりやすいように引いたものと認められる。」とされている。

 しかし、斎藤報告書のアンダーラインを引いた箇所を見る限り、「B氏の供述の信用性を減殺する事情に関わる部分にも、佐久間部長によってアンダーラインが引かれている」と述べているのが、一体どの部分を指すのか全くわからない。その点は、拙著「検察崩壊 失われた正義」の中の大坪氏と私の対談の中でも話題になっている。
 この点に関して参議院法務委員会で質問された稲田刑事局長は、7月31日には、「アンダーラインが引かれている部分は、必ずしも石川氏の供述の信用性を肯定する部分のみならず、減殺する部分にもアンダーラインが引かれているという意味で、価値中立的なアンダーラインの引き方であるというふうに私どもとしては考えております」と答弁し、さらに、8月28日には、その「減殺する部分」というのは具体的にどこかとの質問に対して、「アンダーラインは、石川氏の供述にかかる部分でございますが、特に収支報告書の不記載等にかかる報告にかかる部分でございまして、第一次の起訴相当議決で、小沢氏の共謀に関する報告に関する重要な証拠とされたところではございますが、他方で、検察は、そのやり取りについて具体性に欠けると評価していたわけでございまして、そのやり取りの具体性に欠ける部分などが検察審査会にわかりやすいように引いたものと考えています」と答弁した。

 こんな人を馬鹿にした答弁があるだろうか。前述したように、アンダーラインが引かれているのは、石川氏が、政治資金収支報告書に関して小沢氏に報告し、了承を得たと述べている部分である。それらの供述が全体として具体性に欠けているということが、検察が小沢氏を不起訴にした理由だというのは、その通りであろう。しかし、供述に具体性がないから信用性が減殺される、というのは、刑事の専門家の判断であり、その供述にアンダーラインが引いてあるだけでは、素人の検察審査員には、「具体性が欠けているから信用性がない」という判断はできない。抽象的な供述であっても、石川氏が、小沢氏に報告し了承を得たことを何回も繰り返し供述していて、しかも、前記の「11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になった」「ヤクザの手下が親分をかばうためのウソをつくようなことをしてはいけない」などと田代検事が条理を尽くして説得した結果、その言葉に心を動かされて調書に署名した、というようなことが書かれていれば、それだけで、検察審査員が、「小沢氏の共謀は十分に認められる」と判断するのは当然である。
 しかも、斎藤報告書には「石川氏の供述の信用性」と題する記述があり、「肯定的要素」としての、「保釈後の再捜査の取調べにおいても、小沢が石川から偽装工作等について報告を受けたことを強く否定していることとの関係で、どのような供述をすべきか思い悩みながらも、結局、小沢に報告をして了承を得たのは真実だからとして供述を維持した」という田代報告書の引用部分にアンダーラインが引いてあるが、石川供述に具体性がないことなどの「否定的要素」には全くアンダーラインは引かれていない。

 常識的に考えて、アンダーラインを引くというのは、その部分を特に読んでもらいたいるという意味である。専門家の目から見て「具体性が乏しい」と評価される部分に単にアンダーラインを引いただけであれば、素人は、「そのアンダーライン部分を読みなさい」と受け止めるだけで、その内容が「供述の具体性に欠ける」との指摘だと理解できるわけがない。素人の検察審査会に対してそれを理解してもらいたいのであれば、アンダーラインを引いた箇所について、具体性がなく信用性がないことについての「わかりやすい説明」をするのが当然であろう。
 このアンダーラインが「信用性を減殺する箇所にもひかれているから、検察審査会を誘導する意図はなかった」というのは、全くの「詭弁」であり、このアンダーラインが「価値中立的」などと強弁するのは、法務省刑事局長としての見識を疑わせる発言と言わざるを得ない。

 しかも、斎藤報告書の石川氏のアンダーラインが引かれた部分が、実は、実際の石川氏の供述内容とは全く異なることは、冒頭で述べた拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)での対談の中で、石川知裕氏が田代検事の取調べ録音記録に基づいて述べているところから、既に明らかになっている。
田代報告書では、「石川氏が、勾留中の取調べで、小沢氏への報告了承を認めた経緯を回想した」ように書かれているが、そのようなやりとりは、5月17日の取調べの中では存在しなかっただけではなく、逮捕勾留中の取調べでも全くなかった。
実際には、石川氏は、政治資金に関する小沢氏への報告に関しては、「毎年、年末に大まかに政治資金の収支を報告するだけで、収支報告書の内容について具体的に報告等はしない」と一貫して供述していたにもかかわらず、田代検事は、「上司が納得しない」とか「この程度なら小沢氏は起訴されない」などと言って、石川氏の供述調書を、小沢氏への具体的な報告・了承を認める内容にするべく、ひたすら、説得していただけだった。
取調べの録音記録の反訳書の中に、田代検事の「要するにさ、ぼくはあの、石川さんに対してね、ま、色んな技をさずけて調書にした部分もあるけども。」という言葉が出てくるが、それは、そのような田代検事の説得によって、石川氏が実際の供述内容とは異なる内容の調書の作成に応じてきたことを、同検事自身が「色んな技をさずけて調書にした」と表現して認めている趣旨である。田代検事自身が、石川氏の実際の供述内容が供述調書の記載とは全く異なっていることを自白しているのである。
しかも、このような不当な取調べと供述調書作成のやり方は、今年2月、東京地裁の小沢氏公判の証拠決定の中でも裁判所が厳しく指摘し、田代検事が作成した石川氏の供述調書の殆どが証拠却下される理由とされている。斎藤報告書に書かれている石川氏の供述内容は、信用性や具体性の問題以前に、そもそも、実際に話していることとは全く違い、ねつ造ともいえる内容であり、「取調べで実際に話した内容を供述調書にする」という最も根本的な当然のルールが守られていないことが明らかになっている。
「信用性」「具体性」などの言葉を振り回してごまかそうとしても、既に、化けの皮は剥がれているのだ。

 稲田刑事局長は、この2回の法務委員会の質疑において、最高検報告書の内容について、何を聞かれても、「刑訴法47条により訴訟記録は公開できない」「不起訴処分にかかることはお答えを差し控える」などの理由で答弁を拒んだ。しかし、そもそも、刑事事件の具体的な内容が公開されないこととされている理由は何であろうか。主な理由は、第一に、刑事事件の内容は、当事者、関係者のプライバシーを含んでいること、第二に、捜査活動等の具体的な中身を明らかにすると、秘匿しておくべき捜査手法が公になり、今後の犯罪の摘発などの刑事司法作用に支障を生じる恐れがあることであろう。
 しかし、第一に関して言えば、今回の事件は、東京地検特捜部の捜査に関して行われたものである。被疑者側にとっては職務行為そのものであり、プライバシーの問題ではない。しかも、捜査の対象者である小沢氏や石川氏の側は、そのような「特捜部の犯罪」について積極的に明らかにしてほしいと望んでいるはずで、プライバシーの保護を訴えるわけがない。第二に関しては、この事件は、まさに刑事事件の捜査の中で、不当極まりない取調べや捜査報告書の作成が行われたことが問題になっているのであり、そのような捜査は今後二度と行われないよう、真相を明らかにして公にすることが求められていることは言うまでもない。そのような不当な捜査手法には、秘匿しておくことの意味など全くないのである。

 今回の一連の事件は、検察の捜査自体に関して検察官の職務上の犯罪が問題にされている検察の組織としての不祥事そのものである。それに対しては、十分な情報開示と説明責任を尽くすことなしに、信頼回復はあり得ない。一般の刑事事件と同様の非公開、非開示の原則を持ち出して、それに背を向けていたのでは、前記拙著の対談の中で小川前法務大臣が述べている「検察は今後50年信頼回復できない。」という言葉が、そのまま妥当すると言わざるを得ない。
 

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尖閣不法上陸への弱腰対応も、「検察崩壊」の病弊

 沖縄県警は、香港の活動家らによる沖縄県・尖閣諸島上陸事件で、出入国管理及び難民法(以下、「入管難民法」)違反(不法入国)で逮捕した中国人5人を、検察庁に送致せず、入管当局に引き渡した。
 8月18日付産経新聞は『松原仁国家公安委員長は17日の関係閣僚会議で、「わが国の領土、主権を侵害する目的での不法入国は通常より重く罰するべきで、そうした法整備を検討すべきだ」と述べ、領域警備の法整備を急ぐ必要性を強調した』と報じている。
 確かに、主権を侵害する目的での不法入国を厳しく処罰するための法整備の必要はあるだろう。しかし、同じ不法入国でも、その動機・目的等によって犯罪の情状は大きく異なるのであり、今回の事案に対する刑事処分に当たっても、それを考慮して、法定刑の範囲内で厳しく罰することのは、刑事処分の在り方としては当然である。法整備の必要性があることと、現行法の下で、国家の主権を侵害する犯罪行為に対して厳正な刑事処分を行わかった理由とは全く別個の問題である。
 今回の入管引渡し措置は、入管難民認定法65条の「他に罪を犯した嫌疑のないときに限り、・・・書類及び証拠物とともに、当該被疑者を入国警備官に引き渡すことができる。」と規定によって行われたものであるが、この規定の趣旨は、不法就労を目的とする不法入国や不法滞在などのような単純な事案は、そもそも国内に在留する資格がないのであるから、国内法で処罰するより、早急に国外に退去させて、違法状態を解消する方が、入管難民法の趣旨に沿うとの考え方で、そのような場合に「入管引渡しができる」としているものである。日本国の領土や主権を侵害する目的で、我が国の海上保安部の巡視船の制止を振り切って、強引に日本領土内に侵入したような事案に適用されるべき規定ではない。

 今回のような確信犯的な不法上陸事案は、刑事事件としての評価・判断からすれば、極めて悪質な刑事事件として、当然、逮捕・勾留して起訴すべきだ。それを行わなわず、入管引渡しの上、国外退去という措置をとるとすれば、日中関係を考慮した「外交上の判断」によるものとしか考えられない。
 憂慮すべきことは、今回の措置が、入管難民法の規定に基づく「刑事事件としての当然の措置」のように説明されていることだ。もし、この種の主権、領土の侵害事件に対して厳正な刑事処分を行わないという判断が、「法律上、司法上の当然の判断」とされるのであれが、もはや、我が国は、国家としての体をなしていないと言わざるを得ない。
 なぜこのような弱腰の措置がとられたのか。 その背景には、刑事司法機関としての厳正な対応と外交上の適切な判断・対応を両立させるスキームが、現在の日本では全く機能していない実情がある。その原因となっているのが、不祥事が相次ぎ、信頼を失墜し、重要事項についての主体的判断すら困難になっている検察の現状である。

今回のような国家の領土、主権を侵害する不法上陸事案に対して、国家として、厳正な刑事処分を含む適切な対応を行うために重要なことが二つある。
 一つは、厳正な刑事処分に向けての刑事司法機関としての万全の対応である。そのためには、まず、不法上陸を水際で阻止する活動を行う警察、海上保安部等の第一次捜査機関が、犯罪の立証のための十分な証拠収集を行うことが必要であるが、犯人の身柄の拘束及びその継続の必要性の判断を含め、事案の重大性・悪質性に応じた刑事処分に向けての対応を総括するのが検察である。
 そして、もう一つ重要なことは、内閣として、適切な外交上の判断を行い、それに基づいて、最終的な刑事処分を決定することである。この種の事案に対しては、、国家としての主権を守るとともに、他国との適切な外交関係を維持するための判断が求められる。これは、刑事司法機関の所管外の事項であり、内閣として責任ある判断をすることが求められる。

 この種事案については、刑事事件として対応に、外交上の判断・対応を反映させる必要があり、そのために活用されるべきなのが、内閣の一員である法務大臣の検事総長に対する指揮権である。外交上の判断によって刑事事件としての対応を変更する必要があるときには、外務当局も含む内閣の判断に基づき、法務大臣が検事総長に対する指揮権を発動して、身柄拘束の継続等の刑事処分を決定する。検察は、外交上の判断が必要な事件であれば、逐一、法務大臣に「請訓」という形で、指示を仰ぐことにことになる。
  ところが、大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事で検察への信頼が失墜していた2010年9月に起きた尖閣諸島沖での中国船の公務執行妨害事件で、そのような検察と内閣の関係を損なう重大な問題が発生した。
 中国船船長の釈放が決定されたた際の会見で、那覇地検次席検事が「最高検と協議の上」と述べた上で、「日中関係への配慮」が、釈放の理由の一つであることを明らかにした。すなわち、この事件での船長の釈放という検察の権限行使において、検察が組織として外交上の判断を行ったことを認めたのである。そして、このような検察が外交問題に配慮したかのような説明に対し、当時の仙谷官房長官は「了とする」と述べた。
 このような検察の対応が、検察独自の判断だとは考えられない。検察としては、厳正な刑事処分に向けての対応を粛々と進めていたはずだ。船長の釈放は当時の内閣の判断によるものであることは、誰の目にも明らかである。ところが、外交関係への配慮も含めて、すべて検察の責任において行ったように検察側が説明し、内閣官房長官がそれを容認する発言をした。それによって、検察の刑事事件の判断についての信頼が損なわれる一方、内閣が負うべき外交上の責任は覆い隠されてしまった。このような対応に、当時、大阪地検をめぐる重大な不祥事に揺れていた検察と、本来検察の人事権を握っている内閣との関係が大きく影響したことは想像に難くない。

 今回の不法上陸事件に対しては、刑事司法機関として、検察への送致、勾留、起訴という厳正な刑事処分に向けての対応を行う一方、内閣として外交上の判断によって、その刑事処分に向けての対応を変更する必要性について判断し、必要があれば、それを法務大臣指揮権の発動という形で、内閣の責任を明確にして実行することであった。 しかし、現在の内閣と検察の関係からすると、そのような対応が適切に行えるとは思えない。
 
 陸山会事件の捜査をめぐる虚偽捜査報告書による検察審査会の誘導の疑惑等に対して、検察は、6月末に不起訴処分と調査結果を明らかにし、「身内に大甘」な対応と、厳しい批判を浴びたばかりだ。しかも、その過程で、小川前法務大臣が「国民に納得できる処分」を求める指揮権発動を検討していたことを明らかにし、指揮権発動の在り方も話題になった。
 検察への国民の信頼は「崩壊」に近い状態にある現状の下では、検察が、刑事処分に対して法務大臣が指揮権で介入することに対しては、いかなる場合であっても避けたいという意向を持つことも、十分に考えられる。今回の不法上陸事件で、検察への送致が行われず、入管引渡しで済まされたことで、検察幹部は胸をなでおろしているのではなかろうか。内閣と検察の適切な関係と役割分担を維持するためには、検察が信頼できる健全な組織であることが不可欠だが、それとは程遠いのが検察の現状だ。

 このような状況が続けば、我が国は、領土と国民の安全を守るという主権国家としての最も基本的な機能すら失われてしまいかねない。その背景に、検察という国家の刑事司法作用の要であるべき組織に対する信頼が崩壊している現状がある。「検察崩壊」の病弊が、我々日本国民にとっていかに深刻なものか、再認識すべきであろう。

 

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