「正義を失った検察」の脅威にさらされる「400万中小企業」

「検察崩壊」書籍表紙写真検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)、Amazonに予約が殺到、9月1日の発売未だに在庫切れの状態。このようなジャンルの本が、なぜこれ程までに注目されるのか、その理由は、著者の私にもわからない。孫崎亨氏の「戦後史の正体」が大ベストセラーになっているのと同様に、これまで、秘密のベールに包まれてきた戦後のわが国の中枢部分の真相が明らかになりつつあることに、世間の関心が集中しているということなのかもしれない。

こうした中で、検察捜査が「普通の市民」に牙を向くことの恐ろしさを描く迫真のノンフィクションが公刊された。産経新聞多摩支局長の石塚健司氏の著書「四〇〇万企業が哭いている ドキュメント検察が会社を踏み潰した日」(講談社)だ。

「検察崩壊 失われた正義」で明らかにした「検察の信頼崩壊」の深刻さは理解されても、多くの国民にとって、それは「自分達には関係のない世界」と思われているであろう。東京地検特捜部と言えば、政界捜査や大規模な経済事犯を手掛ける捜査機関、対象になるのは小沢一郎氏のような政治家や堀江貴文氏のような大企業の経営者で、一般の中小企業経営者や普通のサラリーマンには無縁の世界と思われていたはずだ。しかし、石塚氏の本では、長引く不況の中、懸命に中小企業の経営に取り組む経営者と、それを必死に支える経営コンサルタントが、特捜捜査に踏み潰されていく経過が生々しく描かれている。

それは、大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事等で失墜した検察への信頼を回復するための「検察改革」が進められている最中の昨年9月に、東京地検特捜部が独自捜査に着手した事件だった。
2011年4月に「検察の再生に向けての取組み」が公表され、分野別専門委員会、監察指導部の設置、特捜部の身柄事件についての検事長指揮、総括審査検察官の指名、取調べの可視化の試行など施策が打ち出された。この事件は、まさに、それらの改革策が実行されていた最中に、東京地検特捜部が手掛けたものだ。
しかも、その捜査を行ったのは、特捜部の特殊直告2班であり、検察改革の一環として廃止される直前に着手した事件だった。
「財政経済関係事件の捜査処理のための態勢を充実強化」の一環としての特捜部の組織体制の見直しによって特殊直告班(主として政界汚職事件など特捜部の独自捜査を担当する部門)は縮小し、一班体制とされることとなった。その同班が「起死回生の一打」を狙って手掛けたのがこの事件であった。

まさに、この事件は、検察改革によって生み出された事件と言っても良いのである。
検察への信頼が崩壊し、正義を失った検察は、本来の使命である政界捜査、大規模経済犯罪捜査を行う力をなくしたが、それでもなお強大な捜査権限を持っている。行き場を失った捜査の刃が、普通に働き、普通に生活する、普通の市民に向けられ、その仕事と生活が破壊されていく。
それがいかに恐ろしいことか、まさに「検察崩壊」の実相をまざまざと見せつけてくれる書だ。

書籍表紙写真エス・オーインクはメンズカジュアル衣料品の製造卸売会社、13年前に、朝倉亨氏が、妻とアルバイトの3人で始め、年商7億円の会社にまで成長していた。消費不況や東日本大震災の影響で販売が落ち込み、資金繰りに追われ、厳しい経営状況が続いているものの、人気ブランド商品を中心に販売は回復の兆しを見せ、社長の朝倉氏を中心に、社員が一丸となって、事業に取り組んでいた。
一方の佐藤真言氏は、中小企業向けの経営コンサルタント、「小説 日本興業銀行」(高杉良)に登場する中山素平氏のような「野戦病院さながらに駆け込んでくる傷ついた企業を建て直すために英知を尽くす『昭和のバンカー』」にあこがれて銀行員となったが、厳しいノルマを課され、「貸し剥がし」を強いられる銀行の支店営業の世界に幻滅し、入社6年目で退職。銀行の先輩が始めていた中小企業の経営コンサルタントの仕事に加わる。経営不振に喘ぐ中小企業の経営改善を指導し、銀行からの融資が受けられるよう経営者をサポートする。自分の利益を追求するのではなく、会社からの僅かな定額の報酬で、そのままでは破綻してしまいかねない中小企業を立ち直らせることに精魂を傾けていた。
そういう両氏に、東京地検特捜部の捜査という思いもよらぬ厄災がふりかかってきたのが2011年の7月だった。

きっかけとなったのは、前年におきた事件であった。2010年に、元銀行員Aが代表取締役を務める経営コンサルタント会社が国税局の査察を受け、Aが銀行に在職していた時に、大口の融資話をまとめてはリベートを吸い上げて巨額の利益を得、しかも、その融資先会社は殆ど営業実体がないにもかかわらず虚偽の決算報告書で優良企業のように見せかけていたことが明らかになった。査察調査の結果を受けて、東京地検特捜部がAを詐欺で立件し、その被害額は、立件された事件だけで15億円に上った。

この詐欺事件における元銀行員Aと、「元銀行員の中小企業向け経営コンサルタント」というところだけ共通していた佐藤氏を、検察は「粉飾決算の指南役」として捜査の対象とした。その顧客であったエス・オー・インクが「東日本大震災復興緊急保障制度」に基づく保証融資を受けたことが、粉飾決算によって融資金を騙し取った詐欺だとし、佐藤氏と朝倉氏を逮捕・起訴した。その捜査を手掛けたのが東京地検特捜部特殊直告2班、上記のように同班が廃止される直前の同年9月のことだった。

佐藤氏が関わっていた会社の経営者Bが、Aがいた銀行の支店から3億円もの融資を受けており、しかも、その融資金の使途が不明だった。石塚氏も著書で指摘しているように、Aと同様の経歴を持つ佐藤氏がこの融資スキームと使途に関わっていると睨んだところに特捜部の根本的な見立て違いがあった。

佐藤氏を、Aと同様の「不良コンサル」と見た特捜部は、Bに関する容疑で佐藤氏の自宅を捜索、捜索に赴いた係官は、佐藤の住まいのあまりの質素さに驚く。札束も、隠し財産も全くない。佐藤氏への取調べが始まり、その説明から、特捜部の見立てが完全に誤っていたことが明らかになっていくが、特捜部は、引き返そうとはしなかった。そして、佐藤氏が経営コンサルタントとして関わっていた中小企業の中から、融資詐欺の立件の対象とされたのが、朝倉氏が経営するエス・オー・リンクだった。単なる金融機関からの融資ではなく、東日本大震災の復興に関連する保証制度に基づく融資だったことを、「悪徳コンサルタント会社が実質破綻の中小企業を利用して震災復興の保証制度を食い物にした」という構図で組み立てたのだ。
朝倉氏の突然の逮捕で、銀行融資はストップ、会社は破産に追い込まれ、取引先の零細業者も連鎖倒産していく。詐欺に問われた信用協会の保証付き融資も、結果的に返済不能となる。被害弁償もできない1億円を超える詐欺事件では執行猶予もつかない。二人とも一審で実刑判決を受けて控訴中だ。

粉飾決算書の提出が詐欺罪の欺罔行為に当たるのか、証券市場への企業内容の公正開示を求められる上場企業と、非公開の中小企業とでは、粉飾決算の意味合いが違うのではないか、日本の中小企業の多くが粉飾決算を行っている実情はどう考えるのか、など法律上の論点はいろいろある。しかし、そういう理屈の問題は別として、まず、この石塚氏の著書を読み、そこで淡々と客観的に描かれている事実を基に、常識で考えてもらいたい。日々の仕事に、自らの使命に忠実に、懸命に生きている普通の市民の二人がやっていたことが、犯罪として処罰され、刑務所に入れられなければならないようなことなのだろうか。彼らを「悪人」に仕立て上げ、踏み潰していく東京地検特捜部のやり方こそ、まさに「悪魔の所業」そのものではないか。

借金なしでやっていける中小企業など殆どない。その借入に関して、「粉飾決算で騙して銀行から金を借りたから詐欺だ」という理由で一度強制捜査が行われれば、中小企業はただちに破産する。残された借金が「詐欺の被害」になる。石塚氏の著書のタイトルにもなっているように、検察がその気になれば、「400万中小企業」のどれを踏み潰すことも不可能ではないということだ。

刑事事件の公訴権(起訴権限)を独占するとともに、訴追裁量権が与えられている日本の検察は、犯罪事実が認められても、起訴を見送る「起訴猶予」の処分を行うことができる。世の中には、形式上は法令に違反し、罰則の対象となる行為であっても、それを敢えて刑事処罰の対象にする必要はない行為が無数にある。形式的には犯罪が成立しても、事件の実体からして処罰する必要のない事件を不起訴にする権限が与えられている検察は、独自の判断で事件を立件し捜査の対象としていく場合にも、事件の中身を的確にとらえ、刑事処罰に値するものなのかを適切に判断することが求められる。検察が判断を誤り、立件すべきではない事件を立件し、起訴すべきではない事件を起訴してしまった時、裁判所が無罪の判断を下すことは困難であり、しかも、形式上「弁償されていない財産上の被害」があれば、量刑も軽いものではすまない。

組織の内部だけで判断が完結する閉鎖的な検察組織は、社会の変化に適応することができない。経済社会で生起する様々な事案について、実態に即した適切な判断を行うことができない。それが検察が多く不祥事を起こし、組織の信頼が失われていった根本的な原因であることを、私は、「検察の正義」(ちくま新書)、「検察が危ない」(ベスト新書)、「組織の思考が止まるとき」(毎日新聞社)等で指摘してきた。しかし、その後も、検察は、暴走・迷走を繰り返した末、陸山会事件不祥事をめぐる対応で、組織としての自浄作用の無さを露呈、守り続けてきた「正義」をも失った。石塚氏の渾身のドキュメントは、そうした「検察崩壊」の現状が、社会全体にとっていかに危険なものになのかを、まざまざと見せつけてくれている。

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“検審騙しアンダーライン”を「価値中立的」と強弁する法務省稲田刑事局長

今年6月27日に田代政弘検事(同日付けで辞職)などに対する不起訴処分を公表した際の記者会見で、最高検察庁は、捜査・調査の結果と不起訴理由をとりまとめた「国会議員の資金管理団体に係る政治資金規正法違反事件の捜査及び調査等について」と題する書面を配布した。この書面は、一部の国会議員にも渡され、そのブログで公開され、既にネットの世界では広まっているが、最高検は、一般人への提供を頑なに拒んでいる。
その内容が「詭弁」「ごまかし」だらけで、不起訴処分の理由の合理的説明には全くなっていないことは、当ブログの「社会的孤立」を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している~で詳述した。
7月31日と8月28日の参議院法務委員会で、この「最高検報告書」について、法務省刑事局の稲田伸夫刑事局長が答弁していることを知り、インターネット審議中継の録画で視聴した。
陸山会事件捜査をめぐる今回の検察不祥事でまず問題になったのは、田代政弘検事が、石川知裕議員の取調べ状況に関して、全く事実に反する捜査報告書を作成していたことだった。しかし、疑惑の捜査報告書は、この「田代報告書」だけではなかった。
佐久間達哉特捜部長(当時)が作成して、斎藤隆博副部長(当時)に署名させたとされる捜査報告書(以下、「斎藤報告書」)、誰が見ても、検察審査会の判断を誤らせ、起訴議決の方向に誘導するために、作られたとしか思えない内容だった。
ところが、驚いたことに、稲田刑事局長は、その委員会で、斎藤報告書について、「石川供述の信用性を減殺する部分にもアンダーラインが引かれており価値中立的」と答弁しているのだ。余りに国民を馬鹿にした答弁と言わざるを得ない。

この検察不祥事に関して、指揮権発動まで考えていたことを明らかにした小川前法務大臣、不当な取調べ、虚偽報告書作成の被害者の石川知裕氏、元大阪地検特捜部長の大坪弘道氏、この事件を告発し検察審査会に審査を申し立てた「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」代表の八木啓代氏との緊急対談を収録し、この最高検報告書も全文掲載した拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)が、昨日全国発売されたが、発売前から、Amazonランキングでベストテンに入るなど、「検察に関連する書籍」としては考えられない程の注目を集めている。
孫崎亨氏の「戦後史の正体」が大ベストセラーになっているのと同様に、この国のどうにもならない現状への絶望感の中で、これまで知らされていなかったこと、隠されていたことを知りたいという国民の情念が、この本にも向かっているのかもしれない。何かが大きく変わりつつあるとしか思えない。
ところが、その委員会答弁で、稲田刑事局長は、「訴訟記録の非公開」「不起訴理由の不開示」などの原則を振りかざして、国民の間では既に崩壊してしまった「検察の正義」にしがみつき、国会での質問に対しても、「あなた達素人には、この程度の理屈で十分」とでも言わんばかりの態度で、客観的には完全に破綻した「詭弁」を平然と言ってのけているのである。その感覚のズレが、検察をめぐる問題がここまで深刻化した最大の原因であるということに、残念ながら、稲田局長を始め、法務・検察の幹部は全く気づいていないようだ。

斎藤報告書は、政治資金規正法違反事件で小沢氏が不起訴処分となった後、検察審査会で起訴相当議決が出されたことを受けて行われた再捜査を踏まえ、共犯性を検討した結果を報告する報告書である。
そこには同事件で起訴された石川知裕氏・池田光智氏の供述概要と小沢氏の弁解内容が書かれ、小沢氏への報告了承を認める石川、池田氏の供述と小沢氏の弁解の不合理性に関する記述にアンダーライン(下線)が引かれて強調されている。石川氏の供述内容は、起訴前の勾留段階のものから、保釈後、検審の議決を受けての再捜査の段階でのものまで含まれている。
そのアンダーラインの箇所は、石川氏の供述に関しては、「石川氏が小沢氏に政治資金収支報告書に虚偽の記載をすることについて報告した事実」「小沢氏がそれを了承した事実」、或いは、「それを認める石川氏の供述が真意に基づくもので信用できることを示す事実」などを述べている部分で、これらの箇所だけを拾い読みすれば、素人であれば間違いなく、小沢氏との共謀を何の問題もなく認定できると考えるはずである。
しかも、アンダーラインは、記載の内容を確認して供述者が署名した供述調書の引用部分だけではなく、田代検事が供述者の確認もとらず一方的に作成した捜査報告書の記載内容の引用部分にまで引かれている。その中に、「私が『小沢先生は一切関係ありません』と言い張ったら、検事から、『あなたは11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしょ。小沢一郎の秘書という理由ではなく、石川知裕に期待して国政に送り出したはずです。それなのに、ヤクザの手下が親分を守るためにウソをつくのと同じようなことをしたら、選挙民を裏切ることになりますよ。』と言われたんですよね。これは結構効いたんですよ。堪えきれなくなって、小沢先生に報告し、了承も得ましたって話したんですよね。」と話したとする記述が含まれている。まさに、石川氏の小沢氏への報告・了承についての供述経過が全く問題なく、信用できるように読める部分であり、田代検事が虚偽有印公文書作成罪の告発の理由とされたものだった。
このアンダーラインの問題は、検察の不起訴処分が出されるずっと前から、新聞等で報じられていた。5月6日付毎日新聞朝刊では、【特捜部長、検審への報告書に下線 「小沢元代表関与」部分】との見出しで、「当時の東京地検特捜部長が元代表の関与を疑わせる記述部分にアンダーライン(下線)を引いていたことが分かった。報告書は元代表と元秘書の共謀について肯定・否定の両論を併記しているが、強制起訴を議決した検察審査会に提出されており、検察当局は下線を引いた意図などを慎重に調べている。」などとしており、小沢氏の関与の疑いを強調する目的でアンダーラインが引かれた疑いがあることが指摘されていた。

これに対して、最高検報告書では、6月27日に検察が行った田代検事の不起訴処分等の理由について、、「斎藤報告書には、佐久間部長により、A氏(小沢氏)の共謀の認定に関わる部分にアンダーラインが引かれているところ、B氏(石川氏)の供述の信用性を減殺する事情に関わる部分にも、佐久間部長によってアンダーラインが引かれている。これらアンダーラインは、A氏への報告等に関するB氏及びD氏(池田氏)の供述については、起訴相当議決において、共謀に関する直接証拠と位置付けられている重要な証拠であり、他方、検察は、そのやり取りについて具体性に欠けるなどと評価していたので、そのやり取り部分等が検察審査会にわかりやすいように引いたものと認められる。」とされている。

 しかし、斎藤報告書のアンダーラインを引いた箇所を見る限り、「B氏の供述の信用性を減殺する事情に関わる部分にも、佐久間部長によってアンダーラインが引かれている」と述べているのが、一体どの部分を指すのか全くわからない。その点は、拙著「検察崩壊 失われた正義」の中の大坪氏と私の対談の中でも話題になっている。
 この点に関して参議院法務委員会で質問された稲田刑事局長は、7月31日には、「アンダーラインが引かれている部分は、必ずしも石川氏の供述の信用性を肯定する部分のみならず、減殺する部分にもアンダーラインが引かれているという意味で、価値中立的なアンダーラインの引き方であるというふうに私どもとしては考えております」と答弁し、さらに、8月28日には、その「減殺する部分」というのは具体的にどこかとの質問に対して、「アンダーラインは、石川氏の供述にかかる部分でございますが、特に収支報告書の不記載等にかかる報告にかかる部分でございまして、第一次の起訴相当議決で、小沢氏の共謀に関する報告に関する重要な証拠とされたところではございますが、他方で、検察は、そのやり取りについて具体性に欠けると評価していたわけでございまして、そのやり取りの具体性に欠ける部分などが検察審査会にわかりやすいように引いたものと考えています」と答弁した。

 こんな人を馬鹿にした答弁があるだろうか。前述したように、アンダーラインが引かれているのは、石川氏が、政治資金収支報告書に関して小沢氏に報告し、了承を得たと述べている部分である。それらの供述が全体として具体性に欠けているということが、検察が小沢氏を不起訴にした理由だというのは、その通りであろう。しかし、供述に具体性がないから信用性が減殺される、というのは、刑事の専門家の判断であり、その供述にアンダーラインが引いてあるだけでは、素人の検察審査員には、「具体性が欠けているから信用性がない」という判断はできない。抽象的な供述であっても、石川氏が、小沢氏に報告し了承を得たことを何回も繰り返し供述していて、しかも、前記の「11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になった」「ヤクザの手下が親分をかばうためのウソをつくようなことをしてはいけない」などと田代検事が条理を尽くして説得した結果、その言葉に心を動かされて調書に署名した、というようなことが書かれていれば、それだけで、検察審査員が、「小沢氏の共謀は十分に認められる」と判断するのは当然である。
 しかも、斎藤報告書には「石川氏の供述の信用性」と題する記述があり、「肯定的要素」としての、「保釈後の再捜査の取調べにおいても、小沢が石川から偽装工作等について報告を受けたことを強く否定していることとの関係で、どのような供述をすべきか思い悩みながらも、結局、小沢に報告をして了承を得たのは真実だからとして供述を維持した」という田代報告書の引用部分にアンダーラインが引いてあるが、石川供述に具体性がないことなどの「否定的要素」には全くアンダーラインは引かれていない。

 常識的に考えて、アンダーラインを引くというのは、その部分を特に読んでもらいたいるという意味である。専門家の目から見て「具体性が乏しい」と評価される部分に単にアンダーラインを引いただけであれば、素人は、「そのアンダーライン部分を読みなさい」と受け止めるだけで、その内容が「供述の具体性に欠ける」との指摘だと理解できるわけがない。素人の検察審査会に対してそれを理解してもらいたいのであれば、アンダーラインを引いた箇所について、具体性がなく信用性がないことについての「わかりやすい説明」をするのが当然であろう。
 このアンダーラインが「信用性を減殺する箇所にもひかれているから、検察審査会を誘導する意図はなかった」というのは、全くの「詭弁」であり、このアンダーラインが「価値中立的」などと強弁するのは、法務省刑事局長としての見識を疑わせる発言と言わざるを得ない。

 しかも、斎藤報告書の石川氏のアンダーラインが引かれた部分が、実は、実際の石川氏の供述内容とは全く異なることは、冒頭で述べた拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)での対談の中で、石川知裕氏が田代検事の取調べ録音記録に基づいて述べているところから、既に明らかになっている。
田代報告書では、「石川氏が、勾留中の取調べで、小沢氏への報告了承を認めた経緯を回想した」ように書かれているが、そのようなやりとりは、5月17日の取調べの中では存在しなかっただけではなく、逮捕勾留中の取調べでも全くなかった。
実際には、石川氏は、政治資金に関する小沢氏への報告に関しては、「毎年、年末に大まかに政治資金の収支を報告するだけで、収支報告書の内容について具体的に報告等はしない」と一貫して供述していたにもかかわらず、田代検事は、「上司が納得しない」とか「この程度なら小沢氏は起訴されない」などと言って、石川氏の供述調書を、小沢氏への具体的な報告・了承を認める内容にするべく、ひたすら、説得していただけだった。
取調べの録音記録の反訳書の中に、田代検事の「要するにさ、ぼくはあの、石川さんに対してね、ま、色んな技をさずけて調書にした部分もあるけども。」という言葉が出てくるが、それは、そのような田代検事の説得によって、石川氏が実際の供述内容とは異なる内容の調書の作成に応じてきたことを、同検事自身が「色んな技をさずけて調書にした」と表現して認めている趣旨である。田代検事自身が、石川氏の実際の供述内容が供述調書の記載とは全く異なっていることを自白しているのである。
しかも、このような不当な取調べと供述調書作成のやり方は、今年2月、東京地裁の小沢氏公判の証拠決定の中でも裁判所が厳しく指摘し、田代検事が作成した石川氏の供述調書の殆どが証拠却下される理由とされている。斎藤報告書に書かれている石川氏の供述内容は、信用性や具体性の問題以前に、そもそも、実際に話していることとは全く違い、ねつ造ともいえる内容であり、「取調べで実際に話した内容を供述調書にする」という最も根本的な当然のルールが守られていないことが明らかになっている。
「信用性」「具体性」などの言葉を振り回してごまかそうとしても、既に、化けの皮は剥がれているのだ。

 稲田刑事局長は、この2回の法務委員会の質疑において、最高検報告書の内容について、何を聞かれても、「刑訴法47条により訴訟記録は公開できない」「不起訴処分にかかることはお答えを差し控える」などの理由で答弁を拒んだ。しかし、そもそも、刑事事件の具体的な内容が公開されないこととされている理由は何であろうか。主な理由は、第一に、刑事事件の内容は、当事者、関係者のプライバシーを含んでいること、第二に、捜査活動等の具体的な中身を明らかにすると、秘匿しておくべき捜査手法が公になり、今後の犯罪の摘発などの刑事司法作用に支障を生じる恐れがあることであろう。
 しかし、第一に関して言えば、今回の事件は、東京地検特捜部の捜査に関して行われたものである。被疑者側にとっては職務行為そのものであり、プライバシーの問題ではない。しかも、捜査の対象者である小沢氏や石川氏の側は、そのような「特捜部の犯罪」について積極的に明らかにしてほしいと望んでいるはずで、プライバシーの保護を訴えるわけがない。第二に関しては、この事件は、まさに刑事事件の捜査の中で、不当極まりない取調べや捜査報告書の作成が行われたことが問題になっているのであり、そのような捜査は今後二度と行われないよう、真相を明らかにして公にすることが求められていることは言うまでもない。そのような不当な捜査手法には、秘匿しておくことの意味など全くないのである。

 今回の一連の事件は、検察の捜査自体に関して検察官の職務上の犯罪が問題にされている検察の組織としての不祥事そのものである。それに対しては、十分な情報開示と説明責任を尽くすことなしに、信頼回復はあり得ない。一般の刑事事件と同様の非公開、非開示の原則を持ち出して、それに背を向けていたのでは、前記拙著の対談の中で小川前法務大臣が述べている「検察は今後50年信頼回復できない。」という言葉が、そのまま妥当すると言わざるを得ない。
 

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尖閣不法上陸への弱腰対応も、「検察崩壊」の病弊

 沖縄県警は、香港の活動家らによる沖縄県・尖閣諸島上陸事件で、出入国管理及び難民法(以下、「入管難民法」)違反(不法入国)で逮捕した中国人5人を、検察庁に送致せず、入管当局に引き渡した。
 8月18日付産経新聞は『松原仁国家公安委員長は17日の関係閣僚会議で、「わが国の領土、主権を侵害する目的での不法入国は通常より重く罰するべきで、そうした法整備を検討すべきだ」と述べ、領域警備の法整備を急ぐ必要性を強調した』と報じている。
 確かに、主権を侵害する目的での不法入国を厳しく処罰するための法整備の必要はあるだろう。しかし、同じ不法入国でも、その動機・目的等によって犯罪の情状は大きく異なるのであり、今回の事案に対する刑事処分に当たっても、それを考慮して、法定刑の範囲内で厳しく罰することのは、刑事処分の在り方としては当然である。法整備の必要性があることと、現行法の下で、国家の主権を侵害する犯罪行為に対して厳正な刑事処分を行わかった理由とは全く別個の問題である。
 今回の入管引渡し措置は、入管難民認定法65条の「他に罪を犯した嫌疑のないときに限り、・・・書類及び証拠物とともに、当該被疑者を入国警備官に引き渡すことができる。」と規定によって行われたものであるが、この規定の趣旨は、不法就労を目的とする不法入国や不法滞在などのような単純な事案は、そもそも国内に在留する資格がないのであるから、国内法で処罰するより、早急に国外に退去させて、違法状態を解消する方が、入管難民法の趣旨に沿うとの考え方で、そのような場合に「入管引渡しができる」としているものである。日本国の領土や主権を侵害する目的で、我が国の海上保安部の巡視船の制止を振り切って、強引に日本領土内に侵入したような事案に適用されるべき規定ではない。

 今回のような確信犯的な不法上陸事案は、刑事事件としての評価・判断からすれば、極めて悪質な刑事事件として、当然、逮捕・勾留して起訴すべきだ。それを行わなわず、入管引渡しの上、国外退去という措置をとるとすれば、日中関係を考慮した「外交上の判断」によるものとしか考えられない。
 憂慮すべきことは、今回の措置が、入管難民法の規定に基づく「刑事事件としての当然の措置」のように説明されていることだ。もし、この種の主権、領土の侵害事件に対して厳正な刑事処分を行わないという判断が、「法律上、司法上の当然の判断」とされるのであれが、もはや、我が国は、国家としての体をなしていないと言わざるを得ない。
 なぜこのような弱腰の措置がとられたのか。 その背景には、刑事司法機関としての厳正な対応と外交上の適切な判断・対応を両立させるスキームが、現在の日本では全く機能していない実情がある。その原因となっているのが、不祥事が相次ぎ、信頼を失墜し、重要事項についての主体的判断すら困難になっている検察の現状である。

今回のような国家の領土、主権を侵害する不法上陸事案に対して、国家として、厳正な刑事処分を含む適切な対応を行うために重要なことが二つある。
 一つは、厳正な刑事処分に向けての刑事司法機関としての万全の対応である。そのためには、まず、不法上陸を水際で阻止する活動を行う警察、海上保安部等の第一次捜査機関が、犯罪の立証のための十分な証拠収集を行うことが必要であるが、犯人の身柄の拘束及びその継続の必要性の判断を含め、事案の重大性・悪質性に応じた刑事処分に向けての対応を総括するのが検察である。
 そして、もう一つ重要なことは、内閣として、適切な外交上の判断を行い、それに基づいて、最終的な刑事処分を決定することである。この種の事案に対しては、、国家としての主権を守るとともに、他国との適切な外交関係を維持するための判断が求められる。これは、刑事司法機関の所管外の事項であり、内閣として責任ある判断をすることが求められる。

 この種事案については、刑事事件として対応に、外交上の判断・対応を反映させる必要があり、そのために活用されるべきなのが、内閣の一員である法務大臣の検事総長に対する指揮権である。外交上の判断によって刑事事件としての対応を変更する必要があるときには、外務当局も含む内閣の判断に基づき、法務大臣が検事総長に対する指揮権を発動して、身柄拘束の継続等の刑事処分を決定する。検察は、外交上の判断が必要な事件であれば、逐一、法務大臣に「請訓」という形で、指示を仰ぐことにことになる。
  ところが、大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事で検察への信頼が失墜していた2010年9月に起きた尖閣諸島沖での中国船の公務執行妨害事件で、そのような検察と内閣の関係を損なう重大な問題が発生した。
 中国船船長の釈放が決定されたた際の会見で、那覇地検次席検事が「最高検と協議の上」と述べた上で、「日中関係への配慮」が、釈放の理由の一つであることを明らかにした。すなわち、この事件での船長の釈放という検察の権限行使において、検察が組織として外交上の判断を行ったことを認めたのである。そして、このような検察が外交問題に配慮したかのような説明に対し、当時の仙谷官房長官は「了とする」と述べた。
 このような検察の対応が、検察独自の判断だとは考えられない。検察としては、厳正な刑事処分に向けての対応を粛々と進めていたはずだ。船長の釈放は当時の内閣の判断によるものであることは、誰の目にも明らかである。ところが、外交関係への配慮も含めて、すべて検察の責任において行ったように検察側が説明し、内閣官房長官がそれを容認する発言をした。それによって、検察の刑事事件の判断についての信頼が損なわれる一方、内閣が負うべき外交上の責任は覆い隠されてしまった。このような対応に、当時、大阪地検をめぐる重大な不祥事に揺れていた検察と、本来検察の人事権を握っている内閣との関係が大きく影響したことは想像に難くない。

 今回の不法上陸事件に対しては、刑事司法機関として、検察への送致、勾留、起訴という厳正な刑事処分に向けての対応を行う一方、内閣として外交上の判断によって、その刑事処分に向けての対応を変更する必要性について判断し、必要があれば、それを法務大臣指揮権の発動という形で、内閣の責任を明確にして実行することであった。 しかし、現在の内閣と検察の関係からすると、そのような対応が適切に行えるとは思えない。
 
 陸山会事件の捜査をめぐる虚偽捜査報告書による検察審査会の誘導の疑惑等に対して、検察は、6月末に不起訴処分と調査結果を明らかにし、「身内に大甘」な対応と、厳しい批判を浴びたばかりだ。しかも、その過程で、小川前法務大臣が「国民に納得できる処分」を求める指揮権発動を検討していたことを明らかにし、指揮権発動の在り方も話題になった。
 検察への国民の信頼は「崩壊」に近い状態にある現状の下では、検察が、刑事処分に対して法務大臣が指揮権で介入することに対しては、いかなる場合であっても避けたいという意向を持つことも、十分に考えられる。今回の不法上陸事件で、検察への送致が行われず、入管引渡しで済まされたことで、検察幹部は胸をなでおろしているのではなかろうか。内閣と検察の適切な関係と役割分担を維持するためには、検察が信頼できる健全な組織であることが不可欠だが、それとは程遠いのが検察の現状だ。

 このような状況が続けば、我が国は、領土と国民の安全を守るという主権国家としての最も基本的な機能すら失われてしまいかねない。その背景に、検察という国家の刑事司法作用の要であるべき組織に対する信頼が崩壊している現状がある。「検察崩壊」の病弊が、我々日本国民にとっていかに深刻なものか、再認識すべきであろう。

 

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エネルギー意見聴取会問題と「やらせメール」問題

 エネルギー政策についての意見聴取会で、電力会社社員が原発を維持すべきだとの意見や、放射能によるリスクを過大評価すべきではないとの意見を述べた問題について、主催者側の政府や電力会社が厳しく批判されている。
 私も、毎日新聞から、九州電力「やらせメール」問題についての第三者委員会委員長を務めた立場からのコメントを求められ、昨日の朝刊に、「聴取会の趣旨が地域や一般住民から意見を聞く機会なのか、電力会社という当事者も含めた賛否を聞く機会なのか不明だった。政府は、意見を言う人の選考過程を事前にはっきりさせるべきだった。」とのコメントが掲載された。字数の制約で、私のコメントの中の一部だけが掲載されたものなので、この件についての私の見方を、少し詳しく述べておくこととしたい。

 まず、強調したいのは、今回の問題と、昨年の九電やらせメール問題とは「不透明性」という点で大きな違いがあり、これを同列に論じるべきではないということだ。
九電やらせメール問題について第三者委員会が指摘した問題の本質は、「原発をめぐる事業活動」「原発立地自治体首長との関係」の不透明性である。
 九電幹部と佐賀県知事とが、知事公舎で会談し、知事から玄海原発再稼働に関する説明番組への賛成投稿を要請する趣旨の発言を行い、それを受けて、多数の九電社員、グループ企業社員、取引先などが再稼働への賛成のメール投稿を行う、ということが、番組視聴者にも、地域住民にも全く知らされることなく行われた。そのような形で、玄海原発再稼働賛成の世論を形成しようとした、というものである。
 そのような不透明なやり方は、福島原発事故前の日本社会で、国、自治体、電力会社が一体となって「原発絶対安全神話」の下での、国策としての原発推進を行っていた状況においては、それ程反社会的なことではなかった。しかし、福島原発事故によって国民の多くが「制御不能になる施設の恐ろしさ」を目の当たりにしたことで「絶対安全神話」が崩壊し、原発を運営する電力会社と、万が一の事態に適切に対応すべき電力会社組織の信頼性について公正な判断を行うべき国、自治体とは、明確に切り離された存在でなければならなくなった。従前のような電力会社側の不透明な世論誘導的なやり方、原発立地自治体の首長と電力会社との不透明なやり方は絶対に許されない。そのような不透明性が、九電「やらせメール」問題の本質であるが、九電トップは第三者委員会の問題の本質の指摘を全く受け入れず、佐賀県知事を庇い続けてきたため、社会から厳しい批判を受け、最終的には、会長、社長が辞任に追い込まれることになった。
 一方、今回の意見聴取会での発言は、電力会社の社員であることを自ら明らかにした上で発言したものであり、電力会社側の行動に関して「不透明性」という問題はない。九電「やらせメール」問題という福島原発事故後の電力会社にとっての重大な不祥事の教訓を希薄化させないためにも、まず、この点を明確に認識する必要がある。

 では、今回の意見聴取会で電力会社社員が発言したことには問題はないのか。決してそうではない。私は、今回はむしろ、主催者側の政府、経産省資源エネルギー庁の側の問題だと考えている。
 討論参加者には事前にアンケートが行われたということなので、主催者側が、意見の内容や所属を把握した上で発言者として選定したことは間違いないであろう。しかし、「電源構成を含む望ましいエネルギーミックスのあり方を始めとした革新的エネルギー・環境戦略の策定に向けた国民的議論の推進に資すること」という意見聴取会の目的からすると、「国民的議論」の中に電力会社社員を含めることが適切だったのかは疑問である。
 重要なことは、電力会社は、原発問題に関する議論について、ある種のコンフリクト(利益相反)が存在するということだ。原発の再稼働問題は、安全性と季節的な電力需給の相関関係で議論されることが多いが、そこに隠れているのが電力会社の経営問題である。少なくとも、多くの電力会社の経営が、原発の建設やそれに関連する膨大な費用を、長期間にわたって償却していくことを前提にしているはずだ。大飯原発でも問題になったように、福島原発事故の経験を踏まえた万全の安全対策が講じられるまで原発再稼働ができないということになると、多くの電力会社の経営に重大な影響が生じ、極端な場合、現在の東京電力のように、国による救済が必要となるなど、経営の自立性が損なわれる事態になりかねない。
 原発を再稼働させることは、多くの電力会社の経営にとって、そして、電力会社役職員の経済的利益にとっても極めて重要なものであり、そういう電力会社の役職員の立場は、原発の再稼働をめぐる議論に関して、一般の国民とは利害関係が相当異なっていると言えよう。
本来、原発をめぐる議論の中心は、安全性の確保と長期的なエネルギーの自給等の国家戦略の問題のはずである。しかし、それだけでは、短期的な再稼働の必要性の説明にならない。そこで持ち出されるのが一時的な電力不足による停電の危険性の問題だが、原発問題は基本的には「電気が足りるかどうか」という問題ではないはずだ。なぜ、短期的な原発再稼働にこだわるのか、と言えば、原発が稼働できないことによって膨大な燃料費がかかるという電力会社の経営問題が大きな理由であろう。
 電力会社の役職員は、原発を含め、電力の安定供給という事業に当事者として関わってきた立場であり、その分、専門的、実務的な立場・経験から意見はエネルギー政策の議論にとって貴重なものである。しかし、その一方で、その発言の方向性にはコンフリクトがあることも否定できない。
 今回の意見聴取会の最大の問題は、そういうコンフリクトを考慮した上で、電力会社の社員を「国民的議論」の中に参加させることの是非について、主催者として十分な検討を行ったか否かである。
 単に原発積極活用の方向の発言者が少なかったので電力会社社員を選定した、ということであれば、エネルギー政策に関する公正な議論の場を設定する立場の主催者として配慮を欠くものと言わざるを得ないであろう。
 
 今回の問題は、原発問題に関する電力会社側の発言に対する国民の厳しい受け止め方を表している。電力会社の役職員が、エネルギー政策問題や、原発再稼働問題に関して発言を行うのであれば、当事者としての立場を明確にした上、「国民的議論」とは別の場で意見を述べるのが適切であろう。政府の側でも、その立場に十分に配慮しつつ、電力会社の社員にも、意見表明の場を与えるべきであろう。
今回のように、そこをはっきりさせないまま電力会社関係者が「国民的議論」に参加してしまうと、九電「やらせメール」と同レベルの問題のように誤解されることにもなり、それは、かえって、原発をめぐる公正で客観的な議論を妨げてしまうことにもなりかねない。
 
 官邸周辺での原発反対デモへの参加者は増え続け、猛暑の中での反原発集会でも10万人を超える一般市民の参加者が集まるなど、原発問題をめぐる社会状況は、福島原発事故前はもとより、九電と佐賀県古川知事との不透明な協力によって玄海原発再稼働一歩手前まで行った昨年夏の状況とも、大きく異なったものとなっている。
 福島原発事故という未曾有の事故を経験した国民のエモーションが、今後、どのような方向に向かうのかは全く予断を許さない。今回の、意見聴取会をめぐる問題は、政府が、そして、資源エネルギー庁という担当官庁が、原発をめぐる急激な環境変化にまったく適応できていない現状が端的に表れたものと言うべきであろう。

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「正義」を失った検察の今後

大阪地検の郵便不正事件をめぐる不祥事以降、相次いで表面化する検察不祥事、事件で失墜していた検察に対する社会の信頼は、6月27日に出された陸山会事件の捜査をめぐる問題についての処分の公表、最高検の調査報告書によって、完全に地に落ちた。

東京地検特捜部という、「検察の正義」の中核となってきた捜査機関で起きた「身内の犯罪」に対して、あらゆる「こじつけ」「詭弁」を弄して守り抜こうとする姿勢には、これまで、手掛けてきた組織犯罪事件で、検察が断罪に使ってきた「反省していない」「社会的責任を果たしていない」「酌量の余地はない」など言葉がすべて当てはまると言わざるを得ない。

最高検報告書の内容に対する批判は、既に、7月2日に出した本ブログの記事【「社会的孤立」を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している】で詳細に述べたが、検察も、報告書の内容が到底批判に堪え得るものではないことを自覚しているからか、報告書の一般人への提供を拒絶しているようだ。最高検報告書は、記者会見に出席した記者達に配っただけで、「一般公表」はしていない、ということだ(ネット上では、法務省から説明を受けた国会議員のブログ等で最高検報告書が私的に「公開」されているが⇒http://bit.ly/Ork199、それは、検察が正式に「公表」したものではない)。

今どき、組織の不祥事に関する調査結果の出し方として、「記者会見で配布しました。内容については新聞記事を見てください」ということで、済ますことなどできないのは、あまりに明白な常識であろう。ましてや、社会からの信頼が命と言える検察が、身内の不祥事に関する社会に対する説明として出した報告書に対する取扱いとしては、全くあり得ないものである。

私のブログのタイトルで使った「社会的孤立」という言葉が、残念ながら、検察にとって、早くも現実のものになっていると言えよう。

大阪地検をめぐる不祥事以降、「検察の信頼回復」という言葉は、数限りなく耳にしてきたので、多くの国民にとって、今回の問題への検察の対応で、「検察への信頼の失墜」と言われても、特に目新しいことには思えないかもしれない。

しかし、今回の問題に対する処分と報告書がもたらす検察への信頼の失墜は、これまでの不祥事に関するものとは質的に異なったものである。それは、我々の日本社会にとって、あまりに深刻である。

長い日本の刑事司法の歴史の中で、国民は検察に何を求めてきたのか。それは、「犯罪者、犯罪組織、そして犯罪そのものに対する厳正な対応」である。検察が起訴した事件の有罪率が99%を超えるという、裁判所の検察に対する絶大な信頼の背景にも、検察の社会からの揺るぎない信頼があった。それは、日本社会でこれまで治安が基本的に良好に維持されてきたことと決して無縁ではない。

「詭弁」「こじつけ」、健全な常識からは到底理解できない「屁理屈」が並べて、「身内の犯罪」を守ろうとした最高検報告書を出すことで、検察は、その命とも言うべき「厳正」という言葉を自ら投げ捨て、それとともに、長い歴史と伝統の中で守り続けてきた「正義」を失ってしまったのである。

もう一つ、忘れてはならない重要な事実は、そうまでして検察が守ろうとした「身内の犯罪」というのが、「組織の決定を覆そうとした反逆行為」であった疑いが濃厚だったということである。

4 月26日に言い渡された小沢一郎氏に対する東京地裁の一審判決が「「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」と述べているように、今回の問題というのは、虚偽の捜査報告書によって検察審査会の判断を誤らせようとした行為であり、検察が組織として行った「不起訴」という決定を、検察審査会という外部の機関の力を使って覆し、「公訴権」という「社会的な武器」を私物化しようとした疑いがある、というところが問題の核心である。

検察という、社会が捜査権限と公訴権という強大な武器を与えている検察内部で、組織内の一部の反乱分子が、虚偽の捜査文書を作成するという不当な捜査権限の行使まで行って、組織の決定を覆そうとする「組織に対する反逆行為」が疑われた。

それは、まさに「組織の統制」自体が働かなかったという問題なのであり、そのような疑いに対して、徹底した真相究明が行われ、解明した事実に基づいて「組織の統制」を回復する措置が講じられるのが、組織の健全性を取り戻す唯一の道なのである。しかし、最高検報告書で示された、今回の検察の対応は、組織の統制を取り戻す措置とは全く言えないものだった。

こうして「正義」を失ってしまった検察の今後は、想像したくないものである。

検察は、日々発生する刑法犯、覚せい剤などの犯罪に対して、警察を中心とする捜査活動の結果得られた証拠の評価と事実認定を行うだけではなく、それは、社会に対して、政治、行政に対して大きな影響を生じる犯罪の摘発という重要な判断を行ってきた。そして、国民は、政治家による犯罪、経済犯罪などに対して、検察が主導性を持って適切な判断を行うことを期待してきた。

そうした事件で捜査の対象となるのは社会的な地位、権力を持つ人間である。彼らに対して検察が捜査の刃を向けたとしても、今回の最高検報告書で身内の犯罪に対する姿勢で「厳正さ」を捨ててしまった検察に対して、理解納得も協力も得られるわけがない。

唯一行い得るのは、相手方の意向や立場を無視し強権を発動するというやり方である。それがいかに恐ろしい事態を招くのかは、想像に難くない。

この点に関して、もう一つ極めて重要なことは、統制機能を失った組織には、少なくとも「政界捜査」は絶対に委ねられないということである。

重大な政治的影響が生じる政界捜査については、慎重の上にも慎重な判断が求められる。証拠による事実認定と法律適用等について、検察が組織全体として適正に判断することが大前提である。今回、陸山会事件捜査に関して問題となったのは、その検察組織の決定を覆そうとする「組織に対する反逆行為」である。そのような行為に関する真相が全く明らかにされず、そのような反逆行為に対する責任も問われず、「身内に大甘」の処分で済まされたということになると、今後も、このような「反逆行為」が行われる危険を防止することはできない。それが、組織というものに関する常識である。

政治に重大な影響を及ぼす政界捜査を、そのような「統制不能の組織」に委ねることは到底できない。操舵機が故障した艦船、レーダーが壊れた戦闘機、銃身が捻じ曲がった小銃で戦闘行動を行うようなもので、危険極まりないものである。

これまで、国民の「検察の正義」への期待の核心に、政治腐敗に対する厳正かつ適正な捜査への期待があった。政治がますます迷走し、個人的、党派的利害ばかりが目につく政治家の行動に辟易している国民にとって、政治家の腐敗に対する検察の適正な権限行使への期待は、決して小さくはないはずだ。しかし、今回の最高検の調査・処分では全く何も手をつけられず、無傷のまま生き残っている特捜部には、その期待には応えることは絶対にできない。そうなると、大きなコストをかけて特捜部を存続させておく意味がどこにあるのか。

「正義」を失った検察の今後に、いったい何が期待できるのであろうか。

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「政策」と「政争」の関係

階猛議員の小沢グループからの離脱に関して、「政策」と「政争」を対比する見方をしたことに関して、何人かの方々からご意見を頂いた。 私なりに、政治活動における「政策」と「政争」の関係について整理してみたいと思う。

「政策」と「政争」は、相互に、手段と目的の関係にある。

政治家や政党が掲げる「政策」を実現するための手段が「政争」である。それによって政権を獲得することで初めて「政策」を実現することが可能となる。いくら立派な「政策」を掲げていても、「政争」による権力奪取がなければ「絵に描いた餅」である。

一方、民主主義国家においては、「政争」は基本的に選挙を通して行われることになる。選挙における国民の選択において、「政策」は「政争」の重要な手段となる。国民に支持される「政策」を提示できるかどうかが、「政争」に勝ち抜き政権を獲得するための鍵を握ることになる。また、そもそも、「政争」による権力の奪取は、何らかの「政策」の実現という目的があって初めて正当化される。それがなければ、単なる権力欲実現のための「闘争」に過ぎないということになる。

このように、「政策」と「政争」は相互に補完関係にあり、どちらが欠けても完全なものとはならない。

「政策」に関して問題となるのは、それをどの程度具体化し、その優劣の判断を、誰がどのように行うのか、ということだが、最近では、国政に関してはマニュフェストが重視され、政党が掲げるマニュフェストを有権者が選択するという形で選挙が行われるようになっている。

問題は、マニュフェストで示された政策にどの程度の実現可能性があるのか、それをどう評価するかだが、それは、結局のところ、政党への期待と信頼の程度によることになる。

「政策」という面で言えば、最大の政策集団は官僚組織だ。有能な官僚が、合理的で緻密な政策立案とそのための立法作業を行い、政府与党の「政策」を支えてきた。政治は、官僚組織に政策面で依存してきたのである。

そのような官僚依存から全面的に脱却することをスローガンに、具体的なマニュフェストを掲げた民主党が圧勝し、我が国で初の選挙による政権交代が実現したのが2009年の総選挙であった。この時、国民の多くは、民主党という政党の「政策」実現を期待した。

しかし、現在の民主党野田内閣は、総選挙でのマニュフェストには掲げていなかった、というよりむしろ、否定していたに近い「消費税増税」という「政策」を、“政治生命をかけて”行おうとしている。

それに対して、小沢一郎氏を中心とするグループは、そのマニュフェストに反する「政策」に徹底して反対し、民主党を離党して新党を立ち上げた。消費税増税に反対に国民の声を、支持拡大につなげようとしている。

こうした小沢氏の政治手法には、常に、「政策」ではなく、「政争」「政局」中心という評価がつきまとう。「消費増税の前にやることがある」という主張が「具体的に何をやるのか」と批判されるのも、その一つである。

それは、官僚主導の国の在り方を根本的に覆そうとする政治勢力にとって、ある意味では不可避なのかもしれない。

「政争」による政権奪取は、本来、政策実現の手段のはずである。しかし、「政策」のプロでもある官僚に対抗して、独自の政策を立案し、その「政策」を掲げて「政争」に勝利することは容易ではない。そのため、「民主主義」「官僚主導の打破」というスローガンを全面に掲げて、まずは官僚側と結託した政治勢力との「政争」に勝つこと、「政策」の具体化は政権をとった後で、という考え方になる。勢力や支持の拡大には多額の政治資金が必要となり、「政策の具体化より権力の拡大」という姿勢とあいまって「金権腐敗」の批判につながる。

このような勢力による政権獲得が現実化すると、官僚組織にとっては大きな脅威となり、官僚組織側の権力機関である検察や、記者クラブの存在などで基本的に官僚と近いマスコミからも様々な攻撃を受けることになる。これに対抗して、政治活動は、ますます「政争」、「政局」中心となり、その分、「政争」によって政権を獲得した後の政策の具体性が希薄になっていく。

一方、民主党主流派は、仙谷氏など、野党時代、「政策」中心の政治を指向してきた政治家が中心だが、政権交代後、マニュフェストで掲げていた政策で実現したものや、具体的な成果ほとんどない。結局、その「政策」は、従来の官僚の発想から抜け出せず、めぼしい成果も挙げられないまま、民主党政権は終わりを迎えようとしている。

もともとは官僚組織と一線を画した「政策」の実現を標榜していたはずだが、小沢グループとの「政争」に明け暮れたためか、官僚組織と急速に接近し、「政策」においても官僚主導とほとんど変わらないものになった。「検察の暴走」に対して何ら有効な手立てが得られなかった原因も、根本的には官僚組織との距離感にあると言えよう。

小沢新党は、マニュフェスト違反の消費増税への世の中の根強い反発・不信を追い風に支持の拡大を図ろうとしているが、独自の政党として、民主、自民、公明の各党に対抗するためには、多くの政策課題に関するそれなりの具体的な政策を立案することが必要となる。小沢グループの中では「政策」中心の政治家だった階猛議員の離脱もあって、「政策」面の貧弱さは否めない。

「政策」と「政争」の複雑で微妙な関係は、既存の政治、社会システムの改革をめざす政治活動における永遠のジレンマだと言えよう。

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階猛議員から民主党を離党しなかった理由を聞く

7月2日、「消費税増税法案に反対した衆議院議員を中心に52人の国会議員が民主党を離党」と報じられた後、「二人の議員は離党せず、民主党残留、離党議員は50人」となった。その二人の中に、小沢氏の地元岩手選出の階猛議員がいた。

小沢グループの多数の議員が民主党を離党し、新党結成に動いた矢先、小沢氏にとって、まさに自ら育てた「親衛隊」とも言える議員に離反が出たことは、グループにとっても打撃となり、階氏は「裏切り者」という激しい非難にさらされている。

私は、2009年秋の民主党への政権交代後、総務省顧問・年金業務監視委員会委員長等として、当時、同省政務官だった階氏と、多くの案件で共に仕事をした。階氏は、長銀の銀行マン出身で弁護士資格も持つ。真面目で誠実な人柄、バランス感覚に優れている。

私は、その後も顧問等として総務省の行政に関わり、何人もの政務官と共に仕事をしてきたが、歴代の政務官の中にあっても、仕事に対する熱意・姿勢、実務能力に関して高く評価できる人材だと思ってきた。

「政策」より「政局」中心の政治家のように思われがちの小沢氏が、地元岩手、お膝元で、階氏のような政治家を育てたというのは、意外だった。階氏という政治家の存在は、私にとっての小沢氏という政治家に対するイメージを少なからず変えるものでもあった。

その階氏が、民主党離党・新党立ち上げの土壇場で小沢グループから離反し、世の中からこれ程まで激しく非難される状況に追い込まれている。一体、どういうことなのか。

私は、今回、小沢氏と共に民主党を離脱しなかった理由やその経過について階氏に直接聞いてみることにした。

――どうして、離党を思いとどまったのか

「小沢グループ内で、消費増税に関する三党合意法案に反対しても自ら離党はせず、民主党を政権交代当時の姿に戻すための活動を続けるべきだと言い続けてきた。我々の主張を実現する最大のチャンスである代表選挙も9月にある。我々が目指してきた、政権交代可能な二大政党政治が危うくなっている今だからこそ、小沢さんには党に残って活躍してもらいたいと、本人にも直接会って必死に説得を続けてきた。結局、離党派に押し切られてしまったが、私自身は、離党せず、民主党を本来の姿に戻し、健全な二大政党政治の確立を目指そうと思った」

――それなら、どうして離党届を預けたのか

「離党届を預けなければ、小沢グループの中心メンバーから外れ、小沢さんに意見を聞いてもらいにくくなると考えたからだ。離党届は預けたが、実際に届を出す前に必ず意志確認することを文書でも申し入れた。その上で、離党せずに小沢グループへの賛同者を党内で増やしていこうと小沢さんを最後まで説得し続けたがダメだった」

――離党しなくても民主党執行部側から除籍処分を受けていたのでは

「三党合意法案の党内了承手続きに小沢グループ以外の多くの議員が異議を唱えていたので、三党合意法案に反対しても、除籍処分まではないだろうと見ていた。民主党が法案の賛否にかかる造反者を除籍処分にした例も、今までなかったはずだ」

――離党・新党結成派の人達の見方と決定的に違う点はどこか

「近々の解散総選挙を必至とみるかどうかだと思う。近日中に解散総選挙に突入するのであれば、新党で戦った方が有利かもしれないが、私は、少なくとも年内はないと考えている。現在審議中の「一票の格差」解消のための法案を成立させ、区割りを見直し、新選挙区で総選挙を行えるようになるまで、軽く半年はかかるからだ。一票の価値が一番低く違憲状態が最もひどいのが野田総理の選挙区であり、この問題を解決しないまま野田総理が解散権を行使することはありえない」

――小沢氏と袂を分かち、民主党に残って今後の政治活動の展望はあるのか

「確かに展望が明るいとは言えない。しかし、消費増税法案に賛成した議員を含め、自民、公明両党との違いが分かりにくくなってきた現在の民主党のあり方に危機感を持っている議員は多い。私は、危機感を共有する若手議員らと連携し、この難局を乗り越えるために積極的に行動していきたいと考えている」

階氏の言うことも、それなりに筋が通っている。結局のところ、増税法案反対の政治活動を続けていくことに関する方法論の違いが決定的だったようだ。「離党届を差し出しておいて『離党しない』というのはあり得ない」と厳しく批判されているが、階氏の説明によれば、一旦は離党届を預けたのも、「法案に反対して離党はせず」という方針で行くことを小沢グループ内で最後まで主張するためだったということだ。

最大の問題は、階氏の意見が小沢グループ内で通らないことが明らかになった時点で、グループの多数に従うか、離脱するかの選択を迫られた階氏が離脱する道を選んだことの是非だ。階氏とグループの多数とどちらの見方と戦略論が正しいかは、今後の政争の行方、政局の展開如何ということになろう。

階氏は、小沢グループの中では、「政策」中心の政治活動を行ってきた政治家であり、「税と社会保障の一体改革」法案にも、政策的観点から反対の立場をとり続けてきたのだと思う。それが、今回の事態を「政争」中心にとらえ、離党・新党結成で一気に勢力を拡大したいというグループ内の多数との方針の対立を招いたのであろう。

今後の階氏をめぐる状況は極めて厳しい。従来の小沢グループから離反し、民主党内でも孤立した状態では、従来からの「政策」中心の政治活動をするのも、それを実現するための最低限の権力基盤がない。しかも、「裏切り者」「ユダ」の汚名が容赦なく浴びせられる。

しかし、そのような厳しい状況は当然覚悟した上での行動であろう。階氏には、従来通り、執行部を批判する方向で、独自の「政策」中心の活動を続けることで信念を貫いてもらいたい。解散総選挙までの期間はそれ程長くはない。逆境の中にあっても、民主党内での今後の議論に関して、目に見える形で成果が挙げられるかどうか、民主党に残ったことの意義を示せるかどうかが、「裏切り者」の汚名を晴らせるかどうかの鍵になると言えよう。

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「社会的孤立」を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している~

陸山会事件に関する東京地検特捜部の捜査の過程で、石川知裕氏の取調べ内容に関して田代検事が作成し、検察審査会に提出した捜査報告書に事実に反する記載があった問題等についての最高検察庁の捜査及び調査の結果をとりまとめた報告書が、6月27日に公表された(以下、「最高検報告書」)。告発されていた虚偽有印公文書作成等の事件の刑事処分は、田代検事は嫌疑不十分で不起訴、その他の検察官は「嫌疑なし」で不起訴。田代検事は、減給の懲戒処分を受けて即日辞職。当時の特捜部長と主任検事は戒告の懲戒処分を受けた。

最高検報告書の内容は、今回の問題に対する真相解明にはほど遠く、この問題に関する疑惑の説明にも全くなっていない。そして報告書の中で述べられている考え方や物の見方の多くは、内部だけで全てを決められる閉鎖的な組織の中だけにしか通用しない「身内の理屈」であり、社会の常識から理解できず、到底受け入れられるものではない。このようなことを続けていれば、検察はますます社会からの孤立を深めていくことになるであろう。

検察の組織内でしか通用しない「身内の理屈」

今回の陸山会事件捜査に関する一連の問題についての不起訴処分、懲戒処分の理由となる調査結果として最高検調査報告書で示されている内容は、完全に破綻していると言わざるを得ない。凡そ、刑事司法の中核として公訴権を独占してきた検察の調査結果とは思えないものである。

最高検報告書は、田代検事が石川知裕氏の取調べ状況について作成した捜査報告書(以下、「田代報告書」)において実際の取調べの状況とは異なる内容が記載されていることついて、虚偽有印公文書作成罪で告発されていた件について、

①    田代報告書は、取調べにおける石川氏の供述と実質的に相反しない内容となっている

②    実際にはなかったやり取りが記載されている点については、その記載内容と同様のやり取りがあったものと思い違いをしていた可能性を否定することができない事情が複数認められる。

というような理由で、田代検事が虚偽文書を作成する故意があったとは認められないから嫌疑不十分で不起訴、という結論を導いている。

しかし、これらは、いずれも、田代氏の虚偽文書作成の故意を否定する根拠には到底なり得ないものである。

 

まず、①に関して、最高検報告書は「検討すべき記載」を列挙しているが、それらは、田代報告書の中から、「実質的に相反しない」と無理やり言えなくもない箇所だけを抜き出しているに過ぎない。虚偽であることを否定できず、しかも、記憶の混同では説明できない箇所は、見事に除外されている。また、田代報告書に記載された取調べ状況が、全体として実際の取調べ状況と全く異なったものであることも明らかである。それが典型的に表れているのが、田代報告書の冒頭の被告人の取調べへの同意に関する記述である

田代報告書冒頭の記載は完全な「捏造」

同報告書の本文は、「取調べの冒頭,本職が『貴方は,既に政治資金規正法違反の事実で公判請求されており,被告人の立場にあるので,取調べに応じる義務はないということは理解していますか。』と質問したところ,石川は,『その点については,弁護士からも説明を受け,良く理解しています。弁護人から,今回の事件については既に被告人となっているので,無理に取調べに応じる必要はないという説明を受けましたが,小沢先生に対する不起訴処分について,検察審査会が起訴相当の議決をしたのを受けての再捜査でしょうし,私自身も深く関与した事実についてのことですので,本曰は,任意に取調べを受けることにして出頭しました。』旨述べ,取調べを受けることに同意した。」から始まっている。

しかし、石川氏が密かに録音していたレコーダーの反訳書によると、実際の取調べでは、そのような被告人の取調べに関する発言は全くなく、取調べは、「石川さんさ、録音機持ってない」という田代検事の質問から始まり、「大丈夫です」と答える石川氏に対して、なおもしつこく「大丈夫?下着の中とか入ってない?」などと、録音機を持っていないかどうかを尋ねている。その後の取調べのやり取りの中でも、「被告人の立場にあるから取調べに応じる義務はない」という話は全く出ていない。報告書の冒頭の記載は全くの「捏造」である。

被告人の取調べというのは、刑事訴訟法的には極めて異例だ。捜査は起訴までの捜査段階においてなされるべきであり、起訴されたことで被告人となった者は、検察官とは対立する当事者になったのであるから、原則として取調べを行うことはできない。質問したければ、公判廷で裁判官、弁護人立ち合いの下で行うのが原則だ。石川氏は2002年2月に政治資金規正法違反で起訴され、被告人の立場だった。通常なら取調べを行うことはあり得ないが、検察審査会が小沢氏の事件について起訴相当議決を出したため検察官が再捜査することになり、石川氏の取調べを行うことになった。

この場合、検察官は取調べの冒頭で、「被告人の立場にあるので、取調べに応じる義務がない」ということを告知するのが当然であり、それを行うことによって、あくまで例外である被告人の取調べが許されるのである。

実際には、その点の告知を全く行っていないのに、田代報告書では、あたかも、型通りに告知し、しかも、それに対して、石川氏の側が、「弁護人からも説明を受け、良く理解しています」などと言ったように記載されているが、全く架空のやり取りを捏造しているのである。

田代報告書と取調べ状況とが「実質的に相反しない」?

この点も含め、田代報告書に書かれている取調べの全体的状況は、以下のとおりである。

まず、被告人の取調べであり、本来は応じる義務がないことを認識させた上で取調べを開始したところ、石川氏は、従前の供述調書の内容について一貫して全面的に認める一方で、小沢氏の供述を否定することを気にして供述調書への署名を渋っていた。そこで、田代検事が、石川氏に供述調書作成に至る経緯を思い出させたところ、田代検事に言われたことを自ら思いだし、納得して小沢氏への報告・了承を認める供述調書に署名した、というものである。田代検事は小沢氏の供述との関係ばかりを気にする石川氏に、従前と同様の供述調書に署名するよう「淡々と」説得しているだけで、全く問題のない「理想的な取調べ状況」が描かれている。供述調書作成・署名の経過が、この通りだとすれば、誰しも、石川氏の供述調書は信用できると判断するであろう。

ところが、実際の取調べ状況は全く異なる。

最高検報告書では、この時の田代検事の石川氏の取調べに関して「小沢氏の関与を認める勾留中の供述を覆すと、検察は起訴処分に転じ、従前の供述を維持すれば不起訴処分を維持することになる」、「従前の供述を覆すと、検察審査員も石川氏が小沢氏から指示されて供述を覆したものと考え、起訴議決に至る可能性がある」なとど言って、従前の供述を維持するように繰り返し推奨したこと、「検察が石川氏を再逮捕しようと組織として本気になったときは全くできない話ではない旨発言したこと」などを、「不適正な取調べ」として指摘している。

反訳書を見れば明らかなように、石川氏は、取調べの中で、何回も、小沢氏への報告・了承に関して、従前の供述調書の記載は事実と異なるとして、それを訂正するよう求めている。そのような石川氏の要求を諦めさせ、従前の供述を維持させるため、検察自身も「不適正」と認めざるを得ないあらゆる手段を弄しているのである。このような「不適正な取調べ」によって、ようやく従前の供述調書とほぼ同じ内容の供述調書に署名させたというのが実際の「取調べ状況」である。

一方、田代報告書に記載されているのは、石川氏が終始一貫して従前の供述調書の内容を全面的に認めている「理想的な取調べ状況」である。

田代報告書と反訳書とを読み比べてみれば、そこに記載されている取調べ状況が、誰がどう考えても「実質的に相反する」ことは明らかである。ところが、最高検報告書は、田代報告書の中から、録音記録中の同趣旨の発言と無理やりこじつけられなくもないような箇所だけを抽出し、「記憶の混同」で説明できない箇所は見事に除外して、両者が「実質的に相反しない」と強弁しているのである。

社会常識から逸脱した「捜査報告書に関する一般論」

さすがに、このような精一杯のこじつけをしても、「実質的に相反しない」との見解を一般人に理解してもらうことは困難だと考えたのか、最高検報告書は、田代報告書の内容が実際の取調べのやり取りとは異なっていることを正当化する理屈として「供述内容を報告することを目的とする報告書の記載に関する一般論」を持ち出している(4頁の[注])。「表情や身振り、手振り等のしぐさ、それ以前の取調べにおけるやり取りを含めたコミュニケーションの結果得られた供述の趣旨を取りまとめて記載する」ことが「一般的には許容され得る」というのだ。しかし、その理屈は、完全に社会常識から逸脱している。

捜査報告書は、供述調書とは異なり、供述者に供述内容の確認を求めることもなく、検察官が一方的に作成して上司に報告するものである。その報告内容について、表情や身振り、手振りなどを勝手に「供述」に置き換えて具体的な言葉で表現したり、過去の取調べで述べたことを、再度供述したようなに勝手に記載したりすることが許され、その報告を受けて、上司が、捜査や処分の方針を判断する、ということが検察庁の実務として当然のごとく行われるというのであれば、供述者の言いたいこととは全く異なった「供述内容」が上司に報告されることになりかねない。検察官の取調べを受ける際には、迂闊に表情を変えたり、手振り、身振りを交えたりすることはできないし、恐ろしくて取調べなど受けられないであろう。

取調べ検察官が、表情や身振り、手振りなどから、供述者の言いたいことを推測するのは勝手である、しかし、それは、実際に被疑者が言葉を発したというのとは違うのであるから、「表情等による推測」であることを報告書に明確に記載するのが当然である。

私も、過去に検察に勤務した経験から、そのような個々の検察官の裁量による「いい加減」な書面作成を許容する雰囲気が組織内にあったことは否定しない。しかし、それは、身内の中だけでしか許容されない「悪しき慣行」であり、世の中に向かって公然と正当化できるようなことではない。ましてや、近年、世の中のあらゆる組織がコンプライアンスとして組織内における適正な手続、報告などを求められている状況の中で、このような「開き直り」のような理屈を持ち出すことは、到底許されることではない。

「記憶の混同」を懸命に裏付けようとする検察

次に、前記②の、実際にはなかったと認めざるを得ないが、記載内容と同様のやり取りがあったものと思い違いをしていた可能性を否定することができない、としているのが、「小沢氏への報告等を認めた経緯に関する石川氏の供述」の部分、すなわち、「検事から,『貴方は11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしよ。そのほとんどは,貴方が小沢一郎の秘書だったという理由で投票したのではなく,石川知裕という候補者個人に期待して国政に送り出したはずですよ。それなのに,ヤクザの手下が親分を守るために嘘をつくのと同じようなことをしていたら,貴方を支持した選挙民を裏切ることになりますよ。』って言われちゃったんですよね。これは結構効いたんですよ。それで堪えきれなくなって,小沢先生に報告しました,了承も得ました,定期預金担保貸付もちゃんと説明して了承を得ましたって話したんですよね。」との記載である。

検察の再捜査の結果を受けた検察審査会の小沢氏を起訴すべきとする議決書の中で「石川は再捜査において、小沢への報告・相談等を認める供述をした理由を聞かれて、石川自身が有権者から選ばれた衆議院議員であることなどをその理由を合理的に説明し、小沢への報告・相談等を認めた供述を維持していることなどから、前記石川の供述には信用性が認められる」と述べているが、その根拠とされたのが田代報告書の前記記載である。

昨年12月の小沢氏の公判における証人尋問で、田代検事は、この部分が事実とは異なる記載であることを認めたが、「勾留中のやり取りと記憶が混同した」などと弁解していた。

そもそも、直近の取調べでのやり取りを、4か月も前の勾留中の取調べでのやり取りと混同する、などということがあり得ないことは常識で考えても明らかであり、もし、一般人の被疑者が、このような見え透いた弁解をしたら、多くの検察官が、「ふざけるな」と一喝するはずだ。

ところが、最高検報告書は、田代検事の弁解の裏付けとなるものを懸命に探し出して補強しようとしている。

「石川氏の著作物の平成22年1月25日の欄の記載」(佐藤優・魚住昭「誰が日本を支配するのか」所収の石川氏の「獄中日記」)の「十勝の有権者は小沢ではなく、石川に期待して投票したと言われるのがつらい。検事も痛いところをついてくるものだ」という記述があることを指摘して、上記のようなやり取りが、石川氏の勾留中の取調べの中で実際にあったと認定し、田代検事の「記憶の混同」の弁解を裏付けようとしている。

また、反訳書の中に、「なんか、ヤクザの事件、検事も言ってたけどね。石川さん。ヤクザの事件と同じなんだよね」との石川氏の発言の記載を見つけだし、これを、田代報告書の前記記載のやり取りがあったように勘違いした根拠としている。

「石川氏の著作物」に関して、田代検事は、昨年12月の小沢氏の公判での証人尋問で弁護人から追及を受けた際には、「保釈後に石川さんが著書中で言っていることなどについて記憶があって」などと証言し、5月17日の取調べの時点で、石川氏の「獄中日記」の存在を認識していたことが「記憶の混同」につながったと説明していた。しかし、その後、該当する著作物の発刊の時期が、取調べの3か月も後であることを指摘されたためか、最高検に対する田代検事の弁解内容からは、「取調べ時に石川氏の著作物のことが記憶にあった」という部分は消えてなくなっている。そして、「獄中日記」の記載のことは、最高検報告書では、「やり取りが石川氏の勾留中の取調べの中にあったことを最高検が認定した根拠」にすり替わっている。

そこで、田代検事が「石川氏の著書」について、なぜ客観的事実に反する証言をしたのかが当然問題になるが、最高検報告書では、田代検事についての偽証罪の成否の判断の箇所で、「著作物の発刊日という事後的に容易に判明する事項に関わる事柄について、偽証の制裁を認識しつつあえて記憶に反する証言をすることは考え難い」と述べているだけで、事実に反する証言をした理由は全く明らかにされていない。

「検察官がすぐバレるようなウソを意図的につくわけがない」というのは一般的にはその通りである。しかし、いずれにしても「すぐバレるような事実に反する証言」をしたことが証言の信用性を減殺する重要な事実であることは否定できない。

小沢公判で証人として喚問され、報告書の虚偽記載について追及されることが予想される状況の中で、田代検事が何らかの形で「著書での石川氏の発言」について情報を与えられ、「記憶の混同」の苦しい言い訳をする際に頭の中が混乱したか、或いは、言い間違えをしたのかどちらかであろう。記憶していることをそのまま証言していれば事実に反する証言をすることにはならないのであり、小沢公判での証拠却下決定で裁判所が述べた「にわかに信用することができない」という田代証言の信用性の判断は、「石川氏の著書」に関する証言の虚偽が判明したことで、一層厳しいものになったと言わざるを得ないであろう。

石川氏の「ヤクザの事件」という言葉に至っては、5時間にわたる録音記録の中から、雑談的に交わされたこのような言葉を見つけ出してくる集中力には、ただただ敬服するばかりだ。しかし、既に述べたように、田代報告書に記載されている石川氏との問答殆どが凡そ「でっち上げ」に近いものであり、この「ヤクザの事件」という言葉を石川氏が一回発していることぐらいで「勘違い」が裏付けられるものではないことは、常識で考えても明らかであろう。

一般の被疑者であれば、一顧だにされないような弁解を、可能な限りの材料を集めて最大限に補強し、最後には、その弁解が覆せないから、嫌疑が十分ではないとして不起訴にしたというのが、今回、「身内の犯罪」に対して、検察がとった姿勢である。このような「温情あふれる対応」が、あらゆる刑事事件の被疑者に対してとられるとすれば、日本は、犯罪者にとってパラダイスになってしまうであろう。

検察が「記憶の混同」の弁解を維持せざるを得ない理由

検察は、なぜ、これ程までに田代検事を庇い、必死で起訴を回避しようとするのか。それは、単に「身内の犯罪」に甘いということではない。大阪地検不祥事に関して、検察が、前田検事(当時)を、新聞報道で表面化した日に証拠隠滅で即日逮捕、大坪元特捜部長、佐賀元特捜部副部長を、犯人隠避で逮捕・起訴するなど、情け容赦なく斬り捨てたのが、同じ検察なのである。

フロッピーディスクデータの改ざんという犯罪が基本的に前田検事個人で実行された大阪地検不祥事との最大の違いは、田代検事の虚偽報告書作成が個人的犯罪とは考えられないことである。田代検事を厳しく追及し、処罰することになれば、小沢氏に関連する一連の捜査に関する東京地検特捜部の組織的な犯行が明らかにならざるを得ない。しかも、検察は、「検察の在り方検討会議」が開催されていた最中の昨年1月に虚偽捜査報告書の問題を把握した段階で、田代検事の「記憶の混同」によるものであり、虚偽公文書作成は成立しないとの判断を、最高検も含めて組織として行っている。そして、昨年12月の小沢公判での田代検事の「記憶の混同」の証言も、検察の組織的了承に基づいて行ったものであることは間違いないであろう。

「記憶の混同」の弁解が崩れてしまえば、田代検事個人の問題ではなく、特捜の組織的犯罪が明らかになり、また、その犯罪の隠蔽及び偽証の責任が上層部も含めた検察組織全体に及ぶことになりかねないのである。

田代検事の「記憶の混同」の弁解が信用できないとして、虚偽公文書作成罪が成立するとすれば、大坪・佐賀両氏について犯人隠避が成立するとの検察の判断とそれを全面的に認めた大阪地裁の一審有罪判決の見解を前提にすると、田代弁解を信用できるとして虚偽公文書作成罪の成立を否定し、捜査の対象にせず放置して、公表もしなかった昨年1月の検察の対応についても当然、犯人隠避罪が成立することになる。

最高検報告書は、この点を意識したのか、犯人隠避の不起訴理由に関して「事実のすり替えや虚偽報告をしたとは認められない」などと述べているが、大阪地検の犯人隠避事件に関しては、大坪氏は前田検事から故意の改ざんについて告白を受けておらず、告白を受けたことを否定する佐賀氏も、当然のことながら、大坪氏に故意の改ざんを報告したことを否定している。少なくとも大坪氏に関しては、故意の改ざんを認識していたことに関する証拠は極めて希薄である。殆ど証拠もないのに、大坪氏について「故意の改ざんを過失の改ざんにすり替えた」と主張している検察は、今回の事件では、田代検事の故意の虚偽公文書作成を「記憶の混同」によるものにすり替えたのである。

田代検事の「記憶の混同」は、まさに検察の組織防衛のための「生命線」であり、どんなに不合理であっても、社会常識に反するものであっても、守り抜かざるを得ないのである。

佐久間部長、木村検事擁護のための「詭弁」

このような、検察の組織防衛のための「温情あふれる対応」は、田代検事だけではなく、佐久間特捜部長、木村主任検事など、陸山会事件捜査を主導してきた他の検察官にも向けられている。

それが端的に表れているのが、佐久間部長と木村検事が田代検事に石川氏の取調べの状況に関する報告書の作成を指示した経緯と理由についての認定である。

最高検報告書は、佐久間部長と木村検事が田代検事に捜査報告書の作成を指示した経緯について、以下のように認定している。

再度の取調べに対して、石川氏は、小沢氏との共謀を認める従前の通りの供述調書の作成に応じた。そのことを木村検事が佐久間部長に報告したところ、二人の間で勾留中に石川氏が小沢氏への報告等を認めた経緯が話題となった。

佐久間部長は、石川氏の取調べで、「石川氏が小沢氏への報告等を認めた経緯」を振り返る供述があったのであれば、それについて報告書を田代検事に作成させるよう木村検事に指示した。

木村検事が佐久間部長の指示を田代検事に伝えたところ、田代検事は、石川氏が勾留中の取調べを回想し、「小沢氏への報告等を認めた経緯」についても供述していた記憶があったことから、その点も記載して田代報告書を完成させた。

このような経緯で報告書を作成した結果、実際には、実際の石川氏の取調べの中では行われていなかった「小沢氏への報告を認めた経緯を振り返る供述」を詳細に記載した事実に反する報告書を作成してしまったというのである。

しかし、田代検事の石川氏の取調べが終わった後になって、佐久間・木村の間で、突然、勾留中に石川氏が小沢氏への報告等を認めた経緯が話題になったのであれば、まず、その点に関する勾留中の取調べの経緯・状況について田代検事がどのように報告していたのかを木村検事に確認し、必要に応じて田代検事に確認するのが当然であろう。

しかも、再取調べで経緯をその経緯を振り返る供述があったかどうかも確認せず、「あったのであれば、それについて報告書を作成するよう指示をするように」などという無責任な指示の仕方はあり得ない。それは、「そういう供述があろうがなかろうが、あったような報告書を作成しろ」という指示と殆ど同じではないか。

しかも、信じられないことに、最高検報告書では、佐久間部長が、そのような指示をした理由について、「秘書事件公判における立証上有益だと考え」と認定している。仮に、石川氏が、再取調べにおいて「小沢氏への報告を認めた経緯を振り返る供述」をしたとしても、それを報告書にしておくことが、石川氏らの公判での立証上どのように「有益」なのであろうか。

本来は、起訴後、被告人の立場にある石川氏を取調べることはできないはずだが、この再取調べというのは、検察審査会の起訴相当議決を受けて、政治資金収支報告書の虚偽記入に関する小沢氏の共謀の有無に関する補充捜査として行う必要があったために、その目的のために例外的に行われたものである。しかも、その取調べの結果、小沢氏との共謀について従前の供述を維持する内容の供述調書が作成されている。それに加えて、「小沢氏への報告を認めた経緯を振り返る供述」を記載した報告書を作成するように指示したのである。しかも、佐久間部長は、その田代検事の捜査報告書を引用して、自ら捜査報告書を起案し、「小沢氏への報告等を認めた経緯を振り返る供述」の部分にアンダーラインを引き、斎藤副部長名義の自分宛の報告書にして斎藤副部長に署名させ、その報告書(「斎藤報告書」)を小沢氏の事件を審査する検察審査会に提出しているのである。それが、検察審査会での小沢氏の事件の審査・議決ではなく、石川氏ら秘書の事件の公判対策の目的だったなどという話を誰が信じるだろうか。それだけではない、もし、石川氏らの公判の立証に使う目的でそのような指示を行ったとすれば、検察審査会で議決を受けて、小沢氏の事件についての再取調べの名目で取調べを行っておきながら、実は、その取調べの結果を、石川氏の被告事件の公判対策のために転用しようとしたということであり、被告人の立場を無視した刑訴法上許されないやり方である。そのような指示を特捜部長として行うなどということは考えられない。

しかも、最高検報告書は、検察審査会による起訴議決制度の施行に先立って最高検が行っていた「起訴相当等の議決に係る事件の再捜査・処分に当たっては、起訴議決の内容を虚心坦懐に受け止め、これも踏まえ、必要な捜査を遂げ」と指示していたことを持ち出し、上記のように佐久間部長自身が起案した「斎藤報告書」の作成がこの指示に従って、小沢氏の事件を起訴すべく積極的に捜査を行ったものとして正当化しようとしているが(14頁)、佐久間部長による田代報告書の作成指示が「秘書事件公判における立証上有益だと考え」たからなのであれば、田代報告書を引用する斎藤報告書の作成目的が、小沢氏の起訴が相当だとする検察審査会の議決を「虚心坦懐に受け止め」たためだと弁解していることと矛盾する。

田代報告書に記載された取調べの状況は、実際の取調べ状況とは全く異なり、検察審査会の審査・議決を小沢氏起訴に誘導する内容であり、実際に、議決書でも引用されるており、議決に大きな影響を与えたことは誰の目にも明らかだ。そうなると、田代検事への報告書の作成指示の目的が小沢氏の事件に関連するものであれば、佐久間部長、木村検事に検察審査会の議決の誘導の意図があったことを否定できない。そこで、何とかしてそれを否定しようと、上記のような認定をしたのであろうが、ほとんど「詭弁」に近いものであり、まさに「語るに落ちた」というレベルと言わざるを得ない。

田代検事の「記憶の混同」の弁解を必死に維持し、佐久間部長、木村検事についても、田代検事に対する監督責任以外の責任は発生させないように腐心した末の、苦し紛れの事実認定は、「身内の理屈」というだけではなく、その検察内部における健全な常識をも逸脱するものになってしまっている。

「引き返す勇気」ではなく「引き返さない『開き直り』」

結局のところ、今回の最高検報告書では、陸山会事件の検察捜査をめぐる問題に関する事実解明は何一つ行われていないと言わざるを得ない。

事実が明らかになっていない以上、今回の問題が、検察審査会の議決を誘導する意図も全くなく、田代検事個人の不適正な取調べと報告書作成によって偶発的に起きただけの問題であることを前提とする報告書の末尾の「改善策」も、凡そ的外れなもので再発防止策に全くならない。それどころか、そのような無意味なものを、「改善策」と称して公表する無神経さを見せつけられると、もはや検察の信頼回復は絶望的と考えざるを得ない。

笠間検事総長は、検察改革に関して「引き返す勇気」を持つことを強調していた。しかし、今回の刑事処分と調査報告書の内容は、「引き返さず『開き直る』」という検察の姿勢を世の中に示すことになった。最後の望みを託した笠間総長への期待も空しく、検察に自浄能力が全くないことが明らかになった以上、社会からの健全な常識に基づく批判と、検察審査会の審査・議決など外部からの力によって、検察に解体的出直しを迫る以外に、国民に信頼される検察を実現する方策はない。

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「環境変化への不適応」としての識名トンネル補助金不正請求事件

沖縄では、昨年11月、識名トンネルというトンネル工事をめぐる補助金の不正請求の問題が表面化し、国からの5億8000万円の補助金返還をめぐって、県執行部と議会とが対立、補助金返還の補正予算を議会が承認せず、今月に入って、国の出先機関の沖縄総合事務局が、沖縄県側を補助金適正化法違反、虚偽公文書作成で「被疑者不詳」のまま告発するという、前代未聞の事態に発展している。
この問題の本質は、「談合システム」の解消に伴う公共工事発注をめぐる環境の激変に、沖縄県の行政システムが適応できなかったことにあり、また、中央から巨額の予算が投じられているにもかかわらず、沖縄における補助金等の予算執行の適正さを確保するための体制が極めて脆弱であることも背景になっているように思える。
沖縄県が設置した弁護士等による第三者委員会報告書(2012年2月)に基づき、この問題を、公共調達をめぐるコンプライアンスの観点から分析し、今後の沖縄県の対応について考えてみることとしたい。

事実経過と現状
2006年、沖縄県は、識名トンネル新設工事の一般競争入札を行い、大手ゼネコンと地元建設業者のJVが約23億円で落札した。その工事の施工中に、発注当初予定していなかった地盤沈下対策等の工事が必要となった。県側は、最終的に契約変更によって対応するとの前提で追加工事を行うよう指示し、追加工事を含む工事が続行され、工事は2008年10月に概ね完了したが、工事費の増額分は10億円余りに上った。
2009年1月に、その分増加した工事費用の支払のために、既に完了している工事から、別件工事として切り離しが可能な工事を抽出し、JVに対して、随意契約の手続きで2年度にまたがり合計10億円の工事を発注することにし、工期を偽って、既に工事は終了している工事についての約5億円の工事請負契約が締結された。
この工事は、国からの補助金で工事費の95%が賄われる補助事業であった。沖縄県は、随意契約で発注した追加工事分についても補助金を請求し、国から交付を受けたが、2011年に行われた会計検査院の検査で、虚偽の契約による不正請求が発覚、沖縄県は、国の出先機関の沖縄総合事務局から、金利分も含めて5億8000万円の返還命令を受けた。
沖縄県は弁護士等による第三者委員会を設置し、その調査結果や原因、再発防止策等を取りまとめた報告書が2012年2月に県に提出された。
そして、県当局は、国への補助金の返還金を含む補正予算を県議会に提出したが、議会は、返還金を削除した修正案を2回にわたって可決。県当局は「拒否権」を発動して返還金全額を国に支払った上、返還金命令の一部について国に不服を申し立てたが、同年5月 に申し立ては棄却された。
さらに、6月4日には、沖縄総合事務局は、補助金適正化法違反及び虚偽公文書作成の罪で「被疑者不詳」のまま、沖縄県警に告発を行った。この告発について、沖縄総合事務局は、「今回の告発を契機として、不適正な手段により補助金の交付を受けた同事案の経緯や責任の所在がより明らかになり、違反行為の是正に資することを期待しております。」とコメントしている。
5億8000万円の補助金返還について、県議会の承認も得られず、支出の根拠が得られないまま、沖縄県民の負担となる一般会計に巨額の損失が生じるという重大な結果が生じている。外形上犯罪の成立は明白であり、国の機関の告発である以上、警察としても、相当重く受け止めざるを得ず、虚偽の契約書を締結したり、補助金の不正請求をしたりした当事者や、それを了承した上司を特定した上、相応の処罰が行われることになるはずだ。
しかも、組織的な犯行の可能性が高いので、捜査状況如何では、県庁への捜索や被疑者の逮捕という事態も考えられないわけではない。
それに加え、週刊文春6月21日号の記事では、この問題を仲井真知事の個人的スキャンダルととらえ、知事が、自らの個人的な関係に基づき、工事を受注・施工したゼネコンに有利な取り計らいを指示した疑いを指摘している。
まさに、沖縄県の行政の信頼を根底から損ないかねない深刻な事態と言うべきであろう。

問題発生の原因
では、このような問題が発生し、ここまで深刻な事態に至った原因をどのようにとらえるべきであろうか。
識名トンネルの工事発注をめぐる問題のそもそもの発端は、06年の当初の本体工事の発注の際、47%という極端な低価格で落札されたことにある。
地中を掘削するトンネル工事の場合、施工の段階で新たな条件が判明し、工事内容を追加・変更する必要が生じる場合が多い。しかも、周辺地域の安全上の問題もあり、一度掘削を開始すれば、途中でやめるわけにはいかない。トンネル工事等のように自然条件に左右される土木工事では施工段階での工事の追加・変更は必然的とも言える。
識名トンネルの工事では、契約を後回しにして、現場指示で追加工事を施工させた後に、沖縄県と受注業者側で協議が行われたが、47%の低落札率が追加工事の代金にまで適用されることで工事代金が著しく低いものとなるため、業者側が納得しない。そこで、結局、業者側の要求どおりに追加工事代金を支払うために、実際には終了している工事を新たに発注したような虚偽の契約書を締結し、それによって補助金交付申請を行った。
追加で行った地盤強化工事自体は、行わなければ危険が生じる恐れがあり、工事施工上必要であった。しかも、当初工事の落札率が47%と極端に低かったために、追加工事を随意契約で発注しても総工事費は十分に当初の予算の範囲内に収まる。ということであれば、トンネルの新設という補助金事業の目的に沿うもので、実質的な問題は大きくないと沖縄 県側は考えたのであろう。

しかし、法令で定められた補助金申請・交付の手続のルール上は、そのようなやり方は許されない。国が交付する補助金については、補助事業の計画を作成して、その費用の見積りをして補助金申請を行い、補助金交付決定が出た後に補助事業を執行するというプロセスを踏まなければならない。補助事業者の方で既に事業が完了している工事の費用を補助金の方に「つけ回し」することはできない。
沖縄県側が、法令にしたがった対応を行うとすれば、当初の発注の段階で予定していなかった地盤強化工事を施工させる必要が生じた段階で協議を行い、その契約内容や工事代金について明確に取り決めておくことが必要であった。しかし、実際には、47%の落札率を工事価格に反映させるということになると、受注業者側の要求額との隔たりは大きく、協議が整う見込みはなかった。そうなると、建設工事紛争審査会のあっせん又は調停により解決を図るというのが正規の方法であった。
しかし、このような手続を行おうとすれば、そのために膨大な時間がかかり、その間、地盤改良工事を行わず、工事がストップすると、施工現場の近隣に危険を生じさせることにもなりかねない。既存の法令のルールの範囲内では解決が困難な問題であり、まさに「法令遵守」の限界を示す事例とも言えよう。
「談合システム」解消による急激な環境変化
このような困難な事態が発生したことの背景に、かつて日本の公共工事の世界に蔓延していた「談合システム」が、大手ゼネコン間の「過去からのしきたりとの訣別宣言」に伴って解消されたことによる公共工事発注をめぐる環境変化があると考えられる。
本来、工事の発注というのは、契約の段階で目的物が存在しておらず、契約後に工事施工という役務の提供が行われるという点で、同じ公共調達であっても物の売買とは大きな違いがある。工事の品質の確保という観点が不可欠であり、そのためには、契約の段階で施工業者の技術力、信頼性について評価する必要があるのに加えて、工事施工の段階でも、適切な工事施工が行われるよう発注者の側で継続的な管理を行うことも必要となる。
ところが、日本では、公共工事の発注についても、明治時代に制定された会計法により、「予定価格」を定めて入札を行い、予定価格以下で最も低い価格で入札した者と契約するという「最低価格自動落札方式」、つまり、業者の技術力や信頼性など価格以外の要素が基本的に考慮されない入札契約制度によって発注が行われてきた。
そのような法令上の制度の欠陥を補充する機能を果たしてきたのが「談合システム」であった。業者間で話合いによって受注予定者を決め、入札参加業者間でその業者が落札するよう協力するという談合が恒常化し、公共調達全体に蔓延していた。そして、それを発注官庁側も暗黙のうちに容認していた。
談合は違法な行為ではあったが、技術力や信用等の面から業者を業者間の話合いによっ て受注予定者に選定することは、公共工事の実態に適合できない入札契約制度の欠陥を補充する一つの「非公式システム」として、広く、公共工事の発注の世界に定着していた。
このような「談合システム」によって、受注業者間では「工事をめぐる長期的な貸し借り」が成立し、また、その中で安定的に利益を得ていくためには、業界内の秩序に従うことが求められた。発注官庁側の意向は、業者間の話合いによる受注者予定決定にも有形無形の影響を及ぼすことが多く、受注業者側が工事の施工に関して発注官庁側とトラブルを起こすことは、業界の秩序を乱す行為として、「談合システム」の下での不利益な取り扱いを受けることにつながりかねない。それが、発注官庁との関係で、受注業者の立場を相対的に弱いものにしていた。しかし、そういう立場に甘んじて発注者の意向に反しないように工事を受注し施工していくことは、業者に長期的には利益をもたらすものであった。
このような「談合システム」の下では、入札は形骸化していたので、その段階で工事の内容を厳密に確定しなくても、施工の段階で業者側の実情に応じて適宜変更していくことも可能だった。
それは、工事施工後に、新たに自然条件が判明し、工事の内容や工法を変更する必要が生じることが珍しくない土木工事に関しては、発注官庁側にとって多大なメリットがあった。地中のことは掘削してみないと正確にはわからないトンネル工事などはその典型であった。
「談合システム」が続いていれば、識名トンネルの工事について、そもそも落札率47%という低落札率での受注はあり得ず、工事施工後に判明した状況に応じて工事の追加・変更を行うことも容易だったはずだ。
しかし、2006年初めに、大手ゼネコン間で、「過去からのしきたり」との決別と称して談合排除の宣言が出されたことで、ゼネコン間の談合システムは一気に解消に向かった。それに伴って、公共工事の入札での価格競争が激化し、ダム、トンネル等の大型工事では、予定価格の50%以下の低価格受注も相次ぎ、ダンピング受注が建設業界の深刻な問題となった。
識名トンネルの工事での当初の工事発注は、「談合システム」が解消されたことによる混乱の最中で行われたものだった。公共工事の発注をめぐる環境は激変し、業者間はそれまでの協調関係から厳しい競争関係に、発注者と受注業者との間、相互信頼に基づく依存関係から、独立した契約当事者としての利害相反関係に、それぞれ大きく変化した。
当初の本体工事は、落札率47%という極端な低価格で落札・受注され、施工後の追加工事にもその落札率が適用されるということになると、受注業者側の損失は一層拡大することになる。そして、重要なことは、そこでの損失の見返りを「長期的な貸し借り」で解消しようにも、それを可能にする業者間の「談合システム」が存在しないし、発注官庁側との関係も、独立した契約当事者の関係で、将来的に、その損失を埋め合わせてもらうこと は全く期待できない。こういう状況において、沖縄県側と受注業者側との協議が難航するのは当然であろう。

環境の激変に適応できなかった沖縄県
今回の問題の最大の原因は、沖縄県の公共工事の発注のシステム、組織体制が公共調達をめぐる急激な環境変化に適応できなかったところにあったと考えられる。
当初の本来工事の入札の段階で、その後の、追加工事の発注方法、価格等についてルールが明確化されないまま、トンネル工事施工に必要な追加工事が、現場指示によって行われたために、工事が完了した後に、支払額や支払い方法をどうするかという深刻な問題に直面し、その際、受注業者側の要求どおりに工事代金を支払うために使われたのが、既に完了している工事についての請負契約書を作成して補助金を請求するという方法だった。
「談合システム」の下では、発注官庁と受注業者との間に継続的互恵関係があり、個々の工事の採算や利益へのこだわりも少なかった。しかし、それが解消され、競争と契約中心に世界になれば、追加・変更工事をめぐっても、契約当事者間の利害が衝突する。受注業者にとって、本来、契約外の工事をする義務はないのであるから、追加工事はやらないと言われればおしまいだ。しかし、それでは、安全に工事を完了することができない。このような状況になっても、迅速に適正に追加・変更工事の発注をするためのシステムと、それを運営するルールを構築する必要があった。
日本の公共調達に長年定着していた「談合システム」は、違法なものではあったが、それなりの経済的・社会的機能を果たすものでもあった。価格競争が制限されることで受注価格が高値に維持されること、発注官庁側と受注官庁側の癒着・腐敗を招くことなどの弊害をもたらす一方で、業者の技術力や信頼性の評価が可能であること、発注官庁側と受注者との信頼関係に基づく連携・協力が可能になることなどのメリットもあった。特に、工事施工後に新たな施工条件が判明することが多い土木工事については、その後の状況に応じて契約内容の追加・変更に柔軟に行う上でメリットがあったとみることができる。
このように、違法ではあるが社会的・経済的に一定の機能を果たしてきたシステムを解消して、競争と契約を中心とする新たなシステムに転換するのであれば、従来のシステムが果たしてきた機能を代替するシステムが必要となる。違法なシステムであっても「談合は違法だからやめれば良い。法令遵守を徹底すれば良い」という単純な発想では、問題は解決しないのである。
公共工事の入札における「総合評価方式」の導入は、「談合システム」が果たしていた業者の技術力や信頼性の評価を公式の制度として取り入れたものだったと言える。談合システム」が果たしていたもう一つの重要な機能が、発注官庁側と受注業者側の「契約外の協力関係」の維持だった。特に、工事発注後、施工段階で、自然条件の関係で工事の追加・変更の必要が生じることは避けられない土木工事などにおいては、工事を円滑に行う上で 多大のメリットをもたらすものであった。
「談合システム」の解消に伴い、独立した契約当事者としての発注官庁と受注業者との間で、土木工事の特性に応じて迅速かつ適正に追加・変更工事の契約を行い、それを適正に執行するシステムとそれを支える人的体制の整備が必要であった。それが整わないままで、トンネル工事が施工され、業者とのトラブルを処理しようとしたことが、補助金をめぐる重大な不正につながったのである。
なお、そのトラブル処理について「県知事が個人的なつながりによって受注業者の利益を図った疑い」を指摘したのが前出の週刊文春の記事であるが、疑いの根拠は示されていない。地盤強化工事等の追加工事を行わせ業者側に多大な負担をかける現場指示を行ったことに責任を感じた担当部局の現場レベルの判断で、業者側への支払いを行おうとしたとみる余地も十分にあるように思われる。

問題表面化後の沖縄県の対応に関する問題
このように、今回の問題の本質を、公共工事の発注のシステム、組織体制が公共調達をめぐる急激な環境変化への不適応ととらえた場合、沖縄県が、今回の問題で組織としての信頼を失墜することになった最大の原因は、補助金不正という問題そのものより、むしろ、問題表面化後の対応にあったとみることができる。
経済社会の環境変化は更に激しくなる中、組織がその変化に適応することは一層困難になっている。環境変化への不適応のために社会の要請に反し、社会からの批判・非難を受けることは、ある程度は避けられないものといえる。問題は、そのような事態に直面した場合、組織としてどう対応するかである。
環境変化に不適応に関しては組織の側に必ず何らかの問題がある。多くの場合、それは組織の構造に関わる問題である。そういう組織が不祥事を起こした際、構造的な問題を抱えた組織内の論理に凝り固まってしまったのでは適切な対応は期待できない。
そこで重要なのが、情報開示、説明責任である。今回の不祥事に関して適切に情報を開示し、説明責任を果たしていくことで、組織外からの適切な問題の指摘が行われ、それらを真摯に受け止め、組織の構造を改めることも可能となる。それが、組織が環境に適応し、信頼を回復していくことにつながるのである。
しかし、沖縄県が、今回の問題表面化後、そのような情報開示、説明責任を十分に行ってきたとは到底言えない。典型的に表れているのが、第三者委員会の報告書の取り扱いだ。せっかく委員会を設置し、報告書の提出を受けているのに、それをマスコミに配布しただけで、ホームページへの掲載や一般への配布を行っていない。第三者委員会は、ステークホルダーへの説明責任を果たすことを重要な目的としているものなのに、調査・検討の成果としての報告書に一般人がアクセスできないのでは意味はない。
このようなことを繰り返しているために、今回の問題に関する事実関係、原因、問題の 本質などが県民には全く理解されないまま、会計検査院の指摘、県議会での追及、沖縄総合事務局による告発等の事象が次々と報道されることによって沖縄県の組織に対する信頼が一層失墜していく、という最悪の展開になっているのである。
沖縄総合事務局による告発も、週刊文春の知事スキャンダルとしての報道も、まさに、そのような沖縄県当局の対応の拙劣さのために生じた副産物と言うべきであろう。
今からでも遅くない。第三者委員会報告書等に基づき、この問題の本質と真の原因をしっかり説明し、公共工事の発注をめぐる環境の変化に適応できる沖縄県としてのシステムとルールの構築を行っていく方針を明確化することが、信頼回復にとって不可欠と言うべきであろう。

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「取調べ可視化」の問題は、陸山会事件をめぐる検察不祥事の本質ではない

「陸山会事件の虚偽捜査報告書作成問題を受け、最高検は23日までに、再発防止策として、検察審査会の起訴相当議決を受けた再捜査の取り調べを、録音・録画(可視化)することを決めた」(時事通信)。
この記事を見て、私は唖然とした。あくまで新聞記事であり、検察が、本気で、この「起訴相当議決後の再捜査での取調べ可視化」を、今回の陸山会事件をめぐる検察不祥事の再発防止策と考えているのかどうかはわからない。しかし、もし、そうであるとすれば、問題は深刻だ。要するに、検察は、この問題の本質を全く理解していないということだ。
取調べの可視化は、特捜検察にとっても重要な問題だ。過去に「特捜検察の暴走」を招いた不当な取調べを防止するために、取調べの可視化は有力な手段だ。しかし、そのことと、今回の事件を、田代検事の取調べの不当性の問題として捉えるべきだということとは全く異なる。
改めて認識すべきは、陸山会事件捜査をめぐるの問題は、3年前の検察審査会法の改正で導入された「検察審査会の起訴議決による起訴」という制度の一般的な問題ではないということだ。

西松建設事件での小沢氏秘書の逮捕まで行った強制捜査が惨憺たる結果に終わり、政権与党の幹事長とうい立場に立った小沢氏に対して、まさに「遺恨試合」のような形で捜査を継続した当時の東京地検特捜部の「暴走」が、陸山会の土地取得をめぐる政治資金規正法違反事件だった。常識的には殆ど破綻したに等しい無理筋の事件で小沢氏の起訴をめざすとういう殆ど妄想に近い捜査が、結局、明らかな失敗に終わり、検察の組織としての決定は、小沢氏不起訴だった。
それで決着したはずの陸山会事件を、検察審査会という検察組織の外部の組織まで活用して、検察組織としての決定を覆そうとした、まさに組織に対する「反逆行為」の目論見が明らかになり、その過程での虚偽公文書作成等の多数の検察官の職務上の犯罪が問題になったのが今回の検察不祥事なのである。

このような事件の「再発防止策」は、一般的な検察審査会の議決を受けての捜査の在り方とは全く異なる。まずは、今回の事件の「組織の決定に対する反逆行為」としての本質を明らかにし、その背景と構造を解明した上で、特捜部による「組織に対する反逆行為」の再発を防止しなければならない。

「検察審査会の起訴相当議決を受けた再捜査」の一般的な問題として再発防止策を検討し、再捜査での「取調べの可視化」を打ち出すというのは、一般の事件における検察審査会の起訴相当議決を受けた検察の対応と同レベルの問題として、今回の問題を考えているということであり、問題のすり替えに過ぎない。
もし、検察幹部が、本気で、このような措置を本件の再発防止策として考えているとすれば、それは、今回の問題の本質が全く理解できていないということである。
他紙の報道からも、虚偽報告書作成問題に関する検察の処分は、来週中に公表される見通しのようだ。それが、消費税増税法案採決の方にマスコミや世の中の関心が向かっている間に、陸山会事件不祥事についての全面不起訴という社会に説明不能な処分を、できるだけ目立たない形で行い、この問題に対する説明責任から免れようとする意図によるものだとすれば、もはや検察の再生は絶望的だと言わざるを得ない。

我々は、この事件の本質を改めて認識した上で、今、検察の長い歴史に歴史上の汚点を残そうとしている検察の行動をしっかり見極める必要がある。最悪の場合は、東京地検特捜部の幹部等が悪用した検察審査会の議決に、検察の誤った判断の是正の最後の望みを託すことになるかも知れない。それは、長い検察の歴史の中で決してあってはならない「検察組織の崩壊」の事象である。そのような事態には決してなってほしくない。

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