小沢氏公判での証拠却下決定、注目すべきは、虚偽公文書作成の範囲と偽証の認定、特捜部の組織的な不当取調べの認定

本日の小沢氏の公判で、東京地裁大善文男裁判長は石川知裕衆議院議員ら元秘書3人の供述調書の多くについて証拠採用を却下した。元代表の関与を認めた石川氏の調書についても、任意性、特信性を否定して請求を却下した。

決定書全文を入手して読んだが、石川氏らの供述調書の請求を却下したという結論もさることながら、重要なことは、その理由の中で、取調検察官の田代検事の法廷証言の信用性についても踏み込んだ判断をしたことである。特に、田代検事が市民団体から虚偽公文書作成罪で告発されている石川氏の取調べ状況についての捜査報告書の問題に関して「記憶の混同が生じたとの説明はにわかに信用できない」と述べているのは、事実上、田代検事の偽証と虚偽公文書作成の犯意を認めたものと言え、東京地検の告発事件の捜査に決定的な影響を与えるものと思われる。

しかも、決定書では、その田代検事の後に石川氏の取調べを担当した吉田副部長も取調べで石川氏に圧力をかける行為を行っていたことを認め、田代検事の不当な取調べが、個人的なものではなく、組織的なものであったことまで認定している。

今回の証拠決定は、検察、とりわけ特捜検察にとって衝撃的なものであろう。

市民団体の告発事件は、最高検から東京地検刑事部に回付されたとのことだが、東京地検刑事部は、今回の東京地裁の決定を受けて、早急に、捜査に着手することになるだろう。

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JR西日本山崎前社長の事件と小沢事件の共通性

JR西山崎前社長の事件は、当初、神戸地検・大阪高検が起訴意見で最高検に持ち込んだ際に、当時の笠間次長が厳しく問題を指摘して却下。ところが、その後、笠間次長が広島高検検事長に異動して、決裁ラインから外れたことから、神戸地検・大阪高検は再び最高検に起訴意見を持ち込み、後任の伊藤次長の了承を得て起訴した。その当然の結果が今回の無罪判決だ。

そういう意味では、笠間次長の時代に最高検が適切な判断を下したのに、それを覆して起訴をしたことが、そもそもの間違いだったのであり、無罪判決への控訴断念は当然と言える。しかし、経過はどうあれ、形式上は検察が組織として起訴を決定した事件で、事実上その誤りを認めるに等しい控訴断念は、極めて異例であり、まさに笠間総長の主導性がなければ行い得なかったであろう。まさに、笠間検察が打ち出した「引き返す勇気」が初めて発揮された事例とと言える。

重要なことは、西松建設事件を発端とする小沢事件も同様の経過をたどったことだ。笠間次長時代に、特捜部が西松建設事件での小沢氏秘書逮捕を画策し、次長が却下、それを、笠間次長の広島高検への異動後に伊藤次長に持ち込んで了承を得て、2010年3月に大久保氏逮捕・起訴。山崎前社長の事件と全く同じ構図。その後、村木氏逮捕・起訴、陸山会事件など、現在の信頼失墜を招いた「検察の暴走」は、すべて、「笠間不在」の間に引き起こされたことであり、それらの尻拭いを行いつつ、検察改革を実行する立場にある笠間総長は、誠に気の毒というほかない。

今回の控訴断念は、(朝日新聞の「証拠改竄スクープ」で「引き返させられた」と思われる村木氏事件を別にすると)、そういう「笠間不在」の最高検の失態から初めて「引き返した」事例である。今後も、同じ経過による誤りに対して、同様の「引き返す」姿勢で臨んでもらいたい。それが、検察の信頼回復の唯一の道だ。

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古川知事と「真相究明委員会」

古川知事は「真相究明委員会」からのヒアリング、調査への協力を拒絶したが、佐賀県議の方々からは、佐賀県の内部調査報告書の検証等の調査を依頼してきている。しかし、九電の第三者委員会の調査との関係もあり、委員長の立場にあった私としては、同社の了解が得られない限り、関連する事項について弁護士として調査を受託することはできない。古川知事がヒアリングに応じ調査に協力するのであれば九電側も了解するだろうが、拒絶したのであれば、了解するとは思えない。ということで、佐賀県議の方々には、今日の会談で、調査受託をお断りせざるを得ない。
今日の会談では、調査受託をお断りする代わりに、公表されている内部調査報告書に関して、コンプライアンス、調査の専門家の立場からの一般的な問題の指摘をして、今後の調査の参考にしてもらおうと思う。もちろん、九電第三者委員会終了後に、何回も福岡に行って九電経営陣批判の会見を行った時と同様、今日、福岡に行くのも「手弁当」。今回の件については、報酬も費用も受け取る気はない。
昨日、新幹線の中で、改めて佐賀県の内部調査報告書に目を通したが、それにしてもヒドイ。「突っ込みどころ満載」。こんな報告書で、プルサーマル公開討論会での九電関係者大量動員、「仕込み質問」の問題が「決着済み」と強弁する古川知事の神経が私には理解できない。 もし、我々が調査チームを編成して、この内部調査報告書の問題点を追及しようとしたとすれば、ひとたまりもないであろう。掘立小屋に籠城して武田の騎馬軍団を迎え撃つようなもの。まさに「鎧袖一触」。
この程度内部調査報告書の内容であれば、私が直接関わらなくても、佐賀県議の方々の調査・検証、県議会での追及だけでも「粉砕」されることになるのではなかろうか。
それにしても、古川知事の対応は残念だ。「真相究明委員会」の佐賀県議の方々からも、「決して古川知事を辞任に追い込むことが目的ではない。早くこの問題に決着をつけて、他の県政の重要課題に取り組んでもらいたい」という思いを聞いた。そうであれば、私が知事ヒアリングという形で関わることで、問題の決着を図り、原発問題についての佐賀県の判断の新たな枠組みを提案することが、古川知事にとってもベストだと思ったのだが。
古川知事は、行政手腕、首長としてのリーダーシップなど、大変有為な人材。古川知事の信頼が失墜した現状は佐賀県民にとっても不幸だ。「籠城」をやめて、私との話に応じてくれるのであれば、今からでも遅くはないと思うのだが。

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宗像紀夫弁護士の見解に対する反論

昨年12月7日、朝日新聞オピニオン面の「耕論―不祥事と第三者委員会」に、以下のような、私の第三者委員会委員長としての行動を批判する宗像紀夫弁護士(元名古屋高検検事長・東京地検特捜部長)の見解が掲載された。

私は過去に何件か第三者委員会の委員長などを引き受けましたが、その時に留意したのは、予断や偏見、その他政治的な思惑などを一切持たずになるべく多くの関係者に話を聞くこと。そして、契約上守秘義務が課されているか否かに関わらず、調査で知り得た事実を勝手に公表しないということでした。大きい企業の不祥事ですから、新聞記者などが調査内容を聞こうと接触してきましたが、途中経過は一切話しませんでした。
昨年日弁連が策定した「企業等不祥事における第三者委員会ガイドライン」でも、「独立した立場で中立・公正で客観的な調査を」「調査報告書提出前にその全部または一部を企業等に開示しない」と定めています。
こうした観点から見て、問題となるものもあります。九州電力の「やらせメール」問題に関する第三者委員会の郷原信郎委員長の行動です。
まずは、郷原氏が、委員長内定後、就任直前に古川康・佐賀県知事と面会して、「早期に辞任した方が政治的ダメージは少ない」と辞任を促したことです。最も重要な調査対象である古川知事に辞任を求めるという行動を見ると、郷原氏が何らかの予断を持って調査に臨んでおり、中立・公正な立場ではなかったと言われても仕方ないのではないでしょうか。
その後7月30日、古川知事が記者会見でやらせメールへの関与を否定するや、郷原氏も委員長として会見し、「知事の発言は結果的にやらせメールの引き金になった」と反論しました。まだ本格的な調査も始まっていない段階でのこのような発言は、委員会に対する信頼性を失わせるものであり、越権行為と言えます。

この中には明らかに事実に反する前提で書かれている部分があり、しかも、日弁連第三者委員会ガイドラインについても、その趣旨を誤解して、私への批判に引用している。
このような宗像弁護士の「見解」は、コンプライアンスを専門とする活動を行ってきた立場としては到底容認できないものであり、その直後に出された朝日新聞のWebジャーナルの「法と経済のジャーナル」のインタビュー記事の末尾でも[追録]の形で反論した。

本日付け朝日新聞オピニオン面「私の視点」の「第三者委員会 対話型と独立型を柔軟に」と題する記事の中でも、宗像弁護士の「見解」への反論を述べている。ただ、字数の制約もあり、同記事では第三者委員会に関する一般論に基づいて「まったくの的はずれである」と切り捨てるにとどめている。
そこで、同氏の見解の誤りを詳細に述べることとするが、その前に、このような宗像弁護士の見解が新聞に掲載されたこと自体に対する疑問について述べておきたい。

そもそも、上記「耕論」の中で、宗像弁護士が「第三者委員会の専門家」と位置付けられていること自体が不可解である。私の知る限りでは、宗像弁護士が第三者委員会の委員長を務められたという話は、横浜市立大学の学位謝礼問題の調査委員会ぐらいしか知らない。企業等の不祥事に関する事実関係等を社会に対して明らかにすることが重要な目的なのであるから、委員会報告書が公表されていなければ意味がないと思われるが、インターネットで検索しても、宗像弁護士が委員長を務めた第三者委員会報告書は見当たらない。少なくとも、新聞報道されるような大きな企業不祥事の第三者委員会の委員長を務められた経験はほとんどないものと思われる。
それにもかかわらず、「第三者委員会特集」に宗像弁護士が専門家として登場し、私を名指しで批判してきた理由は何なのか、その背景には何があるのであろうか。

次に、宗像弁護士の「見解」の内容について述べる。
まず、前提となる事実関係を誤っているのが、7月30日に、古川知事が記者会見したことを受けて、私が記者会見を開いて発言したことについて、宗像弁護士が「知事の発言がやらせメールの引き金になったと言って古川知事の発言に反論したことは『越権行為』だ」と批判している点である。

そもそもこの日の私の会見は、古川知事と事前に打ち合わせた上、古川知事の関与について誤解が生じないように「支店長作成メモでは、九電社員に投稿を要請したように見えるが、古川知事の説明は異なっており、今後、知事発言がどのような影響を与えたのか第三者委員会の調査で明らかにしたい」と述べたものであり、古川知事の発言への「反論」ではない。
7月30日の記者会見では、一部の記者から、「知事会見の火消しではないか」という質問が出たぐらいであり、私の発言が、決して「古川知事の発言への反論」ではないことは、朝日新聞の記者も含めて、会見に出席した記者から聞けば容易にわかることだったはずだ。

また、この日の会見は『越権行為』でもない。
会見まで6月21日の知事公舎での面談という重要な事実が公表されていなかったが、古川知事は、九州電力の「やらせメール」が表面化した時点では同社を批判しており、その発端とされていた九電副社長以下の佐賀市内での会談の直前に、古川知事と会談した事実があり、そこで知事が「やらせメール」の舞台となった6月26日の国主催の説明番組について発言した事実があるということになると、知事が厳しい批判を受け、一方で、九電側もその事実の隠ぺいを批判されかねない。
古川知事にとっても、その事実が、マスコミ報道や第三者委員会報告書の公表という形で表に出るより、自ら記者会見で明らかにし、それを受けて私が会見を行って説明する方が得策だということを、私から古川知事に提案し、九電側とも事前に調整した上で、このようなやり方をとったものであり、全く「越権行為」ではない。
7月30日の古川知事側の記者会見とそれを受けての私の会見に対するマスコミ側の反応は、概ね事前に想定した範囲だった。少なくとも、知事公舎での会談という重大な事実が、それまで隠していたことに対する批判がほとんどなく表に出せたことは、古川知事にとっても九電にとっても大きなメリットだったと言えよう。

宗像弁護士は、日弁連第三者委員会ガイドラインの「調査報告書提出前にその全部又は一部を開示しない」という文言を引用して、調査途中での事実公表を問題にしているが、この文言は、「報告書の起案権は委員会側にあり、会社に事前に開示することで会社側の意向で内容の修正を求められることがあってはならない」という趣旨であり、重要な事実が委員会の活動の途中で明らかになった場合の公表の是非とは別の問題だ。

オリンパスの第三者委員会も、反社会的勢力に資金が流れた疑いが報道されたのに対して、委員会として「そのような事実は認められていない」とのコメントをしたと報じられている。このように、第三者委員会の活動の途中経過であっても、重要な事項を公表すべき場合がある。とりわけ、公益企業の典型である電力会社の第三者委員会には、露骨な証拠廃棄や重要事実の隠蔽などに関して情報開示が必要となることも十分にあり得る。宗像弁護士が引用するガイドラインの条項は、そのこととは無関係である。
宗像弁護士は、私にとって検察の大先輩で元上司、特捜部に所属していた当時の特捜部長である。しかし、大変僭越ながら、今回の「御指導」は、専門外で、余りに的外れだったと言わざるを得ない。
そういう専門外のことより、むしろ、私が由良秀之著「司法記者」の中で描いている「特捜検察の暴走」と重ね合わせて、御自分の特捜部長時代のこととを思い起こして頂くことの方が重要なのではないかと思う。

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陸山会事件を「平成の盧溝橋事件」にしてはならない 〜虚偽捜査報告書作成事件の捜査・調査に速やかに着手すべき〜

検察審査会起訴議決によって起訴されている小沢一郎氏の公判で、昨年の秋に表面化し、検察の信頼を失墜させた大阪地検をめぐる不祥事をも上回る重大な問題が、先週、明らかになったからだ。

12月15日に東京地裁で開かれた公判において、元東京地検特捜部所属の田代政弘検事の証人尋問が行われ、昨年5月、同会元事務担当者の石川知裕衆院議員を保釈後に再聴取した際の状況について、石川被告が供述していない内容を捜査報告書に記載していたことが明らかになった。

その報告書は小沢被告に対する起訴議決を出した東京第5検察審査会にも提出され、審査の資料とされ、議決書にも一部が引用されている。

石川被告は昨年1月の逮捕後、田代検事の取り調べを受け、「小沢被告の了承を得て政治資金収支報告書に虚偽記入をした」との供述調書に署名した。そして、同年5月17日の任意の再聴取でも同様の内容の調書が作成され、同日付けの取調べ状況に関する捜査報告書とともに、検察審査会に捜査資料として提出された。この問題を、一面トップ、社会面トップで報じた16日付読売新聞朝刊によると、同報告書には、田代検事が小沢氏に対する報告とその了承について調査を録取した状況を質問したことに対する石川氏の供述として、以下のように記載されている。

「私が『小沢先生は一切関係ありません』と言い張ったら、検事から、『あなたは11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしょ。小沢一郎の秘書という理由ではなく、石川知裕に期待して国政に送り出したはずです。それなのに、ヤクザの手下が親分を守るためにウソをつくのと同じようなことをしたら、選挙民を裏切ることになりますよ。』と言われたんですよね。これは結構効いたんですよ。堪えきれなくなって、小沢先生に報告し、了承も得ましたって話したんですよね。」

ところが、そのようなやり取りは、石川被告が再聴取を隠し取りした録音記録にはない。

同日の証人尋問で、その点について、小沢被告の弁護人から追及された田代検事は、「数日をかけて、思い出しながら報告書をまとめる際、勾留中のやり取りなどと記憶が混同した。虚偽ではない」と釈明した。

田代検事の行為は、検察官の作成名義の捜査報告書という公文書に虚偽の記載をしていたということであり、虚偽性についての認識があれば、虚偽公文書作成罪という犯罪に該当する。虚偽公文書作成という犯罪は、形式上犯罪に該当する行為であっても、可罰性の幅は非常に広い。公文書の内容に事実に反する点があったとしても、それが官公庁内部に止まるものであれば、実質的な処罰価値はない場合も多い。しかし、本件のようにその報告書が司法作用に重大な影響を及ぼすというのは、最も悪質・重大な虚偽公文書作成の事実と言えよう。

検察官の取調べをめぐる問題は、郵便不正事件でも、小沢氏の元秘書3人が起訴された政治資金規正法違反事件でも問題になった。被疑者が実際の供述しているのとは異なる内容の供述調書が作成され、威迫、利益誘導、切り違えなどの不当な方法によって被疑者に署名をさせるという方法が問題にされ、供述調書の請求が却下されるという事例が相次いでいる。

被疑者の供述を内容とする捜査報告書をめぐる今回の問題は、検察官の供述調書をめぐる問題とは性格を異にする。供述者の署名があって初めて書面として成立する供述調書とは異なり、捜査報告書は、検察官側が一方的に作成できる書面だ。あくまで捜査の状況を報告するための文書であり、その分、被疑者の供述内容を立証する証拠としての価値は低い。一般の刑事事件においては、捜査報告書によって被疑者の供述が立証され、事実認定が行われることはほとんどない。

しかし、検察審査会の審査員という素人の判断との関係では、捜査報告書の取扱いも全く異なってくる。証拠の種別、価値等について前提となる知識が乏しい審査員は、捜査報告書であっても、被疑者の供述として書面に記載されていれば、それなりに信用できるもののように判断することとなる。

今回虚偽であることが明らかになった捜査報告書は、検察審査会に資料として提出され、審査会の判断の根拠とされたものであり、それを意図して行われた疑い、つまり、虚偽の捜査報告書が検察審査会をだます目的で使われた疑いがある。そこに、これまで供述調書に関して問題とされてきたこととは異なる重大な問題があるのである。

そこで、まず問題となるのは、報告書に虚偽の記載が行われたことが意図的なものであるかどうかである。

田代検事は、勾留中の取調べのやり取りと混同したという「過失」を主張しているが、起訴後、保釈で身柄非拘束の状況での取調べでのやり取りを、その直後に捜査報告書に記載する際に、3ヶ月前も前の勾留中のやり取りと混同するなどということ自体が考えられない。

また、通常、被疑者の供述が変遷したのであれば、変遷の時点で理由を聞いているはずであり、3ヶ月以上も経った、釈放後に、勾留中の供述の理由を尋ねるということも、検察官の取調べの経過として考えられない。そのような常識では考えられないような質問を自分が行い、石川氏がそれに答えているという状況を、田代検事が「自らの記憶」として、報告書に書いたとは考えられない。

しかも、石川氏の勾留中の取調べの大半が、水谷建設からの裏献金の受領の問題に費やされたこと、特に、勾留延長後の10日間は、田代検事から担当副部長に取調べ検察官が交代し、もっぱら水谷建設からの裏献金の問題について聞かれていたことは、同氏自身が語っているところである。政治資金収支報告書の虚偽記入について小沢氏に報告をした旨の石川氏の供述調書に関して、田代検事がそのような供述をした理由を尋ね、石川氏が説明する、というような「勾留中のやり取り」は、いったいどの時点で行われたのであろうか。そもそもその「やり取り」自体が存在していなかった疑いが強い。

だとすると、石川氏が、「ヤクザの手下が親分を守るためにウソをつくのと同じようなことをしたら、選挙民を裏切ることになる」と考えて小沢氏への虚偽記載の報告を認めた、という捜査報告書の記述自体が「創作」であり、石川氏の供述を捏造した疑いが濃厚と言うべきであろう。

田代検事の「過失」の弁解は明らかに不合理であり、意図的で、しかも実害を伴う虚偽公文書作成罪の嫌疑が相当程度認められるのであるから、検察として、捜査或いは内部調査に乗り出すのは当然であろう(「うその報告書―検察は経緯を検証せよ」と題する12月18日の朝日新聞社説でも、「なぜうその報告書が作られ、チェックもできなかったのか、経過を解明・検証して国民に説明する作業が欠かせない」と説明を求めている)。

検察には、今回の虚偽公文書作成の問題について、今のところ何の動きもない。この件について何の調査も捜査も行わないとすると、前田検事の故意の証拠改ざんを行った事実を知りながら、同検事の刑事事件について捜査し、検挙するなどの措置をとらなかったとして上司の大坪・佐賀両氏を犯人隠避罪に問おうとしている検察の主張は、根底から崩れる。調査を行ったとしても、田代検事の「過失」の弁解を、そのまま受け入れるようであれば同様である。それによって、先日、検察官の論告・求刑が行われた大坪・佐賀両氏の公判にも重大な影響を与えることとなる。大坪・佐賀両氏の弁護側から、公訴取消を求められた場合、検察はどう反論するのであろうか。

本件の虚偽公文書作成の問題に関して重要なことは、それが、検察審査会の議決に大きな影響を与えたこと、つまり、刑事司法作用を害する結果になったことだ。

前田元検事の事件では、フロッピーディスクのデータの改ざんが行われたが、データが改ざんされる前の正しいデータを記載した捜査報告書が弁護側に開示され証拠請求されたことから、公判の審理には結果的に影響を与えなかったのに対して、今回虚偽が明らかになった捜査報告書は、検察審査会に提出され、小沢氏を起訴すべきとする議決書にも引用されており、まさに、検察審査会が小沢氏の犯罪事実を認定する議決に大きな影響を与えている。

しかも、その取調べの際、たまたま、石川被告が、隠し録音をしていたことから、虚偽報告が発覚したが、もし、録音が存在していなかったら、田代検事は、今回のような小沢氏の公判での証人尋問で、捜査報告書の通りに取調べ時のやり取りを証言していたであろう。それは田代検事が録取した石川氏の供述調書の信用性を肯定する根拠にされた可能性が高い。

さらに重大な問題は、この虚偽捜査報告書の作成が意図的なものであったとすれば、それが田代検事個人の判断で行われたものとは考えにくいということだ。

先に述べたように、勾留中の被疑者が検察官の取調べに対して新たに行った供述について、その理由を、起訴後3ヶ月も経った後の取調べでわざわざ質問し、それについて捜査報告書を作成するなどということは、通常の検察官の取調べではあり得ない。何らかの上司の指示がなければ、このような捜査報告書が作成されることはないと考えるのが合理的であろう。

そもそも、この政治資金規正法違反事件について、小沢氏は、検察の処分としては、嫌疑不十分で不起訴となっており、検察の組織としては、犯罪事実の認定について消極の判断をしている。通常であれば、検察審査会で起訴相当議決や起訴議決が出されて検察の処分が覆されることは、検察にとって極めて不名誉なことであり、検察審査会の議決を受けて行われる再捜査において、わざわざ、検察の不処分が検察審査会の議決で覆される方向で捜査を行うこと自体、担当検察官個人の行動としてはあり得ない。石川氏の供述調書の信用性を補強する虚偽の捜査報告書を作成してまで、検察審査会に小沢氏の犯罪事実を認めさせようとする行動は、田代検事個人の意思によって行われたとは考えられない。

検察組織全体の方針に反して、検察審査会の議決を検察の処分を覆す方向に向け、それによって小沢氏を政治的に葬ろうと考える一部の集団が検察組織内部に存在していて、田代検事はその意向に従って動いたとしか考えられない。

検察審査会の審査員が小沢氏との共謀を認める石川氏の供述調書を信用し、小沢氏に対する起訴議決を行うようにするため、田代検事に虚偽の捜査報告書を作成させる、という行為が、東京地検特捜部内で組織的な背景を持って行われた疑いが濃厚である。そうなると、検察批判を繰り返してきた私にすら信じられないことではあるが、陸山会事件では、特捜部という検察組織の中の一部が、小沢氏不起訴という検察の組織としての決定に従わず、検察審査会という外部の組織を活用して検察の処分を覆させようと「暴発」したと見ざるを得ないのである。

田代検事の証人尋問の翌日の12月16日の公判で、証人として出廷した前田元検事が、「主任検事から『この件は特捜部と小沢の全面戦争だ。小沢をあげられなければ特捜の負けだ』といわれた」「検察が不起訴と判断した資料として検審に提出されるもので、証拠になっていないものがある」などと証言し、東京地検特捜部の陸山会事件捜査を厳しく批判した。証拠隠滅事件で実刑判決を受けて受刑中の前田元検事は、特捜部の問題とは利害関係がなくなっており、その供述の信用性を疑う理由に乏しい。そのような前田検事による、陸山会事件の捜査の内幕の暴露も、その捜査に一層疑念を生じさせるものとなった。

昨年秋に表面化した問題は、大阪地検が中心だったが、今回の問題は特捜検察の本尊とも言える東京地検特捜部の問題だ。それだけに、特捜検察は、まさに、存亡の危機と言うべき状況にある。

陸山会事件について小沢氏を起訴すべきとする検察審査会の議決は、政権交代によって成立した鳩山政権を退陣に追い込む大きな要因となり、その後の二度にわたる民主党代表選での争点を小沢氏の「政治とカネ」問題に集中させた。それ以降、反小沢の民主党主流派と小沢派との間の泥沼の党内対立によって、民主党は国民の支持を失っただけでなく、深刻な政治不信を招き、日本の政党政治は、もはや崩壊に近い状態とも言える

一方で、東京地検特捜部の小沢氏に対する一連の捜査への対抗意識も動機の一つとなって、大阪地検特捜部が無理に無理を重ねた郵便不正事件は、村木氏の冤罪、証拠改ざんの発覚という最悪の結末となり、特捜部長、副部長の逮捕という異常な事態まで引き起こして検察の信頼は失墜した。他方、その発端となった小沢氏に対する東京地検特捜部の捜査も、不当な取調べによる供述調書の請求却下、そして、今回の虚偽報告書の作成問題と次々と問題を露呈し、検察への信頼は地に堕ちた。国家の最も枢要な作用と言うべき刑事司法の中核を担う検察は、今や危機的状況にある。

このように、社会全体が、そして、検察という一つの権力組織が泥沼の状況に追い込まれていく契機となったという意味で、陸山会事件は、日本軍という権力組織、そして、日本という国が「日中戦争」の泥沼へと引きずり込まれていく契機となった「盧溝橋事件」と似ているとの見方もできよう。

日本軍側、中国側のいずれが仕掛けたものであるのかについて、様々な見方の違いがあるが、いずれにしても、盧溝橋事件が、何者かの意図によって、予期せぬ軍事衝突が引き起こされ、それが日中戦争の引き金になっていったことには、ほぼ疑いがない。

それと同様に、陸山会事件の検察審査会の起訴相当議決、起訴議決が、刑事司法関係者の予期せぬものであり、それが、その後の日本の政治、社会、そして検察組織に重大な影響を生じさせていったことは明らかである。

歴史のベールに包まれた盧溝橋事件の真相を解明することは、今となっては極めて困難であろう。しかし、その後の日本の政治、社会に重大な影響を与えた検察審査会での起訴議決という「民意」の作出に大きく影響したと思われる虚偽の捜査報告書作成事件が、意図的なものであったのか、組織的背景があったのかを、捜査又は調査によって解明することは決して困難なことではない。捜査又は調査にただちに着手し、陸山会事件の検察捜査の真相を明らかにすることが、日本の社会を、そして、検察を救う唯一の道である。

(初出:メルマガ  http://www.comp-c.co.jp/pdf/111219.pdf

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大坪・佐賀氏の公判、その問題の本質

今日の夕方の朝日放送の番組「キャスト」でも話したように、今回の大坪・佐賀氏の公判では、故意の改竄を認識していたかどうかばかりが問題にされているが、問題の本質はそこではない。もし、仮に、故意の改竄だと認識していたとして、それなら、二人はどうすべきだったか、それによって、村木事件の裁判の展開にどのような影響があったのか。この点に関して、今日の検察の論告では、昨年12月の最高検の検証報告書を引用し、「もし、大坪・佐賀氏が真実を報告し、上司が適切に対応していたら、前田検事の証拠隠滅事件に対する捜査・処理が行われ、・・・最終的には村木事件の公訴を取り消すことも検討されたと思われる」などと述べたが、弁護人側から、「証拠に基づかない論告」と異議を出され、撤回した。この点は、この事件の核心と言うべきであろう。

要するに、大坪・佐賀氏が故意の改竄を認識していたかどうかが、村木事件にどのような影響を与えていたのか、検察は立証できなかったのである。証拠の改竄は絶対に許されないこと、と検察は強調するが、では、これまで、検察は、刑事事件で検察側に不利な証拠をすべて開示してきたのか、その点については検察官の裁量が相当程度認められてきたはずだ。今回の前田検事の証拠改竄行為に、そのような一般的な検察官の捜査・公判対応とは異なった特別の悪性を見出すとれば、「村木氏を無実の罪に陥れる」という意図を持って行ったということしかあり得ない。しかし、検察は、前田元検事の特別公務員職権乱用事件を不起訴にし、自ら、そのことを否定しているのである。前田検事の行為が刑事事件の結果に影響しないのであれば、大坪・佐賀両氏が、故意の改竄と認識していたとしても、それを見逃す行為が刑事処罰に値する行為とは思えない。

組織の思考が止まるとき」などで述べているように、大坪・佐賀両氏の行為は、そもそも犯人隠避の構成要件に該当しない、という法律上の問題に加えて、検察は、今日の論告で、両氏を刑事処罰する根拠となる可罰性を主張することすらでききなかった。今後のこの事件の公判の展開は予断を許さない見るべきであろう。

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「オリンパス監査検証委員会」設置の目的と今後の課題

12月12日午前10時から、新日本監査法人の「オリンパス監査検証委員会」の初会合が開かれ、終了後、記者会見が行われた。

委員長には大泉隆史弁護士(元大阪高検検事長)、私は調査担当委員として弁護士調査チームによる調査を総括し、調査報告書を取りまとめる。他に、監査論が専門の高田敏文東北大学会計大学院教授、会計学が専門の藤井秀樹京都大学大学院教授も委員として加わっている。

この委員会は、オリンパス第三者委員会の調査報告書で、現在同社の監査人として会計監査を担当している新日本監査法人について、「前任のあずさ監査法人からの業務引き継ぎ」と「ジャイラス社の配当優先株買い取りの際の報酬ののれん計上」の2点について、「問題なしとしない」との指摘が行われたことを受けて設置されたものである。

新日本監査法人は、2011年9月下旬に、当時のオリンパス社長のウッドフォード氏のオリンパス社取締役会に対する質問のメールのコピーが送付され始めたことを契機に外部通報対応としての内部調査を行い、その後、同社が、11月8日に適時開示をした時点で損失隠しを認識し、更に本格的な内部調査を行った結果、監査手続きに問題は見当たらないとしたのであるが、事柄の重要性にかんがみ、自らの判断のみで良しとするのではなく、外部有識者による客観的な検証を行うために、この委員会を立ち上げることになった。

本来、日弁連の「不祥事に係る第三者委員会ガイドライン」で言うところの「第三者委員会」というのは、不祥事を起こし信頼を失墜した企業等の組織が、外部の第三者による調査、原因分析、再発防止策の策定によって、信頼を回復することを目的として設置するものである。今回のオリンパスの問題に関して、新日本監査法人は、自らの監査手続き等に関して問題があるとは認識していないのであり、そういう意味で、今回の新日本監査法人の検証委員会は、「不祥事」を起こしたという前提で設置される一般的な「第三者委員会」とは異なる。

自ら「不祥事」と認識していない今回のオリンパス問題に関して、なぜ外部者による委員会を設置したのか。そこには、日本社会のみならず国際的にも大きな注目を集めている今回のオリンパス問題に関する監査の問題が、単に一企業の監査だけにとどまらず、監査及び監査法人の在り方、あるいはその社会的位置づけを問い直す契機にもなり得る重大な問題だという認識がある。

そのような認識に基づいて、監査法人としての判断を、内部の調査だけではなく、客観的な検証を行った上で行うことを目的として、今回の検証委員会が設置された。検事長経験者の弁護士を委員長に、コンプライアンス、不祥事調査専門弁護士、監査論及び会計学の研究者というメンバー構成で委員会を組織したのも、そのような趣旨に沿うものである。

今後、調査担当委員の私の下に、九州電力第三者委員会でも調査チームの総括を務めた赤松幸夫弁護士、梅林啓弁護士を中心とする弁護士調査チームを組織し、委員長や他の委員の意見も踏まえ、オリンパス第三者委員会の調査報告書で指摘された点を中心に調査を行い、その調査結果を調査報告書として取りまとめ、検証委員会としての議論を経て検証委員会報告書として公表することになる。年内には、調査報告書を中心とする検証委員会の中間報告書を公表し、2月末を目途に最終報告書を公表する予定だ。

このように、自らの組織にとって「不祥事」と認識していない問題について、独立した第三者による調査・検証を行うというのは、かなり異例である。新日本監査法人側でも相当勇気がいる決断であったことは想像に難くない。その決断が、新日本監査法人のみならず、今後の我が国の監査制度及び監査法人の在り方にも有益だったと言われるよう、検証委員会としての役割を果たさなければならないと思う。

このところ、検察問題や電力会社問題に関する活動ばかりで目立っていた私がなぜ監査法人問題の調査に関わるのか、意外に思われるかもしれないが、実は、私は、監査法人の問題とは浅からぬ縁がある。

2007年、新書「『法令遵守』が日本を滅ぼす」を公刊した頃から、私は、組織のコンプライアンスの全体的検討のための「法令環境マップ」という手法を開発し、様々な分野に応用してコンプライアンスに関連する調査・検討を行い、その中で「監査法人法令環境マップ」プロジェクトに取り組んだ。

「会計ビックバン」によって監査法人の経済社会・証券市場における位置づけが大きく変わり、監査の厳格化・品質管理が求められる中で、公認会計士法が改正されて課徴金制度が導入されというような、監査法人の業務環境の急激な変化の中で、その業務そのものに関して、或いは、労働環境、情報環境、競争環境等の監査法人組織を取り巻く様々な環境要素の相関関係の中で、どのようなコンプライアンス・リスク発生しているのかを具体的に把握するため、監査法人の執行部や各部署からヒアリングを行い、詳細な資料・文献調査を行うなど、1年半をかけて取り組んだ成果を報告書に取りまとめた。

そして、そのプロジェクトが完了する直前の2008年3月に、まさに業務環境と情報環境の激変に関連して発生したのが新日本監査法人の元職員によるインサイダー取引事件であった。この事件について、新日本監査法人が設置した第三者委員会の委員長を務め、監査法人の全社員・職員を対象とする調査を実施し、原因分析、再発防止策の策定を行ったが、私は、その委員長を務めた。

そして、5月に公表した第三者委員会報告書では、問題の背景として、会計監査の厳格化・品質管理の強化に対応すべく監査法人の寡占化・大規模化による労働環境の変化が、監査法人が顧客企業側から受領する会計情報の不正流用の可能性という情報環境に関する問題を生じさせていたことを指摘した。

監査法人のコンプライアンス問題に関わるのは、この時以来3年半ぶりである。上記のプロジェクトやインサイダー取引の第三者委員会による知識・経験をベースに、検証委員会としての活動を行っていこうと考えている。

外国人社長のウッドフォード氏の突然の解任から始まったオリンパス問題は、同氏が海外のメディアや捜査当局等に告発を行ったこともあって、国際的にも注目を集めることになった。そして、巨額の損失隠しの問題が表面化、反社会的勢力への資金提供、経営者の個人的利得など様々な憶測が入り乱れ、一大企業スキャンダルに発展した。

そうした中で12月6日に公表されたオリンパス第三者委員会の調査報告書は、反社会的勢力への資金提供等を否定する一方、問題を、①バブル経済崩壊後の金融資産運用損の累積、②損失分離スキーム、③損失解消スキームの3つに整理した上で、財テクの失敗を正面から認めることなく隠し続け、時価会計への会計基準変更後もファンドによる飛ばしを用いるなどして、巨額損失を隠し続けた歴代のオリンパス経営陣を、「金融商品取引法や会社法に違反する行為であることはもとより、投資家に正しい情報を提供すべき上場企業としてあってはならないことである」と、厳しく批判している。

資金の流れに関するスキャンダルについては、最終的には、今後、刑事事件の捜査による解明を待つしかない。むしろ、今、重要なことは、上記の第三者委員会の調査報告書の指摘を具体化すること、つまり、オリンパス問題というのが、企業会計上いかなる問題なのか、どこにどのような違法性、悪質性があるのか、どの時点で、証券市場或いは投資家にどのような影響を与えたのかを、冷静に客観的に明らかにすることである。

その点に関して、明らかなことは、上記2の損失分離スキームによって巨額の損失が隠ぺいされ、その時点におけるオリンパスという上場会社の財務状況の開示内容が事実と異なっていたこと、しかし、一方で、分離された巨額の損失は、3の損失解消スキームを使ったことが会計手続上の問題はあったとしても、それによって、同社の事業収益で解消され、その後は、資産・負債の関係は証券市場や投資家に対して正しく開示されているということだ。

そういう意味で、巨額の損失の「飛ばし」の発覚で経営破綻に追い込まれた山一証券や、巧妙な粉飾決算で債務超過の実態を隠していたカネボウの問題などとは異なる。

どの時点の投資判断に影響を与えたかと言うと、少なくとも、2の損失分離スキームが行われていた間は、巨額の損失の隠蔽が、その時点における同社株に対する投資判断を誤らせるものであったことは明らかだ。しかし、その時点でオリンパス株の売買を行った投資家にとっては損失の隠蔽が継続している間は、損失隠しの影響は生じない。その間に反対売買を完了した投資家は影響を受けず、そのまま最近まで投資を継続していた投資家のみが、今回の損失隠し発覚による株価の急落によって大きな影響を受けた。

しかし、損失隠し発覚の時点では、3の損失解消スキームによって、損失が隠蔽された状態は既に解消されており、会社の財務内容は投資家に基本的には正しく開示されている。

ただ、「巨額の損失隠しを行っていた」「その損失をM&A等を用いた会計手続上問題のある方法で解消した」という過去の事実が明らかになり、それが「上場廃止」「行政処分」「強制捜査」等、オリンパス社に重大な不利益が生じる事態に発展する恐れが生じたために、株価に重大な影響が生じ、それによって、その時点の投資家が大きな不利益を被った、という事実経過である。

この構図は、2004年9月期の連結決算についての粉飾決算の問題に関して、2006年1月に検察が強制捜査に着手したことで、株価が急落し、投資家が莫大な損害を被ったライブドア事件と似ている。起訴事実とされたライブドア事件における粉飾決算の違法性や悪質・重大性については様々な意見があるが、いずれにせよ、2004年9月期の連結決算に関して粉飾決算の事実があっても、それは、実際に株価が急落して損失を被った2006年1月の時点の投資家の判断にはほとんど影響を与えていない。株価の急落は、その時点でのライブドアの財務内容や経営実態についての判断によるものではなく、検察の強制捜査によって「ライブドアは犯罪企業であり、捜査・刑事処分や東証の上場廃止等によって経営危機に至る」というメッセージが証券市場に伝わったために生じたものだ。

この事件では、検察は、その強制捜査の後、実際に、堀江貴文氏を始め会社幹部を逮捕・起訴し、いずれも有罪判決が確定し、東京証券取引所はライブドアを上場廃止にするという結末になったことから、強制捜査着手時点での検察の市場へのメッセージとそれによる投資判断は、一応事後的にも裏付けられた形になっている。

ところが、オリンパス問題については、東京証券取引所が上場廃止の措置をとるかどうかが注目されていたが、本日、同社の会計監査を担当する新日本監査法人が、同社の2011年9月中間期決算に対して「適正」の意見を出したことで、上場が維持される見通しだと報じられている。

問題は、「金融商品取引法違反」との判断がどうなるかであるが、証券取引等監視委員会や検察当局の動きは、今のところはない。今後の展開は予断を許さないが、オリンパス問題の違法性、悪質・重大性に関して、最終的にどのような判断が示されるのかは、現時点では不確定な状況であり、損失隠しの表面化の時点での株価急落を招いた、「上場廃止」「行政処分」「強制捜査」などの事態に発展する恐れを前提とする投資判断が裏付けられるかどうか、現時点では不明である。

「飛ばし」が経営破綻につながった事例とは異なり、決算報告への計上を先送りされた損失は、その後、本業の利益を原資に、③の損失分離スキームによって解消された。オリンパス経営陣側がそれを予測した上で、限られた期間内損失計上を回避しようとしただけであれば、少なくとも「飛ばし」によって経営破綻を先送りした事例と比較すると悪質性は低いということになる。その場合は、まさに今回の問題に対する責任は、上場企業として証券市場に対して企業の財務状況について適宜適切な開示を行う義務を中心にとらえられることとなる。

今回の「オリンパス監査検証委員会」での当面の調査の焦点は、オリンパス第三者委員会の調査報告書で指摘された二つの点であるが、その前提として、オリンパス問題自体を企業会計の観点からどう見るのか、違法性、悪質・重大性をどう評価するのかという点についての検討・評価を行うことも避けては通れない。

それは、いまだ不確定なオリンパス問題についての法的、会計的評価にもなにがしかの影響を与え得るだけに、一監査法人が設置した検証委員会ではあっても、調査・検討・判断の客観性、公平性が強く求められることになる。新日本監査法人の内部者のみならず、前任のあずさ監査法人の関係者などの外部者にもヒアリングへの協力を要請せざるを得ない。それだけに、外部からの信頼が確保できるよう、調査の公平性と適正さが不可欠である。そのことを肝に銘じて調査に取り組んでいきたい。

(初出:メルマガ  http://www.comp-c.co.jp/pdf/111214.pdf

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「やらせメール」問題九州電力問題最終報告について

一昨日の「やらせメール」問題九州電力問題最終報告、真部社長の「郷原委員長にはもうこだわってほしくない。もう委員長ではないのだから」という言葉には、あまりに本音が露わになっていて、怒りを通り越して、思わず失笑してしまった。

それにしても、枝野経産大臣の対応は、素晴らしかった。

「公益企業のガバナンスとしありうるのか。理解不能」という簡明なコメントも実に適切だったが、それ以上に注目すべきは、従来の経産省では考えられない電力会社の報告へのる対応方針。

従来であれば、電力会社側の報告に何か問題があれば、事前に「指導」をして、了解できるレベルに調整しているはずで、九電側は、「指導」がなかったので、そのまま受け入れてもらえるものと思っていたはずだ。前日の夜、私が電話で話した九電の担当部長は、私が報告書を送れと言っても「上の指示」だと言って拒絶したが、その際、酔っぱらって上機嫌だった。さすがに第三者委員会にも文句を言われない報告書ができたので、公表されたら見てほしい、という感じだった。エネ庁長官に最終報告書を手渡した直後にぶら下がり取材に応じた真部社長は、「余裕の笑顔」すら浮かべていた。その後、経産大臣から、あのような厳しい批判が行われるとは、全く予想もしていなかったようだ。

政務三役の対応を、事前の事務方の対応と切り離し、九電側に自己責任で報告内容を決めさせた後に、それを受けて政務三役側が適切な判断を示すというやり方が、従来にはなかった、透明で、わかりやすい手法だった。まさに、新たな、政治主導の監督行政の形が示されたと評価すべきだろう。

4年あまり前、不二家問題に関するTBSの捏造報道疑惑を衆議院の決算行政監視委員会で、枝野議員が取り上げ、私が参考人として意見陳述した際、ネットの世界で「枝野GJ」という賞賛の声が大きく盛り上がった。あの時から、枝野氏の法律家でもある政治家としての能力はずって評価してきたが、今後の、九州電力問題への対応、そして、電力問題への対応への対応には、引き続き期待したい。
明日は、佐賀県議会の特別委員会に参考人として出席する。そのために、今日は既に福岡に入っている。

「原発立地県と原発事業者との不透明な関係が問題の本質」と指摘する第三者委員会報告書を委員長として取りまとめた者として、社会的責任を果たすべく、しっかり答弁してきたい。

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東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図

殺人事件と政治資金規正法違反事件、全く異なった性格の事件のように思えるこの二つの事件だが、有罪判決が出されるまでの経過に、重要な共通点がある。

それは、裁判所が、審理の過程で起訴事実の認定そのものとは違う事項について判断を求められ、そこで一定の判断を示したことが、事実上、最終的な裁判所の判断を決定づける結果になり、裁判所が誤った認定を行うことにつながってしまったという構図だ。

東電OL事件の逆転有罪を決定づけた再勾留の判断

東電OL事件では、東京地裁の一審無罪判決で被告人のゴビンダ氏の勾留が一度失効し、不法滞在による母国ネパールへの強制退去の行政手続きが開始されることになった。

しかし、検察は控訴した上。「ネパールへの出国を認めて送還した後に逃亡されてしまうと、裁判審理や有罪確定時の刑の執行が事実上不可能になる」として、裁判所に職権による再勾留を要請した。

刑事被告人には無罪の推定が働く。その被告人が勾留され、身柄を拘束されるのは、罪を犯したと疑う十分な理由があり、なおかつ、「逃亡の恐れ」又は「罪証隠滅の恐れ」がある、という事由が存在している場合に限られる。一審で無罪判決を受けた場合には、無罪の推定が一層強く働くので、それまでの勾留は失効する。再勾留が認められるとすれば、一審の無罪判決に明白な誤りがあるとか、判決後に、有罪を決定づける新証拠が見つかったというような場合に限られる、というのが常識であろう。検察も法律家の集団であり、そのような常識が働かなったわけはない。一審で無罪判決を受けたゴビンダ被告人の再勾留を請求することに対しては検察内部で消極論もあったはずだ。しかし、検察は、再勾留を求めることを組織として決定した。それは、「無期懲役を求刑した事件に対して一審で無罪判決が出て、そのまま引き下がるわけにはいかない。」という検察の威信・面子にこだわる「組織の論理」が最大の理由だったものと推測される。

それに対して、東京地裁と、東京高検の要請を受けた東京高裁第5特別部は、勾留を認めなかった。「法律家としての常識」からすると当然の判断だ。

しかし、控訴審が係属した東京高裁刑事4部は、勾留を認める決定を行った。それがいかなる理由なのかは、わからない。しかし、「法律家の常識」に反する判断が行われたことの背景に、検察の組織の論理が、裁判所に相当なプレッシャーとして働いたのではないかと思われる。弁護側は、異議申立てを行ったが、東京高裁刑事5部は異議申立てを棄却して勾留を認める。弁護側は、最高裁に特別抗告をしたが、最高裁は「一審無罪の場合でも、上級審裁判所が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断できる場合は被告人を拘置できる」として3対2で特別抗告を棄却した。そのために、結局、被告人のゴビンダ氏は再勾留されることとなった。重要なことは、ゴビンダ氏の勾留を認めたのは、控訴審が係属する高裁の裁判部である東京高裁刑事第4部だということである。同裁判部が「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があると判断したことから、その後の、異議申し立てについて判断した東京高裁刑事5部も、特別抗告を受けた最高裁も、その刑事第4部の判断を尊重し、再勾留の決定が最終的に維持された。

つまり、その後に、控訴審の審理を行うことになる裁判部が、被告人の身柄拘束を続けるかどうかの判断に必要な「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の有無について、自らの責任でそれを肯定する判断を行ったということなのである。そのような、控訴審裁判部の判断のために、外国人である被告人は、一審で無罪判決を受けたのに身柄拘束が係属され、引き続き身柄を拘束され、母国に帰ることができない、という著しい人権侵害を受けることになってしまった。

このような判断を行った控訴審裁判部が、控訴審判決で一審の無罪を維持して、検察の控訴を棄却する判決を出すことができるだろうか。控訴審無罪の場合、再勾留を認め、一審無罪判決後に身柄拘束を続けた裁判所の判断に批判が集中することになる。そのような批判を覚悟の上で控訴審裁判部が無罪判決を出すことは、事実上考えられない。

ということは、この事件では、控訴審裁判部が再勾留を認めた段階で、身柄拘束についての判断という、本来は、有罪無罪の判断とは異なる事項についての判断を示した段階で、事実上、逆転有罪が確実になっていたと言わざるを得ないのである。

では、その再勾留の判断は、控訴審としての最終的な判断を先取りして行えるほど、十分な審理に基づいて行われたものであろうか。その時点というのは、一審の無罪判決が出て、検察が控訴した後、控訴審の審理が始まる前である。検察の控訴趣意書提出までには通常2か月はかかるので、まだ、一審判決のどこにどのような問題があるのか、についての検察官の主張すら明確になっていない。証拠関係は、無罪という裁判所の判断が出た一審と全く変わらないのである。それなのに、その時点で、同じ証拠関係に基づいて、無罪という一審の判断を覆し、有罪の判断を行うことを、事実上決めてしまったというのが、この時の控訴審裁判部なのである。

今、この事件のDNA鑑定などに関して新たな事実が明らかになり、控訴審判決の有罪判決に重大な疑問が生じている。もし、この事件が冤罪だということなった場合、一審で無罪判決を受けて「無罪の推定」を一層強く受ける外国人の被告人を、不当に身柄拘束を続け、一審無罪という正しい判断を控訴審で覆して無期懲役判決という重大な人権侵害の判決を行われたことになる。再勾留の判断を控訴審裁判部が行った段階で、その控訴審での有罪判決が事実上決定してしまった、という判断のプロセスに重大な問題があったと言わざるを得ない。しかも、そのプロセスで裁判所が誤った判断を行った原因は、検察が「組織の論理」に基づいて「組織として決定」したことに裁判所が従ったという構図にあるのではないかと考えられるのだ。

陸山会政治資金規正法事件における共通の構図

全く性格の異なる事件であるが、陸山会政治資金規正法違反事件の一審で、刑事裁判の常識に反する判決が出た。そこにも、東電OL事件と同様に、有罪無罪とは別の事項について、裁判所が行った先行判断によって、最終的な裁判所の事実認定を事実上決定づけてしまったという構図が存在している。

この事件では、公判前整理手続の段階で最大のポイントになったのは、水谷建設から陸山会への合計1億円のヤミ献金立証のための証人尋問請求を認めるのかどうかだった。

水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても(それ自体が極めて疑わしいことは、私がこれまで著書等で指摘しているところだが)、そのヤミ献金の事実と、起訴事実の陸山会の収支報告書の4億円の虚偽記入との関連性を示す証拠は全くなかった。検察官は、ヤミ献金を隠すために虚偽記入をしたとして、ヤミ献金が虚偽記入の動機・背景だという主張したが、そもそも、被告人の石川知裕氏も大久保隆規氏も、そのヤミ献金の事実を全面的に否認しており、それを隠すことが動機になって虚偽記入が行われたという証拠は全くない。ヤミ献金と虚偽記入を結び付けるのは、憶測、推測、こじつけしかなかった。しかも、そのヤミ献金の事実は検察が捜査の対象にして、結局起訴できなかった「余罪」である。

このような「余罪」を立証しようとする証人尋問請求を認めることが、いかに不当なことか、次のような事例と比較してみたらわかるであろう。

A被告人はBを殺害した事実(1事実)で起訴されたが、殺人の事実を全面的に否認している。そのAが起訴事実より前にもBを殺害しようとして未遂に終わった容疑事実(2事実)があって、その事実について徹底した捜査が行われたが、結局容疑が固まらず起訴されなかった。

この事例で、Aの殺人事件の公判で、1事実の動機・背景として、2事実の殺人未遂の事実を立証することが許されるだろうか。それは、起訴していない2事実を1事実の公判で立証して処罰しようとしているのに等しく、刑事事件の「不告不理の原則」(検察官が起訴していない事実は審理の対象とされないとの原則)から言っても許されないことは明らかである。

不起訴に終わった余罪を公判立証することの異様さ

陸山会事件でも、もともと捜査の主題となっていたのは、この水谷建設からのヤミ献金の事件だった。マスコミでもその疑惑が大々的に報道され、検察の捜査の労力と時間の大半がこのヤミ献金の捜査のために費やされた。しかし、結局、このヤミ献金についての政治資金規正法違反事件の証拠は固まらず、検察は立件を断念、世田谷の不動産の取得に絡む4億円の虚偽記入だけで石川氏を起訴したのである。

その石川氏らの公判で水谷建設からのヤミ献金の事実を、虚偽記入の動機・背景として立証しようとするのは、Aの公判で、前記の1事実の殺人の背景として2の殺人未遂事件を立証しようとするのと同じことである。

本来であれば、そのような証人尋問請求は、裁判所の判断としては絶対に認める余地はなかったはずだ。しかし、東京地裁は、検察官が強く求めたこの証人尋問請求を最終的に認めてしまった。つまり、水谷建設のヤミ献金と4億円の虚偽記入とが関連性があるという判断を、その時点で行った。

そうなると、判決で、ヤミ献金と4億円の虚偽記入との関連性を否定する判断をすることは、先行して行った自ら判断を否定することになる。そのため、裁判所としては、どうしても、ヤミ献金の事実が虚偽記入の動機・背景になっているという認定をせざるを得なくなったのであろう。4億円の収支報告書虚偽記入の動機について、石川氏が、水谷建設のヤミ献金問題をマスコミから追及されるのを恐れ、世田谷の不動産の取得時期と代金の支払時期を、胆沢ダムの入・開札に近い時期ではなく、次の年にずらして記載したと認定したのである。

この判断がいかに常識からかけ離れたものかは、マスコミ報道の現状を少しでも認識している人間であれば、明白であろう。

もし、同不動産の取得と代金の支払について、実際の取得時期、支払時期のとおりに記載されていたとすれば、政治資金規正法上は全く適法である。胆沢ダムの入・開札に近い時期に4億円近くの高額の不動産の取得の事実を収支報告書で公開しても、それだけで、水谷建設からのヤミ献金疑惑の追及を受けることは考えられない。ヤミ献金というのは、その事実が表に出ないようにしてやり取りを行うからこそ「ヤミ」献金である。ある政治家側が「口利き」をした疑惑が指摘されている大型工事の発注の時期と、その政治家の政治資金収支報告書に多額の現金の政治資金の動きが記載されている時期とが重なっていたとしても、それだけで、ヤミ献金の疑惑を報じることができるほど甘いものではない。ヤミ献金疑惑であれば、そのヤミ献金が実際に行われたことを誰が証言しない限り、それを報道しても、名誉棄損で提訴され、確実に敗訴する。そのことは、その種の調査報道を行っているマスコミ関係者であれば容易にわかるはずだ。

水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても、その後、同社の会長が脱税事件で逮捕・起訴されたり、仮釈放間際の受刑中にヤミ献金の事実を供述したりすることがない限り、そのような疑惑が表面化することも、マスコミ報道の対象にされることは、あり得なかったはずである。

このような水谷建設からのヤミ献金疑惑がマスコミに追及されることを恐れて4億円の収支報告書の記載をずらしたということは常識から判断してあり得ないことである。

どうしてこのような明らかに不合理な認定が行われたのか。裁判所としては、無理やりにでも、水谷建設のヤミ献金が4億円の虚偽記入の動機・背景になったと認めなければ、検察官の証人尋問請求を認めた自らの判断が間違っていたことを認めることになる。それが、マスコミ報道の常識から考えて明らかに不合理な事実認定を裁判所が行うことにつながったとしか考えられないのである。

特捜部の面子をかけた冒頭陳述案に「根負け」した最高検

私が、某検察幹部から聞いた話では、そもそも、水谷建設からのヤミ献金について石川氏らの公判の冒頭陳述に記載することに対しては、検察内部でも強い異論があったようだ。捜査を進めてきた特捜部は、石川氏らの公判で、水谷建設からの1億円のヤミ献金を、政治資金規正法違反事件の動機・背景として冒頭陳述に記載して立証することを強硬に主張した。小沢氏の起訴が果たせなかったが、そのかわりに、ヤミ献金の事実を石川氏らの公判で冒頭陳述書に書けば、マスコミがそのまま報道し、それによって小沢氏にダメージを与えることができるという思惑からであろう。

しかし、最高検側は、水谷建設のヤミ献金の問題と4億円の虚偽記入とは関連性がないとの理由で、冒頭陳述案から削除するように指示した。ところが、特捜部は諦めない。また、水谷ヤミ献金の事実を記載したままの冒頭陳述書案を最高検に上げる、最高検から削除するよう重ねて指示されても、またその事実を書いたまま案を上げる、ということを繰り返しているうちに、最高検サイドも、最後には根負けして特捜部の冒頭陳述案を了承してしまった。「どうせ関連性のない立証を裁判所が認めるわけがないから、書くだけ書かせるしかない」という判断になったのであろう。

こうして、陸山会事件の冒頭陳述に水谷建設ヤミ献金の事実が記載されることとなり、検察は、公判前整理手続きで、その冒頭陳述書を前提に、水谷建設関係者の証人尋問を請求した。検察が立証方針を決める段階で、特捜部の面子をかけた「無理筋」が通ってしまったのである。

起訴事実と関連のない立証を認めた結末

本来、そのような起訴事実と関連性のない証人尋問請求は認められるべきものではない。弁護側も強く反対した。しかし、冒頭陳述書記載の事実の立証のために必要だと検察官が強く求めてくる証人尋問請求を却下することは、いかに、その請求が起訴事実との関連性についての判断として、常識を逸脱するものであっても、どうしても裁判所にはできなかったのであろう。いかに刑事司法の常識からはかけ離れたものあっても、検察司法の中核機関である検察が組織として決定し、当然行うべきと主張している証人尋問請求を却下することに、裁判所としては相当な抵抗があったのであろう。

結局、裁判所は、検察の「無理筋」の立証を認め、水谷建設関係の証人尋問請求を容認してしまった。そうなると、判決でも、その判断を前提とする認定を行わざるを得ない。それが、水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記入の動機だったという、凡そ理解しがたい判決の事実認定につながったものと思われる。

そして、虚偽記入の動機をそのように認定しようとすると、判決の事実認定は、全体的に大きく影響を受けることになる。

石川氏については、捜査段階の供述調書の多くが証拠請求を却下されても、政治資金収支報告書に、不動産代金の支払時期について客観的事実とは異なった記載をしている以上、「無罪」にはならないであろうと私も予測していた。ただ、それは、陸山会の事務手続き上のミスか、小沢氏に、不動産取引に関する事情をよく知らされていなかったために、よくわからないまま記載した理解不足によるもので、政治資金規正法違反の動機として悪質なものとは言い難く、量刑としては、むしろ罰金刑程度が相当ではないか、というのが私の見方であった。

ところが、「水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記入の動機」ということを前提に事実認定をしようとすると、全く別の判断になる。まず、石川氏については、4億円の虚偽記入やミスとか理解不足などというものであってはなく、公共工事の口利きの対価であるヤミ献金を隠す意図から行った、まさに法の趣旨に著しく反する、悪質極まりない動機ということにせざるを得ない。

それは、前記のAの殺人の例で言えば、起訴事実の1の殺人についての証拠関係では、Aの行為とBの死亡との因果関係も殺意も立証できず「傷害」の認定にとどまったが、起訴されていない2の殺人未遂の事実について証人尋問まで行って殺意を認定し、それを考慮して、1の殺人の事実についても悪質な動機による犯罪と認定して重く処罰するのに等しい。

暴力団犯罪、過激派犯罪と同様のレベルの認定

そのような「水谷ヤミ献金動機・背景認定」による汚染は、それだけにとどまらない。私は、前田元検事がとった大久保氏の調書の任意性が否定され証拠請求が却下された以上、同氏の無罪はほぼ確定的だと見ていたが、判決の判断は全く異なる。

ヤミ献金が胆沢ダムの工事受注の対価だとすると、その「口利き」を行った大久保氏こそが悪事の張本人ということになる。何とかして有罪の認定をしないと収まりがつかない。そこで、石川、大久保、池田の3氏の間の共謀や犯意を「推認」に次ぐ「推認」で認定する。結局、判決全体が、「推認」、「推測」で埋め尽くされているが、その背景にあるのは、「水谷ヤミ献金動機・背景認定」であり、それは、「小沢事務所は、公共工事で『天の声』を出して『口利き』をして対価を受け取る、まさに公共工事の利権を食い物にしている違法集団」という認識を背景にしている。それは、さながら「反社会的行為を目的としている暴力団」「テロ、ゲリラによる暴力革命を目的にしている極左暴力集団」による犯罪の認定のような「極めて希薄な証拠による認定」に近いものである。

今回の陸山会事件判決の要旨を、刑事の実務の経験があるものが読めば、誰しも、その民事判決並みの推認だらけの認定が、刑事事件判決として行われていることの異様さに驚くであろう。

しかし、その判決を出した裁判官3人が、特に異常な考え方とか性格の持ち主だとは思えない。普通の裁判官であっても、今回のような異様な判決を行ってしまったそもそもの原因は、起訴事実との関連性がない証人尋問請求を認めてしまったところにあると考えらえる。

それは、刑事司法の中核たる機関として良識を持って判断すべき検察が、そのような関連性のない立証を行う方針を組織として容認してしまったことに根本的な原因がある。

そこには、証拠不十分のため、捜査で目的を果たせなかった特捜部の現場が、面子にかけて水谷ヤミ献金立証にこだわり続け、最後には最高検が「根負け」する形で、認めてしまった刑事司法の常識に反する立証が招いた結果なのである。

東電OL事件が冤罪であることが明らかになれば、「無罪の推定」に著しく反する身柄拘束を継続して外国人に対する著しい人権侵害を行った事例として、日本の司法の汚点になることは必至である。

それと同様に、陸山会事件判決は、刑事事件の常識に反する立証を認めたことが、最終的に「『推認』に埋め尽くされた異様な判決」につながり、政治的に重大な影響を与えた例として、これもまた、日本の司法の重大な汚点になる可能性がある。

そして、両者には、組織としての威信・面子にこだわったために、健全な常識には反する検察の組織としての決定が行われたという共通の構図がある。

東電OL事件の再審がどうなるのか、陸山会事件一審判決が控訴審でどのように審理され、どのような判断が行われるのか、今、大きく揺れ動く日本の刑事司法の行方を占うものと言えよう。

(初出:メルマガ  http://www.comp-c.co.jp/pdf/111005.pdf

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「鉢呂経済産業大臣辞任」の不可解

野田新内閣の経済産業大臣に就任した鉢呂吉雄氏が、就任9日目で辞任した。
理由は、①福島第1原発を視察後、議員宿舎に帰宅した際、報道陣の一人に防災服の袖をつけるしぐさをし「放射能をつけてやろうか」と発言したこと、②翌日の記者会見で原発周辺の市街地を「死の町」と表現したこと、の二つだ。

どうして、このようなことで、経済産業大臣という重要閣僚が、しかも就任直後に、辞任しなければならないのだろうか。
しかも、発言の事実関係や意図・動機等はほとんど明らかにならないまま、あっという間に辞任会見が行われた。全く不可解というほかない。
まず、①の言動は、確かに子供じみたものではあるし、原発事故被災者が知れば不快に思う軽率な行動と言えるだろう。しかし、防災服の袖をつける」と言っても、原発施設内に入る時には、防護服に着替え、出た後には厳重な除染を行うことは、経産省担当記者であれば認識しているはずであり、「袖をつける」というのが、「放射能をつける」ことにつながるというのがよくわからない。その行動が、どれだけの悪意によるものか、或いは、鉢呂氏本人の「放射能」への無神経さを表すものなのかは、前後の状況、発言時の本人の態度等を明らかにしないと判断でないはずだ。しかし、昨夜の辞任会見でも鉢呂氏は、「そういう発言をしたと確信を持っていない」と述べており、一方、鉢呂氏からそのようなことをされた相手の記者の具体的な証言は全く出て来ないし、そもそも、その記者が一体誰なのかもよくわからない。
②の発言も、私には、それがなぜ問題なのか、よくわからない。原発周辺の市街地が「死の町」であることは客観的事実だ。我々は、今後も、容易には「生きた町」に復活させられるとは思えない「死の町」を作ってしまったことを真摯に反省し、被災者への賠償、事故の再発防止対策を行い、今後の原発をめぐる議論を行っていかなければならない。そういう意味では、「死の町」というのは現実であり、それを視察した大臣が、その通りに発言することが、どうしてそんなに悪いことなのだろうか。

私は、今年5月、初めて、大震災・大津波の被災地陸前高田を訪れ、その被害の凄まじさに立ち尽くした。一本松が『希望の松』として残ったのではなく、一本の松を残して、一つの市がすべて破壊し尽くされたとしか思えなかった」と、「感じたまま」をその時のツイートに書いた。私は、その壊滅した陸前高田の現実的な復興プランを考えるためには、まず、この被災地の現実を直視しなければならない、ということだと思った。そういう私の「一本松は『希望の松』には見えなかった」という発言も、被災者の方々に対して「不適切」だったのだろうか。
原発事故で被災した町を「死の町」と表現するかどうかではなく、その現実をどう受け止め、今後、そういう事態を二度と起こさないためにどうしようとするのかが、問題なのではないのか。

しかし、私は、今回の辞任問題について、鉢呂氏を「被害者」視する気も、擁護する気も全くない。最終的には辞任を決断したのは鉢氏本人だ。どうしてこのようなことで、事実関係のろくな説明もないまま、辞任しなければならないのか、閣僚としての責任感はどうなっているのか、その程度の人物なのであれば、経産大臣を続けていても、ろくな仕事はできなかったであろう。
このようなことで重要閣僚が就任直後に辞任するという事態は、日本の政治が、「末期症状」を通り越して「脳死状態」に陥っているということなのではないだろうか。

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