「死因不明社会」と司法について・海堂尊氏との対談

海堂尊氏とは「死因不明社会」と司法の世界の問題に関して2回対談しました。その際にも話したのですが、重要なのは、刑訴法上変死体の「検視」が検察官の権限とされていることです。
最初の対談は、コンプライアンス研究センターの機関誌で2年半余り前に行ったものですが、その対談の該当部分を、まとめました。
この話も、結局、刑事司法の正義を検察が独占してきたことにつながります


郷原 死因の問題に検察官が関わるのが変死体、つまり、犯罪による死亡かどうかが明らかではない死体について行う検視です。検視は検察官の権限とされているのですが、実際には、代行検死という形でほとんどは警察がやっています。代行検視は、本来、検察官の指示を受けて行うべきものですが、中には、先に警察官がすべてやってしまって、ほとんど終わってから連絡してくるということもあります。検察官による検視というのは形骸化しています。

海堂 検死の権限は医師に与えるべきですね。警察官だって、検死官に育てるためには相当の研鑽が必要です。現在、専門の検死官は、全国にたった120人しかいませんし、検事が行っても判らないのですから。

郷原 唯一、検事自身が直接検死をやらざるを得ないのが、留置場とか監獄内で在監者が死亡した場合です。しかし、検事が直接死体を見たところで、死因はほとんど何も判りません。なぜ、検察官が直接検視をしないといけないかと言えば、警察や拘置所などで在監者に対する暴行・虐待などの犯罪が行われて死亡したのではないかを検察官が直接確認する必要があるからです。検視は、死因を解明するというより、犯罪死であるかどうかを明らかにするという意味なのです。

海堂 ですから検死は医師がやるような制度に組み立てていかないと、「死因不明社会」の解消にはならないのですね。

郷原 死因というのを市民社会の観点から見るとそうなります。「検視」という、犯罪死であるかどうかを明らかにするための刑事訴訟法上の制度が「検死」という言葉に置き換えられて、一般的な死因の解明と混同されているところに問題があります。海堂さんが言われている「死因」というのは、犯罪死かどうかを明らかにするということだけではなくて、すべての個人の死因そのものを明らかにするということだと思います。それが、「検死」という曖昧な言葉のために、刑事手続の中に埋没してしまっているのです。

海堂 つまり、市民社会のことは考えてないということですね。

郷原 死因を刑事司法の視点だけから見ているということです。犯罪死だということが明かなときには、警察がそのまま犯罪捜査の手続でやっていきますから、検察官の検視の対象にはなりません。犯罪死かどうかがはっきりしないときには、刑事事件の全面的な処分権限を持っている検察官が判断しないといけないというのは、刑事司法の正義という考え方から出てくるのです。検視が検察官の権限にされているのは「刑事司法の正義」というところから来ているのです。そこでの正義は、「犯罪が存在している限り、それを刑事事件として処理する権限はすべて検察官に属する」という考え方の下で、検察に独占されているのです。刑事司法の正義を担っているのは検察官なのです。
そういう検察が独占している「刑事司法の正義」というのが絶対のもので、市民社会における死因解明とか医療の世界で死体をどう扱うかというのは、その正義に反しない範囲でやれば良いというのが、刑事司法の側から見た死因のとらえ方です。

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「検察のあり方検討会議」メンバー就任

【第105回定例記者レク概要より抜粋】

「検察のあり方検討会議」という法務大臣の諮問機関が設置されるという方針が示されていたわけですが、今日、ちょうど今ごろ、法務大臣の会見でメンバーが正式に公表されているようです。私もその会議のメンバーに入ることになりました。

まず最初に、この検討会議の委員に選任されるに至った経緯、私なりの認識についてお話をしたいと思います。10月23日、ちょうどテレビ朝日の「朝まで生テレビ」に出演した後の昼に、柳田法務大臣からご連絡があって、お会いしました。大臣はたまたま「朝生」を見ておられたようで、それまで法務省のまわりの人からどう言われていたか、よくわからないんですが、この「朝生」を見て、そんなおかしな人間でもないんじゃないかと思われたようで、私の話をお聞きになりたいということでしたので、私がこれまで著書などで述べてきた検察に対する見方、検察の改革論、検察の現在の組織の問題点などについて意見を申し上げました。

そのときに、柳田大臣の言われることを聞いて、まさに検察への国民の信頼が地に落ちている状況の下で、法務大臣として、抜本的な検察改革を行なって、検察への信頼を取り戻そうという強い意思をお持ちであるということを率直に感じたわけです。千葉前大臣を座長に選任したことについても、いろいろ批判があったわけですが、私は柳田大臣が言われた、「検察に対して厳しい考え方を持っておられる方で、なおかつ本検察の内部についてもよくおわかりだから、座長になってもらうことにした」という言葉が――そうやって、私をわざわざお呼びになって、話を聞かれるということからして、これは本気だなと、本心で言われていることだなと思った次第です。もちろん、そのときにはまだ正式にこの検討委員会の委員にというような話があったわけではありませんが、そういったことも含めて、検察改革に協力してほしいということを言われましたので、私としても全力で、可能なかぎりご協力をするということを申し上げたわけです。

ということもあって、それ以降、この検討会議のメンバーに選ばれるかもしれないなということは、可能性としては十分に認識していたわけですが、一方で私がこれまで、この検察問題に対して、その本質的、構造的な問題も含めてかなり厳しい批判してきましたので、私がメンバーに入ることに対しては相当反発、抵抗が強いのではないかとも思っていまして、どうなるかわからないなと思っていたのですが、先週末ぐらい、法務省の方から、正式にメンバーにという話がありました。こうなった以上、私もこの会議を通してできる限りの貢献をしたいと考えています。

私がどういう趣旨でこの検討会議のメンバーに選ばれたのか。
選ばれた側でお考えになったことですが、私は柳田大臣にも私自身のこの数年間ずっと専門にしてきた組織のコンプライアンスという観点から、この検察の組織を本当に抜本的に見直さないといけない、検察の業務のあり方をあらゆる面から見直さないといけないということを申し上げました。

そういう意味で、私が今回この会議のメンバーに入るということになったのは、まさに組織のコンプライアンスを専門にする者として、そういう立場で貢献をしてほしいという趣旨ではないかと考えています。もちろん、私自身、検察で23年間仕事をしてきた人間ですし、そういった経験にもとづいて考えたこともいろいろあります。むしろ、そういう経験もベースにしながら、私なりの組織のコンプライアンス……私が言っているコンプライアンスというのは法令遵守ではなくて「社会の要請に応えること」です。検察が本当の意味で、今失いかけている信頼を取り戻して、社会の信頼に応えられる組織になるようにするために、私のコンプライアンス論を少しでもお役に立てるようにできればと思っています。

コンプライアンスの問題は企業に関する問題が中心ですけれども、私は官公庁のコンプライアンス問題にも関わってきました。原口大臣の時代に総務省の顧問に就任して、片山大臣になって以降も顧問を引き続き務めさせていただいています。その顧問としての1つの重要な仕事はコンプライアンス室長という仕事で、総務省の業務に関して、総務省内外からいろいろな情報を提供を受けて、組織として社会の要請に応えるという観点からのコンプライアンスについての検討を行なうという立場にあります。そういった官公庁としてのコンプライアンスのあり方という面からも、この検察の問題を改めて考えていきたいと思っています。

この検察の組織としてのコンプライアンスという問題について、最近いろいろな場での講演の冒頭で、概ね、次のような話をしています。

これまで、検察の組織いうのは、あんまりコンプライアンスという観点で考えられることがなかったのではないか。なぜかというと、検察の組織というのは、丸ごと正義の塊であって、その検察に対してコンプライアンスがどうのこうのというようなことを言う余地はないというような考え方だったんじゃないかと思います。しかし、検察といえども、人間が集まってできている組織であることに違いはないわけで、その集まっている人間の中にはやはり問題のある行為をしでかす人間というのは、必ず出てくる。それが組織の常です。そういう問題が生じるのをどうやって防止するのか、問題が生じた時にどう対応するのか、ということを考えるのが組織のコンプイライアンスです。本当はこの検察についても、もっと早くからコンプライアンスという観点でものを考えなければいけなかったんだと思います。ところが、そういう検察に対する固定観念もあって、今までそういう考え方は行なわれてこなかった。

90年代以降、多くの企業、官庁が3つのことを強く求められるようになりました。1つがその組織のガバナンス、2番目にその組織の活動についての情報開示義務、3番目にその組織の活動に関する説明責任です。民間企業、官公庁を問わず、そういった3つのことによって、組織の活動を適正化していこうという動きがこの社会全体に広まっているなかで、1つの行政組織でありながら、検察にはこの3つがまったく求められてこなかった。

まず、ガバナンスについては、ガバナンスというのは主権者とか、株主とか、そういうもともとの権利者の意思を無視するかたちで経営者など、その組織のトップが暴走することがないようにするためのガバナンス。これについては、検察については何がガバナンスの根拠なのかがはっきりしない。結局、正義という言葉でガバナンスが終わってしまうわけです。

そして2番目、情報開示義務に関して言えば、検察の業務というのは捜査の秘密とか、刑事記録の非開示とかいうことで、ほとんど情報は開示されない。開示しなくてもいいことになっている。

そして、説明責任に関して言えば、これは西松事件のときなどにいろいろ問題になりましたが、基本的に検察はその処分の理由、あるいは捜査の理由、起訴の理由などについて、社会に対して説明責任を果さなくてもいい。裁判所に対して立証責任を負っているだけだ、ということですましてきたわけです。

そういう組織において必要な3つの義務が果されないまま来てしまったことが、今回の検察をめぐってさまざまな問題が発生している1つの背景になっているのではないかという気がします。そのような観点も含めて、今後、検討会議の場でもコンプイラアンスの観点からいろいろ意見を言っていきたいと思っています。

この検討会議でどういう事項が検討の対象とされるのか。これは検討会議で議論すべきだと思いますし、大臣や座長のお考えもあると思いますが、柳田大臣から私がお会いしたときにお聞きしたのは、やはりここまで検察に対する信頼が地に落ちているわけだから、今検討できること、検討すべきことは、あらゆることを検討すべきではないかというようなお考えを伺いましたし、私もその通りだと思います。大阪地検の不祥事、それに関連することに限らず、今、検察に関して問題となっていること、あらゆることを検討し、この際、本当に改めるべきものは徹底的に改めなければならないのではないかと思います。

今回のメンバーの中で、概ね、メンバーの大半が従来から予想されたような、法曹界の方々、それに関連する経験をお持ちの方々が多い中で、ちょっと私が意外に思ったメンバーが高橋俊介さんという、組織・人事制度、キャリア制度などの専門家が入っておられることです。どういう経緯で選任されたかわかりませんが、こういう方がメンバーに入っているというのは、おそらく検察という組織の人事のあり方、キャリア制度のあり方、組織のあり方というようなところも検討の対象にしようという考え方なのではないかと思います。それは私自身の経験に照らしても非常に重要なことだと考えています。

それから、検察権の行使の適正化ということが当然必要になるわけです。今回の大阪地検の問題に関しても、まさに検察権の行使そのものです。そういう面で、例えば検察庁法上の法務大臣の権限行使、これをいかに適正に行えるべきなのかということ。これは尖閣の中国人船長の釈放問題などに関しても、いろいろ問題になっていますが、私はこれも広い意味での検察のあり方を、本当にこれから国の機関として適正化していく上で考えなければいけない重要な問題ではないかと思っています。

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小沢氏にまつわる第5検察審査会の議決の取扱いの異常さ

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

もう1つが検察審査会の話です。
この検察審査会に関しては先週からいろいろ動きがありました。先週は学習院大学の桜井教授をお招きして、ここで今回の東京第5検審の議決についての行政法上の問題とか、行政訴訟として問題にし得るのはどういう点なのかということなどを、行政法の専門の桜井先生から話して頂きました。

小沢氏側が提起していた行政訴訟が今週の月曜日に東京地裁で却下されました。却下決定があっという間に出た。その却下決定ですが、私もどういう理由なのかということは、いちおう私なりに情報を収集して、だいたいわかりました。

要するに一言で言えば、こういう問題、もし議決に重大な瑕疵があるとか、そういう問題があれば、強制起訴してもらったら刑事事件になるんだから、その刑事の公判手続の中で主張して、それで公訴棄却なりしてもらえばいいことであって、それを行政訴訟で事前に議決に瑕疵があるとか、取り消させるべきだということで争うような問題ではないということのようです。

まったくわかってないと思いますね。裁判所がこんな決定をしたというのは、小沢氏側の主張が本当に十分だったのかどうかということも含めて、私は非常に残念です。

まず原則として、そういう手続でいくべきであるというのは、もちろんそうです。検察の起訴に相当するものが検察審査会の起訴議決であって、その議決をそのまま選任された指定弁護士が議決の通りに起訴の手続を行なう、そして、公判を行なう。そういう流れが原則になっていることは確かです。ですから、その原則通りに行っている限りにおいては、被疑者側で不服があっても、問題があると思っても、刑事公判の中で無罪を主張する。その前提として起訴が無効だ、議決が無効だというのであれば、公訴棄却を求める、刑事公判で争うのが原則である、というのは間違いありません。

しかし、そもそもそこに乗せていくこと自体が、そういう手続に乗せていくこと自体が問題だと思えるような重大な瑕疵がある場合まで、そういう原則通りのやり方ですべきだと。刑事公判になったから、公訴棄却なりをしてもらったらいいということでは、私は到底済まないと思います。

なぜかというと、まず1つは、検察官が起訴するのであれば、検察官は起訴するまでの間、捜査にも、例えば捜査の中身にも、そして起訴して、有罪にできるかということの見通しについても責任を持っているわけです。検察官の責任においてやっているわけですから、その判断が適切じゃないと思えば、起訴を断念したり、勾留を取り消したりして、検察官は引き返さないといけないわけです。とても無理だからやめておこうと思ったら起訴を断念するということだって当然あるわけです。

ところが、この指定弁護士にはその裁量権はないんです。議決にもとづいて弁護士として指定されたら、そのまま起訴して、有罪に向って突っ走って立証するということしかないんです。だから、鉄砲玉と同じなんです。真っ直ぐ飛んでいくだけなんです。

検察官は公益の代表者として、その都度その都度その適正さを判断しているのですが、それとはまったく違います。指定弁護士にはその一方向の鉄砲玉としてベストを尽くさないといけないという義務が与えられているわけです。本当に極端な話をすれば、証拠が不十分であれば、起訴の手続をとるために詰めの捜査をするという権限だって与えられているわけです。
ですから、先週号の『アエラ』で書いていたように「小沢逮捕もできる」ということなんです。捜索だって、自宅の捜索だってできるのです。そのぐらいの権限を与える行為なんだから、そういう重大な弁護士の指定ということなんだから、それはその前提として、議決が有効でなければいけないのは当然だということを言っているわけです。

もし間違った、重大な瑕疵がある議決を、素人集団ですから、してしまったというときに、そのもともとの議決に重大な瑕疵があって、その議決の通りに補充捜査をした上で、起訴手続をとろうとしている、そういう検察官役の指定弁護士の捜査活動を止められますか?
止められません。裁判所が議決書に基づいて選任している以上、議決書の趣旨にしたがって犯罪事実を立証するために最大の努力をするのは当然のことです。

公判手続きで争えば良いと言いますが、仮に起訴議決が無効であったということで公訴棄却された場合、それまでに生じた損害は誰が責任をとるのか。誰が賠償の責任を負うのか。これ、国家賠償と言ったって、一時的には誰か個人の責任です。重大な過失があったら、個人が責任を負わなくてはいけないはずです。

では、誰が責任を負うのか。弁護士には責任はありません。指定弁護士はそういう役割が与えられているわけですから。それでは、補助弁護士、議決の際に補助をした補助審査員の弁護士に責任があるのか? これもありません、補助ですから。

では、そういう重大な瑕疵のある議決してしまった審査員に責任があるのか?

まさに『日刊ゲンダイ』に書かれていた審査員に対する国賠請求の問題ですが、私はそれはとんでもない話だと思います。そいうことになる可能性があるんだったら、そもそも検察審査会という制度なんか維持できない。恐ろしくて審査員なんかやってられない、ということになります。

ということは、そういうことにならないような歯止めというのが当然必要なはずなんです。議決が無効で、重大な瑕疵があるんだったら、一見して明白な瑕疵があるんだったら、それは途中で止めないといけない。それは裁判所が指定弁護士を選任する段階でちゃんと気がついて、これはちょっとまずいということで、指定弁護士の指定を止めるということが十分可能なはずです。

だから、そういったことをきちんと、国の側がこんなものは行政訴訟の対象じゃない、公判手続でやればいいと主張したとしても、それに対してきちんとした反論が行なわれ、「こんなことを、今言ったようなことを認めるとしたら、重大な憲法違反だ。憲法31条の適正手続違反だ」ということがしっかり主張されていれば、私は裁判所がこんなにあっさり却下することはないと思ったわけです。小沢氏側で、本当にそこのところをちゃんと主張したのか、若干疑問に思ったわけです。

行政訴訟で問題にされた点以外にも、今回の検察審査会の議決に関してはいろいろなことが問題にされてます。

とくに唖然とするのが、この間から問題になってる審査員の平均年齢の問題です。

当初、平均年齢が30.9歳だと公表されて、それを前提にみんなが、真面目に考えて、これは若すぎるんじゃないか、おかしいんじゃないかとさんざん議論をしたわけです。中には数学者まで連れてきて、確率論の計算までやってもらった人もいるわけです。そういうことをみんながやってる最中に、検審の事務局はこの誤りに気づかないで、1週間もたってから、「実はこれはまちがってました」ということを発表しました。

そのこと自体が考えられないことです。そもそもそんな役所があるのか。誰が責任をもって、この公表事項についてチェックをしているのか。まったく考えられない事態です。

しかも、その30.9歳を33.91歳に訂正した段階で、37歳の人が一人抜けていたと、足し間違いしていたということを説明していたわけですが、37歳の人が一人抜けているだけだったら、この33.91歳にならない。この差が説明できない。

計算の合わない訂正なんていうことを行うのは、これまでどんな日本の役所で、どんなずさんだ、どんないい加減だと言ったって、まずあり得なかった話です。あり得ないことが立て続けに起ったわけです。そして、また、その後に、再度訂正しました。そのときには、年齢を選任の時点にするのか、議決の時点にするのかを間違えたということを理由にしたんですが、もしそういう間違いだとすると、これもブログ等で指摘されているように、1カ月ちょっとの間に、審査員11人中7人の人が誕生日を迎えたということになるわけです。この確率もきわめて低いと考えざるを得ない。

もうここまでいくと、まともなお役所のやる仕事とは何次元もかけ離れたもので、こんないい加減な事務局がやったことを前提に、審査会の議決があったとか、私が今言ったような重大な結果が生じる審査指定弁護士の指定を行なうなんていうこと自体が凡そあってはならない話です。

検察審査会の事務局長、責任者をどこかに呼んで問いたださないといけない。公開の場でちゃんと説明してもらわないといけない。当たり前のことだと思います。

そういう意味では、もともと審査の経過がどうだったのか、検察官がどういう説明をしたのか、審査補助員の弁護士がどんな説明をしたのかという審査の経過が公開されないといけないと思うんですが、検察審査会の会議録というのは、単に何月何日に会議を開いたとか、誰が集まったとか、議決を行ったかどうか、とかいうようなことだけが書かれていて、いわゆる議事録的なものは作ってないようです。

議事録など作っていないというようなことが、10月16日の読売新聞に書いてあったんですが、もしそんな施行令が最高裁によって作られていたとしても、今回のように政治的に重大な影響を生じる事件の審査は、それで許されるような話ではないと思います。
現にこの前の衆議院、参議院の予算委員会での答弁で、最高裁の刑事局長も、法務省の刑事局長も、両方とも会議録には議事の中身は書いてありません、なんていう答弁はしてないはずです。

ちゃんと議事録を作っていることを前提にして、それで、事柄の性格上、あるいは個人の発言の秘密とかいうことで出せませんということを言っているわけです。会議録の問題も非常に不可解な経過をたどっていますし、きちんと明らかにしないといけないと思います。いったいどういうような事項が会議録として記録されているのか。その公開はどこまで可能なのかということが今後大きな問題になるのではないかと思います。

もう1つ、この前からブログやツイッターで問題にされているのが、検察審査会法40条との関係です。

この40条で「検察審査会は審査の結果、議決をしたときは、理由を付した議決書を作成し、その謄本を当該検察官を指揮監督する検事正及び検察官適格審査会に送付し、その議決後7日間当該検察審査会事務局の掲示上に議決の要旨を掲示し」と書いてあります。

ここで、問題は「議決後7日間」の意味なんですが、この議決後7日間というのが、議決をした時点から7日間という意味であれば、今回の議決は議決から20日たって初めて要旨は掲示されたので、この40条に違反しているのではないかという疑いがあるわけです。それに対してどうも法務省側とか、おそらく最高裁もそう言うんだと思いますが、議決後7日間というのは、「直ちに」とは書いてないから、議決後であれば、すぐじゃなくてもいい、しばらくたってから、掲示を初めてもいいんだというようなことを言っているようです。

私は「議決後」というのはどういう意味かということを考える上では、今まで、掲示すべきとされている「議決の要旨」というのがどう扱われてきたかということが重要なのではないかと思います。

過去に強制起訴になった事件の議決の要旨を見ると、議決の要旨には「議決年月日」しか書いてないんです。議決年月日というのが書いてあって、議決の要旨という文書の作成日付は最後に書いてある、というのが一般的なパターンなんです。例えば明石の歩道橋事故とか、JRの尼崎の脱線事故などは即日議決の要旨が出ており、議決の年月日と議決の要旨の年月日は同じ日です。

これは、40条の規定を刑事裁判の判決の取扱いと同じように考えているということだと思います。40条はそういう趣旨に理解すべきものではないかと思います。

刑事裁判の判決というのは、判決が言い渡されて、即日効力を持つわけです。でも、判決書きができるのは1カ月ぐらい先です。でも、判決が言い渡されることによって効果を持ってるんです。被告人は有罪判決を受けたら、ただちに執行される立場になる。それと同じように、議決というのも、議決されたということによって、検察審査会の議決として効力を持つ。だから刑事裁判でも言い渡しの際に判決要旨が出さるのと同じように、議決の要旨は遅くとも7日以内。とにかく早く公表しなさい、掲示しなさい。ただ、正式な議決書というのはそれからしばらく後でもいい。そういう考え方じゃないかと思うんです。だから、みんなその考え方でやってきているわけです。

ところが、この第5検審の議決の要旨だけが書き方がちがうんです。
議決年月日の下に議決書作成年月日というのが書いてあって、文書の末尾には日付の記載はない。

ということは、これは議決の要旨の作成日と議決書の作成日とが同じだということを前提にしているのだと思います。その考え方であれば、さっき言った40条の解釈も、議決書を作って検事正や検察官適格審査会に送付しなさい。そして、その時点で議決の要旨をまとめて7日間掲示しなさい、というような意味になるわけです。しかし、少なくとも過去の強制起訴の事例ではそういう取扱いはしてない。しかも、刑事判決の取扱いからすると、やはりこの40条の解釈はそう解するべきではない。

このように、従来の強制起訴の事例での取扱いと比較しても、今回の小沢氏についての第5検察審査会の議決の取扱いは特殊です。やはり今回の議決の手続はおかしいのではないかと思います。

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日本の検察はパラダイス

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

それと、今日インターネットのニュースを見ていたら、たまたまこんなニュースを見つけたので、一言コメントしたいと思います。
「検察の危機、検察官の負担軽減を」という、産経新聞のニュースが出ているんですけど、いったい何を考えてるのか、と言いたいです。

検察官が負担が大きすぎるから、一人ひとり忙しすぎるから、こんなことになってしまった、もう少し楽に仕事ができるように負担を軽減しなさいと、そういうことを書いてるんですね。産経新聞の人に、この『アメリカ人のみた日本の検察制度』の本を読んでみてもらいたいです。

これはアメリカの法曹資格者であるデイビッド・T・ジョンソン氏が、たしか2年にわたってフルブライトで日本に留学して、その間にいろんな検察関係者とか、いろんな弁護士とか、いろんな関係者にインタビューした結果、日本の検察の実情というのはこういうもので、諸外国の検察制度と比較して、日本の検察はこんなに特殊なんだということを書いてます。この中で「日本の検察はパラダイスだ」と言われています。

処理する事件の質と量という負担の面でも、検察がほとんど公判でも負けない。99.9何%有罪になるということなども含めて、これだけ検察にとって天国みたいな世界はないということが書かれている。これ、多くの検察の関係者がインタビューに応じていて、これを読んでいるんですけれども、みんな「たしかにその通りだ」という、率直な印象を持ったはずです。この本は本当に貴重な本だと思いますね。

新聞記事を書くのであれば、よく実情を知って書いてほしいですね。ものすごく荒っぽいことを書いているわけですよ。

全国の検察官の数が2500何人で、受理した事件は約200万件にのぼって、一人あたり年間775件、1日2件。これ、全部の刑事事件を一緒に考えているから、それをこんな1件1件の処理に時間がかかるようなものと同じように考えたら大間違いです。それは本当にほとんど右から左に、検察官一人ひとりはまったく手間をかけなくてもいいような事件が大部分なんです。これで犯人を捕まえてくるのは警察なんです。被疑者が事実を認めていて犯人であることに間違いがなければ、それを確認して起訴状を書いて起訴すればいい、情状によっては不起訴にして釈放すれば良いというだけのことなんです。

検察官が全部それをフリーパスでやっていたところで、おそらく今の有罪率というのは基本的に98%~99%にはなると思います。いちおう基本的には認めている事件が大半なわけですから。そんなものも含めて、1日2件も処理するのは大変な数だという認識自体、まるっきり完全に間違っていると思います。ということで、とりあえず検察の話はこのあたりにいたします。

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大坪・佐賀氏に犯人隠避は成立するか?

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

今日は犯人隠避の容疑で、逮捕・勾留されている大阪地検特捜部の前部長の大坪氏、前副部長の佐賀氏の延長満期ということで、すでに起訴されたと報じられています。この事件について、私はすでにいろんなところで発言をしていますけれども、改めて今回の最高検の調査チームによる捜査、そして今回の、犯人隠避による起訴という処分について、私なりの考え、見解をお話したいと思います。

まず、そもそも今回の大阪地検の前田元検事による証拠隠滅の事件、そして今回、その証拠隠滅の犯人を隠避したということで、前部長、前副部長が逮捕、起訴された事件。いずれも、私はこの問題の本質、核心ではないと思います。私は今回の問題の核心が特別公務員職権濫用であるということは、この前部長、前副部長が逮捕される、ずっと前から言ってきました。

問題の核心は、このフロッピーディスクの最終更新日のデータという客観的な証拠に照らすと、その当時の大阪地検特捜部の収集していた証拠関係では、村木さんの虚偽有印公文書作成罪の共謀というのは、とうてい認められない証拠関係であったことは明らかだった。関係者の供述からは、村木さんから上村氏に不正な証明書作成の指示があったとすれば、6月8日以降としか考えられなかった。

ところが、一方でフロッピーの最終更新日データからすると、最終的に証明書を作成した日時は6月1日の午前1時ぐらいになる。これでは村木氏の指示にもとづいて不正な公的証明書を作成したという事実は客観的に立証できないわけです。

こういう証拠関係のもとで、村木さんの逮捕を行なうことは、明らかに職権濫用だと思います。その職権濫用にあたる逮捕、それに引き続く勾留、そして起訴を行なうことによって、長期間にわたり村木さんの身柄を拘束したということが、本件の事件の核心であって、それは前田元検事の特別公務員職権濫用という犯罪であるとともに、こういう犯罪を行なわせてしまった検察の体制、決裁システムがどういう状況だったのか、なぜそれが適切に機能しなかったのかということを明らかにすることが、捜査の本筋だと思います。

そういう観点からすると、そもそも前田元検事の証拠隠滅という行為、フロッピーディスクの改ざんという行為もまさに手段として行なわれたものにすぎないわけであって、事件の本質ではない。
そして今回、今日起訴された、この大坪氏、佐賀氏二人の側がフロッピーディスクの改ざんが故意か・過失かを、知っていたか・知っていないかというのは、実に周辺的な事実であって、本質ではけっしてない。

いずれにしても、それによって村木さんの事件が客観的に立証困難だということは、十分に認識していたわけですから、遅くともそのときには村木さんが無実であるということは認識するべきであった。それにもかかわらず、有罪をめざして公判活動を続けていった、立証を続けていった。そのことに問題がある、それが最大の問題だと考えるべきだと思います。

それを、周辺の事実にこだわって、前田検事を証拠隠滅で逮捕・起訴しただけではなく、大坪前部長、佐賀前副部長のその周辺の事実で逮捕・起訴したというのが今回の検察の捜査、処分です。そこに私は重大な問題があると思います。本筋を外れているということに加えて、この犯人隠避罪による起訴も非常に問題であり、私は公判でこのまま両名が全面否認を続けるとすれば、無罪になる可能性が相当程度高いと考えています。

そう考える理由ですが、まず第1にそもそもいろんなリーク情報の報道で出て来ていますが、結局のところ、この犯人隠避を根拠づける証拠というのは、この前田元検事の供述、そしてそれを裏付けるものは、それを支えるものは同僚検事、応援検事ですね、もう名前も明らかになっていますけども、国井検事の供述、結局、そういう供述によって立証せざるを得ないわけです。

しかし、そもそもこの前田元検事がいったいどういう犯罪を行なった人物で、どういう立場にあったかということを考えれば、その供述にけっして信用性があると言えないことは明らかだと思います。まさに自分の捜査上の立場を守るために、村木さんについて証拠上、相当無理があることを承知の上で、その不利な証拠を隠して――言ってみれば上司や上級庁を騙すかたちで、村木さんの逮捕を強行したという人物です。もちろん、騙された側にも重大な問題があるわけですが、少なくともそういうことで、自分の立場を守るために、そういう無実の人を罪に陥れた人間です。

そのことは、今回の前田元検事が逮捕、勾留され、そして最終的に現時点で起訴されているのが、彼がやったことに対しては非常に軽微としか言いようがない証拠隠滅罪、懲役2年以下の罪でしかない。そして、私が先ほどから言っているように、本筋は、これは懲役6月以上、10年以下の特別公務員職権濫用であるとすると、なんとかして軽い罪で終わらせたいということで、上司に責任を押しつけることによって、自分が重い罪を科せられないようにする動機は十分にあると考えるべきだと思います。

しかも、フロッピーの改ざんが故意か過失かということに関して、前田元検事が大坪前部長から電話で問いただされた時点で、本当に素直に故意の改ざんであるということを告白したのかどうか。今日お配りしているのは、『中央公論』の11月号、10月10日に発売になった号の中に書いた私の論考ですけども、この中にも書いています。

まず、何のために上村氏の側にこの証拠物を返還したのか。
早期に起訴後、短期間で返還したのかという、この理由はいろいろ考えられますが、1つの大きな理由は、そういう改ざんをした証拠物を手元に置いておきたくなかったということがあったと思います。

そうしておけば、何をどう改ざんしたのかということを直接知られることはない、ということが言えるわけです。そうだとすれば、せっかくそうやってそのフロッピーを返しているのに、だからすぐには調べられない状態にあるのに、上司から聞かれて、直ちに故意の改ざんをしたということを洗いざらい本当のことを告白するだろうか。しかも、そういう状態ですから、6月の8日にデータを改ざんしたことはわからないわけですね。6月1日が最初更新日であったのを、いったいどのように改ざんしたのかということがわからない。そうだとすると、今回、朝日新聞の報道によってこの事実が明らかになって以降の状況とはまったくちがうわけです。

朝日新聞の報道で今回明らかになった時点では、すでに6月8日に改ざんしたということがわかっていた。だから、さすがに前田前元検事も過失だとか、遊んでいてそうなったとかいうような弁解をしたって、誰も信じなかったわけですが、その大坪前部長が電話で聞いた時点では、まだ十分に言い逃れができる状況だったと考えられます。その段階で直ちに故意であったということを告白したというのは、きわめて不自然だと言わざるを得ない。

それから、もう1つの問題は、この犯人隠避という面でいうと、これは本当に隠避行為と言えるのかどうかということも、法律構成的に犯罪の成否という面では重大な問題だと思います。

前にもこの場で言ったかもしれませんが、犯人隠避というのは原則は積極的に犯人を匿うとか、どこかに逃げさせるという作為を行なった場合です。隠れ家を提供するとか、逃走資金を渡してやるとかです。例外的に不作為が犯人隠避にあたる場合というのは、例えば警察官が指名手配犯人を発見したんだけども、それをあえて見逃してやったというように、その場で直ちに逮捕すべき義務があるのにそれをやらなかったという場合が、消極的な、不作為でも犯人隠避が成立する場合です。

しかし、検察というのは第一次捜査機関ではもともとないわけで、検察が犯人を逮捕するというのは、目の前で犯罪が行なわれているから、直ちに現行犯で逮捕するとか、指名手配犯人を逮捕するということではなくて、検察の独自捜査による犯人逮捕についての、それなりの手続をとって、検察の組織として決定をした上で逮捕することになるわけです。

そうだとすると、単にその場で、目の前に部下が犯罪を犯していたことがわかったのに、それをあえて犯罪だと言って上司に報告しなかったということが犯人隠避にあたるかというと、これはきわめて疑問です。そういったことも含めて考えると、犯人隠避というのは、けっして今回の問題の本質でも何でもない、本当に周辺の事実にすぎないというだけではなく、その周辺の事実を無理に立てようとした、今回の最高検の捜査自体にも相当無理があり、今回の起訴にも相当な無理があると言わざるを得ないと思います。

結局、なぜ本筋に迫れないのか?
こういうふうに私が、特別公務員職権濫用であるということをずっと言い続けているのに、結局、未だにその事実を立件してない。なぜなのか?
そのあたり、この『中央公論』の論考を書いた後の事情として、前田検事が起訴された段階で、前田検事がこういうふうに弁解している、供述している、というようなことが最高検の記者会見の中での説明として報じられています。そのことも踏まえて、大阪地検をめぐる事件、職権濫用罪の成立は明白だというタイトルで書いたものです。これは今日中にホームページにアップしようと思っています。

この前田検事側の弁解は、この1枚目の下の方に書いているように、「他の証拠から立証可能と考えていた。嫌な証拠、マイナス証拠で公判が紛糾をすることは避けたいという思いから改ざんした。マイナス証拠で即無罪とは思っていなかった」という供述。

まさにこれは私が言っているところの特別公務員職権濫用に対する前田元検事の弁解だと考えられます。

しかし、他の証拠から立証可能だと言いますが、どうやって立証するんですかね、いったいどういう立証が可能なのか、私にはさっぱりわかりません。さっきから言っているように、現に関係者供述で6月8日以降に指示があったとしか考えられない。それなのに最終更新日データは6月1日。ということは、どっちかをずらすしかないわけですよ。なんとかして、最終更新日に関する客観的なデータを改ざんしてずらすか。これは実際やったわけです。立証には使わなかったけれども。そういうことやるか、あるいは逆に関係者供述をもっとぐっと前のほうにもってくるか、どっちかしかないわけです。

しかし、関係者供述というのは、その前提となった、そもそもどの時点でそういう公的証明書がどうしても必要だということを認識したのかということとの関係でも、今さらずらせない。
ですから、そういう意味では他の証拠から立証可能だと考える余地はないはずなんです。そうすると、有罪にもっていくとすれば、どういう方法があるかといったら、証拠を改ざんするか、証拠を隠蔽するしかないわけです。

そういうことをやってもいいのか。やってもいいことは当然言えないはずです。そういうことをやるのは職権濫用です。ということになると、この前田検事の供述は、これは弁解になってない。これではなぜ特別公務員職権濫用を適用しないのかという理由の説明にはなりません。

では、なぜやらないのか?

これは私の推測ですけども、最高検にはやろうと思っても、最高検の立場では、それをやるのはきわめて難しいのではないかと思います。というのは、前田元検事がもともと逮捕をした段階では、証拠の矛盾を隠した。フロッピーディスクのことは報告書に書かないで、隠して、決裁を騙しとるようなかたちで上司とか上級長の逮捕に対する了承を得て、それで逮捕した。言ってみれば、リレーで言えば、第1走者の段階はいちおう前田元検事が一人で走ったということかもしれない。まわりの人たちは認識がなかったかもしれない。

しかし、いずれかの段階では、上司や上級庁もその証拠上の矛盾には、途中で気がついたはずです。そして、遅くとも今年の5月の段階で、裁判所が、検察官請求証拠43通のうち、34通の証拠請求を却下した段階では、証拠決定書で6月1日が最終更新日だということは出てきているわけです。遅くともこの時点ではもう認識したということになります。

この事実をどうするのかということが問題になります。ここで、最高検も含めて、ほとんど、完全に前田検事が当初1人で走っていた「証拠が矛盾しているのに有罪にする」という走りのバトンを受け継いでしまっているわけです、みんな認識した状態になったわけです。ここで立証困難、立証不可能だということで、もう有罪立証を断念しなければいけなかった。

それをどうしたかといったら、ここに言っているように、およそ裁判所の方がほとんどまともに相手にもできないような不自然、不合理な、ほとんど憶測にもとづくストーリーで有罪だという、証明十分だという、そういう論告をやったわけです。

6月1日に文書はすでに完成していたけど、いろいろ躊躇して印刷することをためらっていたら、村木さんから不正な証明書を作れということを言われたものだから、それに背中を押されるようにして6月8日に印刷したものだという、ちょっと普通では考えられないような、苦し紛れのストーリーで有罪の論告を行なったのです。

この時点では村木さんは既に保釈されていますので、逮捕・監禁という職権濫用行為は終わっていますが、実質的には前田元検事の職権濫用で始まった「無実の村木さんを有罪にする」という行為が最高検も含めた決裁ラインで継続され、それが最終的に無罪判決を受けて控訴を断念したことで終わったのです。そこのところがどうなのかということを捜査機関として詰めないといけない。

しかし、それをその当事者である最高検ができるのかと、そんなことは到底できないと思います。ですから、最初から私が言っているように、そもそもこの事件を最高検の捜査チームが捜査すること自体が無理なのです。

検察という組織にはもともとこういうときに、踏みとどまる、諦める、負けを認めるというような考え方が希薄であったと言わざるを得ないと思います。今までも、真犯人が現われて冤罪であることが間違いないという状況になったとかいうことでないかぎり、検察が有罪立証を断念したということはほとんどありません。Aという証拠、Bという証拠を全部出してしまえば、たしかに無罪になるかもしれないけども、Bという証拠を積極的に証拠請求しなければ、Aという証拠だけなら有罪で認定してくれるという場合に、そのBという証拠を出さないということは、けっして珍しいことではないんじゃないかという気がします。

そうすると、今回のような場合にも、最後の最後まで有罪だと言って突っ張るというのは、むしろこれまでの日本の検察がずっととり続けてきた態度であって、そのこと自体の見直し、「それでいいのか」ということを考えなければいけない。そういう意味では、検察にとって根本的な問題、構造的な問題を、この事件を機に考え直さないといけないわけです。それを行なう意思がないから、最高検が自ら捜査をしていると言わざるを得ないと思います。ということで、今回の事件、まだまだ事件の核心には全然迫れていないということだと思います。

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大阪地検をめぐる事件、特別公務員職権濫用罪の成立は明白

10月21日、大阪地検をめぐる事件について、大坪前特捜部長及び佐賀前副部長が犯人隠避罪で起訴された。今後の最大の課題は、既に起訴されている前田元検事による特別公務員職権濫用の事実について捜査を尽くすことである。

前田元検事の行為が特別公務員職権濫用に該当するか否かに関しては、村木氏を逮捕・勾留した行為が「職権濫用」と言えるかが問題になるが、以下の理由により該当することは明らかである。

前田元検事が村木氏逮捕を検討し、関連する証拠関係を上司、上級庁に報告し、検察庁内で逮捕への了承を得たと考えられる平成21年6月上旬頃の時点で、関係者の供述からは、村木氏から上村氏への不正な証明書作成の指示があったとすれば6月8日以降としか考えられなかった。一方で、上村氏の自宅から押収されたフロッピーディスク内に残っていた本件証明書の文書データの最終更新日が6月1日午前1時過ぎとなっており、同時期に同文書の作成が終了したと認められ、同文書の作成を村木氏が指示したとすればその時期は5月31日以前としか考えられなかった。そのため、虚偽公文書作成についての村木氏の共謀すなわち同氏の上村氏に対する文書作成の指示に関する関係者供述は、客観的証拠と矛盾しており、その時点で得ていた証拠関係すべてを総合すると、村木氏の共謀は立証困難で、有罪の見通しはほとんどなかった。

前田元検事はこのような証拠関係の矛盾を十分に認識していながら、同フロッピーディスクのデータの存在を報告文書に記載せずに秘匿し、証拠関係の矛盾を隠蔽して、上司及び上級庁の決裁ないし了承を得て村木氏を逮捕した。このような行為が、検察庁法4条により「公益の代表者」と位置づけられ、「裁判所に法の正当な適用を請求」することとされている検察官の職務として許される余地がないことは言うまでもない。

そこで、前田元検事は、最終的に、フロッピーディスクの更新日データという客観的な証拠が有罪立証の決定的な障害になることを恐れ、パソコンソフトを使用して最終更新日を改竄する行為に及んだものである。それが、上記のような有罪立証が困難な証拠関係であることを秘して決裁・了承を得て村木氏を逮捕・勾留した行為を隠蔽すること、無実の村木氏を罪に陥れることを目的とするものであったことは明らかである。

前田元検事は、上記フロッピーディスクの最終更新日データの改竄行為について、最高検察庁に証拠隠滅罪で逮捕され、本年10月11日に起訴されたが、その際の最高検側の説明によれば、「他の証拠から立証可能と考えていたが、嫌な証拠、マイナス証拠で公判が紛糾することは避けたいという思いから改ざんした。マイナス証拠で即無罪とは思っていなかった」と供述しているとのことである。これは、特別公務員職権濫用罪の嫌疑に対する弁解と考えられるが、「他の証拠から立証可能」というのは、一体どのような立証が可能だという意味であろうか。村木氏が虚偽の証明書作成を指示したことをいかに多数の関係者が供述していたとしても、フロッピーディスクの最終更新日データという客観的証拠と矛盾している限り全く無価値なものであり、そのデータを改竄、隠蔽等しなければ有罪立証が困難なことは明らかである。

公判段階において正確なフロッピーディスクの最終更新日データを記載した捜査報告書が村木氏の弁護人側に開示されてしまったことで上記証拠関係の矛盾が明らかになった後に前田元検事を含む検察官側が行った論告で『6月1日未明に、いったんは「平成18年5月28日」という作成日付が入力されたデータを作成しながらも、現実の公的証明書の発行については、必要な審査資料の提出がなかったことから、やはり逡巡していたところ、その後、被告人からの指示等で背中を押されて公的証明書を発行するという最終決断に至った』という証拠に基づかない不合理極まりない主張を行っているが、このような主張を行わざるを得なかったことも、証拠の矛盾を解消して有罪立証を行うことがもともと困難であったことを裏付けていると言うべきである。

前田元検事は、証拠改竄の目的について「公判を紛糾させたくなかった」と述べているが、フロッピーディスクのデータを含めすべての証拠関係が明らかになれば、「公判の紛糾」程度では収まらないことは明らかであり、目的が、その存在が明らかになると有罪判決の重大な支障になるフロッピーディスクのデータという客観証拠を隠蔽することで、有罪判決を得ようとすることにあったことは明らかである。

最高検が会見で明らかにした前田検事の特別公務員職権濫用に対する弁解と思える供述は明らかに不合理であり、同罪で捜査をしない理由は見出し難い。無実の村木氏を逮捕・勾留し、150日以上にもわたって身柄拘束を継続したことの責任は、被疑者、被告人やその関係者が、罪を免れたり、免れさせたりする目的で行われる行為を想定している証拠隠滅罪(懲役2年以下)のレベルをはるかに超えるものである。前田元検事の特別公務員職権濫用についての捜査を尽くし、それを許してしまった検察の決裁システムをめぐる問題を解明することが、今回の事件を全面的に解決し、検察に対する国民の信頼を回復する唯一の道である。

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小沢氏不起訴と秘書3人の起訴についてのコメント(その3)

【第83回定例記者レク概要より抜粋】

次に、今回の事件を通して見た政治、検察、メディアの関係についてお話をしてみたいと思います。まず政治です。

これほど政治が検察、メディアに対して、まったく無力であるということをさらけ出したと思います。昨年の西松事件のときも含めてです。政治が政治として、政治の内部における自浄作用もほとんど発揮できない。そして、検察の捜査に対しては、まったく無批判にそれをそのまま受け入れる。その中で、中には民主党の石川議員の同期の中には逮捕事実をもっときちんと明らかにしようじゃないか、みんなでちゃんと理解しようじゃないか、そこを検証しようじゃないかという動きがあっても、結局それはメディアから批判されるとその動きはあっという間に吹き飛んでしまう、という状況で、結局、検察に対しても、メディアの報道に対しても、主体性をほとんど発揮することができなかった。

そしてそれは、捜査の対象になっていない自民党などは、もっけの幸いとばかりに、検察やメディアの報道の尻馬に乗って、自分たちが政治的に優位な立場に立とうとする。こんなことが今後も繰り返されていったら、恐らく二大政党制は全然日本に根付かないと思います。二大政党制というものがきちんと日本に根付くためには、まず、政治家が政治家たる自覚を持たないといけない。その自覚のなさをさらけ出してしまったのが今回の問題に対する各政治家、政党の対応ではないかと思います。

そして、メディアの問題ですが、今回のメディアの問題が、検察の情報漏洩だとか、検察リークを垂れ流しただとか、そんなような薄っぺらな形で問題にされていること自体、まったく本質をとらえていないと思います。今回の問題に関するメディアの問題は、司法クラブメディアは検察と一体化している、そして非司法クラブメディアは独自の視点からいろいろな問題を報道してきてはいても、情報量や視聴者層が限られてしまって、世の中の人はほとんど司法クラブ系のメディアの情報一色になってしまった。それは、まさに、検察という1つの権力とメディアとの関係という構造的な問題であって、独立した機関が情報を特定のメディアにリークして、情報漏洩して記事を書かせたという矮小な問題ではないと思います。

一番問題なのは、検察が向かっている方向と常に司法クラブ系のメディアが同じ方向を向いてしまっている。だから批判、検証ができないわけです。基本的に、心情的に同じ方向を向いているのはいいんですが、その中にやっぱり立ち止まって考える、立ち止まって疑問を持つという冷静さがなければメディアではないと思います。今までいろいろな問題を指摘してきました。西松事件でもそうだし、今回の問題についても指摘してきました。それについて、メディアの方で、郷原はこんなことを言っているけどもこれはおかしいという話を聞いたことがありません。そこは、基本的に一体関係でもいいんですけども、ある面では検察の捜査に対して権力、権限の行使ですから、冷静に客観的に冷めた目で見ることができる、そういう余地を残しておかないといけないのではないかと思います。

それから、今日の新聞などでしきりに書かれているのが、まだ小沢氏が不起訴になったといっても検審がある、検審で2回起訴相当議決が行われたら、起訴強制されるんだ、まだ小沢氏は罪を免れたと思うのは早いぞ、というような言い方の記事がけっこう出ています。
私は、少なくとも検察がそういうことを念頭に置いて、最後は検審が判断してくれるという考え方を持って処分をすることは絶対にあってはならないと思います。

そもそも、検察審査会法が改正されて議決の拘束力が与えられたのは、今までの検察の捜査のあり方、処分のあり方に対していろいろな不信が生じてきたからです。とりわけ最大の原因になったのは福岡地検の次席検事の問題です。ああいったことを機に、検察が不信感を持たれたから、それに対して検察の処分権限に例外を求めようということで、例外的に検察審査会の議決に強制力を持たせる話になったわけです。

検察が行うべきことは、そういう実態になってしまつたことについて謙虚に反省して、自分たちの処分権限をもっともっと国民が信頼してくれる努力をすることではないかと思います。そういう意味で、とりあえず被害者がこう言っているから、遺族がこう言っているから、

あるいは世の中がこう騒いでいるから不起訴にするけれども、検審でひっくり返ったらまた考え直そうというようないい加減なことを考えていたら、検察はそのうち組織として消滅してしまうと思います。

私は、刑事司法の中核としての検察の役割は決して変わることはないし、今後も世の中がますます複雑多様になるに従って、罰則適用という形での制裁を検察が適切に運営していく、適切に行っていく必要性は、これまで以上に高まっていくと思います。そういう面で、これから、検察はもっともっと世の中に対して、社会に対して、開かれた目を持って、社会の実態に本当に適合した重大性、悪質性の判断を適切に行っていく。そのために検察はもっともっと進化しなければいけないと思います。

私も、そういう観点から今回の問題について、一検察OBとして発言してきたつもりです。今後も、まずは石川議員、現職の議員でありながら10万を超える十勝、帯広の有権者の人たちの支持を得て、これから通常国会に出席しようとするときに、それを阻まれてしまった石川議員が、一体どんな事実で、どんな証拠で、政治資金規正法違反とされたのか、起訴されたのかを、今後の刑事公判の中でしっかり見ていきたいと思います。私が今考えている事実関係とか、証拠関係だと、本当に石川公判はどうなるんだろうかと思います。

通常の特捜事件であれば、問題事件であっても、半年や1年は検察官の立証の段階で一応公判は順調に推移して、弁護人立証の段階でおかしくなっても世の中人はだいたい忘れているということで済むわけです。しかし今回の問題はそんなレベルではないのではないか。本当に、この事実関係のもとで悪質重大な政治資金規正法違反と言えるのかどうか。冒頭から、第1回公判からしっかり、検察の立証と、弁護側の反証を見ていく必要があるのではないかと思います。

問題は、事件の重大性・悪質性だけではありません。そもそも、意図的な収支報告書の虚偽記入や不記載に当たるか、犯罪が成立するのか、という問題です。定期預金の名義を小沢氏個人にしておけば何の問題もなかったわけで。要するに、自白の内容が小沢氏から現金が入ってきたことを隠したかったから書きませんでしたという自白が、果たして客観的な事実に符合しているのかどうか。そうしたかったんなら別に名義を小沢氏名義にすればよかったわけです、定期預金を。それをやらないで、定期預金の名義を陸山会にし、なおかつ不記載にして隠すということが、どうやったら合理的な説明がつくのでしょうか。

ですから、そういう自白調書になっているかどうかは、第1回公判でだいたいわかるのではないかと思います。そこがクリアされていれば、その次に重大性、悪質性の問題になるけれども、私はまだそこのところが全然自分で理解できないので、はたして第1回で納得できるような立証ができるのだろうかということも疑問です。

若干、感想めいた話になりますが、西松事件のときの世の中の雰囲気、検察の捜査に対する見方と、今回の捜査に対する見方はずいぶん違いました。私は基本的に同じスタンスでものを言ってきたつもりですが、西松事件のときは国策捜査というフレーズがあったために、世の中の人がその国策捜査というものに対する反発、批判というものを検察にぶつけた。ですから、私がやってきた検察批判も受け入れられやすかった。今回はそうではありませんでした。今回は国策捜査というフレーズがなかったために、捜査や事件の中身の問題だけです。しかし、その中身の問題は西松事件よりもはるかに問題のレベルは大きかった。それを私はずっと、この問題を1カ月以上ずっと言い続けてきましたが、はっきり言って、西松事件のときよりも非常につらかったことは間違いないです。本当に、事務所なぜ小沢の肩を持つのか、というようなご批判とか、不満の声も届きました。しかし、一方では本当に勇気づけてくれた、支援してくれた人たちもたくさんいました。そういう人たちのことを思って、これからも同じスタンスでこの問題について意見を言っていきたいと思っています。

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小沢氏不起訴と秘書3人の起訴についてのコメント(その2)

【第83回定例記者レク概要より抜粋】

それから、小沢氏の不起訴についてです。これは、私がかねてから言っているように、当然の結果であって、検察の最低限の良識が働いた。それによって暴発が回避されたということではないかと思います。石川議員についてすら、起訴をされることは、正直言って、今の今までまだ信じられなかったくらいですが、その石川議員の起訴と比べて、さらにさらに、ハードルが高く問題が非常に大きい。ほとんど、この事件での小沢氏の起訴は考えられない、というのが私の今までの考え方だったし、今もそう思っています。

なぜかというと、ここでも、2004年の収支報告書に小沢一郎氏からの4億円の借入金の記載があるということが非常に重要な事実です。結局、もし、この記載がなくて、銀行からの借り入れなんていうものもなくて、小沢氏から4億円の現金が入ってきたという事実だけがあったのに、それがまったく記載されていないという単純な話であれば、もし、石川氏が、収支報告書はこういう形で提出しますと言って1回見せたという程度でも、それを見れば、書いてあるか書いていないかははっきりしますから、書いてないな、俺は金を出したのに、書かないまま出すんだなということを了承したということで、比較的簡単に共謀も立証できるわけです。

しかし、小沢一郎氏からの4億円の借入金が書いてあるのに、それでも、これは現金という意味ではない。現金の4億円のことは不記載なんだ、ということであれば、これはそれなりの説明が必要です。石川議員から、これはこういうことで違う意味の記載なのです、先生からの現金のことは書いてありません、ということを詳しく説明を受けないと、小沢氏にそのことの認識があるとは言えないし、ましてや、共謀があるとは到底言えないと思います。そういう意味で、この事件で小沢氏の共謀が立証される可能性は極めて低いと思っていました。

それ以外にもいろいろな問題がありますけれども、それだけでもほとんど共謀による起訴は、可能性は限りなくゼロに近いと思っていました。ですから、もし、小沢氏起訴というような処分を検察庁が行うとすると、これは暴発以外の何ものでもないと考えていましたが、昨日の『夕刊フジ』にも私のインタビューが出ていましたが、そこでも「小沢起訴なら検察の暴発」ということをはっきり言っています。その暴発はなかったということで、検察の最低限の良識が働いたと私は見ています。

そこで、昨年の3月の西松建設事件から、ずっと小沢氏側に対する検察捜査が続いていたということですが、今回の検察捜査の問題全体を私がどう見るかということですが、私は、いろいろ検察捜査に対する批判の中で言われているような、検察が組織として当初から民主党や小沢氏に狙いを定めて、何とかして小沢氏を政治的につぶそうと思って組織的に行動したという見方もありますが、私はそういう捜査だとは思っていません。当初からそういう狙いでやったのではなく、もともと、西松建設事件に着手した段階では、いろいろな可能性を考えて着手したけれども、結局うまくいかなかった。まさに出口を求めて迷走した末、ほかに選択肢がなく、やむを得ず、小沢氏秘書の大久保秘書への強制捜査、逮捕という強制捜査に踏み切ったということではないかと思います。

ただ、そういう強制捜査を行うことを最終的にそれを決断したことの背景には、個人的なレベルで反民主党的な考え方とか、反小沢感情みたいなものもあったかもしれません。その後、西松事件はもっともっと背後に大きな事件があるのではないかと言われながらも、全然そんなものはなくて、結局、最初の逮捕事実とほとんど変わらないような事件で起訴されたわけです。その起訴によって、小沢氏は民主党の代表辞任に追い込まれたわけですが、その公判で検察はまず西松側の公判で大きくつまずいてしまった。政治資金の金額があまりにも少ないので、天の声という言葉によって事件の悪質性を強調しようとしたところ、結局、西松建設側が全面降伏の西松建設公判においても、裁判所は国沢氏に対する判決の中で、公共工事の受注と西松建設側からの政治献金との対価関係を明確に否定しました。まさに検察が強調した「天の声」という余計な部分は全部そぎ落とされてしまったという結果になったわけです。

今回の陸山会をめぐる政治資金問題についての捜査が、そういうような西松建設事件が、はっきり言って失敗捜査に終わったことのリベンジとしての、まさに執念の小沢側捜査であったことは否定できないと思います。結局、ほとんど1年近くにもわたって特定の政治家の事件を徹底的に追い続けたわけです。その間、特捜検察のリソースの大半が小沢戦線に投入された。これは、当初から意図していたものではないとしても、結果的には極めて政治的色彩の強い捜査になってしまったことは否定できないと思います。やはり、検察がこういう形で自主的に政治的意図を持って長期間捜査を続けていく、結果的に、まさに政治集団化してしまう、これは検察として絶対に避けねばならないことだと思います。まさに、そのことの是非を、この1年にわたる検察の捜査にあまりに政治色が強いという問題がなかったのかということをきちんと検証しなければいけないと思います。

検察の本来の役割は、社会内のさまざまな事象の中で発生する違法行為に対して、刑事罰を適正に、適切に適用することです。その刑事罰の適用の対象の中でも、伝統的な犯罪、殺人、強盗、窃盗に対しては検察の価値判断は不要です。こういう犯罪が反道徳的、反道義的な行為であるという評価は、刑法典の中できちんと定まっています。あとは、検察は、そういう行為について犯人が明らかになるだけの証拠があるのか、その事実を立証できるだけの証拠があるのかを判断して、証拠があれば起訴すればいいし、その検察の判断に誤りがあれば、裁判所が無罪判決を出すということであって、検察の価値判断はほとんどそこに介在する余地はありません。

しかし、今まさに社会が非常に複雑化、多様化して、いろいろな社会経済事象に対していろいろな法律が適用され、そこにはいろいろな罰則が付されているわけです。そういう罰則をどうやって法の趣旨に従って、違反の重大性、悪質性を判断して、適切に適用していくのか。ここが検察の非常に重要な役割になっているわけです。今回の政治の問題もそうです。ライブドア事件、村上ファンド事件のような経済事犯の問題もそうです。検察には非常に大きな役割が課されているわけです。中には、刑事罰を使わないで課徴金で済ませる案件もあっても、それは、刑事罰との整合性を考えて、その違反行為に対して科される不利益が本当に重大性、悪質性に見合ったものであるかどうかについて、最終的な責任を持つのが検察だと思います。

そういう意味で、伝統的な犯罪形態の1つである贈収賄という刀と、近代的な、現代的な犯罪現象、違法行為現象の1つである政治資金規正法とでは、その適用のあり方に極端な違いがあります。その違いをわきまえないで安易に政治資金規正法の刀を政治家に対して振るおうとするところに、最近の検察の捜査のあり方に重大な問題があった。それが、昨年以来の西松事件、今回の陸山会の不動産取得をめぐる政治資金問題に現れたと見ています。

わかりやすい例えで言えば、贈収賄は銃剣です。正面からぶすっと突き刺すか、あるいは狙いを定めて発射すればいいわけです。そういう武器です。狙いを1つに定められる、そういう武器です。それに対して、政治資金規正法は武器に例えると自動小銃です。自動小銃の撃ち方というのは、1つのところに狙いを定めて、それをめがけて撃つのではなく、そこら中にいる人間に幅広くだだーっと銃撃を浴びせる武器です。だからこそ、自動小銃で武装した反乱軍は大変な殺傷能力を持っているわけです。

そういう性格を持った武器である。政治資金規正法はそういう武器だということを明確に認識しないまま、単に政治資金規正法が民主主義にとって重要な法律だということだけで、検察の恣意的な判断で摘発、罰則の適用の対象を選択していったら、これは、民主主義にとって非常に重大な脅威になりかねないということをあらためて認識しなければいけないと思います。

そのことに関して、私は以前から、一罰百戒とは一罰を勝手に選べばいいものではないということを言い続けてきました。一罰は、できる限りその捜査機関、その刑事司法機関が努力をして、できる限り重大悪質なものに適用していく。そこに一罰を科し、それよりも重大性、悪質性のレベルの低い行為に対しては、あえて罰は加えない。これが正しい一罰百戒の考え方です。それを恣意的に、一番つまみ食いのしやすいところだけ一罰を加えるというやり方をするとどうなるかというと、一罰の対象にされた側は納得しません。徹底的に抵抗します。そして、一罰の対象にならなかった周りの99の人間も、やられたやつが運が悪かったと思うだけで、決して悔い改めません。一罰が適切に選択されることによって、それほどの悪性を持たないその他の違反行為を行っていた人間は、それを見てきちんと悔い改める。それが本当の一罰百戒だと思います。

そういう検察の捜査の問題の一方で、今回の問題に関して、小沢氏側に対しても言いたいことは山ほどあります。

まず、現在まで小沢氏が記者会見などで説明してきたことの内容は、まったく不十分です。そもそも、資金管理団体は、政治資金規正法の趣旨から考えて、政治資金の財布です。財布の中には不動産は入りません。性格上も明らかです。だから、財布の中に無理やり不動産を詰め込むから、その人が死んだあとの財布の中をどうするのかということが問題になるわけです。そこのところは、小沢氏はもっときちんと国民に対して政治団体、資金管理団体で不動産を購入しようとした目的、意図などを説明すべきだし、そして、これが政治家の政治活動が行われなくなった、もし小沢氏が死亡したときに、その後どうなるのかについて、もっと明確な措置を取るべきです。一番望ましいのは、資金管理団体の所有にしておくのではなく、やはり、小沢氏が民主党が大事だと思うなら民主党の所有にすればいいわけです。民主党が今後も長く二大政党制の一翼を担う政党としてやっていくために、小沢氏は陸山会の財産を拠出すればいいわけです。そのくらいのことをやる必要があると私は思います。

それから、今回の現金4億円という金額が庶民感覚とかなりかけ離れているというところが、何で小沢氏の自宅にはそんなたくさんの現金があるんだという国民の側からの違和感を生み、それが疑惑として取りざたされ、その疑惑が、検察捜査の追い風になって、その追い風を受けた検察の捜査がここまでおかしな方向に向かってしまった、私に言わせると暴発の寸前のところまでいってしまったわけです。そう考えた場合、こういう検察の暴走を招いたことについて、小沢氏側の責任も非常に重大だと思います。もっと、一国の政権を担う大政党の大幹事長なんですから、クライシスマネジメントがもつとしっかりしていないといけない。この程度の危機管理能力で与党の大幹事長が務まるのか、ということに私は非常に疑問を感じます。

いろいろ小沢氏の側の事情もあると思いますが、私はこの問題で、こういう検察の暴発のような状況に追い込まれて、国民に大変な迷惑をかけたことについて、小沢氏はもっとしっかり反省してもらう必要があると思います。

そして、今後の小沢氏側の対応として絶対に慎むべきは、検察に対して報復的な対応を取らないことです。

検察の捜査に非常に重大な問題があったことは間違いありません。しかし、これは何も今回、にわかに発生した問題ではなく、私が昨年の9月に出した『検察の正義』(ちくま新書)の中でも書いたように、いろいろな背景、いろいろな経過があって検察はすでに危機的な状況に陥りつつあった。それが今回の問題で顕在化したと見るべきだと思います。

検察は、組織として特殊です。90年代以降、いろいろな民間企業が、そして官庁が、ガバナンス改革を求められ、ガバナンス改革を実行してきた、いろいろな情報開示を求められてきた。その中で、検察だけが説明責任からも、情報開示からも、基本的に免れてきた。だから、検察の組織は組織内で完結しまっている正義の世界なんです。それを支えてきた条件の中で、今後の検察にとって絶対に残さないといけないものと、そうでなくて、今後検察がもっともっと、これからの新しい時代に適応していくためには変えていかなければいけないこと、これをもっと問題を整理していかなければいけないのではないか。そういう議論をまず、政治の場でもしっかりやっていかないといけないと思います。

ですから、今回の問題について小沢氏がやるべきことは、そういう検察が本当に自浄能力を発揮して、国民の信頼に耐え得る刑事司法機関、捜査機関になり得るように、条件、環境を整備することであって、間違っても小沢氏とか、小沢氏の側が、側近も含めて、検察のやったことはけしからん、だから自分たちが好きなように検察の人事を動かしてやるとか、検察の組織の内部に手を突っ込むなどということではありません。そういうことをもし始めるとすれば、韓国と同じことになってしまいます。

今回の問題は、検察が勝利すれば、戦前の日本のようになってしまい、小沢氏の勝利が変な方向に行くと韓国のようなことになってしまう。日本の国にとって非常に重大なターニングポイントになりかねない事態であったと思いますし、まだ、その危険は過ぎ去っていません。とにかく、これから小沢氏がやるべきことは、まだまだ説明が不十分な点について、国会の場などで十分な説明をしていくこと。そして、陸山会の保有不動産について、国民の不信を払拭できるだけの抜本的な措置を取ることではないかと思います。

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小沢氏不起訴と秘書3人の起訴についてのコメント(その1)

【第83回定例記者レク概要より抜粋】

今日が石川議員ほか2名の、小沢一郎氏の秘書の拘留満期で、通常であれば4時の次席の定例会見で処分が発表になると思っていましたが、ずいぶん時間が遅れて、先ほどようやく処分が行われたことが発表されたようです。地検の側の今日の処分についての公表の内容、説明の内容などの情報をまったく得ていませんので、とにかく3人が起訴されて、小沢氏は不起訴になったということだけを前提にコメントをしたいと思います。

まず、最初にお断りしておきますが、私がこういう発言をする目的、意図は、決して特定の政治家、政党を擁護しようということではありません。今回はたまたま検察対小沢という対立構図になっているので、私が検察捜査を批判する立場で発言することが、あたかも小沢擁護であるように受け取られがちですが、私はそういうつもりはまったくありません。恐らく、検察捜査の対象が小沢氏ではなく、ほかの政治であっても、自民党であっても、公明党であっても、私は検察の捜査に問題があれば、必ずその問題を指摘すると思います。

そういう意味で、今回の事件がどういう事件なのか、そこにどういう問題があるのか、それが検察の捜査のあり方、処分のあり方として正しいのかということを、長年検察の組織にお世話になった人間として言わざるを得ないという思いで発言しているものです。

そこでまず、今回の民主党小沢幹事長の資金管理団体、陸山会の土地取得をめぐる政治資金規正法違反事件がどういう問題であったのかということを考え、今日の処分についてコメントする前に、そもそも政治資金規正法とはどういう趣旨・目的で作られた法律で、政治資金規正法の罰則適用はどのように行われるべきなのか。まず、その一般論を十分理解した上でこの問題を考える必要があると思います。

ご存じのように、政治資金規正法は、政治資金の収支の公開を行うことを通して、健全な民主主義の発展を図るという法律だと思います。要するに、政治資金を国民が自主的に提供するということ自体は政治資金規正法は、決して悪いことではない。それは、政治資金規正法の浄財という表現にも表れていると思います。それ自体は悪いことではないけれども、それをどういうような政治資金、どういうような政治家、政党の政治資金が、どういう個人、団体、企業によってまかなわれているのかをきちんと国民に明らかにして、そして、そういう政治資金によってどういう活動を行っているのか、政治資金をどのように使っているのかも明らかにして、それによって、政治家や政党の政治活動を評価していって、最終的には国民が、有権者が、政治選択を行っていくことを目的にしているわけです。

そういう面で考えると、政治資金規正法が国民に対して公開を求めている、その政治資金に関する情報の最もコアの部分は、その政治家、政党の政治資金がまずどのような個人、団体、企業によってまかなわれているのかという部分です。そして、どのように使われているのかという部分です。政治団体の収支を一つ一つ、できる限り会計帳簿に記載したり、収支報告書に記載していくことも必要なことではあります。でも、目的はそういう資金の出所と使い道を明らかにすることであって、そういう面で虚偽の記載が行われていたり、重要な事実が隠されていれば、政治資金規正法の趣旨・目的に照らして重大な違反行為と評価される、ということになると思います。

ですから、これまで検察の政治資金規正法違反の摘発において、最も重要な処罰の対象となってきたのは裏献金、ヤミ献金でした。これは、そういう献金が行われたこと自体が、収支報告書に記載されていないわけですから、悪質重大な政治資金規正法違反に該当することは疑いのないところだろうと思います。

そういう観点から、政治資金規正法に形式上違反するかどうかだけではなくて、実質的に悪性、重大性を持った政治資金規正法違反かどうかをしっかり見極めて、刑事罰の対象にするかどうかを判断することが検察の重要な役割だというべきだと思います。そういう観点から、今回の処分を考えてみたいと思います。

まず、石川議員ら3名の起訴のうち、特に現職の国会議員である石川議員の起訴は非常に重大な問題だと思いますので、この問題についてまず考えてみたいと思います。

容疑事実は収入総額と支出総額の過少記入です。問題は、収入総額、支出総額の過少記入によって、一体、何が隠されていたのか。犯罪の実質は何なのかということです。ここで、非常に重要な事実が、前から私はいろいろな場で指摘していますが、2004年の陸山会の収支報告書に小沢一郎氏からの借入金4億円という記載があるということです。

この事実は、石川氏の処分だけではなく、小沢氏の処分も含めて、非常に重要な事実です。

問題は、これまで2004年の収支報告書に4億円の借入金の記載があっても、しかし、4億円について不記載の事実が、実質的には収入金額の過少記入ということですが、実質的には4億円分が記載されていなかったと言われてきた理由は何なのかというと、4億円の小沢氏からの借入の記載というのは、銀行からの融資……小沢氏名義で銀行から借り入れたお金、それを小沢氏から陸山会が借りた。それが4億円の借入金と記載されているだけで、現金で小沢氏から4億円入ってきたとされている部分については、収支報告書には記載されていない、というのが、どうも検察の見方のようですし、今日もそういう考え方で起訴が行われたと思います。

問題は、それが意図的な不記載、意図的にそこの部分の収入を収支報告書に書かなかった、と言えるかどうかということです。それに関しては、私は、お配りしている今週出した『日経ビジネスオンライン』の論考の「上」の方にも書きましたように、問題は、現金の借り入れとは別に行われた、現金の提供とは別に行われた銀行からの借り入れが定期預金担保、4億円の定期預金を担保に行われたという、この4億円の定期預金の部分です。この4億円の定期預金が、陸山会の名義になっているので、結局、支出した金額が小沢氏からの現金で不動産の購入代金を支払った分に加えて定期預金の4億円という資産もある。だから、合わせておおむね8億円くらいの支出に見合う収入がなければいけない。ところが、現金の借り入れの分が書いていない、そこが違反だということになっているわけです。

しかし、本当に石川氏が自白しているというふうに言われているように、意図的に、小沢氏から現金が入ってきたことを隠したかった、それを書きたくなかったから書かなかったと言うのであれば、もっと簡単なやり方があったはずです。

それは、小沢氏から現金で借り入れたお金で不動産の購入代金を払った。その分、陸山会のお金で設定した定期預金の名義を、小沢氏名義にしていればいいわけです。それだったら小沢氏にとってはプラスマイナスゼロですから、何も借入なんて書く必要はないです。

小沢氏の入ってきたお金が小沢氏名義の定期預金になった。その定期預金を担保にして銀行から借りましたということであれば、小沢一郎氏名義での銀行からの借入金について借入金4億円という記載をするだけで、それで済んでいるわけです。小沢氏からの現金の提供のことを表に出したくないのであれば、そういう取扱をすれば十分だったわけで、なぜそういうやり方をしないで、金融機関からの借入の4億円は記載したが現金の借り入れは記載しなかったと言えるのか。そういうことを前提に考えると、事務上のミスではなく、意図的な不記載だとは思えません。

これについて、石川氏は早くから自白をしている、記載しなかったことを認めている、というんですが、その自白の内容が、今のようなことも前提にして、定期預金を小沢氏名義にするということは、例えば、何かこういう問題があるとか、それは考えたけれどもやらなかった、こういうふうにして現金の部分を書かないで隠しましたというような自白でなければ、自白として意味がないということではないかと思います。

足利事件でも、自白が客観的に虚偽であった、客観的な事実と符合しなかったということがあれだけ問題になっているわけです。ですから、自白は単に「認めた」という情報だけではなく、本当にその自白が客観的に真実なのかということの検証が必要だと思います。私には、今のこの部分がどうしても納得できないし、それについての報道がまったくない。それについて疑問を解消できる情報がまったくない。ですから、本当に石川氏の自白が、自白たり得るのか疑問です。

もう1つは、前から指摘していますが、要するに、実質的に考えてみると、この4億円の借入に見合うものは、4億円弱の土地購入代金です。

あくまで、支出は、実質的に見ると、4億円にしか過ぎないわけです。いろいろ新聞でも書かれているように、だから、定期預金担保の銀行からの借り入れはいらなかった、必要なかった。それをあえてやったのは、お金を隠すためだった。現金で入ってきたお金を隠すためだった、ということが報道されていますけれども、隠すためだったという話であれば、そこの部分が偽装であれば、それは、政治資金収支報告書に書くべき事実としても、本当に書かないといけない事実と言えるのだろうか。

偽装のスキームは、むしろ実質的には書かない方が正直な記載と言えるのではないだろうか。もし、それがゼネコンからのヤミ献金を隠すための偽装だったなら、そのゼネコンからのヤミ献金の方が犯罪事実として重要になるわけですが、それがはっきり出てこない限り、今回の政治資金規正法違反の事実は、犯罪性がどこにあるのかがさっぱりわからない。

最初に言いましたように、政治資金規正法の趣旨・目的からすると、すべての収入支出を記載しないといけないと言っても、結局、一番重要なことはその政治団体の政治資金が誰からの、どういう企業、団体からの拠出によってまかなわれているのかということです。そこのところについての問題が全然出てこない。結局、今報じられているところによると、身内のお金がぐるぐるっと回っただけだという意味で、石川議員の起訴されたとされる事実は、私はまったく犯罪としての重大性、悪質性についてぴんと来ません。ですから、起訴がずいぶん遅れていると聞いたときに、ひょっとすると石川議員の起訴にはまだまだ問題があるということで、検察庁の内部でまだもめているのかなと思っていたところです。まさに、こういう政治資金規正法違反で現職の国会議員が起訴されたということが、今回の事件の、一連の事件の最大の問題であって、これから石川議員が民主党を離党するという話もありますが、石川議員が起訴されたのであれば、今後の公判に、マスコミも、国民も、最大の注目をしていかなければいけないと思います。

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