「検察の在り方検討会議」の提言取りまとめの延期について

検察の在り方検討会議、今日は午前10時から会議が行われる。私は大阪出張の関係で午後から出席する。

大震災に加えて、原発事故による放射能汚染が食物、水道水にまで及び、世の中が混乱している時期に、検察の在り方という日本社会にとって重要な事項について今月末に提言案を公表するのが適切か。それを社会で受け止め、咀嚼し、今後の検察の信頼回復に結び付けていくことができるのか疑問だ。震災発生直後の会議が中止になり、座長から提言案骨子について意見を求められた段階で、取りまとめを延期すべきとの意見を書面で提出した。


2011年3月17日

震災に続き、福島原発事故の深刻化で、まさに日本の社会全体が危機的状況にある中で、今回の会議の成果を今月末までに取りまとめるのは困難であり、適切ではないと思います。少なくとも一ヶ月程度は、取りまとめを延期すべきだと思います。

現在、私は、総務省顧問として被災地、被災者からの情報をで収集し、総務省、官邸サイドに提供することや民間ベースでの被災地支援の話をまとめることに加え、重要な事項については、総務大臣、官邸等への提案も行ったりしており、他の仕事はほとんど手がつけられない状況です。被災地では、水、食糧がなくなり、餓死者が出る寸前とまで言われている地域もあり、それに対する政府の対応体制は不十分です。

私にとっては、このような状況下で、これまでの「検察の在り方検討会議」の議論について、議事録等に基づいて落ち着いて検討することは不可能です。
骨子を見せてもらいましたが、少なくとも、私がこれまでの会議で述べてきた意見がこの骨子に反映しているようには思えませんし、今後、提言案の中でどのように取り扱われるのかもよくわかりません。
意見の羅列ではなく、委員全体の総意として提言をとりまとめるとすると、まだ相当な時間をかけて議論をする必要があると思いますが、残り僅かな時間で、しかも、このように我が国の社会が危機的事態にある中で、落ち着いた議論が十分にできるとは思えません。


今も、その考えに変わりはない。議論は粛々と続けるとしても、提言案の公表は、少なくとも半月から1ヶ月延期すべきだ。

今、この国は、震災と原発事故による危機的事態に対して国民全体で全力で立ち向かうべき状況であり、それによって他のことに十分な関心を向けることは到底困難な状況だと思います。
少なくとも、昨年以来今回の震災発生までは社会の重大な関心事であった検察不祥事の問題について抜本的検討を行った成果としての提言取りまとめの時期としては、今月末という時期は、極めて不適切であり、社会的に見ても、この問題を、軽く扱ったという印象を与えることになると思います。

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批判が集中している最新号のAERAについて感じたこと

批判が集中している最新号のAERAを読んだ。
確かに、サリン事件をもわせる防毒マスクの写真にはギョッとするし、「放射能がくる」というタイトルは、福島原発問題に関して世の中が非常にナーバスになっている状況下で無神経だと思う。「放射能への不安」を煽ること販売を伸ばそうとしているという見方をされるのも致し方ない面がある。また、最初の「東京に放射能がくる」と題する記事は、「臨界」が起きる可能性を東電側が認めた、というだけで、その後の記事が構成されており、根拠薄弱で、表紙とタイトルに無理に合わせたという感は否めない。

しかし、全体としては、今回の原発災害と、震災・津波被害の状況が、客観的に整理されて構成されており、現在の状況における週刊誌メディアの報道内容として価値は低くないと思う。
とりわけ、原発災害に関しては、東電の危機対応の問題や放射能に関するデータの隠蔽を指摘する記事は価値のあるものだし、街全体が瓦礫と化した陸前高田市震災の被災状況の見開き2頁の写真は、大震災の想像を絶する被害を一目で実感できる貴重な画像である。

メディアの報道には多様性が必要である。かかる意味では、原発問題に関しても、様々な視点からの捉え方、報じ方があってもよいと思う。AERAとの比較の対象とされる最新号の週刊ポストの「日本を信じよう」と題した表紙は、現在の状況での週刊誌の見出しとして好感度である。しかし、もし、仮に、すべてのメディアが同じようなトーンだったらどうだろうか。それは、「欲しがりません勝つまでは。銃後の守りを」という風潮の中で、一色に染まっていた当時の新聞等の報道と同じようなものだ。論調や報道内容にある程度の幅があるからこそ、その中で「日本を信じよう」というフレーズも引き立つのではなかろうか。

無神経な表紙、タイトルに対して批判が行われるのは当然であるとしても、個々の記事については、冷静に読み、評価する姿勢が必要であろう。

ただ、一つ気になるのは、今回、表紙、タイトルに対して強烈な批判を受けたことが、かえって社会的注目を集めることにつながり、販売部数の増加につながったと思えることだ。刺激的な表紙やタイトルは、決して不安を煽って儲けようとする意図によるものではないと思うが、結果的に利益につながったとすると、そのことに対する世の中の見方をされることは避けがたいであろう。
朝日新聞は、この際、今回の号の売上の中からまとまった金額を被災地への義捐金を出すというのも一つの方法ではなかろうか。

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「運用3号問題」について

「運用3号問題」(保険料を納めなくても年金をもらえるサラリーマンの主婦等の「3号被保険者」が夫の転職等で3号の資格を失ったのに、社保庁時代の年金業務の杜撰さのため手続き未了で、形式上は3号のままとなっていて、本来払うべき国民年金保険料を払っていない人が全国で100万人以上いるとされる問題。厚労省は、最大で2年分の保険料を納付すれば、年金を満額支給する措置をとろうとしている。)私が委員長をやっている総務省年金業務監視委員会でこの問題を取り上げることにし、2月16日に年金業務監視委員会を開いて、厚労省、年金機構からヒアリングをすることにしました。[NHKニュース]

このような形の救済をすることは、既に正規の手続きをしたために過去の保険料未納期間を認定されたり、手続き後に保険料を払えなくなったりして、年金の受給資格を失ったり減額された人との間で明らかに不公平です。[朝日社説「主婦の年金―この不公平は許されない]

この件について、皆さんのご意見をお聞かせください。

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2011年 年頭メッセージ

明けましておめでとうございます。

昨年末から、毎日新聞社から公刊する予定の著書の執筆に没頭していたため、例年より、年頭メッセージが遅れてしまいました。

今回の著書は、大阪地検をめぐる不祥事等で信頼を失墜している検察の問題を、不祥事対応の失敗とその背景にある組織の構造的問題という面から検証するとともに、日本の社会における様々な分野のコンプライアンス問題を本質に遡って考え直し、それらを踏まえて、検察の信頼回復の道筋を明らかにしていこうという内容です。ここ数年の私のコンプライアンスに関する活動の集大成にしようと意気込んでいます。

2月年末の公刊をめざしてから年末から突貫工事を続けてきましたが、何とか、第一次原稿の完成の目途がつきつつあります。この著書での問題意識を中心に、遅ればせながら、2011年の年頭のメッセージをお送りします。


我が国は、政治・外交・財政・経済、あらゆる面で未曾有の危機にあります。それを象徴しているのが、国家の作用の根幹というべき刑事司法を担う検察が陥っている危機的な事態です。

大阪地検特捜部が郵便不正事件で逮捕・起訴した村木元厚労省局長に対する一審の無罪判決は、検察の控訴断念、上訴権放棄という全面敗北に終わったばかりではなく、その捜査の過程で前田元検事が証拠品のフロッピーディスクのデータ改竄していた事実が明らかになり、同検事が証拠改竄で逮捕された上に、犯人隠避で、大坪前特捜部長、佐賀前副部長まで逮捕されました。これらの問題により、検察に対する国民の信頼は地に堕ちています。

不祥事を起こし、メディアスクラム状態でバッシングを受けている企業に関しては、些細なことでもあらゆることが記事、ニュースになります。最近の検察も、取調べ時の検察官の言動、証拠の隠蔽、職員の過誤、あらゆるものが問題にされます。「女性検事が調書への署名を拒否されて『ブチ切れますよ』と言った」という程度の問題でも記事にされる程です。

今、検察が直面しているのが、ここ数年、様々な官庁、企業等が直面してきた組織の「不祥事」であり、「コンプライアンス問題」であることは、誰の目にも明らかだと思います。

検察という組織に関して重大な問題が発生したことは決して今回が初めてではありません。しかし、これまでは、検察をめぐる問題が、検察の組織としての「不祥事」ととらえられることも、コンプライアンスという観点で論じられることもありませんでした。それは、従来から、マスコミ等でコンプライアンスが「法令遵守」という言葉に単純に置き換えられる中で、その「法令遵守」の中心にある組織である検察に対して「法令遵守」を問題にすることに違和感があったからではないかと思われます。

しかし、バブル経済の崩壊の頃からの企業や官公庁のコンプライアンスをめぐる動きからすると、検察のような組織が今回のような重大な不祥事を起こすのは必然だったのではないかと思えます。

90年代以降、あらゆる官庁、企業は、三つのことを求められてきました。

一つはガバナンスです。その主権者、権利者の意思に基づく組織の運営が行われなければならない。その組織のトップが暴走したりしないようにするためのガバナンスが必要であるということが、とりわけ90年代以降強調されてきました。二つ目は、情報開示義務です。昔は、企業や官庁についての重要な情報は、内部で秘匿していることも別にそう問題にはなりませんでした。それが情報はオープンにすることを官庁も企業も求められるようになりました。三番目に、開示した情報等に基づいて、その組織が行っている活動についての説明責任が求められるようになりました。

ある意味では、企業や官庁がコンプライアンスの徹底を求められるようになったことの背景に、組織がこの三つのことを求められてきたということがあります。それなのに、行政機関である検察はなぜかそれをほとんど求められてこなかったのです。

ガバナンスという面からいうと、「正義」というところで止まってしまいます。一体、誰の意思に基づいて、誰にその権限が与えられて検察は活動しているのかということは、全て正義のところで切断されてしまう。

情報開示義務に関しては、捜査の秘密、訴訟記録の非公開というような理由で重要な情報はほとんど開示されなかった。説明責任については、一昨年春の西松建設事件の時に、検察にも説明責任があるのではないかということがいろいろ問題にされました。しかし、結局検察の側は、自分たちは裁判所に対して立証責任を負っているだけで、それ以外に説明責任は負っていない。逮捕、起訴に関しては理由を説明する必要はない、ということで今までずっと片づけてきました。

結局、ガバナンスも情報開示義務も説明責任もほとんど無視してきた検察という組織は、不祥事が起きるのは当たり前なのです。ある意味では、今回の大阪地検で起きた問題はまさに必然ですし、これまでにも似たような、同じような問題は繰り返し起きてきた、とりわけ特捜検察においては起きてきたと考えるべきだと思います。

今回大阪地検で起きた問題を、事業活動を行う企業に置き換えて考えてみましょう。

一般的には、検察の業務というのは、警察などの第一次捜査機関から送致を受けて事件という商品を仕入れます。仕入れた事件という商品に、証拠という部品を使って、起訴という形に加工して、裁判所を通じて世の中に供給します。その中には、仕入れた商品が不良品だと判断して、供給をしないこともあります。その場合は不起訴処分です。そこには、検察の判断には客観性が働いています。

ところが、特捜検察は、唯一、例外的に、一貫生産を行います。原料を仕入れるところから、製造活動、供給まで、一貫して検察が全てやります。

今回の問題は、その一貫生産のプロセスにおいて、どうもこの製品はとんでもない不良品だ、裁判所に起訴するという形で、世の中に供給してはいけないものだということに気がつくべきだったのに、その商品を、まともな商品であるように装って裁判所を通して世の中に供給し続けた。しかも、部品を改竄して品質を偽装して、まともな商品に仕立て上げようとした、という事件です。

企業であれば、そういう不良品を供給することがないように、厳重な品質管理体制がとられ、何重ものチェックが働いているはずです。ところが、今回の検察の問題では、不良品をそのまま供給しようとした問題に関しては、検察の内部のチェックシステムはほとんど働きませんでした。それが今回の検察をめぐる不祥事の本質です。

企業であれば、こういう問題が発覚したら、製造工程、製品の品質保証体制の見直し、社員の倫理観、企業文化に問題はなかったかなど、様々なコンプライアンス対応が求められることになります。

単に部品を偽装したとか、その品質に関してフロッピーデータという客観的なデータを偽装したというだけではなくて、もともとそういう商品を世に出すこと自体に問題があった。そういう商品をなぜ出そうとしてしまったのか。その生産体制自体に問題があったという見方をしないといけない。今回大阪地検の不祥事の本質は、証拠改ざんだとか犯人隠避だとかそういうことではなくて、特別公務員職権乱用罪だと言っているのはまさにそういうことです。

では、検察は、直面している重大な深刻な事態にどう対応してきたか。組織の不祥事をめぐるコンプライアンス問題ととらえたとき、検察の対応は、過去に、多くの官庁、企業が行ってきた不祥事対応の常識とはあまりにかけ離れたものです。

年末に、最高検の検証結果が公表されましたが、問題となった郵便不正事件に決裁ラインの頂点の機関として関わった最高検に検証チームが設置され、しかも決裁を行った次長検事が座長になる、という当事者そのものが検証の主体であることから、そもそも客観的な検証は不可能だと思っていましたが、結局のところ、検証結果は、主任検察官で証拠の改竄を行った前田元検事と、その直属の上司の大坪前部長を一方的に悪者にする内容でした。内容面でも不十分な点、疑問な点が多々あり、凡そ客観的検証の名に値しないものです。

このような不十分な検証結果に基づいて再発防止策を提示すること自体が、そもそも疑問ですが、この検証結果の公表とほぼ同時に、検事総長が引責辞任しても、事件のケジメがついたとは到底言えません。今後、徹底抗戦の姿勢を崩していない大坪・佐賀両氏と検察との間でヤクザ映画「仁義なき戦い」のような内部抗争が続き、検察の信頼失墜が長期化する恐れがあります。

明らかに組織の不祥事であり、コンプライアンス問題であるにもかかわらず、それをコンプライアンス問題としてとらえる発想自体がなく、検察組織の対応は、凡そ組織の不祥事対応の常識からはかけ離れたものとなっている。それが、検察に対する国民の信頼を一層大きく損なうことになりかねません。少なくとも、現在の検察には、今回の不祥事を、組織のコンプライアンス問題ととらえ、対策を講じなければ、信頼を回復することはあり得ないのです。

しかし、こうした検察をめぐる現状は、見方を変えれば、コンプライアンスを、従来のように「法令遵守」にそのまま置き換えるのではなく、「組織が社会の要請に応えること」という捉え方に転換し、その再構築を図っていく格好の機会であるとも言えます。

本来、多くの人間から構成されている組織が、社会的に批判されないような行動を行うことを確保するためにコンプライアンスという観点で考えることは不可欠なはずです。検察の組織に関して、コンプライアンスという観点で考えることを阻んできた「法令遵守」という固定的な観点から脱却し、検察組織が、真に社会の要請に応えていくために、今、何を問題ととらえ、何をなすべきか、を真剣に考えなければならないのです。

これらの検察不祥事を受け、法務大臣の諮問機関として設けられたのが「検察の在り方検討会議」。検察を含む法務省組織のトップ、検察問題についての最終的な責任者である法務大臣が設けた「第三者機関」としての同会議での今後の議論は、今回の検察不祥事をコンプライアンスの観点から検討し、原因を分析し、組織の信頼回復を図るための唯一の場と言えるでしょう。

新年早々から、私の頭の中は検察問題一色です。まず、検察の在り方検討会議を中心に検察問題を本質に遡って検討し、抜本的な改革策を考えていくこと、それによって検察の信頼回復に何らかの道筋を見出すことができれば、そこから、あらゆる官庁・企業のコンプライアンスの未来が見えてくるはずです。

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郵便不正事件・最高検検証結果について

昨日の「検察の在り方検討会議」では、最高検から報告された検証結果を徹底して批判した。まず、前提事項として、この検証が、無罪事件等について検察の部内で一般的に行われる「実務的検証」なのか、法務大臣の一般的な指揮監督を背景にした「対社会的検証」なのかを質問したところ、基本的には後者との答だった。それを前提にすれば、検証結果は、社会に対して事実を客観的に明らかにし、原因分析を行い、再発防止策を打ち出すものでなければならないが、今回の最高検による「検証」は、事件の見方自体に客観性を欠いており、しかも、原因分析が極めて不十分だと厳しく批判し、このような内容の検証結果を現時点で公表すること自体が問題だと述べた。

第一の問題は、犯人隠避で起訴されている大坪前特捜部長と前田元検事の個人的な資質の問題が原因であったように問題を矮小化している点、前任部長時代の大阪特捜部にも、東京、名古屋の特捜部にも問題はなかったが、「第二の大坪・前田」が出ないように再発防止措置をとるという考え方は凡そ的外れ。

第二に、村木氏を逮捕・起訴したことを基本的に前田個人の問題としていること。FDデータの問題の外にも、村木氏共謀ストーリーには不合理な点があったとしながら、その不合理性が地検幹部、高検、最高検の決裁で指摘されなかった点については問題にせず、上級庁は報告書のみで判断することになっていたので証拠上の問題には把握しようがなかったで済ませている。

要するに、前田、大坪、佐賀を既に起訴していることと、これまでに行った内部処分と辻褄が合うような事実を並べただけで、客観的な検証には程遠い。今回の不祥事の当事者である最高検が主体となって検証を行うこと自体が、不祥事対応としてはあり得ない話であり、その根本的な問題が露呈したと言わざるを得ない。検察の在り方検討会議では、一から事実関係の検証をやり直さざるを得ないであろう。

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「死因不明社会」と司法について・海堂尊氏との対談

海堂尊氏とは「死因不明社会」と司法の世界の問題に関して2回対談しました。その際にも話したのですが、重要なのは、刑訴法上変死体の「検視」が検察官の権限とされていることです。
最初の対談は、コンプライアンス研究センターの機関誌で2年半余り前に行ったものですが、その対談の該当部分を、まとめました。
この話も、結局、刑事司法の正義を検察が独占してきたことにつながります


郷原 死因の問題に検察官が関わるのが変死体、つまり、犯罪による死亡かどうかが明らかではない死体について行う検視です。検視は検察官の権限とされているのですが、実際には、代行検死という形でほとんどは警察がやっています。代行検視は、本来、検察官の指示を受けて行うべきものですが、中には、先に警察官がすべてやってしまって、ほとんど終わってから連絡してくるということもあります。検察官による検視というのは形骸化しています。

海堂 検死の権限は医師に与えるべきですね。警察官だって、検死官に育てるためには相当の研鑽が必要です。現在、専門の検死官は、全国にたった120人しかいませんし、検事が行っても判らないのですから。

郷原 唯一、検事自身が直接検死をやらざるを得ないのが、留置場とか監獄内で在監者が死亡した場合です。しかし、検事が直接死体を見たところで、死因はほとんど何も判りません。なぜ、検察官が直接検視をしないといけないかと言えば、警察や拘置所などで在監者に対する暴行・虐待などの犯罪が行われて死亡したのではないかを検察官が直接確認する必要があるからです。検視は、死因を解明するというより、犯罪死であるかどうかを明らかにするという意味なのです。

海堂 ですから検死は医師がやるような制度に組み立てていかないと、「死因不明社会」の解消にはならないのですね。

郷原 死因というのを市民社会の観点から見るとそうなります。「検視」という、犯罪死であるかどうかを明らかにするための刑事訴訟法上の制度が「検死」という言葉に置き換えられて、一般的な死因の解明と混同されているところに問題があります。海堂さんが言われている「死因」というのは、犯罪死かどうかを明らかにするということだけではなくて、すべての個人の死因そのものを明らかにするということだと思います。それが、「検死」という曖昧な言葉のために、刑事手続の中に埋没してしまっているのです。

海堂 つまり、市民社会のことは考えてないということですね。

郷原 死因を刑事司法の視点だけから見ているということです。犯罪死だということが明かなときには、警察がそのまま犯罪捜査の手続でやっていきますから、検察官の検視の対象にはなりません。犯罪死かどうかがはっきりしないときには、刑事事件の全面的な処分権限を持っている検察官が判断しないといけないというのは、刑事司法の正義という考え方から出てくるのです。検視が検察官の権限にされているのは「刑事司法の正義」というところから来ているのです。そこでの正義は、「犯罪が存在している限り、それを刑事事件として処理する権限はすべて検察官に属する」という考え方の下で、検察に独占されているのです。刑事司法の正義を担っているのは検察官なのです。
そういう検察が独占している「刑事司法の正義」というのが絶対のもので、市民社会における死因解明とか医療の世界で死体をどう扱うかというのは、その正義に反しない範囲でやれば良いというのが、刑事司法の側から見た死因のとらえ方です。

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「検察のあり方検討会議」メンバー就任

【第105回定例記者レク概要より抜粋】

「検察のあり方検討会議」という法務大臣の諮問機関が設置されるという方針が示されていたわけですが、今日、ちょうど今ごろ、法務大臣の会見でメンバーが正式に公表されているようです。私もその会議のメンバーに入ることになりました。

まず最初に、この検討会議の委員に選任されるに至った経緯、私なりの認識についてお話をしたいと思います。10月23日、ちょうどテレビ朝日の「朝まで生テレビ」に出演した後の昼に、柳田法務大臣からご連絡があって、お会いしました。大臣はたまたま「朝生」を見ておられたようで、それまで法務省のまわりの人からどう言われていたか、よくわからないんですが、この「朝生」を見て、そんなおかしな人間でもないんじゃないかと思われたようで、私の話をお聞きになりたいということでしたので、私がこれまで著書などで述べてきた検察に対する見方、検察の改革論、検察の現在の組織の問題点などについて意見を申し上げました。

そのときに、柳田大臣の言われることを聞いて、まさに検察への国民の信頼が地に落ちている状況の下で、法務大臣として、抜本的な検察改革を行なって、検察への信頼を取り戻そうという強い意思をお持ちであるということを率直に感じたわけです。千葉前大臣を座長に選任したことについても、いろいろ批判があったわけですが、私は柳田大臣が言われた、「検察に対して厳しい考え方を持っておられる方で、なおかつ本検察の内部についてもよくおわかりだから、座長になってもらうことにした」という言葉が――そうやって、私をわざわざお呼びになって、話を聞かれるということからして、これは本気だなと、本心で言われていることだなと思った次第です。もちろん、そのときにはまだ正式にこの検討委員会の委員にというような話があったわけではありませんが、そういったことも含めて、検察改革に協力してほしいということを言われましたので、私としても全力で、可能なかぎりご協力をするということを申し上げたわけです。

ということもあって、それ以降、この検討会議のメンバーに選ばれるかもしれないなということは、可能性としては十分に認識していたわけですが、一方で私がこれまで、この検察問題に対して、その本質的、構造的な問題も含めてかなり厳しい批判してきましたので、私がメンバーに入ることに対しては相当反発、抵抗が強いのではないかとも思っていまして、どうなるかわからないなと思っていたのですが、先週末ぐらい、法務省の方から、正式にメンバーにという話がありました。こうなった以上、私もこの会議を通してできる限りの貢献をしたいと考えています。

私がどういう趣旨でこの検討会議のメンバーに選ばれたのか。
選ばれた側でお考えになったことですが、私は柳田大臣にも私自身のこの数年間ずっと専門にしてきた組織のコンプライアンスという観点から、この検察の組織を本当に抜本的に見直さないといけない、検察の業務のあり方をあらゆる面から見直さないといけないということを申し上げました。

そういう意味で、私が今回この会議のメンバーに入るということになったのは、まさに組織のコンプライアンスを専門にする者として、そういう立場で貢献をしてほしいという趣旨ではないかと考えています。もちろん、私自身、検察で23年間仕事をしてきた人間ですし、そういった経験にもとづいて考えたこともいろいろあります。むしろ、そういう経験もベースにしながら、私なりの組織のコンプライアンス……私が言っているコンプライアンスというのは法令遵守ではなくて「社会の要請に応えること」です。検察が本当の意味で、今失いかけている信頼を取り戻して、社会の信頼に応えられる組織になるようにするために、私のコンプライアンス論を少しでもお役に立てるようにできればと思っています。

コンプライアンスの問題は企業に関する問題が中心ですけれども、私は官公庁のコンプライアンス問題にも関わってきました。原口大臣の時代に総務省の顧問に就任して、片山大臣になって以降も顧問を引き続き務めさせていただいています。その顧問としての1つの重要な仕事はコンプライアンス室長という仕事で、総務省の業務に関して、総務省内外からいろいろな情報を提供を受けて、組織として社会の要請に応えるという観点からのコンプライアンスについての検討を行なうという立場にあります。そういった官公庁としてのコンプライアンスのあり方という面からも、この検察の問題を改めて考えていきたいと思っています。

この検察の組織としてのコンプライアンスという問題について、最近いろいろな場での講演の冒頭で、概ね、次のような話をしています。

これまで、検察の組織いうのは、あんまりコンプライアンスという観点で考えられることがなかったのではないか。なぜかというと、検察の組織というのは、丸ごと正義の塊であって、その検察に対してコンプライアンスがどうのこうのというようなことを言う余地はないというような考え方だったんじゃないかと思います。しかし、検察といえども、人間が集まってできている組織であることに違いはないわけで、その集まっている人間の中にはやはり問題のある行為をしでかす人間というのは、必ず出てくる。それが組織の常です。そういう問題が生じるのをどうやって防止するのか、問題が生じた時にどう対応するのか、ということを考えるのが組織のコンプイライアンスです。本当はこの検察についても、もっと早くからコンプライアンスという観点でものを考えなければいけなかったんだと思います。ところが、そういう検察に対する固定観念もあって、今までそういう考え方は行なわれてこなかった。

90年代以降、多くの企業、官庁が3つのことを強く求められるようになりました。1つがその組織のガバナンス、2番目にその組織の活動についての情報開示義務、3番目にその組織の活動に関する説明責任です。民間企業、官公庁を問わず、そういった3つのことによって、組織の活動を適正化していこうという動きがこの社会全体に広まっているなかで、1つの行政組織でありながら、検察にはこの3つがまったく求められてこなかった。

まず、ガバナンスについては、ガバナンスというのは主権者とか、株主とか、そういうもともとの権利者の意思を無視するかたちで経営者など、その組織のトップが暴走することがないようにするためのガバナンス。これについては、検察については何がガバナンスの根拠なのかがはっきりしない。結局、正義という言葉でガバナンスが終わってしまうわけです。

そして2番目、情報開示義務に関して言えば、検察の業務というのは捜査の秘密とか、刑事記録の非開示とかいうことで、ほとんど情報は開示されない。開示しなくてもいいことになっている。

そして、説明責任に関して言えば、これは西松事件のときなどにいろいろ問題になりましたが、基本的に検察はその処分の理由、あるいは捜査の理由、起訴の理由などについて、社会に対して説明責任を果さなくてもいい。裁判所に対して立証責任を負っているだけだ、ということですましてきたわけです。

そういう組織において必要な3つの義務が果されないまま来てしまったことが、今回の検察をめぐってさまざまな問題が発生している1つの背景になっているのではないかという気がします。そのような観点も含めて、今後、検討会議の場でもコンプイラアンスの観点からいろいろ意見を言っていきたいと思っています。

この検討会議でどういう事項が検討の対象とされるのか。これは検討会議で議論すべきだと思いますし、大臣や座長のお考えもあると思いますが、柳田大臣から私がお会いしたときにお聞きしたのは、やはりここまで検察に対する信頼が地に落ちているわけだから、今検討できること、検討すべきことは、あらゆることを検討すべきではないかというようなお考えを伺いましたし、私もその通りだと思います。大阪地検の不祥事、それに関連することに限らず、今、検察に関して問題となっていること、あらゆることを検討し、この際、本当に改めるべきものは徹底的に改めなければならないのではないかと思います。

今回のメンバーの中で、概ね、メンバーの大半が従来から予想されたような、法曹界の方々、それに関連する経験をお持ちの方々が多い中で、ちょっと私が意外に思ったメンバーが高橋俊介さんという、組織・人事制度、キャリア制度などの専門家が入っておられることです。どういう経緯で選任されたかわかりませんが、こういう方がメンバーに入っているというのは、おそらく検察という組織の人事のあり方、キャリア制度のあり方、組織のあり方というようなところも検討の対象にしようという考え方なのではないかと思います。それは私自身の経験に照らしても非常に重要なことだと考えています。

それから、検察権の行使の適正化ということが当然必要になるわけです。今回の大阪地検の問題に関しても、まさに検察権の行使そのものです。そういう面で、例えば検察庁法上の法務大臣の権限行使、これをいかに適正に行えるべきなのかということ。これは尖閣の中国人船長の釈放問題などに関しても、いろいろ問題になっていますが、私はこれも広い意味での検察のあり方を、本当にこれから国の機関として適正化していく上で考えなければいけない重要な問題ではないかと思っています。

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小沢氏にまつわる第5検察審査会の議決の取扱いの異常さ

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

もう1つが検察審査会の話です。
この検察審査会に関しては先週からいろいろ動きがありました。先週は学習院大学の桜井教授をお招きして、ここで今回の東京第5検審の議決についての行政法上の問題とか、行政訴訟として問題にし得るのはどういう点なのかということなどを、行政法の専門の桜井先生から話して頂きました。

小沢氏側が提起していた行政訴訟が今週の月曜日に東京地裁で却下されました。却下決定があっという間に出た。その却下決定ですが、私もどういう理由なのかということは、いちおう私なりに情報を収集して、だいたいわかりました。

要するに一言で言えば、こういう問題、もし議決に重大な瑕疵があるとか、そういう問題があれば、強制起訴してもらったら刑事事件になるんだから、その刑事の公判手続の中で主張して、それで公訴棄却なりしてもらえばいいことであって、それを行政訴訟で事前に議決に瑕疵があるとか、取り消させるべきだということで争うような問題ではないということのようです。

まったくわかってないと思いますね。裁判所がこんな決定をしたというのは、小沢氏側の主張が本当に十分だったのかどうかということも含めて、私は非常に残念です。

まず原則として、そういう手続でいくべきであるというのは、もちろんそうです。検察の起訴に相当するものが検察審査会の起訴議決であって、その議決をそのまま選任された指定弁護士が議決の通りに起訴の手続を行なう、そして、公判を行なう。そういう流れが原則になっていることは確かです。ですから、その原則通りに行っている限りにおいては、被疑者側で不服があっても、問題があると思っても、刑事公判の中で無罪を主張する。その前提として起訴が無効だ、議決が無効だというのであれば、公訴棄却を求める、刑事公判で争うのが原則である、というのは間違いありません。

しかし、そもそもそこに乗せていくこと自体が、そういう手続に乗せていくこと自体が問題だと思えるような重大な瑕疵がある場合まで、そういう原則通りのやり方ですべきだと。刑事公判になったから、公訴棄却なりをしてもらったらいいということでは、私は到底済まないと思います。

なぜかというと、まず1つは、検察官が起訴するのであれば、検察官は起訴するまでの間、捜査にも、例えば捜査の中身にも、そして起訴して、有罪にできるかということの見通しについても責任を持っているわけです。検察官の責任においてやっているわけですから、その判断が適切じゃないと思えば、起訴を断念したり、勾留を取り消したりして、検察官は引き返さないといけないわけです。とても無理だからやめておこうと思ったら起訴を断念するということだって当然あるわけです。

ところが、この指定弁護士にはその裁量権はないんです。議決にもとづいて弁護士として指定されたら、そのまま起訴して、有罪に向って突っ走って立証するということしかないんです。だから、鉄砲玉と同じなんです。真っ直ぐ飛んでいくだけなんです。

検察官は公益の代表者として、その都度その都度その適正さを判断しているのですが、それとはまったく違います。指定弁護士にはその一方向の鉄砲玉としてベストを尽くさないといけないという義務が与えられているわけです。本当に極端な話をすれば、証拠が不十分であれば、起訴の手続をとるために詰めの捜査をするという権限だって与えられているわけです。
ですから、先週号の『アエラ』で書いていたように「小沢逮捕もできる」ということなんです。捜索だって、自宅の捜索だってできるのです。そのぐらいの権限を与える行為なんだから、そういう重大な弁護士の指定ということなんだから、それはその前提として、議決が有効でなければいけないのは当然だということを言っているわけです。

もし間違った、重大な瑕疵がある議決を、素人集団ですから、してしまったというときに、そのもともとの議決に重大な瑕疵があって、その議決の通りに補充捜査をした上で、起訴手続をとろうとしている、そういう検察官役の指定弁護士の捜査活動を止められますか?
止められません。裁判所が議決書に基づいて選任している以上、議決書の趣旨にしたがって犯罪事実を立証するために最大の努力をするのは当然のことです。

公判手続きで争えば良いと言いますが、仮に起訴議決が無効であったということで公訴棄却された場合、それまでに生じた損害は誰が責任をとるのか。誰が賠償の責任を負うのか。これ、国家賠償と言ったって、一時的には誰か個人の責任です。重大な過失があったら、個人が責任を負わなくてはいけないはずです。

では、誰が責任を負うのか。弁護士には責任はありません。指定弁護士はそういう役割が与えられているわけですから。それでは、補助弁護士、議決の際に補助をした補助審査員の弁護士に責任があるのか? これもありません、補助ですから。

では、そういう重大な瑕疵のある議決してしまった審査員に責任があるのか?

まさに『日刊ゲンダイ』に書かれていた審査員に対する国賠請求の問題ですが、私はそれはとんでもない話だと思います。そいうことになる可能性があるんだったら、そもそも検察審査会という制度なんか維持できない。恐ろしくて審査員なんかやってられない、ということになります。

ということは、そういうことにならないような歯止めというのが当然必要なはずなんです。議決が無効で、重大な瑕疵があるんだったら、一見して明白な瑕疵があるんだったら、それは途中で止めないといけない。それは裁判所が指定弁護士を選任する段階でちゃんと気がついて、これはちょっとまずいということで、指定弁護士の指定を止めるということが十分可能なはずです。

だから、そういったことをきちんと、国の側がこんなものは行政訴訟の対象じゃない、公判手続でやればいいと主張したとしても、それに対してきちんとした反論が行なわれ、「こんなことを、今言ったようなことを認めるとしたら、重大な憲法違反だ。憲法31条の適正手続違反だ」ということがしっかり主張されていれば、私は裁判所がこんなにあっさり却下することはないと思ったわけです。小沢氏側で、本当にそこのところをちゃんと主張したのか、若干疑問に思ったわけです。

行政訴訟で問題にされた点以外にも、今回の検察審査会の議決に関してはいろいろなことが問題にされてます。

とくに唖然とするのが、この間から問題になってる審査員の平均年齢の問題です。

当初、平均年齢が30.9歳だと公表されて、それを前提にみんなが、真面目に考えて、これは若すぎるんじゃないか、おかしいんじゃないかとさんざん議論をしたわけです。中には数学者まで連れてきて、確率論の計算までやってもらった人もいるわけです。そういうことをみんながやってる最中に、検審の事務局はこの誤りに気づかないで、1週間もたってから、「実はこれはまちがってました」ということを発表しました。

そのこと自体が考えられないことです。そもそもそんな役所があるのか。誰が責任をもって、この公表事項についてチェックをしているのか。まったく考えられない事態です。

しかも、その30.9歳を33.91歳に訂正した段階で、37歳の人が一人抜けていたと、足し間違いしていたということを説明していたわけですが、37歳の人が一人抜けているだけだったら、この33.91歳にならない。この差が説明できない。

計算の合わない訂正なんていうことを行うのは、これまでどんな日本の役所で、どんなずさんだ、どんないい加減だと言ったって、まずあり得なかった話です。あり得ないことが立て続けに起ったわけです。そして、また、その後に、再度訂正しました。そのときには、年齢を選任の時点にするのか、議決の時点にするのかを間違えたということを理由にしたんですが、もしそういう間違いだとすると、これもブログ等で指摘されているように、1カ月ちょっとの間に、審査員11人中7人の人が誕生日を迎えたということになるわけです。この確率もきわめて低いと考えざるを得ない。

もうここまでいくと、まともなお役所のやる仕事とは何次元もかけ離れたもので、こんないい加減な事務局がやったことを前提に、審査会の議決があったとか、私が今言ったような重大な結果が生じる審査指定弁護士の指定を行なうなんていうこと自体が凡そあってはならない話です。

検察審査会の事務局長、責任者をどこかに呼んで問いたださないといけない。公開の場でちゃんと説明してもらわないといけない。当たり前のことだと思います。

そういう意味では、もともと審査の経過がどうだったのか、検察官がどういう説明をしたのか、審査補助員の弁護士がどんな説明をしたのかという審査の経過が公開されないといけないと思うんですが、検察審査会の会議録というのは、単に何月何日に会議を開いたとか、誰が集まったとか、議決を行ったかどうか、とかいうようなことだけが書かれていて、いわゆる議事録的なものは作ってないようです。

議事録など作っていないというようなことが、10月16日の読売新聞に書いてあったんですが、もしそんな施行令が最高裁によって作られていたとしても、今回のように政治的に重大な影響を生じる事件の審査は、それで許されるような話ではないと思います。
現にこの前の衆議院、参議院の予算委員会での答弁で、最高裁の刑事局長も、法務省の刑事局長も、両方とも会議録には議事の中身は書いてありません、なんていう答弁はしてないはずです。

ちゃんと議事録を作っていることを前提にして、それで、事柄の性格上、あるいは個人の発言の秘密とかいうことで出せませんということを言っているわけです。会議録の問題も非常に不可解な経過をたどっていますし、きちんと明らかにしないといけないと思います。いったいどういうような事項が会議録として記録されているのか。その公開はどこまで可能なのかということが今後大きな問題になるのではないかと思います。

もう1つ、この前からブログやツイッターで問題にされているのが、検察審査会法40条との関係です。

この40条で「検察審査会は審査の結果、議決をしたときは、理由を付した議決書を作成し、その謄本を当該検察官を指揮監督する検事正及び検察官適格審査会に送付し、その議決後7日間当該検察審査会事務局の掲示上に議決の要旨を掲示し」と書いてあります。

ここで、問題は「議決後7日間」の意味なんですが、この議決後7日間というのが、議決をした時点から7日間という意味であれば、今回の議決は議決から20日たって初めて要旨は掲示されたので、この40条に違反しているのではないかという疑いがあるわけです。それに対してどうも法務省側とか、おそらく最高裁もそう言うんだと思いますが、議決後7日間というのは、「直ちに」とは書いてないから、議決後であれば、すぐじゃなくてもいい、しばらくたってから、掲示を初めてもいいんだというようなことを言っているようです。

私は「議決後」というのはどういう意味かということを考える上では、今まで、掲示すべきとされている「議決の要旨」というのがどう扱われてきたかということが重要なのではないかと思います。

過去に強制起訴になった事件の議決の要旨を見ると、議決の要旨には「議決年月日」しか書いてないんです。議決年月日というのが書いてあって、議決の要旨という文書の作成日付は最後に書いてある、というのが一般的なパターンなんです。例えば明石の歩道橋事故とか、JRの尼崎の脱線事故などは即日議決の要旨が出ており、議決の年月日と議決の要旨の年月日は同じ日です。

これは、40条の規定を刑事裁判の判決の取扱いと同じように考えているということだと思います。40条はそういう趣旨に理解すべきものではないかと思います。

刑事裁判の判決というのは、判決が言い渡されて、即日効力を持つわけです。でも、判決書きができるのは1カ月ぐらい先です。でも、判決が言い渡されることによって効果を持ってるんです。被告人は有罪判決を受けたら、ただちに執行される立場になる。それと同じように、議決というのも、議決されたということによって、検察審査会の議決として効力を持つ。だから刑事裁判でも言い渡しの際に判決要旨が出さるのと同じように、議決の要旨は遅くとも7日以内。とにかく早く公表しなさい、掲示しなさい。ただ、正式な議決書というのはそれからしばらく後でもいい。そういう考え方じゃないかと思うんです。だから、みんなその考え方でやってきているわけです。

ところが、この第5検審の議決の要旨だけが書き方がちがうんです。
議決年月日の下に議決書作成年月日というのが書いてあって、文書の末尾には日付の記載はない。

ということは、これは議決の要旨の作成日と議決書の作成日とが同じだということを前提にしているのだと思います。その考え方であれば、さっき言った40条の解釈も、議決書を作って検事正や検察官適格審査会に送付しなさい。そして、その時点で議決の要旨をまとめて7日間掲示しなさい、というような意味になるわけです。しかし、少なくとも過去の強制起訴の事例ではそういう取扱いはしてない。しかも、刑事判決の取扱いからすると、やはりこの40条の解釈はそう解するべきではない。

このように、従来の強制起訴の事例での取扱いと比較しても、今回の小沢氏についての第5検察審査会の議決の取扱いは特殊です。やはり今回の議決の手続はおかしいのではないかと思います。

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日本の検察はパラダイス

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

それと、今日インターネットのニュースを見ていたら、たまたまこんなニュースを見つけたので、一言コメントしたいと思います。
「検察の危機、検察官の負担軽減を」という、産経新聞のニュースが出ているんですけど、いったい何を考えてるのか、と言いたいです。

検察官が負担が大きすぎるから、一人ひとり忙しすぎるから、こんなことになってしまった、もう少し楽に仕事ができるように負担を軽減しなさいと、そういうことを書いてるんですね。産経新聞の人に、この『アメリカ人のみた日本の検察制度』の本を読んでみてもらいたいです。

これはアメリカの法曹資格者であるデイビッド・T・ジョンソン氏が、たしか2年にわたってフルブライトで日本に留学して、その間にいろんな検察関係者とか、いろんな弁護士とか、いろんな関係者にインタビューした結果、日本の検察の実情というのはこういうもので、諸外国の検察制度と比較して、日本の検察はこんなに特殊なんだということを書いてます。この中で「日本の検察はパラダイスだ」と言われています。

処理する事件の質と量という負担の面でも、検察がほとんど公判でも負けない。99.9何%有罪になるということなども含めて、これだけ検察にとって天国みたいな世界はないということが書かれている。これ、多くの検察の関係者がインタビューに応じていて、これを読んでいるんですけれども、みんな「たしかにその通りだ」という、率直な印象を持ったはずです。この本は本当に貴重な本だと思いますね。

新聞記事を書くのであれば、よく実情を知って書いてほしいですね。ものすごく荒っぽいことを書いているわけですよ。

全国の検察官の数が2500何人で、受理した事件は約200万件にのぼって、一人あたり年間775件、1日2件。これ、全部の刑事事件を一緒に考えているから、それをこんな1件1件の処理に時間がかかるようなものと同じように考えたら大間違いです。それは本当にほとんど右から左に、検察官一人ひとりはまったく手間をかけなくてもいいような事件が大部分なんです。これで犯人を捕まえてくるのは警察なんです。被疑者が事実を認めていて犯人であることに間違いがなければ、それを確認して起訴状を書いて起訴すればいい、情状によっては不起訴にして釈放すれば良いというだけのことなんです。

検察官が全部それをフリーパスでやっていたところで、おそらく今の有罪率というのは基本的に98%~99%にはなると思います。いちおう基本的には認めている事件が大半なわけですから。そんなものも含めて、1日2件も処理するのは大変な数だという認識自体、まるっきり完全に間違っていると思います。ということで、とりあえず検察の話はこのあたりにいたします。

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大坪・佐賀氏に犯人隠避は成立するか?

【第104回定例記者レク概要より抜粋】

今日は犯人隠避の容疑で、逮捕・勾留されている大阪地検特捜部の前部長の大坪氏、前副部長の佐賀氏の延長満期ということで、すでに起訴されたと報じられています。この事件について、私はすでにいろんなところで発言をしていますけれども、改めて今回の最高検の調査チームによる捜査、そして今回の、犯人隠避による起訴という処分について、私なりの考え、見解をお話したいと思います。

まず、そもそも今回の大阪地検の前田元検事による証拠隠滅の事件、そして今回、その証拠隠滅の犯人を隠避したということで、前部長、前副部長が逮捕、起訴された事件。いずれも、私はこの問題の本質、核心ではないと思います。私は今回の問題の核心が特別公務員職権濫用であるということは、この前部長、前副部長が逮捕される、ずっと前から言ってきました。

問題の核心は、このフロッピーディスクの最終更新日のデータという客観的な証拠に照らすと、その当時の大阪地検特捜部の収集していた証拠関係では、村木さんの虚偽有印公文書作成罪の共謀というのは、とうてい認められない証拠関係であったことは明らかだった。関係者の供述からは、村木さんから上村氏に不正な証明書作成の指示があったとすれば、6月8日以降としか考えられなかった。

ところが、一方でフロッピーの最終更新日データからすると、最終的に証明書を作成した日時は6月1日の午前1時ぐらいになる。これでは村木氏の指示にもとづいて不正な公的証明書を作成したという事実は客観的に立証できないわけです。

こういう証拠関係のもとで、村木さんの逮捕を行なうことは、明らかに職権濫用だと思います。その職権濫用にあたる逮捕、それに引き続く勾留、そして起訴を行なうことによって、長期間にわたり村木さんの身柄を拘束したということが、本件の事件の核心であって、それは前田元検事の特別公務員職権濫用という犯罪であるとともに、こういう犯罪を行なわせてしまった検察の体制、決裁システムがどういう状況だったのか、なぜそれが適切に機能しなかったのかということを明らかにすることが、捜査の本筋だと思います。

そういう観点からすると、そもそも前田元検事の証拠隠滅という行為、フロッピーディスクの改ざんという行為もまさに手段として行なわれたものにすぎないわけであって、事件の本質ではない。
そして今回、今日起訴された、この大坪氏、佐賀氏二人の側がフロッピーディスクの改ざんが故意か・過失かを、知っていたか・知っていないかというのは、実に周辺的な事実であって、本質ではけっしてない。

いずれにしても、それによって村木さんの事件が客観的に立証困難だということは、十分に認識していたわけですから、遅くともそのときには村木さんが無実であるということは認識するべきであった。それにもかかわらず、有罪をめざして公判活動を続けていった、立証を続けていった。そのことに問題がある、それが最大の問題だと考えるべきだと思います。

それを、周辺の事実にこだわって、前田検事を証拠隠滅で逮捕・起訴しただけではなく、大坪前部長、佐賀前副部長のその周辺の事実で逮捕・起訴したというのが今回の検察の捜査、処分です。そこに私は重大な問題があると思います。本筋を外れているということに加えて、この犯人隠避罪による起訴も非常に問題であり、私は公判でこのまま両名が全面否認を続けるとすれば、無罪になる可能性が相当程度高いと考えています。

そう考える理由ですが、まず第1にそもそもいろんなリーク情報の報道で出て来ていますが、結局のところ、この犯人隠避を根拠づける証拠というのは、この前田元検事の供述、そしてそれを裏付けるものは、それを支えるものは同僚検事、応援検事ですね、もう名前も明らかになっていますけども、国井検事の供述、結局、そういう供述によって立証せざるを得ないわけです。

しかし、そもそもこの前田元検事がいったいどういう犯罪を行なった人物で、どういう立場にあったかということを考えれば、その供述にけっして信用性があると言えないことは明らかだと思います。まさに自分の捜査上の立場を守るために、村木さんについて証拠上、相当無理があることを承知の上で、その不利な証拠を隠して――言ってみれば上司や上級庁を騙すかたちで、村木さんの逮捕を強行したという人物です。もちろん、騙された側にも重大な問題があるわけですが、少なくともそういうことで、自分の立場を守るために、そういう無実の人を罪に陥れた人間です。

そのことは、今回の前田元検事が逮捕、勾留され、そして最終的に現時点で起訴されているのが、彼がやったことに対しては非常に軽微としか言いようがない証拠隠滅罪、懲役2年以下の罪でしかない。そして、私が先ほどから言っているように、本筋は、これは懲役6月以上、10年以下の特別公務員職権濫用であるとすると、なんとかして軽い罪で終わらせたいということで、上司に責任を押しつけることによって、自分が重い罪を科せられないようにする動機は十分にあると考えるべきだと思います。

しかも、フロッピーの改ざんが故意か過失かということに関して、前田元検事が大坪前部長から電話で問いただされた時点で、本当に素直に故意の改ざんであるということを告白したのかどうか。今日お配りしているのは、『中央公論』の11月号、10月10日に発売になった号の中に書いた私の論考ですけども、この中にも書いています。

まず、何のために上村氏の側にこの証拠物を返還したのか。
早期に起訴後、短期間で返還したのかという、この理由はいろいろ考えられますが、1つの大きな理由は、そういう改ざんをした証拠物を手元に置いておきたくなかったということがあったと思います。

そうしておけば、何をどう改ざんしたのかということを直接知られることはない、ということが言えるわけです。そうだとすれば、せっかくそうやってそのフロッピーを返しているのに、だからすぐには調べられない状態にあるのに、上司から聞かれて、直ちに故意の改ざんをしたということを洗いざらい本当のことを告白するだろうか。しかも、そういう状態ですから、6月の8日にデータを改ざんしたことはわからないわけですね。6月1日が最初更新日であったのを、いったいどのように改ざんしたのかということがわからない。そうだとすると、今回、朝日新聞の報道によってこの事実が明らかになって以降の状況とはまったくちがうわけです。

朝日新聞の報道で今回明らかになった時点では、すでに6月8日に改ざんしたということがわかっていた。だから、さすがに前田前元検事も過失だとか、遊んでいてそうなったとかいうような弁解をしたって、誰も信じなかったわけですが、その大坪前部長が電話で聞いた時点では、まだ十分に言い逃れができる状況だったと考えられます。その段階で直ちに故意であったということを告白したというのは、きわめて不自然だと言わざるを得ない。

それから、もう1つの問題は、この犯人隠避という面でいうと、これは本当に隠避行為と言えるのかどうかということも、法律構成的に犯罪の成否という面では重大な問題だと思います。

前にもこの場で言ったかもしれませんが、犯人隠避というのは原則は積極的に犯人を匿うとか、どこかに逃げさせるという作為を行なった場合です。隠れ家を提供するとか、逃走資金を渡してやるとかです。例外的に不作為が犯人隠避にあたる場合というのは、例えば警察官が指名手配犯人を発見したんだけども、それをあえて見逃してやったというように、その場で直ちに逮捕すべき義務があるのにそれをやらなかったという場合が、消極的な、不作為でも犯人隠避が成立する場合です。

しかし、検察というのは第一次捜査機関ではもともとないわけで、検察が犯人を逮捕するというのは、目の前で犯罪が行なわれているから、直ちに現行犯で逮捕するとか、指名手配犯人を逮捕するということではなくて、検察の独自捜査による犯人逮捕についての、それなりの手続をとって、検察の組織として決定をした上で逮捕することになるわけです。

そうだとすると、単にその場で、目の前に部下が犯罪を犯していたことがわかったのに、それをあえて犯罪だと言って上司に報告しなかったということが犯人隠避にあたるかというと、これはきわめて疑問です。そういったことも含めて考えると、犯人隠避というのは、けっして今回の問題の本質でも何でもない、本当に周辺の事実にすぎないというだけではなく、その周辺の事実を無理に立てようとした、今回の最高検の捜査自体にも相当無理があり、今回の起訴にも相当な無理があると言わざるを得ないと思います。

結局、なぜ本筋に迫れないのか?
こういうふうに私が、特別公務員職権濫用であるということをずっと言い続けているのに、結局、未だにその事実を立件してない。なぜなのか?
そのあたり、この『中央公論』の論考を書いた後の事情として、前田検事が起訴された段階で、前田検事がこういうふうに弁解している、供述している、というようなことが最高検の記者会見の中での説明として報じられています。そのことも踏まえて、大阪地検をめぐる事件、職権濫用罪の成立は明白だというタイトルで書いたものです。これは今日中にホームページにアップしようと思っています。

この前田検事側の弁解は、この1枚目の下の方に書いているように、「他の証拠から立証可能と考えていた。嫌な証拠、マイナス証拠で公判が紛糾をすることは避けたいという思いから改ざんした。マイナス証拠で即無罪とは思っていなかった」という供述。

まさにこれは私が言っているところの特別公務員職権濫用に対する前田元検事の弁解だと考えられます。

しかし、他の証拠から立証可能だと言いますが、どうやって立証するんですかね、いったいどういう立証が可能なのか、私にはさっぱりわかりません。さっきから言っているように、現に関係者供述で6月8日以降に指示があったとしか考えられない。それなのに最終更新日データは6月1日。ということは、どっちかをずらすしかないわけですよ。なんとかして、最終更新日に関する客観的なデータを改ざんしてずらすか。これは実際やったわけです。立証には使わなかったけれども。そういうことやるか、あるいは逆に関係者供述をもっとぐっと前のほうにもってくるか、どっちかしかないわけです。

しかし、関係者供述というのは、その前提となった、そもそもどの時点でそういう公的証明書がどうしても必要だということを認識したのかということとの関係でも、今さらずらせない。
ですから、そういう意味では他の証拠から立証可能だと考える余地はないはずなんです。そうすると、有罪にもっていくとすれば、どういう方法があるかといったら、証拠を改ざんするか、証拠を隠蔽するしかないわけです。

そういうことをやってもいいのか。やってもいいことは当然言えないはずです。そういうことをやるのは職権濫用です。ということになると、この前田検事の供述は、これは弁解になってない。これではなぜ特別公務員職権濫用を適用しないのかという理由の説明にはなりません。

では、なぜやらないのか?

これは私の推測ですけども、最高検にはやろうと思っても、最高検の立場では、それをやるのはきわめて難しいのではないかと思います。というのは、前田元検事がもともと逮捕をした段階では、証拠の矛盾を隠した。フロッピーディスクのことは報告書に書かないで、隠して、決裁を騙しとるようなかたちで上司とか上級長の逮捕に対する了承を得て、それで逮捕した。言ってみれば、リレーで言えば、第1走者の段階はいちおう前田元検事が一人で走ったということかもしれない。まわりの人たちは認識がなかったかもしれない。

しかし、いずれかの段階では、上司や上級庁もその証拠上の矛盾には、途中で気がついたはずです。そして、遅くとも今年の5月の段階で、裁判所が、検察官請求証拠43通のうち、34通の証拠請求を却下した段階では、証拠決定書で6月1日が最終更新日だということは出てきているわけです。遅くともこの時点ではもう認識したということになります。

この事実をどうするのかということが問題になります。ここで、最高検も含めて、ほとんど、完全に前田検事が当初1人で走っていた「証拠が矛盾しているのに有罪にする」という走りのバトンを受け継いでしまっているわけです、みんな認識した状態になったわけです。ここで立証困難、立証不可能だということで、もう有罪立証を断念しなければいけなかった。

それをどうしたかといったら、ここに言っているように、およそ裁判所の方がほとんどまともに相手にもできないような不自然、不合理な、ほとんど憶測にもとづくストーリーで有罪だという、証明十分だという、そういう論告をやったわけです。

6月1日に文書はすでに完成していたけど、いろいろ躊躇して印刷することをためらっていたら、村木さんから不正な証明書を作れということを言われたものだから、それに背中を押されるようにして6月8日に印刷したものだという、ちょっと普通では考えられないような、苦し紛れのストーリーで有罪の論告を行なったのです。

この時点では村木さんは既に保釈されていますので、逮捕・監禁という職権濫用行為は終わっていますが、実質的には前田元検事の職権濫用で始まった「無実の村木さんを有罪にする」という行為が最高検も含めた決裁ラインで継続され、それが最終的に無罪判決を受けて控訴を断念したことで終わったのです。そこのところがどうなのかということを捜査機関として詰めないといけない。

しかし、それをその当事者である最高検ができるのかと、そんなことは到底できないと思います。ですから、最初から私が言っているように、そもそもこの事件を最高検の捜査チームが捜査すること自体が無理なのです。

検察という組織にはもともとこういうときに、踏みとどまる、諦める、負けを認めるというような考え方が希薄であったと言わざるを得ないと思います。今までも、真犯人が現われて冤罪であることが間違いないという状況になったとかいうことでないかぎり、検察が有罪立証を断念したということはほとんどありません。Aという証拠、Bという証拠を全部出してしまえば、たしかに無罪になるかもしれないけども、Bという証拠を積極的に証拠請求しなければ、Aという証拠だけなら有罪で認定してくれるという場合に、そのBという証拠を出さないということは、けっして珍しいことではないんじゃないかという気がします。

そうすると、今回のような場合にも、最後の最後まで有罪だと言って突っ張るというのは、むしろこれまでの日本の検察がずっととり続けてきた態度であって、そのこと自体の見直し、「それでいいのか」ということを考えなければいけない。そういう意味では、検察にとって根本的な問題、構造的な問題を、この事件を機に考え直さないといけないわけです。それを行なう意思がないから、最高検が自ら捜査をしていると言わざるを得ないと思います。ということで、今回の事件、まだまだ事件の核心には全然迫れていないということだと思います。

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