「不信任案可決なら解散」が最悪のメッセージ

「菅直人首相は不信任案が可決されれば衆院を解散する意向」と報じられている。この姿勢こそが、菅首相に対する不信の最大の原因であることがなぜわからないのか。

震災、原発事故によって危機的な事態であるのに、復旧、復興を担うべき政治が、内閣不信任をめぐる混迷を続けているという異常な事態が生じているのはなぜなのか。倒閣をめざす自民党に同調する小沢グループの動きの背景には、昨年の代表選以来の民主党執行部との確執がある。その根本的な原因は、その代表選を政権交代後の政策論争ではなく「政治とカネ」の呪文による不毛な政争に終始させ、政権与党なのに深刻な党内対立を抱えてきたことにある。しかし、それでも、このような危機的事態において、倒閣の動きが現実化したり、それが多くの議員に支持されることは、本来はありえない。あり得ないこと起きている最大の原因は、「震災、原発事故対応に全力を挙げる」と言っている菅首相に対して、それは口先だけで、実は「何が何でも自分の首相の地位を守りたい」だけなのではないか、という根深い不信感があることだ。震災後の対応の一つひとつから、そのような不信感を生じており、それが、本来であれば、国民としてすべてを託されるべき存在である総理大臣が支持されないという異常な事態を生じさせている最大の原因だ。

そういう意味で、今の菅首相にとって必要なことは、「権力維持」ではなく震災への対応、被災地・被災者の支援を最優先に考えていることを、自らの言葉として明確に示すことだ。
「不信任案可決なら解散」というのは、全く逆のメッセージだ。今の被災地の状況を考えたら、衆議院解散等という選択肢は出てくる余地はないはずだ。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援を心待ちにしている被災者の”被災地の民意”のはずだ。その被災地での投票は現状では事実上困難なことが明らかだ。それなのに、「不信任案が成立したら解散だ」と言うのは、震災対応、被災地対応より自分の権力維持の方が優先することを「自白」しているに等しい。

菅首相が行うべきは、「震災後の現在のような状況では解散などできない。だからこそ、不信任案を否決してもらいたい。私にすべてを任せてほしい。私は、皆さんの信任を受け、自らの命を投げ打って震災対応に全力を尽くしたい」と自党議員にメッセージを送ることだ。
現在の内閣の危機の本質は「菅首相の権力への執着への不信感」にある。その執着から自らを解き放つ言葉こそが、結果的には内閣を守ることにつながるはずだ。

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」菅首相は、今こそ、その言葉を噛みしめるべきだ。

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衆議院の内閣不信任決議をめぐる泥仕合

憲法は、衆議院の内閣不信任決議に対して、内閣の側に衆議院解散という対抗手段を与えている。それ以外の場合の解散は、天皇の国事行為の中に「衆議院解散」が列挙されていることのみを根拠とするもので、そもそも、総理大臣の裁量で無制限に解散権が行使できるのかどうかについては憲法解釈上も議論がある。それに対して、この内閣不信任案に対抗する解散権は、憲法が明文で認めているもので、憲法による三権分立制の根幹をなすものだ。震災のために被災地で選挙ができる状況ではないことを理由に、「不信任案に対抗する解散が行えないから安心して不信任案に賛成を」と与党議員に呼びかける自民党側のやり方は、そのような憲法の趣旨を正面から否定するもので、決して賛同できない。

しかし、一方で、解散を恐れる与党議員に対して、「不信任案が可決されたら解散する」と言って脅しをかける民主党執行部のやり方も、震災からの復旧も遅々として進めまない中、今なお避難生活を送る多くの被災者に対してあまりに無神経である。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援と復興への取り組みを求めている被災者の人達の声ではないのか。その被災者の有権者にどのようにして投票させられるのかすら明らかにしないまま、そして、これまでの震災への対応、原発事故への対応を反省することもなく、「不信任案が成立したら解散だ」とわめいている民主党執行部には、震災復興に向けての政策を論じる資格などない。

要するに、この不信任案をめぐる泥仕合はどっちもどっちであり、まさに国難とも言える日本の状況において、こんな低レベルの政争が行われていることに暗澹たる思いを抱くのは私だけではないであろう。

日本の政治が、なぜ、このような絶望的な状況になってしまったのか。その根本的な原因が、昨年9月の民主党代表選にある。
政権交代後1年、政権与党として取り組むべき課題に正面から向き合い、改革の具体的ビジョンを提示し、堂々と政策論議を行うべきであった民主党代表選を、「政治とカネ」という意味不明の呪文で埋め尽くし、不毛な党内抗争の場にしてしまったことが、政権与党内部に決定的な対立構造を作る結果を招いた。その産物として成立した内閣には、重要な政策課題に正面から取り組むための政治基盤自体が失われていたと言うべきであろう。
このような空虚な政治構造を脱却しなければ、震災からの復興はおろか、日本という国の未来はない。

今、日本の政治には、完全に行き詰った既存の構造とは次元を異にする、全く新たなパラダイムの創造が求められている。

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畑村「失敗学」についての理解を

畑村洋太郎教授が、福島原発事故の「事故調査・検証委員会」の委員長に就任することが発表された。

6年前の著書「コンプライアンス革命」の中で、私のコンプライアンス論は『畑村洋太郎先生の「失敗学」の「コンプライアンス・バージョン」』であると述べているように、コンプライアンスは「法令遵守」ではないという発想自体が、畑村先生の示唆から生まれたものであり、畑村・失敗学と郷原コンプライアンス論とは極めて深い関係にある。
これまで、私も、危険学プロジェクトなど畑村先生が企画された多くの活動に参加してきたし、畑村先生にも、コンプライアンス研究センターでの事故防止に関するシンポジウム等の多くの企画に参加して頂いた。
そのような畑村先生の「失敗学」をベースにして、今回の福島原発事故の原因・背景を考えていくことには極めて大きな意義があることだと思う。

しかし、注意しなければならないのは、畑村・失敗学は、従来の事故原因調査等とは考え方が全く異なるということだ。
事故の発生や拡大に関係する様々な要因を抽出し、そこから「本質安全」への道筋を明らかにしていくというのが「失敗から創造へ」という畑村・失敗学の基本的な考え方であり、「誰が悪かったのか、誰の責任か」ということは問題にしない。そこで、明らかにされる事実というのは、「そういう発想で事故原因を考えることが、安全につながる」という一つの「仮説」であり、事故原因と結果の因果関係を実証することではない。

畑村先生を中心とする委員会の調査・検討が、今回の原発事故問題への対応や、今後の我が国の原発をめぐる政策に、活用されるためには、このような畑村・失敗学の基本的な考え方が調査に携わる関係者に理解されるだけではなく、国民に受け入れられる必要がある。
今後、委員会が立ち上げられ、そこでの議論が、必要に応じて公開されるであろうが、それを、従来の事故調査のような責任論や法的原因論の観点でとらえると、大きな違和感を生じることになる。

まず、「失敗学」の考え方について認識を共有することが必要だ。

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公取委は一体何をやっているのか

今日の記者会見で、菅首相が、電力会社から送電部門を切り離す発送電分離を検討すべきだとの考えを示した。原発事故を契機とする電力供給分野の競争構造をめぐって議論が本格化しようとしているのに、公取委の動きが全く見えないのはどういうことなのか。

今回の、電力自由化の問題は、日本の経済社会における競争政策に関しても極めて重要な問題だ。まさに競争政策官庁である公取委の出番なのに、一体何をしているのか。
震災によって日本の社会は不連続的な変化を遂げた。競争政策も同様だ。震災復興における公共工事の在り方も、効率性、合理性という観点が不可欠だ。発注数年前までの、談合排除論一辺倒の競争政策は、ほとんど役に立たない。
そういう意味で、競争政策において最も重要な問題は電力の自由化を、安定供給上の阻害、地域的な価格の非対称性などの問題をクリアしつつ、いかに競争のメリットを拡大していくのかが、今後の競争政策における重要な課題のはずだ。

公取委は、まさに、そのような重要な競争政策上の問題に関して、その真価を発揮すべきだ。ところが、談合排除に浸りきってきた公取委には、そういう方向への発想の転換ができないようだ。このままでは、公取委は霞が関の中のガレキと化してしまうだろう。
竹島委員長には、競争政策官庁のトップとしての鼎の軽重が問われている。

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菅首相の浜岡原発全面停止の要請に関するコメント

菅首相の浜岡原発全面停止の要請に関するコメントを追加します。

私は、浜岡原発については、今回の震災直後から、福島原発と同様の事故が起きる可能性が否定できない限り、ただちに停止すべきだと言ってきましたし、今回の菅首相の全面停止要請に関しても、原発を止めること自体は「正しい」とコメントしています。

ただ、問題は、そのやり方です。このような形で総理大臣が中部電力に原発停止を要請することに法律上の根拠がないだけでなく、どのような場合に、このような超法規的措置が行えるのかの「ルール」が示されていないことに問題があると言わざるを得ません。

①大地震の確率が高い、②国民生活への影響が大きい、ということが理由とされていますが、①については、もし、他地域で大地震の具体的予兆が表れ、「30年以内」にかなりの確率で大地震・大津波の発生が予想されるとの見解が、それなりに権威のある機関から出されたとき、その付近に立地する原発はどうするのでしょうか。また、菅首相は防潮堤が建設されるまでの間の停止だということを強調していますが、それは、裏を返せば、防潮堤完成後は、原発の稼働を認めることに総理大臣として事実上「お墨付き」を与えたことになります。その判断は、十分な検討の下に行われたと言えるのでしょうか。

今回の要請は、震災後約2カ月で出されたものですが、原発停止要請について、何らかのルールを作った上で、最も危険な原発である浜岡について、まず停止要請を出すというのであればともかく、今回のように、突然、「総理大臣の判断」を強調して、本来は私企業の経営判断に属する事項に強権的に介入するというやり方をとったことは、法に基づく国家の運営、ルールに基づく問題解決、というこの社会の基盤を崩す、という別の面の重大な問題を生じさせかねないことを、私は懸念しています。

大震災による急激な社会の変化の下では、既存の法令を遵守することだけでは到底適切な対応はできません。しかし、それはルール無視で勝手にやっていけば良いということではなく、その時々の状況に適合したルールを形成しながら、対応し、問題を解決していくことが必要だと思います。浜岡原発問題についても、日本の社会が原発を今後どうしていくのか、という極めて重要な問題に直結するだけに、結論の正しさと同時に、総理大臣としてのパフォーマンスより「ルールの創造」を大切にしていく姿勢が必要だと思います。

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注目される次の一手

菅首相の浜岡原発全面停止の要請、かねてから重大な危険が指摘されていた浜岡原発の運転の停止を求めたこと自体は正しいと思う。
しかし、今回の要請が、日本の原発問題の解決に向けての「英断」となるのか、逆に、原発をめぐる社会の混乱をさらに深めるものになるのか、昨日の会見での発言を聞いただけでは判断できない。菅首相の「次の一手」が注目される。

問題は二つある。第一に、浜岡以外の他の原発をどうするかという問題だ。昨日の会見で、菅首相は、浜岡原発が震源域に含まれる東海地域で30年以内にM8程度の東海地震が発生する可能性が87%と極めて高いこと、原発事故が起きた場合に国民生活に重大な影響が生じることなど「浜岡原発の特殊性」を強調した。しかし、今回の東日本大地震も地震学者が予想とは異なるものだった。現在の地震予測には、浜岡と他の原発の質的相違の根拠となるだけの信頼性はない。今回の浜岡原発の運転停止要請が他の原発をめぐる議論に重大な影響を与えることは避けられない。

この点は、原発に代替する電力供給源という、もう一つの問題にも関連する。
菅首相に続く海江田経産大臣の会見で、火力と揚水発電、それでも足りなければ関西電力からの電気の融通を受けられるとの見通しが示されたが、関西電力は原発比率5割を超える最も原発依存度の高い電力会社だ。管内の電力需要を賄った上に中部電力に電気を融通するとすれば、敦賀の原発をフル稼働することが必要となる。
福島原発事故がいまだに収束できず、敦賀のもんじゅも大トラブルに見舞われているときに、果たしてそのようなことが可能なのか。結局のところ、原発に代わる代替エネルギーの開発について、従来の電力会社の発想を超えた新たな施策を打ち出すこと、節電についても、自動販売機による電力消費の削減、パチンコ店の営業規制などの抜本的な対策を講じることが、浜岡原発停止による電力不足問題は解決のために不可欠である。

昨日の菅首相の浜岡原発運転停止要請は、取り敢えず「最も危険で最も重大な影響のある原発を止める」ということだけにしか目が向けていないように思える。その判断自体は正しい。しかし、その正しい判断は、他の原発をめぐる問題や、電力需給全体の問題に重大な影響を及ぼし、原発に支えられてきた日本の電力事業の構造をめぐる議論にも直結することは避けられない。
菅首相が、そのような議論に踏み込む覚悟もなく、パフォーマンスで「思いつきの決断」をしたのだとすれば、今後、原発問題をめぐって収拾のつかない重大な社会的混乱を生じることになりかねない。

「次の一手」として、福島原発での失敗を踏まえた原発政策全体について明確な方針を示すこと、東電の賠償問題にも関連する発送電分離等の電力事業の自由化問題について方向性を示すこと、などを打ち出すことができるか、首相としての鼎の軽重が問われている。

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啞然とした堀田力氏の発言

今朝のテレ朝の「やじ馬」、河野太郎議員が出演、東電の現状のままの存続を前提とし、電気利用者に負担を転嫁する政府の原発事故賠償スキームを批判。発送電分離、送電設備売却の提案は、私の提案とほぼ同じ。核燃料サイクルの破綻を踏まえて、2050年までに原発を全廃して自然エネルギーに転換するという現実的な選択肢を提示、全体としてわかりやすい説明だった。

一方、昨夜のNHKニュースW9には、検察OBで「さわやか福祉財団」堀田力爺が登場。10分以上にもわたって延々とインタビューが続いた。
主たる内容は、「震災への義援金、ボランティアの動きは、阪神淡路大震災との時以上。被災者支援のために力を合わせようとする日本人の心を感じさせる」というものだった。驚いたのは、その後、復興財源確保のための増税に30%以上もの人が賛成していることに話が及び、堀田爺は、それも「復興のためにお金を出しても良い」という美しい気持ちの表れだと言いだしたこと。それに聞き手が調子を合わせ、増税に反対している政治家に話が及ぶと、堀田爺は、醜悪なものを見るように顔をしかめる。国民は、義援金、ボランティアに精を出し、お上が言うことには文句を言わず、復興にお金がかかるのであれば、言われる通りに大人しく税金を払えば良いという話。被災者のための自己犠牲の精神と、復興のための国財源をどう調達するかという政治的判断とは全く別の問題のはず、それを敢えて同一視させようとする堀田発言とインタビューを放映したNHKには露骨は政治的意図を感じる。

そう言えば、堀田氏が、最近「マスコミ市民」という月刊誌のインタビュー記事で、唖然とするような発言をしていたことを思い出した。尖閣の中国人船長の釈放問題について聞かれて、「あれは検察が政府の陳情に応じて釈放したもの。指揮権の問題ではない、陳情したかと政府に聞けば、したと言うはずだ」などと答えていた。この人の頭の中では、「検察の正義」(それを用心棒とする官僚機構)中心に世の中が動くべきで、政治家ごときが口を出すことが間違いだという考え方が、加齢によってますます凝り固まってきているように思える。

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東電の責任において、原発被災者の方々に賠償を

朝日新聞によると、政府の賠償枠組みでは、「賠償総額は4兆円、今年度から1兆円ずつ、4年で完了すると仮定。東電の決算は、11年3月期は約8千億円の純損失に陥るが、赤字は4年間で解消。14年度以降に社債発行再開、18年度には配当再開も目指す」とのことです

私は、5年前、検事退職の際の退職金の中から東電株1000株を購入、今も保有しています。政府の枠組み案は、これだけの事故を起こし、存亡の危機にあると思っていた東電が、僅か4年でゾンビのように蘇って、フツーの会社になるというものです。私も含めた東電株主にとって有り難すぎる内容です。このような枠組み案で救済されたら、少なくとも私は、東電の株主として、恥ずかしくて、原発事故の被災者の方々に申し訳なくて、街を歩くことができません。

私は、今回の事故後に明らかになった原発事故対策の杜撰さ、事故発生後の東電の対応に深く失望しています。そこには、日本を代表する企業としてのコンプライアンスの微塵も感じられません。単に株主というだけではなく、4年余り前には東電幹部への講演も行い、コンプライアンスを指導する機会もあった人間として、本当に申し訳なく思い、責任を感じています。被災者の方々の苦しみを思えば、塵のようなものですが、私自身の責任において、保有する東電株は、紙屑になるまで持ち続けるつもりですし、紙屑になるのが当然だと思っています。株主だけではなく、各種債権者も、福島原発事故の現状と東電の対応からすれば、その責任の一端を負うべきだと思います。

朝日のWebサイトのインタビュー記事でも述べているように、「送電施設を国に売って賠償原資に」をとれば、東電の責任において、原発被災者の方々に賠償を行うことは可能です。電力会社としての従来の経営資源の根幹を差し出すことになるこの方策こそが、東電が社会的責任を果たし、従来の体質を一掃して企業としての再生を果たす唯一の道です。

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福島原発事故と東京電力のコンプライアンス

【第118回定例記者レク概要より抜粋 その3】

3番目が、福島の原発事故に関して、私のもともとの専門であります、企業のコンプライアンスという観点から東京電力の対応をどう見るのかという点です。今回の大震災、大津波、そして原発事故に対して国全体の対応にどういう問題があるかどうか。原発事故に対する対応をどういう観点から考えていったらいいかということ、これはこの場で前にもお話をしました。今日はとくに企業のコンプライアンスという観点から東京電力の対応について考えてみたいと思います。はっきり申し上げて、私がこれまで企業のコンプライアンスを考える上で前提にしてきたことが、今回の東電の対応を見ていると、大きく崩れているというか、私のコンプライアンスの常識からはもう完全にかけ離れたことが起きている。そういう意味で、いまの東京電力の対応を見ていると、私の想定外だったと言わざるを得ません。

そのもともとの背景に、この原発問題をめぐって絶対安全という言葉が自己目的化してしまったことで、絶対安全を守る、絶対安全という確信を守るということに偏った原発に対する政策とか企業の対応が行なわれてきたことに問題があったというのが根本的な問題なのですが、そういう根本問題を置いておいて、今回起きた、この原発事故という重大な災害、そのクライシスに対して東京電力という組織がどういうポリシーで、どういう取り組みをしているのか。そこの中心には誰がいて、誰が意志決定をしているのか、というような、コンプライアンス、クライシスマネジメントにおいてもっとも重要なことを考えようとしたときに、今回の東京電力がやっていることはまったくわけがわからないというのが私の率直な印象です。

とりわけ、私が本当にあきれ果てたのは、それはどういう体調、どういう病状であったのかは詳しくはわかりませんけども、これほど企業の行動が世の中に重大な影響を与える、企業のクライシスマネジメントのまさに最たる状況において、社長が体調不良で仕事ができないとか、入院しているとか、出て来ないというのはいったいどういうことなのか。

普通に考えたら、こういう状況において、まさにその企業の総責任者である社長はどんな無様な状況になっても、その国民の前に出て、自分の責任を明らかにする。体調がいいとか悪いとかというようなレベルの問題ではないはずです。

ところが、1カ月にわたってほとんど人前に現れず、この前、福島の被災地に突然現れて、福島県知事に名刺だけ置いていって、その後ぶら下がりで発言したこととか、その後、会見で清水社長がコメントしたことをネットのニュースで見ますと、こういうことを言っているようです。

「自身の経営責任については事故の収拾に全力で取組み、被災者の支援に全力を尽くすのが私の最大の責務」と。そういうふうに考えているのであれば、今までいったい何をしていたのかということです。そして、今までそういうような1カ月、まともに人前にも出ないで課長だの下っ端の連中にばかり会見で喋らせて、自分はどこにいたのかわからないというような対応をした後に、「事故の収拾に全力で取組み、被災者の支援に全力を尽くすことが私の最大の責務だ」などということをしゃあしゃあと言える神経があれば、おそらく私はそんな体調がちょっとしたことで崩れるとか、精神的に不安定になるなどということはないのではないか。十分立派に対応していけるのではないかと思います。とにかくこういう社長の行動、社長の発言自体がコンプライアンスという観点から考えて、まったく私の想定を超えたものと言わざるを得ません。

東京電力に関して、法的責任がこれからどうなっていくのか、社会的責任がどうなっていくのかというのはものすごく難しい問題です。そういう責任の所在がまったくわからない、非常に不確定、不安定状況にある東京電力という会社が、いまなおこの原発事故について、形式上は一応対応の主体になっているわけです。そのこと自体が、非常に問題だと思います。

原子力損害賠償法の解釈だけで結論が出る問題ではありませんが、少なくともこの東京電力という電力会社の施設である原子力発電所から何兆円、何十兆円という莫大な損害が発生していることは間違いないわけです。最終的にそれを東京電力が払えないときに、国が相当程度負担することになるかもしれません。しかし、常識的に考えると、まず東京電力はその損害賠償債務によって事実上破綻していると考えるのが自然だと思います。であるとすれば、その東京電力がいま手元におカネがあるからと言って、そんなおカネを勝手に使っていいのか。ましてや、真偽のほどは知りませんけれども、テレビで、東京電力のお詫びだとか、お知らせだとか、広告みたいなものが出ていますけど、あれはタダでやっているのではないと思います。膨大な金額の広告料を払っていると思うのですが、そういうお金の使い方をすることが本当に許されるのかということです。こういう損害賠償債務で事実上破綻している会社がそんなことを決めていいのか。私はこの東京電力の今後を考えたら、早急にまず国家管理に移して、国家管理というか、管財人を選任するのでも何でもいいです。東京電力が主体となって決めるということをやめさせなければならない。もちろん東京電力にもいろんな意見は求めないといけないかもしれないけれども、最終的な責任は国が負うということでなければ、この事態に対する適切な対応はできるわけがないのではないかと思います。

そして、そのことはもう1つの問題である、東京電力の株式を未だに上場を維持して、東京証券取引所での売買が続けられていると。このことも私は大問題ではないかと思います。私は検事を退職したときの退職金で東京電力株を1000株買っていて、今でもその1000株は保有しています。この事故が起きたときに、私は自分なりに今までいろんな多くの会社のコンプライアンスについて指導する立場でもあったし、講演も多くの電力会社でやったし、そのなかで東京電力という会社がこんな問題を起こした以上、株主としての責任でもあると思っています。私は今回の東京電力株は当然、紙くずになるべきだと思いますし、紙くずになるまで売る気はまったくありません。そういう株主の立場でもあるので、余計に率直に言わせてもらいますけども、直ちに取引は停止すべきです。上場は廃止すべきだと思います。

なぜかというと、いまいったい東京電力株というのはどういう材料で動いているのか。何を根拠に売買の判断をしているのか。先ほども言ったように、事実上この会社は破綻しているのです。破綻してて、まともに損害賠償債務を負えば、当然債務超過です。株価なんかつくわけがないのです。ところが、ひょっとするとそれは政府の方針如何では東京電力は生き残るのではないか。ゾンビみたいなものですね。そういうような期待があったり、いやいやそんな甘いものではない。これは当然紙くずになるのだという弱気の見方とか。それが交錯して、いまのような株価が形成されている。そんなことについて確たる予測ができる人間はいないはずだし、ほとんど単なる憶測だけで売買している。賭博ですね。それも半分いかさま賭博みたいなものです。こんないかさま賭博のようなものを証券取引所がその売買を許しているということ自体が、私は非常に問題だと思います。

証券市場の公正ということに関して、私もコンプライアンスの観点から、企業法という観点から今までもいろんな著書でも書いてきました。最近出した『組織の思考が止るとき』の中でも証券市場の公正のことはかなり詳しく書いています。昭和20年代、30年代のような日本の証券市場は実質上、賭博場でした。企業の価値だとか、企業の内容だとか、そんなことでなくて、思惑だけで動いている世界だった。それは経済的に特別その企業の資金調達に関して大きな役割を果しているのではなくて、企業の資金調達は実質上、間接金融、銀行からの融資で行なわれていて、証券市場というのは結局株好き、バクチ好きの人たちが集まっているだけの存在だった。そういう証券市場を前提に考えるのだったら、

現在の東京電力株の状況もそれはその通りのものです。しかし、少なくともいまの日本の証券市場、少なくとも21世紀に入ってからの証券市場というものはそういうものであっていいという考え方ではけっしてなかったはずです。やはりその企業の価値について、企業の内容がタイムリーに、公正にディスクローズされ、そして証券市場による売買が公正に行なわれる。そして、多くの国民が証券市場を信頼して市場に参加できると。こういうような証券市場を育てていくことによって、証券市場を通じての直接金融の機能を高めていこうという考え方で証券市場が運用され、金融商品取引法もそういう目的で法改正が行なわれ、運用されてきたはずです。そういうことからすると、まさにいまのような状況で東京電力の株式が、ほとんど思惑だけの博打のような売買が行なわれるというのは、私はまさに法の根本的な目的に反するものだと思います。

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総務省の「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する要請」について

【第118回定例記者レク概要より抜粋 その2】

先週、総務省での年金業務監視委員会の委員長としてのブリーフィングの際にもふれたことですが、総務省から「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する要請」という文書が社団法人電気通信事業者協会など、インターネット関連の通信に関わる事業者の団体に対して発せられました。

この「インターネット上の流言飛語への適切な対応」という、こういうことを求める総務省の要請文書が表現の自由という観点から問題があるのではないか、不当な情報統制にあたるのではないかというような指摘が私のところにもいろいろ寄せられております。私も総務省の顧問でコンプライアンス室長という立場があるので、いったいどういう趣旨でこういう文書を出したのかということを所管課の方から確認してみました。

この文書では、「東日本大震災後、地震等に関する不確かな情報と国民の不安をいたずらに煽る流言飛語が電子掲示板の書き込み等により流布しており、被災地等における混乱を助長することが懸念されます」と書いてあって、そして、「つきましては、インターネット上の地震等に関連する情報であって、法令や公序良俗に反すると判断するものを自主的に削除することを含め、表現の自由にも配慮しつつ、インターネット上の違法な情報への対応に関するガイドラインや約款にもとづき適切な対応をおとりいただくようにご周知いただくとともに、貴団体においても必要な措置を講じてくださいますようお願い申し上げます」と、こういう内容になっています。

素直に読むと、こういうインターネット上の流言飛語が横行していると。それによって被災地の混乱をいっそう助長することが懸念されるので、表現の自由にも配慮することが必要だけども、業者にはこういう流言飛語にあたるものを自主的に削除することも含めて適切に対応してください、ということを総務省が関係する業者の団体に対して言っているわけですから、流言飛語に対して、自主的な削除をこれまで以上に徹底してやりなさいということを、監督官庁が、業者に求めているという意味です。そうだとすると、これはやはりどう考えても表現の自由との関係で問題があるというふうに私は思ったわけです。

これを所管課の方に確認をしたところ、これはあくまで「インターネット上の違法な情報への対応に対するガイドライン」というのが去年の1月に出されている。それと、そういう利用に関する約款というのがあるわけです。その約款にもとづいて何かガイドラインに反するような書き込みみたいなことがあったら削除するというような対応をとってもらうという従前通りの対応をしてもらうことを確認的に言ったまでであって、いま大震災で流言飛語が飛び交っているから、それに対して、従来は何もしなかったものに対してまで自主的削除の範囲を拡大して、特別に措置をとってくれということを求めたものではないということを所管課の方では言っていました。

そういう趣旨であるとすると、この要請文に書いていることは誤解を招くのではないか。先ほども言いましたように、まず最初に流言飛語が流布していて、混乱を助長することが懸念されますと言った上で、それで自主的な削除を含めて適切な対応というようなことを言えば、いくらそこでガイドラインや約款にもとづきというふうに書いてあっても、従前の対応以上のものを求めているように見えるではないか。やはりそれはちょっと適切ではないのではないかというふうに思ったのです。

聞くところによると、「被災地等における安全・安心の確保対策ワーキングチーム」の設置というのがあって、こういうワーキングチームが官邸サイド……内閣官房とか警察庁、総務省、経産省というような関係省庁が集まって設けられている。ここでこういう流言飛語への対応を各省庁でもっと強化するようにというような方針が示されているために、ぎりぎりのところ、この要請文のような表現になってしまったということのようなのです。ですから、まさにここに書いていることはいちおう文書の内容としては従前通りの対応を求めているだけなのだけれども、あたかもそういう流言飛語に対する特別な対応をとっているように誤解されるような内容であることが、ある意味ではそのワーキングチームの方針に沿ったものとも言えるわけです。

まさに誤解されかねない要請文ですが、その誤解がワーキングチーム側の意図によるものとも言えるわけで、総務省の所管課の方で是正するための文書を出すというのはなかなか難しいということでした。それなら私がコンプライアンス室長の立場で誤解が生じないように、もともとこれはそういう主旨ではない、情報統制的な主旨ではない、けっして流言飛語を自主的に削除するということを、今までとはちがった措置で求めるということではない、ということを明確にするためにコメントしたほうがいいだろうと考えてお配りしている、もう1つの紙、コンプライアンス室長名義の文章を作成しました。

この総務省が出した要請文書というのはガイドラインや約款にもとづく従前通りの対応を求めただけで、それ以上のものではない。ですから、それ以上の対応を求めているような誤解をされないように留意してもらいたいということを書いたわけです。この趣旨はあくまで私のコンプライアンス室長としての個人的な見解を書いた文書ですが、これは所管課の方ともいちおうセットした上で、了解の上で出していますし、大臣にも了解を求めて、正式に総務省のホームページにも掲載する予定です。

たしかにまったく根も葉もないことをインターネット上で流布して、人々をいたずらに不安に陥れるということは、もちろん避けないといけない。

しかし、何が流言飛語なのかということ、これは非常に判断が難しいところです。その時点ではみんながぎょっとするような、あっと驚くような情報であっても、事後的には実はそれが正しかったということもあり得るし、もし政府の側で情報を十分に開示しないで、10の情報を出すべきなのに5の情報を出して、本当は危険であるのに安全だというようなことを、もし万が一言っていたとしたら、巷で言われるように、それは安全デマというふうに評価される場合もあるわけです。そういう意味では、こういう流言飛語の問題に対して、国の側が口を出す、こういうものは削除すべだと、あるいは一般的に流言飛語と考えるものを積極的に削除しろということを言うというのは、これは憲法が保障する表現の自由との関係で重大な問題があると言わざるを得ません。そういう意味で、とりわけこういう事業者に対する監督官庁である総務省としての対応には慎重さが求められると思います。

この件について片山大臣ともお話をしましたが、大臣もこれは誤解を受けかねない文章ではないかということで、相当問題意識を持たれていたようです。とりわけ大臣はこの文書の中の「表現の自由にも配慮しつつ」と書いてある部分について、「なぜ“も”が入っているのか」と言われていました。「表現の自由にも」と書いてあると、表現の自由は大事だけれども、それ以上に大事なものがあるようにも見えます。「表現の自由に配慮しつつ」と書くのが当然ではないかということもおっしゃっていました。そういう意味で、世の中がとりわけ原発事故に関する情報について非常にデリケートになっている状況において、情報に対する取扱いについては国としては極力慎重に行なっていかなければいけないということではないかと思います。

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