三流週刊誌レベルの陸山会事件検察論告

陸山会事件(石川・池田・大久保関係)の検察論告を読んだ。まさに瓦礫のような論告、「読むに堪えなかった」というのが率直なところ。ほとんど、妄想・憶測を書きならべたような三流週刊誌レベルの「論告」を、東京地裁の刑事法廷で恥じらいもなく朗読できる神経が私には理解できないし、特捜検察が、そのような存在になってしまったことは情けない限りである。

この事件の経過全体を見たとき、特捜検察の政治的画策は、小沢氏不起訴によって失敗に終わった。にもかかわらず、検審の起訴議決という、検察にとって屈辱以外の何物でもない手段にまで頼って、当初の目的にこだわり、その画策の手段として行った現職国会議員の石川氏の起訴を、その後の同氏の公判で、水谷建設からの5000万円の裏献金という凡そ同氏の起訴事実とは関連性のない事実の公判立証で、まともな事件に偽装しようとするという、刑事手続の常識を逸脱したやり方を押し通してきた。それらの画策が最終的に破綻したのが、先般の、東京地裁による証拠却下決定であった。
同決定で、検察官の取調べが利益誘導、恫喝、切り違えなどあらゆる不当な手段を用いて行われたことが認定され、それは、村木事件の証拠却下が大阪地検特捜に致命的打撃を与える契機になったのと同様、東京特捜にとって致命的打撃だったはずである。それと同時に、検審議決による起訴という禁じ手まで使って小沢氏に政治的ダメージを与える画策の失敗も確定させるものであった。

もはや、ここまでくれば、東京特捜も、潔く、それまで行ってきた陸山会事件をめぐる画策の誤りを認め、反省し、再生を期すのが当然であろう。ところが、今回の論告は、石川、池田被告について、凡そ起訴価値のない違反として形式上の虚偽記入で有罪の可能性が残っていることを良いことに、その動機や共謀について、水谷裏献金という関連性のない事実を無理にこじつけつつ、殆ど証拠に基づかない憶測のような理屈を並べ、あたかも、政治資金規正法としてまともな事件であるような偽装を行おうとしている。

この論告は、プロレスで言えば、場外でパイプ椅子を持って相手に殴りかかっている行為、相撲で言えば、桟敷席から座布団を取り出して投げつけている行為、凡そ、そのスポーツの本来の姿とは言い難い。
東京特捜は、今一度、これまでやってきたこと、そして、自らが置かれている状況を客観的に認識する必要があろう。それがなければ、「特捜神話の終焉」が、最終的な「特捜検察の壊滅」につがなることになろう。

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法科大学院に係る政策評価について

【平成23年7月14日記者レク概要より抜粋】

「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価」ですが、今、行政評価局で行っている政策評価の一つです。昨年の夏から年末にかけて、この政策評価をどのように行っていくのかを検討する研究会を開催して、その成果を報告書という形で年末に公表しました。その議論と検討も踏まえて、今、行政評価局で政策評価のための調査を行っているところです。

この法曹養成の問題、法科大学院の問題については、マスコミ等でも問題にされていますので、どういったことが問題になっているかということも大体ご存知だと思います。

一言で言うと、大幅に法曹資格者を増やして司法サービスをもっと身近なものにして、市民にとって使いやすいものにしていこうという理念が掲げられて、司法制度改革の中の一つの大きな目玉として法曹資格者の大幅な増員、そしてそのための法科大学院の設置ということが政府の一つの政策として行われてきたわけですが、これがはっきり言って大変な状況になっている。政策面として大きな失敗になっているのではないかと言わざるを得ない状況になっているということです。

そこで、いったいこの一連の政策がどういう目的で、どういう理念の下に行われ、今、どういう状況にあるのか、どういう問題があるのか、というようなことを、調査・検討しようということで、政策評価の対象にしたということです。

この一連の政策というのは、司法を身近なものにしていくためにもっともっと法曹資格者を増やさなければいけない。法曹資格者が少なすぎるから、司法サービスが市民の使い勝手の良いものにならない、司法に対するニーズが元々あるので、法曹資格者を増やせば、そのニーズと供給、サプライのほうがマッチするという考え方がベースにあったのだろうと思います。大きな問題は、法曹資格者が今、もう既に相当な数、世の中に供給されて、数年前と比べると弁護士の数も急増しているわけですが、その司法に対するニーズ、弁護士に対するニーズというものがそれに見合って増えてきているとは思えない、ということです。最終的なニーズのところが、司法制度改革が前提にしていたところと大きく乖離してしまっているわけです。数が増えれば、当然それに伴って需要が掘り起こされていって、需給関係がちょうどうまくバランスするということになっているかというと、全然そうはなっていない。

そして、結局、そこが最終的なボトルネックにもなっているわけですから、これはなかなかそういうふうに関係者のほうは明確には答えませんけれども、司法試験合格者が当初言われていたような数になっていないわけです。

当初は法科大学院修了者に対する、いわゆる新司法試験の合格者を年間3000人にすると言われていたのですが、今のところ2000人で頭打ちの状態になっています。新司法試験では法科大学院修了者の合格率が7割程度になるということが前提とされるはずだったのですが、実際には、その前提を大幅に上回るような数の法科大学院が設置され、定員も大幅にオーバーした状況になっていたわけです。そこへきて、合格者が3000人を大きく下回ることになると、合格率がどんどん低下していって、法科大学院は出たけれども法曹資格が取れないという人をたくさん生みだしてしまう。

確かに今の2000人が本当にレベルとして昔の合格者と同等なのか、質が落ちているのではないかという意見もあるし、私も、若干、その懸念は持っています。しかしそれは制度の失敗が招いた面もあるわけです。

最初から7割合格できるということで始まった法科大学院が、現在、25%の合格率(平成22年)になっている。そういう状況になるということは、法科大学院設置当初から予測されていたので、そんなリスクをとってまで、なかなか法科大学院に入らない。どんどん志願者が減ってくるから、当然、そこに入ってくる人たちの質の低下も懸念される。だから結果的に合格者を増やせないということになる。どんどん悪循環になっていきます。

一方で、法科大学院を修了して司法試験に受かって、司法研修所を出て弁護士資格を取っても、弁護士に対する需要が高まらないので、弁護士の就職難が問題になり、弁護士を開業してもなかなか仕事がない、ワーキングプア状態の弁護士が急増していると言われています。まさに、いろいろなところでこの司法制度改革の当初想定していなかったような大変な厳しい状況になっていることを、今、皆が認めざるを得ない状況になっているわけです。

結局、問題の根本は司法の在り方をもっと抜本的に見直されないといけなかった。法曹資格者の能力や提供できるサービスの内容とか、そういったことを考え直さないといけなかったのに、旧来の司法の世界のまま、旧来の法曹資格者のスキルのまま数だけ増やしたって、世の中に汎用的な商品として出ていけるわけがない。当然の結果になっているのだと、私は思います。

こういった状況の下で、一連の法曹養成制度、法科大学院の設置という行政がどういう考え方で行われたのか、現状はどうなのかということを、政策評価の手法で調査検討していこうということで、こういう政策評価が企画され、今、行われているわけです。

私は、総務省の顧問として、この政策評価にはずっとかかわってきました。
もともと司法の世界に身を置く者としても、これは本当にこの深刻な状況に対して国として現状を把握し、そしてこういうことになった原因を明らかにして、反省すべき点は反省し、今後、どういう方向でこういう問題に取り組んでいくべきかということを真剣に考えないといけないと思っていますので、総務省でやれることがあれば、できる限りの取り組みをするというのは当たり前だと思います。今の行政に関する問題の中で、非常に大きな問題、深刻な問題の一つでもあると思います。

ということで、政策評価としてのテーマについての調査検討は現在行われている最中なのですが、この政策評価に対して、法科大学院協会の方から反発する動きがあるわけです。先ほど申し上げた研究会の報告書を公表した段階で、一般に意見を求めたところ、法科大学院協会からも意見が出されています。これに関しては、6月15日付で法科大学院協会のホームページでも、「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価に関する意見」が公表されていますので、これもお配りしています。これを私も読んでみたのですが、率直に言って、この協会の人達は一体何を考えておられるのか、といささか呆れて

いるというのが、率直なところです。今回の政策評価は、今、お話ししたように、今の日本の社会にとって非常に重要な問題である法曹養成、司法を担う人たちの養成の在り方、それについての行政をどうしていくのか、それについて問題があるのだったら、その問題を明らかにして改善をする、という当たり前のことをやっているだけのことです。しかも実際にそういったことに関して研究会を開いて報告書を公表したところ、たくさんの方々が意見を寄せてくれて、非常に高い関心を持たれているのです。多くの人が、今回の政策評価を肯定的に受け止め、期待してくれています。

やはり、今の法科大学院制度、法曹養成制度、そして試験の在り方には、いろいろな問題がある。もっとこういう観点から徹底して調べてほしいということを、法科大学院に今在学している人や修了した人、法科大学院での教育に携わっている人など、実情をよく知っている人からのたくさん意見が寄せられている。まさに本当にこういう行政を巡る問題について、こういったことに関係している人たちが、この法曹養成と法科大学院をめぐる行政というものに重大な問題意識を持って見ているわけです。

ところが当の法科大学院の側に、おそらく一部だと思うのですが、そこに、そもそもこういう調査をすることがおかしい、というような考え方があるようです。

この問題に関しては、そもそも法曹の養成に関するフォーラムというのが、本年5月に設置され、検討が開始されたのだから、そちらのほう任せておけばいいのだと、なぜ総務省などがしゃしゃり出てくるのだということが一つ、言いたいようです。それから、考えられないことに「学問の自由」に対する侵害だというような、予想もしていなかったような、言葉が出てきています。

要は素人が口を出すべきことではないということが言いたいようです。法曹養成などという問題は、専門的な領域の問題であって、それを専門的なこともわからない、総務省の行政評価局の役人ごときが口を出すような問題ではないということが言いたいようです。

私は日本の司法の問題について、今までの司法は、日本の社会では周辺領域でしか機能していなかった。そういう存在であったということを、今まで、コンプライアンスの問題に関連して言ってきました。日常的に発生する問題ではなくて、やや特殊な問題、特異な問題についての後始末をつけるという方向でしか機能してこなかった。社会の中心部で日常的に起きる問題を解決するという機能をあまり果たしてこなかった。それが「二割司法」だとか、「訴訟沙汰」というような言葉が当たり前のように使われることにも繋がっているわけです。

そういうような現状を直していかなければいけない。司法をもっと社会の中心部で機能するようなものにしていかないといけないというのが、司法制度改革の目的のはずだし、そのためには従来、社会の周辺部に閉じこもってきた司法の世界自体を改めていって、社会に対して開かれたものにしていかなければいけない。その世界を変えていかないといけないということだと思います。

ところが今回の法科大学院協会の反応を見てもわかるように、そういう世界の人たちは、今までの司法、自分たちの領域について変えられることを、最初から拒もうとしているとしか思えないのです。

別に総務省がどうのこうのということではなくて、世の中のいろいろなあらゆる目をちゃんと受け入れて、自分たちも変わるべきところは変わっていこう、今までやってきたことに問題があるのだったら、率直に反省してみよう、という気持ちに多少なりともなってくれる人たちなのであったら、こんな反発は出てくるわけがないと思うのです。まさに組織の閉鎖性……組織というよりもその司法の世界全体の閉鎖性がこういった動きに繋がっているのではないか。

今、法科大学院に在学している人、あるいはもう既に法科大学院を修了した人たち、そういう多くの若者たちがこの世界を志した。しかし、実際には、現実は、当初の司法制度改革がめざしていた方向には全然向いていない。そういう状況の中で多くの人が悩み、大変な深刻な状況に置かれている人もいるということに対して、誰が反省するのか、誰が責任を負うのかということを考えたときに、まずは、その閉鎖的自己完結的な司法の世界から全く抜け出せていない、その中に頑なに閉じこもろうとしている人たちが意識を変えてもらわなければならないと思うのです。やはりこういう閉鎖的な組織の問題を、この際、もっともっと世の中に開かれたものに改めていかないといけないということなのではないかと思います。

法科大学院協会から会員校に対して出された文書に「法科大学院制度をはじめとする現在の法曹養成制度や趣旨を否定するための調査が実施されている、と受け取られかねない内容になっているのではないか」というようなことが書いてあります。要するに、現在まで行われてきた司法制度改革に重大な問題があるのに、それを否定する方向での調査をすること自体がけしからんと言っているようなのです。司法制度改革を引っ張ってきた人たちからすると、自分たちがやってきたことを外から批判されることは我慢がならないと言っているとしか思えないのです。

また、そこで学問の自由という言葉が出てきたことには二重に驚きを感じざるを得なかったのですが、大学というのは研究の場であると同時に教育の場です。そして教育ということに対しては、一応、最低限こういうことをやらなければいけないとか、内容などに関しての制限や制約、規制を重ねざる得ない点もあります、教育の質の確保のために。その程度はいろいろだと思います。教育についての自由度も必要だけれど、質を一定程度確保することも必要です。

では、今、法科大学院の教育がどういう方向に向かっているかといったら、完全に自由という方向ではなくて、枠をはめられてカリキュラムの制約の下で個々の教官の自由度がほとんどない方向に向けられているとしか思えないのです。法科大学院ができたときよりもはるかにそういう制約、制限が強められている。そういった状況に置いているのは何かというと、これも制度自体に非常に根本的な問題があるからなのです。司法試験に合格させないといけないということで、法科大学院のほうは司法試験受験対策に走ってしまう。しかしそれだけだと受験予備校みたいになってしまうので、そこで教育内容に相当介入することが、文科省のほうで当然、出てきます。そういったことの中で、自由度が非常に低い方向に向かっているのが現実なのに、こうやって文科省や法科大学院という世界の外から批判される動きに対して、突然、「学問の自由」などという言葉が出てくる。これは本当に内部の勝手な理屈だと思うのです。

こういうような雑音みたいなものにめげず、総務省行政評価局としては粛々と調査を進めていくしかないわけですが、こういった動きが、法律に基づき適正な手続きを経て行われている行政評価、政策評価に対する妨害や調査に協力するなというようなことを公然と言うようなことがあるとすると、これは由々しき事態で、放置できない問題になっていくのではないかということを、私は非常に懸念しています。今後、本当にこの政策評価をきちんと実施して、我々なりに検討の結果を公表し、必要な勧告を行えるようなところに持っていかないといけないと思います。ぜひ、各法科大学院において、しっかり協力してもらいたいと思っています。

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陸山会事件、供述調書証拠請求却下について

民主党の小沢元代表の政治資金を巡る事件で、起訴された元秘書らの主な供述調書のほとんどが証拠請求を却下された。NHKニュース「裁判所 特捜部の取り調べ批判」によると、裁判所は、決定の中で「心理的圧迫と利益誘導を織り交ぜながら、巧妙に供述を誘導した」と指摘し、東京地検特捜部の取り調べを厳しく批判した。

今回の決定は、特捜検察の従来の捜査・取調べの手法に対して、村木事件における大阪地裁の証拠却下決定と同様に、裁判所が正面から否定的な判断を示したものであり、私が「検察の正義」(ちくま新書)、「検察が危ない」(ベスト新書)等で批判してきた一連の小沢事件捜査の暴走に対する司法判断として極めて重要な意味を持つものである。

同ニュースで紹介されている「客観的に見て、収支報告書にうその記載があったことは間違いないので、無罪になることはありえないと思っている。バタバタしてもしかたがないので、淡々と判決を待つしかない」という検察幹部のコメントは概ね正しい。陸山会の不動産取得と代金支払に「期ズレ」があり、石川氏にその点の虚偽についての認識が若干でもあれば、政治資金規正法違反が成立することは否定できないであろう。しかし、その違反は、検察が不当な取調べ手法まで用いて供述調書で立証しようとした違反の動機がなければ形式的な違反に過ぎず、現職の国会議員を当選後初の通常国会の直前に逮捕することを正当化するような違反事実とは全く異なる。量刑面では、検察が予定している求刑を大幅に下回り、罰金刑になる可能性もある。
また、石川氏とは異なり、供述調書以外に犯意や共謀を立証する証拠がほとんどない大久保氏、池田氏については、無罪の可能性が高まったとみるべきであろう。

それ以上に、今回の決定が重大な影響を及ぼすのは、検察審査会の起訴議決を受けて指定弁護士による起訴が行われた小沢氏本人の公判に対してである。
小沢氏を起訴すべきとする検察審査会の議決は、秘書との共謀関係の立証上も、政治資金規正法の解釈上も誤った判断であり、起訴しても無罪は確実であることは、最初の起訴相当議決の段階から指摘してきた。その後、大久保氏の供述調書を作成した前田検事が村木氏の事件で証拠改竄を行ったことが発覚し、石川氏の再聴取で検察官が露骨な「恫喝」「利益誘導」を行ったことが電子レコーダーによる録音で明らかになったこと等で、秘書と小沢氏との共謀に関する証拠はほとんど存在しない状況になり、それが、指定弁護士による起訴手続が大幅に遅延した原因とだと考えられる。小沢氏の公判においても、秘書の供述調書について今回の決定と異なる判断が行われる可能性は極めて低いと思われ、小沢氏の無罪はほぼ確実になったと言える。

私は、小沢氏を支持するものでも擁護するものでもない。小沢氏の過去の政治資金の収入が公共工事利権に基づいていたとすれば、それを明らかにして政治的、社会的に批判することは徒然である。
しかし、実際の「政治とカネ」問題というのは、それを、あたかも検察の捜査に関連づけて小沢氏の犯罪が立証されるような前提で問題にし、政治的に利用してきたものだ。そのようなやり方に対して強い反発が生じるのも当然であり、政権交代後民主党政権内部で混乱が続き、大震災後においても迷走が続いている根本的な原因はも、「政治とカネ」問題による空虚な内部対立である。

今回の東京地裁の証拠却下決定をで小沢氏無罪が確実となったことを重く受け止め、「政治とカネ」問題による誤謬を正し、一刻も早く政治的混乱を収拾する努力をすべきである。

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「不信任案可決なら解散」が最悪のメッセージ

「菅直人首相は不信任案が可決されれば衆院を解散する意向」と報じられている。この姿勢こそが、菅首相に対する不信の最大の原因であることがなぜわからないのか。

震災、原発事故によって危機的な事態であるのに、復旧、復興を担うべき政治が、内閣不信任をめぐる混迷を続けているという異常な事態が生じているのはなぜなのか。倒閣をめざす自民党に同調する小沢グループの動きの背景には、昨年の代表選以来の民主党執行部との確執がある。その根本的な原因は、その代表選を政権交代後の政策論争ではなく「政治とカネ」の呪文による不毛な政争に終始させ、政権与党なのに深刻な党内対立を抱えてきたことにある。しかし、それでも、このような危機的事態において、倒閣の動きが現実化したり、それが多くの議員に支持されることは、本来はありえない。あり得ないこと起きている最大の原因は、「震災、原発事故対応に全力を挙げる」と言っている菅首相に対して、それは口先だけで、実は「何が何でも自分の首相の地位を守りたい」だけなのではないか、という根深い不信感があることだ。震災後の対応の一つひとつから、そのような不信感を生じており、それが、本来であれば、国民としてすべてを託されるべき存在である総理大臣が支持されないという異常な事態を生じさせている最大の原因だ。

そういう意味で、今の菅首相にとって必要なことは、「権力維持」ではなく震災への対応、被災地・被災者の支援を最優先に考えていることを、自らの言葉として明確に示すことだ。
「不信任案可決なら解散」というのは、全く逆のメッセージだ。今の被災地の状況を考えたら、衆議院解散等という選択肢は出てくる余地はないはずだ。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援を心待ちにしている被災者の”被災地の民意”のはずだ。その被災地での投票は現状では事実上困難なことが明らかだ。それなのに、「不信任案が成立したら解散だ」と言うのは、震災対応、被災地対応より自分の権力維持の方が優先することを「自白」しているに等しい。

菅首相が行うべきは、「震災後の現在のような状況では解散などできない。だからこそ、不信任案を否決してもらいたい。私にすべてを任せてほしい。私は、皆さんの信任を受け、自らの命を投げ打って震災対応に全力を尽くしたい」と自党議員にメッセージを送ることだ。
現在の内閣の危機の本質は「菅首相の権力への執着への不信感」にある。その執着から自らを解き放つ言葉こそが、結果的には内閣を守ることにつながるはずだ。

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」菅首相は、今こそ、その言葉を噛みしめるべきだ。

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衆議院の内閣不信任決議をめぐる泥仕合

憲法は、衆議院の内閣不信任決議に対して、内閣の側に衆議院解散という対抗手段を与えている。それ以外の場合の解散は、天皇の国事行為の中に「衆議院解散」が列挙されていることのみを根拠とするもので、そもそも、総理大臣の裁量で無制限に解散権が行使できるのかどうかについては憲法解釈上も議論がある。それに対して、この内閣不信任案に対抗する解散権は、憲法が明文で認めているもので、憲法による三権分立制の根幹をなすものだ。震災のために被災地で選挙ができる状況ではないことを理由に、「不信任案に対抗する解散が行えないから安心して不信任案に賛成を」と与党議員に呼びかける自民党側のやり方は、そのような憲法の趣旨を正面から否定するもので、決して賛同できない。

しかし、一方で、解散を恐れる与党議員に対して、「不信任案が可決されたら解散する」と言って脅しをかける民主党執行部のやり方も、震災からの復旧も遅々として進めまない中、今なお避難生活を送る多くの被災者に対してあまりに無神経である。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援と復興への取り組みを求めている被災者の人達の声ではないのか。その被災者の有権者にどのようにして投票させられるのかすら明らかにしないまま、そして、これまでの震災への対応、原発事故への対応を反省することもなく、「不信任案が成立したら解散だ」とわめいている民主党執行部には、震災復興に向けての政策を論じる資格などない。

要するに、この不信任案をめぐる泥仕合はどっちもどっちであり、まさに国難とも言える日本の状況において、こんな低レベルの政争が行われていることに暗澹たる思いを抱くのは私だけではないであろう。

日本の政治が、なぜ、このような絶望的な状況になってしまったのか。その根本的な原因が、昨年9月の民主党代表選にある。
政権交代後1年、政権与党として取り組むべき課題に正面から向き合い、改革の具体的ビジョンを提示し、堂々と政策論議を行うべきであった民主党代表選を、「政治とカネ」という意味不明の呪文で埋め尽くし、不毛な党内抗争の場にしてしまったことが、政権与党内部に決定的な対立構造を作る結果を招いた。その産物として成立した内閣には、重要な政策課題に正面から取り組むための政治基盤自体が失われていたと言うべきであろう。
このような空虚な政治構造を脱却しなければ、震災からの復興はおろか、日本という国の未来はない。

今、日本の政治には、完全に行き詰った既存の構造とは次元を異にする、全く新たなパラダイムの創造が求められている。

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畑村「失敗学」についての理解を

畑村洋太郎教授が、福島原発事故の「事故調査・検証委員会」の委員長に就任することが発表された。

6年前の著書「コンプライアンス革命」の中で、私のコンプライアンス論は『畑村洋太郎先生の「失敗学」の「コンプライアンス・バージョン」』であると述べているように、コンプライアンスは「法令遵守」ではないという発想自体が、畑村先生の示唆から生まれたものであり、畑村・失敗学と郷原コンプライアンス論とは極めて深い関係にある。
これまで、私も、危険学プロジェクトなど畑村先生が企画された多くの活動に参加してきたし、畑村先生にも、コンプライアンス研究センターでの事故防止に関するシンポジウム等の多くの企画に参加して頂いた。
そのような畑村先生の「失敗学」をベースにして、今回の福島原発事故の原因・背景を考えていくことには極めて大きな意義があることだと思う。

しかし、注意しなければならないのは、畑村・失敗学は、従来の事故原因調査等とは考え方が全く異なるということだ。
事故の発生や拡大に関係する様々な要因を抽出し、そこから「本質安全」への道筋を明らかにしていくというのが「失敗から創造へ」という畑村・失敗学の基本的な考え方であり、「誰が悪かったのか、誰の責任か」ということは問題にしない。そこで、明らかにされる事実というのは、「そういう発想で事故原因を考えることが、安全につながる」という一つの「仮説」であり、事故原因と結果の因果関係を実証することではない。

畑村先生を中心とする委員会の調査・検討が、今回の原発事故問題への対応や、今後の我が国の原発をめぐる政策に、活用されるためには、このような畑村・失敗学の基本的な考え方が調査に携わる関係者に理解されるだけではなく、国民に受け入れられる必要がある。
今後、委員会が立ち上げられ、そこでの議論が、必要に応じて公開されるであろうが、それを、従来の事故調査のような責任論や法的原因論の観点でとらえると、大きな違和感を生じることになる。

まず、「失敗学」の考え方について認識を共有することが必要だ。

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公取委は一体何をやっているのか

今日の記者会見で、菅首相が、電力会社から送電部門を切り離す発送電分離を検討すべきだとの考えを示した。原発事故を契機とする電力供給分野の競争構造をめぐって議論が本格化しようとしているのに、公取委の動きが全く見えないのはどういうことなのか。

今回の、電力自由化の問題は、日本の経済社会における競争政策に関しても極めて重要な問題だ。まさに競争政策官庁である公取委の出番なのに、一体何をしているのか。
震災によって日本の社会は不連続的な変化を遂げた。競争政策も同様だ。震災復興における公共工事の在り方も、効率性、合理性という観点が不可欠だ。発注数年前までの、談合排除論一辺倒の競争政策は、ほとんど役に立たない。
そういう意味で、競争政策において最も重要な問題は電力の自由化を、安定供給上の阻害、地域的な価格の非対称性などの問題をクリアしつつ、いかに競争のメリットを拡大していくのかが、今後の競争政策における重要な課題のはずだ。

公取委は、まさに、そのような重要な競争政策上の問題に関して、その真価を発揮すべきだ。ところが、談合排除に浸りきってきた公取委には、そういう方向への発想の転換ができないようだ。このままでは、公取委は霞が関の中のガレキと化してしまうだろう。
竹島委員長には、競争政策官庁のトップとしての鼎の軽重が問われている。

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菅首相の浜岡原発全面停止の要請に関するコメント

菅首相の浜岡原発全面停止の要請に関するコメントを追加します。

私は、浜岡原発については、今回の震災直後から、福島原発と同様の事故が起きる可能性が否定できない限り、ただちに停止すべきだと言ってきましたし、今回の菅首相の全面停止要請に関しても、原発を止めること自体は「正しい」とコメントしています。

ただ、問題は、そのやり方です。このような形で総理大臣が中部電力に原発停止を要請することに法律上の根拠がないだけでなく、どのような場合に、このような超法規的措置が行えるのかの「ルール」が示されていないことに問題があると言わざるを得ません。

①大地震の確率が高い、②国民生活への影響が大きい、ということが理由とされていますが、①については、もし、他地域で大地震の具体的予兆が表れ、「30年以内」にかなりの確率で大地震・大津波の発生が予想されるとの見解が、それなりに権威のある機関から出されたとき、その付近に立地する原発はどうするのでしょうか。また、菅首相は防潮堤が建設されるまでの間の停止だということを強調していますが、それは、裏を返せば、防潮堤完成後は、原発の稼働を認めることに総理大臣として事実上「お墨付き」を与えたことになります。その判断は、十分な検討の下に行われたと言えるのでしょうか。

今回の要請は、震災後約2カ月で出されたものですが、原発停止要請について、何らかのルールを作った上で、最も危険な原発である浜岡について、まず停止要請を出すというのであればともかく、今回のように、突然、「総理大臣の判断」を強調して、本来は私企業の経営判断に属する事項に強権的に介入するというやり方をとったことは、法に基づく国家の運営、ルールに基づく問題解決、というこの社会の基盤を崩す、という別の面の重大な問題を生じさせかねないことを、私は懸念しています。

大震災による急激な社会の変化の下では、既存の法令を遵守することだけでは到底適切な対応はできません。しかし、それはルール無視で勝手にやっていけば良いということではなく、その時々の状況に適合したルールを形成しながら、対応し、問題を解決していくことが必要だと思います。浜岡原発問題についても、日本の社会が原発を今後どうしていくのか、という極めて重要な問題に直結するだけに、結論の正しさと同時に、総理大臣としてのパフォーマンスより「ルールの創造」を大切にしていく姿勢が必要だと思います。

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注目される次の一手

菅首相の浜岡原発全面停止の要請、かねてから重大な危険が指摘されていた浜岡原発の運転の停止を求めたこと自体は正しいと思う。
しかし、今回の要請が、日本の原発問題の解決に向けての「英断」となるのか、逆に、原発をめぐる社会の混乱をさらに深めるものになるのか、昨日の会見での発言を聞いただけでは判断できない。菅首相の「次の一手」が注目される。

問題は二つある。第一に、浜岡以外の他の原発をどうするかという問題だ。昨日の会見で、菅首相は、浜岡原発が震源域に含まれる東海地域で30年以内にM8程度の東海地震が発生する可能性が87%と極めて高いこと、原発事故が起きた場合に国民生活に重大な影響が生じることなど「浜岡原発の特殊性」を強調した。しかし、今回の東日本大地震も地震学者が予想とは異なるものだった。現在の地震予測には、浜岡と他の原発の質的相違の根拠となるだけの信頼性はない。今回の浜岡原発の運転停止要請が他の原発をめぐる議論に重大な影響を与えることは避けられない。

この点は、原発に代替する電力供給源という、もう一つの問題にも関連する。
菅首相に続く海江田経産大臣の会見で、火力と揚水発電、それでも足りなければ関西電力からの電気の融通を受けられるとの見通しが示されたが、関西電力は原発比率5割を超える最も原発依存度の高い電力会社だ。管内の電力需要を賄った上に中部電力に電気を融通するとすれば、敦賀の原発をフル稼働することが必要となる。
福島原発事故がいまだに収束できず、敦賀のもんじゅも大トラブルに見舞われているときに、果たしてそのようなことが可能なのか。結局のところ、原発に代わる代替エネルギーの開発について、従来の電力会社の発想を超えた新たな施策を打ち出すこと、節電についても、自動販売機による電力消費の削減、パチンコ店の営業規制などの抜本的な対策を講じることが、浜岡原発停止による電力不足問題は解決のために不可欠である。

昨日の菅首相の浜岡原発運転停止要請は、取り敢えず「最も危険で最も重大な影響のある原発を止める」ということだけにしか目が向けていないように思える。その判断自体は正しい。しかし、その正しい判断は、他の原発をめぐる問題や、電力需給全体の問題に重大な影響を及ぼし、原発に支えられてきた日本の電力事業の構造をめぐる議論にも直結することは避けられない。
菅首相が、そのような議論に踏み込む覚悟もなく、パフォーマンスで「思いつきの決断」をしたのだとすれば、今後、原発問題をめぐって収拾のつかない重大な社会的混乱を生じることになりかねない。

「次の一手」として、福島原発での失敗を踏まえた原発政策全体について明確な方針を示すこと、東電の賠償問題にも関連する発送電分離等の電力事業の自由化問題について方向性を示すこと、などを打ち出すことができるか、首相としての鼎の軽重が問われている。

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啞然とした堀田力氏の発言

今朝のテレ朝の「やじ馬」、河野太郎議員が出演、東電の現状のままの存続を前提とし、電気利用者に負担を転嫁する政府の原発事故賠償スキームを批判。発送電分離、送電設備売却の提案は、私の提案とほぼ同じ。核燃料サイクルの破綻を踏まえて、2050年までに原発を全廃して自然エネルギーに転換するという現実的な選択肢を提示、全体としてわかりやすい説明だった。

一方、昨夜のNHKニュースW9には、検察OBで「さわやか福祉財団」堀田力爺が登場。10分以上にもわたって延々とインタビューが続いた。
主たる内容は、「震災への義援金、ボランティアの動きは、阪神淡路大震災との時以上。被災者支援のために力を合わせようとする日本人の心を感じさせる」というものだった。驚いたのは、その後、復興財源確保のための増税に30%以上もの人が賛成していることに話が及び、堀田爺は、それも「復興のためにお金を出しても良い」という美しい気持ちの表れだと言いだしたこと。それに聞き手が調子を合わせ、増税に反対している政治家に話が及ぶと、堀田爺は、醜悪なものを見るように顔をしかめる。国民は、義援金、ボランティアに精を出し、お上が言うことには文句を言わず、復興にお金がかかるのであれば、言われる通りに大人しく税金を払えば良いという話。被災者のための自己犠牲の精神と、復興のための国財源をどう調達するかという政治的判断とは全く別の問題のはず、それを敢えて同一視させようとする堀田発言とインタビューを放映したNHKには露骨は政治的意図を感じる。

そう言えば、堀田氏が、最近「マスコミ市民」という月刊誌のインタビュー記事で、唖然とするような発言をしていたことを思い出した。尖閣の中国人船長の釈放問題について聞かれて、「あれは検察が政府の陳情に応じて釈放したもの。指揮権の問題ではない、陳情したかと政府に聞けば、したと言うはずだ」などと答えていた。この人の頭の中では、「検察の正義」(それを用心棒とする官僚機構)中心に世の中が動くべきで、政治家ごときが口を出すことが間違いだという考え方が、加齢によってますます凝り固まってきているように思える。

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