「やらせメール」問題九州電力問題最終報告について

一昨日の「やらせメール」問題九州電力問題最終報告、真部社長の「郷原委員長にはもうこだわってほしくない。もう委員長ではないのだから」という言葉には、あまりに本音が露わになっていて、怒りを通り越して、思わず失笑してしまった。

それにしても、枝野経産大臣の対応は、素晴らしかった。

「公益企業のガバナンスとしありうるのか。理解不能」という簡明なコメントも実に適切だったが、それ以上に注目すべきは、従来の経産省では考えられない電力会社の報告へのる対応方針。

従来であれば、電力会社側の報告に何か問題があれば、事前に「指導」をして、了解できるレベルに調整しているはずで、九電側は、「指導」がなかったので、そのまま受け入れてもらえるものと思っていたはずだ。前日の夜、私が電話で話した九電の担当部長は、私が報告書を送れと言っても「上の指示」だと言って拒絶したが、その際、酔っぱらって上機嫌だった。さすがに第三者委員会にも文句を言われない報告書ができたので、公表されたら見てほしい、という感じだった。エネ庁長官に最終報告書を手渡した直後にぶら下がり取材に応じた真部社長は、「余裕の笑顔」すら浮かべていた。その後、経産大臣から、あのような厳しい批判が行われるとは、全く予想もしていなかったようだ。

政務三役の対応を、事前の事務方の対応と切り離し、九電側に自己責任で報告内容を決めさせた後に、それを受けて政務三役側が適切な判断を示すというやり方が、従来にはなかった、透明で、わかりやすい手法だった。まさに、新たな、政治主導の監督行政の形が示されたと評価すべきだろう。

4年あまり前、不二家問題に関するTBSの捏造報道疑惑を衆議院の決算行政監視委員会で、枝野議員が取り上げ、私が参考人として意見陳述した際、ネットの世界で「枝野GJ」という賞賛の声が大きく盛り上がった。あの時から、枝野氏の法律家でもある政治家としての能力はずって評価してきたが、今後の、九州電力問題への対応、そして、電力問題への対応への対応には、引き続き期待したい。
明日は、佐賀県議会の特別委員会に参考人として出席する。そのために、今日は既に福岡に入っている。

「原発立地県と原発事業者との不透明な関係が問題の本質」と指摘する第三者委員会報告書を委員長として取りまとめた者として、社会的責任を果たすべく、しっかり答弁してきたい。

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東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図

殺人事件と政治資金規正法違反事件、全く異なった性格の事件のように思えるこの二つの事件だが、有罪判決が出されるまでの経過に、重要な共通点がある。

それは、裁判所が、審理の過程で起訴事実の認定そのものとは違う事項について判断を求められ、そこで一定の判断を示したことが、事実上、最終的な裁判所の判断を決定づける結果になり、裁判所が誤った認定を行うことにつながってしまったという構図だ。

東電OL事件の逆転有罪を決定づけた再勾留の判断

東電OL事件では、東京地裁の一審無罪判決で被告人のゴビンダ氏の勾留が一度失効し、不法滞在による母国ネパールへの強制退去の行政手続きが開始されることになった。

しかし、検察は控訴した上。「ネパールへの出国を認めて送還した後に逃亡されてしまうと、裁判審理や有罪確定時の刑の執行が事実上不可能になる」として、裁判所に職権による再勾留を要請した。

刑事被告人には無罪の推定が働く。その被告人が勾留され、身柄を拘束されるのは、罪を犯したと疑う十分な理由があり、なおかつ、「逃亡の恐れ」又は「罪証隠滅の恐れ」がある、という事由が存在している場合に限られる。一審で無罪判決を受けた場合には、無罪の推定が一層強く働くので、それまでの勾留は失効する。再勾留が認められるとすれば、一審の無罪判決に明白な誤りがあるとか、判決後に、有罪を決定づける新証拠が見つかったというような場合に限られる、というのが常識であろう。検察も法律家の集団であり、そのような常識が働かなったわけはない。一審で無罪判決を受けたゴビンダ被告人の再勾留を請求することに対しては検察内部で消極論もあったはずだ。しかし、検察は、再勾留を求めることを組織として決定した。それは、「無期懲役を求刑した事件に対して一審で無罪判決が出て、そのまま引き下がるわけにはいかない。」という検察の威信・面子にこだわる「組織の論理」が最大の理由だったものと推測される。

それに対して、東京地裁と、東京高検の要請を受けた東京高裁第5特別部は、勾留を認めなかった。「法律家としての常識」からすると当然の判断だ。

しかし、控訴審が係属した東京高裁刑事4部は、勾留を認める決定を行った。それがいかなる理由なのかは、わからない。しかし、「法律家の常識」に反する判断が行われたことの背景に、検察の組織の論理が、裁判所に相当なプレッシャーとして働いたのではないかと思われる。弁護側は、異議申立てを行ったが、東京高裁刑事5部は異議申立てを棄却して勾留を認める。弁護側は、最高裁に特別抗告をしたが、最高裁は「一審無罪の場合でも、上級審裁判所が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断できる場合は被告人を拘置できる」として3対2で特別抗告を棄却した。そのために、結局、被告人のゴビンダ氏は再勾留されることとなった。重要なことは、ゴビンダ氏の勾留を認めたのは、控訴審が係属する高裁の裁判部である東京高裁刑事第4部だということである。同裁判部が「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」があると判断したことから、その後の、異議申し立てについて判断した東京高裁刑事5部も、特別抗告を受けた最高裁も、その刑事第4部の判断を尊重し、再勾留の決定が最終的に維持された。

つまり、その後に、控訴審の審理を行うことになる裁判部が、被告人の身柄拘束を続けるかどうかの判断に必要な「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の有無について、自らの責任でそれを肯定する判断を行ったということなのである。そのような、控訴審裁判部の判断のために、外国人である被告人は、一審で無罪判決を受けたのに身柄拘束が係属され、引き続き身柄を拘束され、母国に帰ることができない、という著しい人権侵害を受けることになってしまった。

このような判断を行った控訴審裁判部が、控訴審判決で一審の無罪を維持して、検察の控訴を棄却する判決を出すことができるだろうか。控訴審無罪の場合、再勾留を認め、一審無罪判決後に身柄拘束を続けた裁判所の判断に批判が集中することになる。そのような批判を覚悟の上で控訴審裁判部が無罪判決を出すことは、事実上考えられない。

ということは、この事件では、控訴審裁判部が再勾留を認めた段階で、身柄拘束についての判断という、本来は、有罪無罪の判断とは異なる事項についての判断を示した段階で、事実上、逆転有罪が確実になっていたと言わざるを得ないのである。

では、その再勾留の判断は、控訴審としての最終的な判断を先取りして行えるほど、十分な審理に基づいて行われたものであろうか。その時点というのは、一審の無罪判決が出て、検察が控訴した後、控訴審の審理が始まる前である。検察の控訴趣意書提出までには通常2か月はかかるので、まだ、一審判決のどこにどのような問題があるのか、についての検察官の主張すら明確になっていない。証拠関係は、無罪という裁判所の判断が出た一審と全く変わらないのである。それなのに、その時点で、同じ証拠関係に基づいて、無罪という一審の判断を覆し、有罪の判断を行うことを、事実上決めてしまったというのが、この時の控訴審裁判部なのである。

今、この事件のDNA鑑定などに関して新たな事実が明らかになり、控訴審判決の有罪判決に重大な疑問が生じている。もし、この事件が冤罪だということなった場合、一審で無罪判決を受けて「無罪の推定」を一層強く受ける外国人の被告人を、不当に身柄拘束を続け、一審無罪という正しい判断を控訴審で覆して無期懲役判決という重大な人権侵害の判決を行われたことになる。再勾留の判断を控訴審裁判部が行った段階で、その控訴審での有罪判決が事実上決定してしまった、という判断のプロセスに重大な問題があったと言わざるを得ない。しかも、そのプロセスで裁判所が誤った判断を行った原因は、検察が「組織の論理」に基づいて「組織として決定」したことに裁判所が従ったという構図にあるのではないかと考えられるのだ。

陸山会政治資金規正法事件における共通の構図

全く性格の異なる事件であるが、陸山会政治資金規正法違反事件の一審で、刑事裁判の常識に反する判決が出た。そこにも、東電OL事件と同様に、有罪無罪とは別の事項について、裁判所が行った先行判断によって、最終的な裁判所の事実認定を事実上決定づけてしまったという構図が存在している。

この事件では、公判前整理手続の段階で最大のポイントになったのは、水谷建設から陸山会への合計1億円のヤミ献金立証のための証人尋問請求を認めるのかどうかだった。

水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても(それ自体が極めて疑わしいことは、私がこれまで著書等で指摘しているところだが)、そのヤミ献金の事実と、起訴事実の陸山会の収支報告書の4億円の虚偽記入との関連性を示す証拠は全くなかった。検察官は、ヤミ献金を隠すために虚偽記入をしたとして、ヤミ献金が虚偽記入の動機・背景だという主張したが、そもそも、被告人の石川知裕氏も大久保隆規氏も、そのヤミ献金の事実を全面的に否認しており、それを隠すことが動機になって虚偽記入が行われたという証拠は全くない。ヤミ献金と虚偽記入を結び付けるのは、憶測、推測、こじつけしかなかった。しかも、そのヤミ献金の事実は検察が捜査の対象にして、結局起訴できなかった「余罪」である。

このような「余罪」を立証しようとする証人尋問請求を認めることが、いかに不当なことか、次のような事例と比較してみたらわかるであろう。

A被告人はBを殺害した事実(1事実)で起訴されたが、殺人の事実を全面的に否認している。そのAが起訴事実より前にもBを殺害しようとして未遂に終わった容疑事実(2事実)があって、その事実について徹底した捜査が行われたが、結局容疑が固まらず起訴されなかった。

この事例で、Aの殺人事件の公判で、1事実の動機・背景として、2事実の殺人未遂の事実を立証することが許されるだろうか。それは、起訴していない2事実を1事実の公判で立証して処罰しようとしているのに等しく、刑事事件の「不告不理の原則」(検察官が起訴していない事実は審理の対象とされないとの原則)から言っても許されないことは明らかである。

不起訴に終わった余罪を公判立証することの異様さ

陸山会事件でも、もともと捜査の主題となっていたのは、この水谷建設からのヤミ献金の事件だった。マスコミでもその疑惑が大々的に報道され、検察の捜査の労力と時間の大半がこのヤミ献金の捜査のために費やされた。しかし、結局、このヤミ献金についての政治資金規正法違反事件の証拠は固まらず、検察は立件を断念、世田谷の不動産の取得に絡む4億円の虚偽記入だけで石川氏を起訴したのである。

その石川氏らの公判で水谷建設からのヤミ献金の事実を、虚偽記入の動機・背景として立証しようとするのは、Aの公判で、前記の1事実の殺人の背景として2の殺人未遂事件を立証しようとするのと同じことである。

本来であれば、そのような証人尋問請求は、裁判所の判断としては絶対に認める余地はなかったはずだ。しかし、東京地裁は、検察官が強く求めたこの証人尋問請求を最終的に認めてしまった。つまり、水谷建設のヤミ献金と4億円の虚偽記入とが関連性があるという判断を、その時点で行った。

そうなると、判決で、ヤミ献金と4億円の虚偽記入との関連性を否定する判断をすることは、先行して行った自ら判断を否定することになる。そのため、裁判所としては、どうしても、ヤミ献金の事実が虚偽記入の動機・背景になっているという認定をせざるを得なくなったのであろう。4億円の収支報告書虚偽記入の動機について、石川氏が、水谷建設のヤミ献金問題をマスコミから追及されるのを恐れ、世田谷の不動産の取得時期と代金の支払時期を、胆沢ダムの入・開札に近い時期ではなく、次の年にずらして記載したと認定したのである。

この判断がいかに常識からかけ離れたものかは、マスコミ報道の現状を少しでも認識している人間であれば、明白であろう。

もし、同不動産の取得と代金の支払について、実際の取得時期、支払時期のとおりに記載されていたとすれば、政治資金規正法上は全く適法である。胆沢ダムの入・開札に近い時期に4億円近くの高額の不動産の取得の事実を収支報告書で公開しても、それだけで、水谷建設からのヤミ献金疑惑の追及を受けることは考えられない。ヤミ献金というのは、その事実が表に出ないようにしてやり取りを行うからこそ「ヤミ」献金である。ある政治家側が「口利き」をした疑惑が指摘されている大型工事の発注の時期と、その政治家の政治資金収支報告書に多額の現金の政治資金の動きが記載されている時期とが重なっていたとしても、それだけで、ヤミ献金の疑惑を報じることができるほど甘いものではない。ヤミ献金疑惑であれば、そのヤミ献金が実際に行われたことを誰が証言しない限り、それを報道しても、名誉棄損で提訴され、確実に敗訴する。そのことは、その種の調査報道を行っているマスコミ関係者であれば容易にわかるはずだ。

水谷建設のヤミ献金の事実が仮にあったとしても、その後、同社の会長が脱税事件で逮捕・起訴されたり、仮釈放間際の受刑中にヤミ献金の事実を供述したりすることがない限り、そのような疑惑が表面化することも、マスコミ報道の対象にされることは、あり得なかったはずである。

このような水谷建設からのヤミ献金疑惑がマスコミに追及されることを恐れて4億円の収支報告書の記載をずらしたということは常識から判断してあり得ないことである。

どうしてこのような明らかに不合理な認定が行われたのか。裁判所としては、無理やりにでも、水谷建設のヤミ献金が4億円の虚偽記入の動機・背景になったと認めなければ、検察官の証人尋問請求を認めた自らの判断が間違っていたことを認めることになる。それが、マスコミ報道の常識から考えて明らかに不合理な事実認定を裁判所が行うことにつながったとしか考えられないのである。

特捜部の面子をかけた冒頭陳述案に「根負け」した最高検

私が、某検察幹部から聞いた話では、そもそも、水谷建設からのヤミ献金について石川氏らの公判の冒頭陳述に記載することに対しては、検察内部でも強い異論があったようだ。捜査を進めてきた特捜部は、石川氏らの公判で、水谷建設からの1億円のヤミ献金を、政治資金規正法違反事件の動機・背景として冒頭陳述に記載して立証することを強硬に主張した。小沢氏の起訴が果たせなかったが、そのかわりに、ヤミ献金の事実を石川氏らの公判で冒頭陳述書に書けば、マスコミがそのまま報道し、それによって小沢氏にダメージを与えることができるという思惑からであろう。

しかし、最高検側は、水谷建設のヤミ献金の問題と4億円の虚偽記入とは関連性がないとの理由で、冒頭陳述案から削除するように指示した。ところが、特捜部は諦めない。また、水谷ヤミ献金の事実を記載したままの冒頭陳述書案を最高検に上げる、最高検から削除するよう重ねて指示されても、またその事実を書いたまま案を上げる、ということを繰り返しているうちに、最高検サイドも、最後には根負けして特捜部の冒頭陳述案を了承してしまった。「どうせ関連性のない立証を裁判所が認めるわけがないから、書くだけ書かせるしかない」という判断になったのであろう。

こうして、陸山会事件の冒頭陳述に水谷建設ヤミ献金の事実が記載されることとなり、検察は、公判前整理手続きで、その冒頭陳述書を前提に、水谷建設関係者の証人尋問を請求した。検察が立証方針を決める段階で、特捜部の面子をかけた「無理筋」が通ってしまったのである。

起訴事実と関連のない立証を認めた結末

本来、そのような起訴事実と関連性のない証人尋問請求は認められるべきものではない。弁護側も強く反対した。しかし、冒頭陳述書記載の事実の立証のために必要だと検察官が強く求めてくる証人尋問請求を却下することは、いかに、その請求が起訴事実との関連性についての判断として、常識を逸脱するものであっても、どうしても裁判所にはできなかったのであろう。いかに刑事司法の常識からはかけ離れたものあっても、検察司法の中核機関である検察が組織として決定し、当然行うべきと主張している証人尋問請求を却下することに、裁判所としては相当な抵抗があったのであろう。

結局、裁判所は、検察の「無理筋」の立証を認め、水谷建設関係の証人尋問請求を容認してしまった。そうなると、判決でも、その判断を前提とする認定を行わざるを得ない。それが、水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記入の動機だったという、凡そ理解しがたい判決の事実認定につながったものと思われる。

そして、虚偽記入の動機をそのように認定しようとすると、判決の事実認定は、全体的に大きく影響を受けることになる。

石川氏については、捜査段階の供述調書の多くが証拠請求を却下されても、政治資金収支報告書に、不動産代金の支払時期について客観的事実とは異なった記載をしている以上、「無罪」にはならないであろうと私も予測していた。ただ、それは、陸山会の事務手続き上のミスか、小沢氏に、不動産取引に関する事情をよく知らされていなかったために、よくわからないまま記載した理解不足によるもので、政治資金規正法違反の動機として悪質なものとは言い難く、量刑としては、むしろ罰金刑程度が相当ではないか、というのが私の見方であった。

ところが、「水谷建設からのヤミ献金を隠すことが虚偽記入の動機」ということを前提に事実認定をしようとすると、全く別の判断になる。まず、石川氏については、4億円の虚偽記入やミスとか理解不足などというものであってはなく、公共工事の口利きの対価であるヤミ献金を隠す意図から行った、まさに法の趣旨に著しく反する、悪質極まりない動機ということにせざるを得ない。

それは、前記のAの殺人の例で言えば、起訴事実の1の殺人についての証拠関係では、Aの行為とBの死亡との因果関係も殺意も立証できず「傷害」の認定にとどまったが、起訴されていない2の殺人未遂の事実について証人尋問まで行って殺意を認定し、それを考慮して、1の殺人の事実についても悪質な動機による犯罪と認定して重く処罰するのに等しい。

暴力団犯罪、過激派犯罪と同様のレベルの認定

そのような「水谷ヤミ献金動機・背景認定」による汚染は、それだけにとどまらない。私は、前田元検事がとった大久保氏の調書の任意性が否定され証拠請求が却下された以上、同氏の無罪はほぼ確定的だと見ていたが、判決の判断は全く異なる。

ヤミ献金が胆沢ダムの工事受注の対価だとすると、その「口利き」を行った大久保氏こそが悪事の張本人ということになる。何とかして有罪の認定をしないと収まりがつかない。そこで、石川、大久保、池田の3氏の間の共謀や犯意を「推認」に次ぐ「推認」で認定する。結局、判決全体が、「推認」、「推測」で埋め尽くされているが、その背景にあるのは、「水谷ヤミ献金動機・背景認定」であり、それは、「小沢事務所は、公共工事で『天の声』を出して『口利き』をして対価を受け取る、まさに公共工事の利権を食い物にしている違法集団」という認識を背景にしている。それは、さながら「反社会的行為を目的としている暴力団」「テロ、ゲリラによる暴力革命を目的にしている極左暴力集団」による犯罪の認定のような「極めて希薄な証拠による認定」に近いものである。

今回の陸山会事件判決の要旨を、刑事の実務の経験があるものが読めば、誰しも、その民事判決並みの推認だらけの認定が、刑事事件判決として行われていることの異様さに驚くであろう。

しかし、その判決を出した裁判官3人が、特に異常な考え方とか性格の持ち主だとは思えない。普通の裁判官であっても、今回のような異様な判決を行ってしまったそもそもの原因は、起訴事実との関連性がない証人尋問請求を認めてしまったところにあると考えらえる。

それは、刑事司法の中核たる機関として良識を持って判断すべき検察が、そのような関連性のない立証を行う方針を組織として容認してしまったことに根本的な原因がある。

そこには、証拠不十分のため、捜査で目的を果たせなかった特捜部の現場が、面子にかけて水谷ヤミ献金立証にこだわり続け、最後には最高検が「根負け」する形で、認めてしまった刑事司法の常識に反する立証が招いた結果なのである。

東電OL事件が冤罪であることが明らかになれば、「無罪の推定」に著しく反する身柄拘束を継続して外国人に対する著しい人権侵害を行った事例として、日本の司法の汚点になることは必至である。

それと同様に、陸山会事件判決は、刑事事件の常識に反する立証を認めたことが、最終的に「『推認』に埋め尽くされた異様な判決」につながり、政治的に重大な影響を与えた例として、これもまた、日本の司法の重大な汚点になる可能性がある。

そして、両者には、組織としての威信・面子にこだわったために、健全な常識には反する検察の組織としての決定が行われたという共通の構図がある。

東電OL事件の再審がどうなるのか、陸山会事件一審判決が控訴審でどのように審理され、どのような判断が行われるのか、今、大きく揺れ動く日本の刑事司法の行方を占うものと言えよう。

(初出:メルマガ  http://www.comp-c.co.jp/pdf/111005.pdf

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「鉢呂経済産業大臣辞任」の不可解

野田新内閣の経済産業大臣に就任した鉢呂吉雄氏が、就任9日目で辞任した。
理由は、①福島第1原発を視察後、議員宿舎に帰宅した際、報道陣の一人に防災服の袖をつけるしぐさをし「放射能をつけてやろうか」と発言したこと、②翌日の記者会見で原発周辺の市街地を「死の町」と表現したこと、の二つだ。

どうして、このようなことで、経済産業大臣という重要閣僚が、しかも就任直後に、辞任しなければならないのだろうか。
しかも、発言の事実関係や意図・動機等はほとんど明らかにならないまま、あっという間に辞任会見が行われた。全く不可解というほかない。
まず、①の言動は、確かに子供じみたものではあるし、原発事故被災者が知れば不快に思う軽率な行動と言えるだろう。しかし、防災服の袖をつける」と言っても、原発施設内に入る時には、防護服に着替え、出た後には厳重な除染を行うことは、経産省担当記者であれば認識しているはずであり、「袖をつける」というのが、「放射能をつける」ことにつながるというのがよくわからない。その行動が、どれだけの悪意によるものか、或いは、鉢呂氏本人の「放射能」への無神経さを表すものなのかは、前後の状況、発言時の本人の態度等を明らかにしないと判断でないはずだ。しかし、昨夜の辞任会見でも鉢呂氏は、「そういう発言をしたと確信を持っていない」と述べており、一方、鉢呂氏からそのようなことをされた相手の記者の具体的な証言は全く出て来ないし、そもそも、その記者が一体誰なのかもよくわからない。
②の発言も、私には、それがなぜ問題なのか、よくわからない。原発周辺の市街地が「死の町」であることは客観的事実だ。我々は、今後も、容易には「生きた町」に復活させられるとは思えない「死の町」を作ってしまったことを真摯に反省し、被災者への賠償、事故の再発防止対策を行い、今後の原発をめぐる議論を行っていかなければならない。そういう意味では、「死の町」というのは現実であり、それを視察した大臣が、その通りに発言することが、どうしてそんなに悪いことなのだろうか。

私は、今年5月、初めて、大震災・大津波の被災地陸前高田を訪れ、その被害の凄まじさに立ち尽くした。一本松が『希望の松』として残ったのではなく、一本の松を残して、一つの市がすべて破壊し尽くされたとしか思えなかった」と、「感じたまま」をその時のツイートに書いた。私は、その壊滅した陸前高田の現実的な復興プランを考えるためには、まず、この被災地の現実を直視しなければならない、ということだと思った。そういう私の「一本松は『希望の松』には見えなかった」という発言も、被災者の方々に対して「不適切」だったのだろうか。
原発事故で被災した町を「死の町」と表現するかどうかではなく、その現実をどう受け止め、今後、そういう事態を二度と起こさないためにどうしようとするのかが、問題なのではないのか。

しかし、私は、今回の辞任問題について、鉢呂氏を「被害者」視する気も、擁護する気も全くない。最終的には辞任を決断したのは鉢氏本人だ。どうしてこのようなことで、事実関係のろくな説明もないまま、辞任しなければならないのか、閣僚としての責任感はどうなっているのか、その程度の人物なのであれば、経産大臣を続けていても、ろくな仕事はできなかったであろう。
このようなことで重要閣僚が就任直後に辞任するという事態は、日本の政治が、「末期症状」を通り越して「脳死状態」に陥っているということなのではないだろうか。

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原発をめぐる「やらせ」問題とタウンミーティング問題の関係 ~国、自治体の関与と「世論誘導」の疑い~

国主催の説明番組(今年6月26日放映)の九州電力の投稿依頼(「やらせメール」)の問題の表面化を受けて、経産省の指示によって行われた各電力会社の調査の結果、経産省側が電力会社に対して原発説明会への動員、発言要請を行っていた事実が明らかになり、経産省も独自に第三者委員会を設置して調査に乗り出すなど、原子力発電所をめぐる問題に関する「やらせ」の問題が大きな社会的関心事となっている。

九州電力では、上記説明番組に関して、7月27日に、私を委員長とする第三者委員会を設置したが、その後、同番組の開催を要請した佐賀県の古川知事や主催者の経産省資源エネルギー庁の担当官が同番組への投稿要請に関わった疑いが表面化している。

一方、北海道電力では、2008年に開催された北海道主催の「プルサーマル計画に関する公開シンポジウム」に関して、同社が、社員に対してシンポジウムへの参加や推進意見を述べることを要請するメールを送っていた、新たな「やらせ」問題が表面化している。

しかし、このように原発説明会等の「やらせ」の問題に対して社会的な批判が強まる一方で、そのような「やらせ」と言われる行為が、電力会社側にとって、或いは、国、自治体にとって、なぜ悪いのか、どこに問題があるのか、という点について十分な議論が行われているとは言い難い。

今後、定期検査によって停止中の原発再稼働の是非をめぐって議論が行われるためにも、この点についての議論を整理しておく必要がある。

この問題に関して、無視することができないのは、2005年10月末に表面化した国主催のタウンミーティングをめぐる「やらせ問題」である。小泉政権の一つの目玉として実施された閣僚等と国民との対話の場としてのタウンミーティングで、主催者の国の側から予め発言者が予定され、発言要請等が行われていたというこの問題は、当時、大きな社会的問題となり、内閣府に副大臣を座長とするタウンミーティング調査委員会が設置され、事実関係の詳細な調査及び検討・議論が行われた(その成果は、同委員会報告書として公表されている)。
http://www8.cao.go.jp/taiwa/townchousa/20061213houkoku/houkoku.pdf#page=9私は、同調査委員会にコンプライアンス問題に関する有識者委員として関わった。

このタウンミーティング問題について、同委員会で、国等が主催する市民参加の企画における主催者側の関与の在り方に対してどのような判断・評価が行われたのか、それが、その後の国等の対応にどのような影響を与えたのか、という観点から、一連の「やらせ」問題を考えてみることとしたい。

6月26日の説明番組に関する問題の本質が、東日本大震災・福島原発事故によって、電力会社をめぐる環境が激変したのに、その変化に適応できていなかったところにあることは、このコラムでも再三にわたって指摘してきたところである。

福島原発事故が起きるまでは、「絶対安全」の神話化を前提に原発の建設と稼働を行って電力会社にとって、「絶対安全」の神話を国民がそのまま信じ続けくれるようにすることが重要な業務であったが、福島原発事故で国民の原発に対する認識は大きく変わり、原発の安全性を最大限に高めるべき立場にある原発事業者である電力会社が、万が一事故が発生した場合において安全確保のために適切な対応を行い得るのか、信頼できる情報開示、説明ができるのかが最大の社会的関心事となった。

安全確保に向けての取組みが、周辺地域の住民及び国民全体から評価される立場、安全への取組みについて公正な審判を受けるべき立場になったのに、玄海原発において、「福島原発事故後初の原発再稼働」の是非という、今後、全国の原発の稼働に重大な影響を与える判断が求められる状況において、原発を所有し運営する当事者である九州電力が公正な審判に自らが介入するという行動を行ってしまった。そして、その原発再稼働の是非についての県民の公正な判断を取りまとめる立場の県知事が、一方当事者側に偏った対応を行った疑念を生じさせてしまったのが、今回の問題である。

このような環境変化への不適応という点については、タウンミーティング問題にも共通する要素がある。

日本における国と国民の関係、官と民との関係は、21世紀に入る頃から大きく変化する兆しを見せていた。かつてのように、国や社会の在り方や運営についての重要な情報は、すべて政府、官僚の側が独占し、そのような政治や行政について国民は情報から隔絶されていた。そのような状況においては、国が企画する説明会、イベント等は、国の政策、施策について国民の理解を広め、浸透させる目的で行われるものだった。

しかし、バブル経済の崩壊により、そのような旧来の日本の経済・社会の構造は大きな変化を余議なくされることになった。社会の大きな構造変革への期待が、「自民党をぶっ壊す」という刺激的な言葉を用いて「破壊者」のイメージを強調した小泉首相への国民の圧倒的な支持につながった。

そして、ちょうど、その小泉政権の誕生は、21世紀に入り、IT技術の急速な進歩、インターネットの利用の拡大により、国民の間のコミュニケーション手段に大きな変革が起きていた時期と重なる。

こうした中で、小泉政権下で企画されたタウンミーティングは、まさに、内閣と国民との対話、市民とのコミュニケーションを目的として行われるものであった。

ところが、実際のタウンミーティングの運営は、その本来の目的とは大きく異なったものであった。

閣僚が参加するイベントということで、事前に進行が詳細に決められ、発言者についても、主催者側があらかじめ依頼し、中には、発言する内容まで主催者側が要請していたケースもあった。

タウンミーティングという国主催のイベントの運営を行う官僚達には、「閣僚と市民との対話の場」という目的が理解されず、また、そのような場を作ることが求められるに至った社会の環境変化への認識も希薄であった。従来の閣僚が出席する企画、イベントと同じような対応を行ったことが、国民から厳しい批判を受けることにつながった。

このタウンミーティングにおいては、一般的なテーマ、話題について、閣僚と市民とが事由に対話・議論するというものが多かったが、中には、教育基本法に関する特定の政策や制度など国民的な議論の対象になっているものをテーマとするものもあった。

このようなテーマのタウンミーティングに関して、主催者側が事前に発言者を選定し、発言内容も依頼し、一般の発言者と同様に発言させていた事実が認められたことから、「世論誘導」が重要な問題となった。

タウンミーティング調査委員会報告書では、一連の事実についての「調査結果を踏まえた評価」として、次のように述べている。

《タウンミーティングにおいて、国から特定の内容の発言を依頼することは、国民の側から見れば、一般の参加者と同じ取扱いで発言するケースはもちろんのこと、司会者から氏名・肩書等を紹介されて発言するケースであっても、タウンミーティングに対する信頼性に疑問を抱かせる結果となりかねない。特に、国民の間で議論が分かれている場合などテーマによっては政府の方針を浸透させるための「世論誘導」ではないかとの疑念を払拭できない。

タウンミーティングを広報の場として活用すること自体は内閣と国民の直接対話の一環ととらえることができ、一定の妥当性が認められる。しかし、そのやり方として、政府の考え方に賛成の立場の者に特定の発言を行うよう事前に依頼することは適切ではないと考える。(中略)いずれにしても、今後の運営に当たっては、主催者側から特定の参加予定者に対し、特定の内容の発言を会場で行うことを事前に依頼することは厳に禁止すべきである。≫

まさに環境変化への不適応のための生じたと言える国の不祥事を契機に、同調査委員会報告書で、国主催の討論の場において、主催者側が発言の依頼をしたり、発言内容について要請を行ったりすることは「世論誘導」に当たり許されないとの「規範」が明確に示されたと見るべきであり、この問題を境に、この種の問題に対する国や、それと同等の立場に立った場合の自治体の対応に当たって、この規範は重要な意味を持つようになったと考えるべきであろう。

今回明らかになりつつある原発の説明会等における主催者である国等の、電力会社社員への参加要請や発言の依頼をどのように評価すべきかに関しても、タウンミーティング問題の表面化及び調査委員会報告書の公表の前か後かで行為の評価は大きく異なってくる。

少なくとも、同委員会報告書が公表された2006年12月13日以降に、国や自治体等が主催して行われた原発説明会等において、主催者である国や自治体の側が、発言依頼等に関わっている事実があるとすれば、上記タウンミーティング調査委員会報告書で「厳に禁止すべきである」とされた行為を敢えて行ったとして厳しく批判の対象になると言うべきであろう。

原発の説明会等への電力会社側の対応に関しても、タウンミーティング調査委員会報告書で示された「主催者側の発言要請による『世論誘導』的行為は禁止されるべき」という規範は重要な意味を持つことになる。電力会社側が、説明会への社員の動員や参加者への発言要請等の行為を行っていた事実があった場合、それが、電力会社側の独自の判断で行われたものか、主催者側の要請に応じて行われたものかによって、行為の評価は異なることになる。

原発問題が「絶対安全の神話」を中心に動いていた福島原発事故以前の環境においては、原発が安全であることの「理解活動」を行うことは、当事者たる電力会社にとって当然の行為と認識されていた。その理解活動の延長上で、説明会等において原発への賛成意見の声を確保しようとする行動も、そのやり方の不透明性の問題は別として、原発問題の当事者の行動として明らかに反社会的とまでは言えないものであった。

しかし、それが、電力会社側の独自の判断ではなく、国等の主催者側の要請に応じて行われたものである場合は、話は異なってくる。タウンミーティング調査委員会報告書で国等の主催者側による「世論誘導」的行為の不当性が指摘された後は、社会規範に反する国等の行為への協力という面で電力会社の行為にも問題があると言わざるを得ない。

しかし、一方で、国策によって進められている原子力発電事業に関して、国からの要請に逆らうことは電力会社の立場としては容易なことではない。国の側から説明会等に関して動員や発言依頼の要請が行われたのであれば、それを拒絶するのが困難な面もあったことは否定できない。

今、重要なことは、国等の主催の説明会等、原発をめぐる議論に関して行われていたことを、主催者側による「世論誘導」的行為も含めて真相を明らかにし、それを踏まえて、今後、原発問題について国民が公正な判断を行う基盤を作っていくこと書籍表紙画像である。

停止中の原発の再稼働に向けて、多くの問題を抱える電力会社が、国民の信頼を確保し、原発に対する理解を得ていこうとするのであれば、今、必要なのは、原発問題に関して、過去に自らどのような「理解活動」を行ってきたのか、原発説明会等にどのように関わってきたのか、それに関して国、自治体等からどのような要請が行われ、どのように応じてきたのかなどに関して、積極的に事実を明らかにし、調査に協力することである。そのような義務を尽くしている限りにおいては、社員の動員や発言依頼等の事実があったとしても、それだけで社会から大きな批判を受けることもないはずである。問題にされるとすれば、それに関する事実を隠蔽しようとする態度であることを忘れてならない。

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組織の不祥事に関する「第三者委員会」とは

官庁、企業等の組織の不祥事が表面化した場合に、「第三者委員会」が設置されるケースが相次いでいる。

国主催の説明番組における「やらせメール問題」に関して設置された九州電力の第三者委員会では、私が委員長を務め、現在、弁護士調査チームによる調査が行われている。また、その問題を契機に原発説明会等での原子力・安全保安院側の電力会社等へ発言・動員の要請等が表面化したことから、経産省は、大泉隆史弁護士・元大阪高検検事長を委員長とする第三者委員会を設置した。

このような組織の不祥事に関する第三者委員会は、国、企業等の組織からの依頼に基づくものであるが、一方で、当該組織からの独立性が確保され、中立的、客観的な観点から調査、検討、提言を行うことが求められる。

それは、どのような目的を持って、どのような姿勢で活動を行うべきか、依頼者側の組織の意向との関係をどう考えるのか。とりわけ私企業が依頼者の場合には、経営陣の意向との関係、調査事項、公表の在り方等に関して多くの困難な問題がある。

過去に多くの企業の第三者委員会に委員長として関わってきた私の経験を踏まえ、昨年出された日弁連の「企業不祥事における第三者委員会ガイドライン」(以下、「日弁連ガイドライン」参照にも言及しつつ、この種の第三者委員会をめぐる問題について整理した上、現在行っている九州電力の第三者委員会の在り方にも触れたいと思う。

組織の不祥事における第三者委員会の目的とは、どのようなものであろうか。

コンプライアンスを「組織が社会的要請に応えること」ととらえる私の見解を前提に考えると、第三者委員会の目的は、基本的には、不祥事やそれに関連する問題について事実解明、原因究明、再発防止策の策定を行うことによって、不祥事によって失われた社会的信頼を回復し、当該組織を、より「社会的要請に応えられる組織」にすることを目的とするものである。社会的要請に応えることは、当該企業が社会から存在と活動を認められる前提であり、企業の場合は、それが基本的に企業価値を維持・向上することにつながることは言うまでもない。

この点に関して、日弁連ガイドラインでは、第三者委員会とは「不祥事を起こした企業等が、企業の社会的責任(CSR)の観点から、ステークホルダーに対する説明責任を果たす目的で設置する委員会である」としている。

これに対して、同ガイドラインが「ステークホルダーに対する説明責任」を強調していることを疑問視し、第三者委員会の存在意義を、「本来経営陣が担っている責任と同様に当該企業の「(中・長期的な)企業価値の維持・防衛」にあるとする見解もある(塩崎彰久「第三者委員会ガイドラインの弾力的運用の薦め-企業不祥事調査に関する実務上の留意点-」ビジネス法務2010年8月号)。

「ステークホルダーへの説明責任」を重視する見解と「企業価値の維持・防衛」を中心とする見解とでは、委員会の運営、調査の進め方について会社経営陣の意向をどの程度反映させるべきについて、考え方が異なる。その違いは、調査の過程で新たな不祥事が発見された場合の対応、報告書を会社に事前に開示することの是非等についての考え方の違いに表れることとなる。

私は、かねてから、企業経営とは「当該企業が、需要に応え、利潤を確保することをベースに様々な社会の要請にバランス良く応えること」をめざすことであり、「社会的要請に応えること」としてのコンプライアンスは、企業の経営上の意思決定に包まれるものととらえてきた。

その立場からは、第三者委員会の目的と企業経営がめざすところとは基本的に異ならないのであり、前記塩崎見解と同様に、第三者委員会の存在意義は企業価値の維持・防衛を中心に整理すべきだと考えている。

しかし、基本的には、「企業価値の維持・防衛」中心の整理をするとしても、当該企業の事業の公益性の程度、問題の性格、社会全体に与える影響等によっては、日弁連ガイドラインで言うところの「ステークホルダーへの説明責任」を第三者委員会の目的に関して重視すべき場合があることも否定できない。

民需向け製造業のような純粋の民間セクターの事業を行う企業であれば、主なステークホルダーは株主、従業員、商品の需要者である。そこでの経営の基本方針、経営戦略の策定は、全面的に経営者に委ねられ、その結果について経営トップが全責任を負う。商品の品質・価格による市場競争が機能している限りにおいては、基本的には、企業の業績、株主価値によって評価される立場の経営者の責任を重視すべきであり、ステークホルダーに対する説明責任も、経営者がその責任を果たす上で必要な事項一つである。

このような純粋な私企業であれば、企業が不祥事にどのように対処するのか、その不祥事を契機に、どの程度抜本的な改善、改革を行うのかは、基本的には経営上の意思決定に委ねられるべきである。経営者からの委任によって行う第三者委員会をどのような方針で運営するのか、どの範囲の事実を調査対象とするのか、解明した事実関係、原因分析を踏まえて、どこまで抜本的な措置を行うのか、などについても、基本的には経営者の判断を尊重すべきである。

しかし、公益事業の場合には、そのような純粋民間セクターの企業とは大きく異なる面がある。公益事業の多くは、その影響が社会全体、消費者・国民全体に及ぶのであり、それら全体がステークホルダーであるという点で、純粋な私企業とは異なる。また、公益事業の多くは、何らかの競争制限の要因があり、企業経営に対する政府の指導監督、コントロールの余地が大きく、事業活動の在り方や経営方針についての経営者の裁量の範囲も、純粋な民間セクターの企業と比較すると限定される。このような公益事業を営む企業においては、経営者による結果責任は限定的であり、その分、事業活動の内容、それによって生じた結果、問題点等に関して、ステークホルダーである社会全体に対して十分な説明責任を果たすことが求められる。

このような公益的事業において発生した不祥事に関する第三者委員会においては、その目的を単純に「企業価値の維持・防衛」と考えることはできない。日弁連ガイドラインで言うところの「ステークホルダーへの説明責任」を中心に考えるべきであり、企業経営者と第三者委員会との関係についても、第三者委員会の独立性、調査の客観性、公正性を重視する同ガイドラインの趣旨に沿って考えるべきであろう。

これまで私が手掛けてきた第三者委員会の多くは、純粋民間セクターの企業において発生した不祥事に関するものであった(不二家、キリンホールディングス、田辺三菱製薬等)。そこでは、委員会の目的を「企業価値の維持・防衛」ととらえ、不祥事によって失われた企業の信頼回復、或いは、信頼失墜の防止をめざして、経営陣と十分な意思疎通を行い、その基本的な方針を尊重してきた。そこでの重要な役割は、事実を解明し客観的な原因分析を行うことで、その不祥事に対する社会の誤解を解消或いは防止し、私が著書等で「思考停止社会」と表現しているマスコミ報道の歪み等によって企業が不当な社会的批判・非難、バッシングを受けるリスクを最小化することであった。

もちろん、その中においても、事実調査の客観性、真実性、委員会報告書における原因分析の信頼性、再発防止策の実効性については、自分なりにプロとしてのこだわりを持って委員長としての職務を行ってきた。その第三者委員会の活動を通して、当該企業が社会的責任を果たし、社会からの信頼を維持・回復するために貢献してきたとの自負がある。もっとも、委員会の運営、とりわけ当該企業の経営者の方針、意向との調整に関して、日弁連ガイドラインとは若干異なる面があったことも否定できない。最終的に、ステークホルダーに対する責任を負うのが経営者である以上、その意向を基本的に尊重するのは当然と考えてきた。

しかし、例外的に、日弁連ガイドラインと同様に、「ステークホルダーに対する説明責任」を重視した対応をすべき案件もあった。その一つが、2010年7月に報告書を公表した東京医科大学の第三者委員会である(http://www.tokyo-med.ac.jp/news/dai3sya.pdf 参照)。

同医科大学は、度重なる不祥事によって社会からの信頼が大きく傷ついていた。医療の現場で発生した問題であるだけに、それらの不祥事の中には、生体肝移植手術の失敗などのように、人命に直結するもの、患者、家族の人生そのものにも重大な影響を与えるものも含まれていた。

この第三者委員会に関しては、委員会の調査・検討、原因分析を行った上、再発防止策として抜本的な組織改革の提言を行った。当初は、再発防止策の実行段階にも関与する予定であったが、大学の執行部側との意見対立が表面化し、抜本的な改革に強く抵抗する学内者からの誹謗中傷によるトラブルが週刊誌報道にまで発展し、それ以降の業務を、責任を持って実行することを断念せざるを得なくなり、大学側との契約を解消するに至った。

このケースにおいては、医科大学という組織の活動が、まさに、人の命にも関わる公益的なものであるからこそ、第三者委員会及びそれに関連する活動において、その組織の執行部側の意向に単純にしたがうことはできないと考えていた。第三者委員会で策定した再発防止策の趣旨を徹底し、抜本的な組織改革を行うことにこだわり続けた。そこでの対応は、「ステークホルダーに対する説明責任」(この場合のステークホルダーは、患者であり、その患者となりうる市民全体である)を重視する日弁連ガイドラインの考え方に近いものだったと言えよう。

今、私が取り組んでいる九州電力の第三者委員会についても同様のことが言えるであろう。電力会社の事業は、公益事業そのものである。とりわけ、地域独占に守られている日本の電力会社の収益は、供給者の選択の余地のない消費者、国民全体の電気料金の負担によるものであり、ステークホルダーはまさに社会全体である。電力会社の業務に対しては監督官庁の経産省等の政府の関与の程度も大きく、経営の裁量の範囲も限定される。また、総括原価方式の下で、原則として事業利益の確保が保障されており、かかる意味では、経営者が負う結果責任のレベルは、一般の企業と比較すれば低い。

そのような電力会社の一つである九州電力が行っている原子力発電事業に関連して発生した不祥事によって設置されたのが今回の第三者委員会である。

福島原発事故によって、一度事故が発生すれば「制御不能」となってしまう原発の恐ろしさを見せつけられた国民全体にとって、原子力発電事業を担う電力会社、とりわけ原発事業部門が信頼できる組織であるのか否かは重大な関心事であり、今後の日本のエネルギー政策の在り方にも影響を与えかねない重要な問題である。九州電力で発生した今回の不祥事は、まさに組織の信頼性そのものに関わるものであり、真相解明、原因分析は、まさに社会が強く求めているものである。

このような第三者委員会においては、「企業価値の維持・防衛」という観点で、経営者の意向に沿った活動を行うだけではその使命を果たすことはできないのであり、ステークホルダーである社会全体への説明責任を果たすという観点から、依頼者たる企業からの独立性を確保し、客観性、中立性を重視する日弁連ガイドラインの考え方に沿って第三者委員会の活動を行うべきであろう。また、同ガイドラインでは言及されていないが、調査対象の事業の性格、社会的重要性、それが原発を日々稼働させている組織に関わる問題であることを考慮すれば、第三者委員会の調査の過程において重大な事実が明らかになった場合においては適宜適切な情報開示を行うことも必要であろう。

今回の九州電力の問題に関しては、佐賀県知事と九電幹部との会談での知事発言が九電側の説明番組への投稿要請に与えた影響、プルサーマル等の原発説明会における動員、発言要請の有無等に加え、原発事業本部の組織的な証拠書類の破棄の事実関係及び動機・背景など、委員会設置当初の会社側の想定を超えた事項が重要な調査対象となっている。それらに関する真相を徹底究明し、その背景にどのような組織的な問題があるのかを明らかにし、実効性のある再発防止策、信頼回復策を提言することが、我々第三者委員会及び弁護士調査チームに与えられた社会的使命である。書籍表紙画像

一方で、九州電力という会社にとっても、第三者委員会の調査によって膿を出し切って社会からの信頼を回復することが、企業として再生するのための最良の方策であり、それが、今回の問題の表面化以降、不安を抱えながらも、日夜、電力の安定供給のための業務に取り組んでいる多くの社員を救うことにもつながるのである。

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三流週刊誌レベルの陸山会事件検察論告

陸山会事件(石川・池田・大久保関係)の検察論告を読んだ。まさに瓦礫のような論告、「読むに堪えなかった」というのが率直なところ。ほとんど、妄想・憶測を書きならべたような三流週刊誌レベルの「論告」を、東京地裁の刑事法廷で恥じらいもなく朗読できる神経が私には理解できないし、特捜検察が、そのような存在になってしまったことは情けない限りである。

この事件の経過全体を見たとき、特捜検察の政治的画策は、小沢氏不起訴によって失敗に終わった。にもかかわらず、検審の起訴議決という、検察にとって屈辱以外の何物でもない手段にまで頼って、当初の目的にこだわり、その画策の手段として行った現職国会議員の石川氏の起訴を、その後の同氏の公判で、水谷建設からの5000万円の裏献金という凡そ同氏の起訴事実とは関連性のない事実の公判立証で、まともな事件に偽装しようとするという、刑事手続の常識を逸脱したやり方を押し通してきた。それらの画策が最終的に破綻したのが、先般の、東京地裁による証拠却下決定であった。
同決定で、検察官の取調べが利益誘導、恫喝、切り違えなどあらゆる不当な手段を用いて行われたことが認定され、それは、村木事件の証拠却下が大阪地検特捜に致命的打撃を与える契機になったのと同様、東京特捜にとって致命的打撃だったはずである。それと同時に、検審議決による起訴という禁じ手まで使って小沢氏に政治的ダメージを与える画策の失敗も確定させるものであった。

もはや、ここまでくれば、東京特捜も、潔く、それまで行ってきた陸山会事件をめぐる画策の誤りを認め、反省し、再生を期すのが当然であろう。ところが、今回の論告は、石川、池田被告について、凡そ起訴価値のない違反として形式上の虚偽記入で有罪の可能性が残っていることを良いことに、その動機や共謀について、水谷裏献金という関連性のない事実を無理にこじつけつつ、殆ど証拠に基づかない憶測のような理屈を並べ、あたかも、政治資金規正法としてまともな事件であるような偽装を行おうとしている。

この論告は、プロレスで言えば、場外でパイプ椅子を持って相手に殴りかかっている行為、相撲で言えば、桟敷席から座布団を取り出して投げつけている行為、凡そ、そのスポーツの本来の姿とは言い難い。
東京特捜は、今一度、これまでやってきたこと、そして、自らが置かれている状況を客観的に認識する必要があろう。それがなければ、「特捜神話の終焉」が、最終的な「特捜検察の壊滅」につがなることになろう。

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法科大学院に係る政策評価について

【平成23年7月14日記者レク概要より抜粋】

「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価」ですが、今、行政評価局で行っている政策評価の一つです。昨年の夏から年末にかけて、この政策評価をどのように行っていくのかを検討する研究会を開催して、その成果を報告書という形で年末に公表しました。その議論と検討も踏まえて、今、行政評価局で政策評価のための調査を行っているところです。

この法曹養成の問題、法科大学院の問題については、マスコミ等でも問題にされていますので、どういったことが問題になっているかということも大体ご存知だと思います。

一言で言うと、大幅に法曹資格者を増やして司法サービスをもっと身近なものにして、市民にとって使いやすいものにしていこうという理念が掲げられて、司法制度改革の中の一つの大きな目玉として法曹資格者の大幅な増員、そしてそのための法科大学院の設置ということが政府の一つの政策として行われてきたわけですが、これがはっきり言って大変な状況になっている。政策面として大きな失敗になっているのではないかと言わざるを得ない状況になっているということです。

そこで、いったいこの一連の政策がどういう目的で、どういう理念の下に行われ、今、どういう状況にあるのか、どういう問題があるのか、というようなことを、調査・検討しようということで、政策評価の対象にしたということです。

この一連の政策というのは、司法を身近なものにしていくためにもっともっと法曹資格者を増やさなければいけない。法曹資格者が少なすぎるから、司法サービスが市民の使い勝手の良いものにならない、司法に対するニーズが元々あるので、法曹資格者を増やせば、そのニーズと供給、サプライのほうがマッチするという考え方がベースにあったのだろうと思います。大きな問題は、法曹資格者が今、もう既に相当な数、世の中に供給されて、数年前と比べると弁護士の数も急増しているわけですが、その司法に対するニーズ、弁護士に対するニーズというものがそれに見合って増えてきているとは思えない、ということです。最終的なニーズのところが、司法制度改革が前提にしていたところと大きく乖離してしまっているわけです。数が増えれば、当然それに伴って需要が掘り起こされていって、需給関係がちょうどうまくバランスするということになっているかというと、全然そうはなっていない。

そして、結局、そこが最終的なボトルネックにもなっているわけですから、これはなかなかそういうふうに関係者のほうは明確には答えませんけれども、司法試験合格者が当初言われていたような数になっていないわけです。

当初は法科大学院修了者に対する、いわゆる新司法試験の合格者を年間3000人にすると言われていたのですが、今のところ2000人で頭打ちの状態になっています。新司法試験では法科大学院修了者の合格率が7割程度になるということが前提とされるはずだったのですが、実際には、その前提を大幅に上回るような数の法科大学院が設置され、定員も大幅にオーバーした状況になっていたわけです。そこへきて、合格者が3000人を大きく下回ることになると、合格率がどんどん低下していって、法科大学院は出たけれども法曹資格が取れないという人をたくさん生みだしてしまう。

確かに今の2000人が本当にレベルとして昔の合格者と同等なのか、質が落ちているのではないかという意見もあるし、私も、若干、その懸念は持っています。しかしそれは制度の失敗が招いた面もあるわけです。

最初から7割合格できるということで始まった法科大学院が、現在、25%の合格率(平成22年)になっている。そういう状況になるということは、法科大学院設置当初から予測されていたので、そんなリスクをとってまで、なかなか法科大学院に入らない。どんどん志願者が減ってくるから、当然、そこに入ってくる人たちの質の低下も懸念される。だから結果的に合格者を増やせないということになる。どんどん悪循環になっていきます。

一方で、法科大学院を修了して司法試験に受かって、司法研修所を出て弁護士資格を取っても、弁護士に対する需要が高まらないので、弁護士の就職難が問題になり、弁護士を開業してもなかなか仕事がない、ワーキングプア状態の弁護士が急増していると言われています。まさに、いろいろなところでこの司法制度改革の当初想定していなかったような大変な厳しい状況になっていることを、今、皆が認めざるを得ない状況になっているわけです。

結局、問題の根本は司法の在り方をもっと抜本的に見直されないといけなかった。法曹資格者の能力や提供できるサービスの内容とか、そういったことを考え直さないといけなかったのに、旧来の司法の世界のまま、旧来の法曹資格者のスキルのまま数だけ増やしたって、世の中に汎用的な商品として出ていけるわけがない。当然の結果になっているのだと、私は思います。

こういった状況の下で、一連の法曹養成制度、法科大学院の設置という行政がどういう考え方で行われたのか、現状はどうなのかということを、政策評価の手法で調査検討していこうということで、こういう政策評価が企画され、今、行われているわけです。

私は、総務省の顧問として、この政策評価にはずっとかかわってきました。
もともと司法の世界に身を置く者としても、これは本当にこの深刻な状況に対して国として現状を把握し、そしてこういうことになった原因を明らかにして、反省すべき点は反省し、今後、どういう方向でこういう問題に取り組んでいくべきかということを真剣に考えないといけないと思っていますので、総務省でやれることがあれば、できる限りの取り組みをするというのは当たり前だと思います。今の行政に関する問題の中で、非常に大きな問題、深刻な問題の一つでもあると思います。

ということで、政策評価としてのテーマについての調査検討は現在行われている最中なのですが、この政策評価に対して、法科大学院協会の方から反発する動きがあるわけです。先ほど申し上げた研究会の報告書を公表した段階で、一般に意見を求めたところ、法科大学院協会からも意見が出されています。これに関しては、6月15日付で法科大学院協会のホームページでも、「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価に関する意見」が公表されていますので、これもお配りしています。これを私も読んでみたのですが、率直に言って、この協会の人達は一体何を考えておられるのか、といささか呆れて

いるというのが、率直なところです。今回の政策評価は、今、お話ししたように、今の日本の社会にとって非常に重要な問題である法曹養成、司法を担う人たちの養成の在り方、それについての行政をどうしていくのか、それについて問題があるのだったら、その問題を明らかにして改善をする、という当たり前のことをやっているだけのことです。しかも実際にそういったことに関して研究会を開いて報告書を公表したところ、たくさんの方々が意見を寄せてくれて、非常に高い関心を持たれているのです。多くの人が、今回の政策評価を肯定的に受け止め、期待してくれています。

やはり、今の法科大学院制度、法曹養成制度、そして試験の在り方には、いろいろな問題がある。もっとこういう観点から徹底して調べてほしいということを、法科大学院に今在学している人や修了した人、法科大学院での教育に携わっている人など、実情をよく知っている人からのたくさん意見が寄せられている。まさに本当にこういう行政を巡る問題について、こういったことに関係している人たちが、この法曹養成と法科大学院をめぐる行政というものに重大な問題意識を持って見ているわけです。

ところが当の法科大学院の側に、おそらく一部だと思うのですが、そこに、そもそもこういう調査をすることがおかしい、というような考え方があるようです。

この問題に関しては、そもそも法曹の養成に関するフォーラムというのが、本年5月に設置され、検討が開始されたのだから、そちらのほう任せておけばいいのだと、なぜ総務省などがしゃしゃり出てくるのだということが一つ、言いたいようです。それから、考えられないことに「学問の自由」に対する侵害だというような、予想もしていなかったような、言葉が出てきています。

要は素人が口を出すべきことではないということが言いたいようです。法曹養成などという問題は、専門的な領域の問題であって、それを専門的なこともわからない、総務省の行政評価局の役人ごときが口を出すような問題ではないということが言いたいようです。

私は日本の司法の問題について、今までの司法は、日本の社会では周辺領域でしか機能していなかった。そういう存在であったということを、今まで、コンプライアンスの問題に関連して言ってきました。日常的に発生する問題ではなくて、やや特殊な問題、特異な問題についての後始末をつけるという方向でしか機能してこなかった。社会の中心部で日常的に起きる問題を解決するという機能をあまり果たしてこなかった。それが「二割司法」だとか、「訴訟沙汰」というような言葉が当たり前のように使われることにも繋がっているわけです。

そういうような現状を直していかなければいけない。司法をもっと社会の中心部で機能するようなものにしていかないといけないというのが、司法制度改革の目的のはずだし、そのためには従来、社会の周辺部に閉じこもってきた司法の世界自体を改めていって、社会に対して開かれたものにしていかなければいけない。その世界を変えていかないといけないということだと思います。

ところが今回の法科大学院協会の反応を見てもわかるように、そういう世界の人たちは、今までの司法、自分たちの領域について変えられることを、最初から拒もうとしているとしか思えないのです。

別に総務省がどうのこうのということではなくて、世の中のいろいろなあらゆる目をちゃんと受け入れて、自分たちも変わるべきところは変わっていこう、今までやってきたことに問題があるのだったら、率直に反省してみよう、という気持ちに多少なりともなってくれる人たちなのであったら、こんな反発は出てくるわけがないと思うのです。まさに組織の閉鎖性……組織というよりもその司法の世界全体の閉鎖性がこういった動きに繋がっているのではないか。

今、法科大学院に在学している人、あるいはもう既に法科大学院を修了した人たち、そういう多くの若者たちがこの世界を志した。しかし、実際には、現実は、当初の司法制度改革がめざしていた方向には全然向いていない。そういう状況の中で多くの人が悩み、大変な深刻な状況に置かれている人もいるということに対して、誰が反省するのか、誰が責任を負うのかということを考えたときに、まずは、その閉鎖的自己完結的な司法の世界から全く抜け出せていない、その中に頑なに閉じこもろうとしている人たちが意識を変えてもらわなければならないと思うのです。やはりこういう閉鎖的な組織の問題を、この際、もっともっと世の中に開かれたものに改めていかないといけないということなのではないかと思います。

法科大学院協会から会員校に対して出された文書に「法科大学院制度をはじめとする現在の法曹養成制度や趣旨を否定するための調査が実施されている、と受け取られかねない内容になっているのではないか」というようなことが書いてあります。要するに、現在まで行われてきた司法制度改革に重大な問題があるのに、それを否定する方向での調査をすること自体がけしからんと言っているようなのです。司法制度改革を引っ張ってきた人たちからすると、自分たちがやってきたことを外から批判されることは我慢がならないと言っているとしか思えないのです。

また、そこで学問の自由という言葉が出てきたことには二重に驚きを感じざるを得なかったのですが、大学というのは研究の場であると同時に教育の場です。そして教育ということに対しては、一応、最低限こういうことをやらなければいけないとか、内容などに関しての制限や制約、規制を重ねざる得ない点もあります、教育の質の確保のために。その程度はいろいろだと思います。教育についての自由度も必要だけれど、質を一定程度確保することも必要です。

では、今、法科大学院の教育がどういう方向に向かっているかといったら、完全に自由という方向ではなくて、枠をはめられてカリキュラムの制約の下で個々の教官の自由度がほとんどない方向に向けられているとしか思えないのです。法科大学院ができたときよりもはるかにそういう制約、制限が強められている。そういった状況に置いているのは何かというと、これも制度自体に非常に根本的な問題があるからなのです。司法試験に合格させないといけないということで、法科大学院のほうは司法試験受験対策に走ってしまう。しかしそれだけだと受験予備校みたいになってしまうので、そこで教育内容に相当介入することが、文科省のほうで当然、出てきます。そういったことの中で、自由度が非常に低い方向に向かっているのが現実なのに、こうやって文科省や法科大学院という世界の外から批判される動きに対して、突然、「学問の自由」などという言葉が出てくる。これは本当に内部の勝手な理屈だと思うのです。

こういうような雑音みたいなものにめげず、総務省行政評価局としては粛々と調査を進めていくしかないわけですが、こういった動きが、法律に基づき適正な手続きを経て行われている行政評価、政策評価に対する妨害や調査に協力するなというようなことを公然と言うようなことがあるとすると、これは由々しき事態で、放置できない問題になっていくのではないかということを、私は非常に懸念しています。今後、本当にこの政策評価をきちんと実施して、我々なりに検討の結果を公表し、必要な勧告を行えるようなところに持っていかないといけないと思います。ぜひ、各法科大学院において、しっかり協力してもらいたいと思っています。

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陸山会事件、供述調書証拠請求却下について

民主党の小沢元代表の政治資金を巡る事件で、起訴された元秘書らの主な供述調書のほとんどが証拠請求を却下された。NHKニュース「裁判所 特捜部の取り調べ批判」によると、裁判所は、決定の中で「心理的圧迫と利益誘導を織り交ぜながら、巧妙に供述を誘導した」と指摘し、東京地検特捜部の取り調べを厳しく批判した。

今回の決定は、特捜検察の従来の捜査・取調べの手法に対して、村木事件における大阪地裁の証拠却下決定と同様に、裁判所が正面から否定的な判断を示したものであり、私が「検察の正義」(ちくま新書)、「検察が危ない」(ベスト新書)等で批判してきた一連の小沢事件捜査の暴走に対する司法判断として極めて重要な意味を持つものである。

同ニュースで紹介されている「客観的に見て、収支報告書にうその記載があったことは間違いないので、無罪になることはありえないと思っている。バタバタしてもしかたがないので、淡々と判決を待つしかない」という検察幹部のコメントは概ね正しい。陸山会の不動産取得と代金支払に「期ズレ」があり、石川氏にその点の虚偽についての認識が若干でもあれば、政治資金規正法違反が成立することは否定できないであろう。しかし、その違反は、検察が不当な取調べ手法まで用いて供述調書で立証しようとした違反の動機がなければ形式的な違反に過ぎず、現職の国会議員を当選後初の通常国会の直前に逮捕することを正当化するような違反事実とは全く異なる。量刑面では、検察が予定している求刑を大幅に下回り、罰金刑になる可能性もある。
また、石川氏とは異なり、供述調書以外に犯意や共謀を立証する証拠がほとんどない大久保氏、池田氏については、無罪の可能性が高まったとみるべきであろう。

それ以上に、今回の決定が重大な影響を及ぼすのは、検察審査会の起訴議決を受けて指定弁護士による起訴が行われた小沢氏本人の公判に対してである。
小沢氏を起訴すべきとする検察審査会の議決は、秘書との共謀関係の立証上も、政治資金規正法の解釈上も誤った判断であり、起訴しても無罪は確実であることは、最初の起訴相当議決の段階から指摘してきた。その後、大久保氏の供述調書を作成した前田検事が村木氏の事件で証拠改竄を行ったことが発覚し、石川氏の再聴取で検察官が露骨な「恫喝」「利益誘導」を行ったことが電子レコーダーによる録音で明らかになったこと等で、秘書と小沢氏との共謀に関する証拠はほとんど存在しない状況になり、それが、指定弁護士による起訴手続が大幅に遅延した原因とだと考えられる。小沢氏の公判においても、秘書の供述調書について今回の決定と異なる判断が行われる可能性は極めて低いと思われ、小沢氏の無罪はほぼ確実になったと言える。

私は、小沢氏を支持するものでも擁護するものでもない。小沢氏の過去の政治資金の収入が公共工事利権に基づいていたとすれば、それを明らかにして政治的、社会的に批判することは徒然である。
しかし、実際の「政治とカネ」問題というのは、それを、あたかも検察の捜査に関連づけて小沢氏の犯罪が立証されるような前提で問題にし、政治的に利用してきたものだ。そのようなやり方に対して強い反発が生じるのも当然であり、政権交代後民主党政権内部で混乱が続き、大震災後においても迷走が続いている根本的な原因はも、「政治とカネ」問題による空虚な内部対立である。

今回の東京地裁の証拠却下決定をで小沢氏無罪が確実となったことを重く受け止め、「政治とカネ」問題による誤謬を正し、一刻も早く政治的混乱を収拾する努力をすべきである。

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「不信任案可決なら解散」が最悪のメッセージ

「菅直人首相は不信任案が可決されれば衆院を解散する意向」と報じられている。この姿勢こそが、菅首相に対する不信の最大の原因であることがなぜわからないのか。

震災、原発事故によって危機的な事態であるのに、復旧、復興を担うべき政治が、内閣不信任をめぐる混迷を続けているという異常な事態が生じているのはなぜなのか。倒閣をめざす自民党に同調する小沢グループの動きの背景には、昨年の代表選以来の民主党執行部との確執がある。その根本的な原因は、その代表選を政権交代後の政策論争ではなく「政治とカネ」の呪文による不毛な政争に終始させ、政権与党なのに深刻な党内対立を抱えてきたことにある。しかし、それでも、このような危機的事態において、倒閣の動きが現実化したり、それが多くの議員に支持されることは、本来はありえない。あり得ないこと起きている最大の原因は、「震災、原発事故対応に全力を挙げる」と言っている菅首相に対して、それは口先だけで、実は「何が何でも自分の首相の地位を守りたい」だけなのではないか、という根深い不信感があることだ。震災後の対応の一つひとつから、そのような不信感を生じており、それが、本来であれば、国民としてすべてを託されるべき存在である総理大臣が支持されないという異常な事態を生じさせている最大の原因だ。

そういう意味で、今の菅首相にとって必要なことは、「権力維持」ではなく震災への対応、被災地・被災者の支援を最優先に考えていることを、自らの言葉として明確に示すことだ。
「不信任案可決なら解散」というのは、全く逆のメッセージだ。今の被災地の状況を考えたら、衆議院解散等という選択肢は出てくる余地はないはずだ。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援を心待ちにしている被災者の”被災地の民意”のはずだ。その被災地での投票は現状では事実上困難なことが明らかだ。それなのに、「不信任案が成立したら解散だ」と言うのは、震災対応、被災地対応より自分の権力維持の方が優先することを「自白」しているに等しい。

菅首相が行うべきは、「震災後の現在のような状況では解散などできない。だからこそ、不信任案を否決してもらいたい。私にすべてを任せてほしい。私は、皆さんの信任を受け、自らの命を投げ打って震災対応に全力を尽くしたい」と自党議員にメッセージを送ることだ。
現在の内閣の危機の本質は「菅首相の権力への執着への不信感」にある。その執着から自らを解き放つ言葉こそが、結果的には内閣を守ることにつながるはずだ。

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」菅首相は、今こそ、その言葉を噛みしめるべきだ。

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衆議院の内閣不信任決議をめぐる泥仕合

憲法は、衆議院の内閣不信任決議に対して、内閣の側に衆議院解散という対抗手段を与えている。それ以外の場合の解散は、天皇の国事行為の中に「衆議院解散」が列挙されていることのみを根拠とするもので、そもそも、総理大臣の裁量で無制限に解散権が行使できるのかどうかについては憲法解釈上も議論がある。それに対して、この内閣不信任案に対抗する解散権は、憲法が明文で認めているもので、憲法による三権分立制の根幹をなすものだ。震災のために被災地で選挙ができる状況ではないことを理由に、「不信任案に対抗する解散が行えないから安心して不信任案に賛成を」と与党議員に呼びかける自民党側のやり方は、そのような憲法の趣旨を正面から否定するもので、決して賛同できない。

しかし、一方で、解散を恐れる与党議員に対して、「不信任案が可決されたら解散する」と言って脅しをかける民主党執行部のやり方も、震災からの復旧も遅々として進めまない中、今なお避難生活を送る多くの被災者に対してあまりに無神経である。直近の日本の国の運営、政治の在り方を決める上で、最も尊重しなければならないのは未曾有の震災で被災し、国の救援、支援と復興への取り組みを求めている被災者の人達の声ではないのか。その被災者の有権者にどのようにして投票させられるのかすら明らかにしないまま、そして、これまでの震災への対応、原発事故への対応を反省することもなく、「不信任案が成立したら解散だ」とわめいている民主党執行部には、震災復興に向けての政策を論じる資格などない。

要するに、この不信任案をめぐる泥仕合はどっちもどっちであり、まさに国難とも言える日本の状況において、こんな低レベルの政争が行われていることに暗澹たる思いを抱くのは私だけではないであろう。

日本の政治が、なぜ、このような絶望的な状況になってしまったのか。その根本的な原因が、昨年9月の民主党代表選にある。
政権交代後1年、政権与党として取り組むべき課題に正面から向き合い、改革の具体的ビジョンを提示し、堂々と政策論議を行うべきであった民主党代表選を、「政治とカネ」という意味不明の呪文で埋め尽くし、不毛な党内抗争の場にしてしまったことが、政権与党内部に決定的な対立構造を作る結果を招いた。その産物として成立した内閣には、重要な政策課題に正面から取り組むための政治基盤自体が失われていたと言うべきであろう。
このような空虚な政治構造を脱却しなければ、震災からの復興はおろか、日本という国の未来はない。

今、日本の政治には、完全に行き詰った既存の構造とは次元を異にする、全く新たなパラダイムの創造が求められている。

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