美濃加茂市長事件「再審請求棄却決定」について、藤井浩人市長がAbemaPrimeに出演

冤罪を晴らすためにはいくつもの壁がある。

全国最年少で岐阜県美濃加茂市長に就任した藤井浩人氏が、就任1年後の2014年6月、市議時代の30万円の収賄の容疑で突然、逮捕・起訴され、一審では無罪判決を勝ち取ったものの、控訴審でまさかの逆転有罪判決、そして上告棄却で執行猶予付き有罪判決が確定し、3年間の執行猶予期間の公民権停止のため、2017年12月に失職した(拙著【青年市長は司法の闇と闘った 美濃加茂市長事件の驚愕の展開】)。

公民権停止期間が明けた藤井氏は、2021年11月、冤罪との闘いを綴った新著(【冤罪と闘う】)を上梓、再審請求を行った後に、2022年1月23日投開票の美濃加茂市長選に立候補し、4年間市政を担ってきた現職市長を、ダブルスコアの大差で破って当選を果たした。

この再審請求に対して、名古屋高裁刑事二部(逆転有罪判決を行った裁判部、現在は裁判体の構成は異なる)は、2023年2月1日、再審請求を棄却する決定を行った。主任弁護人の私は、即日、名古屋高裁に異議申立を行い(異議審は、名古屋高裁刑事一部に係属)、同日、藤井市長とともに、記者会見を行った。

この藤井浩人美濃加茂市長の再審請求とその棄却決定の件が、2月3日夜、テレ朝・アベマプライム《変わる報道番組#アベプラ》で取り上げられ、【「疑わしきは罰せずじゃないの?」話だけで有罪に?美濃加茂市長が再審望むワケ】と題するコーナーで、藤井市長、ひろゆき氏、元裁判官の西愛礼弁護士、若新雄純氏らが生出演し、今回の事件や再審棄却決定の問題点が的確に議論された。

【冤罪】証言だけで有罪に?再審請求する美濃加茂市長&ひろゆき

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とても分かりやすくまとめられているが、弁護人の立場から、いくつかのポイントを補充しておきたい。

新証拠としての「贈賄供述者Aの知人Xの供述」

藤井市長が、今回の再審請求で新証拠として提出した贈賄供述者Aの知人Xの供述のことについて、番組で

「Aから『お金を渡したと聞いた』と裁判で証言したXに弁護士が接触でき、確認したところ、『検察が、藤井への金の流れを示す物的証拠があるという前提だった』と言ったので、『実際には金の流れを示す物的証拠はなく、Xさんの証言が、有罪の決め手になってしまった』と弁護士が説明したところ、Xさんは驚き、Xさんの意図していない形で証言が使われたことがわかった。」

と説明しているが、この点は、まさに、この再審請求のポイントである。

名古屋地裁の第一審判決は、贈賄供述者Aが融資詐欺で取調べされているときに藤井氏への贈賄を言い出したことについて、

融資詐欺に関して、なるべく軽い処分、できれば執行猶予付き判決を受けたいとの願いから、捜査機関の関心をほかの重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、A自身の刑事事件の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようと考えることは十分にあり得る。

と述べて、「虚偽供述の動機の存在の可能性」を指摘した。それに対して、逆転有罪を言い渡した控訴審判決は、

Aが、贈賄の件を捜査機関に述べることによって、融資詐欺についての捜査の進展を妨げ、起訴や求刑等で検察官に手心を加えてもらおうという気持ちを持っていた可能性は否定できない。

と第一審判決と同様の供述動機を認めながら、

Aがそのような気持ちを持っていたとしても、A証言が虚偽かどうかは別問題である。仮に、A証言が虚偽だとするとかえって説明困難な点が存在する

として、その理由となる「重要な証拠」として指摘したのが、本件現金授受があったとされる4カ月後の2013年8月、Aと、知人のXが美濃加茂西中学校に浄水プラントを見に訪れた際、XがAに、「よくこんなとこに付けれたね」と言ったのに対して、Aが、「接待はしてるし、食事も何回もしてるし、渡すもんは渡してる」と発言し、「何百万か渡したのか」との質問に、Aが「30万くらい」と述べたとのXの供述だった。同判決は、

Aが融資詐欺で逮捕されるよりも9か月以上前とか、5か月以上前であり、後から作為して作り上げることのできない事実であるという意味において、A証言の信用性を質的に高める

として、一審判決の判断を覆す重要な証拠として評価していた。

ところが、有罪判決確定後に、弁護人がXに接触することができ、Xから、以下のような供述が得られたのだ。

藤井氏が収賄、Aが贈賄で起訴された後に、名古屋地検に呼び出され、検察官の任意取調べを受けた際、「Aから、美濃加茂市長になる藤井という議員の接待や足代を渡すのに金がいると言われてAに50万円を貸したことがある」と話したところ、その後、再び、名古屋地検に呼び出され、検察官から「あなたが貸した50万円のうち20万円が藤井の銀行口座に入金されていることが確認できた。Aが、その前に藤井に贈った10万円の賄賂も、渡した翌日に、10万円がそのまま藤井の銀行口座に入金されているので、金の流れがすべて確認できた」などと話され、自分がAに貸した金を含め、30万円がAから藤井にわたったことを確信した。西中学校の浄水プラントの現場を見に行った際のやり取りについても、Aから藤井に30万円渡った前提で推測も含めて話したに過ぎず、中学校に行った際にAから30万円という金額の話が出た記憶はない。

X供述は、各現金授受に関する「A証言と金額も含めて整合しているなどと評価できる」ものでも、「Aの供述の信用性を質的に高める」ものでもない。それどころか、藤井氏の裁判で、Aが藤井氏に渡したとする「金の流れ」についての客観的な裏付けは全くなく、この点は、検察官も認めているのだ。そのことを弁護人から聞かされ、自分の供述が有罪の決め手になったと知って、Xは腰を抜かさんばかりに驚いていた。Xの供述は、検察官に騙されて引き出されたものだったわけである。

控訴審の判決が、有罪の理由としたX証言が、検察官に作り上げられたものであり、「後から作為して作り上げることのできない事実」でもなんでもなかったことが明らかになったので、そのXの新供述を、「無罪を言い渡すべき新証拠」として、今回の再審請求を行った。

ところが、今回の名古屋高裁の再審棄却決定では、X供述について、以下のように述べている。

Xは、検察官から読み聞かされた供述調書の内容に特に違うところはないと思い署名した、第1審公判証言時に自己の記憶に反する証言をしたわけではない、というのであって、検察官の発言から請求人が3 0万円を受け取ったことは間違いないだろうと思っていたからといって、直ちに第1審公判証言の信用性に影響するとはみられない。のみならず、平成25年8月の体験時から本件各陳述書の作成までに相当長期間が経過していることからすれば、その間に記憶が減退するのはむしろ当然のことといえる

Xは、検察官に騙されて、記憶にないことを証言させられたと言っており、もしその「騙し」がなかったら、Xがそういう証言をしていなかったと言っているのに、そのことには全く触れていない。Xは、検察官に騙されて、偽証と明確に認識することなく、客観的には記憶に基づかない証言をしたことが明らかになったのだが、それでも「公判証言の信用性に影響しない」というのだ。これでは、「証言者が意図的に偽証をしたと認めなければ、再審をすべき新証拠とはならない」ということになる。もし、偽証したと認めたら、検察官に偽証罪で起訴される可能性もある。それを覚悟の上の供述でなければ、新証拠と認めないということなのだ。

今回の再審棄却決定は、証言に基づいて有罪が確定した事件の再審を開始するためには、その証言者が「偽証を自白」することが必要であるとしているので、再審に極めて高いハードルを設定しているということなのである。

贈賄者側の有罪判決が確定していることの収賄者側への影響

 もう一つ、アベマ番組の中で、司会者が、西弁護士に

「Aは有罪が確定していますよね。同じ事件で有罪無罪が分かれることはあり得るんですか。」

と質問したのに対して、

「Aさんの裁判では藤井さんが有罪か無罪かは争われていない。証拠に基づいて裁判を行う以上、その人ごとに証拠が違ってしまうと結論が変わる。Aさんの裁判では藤井さんが有罪か無罪かは一切争われていない。有罪判決で藤井さんの名前は共犯者の名前としては上がってくるが、藤井さんの有罪無罪は藤井さんの裁判で決めましょうと思って審理している。」

と説明している。

一般論としては、西弁護士の説明のとおりである。また、藤井氏も、その前にAの贈賄事件はAが全面的に認めて有罪判決が確定していたが、藤井氏の一審では無罪判決が出されたのであるから、共犯者の有罪判決が確定していることは、一審で無罪判決を得ることの支障にはならなかった。

贈収賄事件の場合、賄賂の授受があったという有罪判決と、授受がなかったいう無罪判決は完全に判断が相反する。そういう「相反する司法判断」が出ると、有罪判決については再審事由にもなる。そのために、確定した有罪の「司法判断」に反する無罪判決を確定させないようにする、という力が働いているように思える。

実際に過去の事例を調べてみると、30年余り前まで遡っても、贈賄事件での有罪判決の認定と正面から相反する収賄事件の無罪判断が確定した事例は見当たらない。賄賂の授受がなかったとして無罪判決が出された事例は、上訴審で覆されて、賄賂の授受が認定され、有罪が確定している。

1986年に東京地検特捜部が横手文雄衆議院議員を起訴した撚糸工連事件では、贈賄側の有罪が確定した後に、控訴審では、賄賂の授受自体が否定され、収賄側の横手議員に対して無罪判決が出されたが、検察官が上告し、上告審で控訴審判決が覆され、有罪となった。控訴審の事実認定を覆すために検察官上告というのは極めて異例で、認められる可能性は一般的には低いといえる。ところが、この事件でも、「贈賄側の有罪が確定している事件で収賄側の無罪で確定することはない」という原則は崩れなかったのである。 

贈賄側の事件が無罪判決を妨げる決定的な要因になるとすると、虚偽の贈賄供述で収賄の疑いをかけられた側にとって、最終的に無罪判決を獲得することは極めて困難ということになる。そのことは、「詐欺師」の贈賄供述で謂れのない収賄容疑をかけられた藤井氏の無実の訴えの前に「高い壁」となって立ちはだかったのである。

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東京五輪談合事件、組織委元次長「談合関与」で独禁法の犯罪成立に重大な疑問、”どうする検察”

東京五輪・パラリンピックのテスト大会の企画立案業務をめぐる入札談合事件で、東京五輪組織委員会(以下、「組織委」)大会運営局の元次長が入札参加企業に対し、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたとして、特捜部は元次長を、独占禁止法違反(不当な取引制限)容疑の共犯としての立件を視野に捜査していると報じられている(【五輪談合、組織委元幹部が調整指示か 立件へ捜査詰め】1/29日経)。

これまで、多くの事件で東京地検特捜部の捜査を厳しく批判してきた私も、今回の東京地検特捜部の東京五輪汚職事件の捜査、それに続く東京五輪談合事件の捜査に対しては、「東京五輪の闇」を解明する捜査として、基本的に評価する立場であり、応援する旨明言してきた。

とは言え、入札談合事件については、独禁法違反による東京地検特捜部と公正取引委員会の合同捜査ということだったが、報道されている事実関係からすると、独禁法違反としての構成にも、多くの問題があると思われたことから、公取委への出向経験があり、東京地検等で独禁法違反事件の調査・捜査に関わった実務経験を有する私と、元公取委審査局長の野口文雄氏、独禁法学者の上智大学楠茂樹教授の3名で「東京五輪談合問題検討チーム」(略称、「GNKチーム」)を結成し、独禁法3条後段の「不当な取引制限」だけではなく、同条前段の「私的独占」の適用の可能性、公契約関係競売入札妨害罪、官製談合防止法違反等の成否も含めて、幅広く検討し、その結果を、「東京五輪談合事件に関する実務上、法解釈上の問題点の検討」(以下「GNK検討レポート」)と題して、2022年12月8日に、郷原総合コンプライアンス法律事務所のホームぺージにアップした。それも、基本的には困難な捜査に取り組む検察の捜査を応援したいという思いからだった。

しかし、事件の捜査が大詰めに来ているような雰囲気になった現時点での報道の内容からすると、本件の「入札談合」が、果たして、独禁法の「不当な取引制限」の罪に問い得る事件なのか、そもそも、独禁法違反に問う前提となる「競争制限」の実質を伴うものなのか、疑問が生じていると言わざるを得ない。

GNK検討レポートも、その後の報道等を受け、2023年1月30日に更新している。

本件談合事件は、検察の東京五輪汚職事件の捜査の過程で問題化したものであり、公取委との合同捜査と言っても、検察主導で行われているものと思われるが、独禁法違反として刑事罰を問うためには、独禁法としての解釈の限界がある。入札談合は、いかなる場合に、独禁法違反の犯罪となるのか、改めて、基本的な視点から整理してみる必要があるだろう。

「公の入札」と「独禁法違反としての談合」

当初、我々GNKチームは、組織委には「みなし公務員規定」があることから、刑法上の入札妨害罪にいう「公の入札」に該当する可能性が高く、一部報道では官製談合防止法違反の疑いを指摘していたこともあり、官製談合防止法違反の適用対象にもなる、という前提で検討を行っていた。

同法8条違反の主体である「職員」とは、「国若しくは地方公共団体の職員又は特定法人の役員若しくは職員」(2条5項)を指し、「特定法人」には「国又は地方公共団体が資本金の二分の一以上を出資している法人」が含まれる(2条2項1号)。組織委は東京都がその2分の1を出資しているとのことなので、そうであれば官製談合防止法違反でいう「特定法人」となり同法の射程となると考えていたのである。

しかし、その後得た情報によると、組織委には、東京都が2分の1を拠出しているが、「拠出」と「出資」とは異なるものなので、本件は同法の適用はないことを前提に、検察及び公正取引委員会は、本件を独占禁止法違反の罪としてだけ捉えているようだ。

 

当初のGNK検討レポートでは、

《組織委が競争入札を実施しておきながらその役職員が競争に反する一連の調整に関与していたのであれば、同法を適用することには障壁はない。また一連の調整行為に電通が関与し、組織委の同法違反に協力、あるいは主導していたのであれば、電通側には官製談合防止法違反罪の共犯が成立する。実は、この法的処理が最も争われることのない筋道、弁護側にとっては絶望的な構成となる。》

と述べていたものであり、検察の捜査・処分にとって、この点は、最大の「歩留まり」になると思っていた、その官製談合防止法の罰則が適用されないとなると、発注者である組織委側の行為に対しては同法違反の罰則が適用できないことになり、そしてその共犯になりうる電通側に対しても、本件は「歩留まりのない事件」になる。

影響はそれだけにとどまらない。組織委職員に官製談合防止法が適用されないということは、単に同法違反の罰則が適用されないというだけではなく、そもそも、本件入札談合について独禁法違反が成立するのか否かの判断にも大きな影響を与えることになる。

入札談合への独禁法の適用

独占禁止法の適用については、契約主体の官民は問わない。そこに「一定の取引分野」があり、競争が存在し、或いは、競争の余地があるのであれば、独禁法違反としての「競争制限」は行い得るのであり、民間発注においても、受注する事業者側の競争制限行為について「不当な取引制限」等の独禁法違反の犯罪が成立することはあり得る。

しかし、一般的に言えば、「入札談合」に関しては、国、地方自治体、又は、それらが出資している法人等が発注する物件についての「公の入札」(官製談合防止法の適用対象とほぼ重なる)の場合と、民間発注の場合とでは、その意味合いは大きく異なる。

「公の入札」は、公費による発注であり、納税者の負担を軽減すべく、可能な限り安価で発注することが求められ、受注希望者間の公平性も要求される。そのため、会計法、地方自治法等で、「最低価格自動落札方式」(最も低い価格で入札した者が落札者となる方法)、「総合評価方式」(価格と、品質・価値の両面から評価して落札者を決める方法)等によって、事業者間の競争で受注者を決定することとされている。「競争」によらないで特定の業者と契約する「随意契約」を行うためには、それによらざるを得ない、或いは、それによる方が、発注者にとって有利だという「随契理由」の存在が必要となる。

このように、原則として入札による発注が法律上義務付けられるのが公共発注であり、そこでは、「入札による競争」で受注者を決めるべきであるということが、発注者にも受注者側にも認識されているので、受注業者間で談合を行うことは、当然行うべき「競争」を行わないという面で、原則として、独禁法違反としての「競争制限」の実質を備えることになる。それが、「事業活動の相互拘束」「一定の取引分野における競争の実質的制限」という要件を充足すれば、「不当な取引制限」に該当することになる。

一方、「公の入札」に該当しない民間発注の場合、どのような方式で発注するかは、発注者が自由に選択できる。競争性を重視し、入札を行って、受注を希望する業者間で競争を行わせることも可能だが、発注物件の商品、サービスの性格上、入札による競争という方法より、発注者と受注者との交渉によって、どこに受注させるかやどのような条件で契約するかを決定していく方が有利と判断する場合もある。どのような発注方式を採用するかは、民間発注者は自由に選択できる。

もっとも、民間発注であっても、その発注者側の内部規則で競争入札によることが定められている場合などは、発注の担当者は入札による競争で発注することが内部的に義務付けられていることになり、「入札による競争」での発注が前提とされることになる。

発注者が入札によって受注者を決定することを明示しているのに、入札での競争を回避しようとして受注業者側が談合を行ったとすれば、「競争制限行為」となり、一定の要件を充たせば、独禁法違反に問い得る。その場合、仮に、発注者側の担当者が談合に協力したとすれば、そのような違法な「競争制限」に発注者側として関与した行為について、不当な取引制限の共犯が成立する可能性もある。

しかし、上記のとおり、民間であれば、どのような方式で発注するかは自由に選択できるので、発注側の意思決定者が、「競争によらない発注」を行う意思なのであれば、入札による競争は前提とされない。したがって、民間の発注者側が、何らかの事情で「形式上の入札」を実施するが、実際には特定の事業者との契約を希望し、その旨、受注事業者側も認識していた場合、「形式上の入札」において特定の事業者が落札することに他の事業者が協力したという外形的事実があったとしても、発注者側の意向によって「競争による発注」が否定されている以上、「競争を制限した」とは言えず、「不当な取引制限」等の独禁法違反は成立しない。「形式上の入札」を行ったことの欺瞞性について、発注者である民間企業にステークホルダーに対する説明責任が生じるだけだ。

民間発注で「入札談合」に発注者側が関与した事実があったとしても、法律上競争が前提とされる公共入札のように違法性が明白とは言えないし、むしろ、発注者の組織としての方針が、本当に入札による競争を求めていたのか、実際には求めてはいなかったのではないかという疑問を生じさせることになる。この場合は、そもそも競争を前提とする入札だったのか、そして、それを談合で競争を制限したといえるのかどうか、慎重に見極めることが必要だ。

発注者側の責任者が「不当な取引制限」の共犯に問われた下水道事業団談合事件

過去に、発注者側の担当者が「不当な取引制限」の共同正犯に問われた例として、1994年の下水道事業団談合事件がある。下水道事業団は、当時、国と地方公共団体が共同出資する公共法人であり、同事業団が発注するポンプや発電機などの下水道処理施設の電気設備に関する公共入札をめぐる談合事件だった。

この事件は、私が、1990年から93年まで公取委審査部出向検事として勤務した後、東京地検に勤務していた頃の事件だった。埼玉土曜会談合事件での告発断念の影響や、中村喜四郎衆院議員が同談合事件の告発見送りを公取委委員長に働きかけたとして、あっせん収賄事件で逮捕・起訴されたゼネコン汚職事件で、公取委への信頼が失われていた。その後初めて公取委が調査の対象とした重電業界の談合事件を、信頼回復のために何とか告発にこぎつけたいと、当時の小粥正巳公取委委員長から私に要請があり、刑事事件としての構成等について公取委審査官側に非公式の助言をするなどして独禁法違反での告発につなげたものだ。

受注者側の重電メーカーの営業担当者が、施設の企画・設計の段階で発注官庁側に様々な協力を行い、その結果、発注者側から特定のメーカーに受注させたいとの意向が何らかの手段で伝えられ、その意向にしたがって業界内で受注予定者を決めて、談合によってその業者が受注するという「発注者意向中心型の談合」が恒常的に行われていた。

その後、各社が、「シェア枠」を決め、年間の受注額がその枠内に収まるようにする「ドラフト会議」という方法に変更され、過去の実績等を参考にして、年間の各社の受注の「シェア枠」をあらかじめ定め、それが守られるように、1年に1回ドラフト会議を開いて、各社がシェア枠の範囲内で受注希望物件を指名して、年間の割り付けを決めるようになった。その事実を、独禁法の「不当な取引制限」の犯罪と構成し、公取委が告発した。

その前は、下水道事業団の担当者から、発注者の「意向」が個別に業者に伝えられ、それがその意向に沿うように、業界調整担当者の間で談合が行われていたのが、1年分の発注予定物件の受注予定者を年に1回の「ドラフト会議」で決めるということになると、業界側がドラフト会議に先立って、年間の発注予定の物件名と大まかな発注金額を把握しないと会議が成立しない。そのためには発注者の下水道事業団側の協力が不可欠となる。

受注調整の方法をこのような方式に変更することについて、業界側の代表者が当時の下水道事業団側の担当幹部に説明して了承を得、その後、毎年開かれる「ドラフト会議」の前に、下水道事業団側から業界の代表者に、その年度の発注予定の物件名と発注予定金額についての情報が提供されるようになった。

この事件では、重電メーカー9社の業界調整担当者、営業担当者と法人に加えて、発注者の下水道事業団の工事部次長も、不当な取引制限の共犯(ほう助)として起訴された。

この談合事件は、公共発注であり、競争によらない発注を行う余地はない。下水道事業団の発注に関して、かねてから行われた「発注者意向中心の談合」が、シェア枠を設定する「ドラフト会議」方式に変更され、それに伴って、発注者側の責任者の工事部次長などが具体的に協力を行ったというものだった。法的に義務付けられている「公の入札」での競争を丸ごと回避する談合システムに、発注者側も組み込まれ、談合に不可欠な情報提供を行っていたという事案であり、発注者の事業団側の責任者が不当な取引制限の共犯として刑事責任を追及されるのも当然の事案だった。

その後、公共入札をめぐる談合に発注者側が関与することを防止することを目的として官製談合防止法が2003年に施行され、2006年の改正によって罰則が追加された。1994年に下水道事業団の談合事件で事業団幹部が不当な取引制限で起訴された当時は、官製談合防止法が制定される前であり、入札談合への発注者の関与を処罰の対象にするには、不当な取引制限の共犯に問うしかなかった。

官製談合防止法が施行された後は、発注者側の談合への関与は、同法違反に問われるようになった。同法の適用対象とならない民間発注での談合事件で、発注者側が独禁法違反に問われた例はない。

少なくとも公共発注であった下水道事業団の談合事件での発注者側の関与と、東京五輪テスト大会の企画立案業務での発注者側である組織委の対応とは、性格が大きく異なるものであったことは間違いない。

組織委大会運営局の元次長の行為は「不当な取引制限」の共犯となるのか

組織委の発注が官製談合防止法の適用対象ではないとすると、刑法上、「公の入札」にも該当しない可能性が高く、民間発注として捉えることになる。

その場合、上記日経記事が報じているように、大会運営局の元次長が入札参加企業に対し、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたとしても、組織委が「形式上の入札は実施するが、実質的には随意契約による発注」を意図していた可能性がある。

この場合、組織委において、テスト大会の企画立案業務の発注先を入札による競争によって決定することについて、内部規則で定められていたとか、理事会などの意思決定機関によって決定されていた、ということであれば、その方針に反して、元次長が、特定の事業者が落札者となるよう、入札参加企業に調整を指示する行為は、組織委の方針だった「入札における競争」を制限するものとなる。この場合は、「不当な取引制限」が成立する余地がある。

組織委については、会計処理規程で、契約方法として、「競争入札、複数見積契約、プロポーザル方式契約、特別契約」の4つが規定されており、金額や発注の性格によって選択することとされているが、「原則として事務総長が締結する」「入札参加者については、あらかじめその業務内容及び財務内容等調査の上、事務総長の承認を得るものとする」とされており、基本的に、契約の権限が事務総長に帰属していることは明らかだ。

前記の下水道事業団の公共入札の場合のように、入札による競争が法律上義務付けられ、実際に入札が定着していたのとは異なり、東京五輪のために臨時的に作られた組織で、競争入札が定着しているわけでもなかったのだから、契約方式や入札参加者の選定については事実上事務総長の裁量に委ねられていたと考えられる。テスト大会の企画立案業務について、事務総長がどのような意向であり、それがどの程度、客観的に示されていたのかがポイントとなる。

上記日経記事が報じているような大会運営局の元次長の行為についても、それが、権限を有する事務総長の意思に反するものであったことが客観的に明らかであれば、元次長の行為を、「組織の方針に反して競争制限に加担するもの」と見ることもできる。しかし、事務総長の意思が明確ではなく、元次長に事実上委ねられていたという場合は、元次長によって契約の方法が事実上決められたにすぎないことになる。上記のような元次長の対応からすると、組織委が、このテスト大会の企画立案業務の発注に関して、入札での競争によって受注者を決定する方針であったこと自体にも疑問が生じる。

検察としては、まさにキーマンと言える組織委の事務総長であった武藤敏郎氏から聴取を重ねているはずだ。

このテスト大会の企画立案業務の発注について、26会場の入札を総合評価で実施するに当たって、「入札参加者についての事務総長の承認」が規定どおり行われていたのであれば、大半の入札が一社応札になる見通しであったことについて、武藤氏に認識がなかったとは考えにくい。また、元次長が武藤氏の方針や意向に反して、メールなどで応札の可否や電通との調整を指示していたのだとすると、今のところその見返りがあったとも報じられておらず、その動機が考えにくい。

このように考えると、テスト大会の企画立案業務についての入札談合を「不当な取引制限」ととらえることも、元次長の行為をその共犯とすることも、かなりハードルが高いように思われる。

もし、組織委として、テスト大会の企画立案業務の発注においては「入札による競争」を徹底させる方針であったと元事務総長の武藤氏が供述し、相応の信用性が認められる場合には、「競争制限」の事案として独禁法違反を適用する枠組みは一応整うことになる。

しかし、その場合も、【GNK検討レポート】でも詳述しているように(「3.(2)C不当な取引制限規制違反についての問題点、論点」10頁)、テスト大会の企画立案業務の入札全体についての受注業者間の「合意」が認定できるのかという「不当な取引制限」の行為要件の問題もある。むしろ、電通が組織委を通じて支配したという「支配型私的独占」ととらえた方が立証上の問題が少ないようにも思える(「3.(2)D支配型私的独占規制違反のシナリオ」12頁)。

もっとも、「私的独占」は、不当な取引制限と同様に、最も悪質・重大な独禁法違反行為ではあるものの、公取委での摘発例自体が少なく、これまで、告発の対象とされた事例はない。そこには、「支配行為を刑事事件の実行行為として特定することが困難」という問題もあり、支配型私的独占の場合は、公取委の行政処分としての課徴金納付命令だけにとどめることにならざるを得ない可能性もある。

東京五輪談合を「深追い」するべきか

今回の東京五輪談合事件が最初に報じられた時には、検察が、東京五輪汚職事件の摘発をさらに東京五輪に関連する発注をめぐる競争制限という構造的な問題にまで拡大させ、「電通支配による東京五輪の闇」に迫ろうとしているものと受け止め、私なりに期待していた。GNKチームでも、報道等で把握できる範囲の事実関係を前提に、可能な限りの実務的、法的検討を続けてきた。

しかし、現時点までに報道等で明らかになっていることを前提にすると、この入札談合事件は、独禁法違反としての構成には相当問題があると言わざるを得ない。検察にとっては、東京五輪汚職事件で摘発されたADK側が「談合供述」を行ってリニエンシー申告をしたことに乗っかって、公取委を巻き込んでの合同捜査に持ち込んだのが若干拙速で、独禁法違反や他の犯罪の成否についての検討が不十分だったように思われる。

2005年の独禁法改正でリニエンシー制度が導入され、公取委の実務に定着しているが、公取委は、当初申告の段階では申告者の供述のみで違反の成否を判断せざるを得ない、という制度上の問題点がある。

また、同改正で公取委に国税と同様の刑事処罰を目的とする反則調査権限が導入されて以降は、それまで、公取委には行政調査権しかなく、告発は、検察捜査の端緒に過ぎなかったのとは異なり、独禁法違反の捜査が検察主導で行われた場合、公取委は、公訴権を有する検察の判断に追従せざるを得ず、告発の時点で独禁法違反の成否についての判断を慎重に行うことが困難になった。このことは、リニア談合事件の例からも明らかであり(【「リニア談合」告発、検察の“下僕”になった公取委】、事件の問題点については、日経Bizgate【「リニア談合」の本質と独禁法コンプライアンス】)、独禁法違反の制裁には、いくつかの制度上の問題がある。

「公の入札」に該当しないということで、この東京五輪談合事件は、当初、官製談合防止法の「歩留まり」を想定していたのとは異なり、非常に「筋の悪い事件」にならざるを得ないことは、既に述べたとおりだ。

上記日経記事では、電通側は、「談合を認めている」とされているが、何を前提に「認めている」のかも不明だ。本件の場合、問題は法律上の独禁法違反の犯罪の成否に疑問があり、供述内容が重要なのは、むしろ、発注者の組織委の側だ。

電通と、リニエンシーを行ったADK以外の、多数の入札参加者が争う姿勢を見せていることもあり、本件で独禁法違反での摘発を強行した場合、捜査・公判の展開は見通せない面がある。

東京五輪汚職事件で戦線を拡大してきた検察にとって、この五輪談合事件での深追いは禁物のように思える。検察は、この困難な局面で、どう対応するのだろうか。

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東電刑事控訴審判決は、「13兆円」代表訴訟判決を否定するものではない

福島第一原発事故をめぐり、東京電力の会長だった勝俣恒久氏と副社長だった武黒一郎氏、武藤栄氏の旧経営陣3人が、原発の敷地の高さ(海抜10メートル)を上回る津波を予測できたのに対策を怠り、原発からの放射能漏れ事故の発生で避難を余儀なくされた福島県大熊町双葉病院の入院患者ら44人を死亡、13人を負傷させたとして、業務上過失致死傷の罪で検察審査会の議決により起訴された裁判の控訴審で、東京高等裁判所は、1審に続いて3人全員に無罪を言い渡した(以下、「刑事控訴審判決」)。

「被告人らに、本件発電所を停止すべき義務に応じる予見可能性を負わせることのできる事情が存在したという証明は不十分」

と判示して、業務上過失致死傷罪の成立を否定したものだった。

問題は、2022年7月13日、原発事故被害者の東電の株主が、旧経営陣5人に対して提起した「株主代表訴訟」で言い渡された1審判決(以下、「代表訴訟判決」)との関係をどう見るかである。

代表訴訟判決では、取締役としての注意義務を怠り、津波対策を先送りして、原発事故が発生したために廃炉作業や避難者への賠償などで会社が多額の損害を被ったとしてとし、勝俣氏と清水元社長、武黒氏、武藤氏の4人に対し、連帯して13兆3210億円を支払うよう命じた。

旧経営陣の任務懈怠を認めた代表訴訟判決を評価する原発事故の被害者や一部のマスコミからは、事故の予見可能性を否定した刑事の1審判決の判断が代表訴訟判決で覆されたかのように受け止め、刑事事件の控訴審が1審とは異なる判断を行うことを期待する声もあった。

そのような代表訴訟判決を評価していた側も、代表訴訟判決を批判していた側も、今回の刑事控訴審判決が、代表訴訟判決とは異なった判断、相反する判断をしたように論じている。

産経新聞は、【長期評価の信頼性認めず 東電強制起訴 民事とは逆の結論】と題する記事で、

旧経営陣に13兆円余りの損害賠償を命じた民事訴訟の判決とは対照的な結果。個人の刑事責任を追及する難しさが、改めて浮き彫りになった。

とした上、

株主代表訴訟の判決は「検討を依頼後、なんら津波対策をとらなかったことは不合理で許されない」と指弾。一方、今回の控訴審判決は「武藤元副社長の指示は不合理とはいえず、その後に巨大津波が襲来する現実的な可能性を認識する契機が(旧経営陣に)あったとは認められない」とした。

などと両判決の判断の違いを強調した。

代表訴訟判決を評価していた東京新聞も、【ほぼ同じ証拠と争点なのに…旧東電経営陣の責任を問う訴訟の判決が民事と刑事で正反対になった背景】と題する記事で、

株主代表訴訟東京地裁判決は「適切な議論を経て一定の理学的根拠を示しており、相応の科学的信頼性があった」と認め、対策を先送りした旧経営陣の過失を認めた。

これに対し、今回の判決は、長期評価の信頼性を否定。「敷地の高さを超える津波が襲来する現実的な可能性を認識させるような情報だったとは認められない」と判断した。   

などと、予見可能性についての判断の違いを強調し、その原因として

個人に刑事罰を科す刑事裁判では、合理的な疑いを挟む余地がない程度の立証が必要となり、証拠や主張のどちらに真実性があるかを判断する民事訴訟より、ハードルが高い。

などとして刑事と民事の違いを指摘している。

しかし、このよう見方は、同じ原発事故についての東電旧経営陣の「責任」について、代表訴訟判決が肯定し、刑事控訴審判決は否定したことの理由の重要な点を見過ごしており、その違いを的確にとらえたものとは言い難い。

「責任」について判断が分かれたことについて、マスコミは概ね以下のようにとらえている。

(1)「刑事」と「民事」の一般的な相違によるもの、刑事は、国家の刑罰権の発動なので、厳格な立証が必要とされるが、民事は、どちらの主張・立証が相対的に正しいかという「主張・証拠の優越」で判断される。

(2)2002年に国が公表した地震予測の「長期評価」による津波予測の信頼性について、代表訴訟判決は肯定、刑事控訴審判決は否定と、判断が分かれた。

(3)運転停止以外に事故を回避する措置があったかについて、代表訴訟判決は、原発建屋などの浸水防止策によって電源設備の浸水を防いだり、重大事態に至ることを避けられた可能性も十分にあったとしたが、刑事控訴審判決は、この点を否定した。

「刑事」と「民事」の一般的な相違

まず、(1)について言えば、代表訴訟判決は、原告の株主自身が利益を得られるわけではなく、取締役の任務懈怠という「法的責任」を追及し、会社に対する賠償を求めた訴訟で、その「責任」を肯定したものだ。原被告間の債権債務をめぐる給付訴訟等の一般的な民事訴訟とは異なる。「証拠や主張のどちらに真実性があるかを判断する民事訴訟」と同視すべきではない

代表訴訟判決で賠償が命じられた約13兆円は、個人で支払可能な限度を遥かに超えており、判決が確定すれば、被告らの破産は不可避である。一方、業務上過失致死傷罪の刑事事件で問われたのは、介護老人保健施設や老人病院に入院していた寝たきりの患者や自力で歩行できない患者が長時間にわたる搬送及び待機等を伴う避難を余儀なくされた結果の死亡や、水素爆発に伴う瓦礫への接触で負傷したという「人の死傷」に対する責任だ。一般的には、原発事故の発生で直接想定される「人の死傷」は、放射能の被爆によるものである。それと比較すると、「避難途中の死亡」などは、原発事故と条件関係はあり、因果関係は肯定されるとしても、結果の発生の過程には、病院側の対応や、行政・自衛隊の対応等も関わっており、すべてが原発事故の発生だけに起因する「人の死傷」とは言えない面もある(この点は、今回の刑事訴訟で争点にはなっていないが、大津波による事故の予見可能性、結果回避可能性が肯定された場合には、このような「人の死傷」の結果についての予見可能性も争点の一つになっていた可能性がある)。

代表訴訟で命じられた約13兆円という巨額の損害賠償が、原発事故によって避難を強いられた膨大な被災者、今も避難生活を余儀なくされている被災者の苦難に相当するものであり、言わば、原発事故全体の責任を問うものであるのに対して、刑事事件で問われたのは、原発事故によって発生した被害のうちのごく僅かな部分に過ぎない。仮に有罪になった場合の量刑としても、執行猶予になる可能性も相当程度あり、代表訴訟判決での巨額損害賠償が確実に個人破産の結果を招くのと、どちらが重いかは、軽々には判断できないのである。

「長期評価」による津波予測の信頼性についての判断の違い

(2)の長期評価の信頼性についての判断の違いに関しては、両判決の判断の視点に大きな違いがあることが看過されているように思われる。

代表訴訟判決の判断の枠組みは、以下のようなものである。

まず、原子力発電所を設置、運転する原子力事業者には、最新の科学的、専門技術的知見に基づいて過酷事故を万が一にも防止すべき社会的ないし公益的義務があること、原子力損害の賠償に関する法律 (原賠法)が原子力損害について原子力事業者の無過失責任を定めていることなどを指摘し、その上で、原子力事業者である東京電力の取締役の善管注意義務違反についての一般論として、

東京電力の取締役であった被告らが、最新の科学的、専門技術的知見に基づく予見対象津波により福島第一原発の安全性が損なわれ、これにより過酷事故が発生するおそれがあることを認識し、又は認識し得た場合において、当該過酷事故を防止するために必要な措置を講ずるよう指示等をしなかったと評価できるときには、東京電力に対し、取締役としての善管注意義務に違反する任務懈怠があったといえる

と述べ、「長期評価」が、そのような「任務懈怠」の根拠となり得るのか、という観点から評価し、

長期評価の見解は、海溝型分科会における、過去の被害地震や文献等を踏まえた上での委員間の活発な議論において、異論を踏まえながら意見が集約されていき、慶長三陸地震、延宝房総沖地震及び明治三陸地震の3つの地震を日本海溝沿い領域で発生した津波地震とすること、三陸沖北部から房総沖までの日本海溝沿いを一つの領域とすること、このような地震が同領域のどこでも発生し得ることについて、その後の長期評価部会及び地震調査委員会での議論を経て、反対意見もなく了承されたのであるから、地震や津波の専門家による適切な議論を経た上で合意できる範囲が承認されたものといえる。

そのような審議過程を経て取りまとめられた長期評価の見解は、一研究者の論文等において示された知見と同視し得ないことは明らかであり、この点からも、一定のオーソライズがされた、相応の科学的信頼性を有するものであつた。

と述べて、その信頼性を認めた上、

長期評価の見解は、一定のオーソライズがされた相応の科学的信頼性を有する知見であつたから、理学的に見て著しく不合理であるなどの特段の事情のない限り、相応の科学的信頼性を有する知見として、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役において、当該知見に基づく津波対策を講ずることを義務付けられる

として、被告らには「長期評価の知見に基づく津波対策」を講じる義務があったとし、

何らの津波対策に着手することなく放置する本件不作為の判断は、相応の科学的信頼性を有する長期評価の見解及び明治三陸試計算結果を踏まえた津波への安全対策を何ら行わず、津波対策の先送りをしたものと評価すべきであり、著しく不合理であって許されるものではない。

と判示して、東電旧経営陣の任務懈怠を認めている。

一方、今回の控訴審判決は、長期評価について、以下のように判示している。

本件発電所の10メートル盤を超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識させるような性質を備えた情報であったとは認められず、直ちにこれに基づく対策を義務付けられるような波源モデルを提示すると受け止めなければならないといえるほどに具体性や根拠を伴うものであった、という証明は不十分である。

津波が襲来し電源喪失の事態に至ることについて、「現実的な可能性」があったことを具体的に認識できていたことが「予見可能性」の要件になるとの前提で、長期評価が、実際に発生した大津波の「波源モデル」を提示し、「現実に、そのような大津波が起きることの危険性」の認識の根拠になるような性格のものだったかどうかを問題にし、それを否定している。自らの作為・不作為によって具体的にどのような事象が発生して「人の死傷」が生じるのかについて認識が必要だという、従来の判例・実務がとってきた「具体的予見可能性説」に従って判断したものだ。各種の公害、薬害など「未知の危険」が問題となる事件において一部で主張されている、「不安感ないし危倶感、あるいはそれを抱くべき状況があれば、予見可能性は充足される」とする「危惧感説」を否定したもので、刑事実務的には常識的な判断だと言える。

この点、上記のとおり、代表訴訟判決は、長期評価が、「一定のオーソライズがされた相応の科学的信頼性を有する知見」だとして、それが示されている以上、何らかの津波対策を講じる義務があったとしているのとは、視点が異なる。この点が、「長期評価の信頼性」自体についての見解の相違ではないことについて、刑事控訴審判決は、次のように説明している。

原判決(刑事第1審)が長期評価の信頼性について論じている趣旨は、わが国有数の専門家が審議の上で出した結論に信用が置けないということではなく、その内容が結果の予見を義務付け、これによらなければ業務上過失致死罪が成立するというに足りるまでの十分な根拠等を伴うような性質の情報であったということについて、合理的な疑いを超える証明がなされたと言えるかどうかについての判断である 

つまり、刑事控訴審判決は、「長期評価に信頼性がない」と言っているのではなく、業務上過失致死罪の「予見可能性」を根拠づける「十分な根拠等を伴うような性質の情報」ではないと述べているだけである。同判決が、敢えてこの点に言及しているのは、代表訴訟判決の長期評価の信頼性の判断と異なった判断を示したように誤解されないようにとの配慮によるものであろう。

このように考えると、上記(2)の、「長期評価の信頼性」について、代表訴訟判決は肯定、刑事控訴審判決は否定と、判断が分かれたと見るのは、刑事控訴審判決の判示からしても、適切とは言い難い。

運転停止以外の事故回避措置

運転停止以外の事故回避措置で事故回避が可能だったか否かという、上記(3)の点は、「結果回避可能性」に関する事情であり、少なくとも、予見可能性を否定している刑事控訴審判決にとっては、本来は不要な論点である(結果回避可能性は、予見可能な「結果」について問題になる)。刑事控訴審判決がその点について敢えて言及しているのは、「本件発電所の運転停止措置を講じるべき義務」に関して、以下のように判示していることと関係しているものと思われる。

原子力事業者にとって運転そのものを停止する措置は、事故防止のための回避策として重い選択であって、そのような回避措置に応じた予見可能性・予見義務もそれなりに高いものが要求されるというべきである。電力事業者は、市民にとって最重要ともいえるインフラを支え、法律上の電力供給義務を負っていて、漠然とした理由に基づいて本件発電所の運転を停止することはできない立場にある。

つまり、運転そのものを停止する事故回避措置を行うのはハードルが高いということを、回避措置に応じた予見可能性・予見義務を認めるための「予見」のレベルが「高い」、つまり、事故発生について具体的で現実的な認識を伴う「予見」が要求されることの理由としているのである。

これは、本件で「予見可能性」を否定し、業務上過失致死傷罪の成立を否定する論理の一つとして、「運転停止による結果回避の困難性」を持ち出したものだと考えられるが、それを前提にすると、「運転停止以外の措置による結果回避の可能性」が仮にあった場合は、上記論理が否定され、予見可能性についての「高いハードル」が否定されることになる。そこで、「運転停止以外の措置による結果回避の可能性」にも敢えて言及し、これを否定しているものと思われる。

それは、代表訴訟判決が、「本件発電所の運転停止」以外の方法による事故の回避の可能性を肯定していることを意識したものだと考えられる。

代表訴訟判決の「水密化」による事故回避の可能性の認定

代表訴訟判決は、被告らの任務懈怠がなく、「福島第一原発1号機~4号機に明治三陸試計算結果と同様の津波が襲来することを想定し、これによりSBO及び主な直流電源喪失となることを防止する対策を速やかに講ずるよう指示等していた場合」に関し、

原子力・立地本部内の担当部署において、①防潮堤の建設、②主要建屋及び重要機器室の水密化、③非常用電源設備の高所設置、④可搬式機材の高所配備、⑤原子炉の一時停止の各措置が行われ、これらの措置により本件事故を防止することができたか否か

について、いずれか又は複数の対策がされ、本件事故を防止することができたかを、「着想して実施することを期待し得た措置であつたか、本件事故の発生の防止に資するものであつたか、本件津波の襲来時までに講ずることが時間的に可能であったか」という観点から詳細に検討している。

 そして、

東京電力の担当部署にとつて、10m盤を超える高さの津波が襲来することを前提とした場合に速やかに実施可能な津波対策として、主要建屋や重要機器室の水密化を容易に着想して実施し得た。

として「水密化の着想による実施」の可能性を肯定し、

被告らの指示等があれば、福島第一原発1号機~4号機において講じられたと考えられる建屋及び重要機器室の水密化の措置 (本件水密化措置)は、建屋の水密化自体でも、本件津波の浸本を防ぐに十分であった上、仮に建屋に浸水したとしても、重要機器室の水密化によって浸水を阻むという多層的な津波対策となっていたことからすれば、本件津波による電源設備の浸水を防ぐことができる可能性が十分にあった。

仮に、津波の挙動や漂流物等による建屋等の損壊等により、一部の電源設備が浸水するような事態が生じ得たとしても、電源融通による交流電源供給も可能であったから、一部に浸水が生じた場合を想定した運用面での一定の措置が行われていたであろうことも考慮すれば、これによる相応の対処により、重大事態に至ることを避けられた可能性は十分にあった。

との結論を示して、4人それぞれの任務懈怠の時点から津波の襲来時までに水密化措置を講じることで事故が回避できていた可能性が高いとして、任務懈怠と会社の損害との因果関係を認めている。

刑事控訴審判決の「運転停止以外の事故回避措置」の否定は「傍論」

刑事控訴審判決は、「運転停止以外の方法による事故の回避が可能だった」とする指定弁護士の主張について、

事後的に得られた情報や知見を前提にしているとしか解せず、被告人らの責任を論じる上で採用できない

として否定した上、

それまでに得られていた試算等に基づいて水密化等の対策が講じられていたとしても本件地震等に伴う大きな差異にもかかわらず対策が奏功したことを裏付ける証拠はない。

因果の概略を抑えた一連の経緯の概略を想定し、これにすべて重大な影響を被ることなく対応を完遂できるような対策の整備を現実的に可能とさせる対策・技術が整っていたという証明はない。

などとして、結果回避の可能性を(証拠上)否定している。

しかし、この点についての刑事控訴審判決は「傍論」であり、判決の結論に直接影響するものではない。予見可能性について高いハードルで判断したことの合理性を強調するために、「運転停止による結果回避の困難性」を持ち出したが、それによって、「結果回避可能性」が「予見可能性」に逆流する(本来、結果回避についての判断は、予見可能性の肯定を前提にするものであり、「逆流」するものではない。)ことにならないよう、代表訴訟判決が肯定した「運転停止による結果回避の可能性」を刑事事件では立証されていない、として否定しようとしたものだと思われる。

しかし、この点についての代表訴訟判決の判断は、複数の「運転停止以外の事故回避阻止」について、詳細な検討を行った上、水密化によって事故が回避できた「可能性」を否定しているものであり、刑事控訴審判決の「傍論」は、その「可能性」の判断を否定しているものではない。

この点は、両判決の判断が異なっている点であることは確かだが、刑事控訴審判決によって代表訴訟判決の判断が否定されたと見るべきとは言えない。

両判決の関係についてどう考えるべきか

以上のとおり、原発事故についての東電旧経営陣の「責任」について、代表訴訟判決が肯定し、刑事控訴審判決が否定したとするマスコミの論調は、的確なものとは言い難い。

では、この判断の違いをどうとらえるべきであろうか。

本件では、10mの高さの敷地を超える津波が襲来し、その津波が同発電所の非常用電源設備等があるタービン建屋等へ浸入することなどによって発電所の電源が失われ、非常用電源設備や冷却設備等の機能が喪失し、原子炉の炉心に損傷を与え水素爆発が発生したことによって、原子力事業者の東京電力に膨大な損害が発生し、他方で、寝たきり老人が避難の途中で亡くなるなどした「人の死傷」の結果が生じたというものだ。

そのような結果を招いた原発事故の発生が予見可能であったのか、という点が問題になることは、業務上過失致死傷罪でも、取締役の善管注意義務の任務懈怠についても同様である。

問題は、その「予見」のレベルだ。

刑事控訴審判決は、津波が襲来し電源喪失の事態に至ることについて、「現実的な可能性があったことを具体的に認識できていたこと」が業務上過失致死傷罪の「予見可能性」の要件になるとした上、「長期評価」は、そのような10メートル盤を超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識させるような性質を備えた情報であったとは認められないとして、予見可能性を否定した。

一方、代表訴訟判決で問われた任務懈怠は、東京電力という株式会社の取締役として、会社から経営を委任される立場として、実質的所有者である株主の利益を追求するため、必要な注意をもって委任事務を処理する義務、つまり会社に損害を与えることを防止するための取締役としての義務に違反したことだ。

過酷事故が起きれば、原賠法等によって、無過失・無限責任を負う原子力事業者には膨大な損失が生じることになる。そのような原発事故による会社の損害の発生を防止する取締役としての義務については、一般的に言えば、予見される事象によって会社に生じる損害が大きければ大きいほど、は高度のものになる。

その可能性が低いと思えても、また、可能性の認識に具体性が乏しく、「危惧感」を覚える程度でも、その発生に備えて対策を講じることが取締役としての義務ということになる。

原発事故に関しては、原発事業者である東京電力は、原賠法で無過失・無限責任を負担しており、放射能漏れ事故が発生した場合に膨大な損害を負担することになるのであるから、万が一にも事故が発生しないよう、事故の可能性についての認識のレベルは低いものであっても、対策を講じるべき義務があるということになる。

そこで、代表訴訟判決は、東京電力にとっては、一定のオーソライズがされた、相応の科学的信頼性を有する「長期評価」は、無視することができない存在であり、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役において、「長期評価の知見に基づく津波対策」を講じる義務があった、として、何らの津波対策に着手することなく放置する本件不作為の判断は著しく不合理だとして、東電旧経営陣の任務懈怠を認めたのである。

刑事控訴審判決を踏まえ、代表訴訟判決の意義を再認識すべき

同じ大津波による原発事故についての予見可能性についての判断が、刑事控訴審判決と代表訴訟判決で異なるものとなったのは、原発事業者に対しては原賠法により無過失・無限責任を負わされ、原発事故が発生した場合に膨大な損害を負担することになっていることに最大の原因があるのであり、代表訴訟判決が「責任」を認めたのは当然の判断である。今回の刑事控訴審判決によって、何ら影響を受けるものではない。

今回の刑事控訴審判決に対して、指定弁護士は上告する可能性が高いと見られるが、従来からの業務上過失致死傷罪についての判例の見解に沿った同判決の判例違反の上告理由は考えにくく、上告審で覆る可能性は低い。比較的早期に上告棄却決定が出る可能性もあるだろう。

代表訴訟判決の認定・判断が今回の刑事控訴審判決によって否定されたかのように受け止めると、刑事の無罪判決が上告棄却で確定した場合に、代表訴訟判決の判断が最高裁で否定されたかのような誤解につながり、それが、代表訴訟の控訴審の展開に影響することになりかねない。

刑事控訴審判決で代表訴訟判決が否定されたかのように捉えることで、代表訴訟判決という、原発事故被害者が、敢えて「東電株主」となって勝ち取った「東電旧経営陣の責任追及の成果」が損なわれることにならないようにすることも重要であろう。

刑事控訴審判決は、従来の日本の刑事の実務、判例から言えば想定通りであり、一方、代表訴訟判決の判断も、前記のとおり、原賠法で無過失・無限責任を負う原子力事業者が、原発事故によって会社に生じる膨大な損失を防止する立場にある取締役の任務懈怠についての当然の判断である。

むしろ、東電旧経営陣の「責任」の有無について判断が分かれたことで、個人に対して異常とも思える金額の賠償を命じた代表訴訟判決が、日本の原子力損害をめぐる法的枠組みの異常さを示すものであること(【「13兆円賠償命令」判決が示す“電力会社ガバナンス不在”を放置したままの「原発政策変更」は許されない】)が、改めて明確になったと捉えるべきなのである。

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新年早々、甘利氏「消費増税発言」の”怪”

岸田総理大臣は、年頭の記者会見で

「異次元の少子化対策に挑戦する年にしたい」

と述べ、児童手当を中心にした経済的支援の強化などの検討を進める方針を示した。

岸田首相は、財源の話には触れなかったが、自民党の元税制調査会会長で、現在も顧問を務める甘利明前幹事長が、5日夜出演したBSテレ東の「日経ニュースプラス9」で

「岸田総理大臣が少子化対策で異次元の対応をすると言うなら、例えば児童手当なら財源論にまでつなげていかなければならない」

と発言し、その上で

「子育ては全国民に関わり、幅広く支えていく体制を取らなければならず、将来の消費税も含めて少し地に足をつけた議論をしなければならない」

と述べ、少子化対策を進めるための財源として、将来的な消費税率の引き上げも検討の対象になるという認識を示したと、新聞各紙、NHKニュース等で報じられた。

「甘利消費増税発言」が報じられるや、ツイッター上でも「消費増税の検討」トレンドとなり、甘利氏自身の「政治とカネ」問題も含め、批判で炎上状態となった。

年明けに、岸田首相が「異次元の少子化対策」と大きくぶち上げたのに、その直後の甘利氏の「消費増税」発言で国民からの反発を受けたことで、水を差された形になり、政府・自民党サイドも、鈴木俊一財務相は、1月6日の閣議後会見で甘利氏の発言について、

「将来の消費税について政府が具体的な検討はしていない」

と述べ、 松野博一官房長官も同様に、

「(消費増税に)当面触れることは考えていない」

世耕弘成自民党参議院幹事長も、ラジオ番組で

「党の一部に『消費税で』という話もあったが、ちょっと拙速だ」

と述べるなどと火消しに躍起になった。

ところが、甘利氏は、7日夜、自身のツイッターを更新し、

「テレビ出演の際の消費税に関する件ですが、要旨は以下の通りであり、真意を伝えず断片的事実を繋ぎ合わせる報道はミスリードです」

と、以下のような「司会者とのやり取り」をツイートした。

司会「総理が異次元の少子化対策を明言しましたが財源は消費税でやるんですか?」

甘利「いや総理は消費税をひき上げる積もりはないと思います」

司会「ならどうするんですか」

甘利「色々やりくりをして行くんでしょう」

司会「将来に渡って消費税は上げないんですか」

甘利「将来消費税を引き上げる必要が生じた時には増税分は優先的に少子化対策に向けるべきとは思います」

もし、甘利氏が書いている通りのやり取りだったとすると、報道は、実際の甘利発言とはかなり趣旨が違うということになる。少なくとも、「総理は消費税をひき上げる積もりはないと思います」「色々やりくりをして行くんでしょう」と発言しているのであれば、むしろ、少子化対策のための消費税増税には消極的な発言をしたことになる。

甘利氏の発言内容は、出演したテレ東のニュースで紹介されている。ところが、発言した甘利氏本人が、「断片的事実を繋ぎ合わせるミスリードの報道」で趣旨が違うと言って、「真実のやり取り」まで具体的に書いてツイートしているのだ。「少子化対策と消費増税」という重要な問題についての重大な問題報道になると思うのが当然だ。

私自身も、甘利氏が「少子化対策のための消費税増税が検討の対象になる」と発言したと報じられたことに対して、すぐに、自らのYouTubeチャンネル《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》で甘利氏の発言の批判をしていたこともあり、

その前提が違うのであれば放置できない問題だと思い、至急、甘利氏がツイートで引用していたBSテレ東の日経ニュースプラス9番組動画を確認した。

しかし、甘利氏が引用している番組動画をいくら見ても、ツイートで書いている「やり取り」は発見できない。私が見たところでは、甘利氏の発言は、ニュース、記事で紹介されてる通りだ。甘利氏が、報道は断片的事実を繋ぎ合わせるものでミスリードだと言って、示している「真実の発言」のやり取りが、動画を何回見てみても確認できないのだ。

私は、1月8日朝、

そして、1月9日朝には、

とツイートした。

これらの私のツイートには、賛同するリプライや引用ツイートがあり、甘利氏がツイートで引用する番組動画には、「書かれているやり取りはない」、というツイートが多数あったが、甘利氏からは、その後全く反応はなく、問題のツイート以降、沈黙している。

甘利氏は、敢えて、消費税論議に先鞭をつけていい格好しようとしたものの、逆風が予想以上に大きいことに狼狽して、その発言自体をなかったことにしようとしたのだろうか。

それにしても、自らのテレビ番組での発言について、ツイートで「報道がミスリード」だと批判し、テレビ出演での「やり取り」を具体的に示したにもかかわらず、その「やり取り」が実際には全く無かったのだとすると、「司会者とのやり取り」を「捏造」したことになる。

甘利氏は、小選挙区落選で幹事長は辞任したとは言え、今なお、自民党の重鎮、実力者であり、しかも自民党税制調査会に大きな影響力を有する。その甘利氏が、岸田首相が打ち出した少子化対策の財源について、「消費増税の検討」について積極的な発言をしたのか、それを否定するような発言をしたのか、それは、今後の消費税をめぐる議論においても、重要な話のはずだ。もし、その点について、甘利氏が「やり取り」を捏造してツイートしたのだとすると、自民党有力政治家の発言の信頼性そのものに関わる重大な問題である。

ところが、不可解なことに、このように甘利氏が「真意を伝えず断片的事実を繋ぎ合わせる報道はミスリード」とツイートしていることに対して、「甘利氏消費増税発言」を報じた新聞、テレビ等は、それに反論するわけでもなく、批判を受け入れて訂正するでもなく、完全にスルーしてしまっている。

中には、スポニチのように、【甘利明氏 少子化対策の消費増税案に「報道はミスリードです」テレビ番組での発言のやり取りを紹介】と題して、甘利氏のツイートをそのまま垂れ流している記事もある。

甘利明氏 少子化対策の消費増税案に「報道はミスリードです」テレビ番組での発言のやり取りを紹介(スポニチアネックス) – Yahoo!ニュース

自民党税制調査会の幹部を務める甘利明前幹事長(73)が7日、自身のツイッターを更新。少子化対策の消費…news.yahoo.co.jp

岸田首相が、年頭会見でぶち上げた「異次元の少子化対策」というのも、中身は、従来の対策の延長上だ。それを「異次元」にするとすれば、余程、予算規模が大きくするのか、その財源は?と思った途端に出てきた「甘利氏消費増税発言」。

ところが、本人は、その発言を否定して発言を報じる報道をミスリードだと批判、ツイートで、実際の「司会者とのやり取り」まで示しましたが、その「やり取り」は番組動画でも確認できない。しかし、その後、甘利氏は沈黙、報じたマスコミも沈黙している。

年明けから、「甘利氏消費増税発言」をめぐって起きていることは、まさに、「」そのものだ。

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「13兆円賠償命令」判決が示す“電力会社ガバナンス不在”を放置したままの「原発政策変更」は許されない

事故当時の東電幹部に13兆円の賠償を命じる(世界最高額の)判決

東日本大震災に伴って発生した福島第一原発事故から11年余、その深刻かつ重大な被害から今も逃れられない多くの被災者がいる。事後発生時からこれまでの間に、故郷からも我が家からも引き離され、失意のうちに亡くなった人も少なくない。

東京電力の当時の旧経営陣に対して、事故を発生させた責任の所在を明らかにし、法的責任を追及しようとする動きの前に、日本の法制度の壁がたちはだかった。業務上過失致死傷罪という「犯罪」による処罰を求めて告訴したが、検察は不起訴、検察審査会の起訴議決で「強制起訴」されたものの、一審は全員無罪の判決が出ている。

そうした中、原発事故被害者の東電の株主48人が、旧経営陣5人に対し、津波対策を怠り、原発事故が起きたために廃炉作業や避難者への賠償などで会社が多額の損害を被ったとして、東電旧経営陣に対して提起した「株主代表訴訟」に対する一審判決が、2022年7月13日に言い渡された。

東京地裁は、巨大津波を予見できたのに対策(原発建屋などの水密化、内部に水が流入しない対策)を先送りして事故を招いたと認定。取締役としての注意義務を怠ったとして、勝俣恒久元会長と清水正孝元社長、武黒一郎元副社長、それに武藤栄元副社長の4人に対し、連帯して13兆3210億円を支払うよう命じた。

通常、個人より高額になるはずの会社への賠償額を含めても、世界最高額になると思われるような莫大な金額だ(これまで裁判上の手続きにおいて一度に確定した賠償の最高額は、英石油大手BPが2010年4月にメキシコ湾で起こした大規模原油流出事故の、BPと沿岸政府・自治体との訴訟和解賠償金としての総額が208億ドル[約2兆5000億円]と推測されている)。

この判決のわずか一か月前の6月17日に、同じ東京電力福島第一原発事故をめぐって、最高裁判所が、原発被災者に対する国の賠償責任を否定した判決を出していた。

それもあって、この「13兆円賠償命令判決」に対して、

「現実離れした賠償額に驚く」(読売「社説」)、

「またもや司法の大迷走だ」(産経「主張」)

など、異常な賠償額や、最高裁判決との矛盾などを理由に批判的な報道がある一方で、朝日は、社説「断罪された無責任経営」のなかで

「事実を踏まえた説得力のある指摘だ。最高裁の判断は早晩見直されなければならない。」

と指摘し、東京は、社説「甘い津波対策への叱責」のなかで

「後世に残る名判決」

と評価するなど、マスコミの評価はみごとに真っ二つに割れた。

このように、裁判所の判断とそれに対する評価が大きく分かれたのはなぜなのか。その原因については、これまで殆ど報じられて来なかった。

株主代表訴訟は、「会社のための訴訟」であり、取締役と会社の間の内部的な問題なので、勝訴しても賠償金は会社に対してのみ支払われる。賠償金の支払を受ける東京電力は、リスクの高い事業によって収益を上げ、その恩恵にあずかってきた立場である。被害者が加害者の法的任追及をする「本来の手段」とは言い難い。被害者にとって「一銭の得」にもならず、単に、東電経営者に膨大な金銭的損失を負わせることで、処罰感情を満足させる意味しかない。

しかし、一見「筋違い」にも思える訴訟で、訴訟大国アメリカでも類を見ない、もちろん日本でも前例のない、異常な金額の賠償を命じる判決が出された。それは、日本の原子力損害賠償法(以下、「原賠法」)の枠組みの構造的欠陥と、それに起因する原子力事業における電力会社の「ガバナンス不在」の現実を反映したものだった。

原発をめぐる政府の方針転換

2011年の東京電力福島第一原発の事故以来、歴代首相は原発の新増設を認めず、電力発電に占める原発依存度は可能な限り低減させる政策を貫いてきた。ところが、岸田文雄首相は、ロシアのウクライナ侵攻で発生した石油や天然ガスの供給不安をエネルギー危機と捉え、

「原子力規制委員会による設置許可審査を経たものの、稼働していない7基の原子力発電プラントの再稼働へ向け、国が前面に立つ。」

「既設原子力発電プラントを最大限活用するため、稼働期間の延長を検討する」

「新たな安全メカニズムを組み込んだ次世代革新炉の開発/建設を検討する」

などの方針を打ち出している。

しかし、福島原発事故までの原発事業は、実際には、原子力事業者だけに責任を押し付ける原賠法の異常な枠組みの下、各電力会社は、「原発安全神話」を前提に、「いざとなったら国が助けてくれる」という全く自律性を欠いたガバナンスによって運営され、それが多くの重大な不祥事の原因にもなってきた。

今回、民事の損害賠償命令として「異常な金額の賠償命令判決」が出されたのも、「原賠法の特異な法的枠組み」と、それに起因する電力会社の「ガバナンス不在」が原因で、福島原発後も、重大な電力会社不祥事が相次いでいる。岸田政権がそのような現実に全く目を向けることなく、日本の原発政策の大きな転換を行うとしていることには重大な問題がある。

原賠法による損害賠償責任の特異性

原賠法が定める日本における原子力損害の賠償責任は、「無過失責任」とされている。原子力事業者側は、そもそもそのような危険な施設を設置し、事業を行うことで巨額の利益を得ているのであるから、危険なものを管理する者は、過失がないとしても、そこから生じた損害に対して責任を負うべき、という「危険責任」の考え方や、被害者からの賠償請求を容易にする「被害者保護」の観点から、原賠法は、被害者が加害者に故意又は過失があったことを立証する義務を不要としている。

このような原子力損害についての「無過失責任」は、発電所を持つ諸外国においても一般的に採用されている。

原賠法は、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」による場合には賠償責任を負わない規定を設けている。しかし、法的にみても、「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱」との文言からして、単なる不可抗力は想定しておらず、戦争などに比べても「想像を絶するような事態」「超不可抗力」だと解釈できる。東日本大震災と、それに伴う津波のレベルであれば、上記の規定が適用される余地はない。

原賠法には、とくに原子力事業者の責任制限、金額の上限等についての規定がなく、他の一般的な法律同様、原子力事業者は無限に責任を負うものと理解されている。

原発事故について、このような「無限責任制」を採用する国は、他にドイツやスイスなど極めて少数であり、アメリカをはじめ、他の多くの国の原賠法制度では、原子力事業者の賠償責任に一定の限度を設けていて、世界的には、有限責任が基本的な原則の一つとされている。

「無限責任」を負うことが、万が一原発事故が発生した際に、どれだけの金額に上るのか。原賠法制定の2年前の1959年に、科学技術庁が社団法人日本原子力産業会議に委託して行った調査の報告書が存在する(「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」)。これによれば、当時の貨幣価値で最大約3兆7,000億円の損害が発生するとの試算が出されている。当時の国家予算の2倍以上という莫大な金額だ。

 このように厳格な「無限責任」を負わされる原子力事業者は、万が一原発事故が発生して損害が発生した場合、「莫大な責任」を負うことになるので、その履行の担保が必要となる。そこで、原賠法及び補償契約法では、「民間保険契約」と「政府補償契約」の締結を義務付けており、これらの損害賠償措置を講じていなければ原子炉の運転等を行ってはならないと規定している。民間保険契約は一般的な事故をカバーするのに対し、政府補償契約は民間保険契約では補償されない部分(地震、噴火、津波等)を対象としていて、万一事故が発生した場合、いずれか一方から一事業所あたり最大1,200億円(法制定当時は50億円だった。)が支払われる仕組みになっている。

しかし、賠償措置額は、法制定時で50億円、現在でもわずか1200億円であり、試算された被害想定額と比較してあまりにも少額であり、それを超える金額については、原子力事業者が自ら支払う義務が残る。しかし、その履行の確保について、原賠法は、何の仕組みも設けていない。

原子力事業者への責任集中及び求償権の制限

原賠法は、原子力事業者以外の者は一切の責任を負わないとする「原子力事業者への責任集中」を規定し、原子力損害については製造物責任法等を適用除外とすることとし、賠償責任を負った原子力事業者は、他に自然人の「故意」により損害が発生した場合にのみ求償権を有することとしている。メーカーや工事会社等の原発関連事業者は、原子力損害についての損害賠償責任を基本的に負わない仕組みとなっている。

製造物責任の考え方でいけば、本来は、製造物の生産で利益を得ているメーカーは、製造物に「欠陥」があり、「欠陥」のある原発プラントを設置した場合には、原発メーカーが「無過失責任」を負うことになるはずだ。ところが、原賠法は、メーカー等のこうした重い責任を免除し、原子力事業者にのみ責任が集中する仕組みを採用した。

その理由については、

①被害者が賠償請求の相手方を容易に特定できること

②メーカーや工事会社等の原発関連事業者を被害者の賠償責任との関係で免責することにより、民間企業が巨額の賠償責任を負うことを恐れて参入しなくなる事態を避け、原子力産業を健全に育成し、原発資材供給等の取引を容易にすること

③メーカー等も責任を負う可能性があれば、それに対して保険加入を求めるようになるが、そうなると保険業界として各事業主体に十分な保険を用意できなくなるおそれがあるので、原子力事業者のみに責任を負わせ、重複なく保険による賠償措置を講じることができるようにして、原子力事業者のために提供される保険の引受能力を最大化するため

などと説明されている。

このうち、①は、被害者が賠償請求を行う相手を原子力事業者に集中させる理由としては理解ができるが、求償権を制限して、原発メーカー等を免責する理由にはならない。③「保険の集中の必要性」については、前述したように、保険によって賄われる賠償措置額が、被害想定と比較して少額すぎ、集中させたところでたかが知れている。むしろ、大企業の多い原発メーカーなども、責任主体に加えたほうが、被害者への賠償責任を果たすという意味では適切とも考えられる。

結局、原発メーカーの製造物責任をほぼ全面的に免責にする理由は、実質的には、上記②の「民間企業が巨額の賠償責任を負うことを恐れて参入しなくなる事態を避ける」ということしかあり得ない。

しかし、民間企業という意味では、原子力事業者となる「電力会社」も同じである。同じく原発をビジネスとする企業であっても、電力会社は無過失責任、無限責任を負うのに対し、原発メーカーは原発事故に対してほぼノーリスクというのは明らかに不公平だ。

なぜ、原賠法がそのような不公平な制度の枠組みとなったのか。実際には、原発メーカーが免責されたのは、政治的・外交的理由であることが明らかになっている。その経緯には、GE(ゼネラル・エレクトリック)、東芝等の原発メーカーが関わっていた。

立法当時、米国らは冷戦時代に突入し、軍需産業としての原子力産業維持のため、原子力の平和利用を国策として積極的に推進していた。この米国の意向を受けたGEは、円滑・安全なプラント輸出のために、自社の完全な免責に強くこだわり、日本の原賠法の立法過程にも口を出していた。原子力災害補償専門部会での当初案では「故意若しくは過失」により原子力損害を生じさせた場合には原子力事業者が求償できるとの規定であったのが、GEや東芝などの原発メーカーの要求によって過失責任が削られ、最終的に、原発メーカーは「故意」に原子力損害を生じさせた場合でない限り、何らの責任も負わない規定となったのである。

このような規定は、原子力事業者に、不当な責任を押し付けられているという意識すら生じさせかねず、原発メーカーのモラルハザードを生む危険性がある。

非常にあいまいな「国の責任」

原賠法は、賠償責任が賠償措置額を超える場合の国の責任について、「必要と認めるとき」は、政府が原子力事業者に対して「必要な援助」を行うという極めて曖昧なものにとどめている。世界では少数派と言える「無限責任」を原子力事業者に負わせることに加え、原子力事業者の資力を上回る損害が発生した場合に「援助」するに過ぎないというのも、我が国独自の制度であり、それによって、「国の責任」は非常に曖昧になっている。

「援助」とは、文字通り「助けてあげること」であり、義務ではない。また、援助の対象は原子力事業者であって、被害者ではない。国が直接的に被害者に賠償責任や義務的負担を負うのではなく、賠償責任を一義的に負う原子力事業者に対する資金「援助」を通じての間接的な支援にとどまるという構造となったことで、原子力政策における国・政府の責任や、賠償措置額を超えた場合の原子力事業者が負わなければならない責任の範囲等が、極めて曖昧なものとなっている。

もともとの法律の素案はこんな曖昧なものではなかった。1959年12月12日、故我妻栄東京大学名誉教授を会長とする原子力災害補償専門部会は、原子力事業が国を挙げて取り組む政策である以上、被害者の保護に欠けるところがあってはならないという趣旨から、「損害賠償措置によってカバーしえない損害を生じた場合には国家補償をすべきである」と答申している。

しかし、法案では国家補償制度は見送られ、「援助」という極めてあいまいな規定となった。

同時期に試算された莫大な被害想定が行われていたことを考えると、当初から、国が賠償責任を負うことによる財政的懸念が、原子力事業を開始することの支障にならないように、意図的に国の責任を曖昧にしたのではないかと考えられる。

「原賠法の枠組み」の根本的な問題

科学技術庁の説明によれば、前記の最大約3兆7,000億円という損害の試算は「結果的にはこの法案には直接反映しなかった」とのことである。

 通常の経営判断・合理的判断で考えれば、無限責任を負わされ、国の責任はあいまいで、理不尽な規定もある原賠法の下で、莫大な被害が想定される原子力事業に参入し、原子力事業者になろうと手を挙げる民間電力会社など、ないはずだ。

しかし、沖縄電力を除く全国の電力会社が原発を作り、原子力事業者になった。

このような莫大な損害について「無限責任」を負うことを前提に原発事業を行うというのは、「原発事故が発生する可能性はない」という「原発安全神話」を前提にしない限り、私企業の経営者として行い得る判断ではない。しかし、電力各社は、横並びで原発事業に参入した。万が一、法の想定しない莫大な被害が発生した場合には、「国が助けてくれるだろう」と期待し、それ以上のことは考えなかったのであろう。

それは、独立した私企業としての株式会社の経営者の判断としては、あり得ないものであり、客観的に見れば、そのような重大なリスクを伴う原発事業に参入したこと自体が、取締役としての善管注意義務反であり、それを敢えて行う電力会社には「自律的なガバナンス」は存在しなかっと言わざるを得ない。

 全国の電力会社経営者は、国策にしたがい、原発事業への参入を決断し、「原発安全神話」を妄信し、原発事故のリスクには目を背ける姿勢で原発事業を運営してきたのである。

 そして、東日本大震災に伴う大津波によって福島原発事故が発生、原発周辺の住民に深刻な被害を発生させた。そして、最終的に、その責任追及の矛先が向かったのが、福島第一原発の運営に関わった東電経営陣個人であり、その場となったのが株主代表訴訟だった。会社法上の「善管注意義務違反」という会社経営者として任務懈怠の責任を問われた結果、合計13兆円という、年収合計の数万年分という異常な金額の損害賠償を命じたのが「7月13日東京地裁判決」だった。

「13兆円賠償命令」判決の必然性

株式会社は営利を目的としており、会社に利益をもたらすような経営をするのが取締役の善管注意義務の中心的な内容であり、会社に損失を与えないよう「善良な管理者の注意義務」を尽くさなければならない。それに反すれば、任務懈怠による損害賠償責任を負う。

 事故に関係する東電幹部4人の善管注意義務違反による損害賠償責任を認めた判決の論旨は、誠に明快だった。

 まず、原子力事業者である東京電力の取締役の善管注意義務について、一般論として、

「原子力事業者である東京電力の取締役であった被告らが、最新の科学的、専門技術的知見に基づく予見対象津波により福島第一原発の安全性が損なわれ、これにより周辺環境に放射性物質が大量放出される過酷事故が発生するおそれがあることを認識し、又は認識し得た場合において、当該予見対象津波による過酷事故を防止するために必要な措置を講ずるよう指示等をしなかったと評価できるときには、当該不作為が会社に向けられた具体的な法令の違反に該当するか否かを問うまでもなく、東京電力に対し、取締役としての善管注意義務に違反する任務懈怠があったものと認められるということになる」

という前提を示した上、阪神大震災の教訓から、地震の研究成果を社会に発信するために発足した地震調査委員会が、2002年7月31日に公表した「長期評価」(長期的な地震予測)の見解について、

「単に一研究者の論文等において示された知見にとどまらず、津波の予測に関する検討をする公的な機関や会議体において、その分野における研究実績を相当程度有している研究者や専門家の相当数によって、真摯な検討がされて、その取りまとめが行われた場合であって、一定のオーソライズがされた相応の科学的信頼性を有する知見であった」

として、

「相応の科学的信頼性を有する知見として、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役において、当該知見に基づく津波対策を講ずることを義務付けられるものということができる」

と評価して、津波の予見可能性を肯定している。

そして、

「原子力発電所の安全性や健全性に関する評価及び判断は、その前提とする自然事象に関する評価及び判断も含め、極めて高度の専門的・技術的事項にわたる点が多いから、原子力発電所を設置、運転する会社の取締役としては、会社内外の専門家や専門機関の評価ないし判断が著しく不合理といえるような場合でない限り、これに依拠することができ、また、そうすることが相当というべき」

とした上、

「何らの津波対策に着手することなく放置する本件不作為の判断は、相応の科学的信頼性を有する長期評価の見解及び明治三陸試計算結果を踏まえた津波への安全対策を何ら行わず、津波対策の先送りをしたものと評価すべきであり、著しく不合理であって許されるものではない。」

などとして、4人それぞれの任務懈怠の時点から津波の襲来時までに水密化措置を講じれば事故も回避可能であったとして、会社の損害と任務懈怠との因果関係も認めた。

歴代の電力会社経営者による「リスクの継承」

原子力事業者である電力会社だけに責任を集中させ、製造メーカーへの求償すら認めないという、原賠法による、あまりに原子力事業者にとって不利な法制度の下で原発事業を行うということは、会社にとって巨大なリスクを伴うもので、その事業実施の決定自体が、電力会社の取締役にとって善管注意義務違反に近いものであったが、当時の電力会社経営者は、原発事業への参入の決定を行い、それが歴代の電力会社経営者に継承されてきた。

そうである以上、その巨大リスクが顕在化することがないように、最新の科学的・専門技術的知見に基づく予見対象津波により、周辺環境に放射性物質が大量放出される過酷事故が発生を防止するために万全の措置を講ずることが、電力会社経営者の当然の善管注意義務だったが、東電の取締役がそれを尽くしていたとは言えないことは明らかだった。

そこには、「国の原子力政策への盲従」、「安全神話の妄信」、そして、「電力会社間の横並びの意思決定」があるだけで、本来、上場企業の経営者として求められる「自律的ガバナンス」は全く存在していなかったのではないか。

福島原発事故前、電力会社の経営者は、日本では放射能漏れを伴う原発事故は起こり得ないという「安全神話」を前提に、その「神話」について、世の中の理解、とりわけ原発周辺住民、立地自治体等の理解を促進するという「理解促進活動」を徹底すること、その関係者・有力者を懐柔し、原発の運転に支障が生じないようにすることが「至上命題」であった。そして、そのためにはコストを惜しまないこと、そして、そのような「理解促進活動」を組織的に行うが、実態の一部は、世の中に知られることがないよう秘密裏に行うことなどが大前提とされていた。しかし、そのような「安全神話」を前提とするガバナンスは、福島第一原発事故という放射能漏れによる重大事故、悲惨な被害の実態を目の当たりにした、「原発事故後の世の中」においては、到底通用するものではなかった。

「ガバナンス不在」の東京電力経営陣の福島原発事故対応の惨状

 原発事業という電力会社事業の根幹に関わる「ガバナンス不在」は、福島原発事故発生直後から、様々な不祥事として顕在化した。

東日本大震災に伴う大津波が襲来し、東電福島第一原発が危機にさらされていた時に、事故当事者の東電代表取締役2人はどのような行動をとっていたのか。

清水正孝社長は「関西に出張中」と報じられたが、実際には平日でありながら妻と秘書を従えて、奈良観光をしていた。大地震による交通途絶のため、東電本社に戻ったのは翌日午前10時だった。3月13日に記者会見を開き、放射性物質の漏洩を謝罪したが、その後、めまいや高血圧で入院したこともあり、公の場に姿を見せたのは事故から1ヶ月目の4月11日だった。

勝俣恒久会長は、東日本大震災当日、副社長とともに、日中の経済交流を進める訪中団の一員として中国にいた。福島原発事故の最中、自衛隊統合幕僚監部運用部長に対して「自衛隊に原子炉の管理を任せます」と東電の事故対応の責任を放棄するかのような発言をしたことも問題とされた。

 一つ間違えば東日本が壊滅する程の深刻な原発事故を目の当たりにし、多くの国民が、原子力事業がいかに大きな危険をはらむもので、一度事故が起きれば、多くの市民・国民の生活を破壊し、社会にも壊滅的な影響を与えるものであるかを痛感した。そうした中で、原発事故当事者の原子力事業者である東電の代表取締役2人の事故後のあまりに無責任な対応・言動に、東電のみならず電力会社の経営者全体に対する信頼が大きく損なわれることになった。

「九電やらせメール事件」の原因となった原発「理解促進活動」の不透明性

 原発事故後、原発施設の安全対策が十分なのかという客観面の問題に加えて、原発事業を運営する電力会社が、万一重大な事故が発生した場合に、安全を確保するための万全の措置をとり得る能力を有しているのか、情報公開・説明責任等について信頼できるのかという人的、組織的な問題が、社会の大きな関心事となった。

電力会社の「ガバナンス不在」は、福島原発事故後、停止中の原発の運転再開をめぐる世論形成に関する不祥事という形で顕在化した。事故後初の運転再開をめざしていた玄海原子力発電所2、3号機について、経済産業省が主催し生放送された「佐賀県民向け説明会」実施にあたって、九州電力が関係会社の社員らに運転再開を支持する文言の電子メールを投稿するよう指示していた「やらせメール問題」が表面化した。

この問題について、九州電力は、第三者委員会を設置し、委員長には私が就任した。委員会の下で調査を担当した弁護士チームにより、佐賀県の古川康知事の発言を発端に、九州電力が、説明番組に関して、同社及びクループ企業社員・取引先社員等に働きかけて、組織的に「賛成投稿」を増やそうとした事実が明らかになった。それに加え、2009年の玄海原発 3 号機へのプルサーマル導入に関する佐賀県主催の討論会でも、「仕込み質問」で会場の市民からの賛成意見を偽装するなど、原発をめぐる議論の透明性を害する行為を行い、そのことが佐賀県側に事前に報告され容認されていた事実も明らかになった。

これらの事実を踏まえ、第三者委員会報告書では、問題の本質を、福島第一原発事故による環境の激変に適応し、事業活動の透明性を強く求められるに至った九州電力が、その変化に適応できず、企業としての行動や対応が不透明であったこと、その背景に、九州電力と原発の立地自治体側との不透明な関係があったことを指摘した。

このような原発事業に関連する「不透明性」が問題の本質だとする第三者委員会の指摘に対して、真部利應社長を中心とする九州電力経営陣は強く反発した。調査開始後まもなく、原発部門は、立地自治体の政治家との関係に関する資料廃棄などの露骨な調査妨害行為を行い、内部告発で、廃棄の最中に発覚しても毅然たる態度をとらなかった。第三者委員会の調査結果に対しても、「当社の見解」を公表して、古川知事の発言が組織的な賛成投稿の発端だったことを否定し、第三者委員会の調査結果を経産省に報告する際にも、古川知事に関する部分を除外するなどした。

当時の枝野幸男経産大臣は、自ら設置した第三者委員会の意見を否定する九州電力経営陣の姿勢を厳しく批判した。

九州電力は、経産省から再報告を求められたが、その後も、第三者委員会側との対立が続いた。当時、福島原発事故後の、原発の稼働に対して世の中の厳しい見方が続く中で、九州電力の6基の原発はすべて停止しており、原発依存度の高い九州電力の経営は急激に悪化していた。そうした中、第三者委員会側との対立が続き、やらせメール事件からの信頼回復が果たせていなかった九州電力には原発再稼働の見通しが全く立たない状況だった。このような状況の九州電力に対して、水面下で経営陣の人事に介入する動きを見せていたのが、当時経産省資源エネルギー庁次長だった今井尚也氏だった。今井氏は、その後発足した第二次安倍政権で内閣総理大臣秘書官、補佐官を務め、内政から外交にまで暗躍した影響力から「影の総理」とまで言われることになる「大物経産官僚」だった。

今井氏は、当時、私にコンプライアンス講演の依頼をしてきたことで面識があったった企業経営者を通じて、九州電力経営陣との対立を続けていた元第三者委員会委員長の私に接触してきた。私の意見に賛同するかのような言い方で、九州電力社長らを批判し、「早急に辞任させるべきだ」と言っていた。その後、今井氏は、携帯電話で、九州電力の会長、社長を辞任させるべく動いていることを私に連絡してきていた。

翌2012年1月12日に開かれた臨時株主総会で、松尾会長、真部社長の同年3月末での辞任が決定された。この会長、社長辞任の話も、今井氏は事前に私に伝えてきていた。表面的には、今井氏は、第三者委員会の委員長だった私に同調する姿勢を見せて、その意見に沿って、九州電力の会長、社長に責任を取らせたように思わせていたが、今井氏は、上記のような「やらせメール事件の問題の本質」の指摘に賛同して、そのような動きをしていたとは思えない。今井氏と最初に会って会食した際、私の九州電力経営陣批判に大きく頷き、同調しながらも、ふと漏らしたのが

「そういう会長、社長のままでは原発は動かない」

という言葉だった。今井氏の「本音」は、九州電力が「やらせメール問題」による混乱を続けていたのでは、全国の原発再稼働が進まないと考え、監督官庁のエネ庁からの圧力で九州電力の会長・社長を辞任させ「早期幕引き」を図ることにあったものと思われる。

前述したとおり、原発事故が発生した際の損害賠償責任がすべて原発事業者に集中する原賠法の「異常な法的枠組み」の下で、原発を設置し稼働させるという電力会社経営者の判断は、会社のガバナンスとしてはあり得ないものだった。「原発安全神話」を妄信する「ガバナンス不在」の状態が続いていたからこそ、そのような判断が可能だった。

そして、そのような「原発安全神話」を前提に、原発を稼働させることを至上命題として行われてきたのが、「電力会社と原発立地自治体の首長や有力者と不透明な関係を結び、原発立地地域に利益を供与したりして懐柔する」やり方を中心とする「理解促進活動」だった。福島原発事故で「原発安全神話」が崩壊した以上、それまでのようなやり方を全面的に改め、原発立地地域の自治体などとの関係も透明にしていくことが不可欠であり、それが、本来、福島原発事故後の原発再稼働の条件とされるべきだった。

しかし、監督官庁の経産省のエネ庁次長の今井氏の介入もあって、会長・社長の辞任で事件の幕引きが図られた。そのような問題の本質が、全国の電力会社の経営者に理解され、それを根本から是正しようとする動きにつながることがないまま、電力会社各社は、原発再稼働に向けて動いていった。

関西電力幹部の金品授受問題

2019年の9月末、関西電力の八木誠会長や岩根茂樹社長を含む同社幹部ら6人が2017年までの7年間に、関電高浜原子力発電所が立地する福井県高浜町の元助役の男性から、計約3億2千万円の資金を受け取っていた事実が明らかになった。関西電力高浜原発の工事受注に絡んで、地元の有力者に巨額の金がわたり、その一部が、電力会社の会長・社長を含む幹部に還流していたという問題だっだ。

原発事業者の電力会社と原発立地自治体の有力者との不透明な関係が、原発立地地域への利益供与だけではなく、その反対の電力会社幹部への利益供与まで行われていたという「衝撃的な事実」だった。

関西電力では、福島原発事故後に「原発安全神話」が崩壊した後も、「電力会社と原発立地自治体の首長や有力者と不透明な関係を結び、原発立地地域に利益を供与したりして懐柔する」やり方を変えていなかった。元助役による電力会社幹部への金品供与は、福島原発事故後に、一層露骨なものになっていった。

「原発安全神話」を前提とする「ガバナンス不在」の状況で原発事業を続けてきたことが「電力会社史上最悪の不祥事」につながったのが、この関西電力の金品授受問題だった。

電力会社間の事業者向け電力カルテル事件

そして、2022年12月、事業者向けの電力の販売をめぐり、中国電力と中部電力、九州電力など大手電力会社がカルテルを結んでいたとして、公正取引委員会が総額で1000億円余りの課徴金納付命令と排除命令の事前通知を発出したことが明らかになった。公正取引委員会は2021年4月から各社に立入検査に入り、調査を続けていた。

この事件は、まだ事前通知の段階で、公取委の正式の公表がないので、正確な事実は不明だが、NHKニュース(2022.12.2)によると、2016年に電力の小売りが全面自由化されたあと、関西電力がほかの電力会社の管内で営業を本格化させ、競争が始まったのをきっかけに、各社の間で協議が行われ、2018年ごろからカルテルが結ばれた疑いがあるとのことである。この報道のとおり、関西電力の「事業者向けの電力販売」という主要な事業分野の営業方針として、他の電力会社管内での営業を本格化させ、その後のカルテル合意に至ったとすると、そのような方針の決定に経営陣が関わっていないとは考えにくい。それらが、2016年から2018年にかけての時期だとすると、まさに、高浜原発に関して、高浜町の元助役から電力会社幹部への金品供与が露骨なものとなり、同助役が関わる企業に原発関連の発注が行われていた時期である。このカルテル事件も、関西電力という電力会社の「ガバナンス不在」そのものに関わる問題と考えられる。

関西電力は、調査が始まる前に違反行為を最初に自主申告したため、「課徴金減免制度」により、課徴金は免除されるなど、公取委の行政処分の対象から除外される可能性が高いが、仮にそうなったとしても、関西電力がどのような経緯で、他の電力会社管内での営業を本格化させ、その後のカルテル合意に至ったのかという点は、原発事業を営む電力会社のガバナンス問題として徹底解明する必要があることは言うまでもない。

「ガバナンス不在」のままの原発政策の大転換を許してはならない

原発事業者である電力会社各社は、福島原発事故後も「ガバナンス不在」によって様々な重大不祥事を繰り返してきたが、その根本には日本の原賠法の特異な法的枠組みがある。

日本弁護士連合会からも、2016年8月に、「原子力損害賠償制度の在り方に関する意見書」が出され、

「原子炉等の製造業者に対する製造物責任法の適用を除外した第4条第3項は廃止すべき」

「原子力事故による損害賠償額が原子力事業者の支払い能力を超える場合において、原子力損害賠償・廃炉等支援機構法を活用するほか、原子力事業者の法的整理を必要とする場合に備えて、原子力事故被害者の損害の完全・優先弁済、原子力事故の収束・廃炉にかかる作業の確保等を含む新たな制度を整備すべき」

などと、現行の原賠法の枠組みの抜本的変更を求める提言も行われているが、政府には、検討を行う姿勢は全く見えない。

原発事業者の経営者に、13兆円もの損害賠償を命じる「異常な判決」は、これまで、電力会社という民間事業者を事業の主体とし、原子力規制委員会、経産省等が指導監督するという枠組みで行われてきた原発事業の枠組み自体の重大な欠陥を示すものだ。

岸田内閣が、従来の脱原発路線から、原発を電最大限に活用する方向への政策の転換を図るのであれば、本来、原発の安全性について最終的に責任を負うべき国自体が直接して原発の運営を行う「国有化」も含めて、原子力損害をめぐる法的枠組み自体を抜本的に見直すことが不可欠だ。

福島原発事故発生時、事故発生時の電力会社、国等の当事者対応の混乱を目の当たりにした我々は、原発の安全性にとって、施設自体の客観的要素だけではなく、人的組織的な面が極めて重要であることを痛感した。それは、多くの被災者に悲惨極まりない被害を与えた原発災害から我々日本人が得た「最大の教訓」だったはずだ。

岸田政権が、日本の原発事業の人的組織的な面の重大な欠陥と電力会社の「ガバナンス不在」を放置したまま、原発の積極活用に向けて政策の重大な変更を行おうとしていることは、チェルノブイリに次ぐ最悪の原発事故を経験した国民として、到底許せることではない。

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寺田総務相「運動買収」問題、大臣辞任は避けられない

安倍晋三元首相殺害事件以降、旧統一教会問題、国葬問題などで迷走を続けてきた岸田文雄内閣(岸田艦隊)、経済再生担当・コロナ担当大臣という、主要戦艦「山際」は、旧統一教会関連団体の国際イベント参加、秘書の信者疑惑などでマスコミ・野党から猛爆撃を受け炎上を繰り返しながら、「記憶にない」の常套句で何とか沈没を免れていたが、臨時国会の予算委員会終了直後、「韓鶴子総裁の隣で写った写真」が致命的打撃となり、「違法なことはしていない」との意味不明の言葉を残して撃沈。

旧統一教会問題の被害者対策の取り纏めの重責を担う法務大臣の主要戦艦「葉梨」は、「死刑執行指揮書のハンコ」という「自爆ネタ」で爆発炎上、「外交の岸田」の外交日程を遅らせるという艦隊の旗艦「岸田」への大打撃を生じさせたうえで、あえなく撃沈した。

そうした中で、妻への政治資金還流疑惑、後援会の会計責任者が死亡していた問題など文春砲の「艦砲射撃」を受け続け、徐々に船体が傾きつつあったのが、内閣の要の一つ総務大臣という主要戦艦「寺田」だった。

「寺田稔竹原後援会」の収支報告書の記載が事実と異なることや、会計責任者が故人で、代表者も97歳で代表の認識がなかったことなどが次々と文春で報じられたのに対して、寺田氏は

「自身が指示監督すべき団体ではなく “別団体”」

などと「言い逃れ」を重ねていたが、自身の昨年10月の衆院選の選挙運動費用が「竹原後援会」名義で支払われていたことが明らかになった。後援会が費用支払いを取り次いだなどと「窮余の言い訳」で防戦したが、それによって「寺田氏自身と後援会との緊密な関係」は否定できなくなり「言い訳」全体が崩壊寸前だった。

そこに、新たに出てきた疑惑が「運動買収」だった。

11月16日発売の週刊文春で、寺田氏が昨年10月19日の衆院選公示日に、選挙区の広島5区に在住する地方議員ら計6人に選挙ポスターを貼った報酬として計4万1700円を支払ったこと、6人はいずれも同じ日に別の選挙運動にも従事したことを報道した。

ビラや証紙貼り作業、個人演説会や街頭演説の設営・撤去作業などを行う「労務者」には、法定の限度内での報酬を支払うことができる。しかし、これらの「労務者」は、あくまで機械的労務だけを行う者だから報酬の支払が認められているのであり、「選挙運動者」に該当する場合には、原則として報酬を支払うことはできない。公選法は、車上運動員・手話通訳者・要約筆記者・選挙事務員には報酬を支払うことができるが、その場合には、事前に選挙管理委員会への届け出が必要とされており、報酬の金額や支給可能な人数も制限されている。

寺田氏がポスター貼りの報酬を支払うことができるのは「労務者」に対してであり、別途「選挙運動」を行っている地方議員に対して報酬を支払った場合には、公選法221条1項の、「当選を得る目的で」「選挙運動者」に金銭を支払ったことになる。

報道されているところでは、議員らの一人は、選挙カーで応援演説まで行っているようであり、寺田氏の報酬支払が「買収」に該当することは否定できない。

選挙違反の中でも最も重大な犯罪である「買収」というのは、「票を金で買う行為」のように認識している人が多いのではないだろうか。今回の寺田氏の「買収」疑惑は、選挙運動者に対する報酬支払、つまり「運動買収」である。そこに、「買収」に対する一般的認識とのズレがある。

しかし、実際には、最近、摘発される「選挙買収」の大半は、有権者にお金を渡して投票を依頼する「投票買収」ではなく、「選挙運動の報酬」を支払う「運動買収」だ。

元法務大臣の現職衆院議員河井克行氏も、多額の現金を、直接、多数人に配布した選挙買収事件で逮捕されたが、この河井氏の事件も、その大半は「運動買収」だった。

この事件での現金供与は、

(1)県議会議員・市町議会議員・首長ら44名に対して合計2140万円

(2)後援会のメンバー50名に対して合計385万円

(3)選挙事務所のスタッフに対して合計約377万円

だった。このうち(2)(3)は、自分の支持者、支援者に対して、選挙運動の報酬を支払ったもので、投票を依頼する趣旨はほとんどない。(1)も、本人に投票を依頼することより、その影響力によって、多数の有権者に投票を働きかけてほしいという趣旨だった。だからこそ、その金額が、一人に対して数十万円、中には、100万円を超える金額に上っていた。

つまり、河井氏の多額現金買収も、殆どが「選挙運動の報酬」の支払であり、「票を金で買う行為」と単純化できるような行為ではない。

買収摘発の対象が、かつては、「投票買収」が中心だったのが「運動買収」に変わっていったのには、選挙制度をめぐる歴史的背景がある。

衆議院が中選挙区制であった頃は、選挙における同一政党の候補者同士、とりわけ保守系候補同士の争いが熾烈だった。その中で唯一、定数1の選挙区で、保守系候補同士の争いが展開された奄美群島区などでは、衆院選挙の度に猛烈な「買収合戦」が行われた。有権者に金銭を渡して投票を依頼する行為が、当選を得るために最も効果的なやり方だったのである。

しかし、1990年代に入って選挙制度が変わり、衆議院が小選挙区比例代表並立制になったことで、様相は大きく変わった。有権者の選択が政党中心になると、有権者に直接金銭を渡して投票を依頼しても、効果はあまりない。逆に、警察に通報される危険もある。90年代半ば以降は、「投票買収」の摘発は極端に少なくなっていった。

国政選挙ともなると、都道府県警察には選挙違反取締本部が設けられて摘発が行われる。そこには、一定のノルマがある。そこで、「投票買収」に代わって、買収罪による摘発の対象になったのが、自派の運動員に違法に日当を支払った、という「運動買収」であった。

河井克行氏の事件の例で言えば、選挙事務所で選挙運動に従事する者に対して報酬を支払った(3)が、「運動買収」だ。河井夫妻の一連の事件の摘発の契機となった、河井案里氏の秘書が逮捕された事件も、車上運動員(ウグイス嬢)への法定の限度を超えた報酬の支払だった。

公選法上認められた選挙運動者への報酬支払以外は、選挙運動は、ボランティアで行わなければならず、報酬を支払ってはいけないというのが「ボランティア選挙の原則」だ。実際の選挙では、選挙運動に機械的労務も含めて、相当な労力がかかり、それを行うボランティアを確保することは容易ではないというのが実情だ。

そこで、選挙運動員に対しても、なにがしかの報酬支払が行われるのが、むしろ通例だった。それが、買収摘発の対象にされてきたのが1990年代後半からだった。そのため、支援者や事務所関係者等に「選挙運動の報酬」を支払えば買収で摘発されるリスクが大きいということになる。

しかし、「ボランティア選挙の原則」どおりに、全くの無報酬で選挙運動を手伝ってくれる人を確保することは容易ではない。そこで、実際の選挙では、ある程度、違法を承知で「運動員買収」を行うことにならざるを得ないが、そこで、合法に、或いは、合法と主張することが可能な方法で選挙運動者を確保できるのであれば、それは候補者側にとって貴重であった。

そこで、「合法そのもの」の方法となるのが、宗教団体の信者による選挙活動だ。宗教団体が特定の政党や候補者を推薦支援し、信者が選挙運動を行う場合は、選挙運動は、宗教活動そのものということになるので、信者の信仰が厚ければ、報酬などなくても、まさに寝食を忘れて選挙運動に取り組む。候補者にとってこれだけ有難い存在はない。まさに「合法なボランティア選挙運動」そのものだ。

安倍元首相銃撃事件の犯行動機に関連して、国政選挙での応援など旧統一教会と自民党議員との関係が問題となった。これに関して、「旧統一教会の信者数は全国で8万人程度であり、国政選挙で大きな力にはならない」という見方があったが、それは、信者数を「票」として数えた場合である。信者の選挙運動への貢献度は、他の選挙運動者とは比較にならないものであったと考えられる。

そして、もう一つ、合法と主張することが可能なやり方として使われたのが、国政選挙での選挙活動の中心となり、まさに、票のとりまとめに貢献してくれる首長・議員などの「地方政治家」に「政治資金」としてお金を渡す方法だった。

それが、河井克行氏が行った選挙買収の(1)の、地方政治家への金銭供与だ。

地方の首長・議員には、その地域でまとまった数の支持者、支援者がいる。国政選挙でもかなりの票を取りまとめることができる。しかも、そういう政治家に、特定の候補のための活動を依頼してお金を渡しても、「選挙運動の報酬」ではなく、「政治活動のための費用の支払」であり、「政治資金を渡した」と説明することが可能だ。

実際に、河井氏も、上記(1)について、公判では一貫して、「党勢拡大」「地盤培養」のための政治資金だったとの主張を続けた。最終段階で、それまでの無罪主張を変更し、起訴事実について有罪を認めたが、その後の被告人質問でも、「政治資金として渡した」との供述を続けた。

国政選挙の度に、このような地方政治家や有力者への金銭の供与が恒常的に行われてきたことについて、河井氏が公判で述べただけでなく、同様の実態が、その後、自民党京都府連をめぐる「選挙マネロン疑惑」、新潟の星野伊佐夫県議の裏金要求疑惑など、国政選挙での買収疑惑が発覚し、刑事告発されている。

このような政治家間の金銭の供与は、「政治活動のための寄附」と弁解された場合、「選挙運動」の報酬であることの立証は容易ではない。そのため、従来は殆ど警察の選挙違反の摘発の対象にはされて来なかった。

ただし、このような選挙に関連する地方政治家等への金銭の支払に、「政治活動のための寄附」との説明が可能なのは、公示日より前の場合である。選挙期間中に候補者の応援をする行為は、「政治活動」による合法化の言い訳は全く通用しない。

寺田氏は、17日の衆院総務委員会でこの問題を質問され、

「公示日当日は、選挙カーでの演説はすべて自分が行ったので、労務者報酬を支払った人達は、公示日は選挙運動をしていない」

と答弁しているが、公示日当日、選挙カーで応援演説を行わなくても、寺田氏の陣営に加わって選挙の応援をしていた人達であれば、何らかの形で「選挙運動」に関わっていた可能性が高い。寺田氏の「言い訳」で、公選法上合法と言い切れるとは思えない。

選挙のための「地方政治家への金銭供与」を、「党勢拡大・地盤培養のための政治資金」との言い訳を用意して行うという巧妙なやり方で「ボランティア選挙の原則」をかいくぐってきたのが保守系政党の選挙のやり方だった。今回の寺田氏の地方議員への金銭支払は、少額とは言え、あまりにも、単純で初歩的な違反である。総務大臣が、このような「運動買収」を問題にされること自体、「選挙の公正」に対する職責の重さからしてあり得ない話である。

公職選挙法を所管する総務大臣という主要戦艦「寺田」に対して、この「買収」疑惑の文春砲は、トドメの一撃となる可能性が高い。主要戦艦の3隻目の撃沈で、岸田艦隊の命運も「風前の灯」と言えるだろう。

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「現役信者!?のYouTubeコメント」が示す「安倍元首相が統一教会にとっていかに“偉大な存在”だったか」

宗教学者で東大名誉教授の島薗進先生とYouTube《郷原信郎の「日本の権力を斬る!」》で対談を行い、【統一教会問題を島薗進氏に聞く】と題して、11月5日にアップした。

宗教学会の元会長、日本の宗教学の第一人者である島薗先生の話は、統一教会問題について、改めて深く考えさせられるお話だった。「宗教団体」としての統一教会が、これまで行ってきたことは、凡そ「宗教団体」ではあるまじき存在であるが、そういう活動が継続されていたことの原因の一つに自民党との関係があることなど、歴史的な経緯も含めて、しっかり理解できる大変勉強になる話だった。

この対談YouTubeをアップした日の夜、統一教会の内部者(信者)と思える人からの、以下のような興味深いコメントが寄せられた。島薗先生の話を受け止め、信者としての率直な思いをつづったもののように思えた。
現時点(11月7日)で公開されているコメントは、以下のとおりだ。

ヨイン
安倍元首相をプーチンや習近平と同じように語らないでほしいです。
格が全然違うし、独裁者でもありません。
もしご存命なら、世界を平和的にまとめ上げる力があった方です。
統一教会は反日の思想もないですし、韓国に対する原罪というものもないです。
世界平和家庭連合は神様の願う世界平和と地上天国実現のために活動しています。
神様の願いを知って、生きて働いて下さる神を実感しているのです。

このコメントは何回も編集されており、以前は、

生きて働い下さる神を実感しながらやっているので、犯罪行為にはならないのです。(神がわからない人には理解出来ないのです)

統一教会は悪であると言う決めつけで話が進んでいますが、神様という存在を抜きにして考えるとこいうふうに見えるのかと、これはこれで大変参考になりました。ありがとうございました。

という記述もあった。
コメントの主のヨイン氏が、「神様の願う世界平和と天国実現に向かって現実的に活動している」というのは、敬虔な信者として、統一教会の教理である「統一原理」を信じて活動しているという意味だと考えられる。

編集によって削除された部分の「生きて働い下さる神を実感しながらやっているので、犯罪行為にはならないのです。(神がわからない人には理解出来ないのです)
というのは、信者の立場からは、神を信じ、神を実感しながらやっているので、正体隠しの勧誘、霊感商法、「高額献金」なども、詐欺などの犯罪や不法行為にはならないという理解を述べたものだろう。

このような旧統一教会の信者だと思えるヨイン氏のコメントには、興味深い記述がある。
一つは、ヨイン氏が、「安倍元首相をプーチンや習近平と同じように語らないでほしいです。格が全然違うし、独裁者でもありません。もしご存命なら、世界を平和的にまとめ上げる力があった方です。」と述べている点だ。


これは、YouTube対談の中で、島薗先生が、


プーチンや習近平のような力強い政治指導者になびくような世界の流れがある。これは、グローバル化が進み、世界が多極化する中で、秩序の崩壊感が強いので、あまり楽観はできない。

と言われたのに対して、私が、

プーチンや習近平は自分のところに権限を集中させるために、他の人間には権力を与えないようにして独裁体制を固めている。どうしてもそういう独裁的政権では、その後を継ぐ人間がなかなかできないのではないか。日本は、安倍晋三氏が、そういう役割を担って、第1次政権の後、また復活して、第2次安倍政権が8年近くも続いていたし、もしあの銃撃事件でああいう形で亡くなるということがなければ、また政権の座に復帰して、それこそプーチンとか習近平のような権力者になっていた可能性もあると思う。

と言ったことに関して書かれたものと考えられる。
私が言いたかったのは、亡くなってみて、改めて、日本の政界における安倍元首相の存在の大きさを感じており、岸田内閣の支持率が大きく下落し、政権基盤が危なくなっていても、その後継の話が全く出てこないのは、結局のところ、自民党の権力は、安倍元首相が存命である限り、安倍氏に集中していたと考えられることを踏まえて、安倍氏の再登板、権力のさらなる集中の可能性もあった、ということを「プーチンや習近平のような権力者」になぞらえて言っているのである。
これについて、ヨイン氏は、安倍元首相を「プーチンや習近平」とは「格が全然違う」と高く評価し、「存命なら、世界を平和的にまとめ上げる力があった方」とまで言って、「平和を実現できる世界的な政治家」と称賛しているのである。

旧統一教会の現役信者と思えるヨイン氏が、島薗先生と私との統一教会問題についての対談に、率直な思いを書いてきたと思えるこれらの言葉は、安倍氏が旧統一教会の信者にとって、安倍氏が、「精神的な支柱」にまでなっていた「大きな存在」であることを窺わせるものであり、安倍氏と統一教会との関係の深さを示すものと考えることができる。

もう一つは、「反日の思想もないですし、韓国に対する原罪というものもないです。」と言い切っていることである。

これも、信者としての認識をありのままに述べたものなのであろう。

確かに、「統一原理」そのものには、反日的なものや日本が韓国に対して負う原罪という話は出てこないことについて、島薗先生も、以下のように話している。

我々が若いころに勉強したのは「原理講論」というこれは基本的な教典になるんですが、なかなかこれはがっちりとした論理的な言葉で書かれているんですね。ソウル大学を出た人がまとめた。韓国では、梨花女子大事件というのもあってね。韓国でも早い時期に高学歴層に浸透したんですね。その原理講論の中には、日本語訳には、日本と韓国の関係に関するようなところは訳してなかった、というふうな記述があります。84年の世界日報編集局長の事件のときの文藝春秋の記事には、韓国中心ということは強く書いてあるけれども、日本から特に収奪するというふうにはなっていないです。

つまり、原理講論の「日本語訳」には、「反日の思想」や「韓国に対する原罪」などということは書かれておらず、日本の信者の人達は、教理上は、そのような考え方はないと認識しているということなのだ。
「韓国に対する原罪」は、過去の高額献金や合同結婚式などのカルト的手法に関連して、必要に応じて使ってきたもの、ということであろう。
現在の信者には、「反日の思想」「韓国に対する原罪」の認識がないということも十分に考えられる。

旧統一教会の現役信者と思えるヨイン氏は、島薗先生と私のYouTube対談を視聴し、敬虔な信仰心による真剣な言葉をコメントとしてきたものと思える。統一教会問題を考えるに当たっても、それが、現役の信者の率直な思いであることを、しっかり受け止めなければならない。
旧統一教会の実態は、現役信者の立場からすれば、ヨイン氏が認識しているとおりかもしれない。
しかし、世の中の一般的な認識のとおり、旧統一教会の実態が、過去と大きく変わるところはなく、正体隠し勧誘やマインドコントロール下で高額献金を行わせたりする「反社会的団体」なのであれば、そのような教団の実態を認識することなく、信仰の世界に没入しているヨイン氏のような信者は、まさにマインドコントロールの被害者そのものだということになる。
そして、安倍元首相は、そのような信者に「平和を実現できる世界的な政治家」とまで慕われていたということになる。日本の政治権力の中枢にあった安倍元首相が、統一教会と関わってきたことの深刻さを、改めて認識すべきであろう。
自民党にとっても、その最大派閥の安倍派にとっても、それは目を背けることができない現実である。

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「玉川発言」への批判、謹慎処分は正当なのか~放送コンプライアンスの視点から考える

「羽鳥慎一モーニングショー」のレギュラーコメンテイター玉川徹氏が、安倍元首相の国葬の翌日の9月28日の番組で、菅前首相の追悼の辞に関して「電通が入っていますからね」と発言したことについて、実際には、電通は国葬に一切関わっていないことが判明したとして、翌日の番組で玉川氏が訂正・謝罪し、その後、テレビ朝日から10日間の謹慎処分を受けた。

「菅前首相の追悼の辞」は、参列者の涙を誘い、「葬儀」としては異例の拍手が行われるなど、心を打つものと好評だった。それに対して否定的なコメントをした玉川氏が訂正・謝罪に追い込まれたことで、保守派の言論人、芸能人・タレントなどによる玉川氏批判が行われ、それを受けるように、テレビ朝日が玉川氏への謹慎処分と番組関係者の社内処分を発表した。SNS上では、「玉川氏への謹慎処分が生温い」として番組降板などを求める声が上がる一方、玉川氏を擁護する声、謹慎処分に抗議する声も上がっている。

また、自民党の西田昌司参院議員が、玉川氏の発言へのテレビ朝日の対応に関して

「国民は、政治的に公平だという前提でテレビを視聴する。虚偽の情報を事実として伝えることは危険な『政治的偏向』だ。テレビ朝日は、玉川氏個人の事実誤認としているが、本当にそうか。組織として詳細な経緯を説明する責任がある」

などと批判し、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べた(夕刊フジ)。

これに対して、ジャーナリストの江川紹子氏が、ツイッター上で

「与党議員が『国政の場』に持ちこむ話ではない。電通や菅氏がこの処分に不満であれば、BPOに申し立てればよい」

と批判している。

このように大きな騒ぎに発展している玉川氏の発言に、どのような問題があるのか、番組での訂正・謝罪に加えて、発言者個人の謹慎処分、社内処分まで行われたことは適切だったのか、その後も続く批判が正しいのかなどについて考えてみたい。

放送内容の真実性、政治的公平についての放送法の規定

「政治的中立性」「真実ではない放送」について、放送法は、以下のように規定している。

まず、「放送番組の編集」について、4条で、

放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

として、「事実の捏造・歪曲」などをすることを禁止した上、9条1項で

放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から三箇月以内に請求があつたときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消しの放送をしなければならない。

として、「権利を侵害された者」「直接関係人」からの請求による調査と、それに伴う訂正・取消を規定し、2項で、

放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも、前項と同様とする。

として、放送事業者側の自主的な調査、訂正・取消を規定している。

一方、4条2号の「政治的中立性」については、9条のような調査、訂正・取消の規定はなく、5条により「番組基準」の公表が義務付けられ、6条で放送番組審議機関が設置され、放送番組の適正を図るため必要な事項を審議、放送事業者に対する意見を述べるとされており、放送の適正のための一般的な枠組みに委ねられている。

問題とされた玉川氏の発言

今回の玉川氏の発言について問題とされたのは、

(1)国葬が演出によって作られていること

(2)演出に電通が関わっていること

の2点である。

事実に関する2点のうち、(2)の電通の関わりについては、「放送をした事項が真実でないことが判明した」として訂正放送が行われた。この事項について、「権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」に該当するとすれば電通だが、電通からの請求があったのかどうかは不明だ。電通からの請求はなく、テレビ朝日が自主的に調査、訂正・取消をしたということであれば、9条1項ではなく、2項によって行われたものということになる。

そもそも、電通が、安倍元首相の国葬に関わっていないのに関わっていると言われたとしても、それによって、電通の権利がどのように侵害されるのだろうか。「権利侵害性」のレベルと比較しても、テレビ朝日は訂正放送を行っており、十分な措置だったと言える。

一方、(1)の演出については、上記のように、玉川氏の発言に対して反発し、批判している人の多くは、「参列者に感銘を与えた菅氏の素晴らしい追悼の辞」に対して、演出が入っているなどと言って「貶めた」として批判しているようだ。

問題となるのは、この点についての玉川氏の発言の趣旨だ。多くの批判で前提とされているように、「菅氏の追悼の辞に演出が入っている」という意味なのかどうかである。

この点に関しては、直接的に問題とされた上記発言だけでなく、そこに至るまでの玉川氏の発言全体を踏まえて考えてみる必要がある。以下が、関連する玉川氏の発言全体だ。

「これこそが国葬の政治的意図だと思うんですよね。当然これだけの規模の葬儀、儀式ですから、荘厳でもあるし、個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はあると思うんですよ。

 しかし、例えばこれが国葬じゃなくて、内閣葬だった場合、テレビでこれだけ取り上げたり、この番組でもこうやってパネルで取り上げたりVTRで流したりしないですよね。国葬にしたからこそ、そういった部分を我々は見る、僕も仕事上見ざるを得ない状況になる。

 それは例えれば、自分では足を運びたくないと思っていた映画があったとしても、なかば連れられて映画を見に行ったらなかなかよかったよ、そりゃそうですよ、映画は楽しんでもらえるように胸に響くように作るんです。だからこういう風なものも、我々がこういう形で見れば胸に響くものはあるんです。それはそういう形として国民の心に既成事実として残るんですね。これこそが国葬の意図なんですね。だから僕は国葬自体、ない方がこの国にはいいんじゃないか、これが国葬の政治的意図だと思うから。

 僕は演出側の人間ですからね。演出側の人間としてテレビのディレクターをやってきましたから、それはそういう風に作りますよ。当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。当然これ、電通が入ってますからね」

玉川氏は「菅氏の弔辞が他人の演出」と言っているのではない

発言全体を見ると、玉川氏が「そういう風に作りますよ」と言っているのは、「胸に響くように作る」ということだとわかる。それは、映画などを含め、大規模なイベント、コンテンツの制作を行う側としては、一般的に行われる演出のことを意味するものだ。 

今回の安倍氏の国葬も、大規模な荘厳な葬儀・儀式なのだから、その中で、「個人的に付き合いのあった人は、当然悲しい思いをもってその心情を吐露したのを見れば、同じ人間として、胸に刺さる部分はある」と述べている。菅首相の追悼の辞は「心情を吐露した」ものであり、それが「胸に刺さる」と評価した上で、ただ、それは、全体として「胸に響くように作られた国葬という儀式の一コマだ」と言っているのである。玉川氏の発言の「そういう風に作ります」というのは、菅氏の追悼の辞が「演出のために他人が作ったもの」という意味で言っているのではない。

むしろ、「これこそが国葬の政治的意図だ」と言った上で、「そういう風に作ります」に続けて、「当然ながら。政治的意図がにおわないように、制作者としては考えますよ。」と言っていることから、玉川氏の発言全体の趣旨としては、安倍氏の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」というものであり、それを前提に、発言に問題がないかどうかを検討する必要がある。

問題となるのは、第一に、「真実性」に関する点として、玉川氏の「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」との指摘が、客観的に正しいと言えるのか、第二に、「政治的公平」に関して、「国葬についての論評」としてみたときに、玉川氏の発言を含む番組が、政治的に偏ったバランスを欠く放送になるのか否かである。

「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だったと言えるか

まず、第一の点については、玉川氏の長年のテレビ放送の制作者としての経験から、イベントやコンテンツが「胸に響くように作られる」という一般的な事実を指摘している。そして、それが、大規模で荘厳な国家的儀式としての「国葬」と重なると、追悼する安倍元首相の評価を高めるという「政治的意図」が実現される、ということを言っている。しかし、その場合、そのような「政治的意図」が表に出てしまうと、「胸に響くように作る」という演出効果を損なってしまうので、それが目立たないように配慮することになるということであろう。

ここまでは、一般論として言えることなのであるが、問題は、今回の安倍元首相の国葬についても、「政治的意図を隠して、胸に響くように作られている」と言えるのか、そのように言う根拠があるのか、という点である。

まず、客観的な事実として、安倍氏の国葬については、(電通は関わっていないとしても)、ムラヤマという「桜を見る会」に関する業務を毎年受注していた会社が、企画演出業務を1.7億円で受注している。しかも、この発注については、入札参加の条件を厳しくした結果、一者入札になったものである(【「安倍氏国葬儀」企画演出業務発注で、内閣府職員に「競売入札妨害罪」成立の可能性】)。

そのような高いハードルを設定した理由が、「企画演出」を十分に行い得る業者に発注しようとする意図によるものであったことは間違いない。その事実からも、国葬全体が、「演出」を重視して行われたことは明らかであろう。

肝心の、菅氏の追悼の辞も、改めて全文を文章で読み直してみると、友人代表の辞にしては、生前の安倍氏との具体的なエピソードは、焼き鳥屋で総裁選への再挑戦を説得した場面ぐらいで、それ以外は、ほとんどが、安倍氏の業績と決断力への賛辞だ。

そして、参列者に感銘を与えたというのが、山縣有朋が詠んだ歌の話だ。

衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著「山県有朋」です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。

という話を聞くと、誰もが、菅氏自身が、安倍氏が亡くなった後に、議員会館の部屋に行って、机の上に「読みかけ」で置いてあった山縣の本を発見し、手にとったら、安倍氏が読みかけていた箇所が、いみじくも「伊藤博文が暗殺された際に山縣が詠んだ歌」の個所だったという「感動のシーン」を想起する。

しかし、そもそも、そのような偶然が起こるとは常識的には考えにくい。文章で確認すると「読みかけの本が1冊ありました」となっており、菅氏が、それを「見た」とは言っていない。実は、その話は、安倍氏自身が、殺害される3ヵ月前に、葛西敬之氏の葬儀の際の追悼の辞で使っていたことも明らかになっている。

菅氏は、この追悼の辞についてテレビ朝日のインタビューに答えているが、質問者は、完全に上記の「議員会館でのシーン」があったものと誤解して質問し、菅氏は、それをはっきりと否定はせず、はぐらかして答えていた。

明治の元勲山縣有朋は、帝国陸軍の礎を作った人で、超保守主義者、反政党主義、反民主主義、普通選挙にも反対していた人だ。そういう考え方の人が詠んだ歌を、安倍元首相への追悼の辞で敢えて持ち出し、自分に重ね合わせる、というやり方には、「政治的な意図」が感じられるが、その「意図」を感動的なストーリーで覆い隠しているとみることができる。

また。この「感動的な話」で菅氏の追悼の辞が終わった直後に、会場から自然に拍手が沸き起こったように言われているが、最初に大きな拍手をした人は前全国市長会会長の松浦正人氏で、安倍氏の殺害後も菅氏と電話で連絡を取り合う間柄であったことが明らかにされている(【菅義偉さんの感動的な弔辞の直後に1人だけ大きな拍手をした人がいた。やがてそれが会場中に広がった】)。参列者の拍手はこの最初の大きな拍手に誘発されたものであり、それがなければ、「葬儀での拍手」ということは起こり得なかったはずだ。

これらの事実からすると、安倍元首相の国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言にも相応の合理性があり、真実と異なるとは言えない。

「政治的公平」に関する問題

次に、「政治的公平」に関する問題である。

前記のとおり、放送法4条2号は、放送番組の編集について「政治的に公平であること」を義務づけている。これは、番組単位で求められることであり、出演者個人の発言の問題ではない

西田議員は、玉川氏の発言に「虚偽の情報」が含まれていたことを「政治的偏向」だとしているが、玉川氏の発言の中の「電通の関与」の部分が真実ではなかったとしても、それ自体で政治的公平性が問題になるわけではない。

問題になり得るとすれば、安倍氏の国葬に関する玉川氏の発言と番組の編集方針との関係であり、既に述べたように、国葬が「政治的意図を隠して、胸に響くように作られた儀式」だとする玉川氏の発言があったことが、番組全体の「政治的公平」を損なうことになるのかという点である。

そもそも、番組の編集方針の「政治的公平」というのは、番組の内容の一つひとつが全て政治的に中立なものでなければならない、ということではない。その時々の社会の状況、視聴者の問題意識等に照らして、番組全体が、政治的に偏ったものかどうかということである。

玉川氏の発言があった安倍氏の国葬の翌日の「モーニングショー」では、その国葬の決定、実施までの経過、賛否両論について番組で取り上げ、国葬の内容についても、その中で特に菅前首相の追悼の辞に参加者が心を打たれたと評価されたことも紹介した。

そうした中においても、国葬に対しては、世論調査の結果では国民の6割以上が反対するなど、反対が賛成を大きく上回っていたにもかかわらず開催されたものであること、国葬に関して法的根拠や国会の関与がないこと、安倍氏の評価について様々な見方があることなどから、国葬反対の意見にも、十分に理由があることなどを考慮すれば、国葬反対の声の大きさを反映し、批判意見も十分に取り上げることは、むしろ、番組として政治的に公平なスタンスだと言えよう。

そういう意味で、かねてから「国葬反対」の意見を明確にしていた玉川氏が、「イベントは一般的に胸に響くように作られる。それを国葬として行えば、政治的意図を隠して政治的に利用することにつながる」と指摘したことは、番組の中の一つの個人意見である以上、番組全体の政治的公平性という面で、何ら問題になるものではないどころか、むしろ、政治的公平に資するものと言える。

玉川氏の発言を含めた当日の番組が、「政治的公平」の観点から問題があるとは到底言えない。

前記のとおり、放送法は、4条2号の「政治的公平」については、真実性についての9条のような権利侵害を受けた者の請求による調査、訂正・取消の規定がなく、放送番組の適正を図るための一般的な枠組みに委ねている。「政治的公平」の判断が微妙であり、それを外部から問題にすることが、かえって政治的公平を損なうことの弊害を考慮したものだ。

西田議員が、今回の玉川氏の発言について、「政治的偏向」を問題にし、

「極めて重大な問題で国政の場でも強く提起したい」

などと述べていることの方が、放送法の趣旨に反する「不当な政治介入」になりかねない。

西田議員は、いわゆる「椿事件」を引き合いに出してテレビ朝日を批判しているが、椿事件は、1993年、テレビ朝日の報道局長が、日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合で、「自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」などと政治的偏向報道の疑念を生じさせる発言を行ったという特異な事例である。

今回の玉川氏の発言は、国葬に関する事実の適示と、それに関する個人の論評であり、椿事件のような番組編集全体における政治的意図の問題とは全く異なる。

テレビ朝日のコンプライアンス、ガバナンスの問題

今回の玉川氏の発言については、テレビ朝日において、「電通の関与」が真実ではなかったことについて訂正・謝罪放送が行われ、放送法上十分な対応が行われている。それに加えて、玉川氏の10日間の謹慎処分や番組関係者の社内処分を行ったことは全く理解し難い。

意図的な虚偽、捏造報道の疑いがあるというのであればともかく、誤解によって真実ではない発言を行ったというだけで、出演者の「社員個人」が責任を問われるというのは、過去に殆ど例がないのではないか。そのような処分が当然のように行われるようになれば、放送の現場は萎縮し、積極的に真実に迫ろうとする報道や番組制作自体が困難になってしまう。

最近の同様の事例として、当時の菅首相が日本学術会議が推薦した会員候補のうち一部を任命しなかったことについて菅政権への批判が高まっていた2020年10月5日、フジテレビの平井文夫上席解説委員が、同局の番組(バイキング)で、

「6年ここで働いたらその後学士院というところに行って、年間250万円年金がもらえる」

などと全く事実と異なる発言をし、番組側が10月6日の放送で

「誤った印象を与えるものになりました」

などと訂正した。これなどは、放送中に、当時、学術会議会員が厚遇されているかのような虚偽の事実を述べたもので、会員任命拒否問題で批判されていた菅内閣を擁護する政治的意図も疑われる。しかし、この件で発言者の平井氏個人が処分されたという話はなく(平井氏は、現在も、フジテレビの上席解説委員を務めている)、訂正放送も、今回の玉川氏のように本人が行ったのではなく、番組のアナウンサーが行った。

今回の玉川氏の発言をめぐって露呈したのは、テレビ朝日という放送事業者のガバナンスの脆弱性である。玉川氏の発言の何がどう問題なのか、という点について、放送事業者として明確な問題意識を欠いたまま、外部からの批判に対して場当たり的な対応をしたことが、かえって問題を深刻化させたように思える。

玉川氏の発言は、安倍元首相の国葬の直後、その国葬での菅前首相の追悼の辞が大きな社会的注目を集めている最中に、それに関連して客観的な裏付けがないのに「電通関与」を決めつけるような発言をした点において軽率の誹りを免れない。

しかし、それ以外については、放送法上も、コンプライアンス上も、特に問題があるとは言えない。番組で訂正・謝罪を行った後も、会社として、発言の趣旨を正確に理解した上で、批判や、政治家の圧力等に対しても毅然たる対応をとるべきだった。

ところが、テレビ朝日は、折から国葬問題をめぐる政治的対立の影響もあって訂正・謝罪を機に各方面からの激しい批判が行われたことに狼狽したのか、玉川氏個人の処分も含めた過剰な対応を行い、それによって批判の火に油を注ぐ結果となった。

テレビ放送に関連する不祥事が相次いでいた2008年3月、テレビ朝日で、「放送事業への信頼回復に向け、真のコンプライアンスを」と題して講演を行ったことがある。

放送法規定に則った対応はもちろん、法の趣旨・目的に沿ったコンプライアンスで「社会の要請に応えること」の重要性を訴えたのに対して、多くの社員が真剣に聞き入ってくれた。その後も、放送事業への社会的要請は複雑であり、それに応えていくことは容易ではないが、番組制作や報道の現場で地道な努力が続けられているものと認識していた。

今回の玉川氏への謹慎処分、関係者の社内処分というテレビ朝日の対応は、放送事業者としてのコンプライアンスの基盤を害することになりかねない。放送事業者の組織のガバナンスの欠陥を露呈したもののように思える。

謹慎が明けた時点で、玉川氏が発言の経緯について説明するとされているが、ここでは、批判や政治的圧力に臆することなく、関連する発言の真意について、しっかり説明すべきだ。一方、テレビ朝日の経営陣も、謹慎処分等についての会社の考え方について、十分な説明を行う必要がある。番組の編集方針とその中での玉川氏の発言の趣旨が、視聴者に、そして世の中に正しく理解されるかどうか、テレビ朝日のガバナンスにとっても試金石だと言えよう。

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臨時国会開会、岸田政権が直面する3つの「説明不能」問題

9月27日、安倍元首相の「国葬」が、国民の多数の反対にもかかわらず実施された。そして、今日(10月3日)、国会が召集され、12月10日までの会期で臨時国会が開催される。

重大な禍根を残す「国葬」の「強行」についての内閣としての説明責任を問われるのが、この臨時国会だ。国葬実施までの過程で大きく支持率を低下させた岸田内閣は、野党の追及、マスコミの批判に対して、「説明不能」と思える多くの問題を抱えている。

万が一、これらについて、国民に納得できる説明が行われないまま、臨時国会が終了することがあれば、「議院内閣制」の日本の民主主義に対する国民の信頼は、根底から失われることになる。

岸田内閣には「説明不能」ではないかと思えるのが、以下の3つの問題だ。

国葬実施の理由

第一に、安倍元首相について、「国葬」を実施した理由に関する問題だ。この点について、岸田首相が、記者会見や閉会中審査での答弁等で繰り返したのが、以下の4つの理由だ。

(1) 6回の国政選挙で信任を得て憲政史上最長の8年8ヶ月首相に在任したこと

(2) 震災復興、経済再生、外交などでの実績

(3) 各国からの弔意

(4) 選挙運動中での非業の死であること、

これらが、いずれも国葬を実施する理由にならないことは、【安倍元首相「国葬儀」による“重大リスク”、政府の実施判断は適切か】などで述べたとおりであるし、多くの識者も同様の意見だ。岸田首相は、これしか理由の説明ができないので、「オウム返し」のように繰り返してきただけだ。

そして、(1)が理由とされていることに関して、国政選挙で勝利してきたことと「統一教会」との関係が問題にされ、安倍氏が、信者にとって広告塔的な役割を果たす一方、参院選等で統一教会票の差配をしていた疑いがあり、重大な問題とされてきた。

岸田首相は、国葬の1か月近く前の8月31日の記者会見で、自民党総裁として、

「旧統一教会とは一切の関係を断つ」

と明言しているが、そのように「自民党が絶縁すべきとしている宗教団体」に国政選挙で応援を要請し、その票を自分と親しい候補者に割り当てていたということになると、そのような「国政選挙での勝利」の正当性に重大な疑念が生じることになる。

しかも、統一教会は、「歴史的に韓国を苦しめてきた日本は、”罪滅ぼし”をするために、信者が、お金を集めて教祖の文鮮明に捧げなければならない」という「反日カルト」としての教義を有する韓国を本拠とする宗教団体だ。保守政治家でありながら、そのような宗教団体と緊密な協力関係を有していたことは、その政治家の「国葬」を実施することが強く否定される理由になるのは当然だ。

このような安倍元首相と統一教会との関わりについて、岸田首相は、

「本人が亡くなっている以上、調査には限界がある」

として、調査の対象とすることを拒絶してきた。しかし、安倍派(清和会)の安倍氏の前任の会長の細田博之衆院議長にも、参院選における統一教会票を差配していた疑惑があり、しかも、細田氏は、韓鶴子総裁が参加した統一教会のイベントで来賓として挨拶し、その際

「今日の模様は安倍総理にも報告しておく」

と発言したことが映像に残っている。臨時国会開会前、細田氏は、野党側の要求に応えて、説明用の「一枚紙」で、教団のイベントへの出席を認めたが、教団との関係等について追加の説明を求められ、10日以内にさらなる説明をするとしている。

前記イベントでの発言からしても、細田氏は、安倍氏と統一教会との関係についても説明できる立場であることは明らかであり、その点について、今後の説明の中で、新たな事実が確認される可能性がある。それによって、安倍氏の国葬を行ったことへの疑問が一層大きなものになりかねない。

山際大志郎氏の問題

第二に、安倍元首相の国葬実施の閣議決定の際も、その後の改造内閣でも経済再生担当大臣の要職を務めている山際大志郎氏の統一教会との関係についての重大な疑惑だ。

これまでの山際氏の説明は、教団の会合、イベントへの出席等について自発的に真実を明らかにしようとする姿勢は全くなく、客観的事実を突きつけられて、やむを得ず認める、ということを繰り返してきた。週刊誌等では、山際氏の事務所自体が、統一教会の信者に支えられていた疑いも指摘されている。円安・物価高等の深刻化する経済対策を担う立場であり、今後、新たな感染拡大に備えてのコロナ対策を担う最重要閣僚である立場の山際氏が、国会での答弁で立往生する事態は到底許されない。

山際大臣を辞任させるのか、このまま閣内に残すのか、この問題は、岸田内閣にとって、最大の火薬庫であることは間違いない。

国葬の法的根拠

そして、第三に、岸田首相の従来の説明に重大なゴマカシがあり、今後、国会での答弁に窮することが確実だといえるが、国葬についての法的根拠の問題だ。

私も、当初から、内閣の行政権の行使として、格別の法律上の根拠がなくても「儀式を行うことが可能」だと述べてきた(【安倍元首相「国葬儀」が抱える重大リスクに、岸田首相は堪え得るか】)。

その問題について、違憲・違法を問題にして裁判所に取消を求めても、認められる可能性はないだろうと考えてきたし、実際に、安倍氏の国葬に関して提起された訴訟は、すべて退けられている。

しかし、国費で行う儀式を閣議決定で行えるとしても、それは、「内閣が行う儀式」であり、葬儀であれば「内閣葬」だ。それを、「国葬儀」と称することには重大な問題がある。

最大の問題は、岸田首相が、所掌事務を定めただけの内閣府設置法を「法的根拠」であるように説明してきたことだ。《あいまいに「根拠」という言葉を使っていること》が、国民に大きな誤解を与えている。

閣議決定だけで行い得る「国の儀式」が国事行為に限られるのか、それ以外にも可能なのかという点については、内閣府側の実務上の整理として、過去の一回だけ、吉田茂元首相について、特別に「国葬儀」を実施した「行政実例」があることを無視することはできないので、内閣府の所掌事務についての整理としては、「国の儀式」として、国事行為以外に、吉田国葬のような「国葬儀」も、仮に行われることがあれば、所掌事務に含まれるということになる。しかし、内閣府設置法の制定時に、4条3項33号による内閣府設置法についての「国の儀式」と「内閣が行う儀式」を書き分けたことの趣旨は、両者を区別する趣旨だからだ。そういう意味では、国事行為としての儀式を「国の儀式」、閣議決定で行うのが「内閣の儀式」というのが合理的な解釈だ。

全国戦没者追悼式」などの儀式が「閣議決定」で行われているが、これらについては、政府答弁書でも、「国の儀式」ではなく「内閣が行う儀式」であるとされている。このことも、「国の儀式」は国事行為に限られ、それ以外の「儀式」を閣議決定で行うのは「内閣が行う儀式」だと考えられているからだ。

もちろん、閣議決定だけで行うのであれば、「人権・権利の制限を伴うようなものであってはならない」ということになる。そのため、その点を過度に強調しようとして、「国葬儀」と言いながら国民に弔意すら求めない、実質的には「内閣葬」でしかないものになった。しかし、岸田内閣は、それを、無理やり「国葬(儀)」と表現した。それが、「国葬」に対する国民の反発と世の中に混乱を生じさせたのだ。

このことは、臨時国会で、岸田首相に「内閣府設置法は、国葬儀の法的根拠であるか否か」について答弁を求めれば明らかになることだ。

8月15日には、「国葬」に関するいくつかの質問主意書への答弁書で

現在までに国葬儀について規定した法律はないが、いずれにせよ、閣議決定を根拠として国の儀式である国葬儀を行うことは、国の儀式を内閣が行うことは行政権の作用に含まれること、内閣府設置法第四条第三項第三十三号において内閣府の所掌事務として国の儀式に関する事務に関することが明記されており、国葬儀を含む国の儀式を行うことが行政権の作用に含まれることが法律上明確となっていること等から、可能であると考えている。

としている。

国葬儀について、「法令上の根拠」はないが、閣議決定を根拠として行う「国の儀式」の一つであり、それは、「内閣の行政権」に含まれるというのが、政府の正式見解なのであり、「内閣府設置法」は、「そのように考えることの理由」に過ぎないのだ。

この点について、岸田首相に明確に答弁を求め、安倍元首相の「国葬儀」は、行政権の行使として閣議決定だけで行った「内閣が行う儀式」であり、実質的には「内閣葬」であること、それを政府として「国葬儀」と称したに過ぎないものであること、今後、日本において「国葬」を行い得ることの根拠にはならないことを明確に認めさせるべきだ。

それは、本物の「国葬」ではなかったと認めることで「国葬賛成派」からは「裏切り」ととらえられ、一方で、「国葬反対派」からは、「従来の説明」に対する「怒り」を引き起こすことになる。しかし、もともと、閣議決定だけでは「内閣葬」しかできないのに、それを「国葬」と偽装した岸田内閣の自業自得ということだ。

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森雅子首相補佐官(元法相)、「統一教会」説明にも“重大な疑問”、自民党調査にどう回答するのか?

法相在任時「答弁迷走」の森雅子氏、「統一教会」説明にも“重大な疑問”

河井夫妻事件、ゴーン氏国外逃亡当時の法相で、現在も首相補佐官の職にある森雅子氏、「統一教会」との関わりについての説明はあまりに不合理。自民党の調査にどのような回答をするのか。

森雅子首相補佐官(元法務大臣)について、グーグルストリートビューで、2019年7月の参院選挙の頃に、いわき市の旧統一教会施設の建物内に同氏のポスターが貼られていたことが確認されSNS上で騒動になっていたが、8月24日発売の週刊新潮では、2018年11月11日に郡山市で開催された「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)主催のイベント「東日本大震災 福島復興三千名祈願祭」に登壇して講演をしていたことが報じられ、「統一教会」と深い関係を持っていた疑惑が一層深まっている。

森氏は、河井克行氏が妻案里氏の公選法違反疑惑の責任を取って辞任したことに伴い、後任として法務大臣に就任し、黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題で、安倍政権への批判が高まった際にも法務大臣として国会答弁を行った。森氏は定年延長の決定と解釈変更のための法務省内の決裁は口頭で行ったと説明し、

「口頭決裁もあれば文書決裁もある。どちらも正式だ」

と強弁した。定年延長の理由について、政府が「社会情勢の変化」などと説明したことについて国会で質問され、

「東日本大震災のとき、検察官は、福島県いわき市から、市民が避難していない中で、最初に逃げた」

などと答弁し、その件で、当時の安倍晋三首相から厳重注意を受けた。

また、森氏は、弁護士でもあるが、カルロス・ゴーン氏が保釈中にレバノンに逃亡した際、記者会見で、

「潔白というのならば、司法の場で正々堂々と無罪を証明すべき」

などと「検察官の立証責任」という刑事裁判の大原則を無視するかのような発言をし、その会見直後のツイートで

「ゴーン被告人は自身が潔白だというのであれば司法の場で正々堂々と無罪を証明すべきです」

などと書いていたのを、ゴーン氏側から発言の不当性を指摘されると、こっそりと「証明」を「主張」に訂正したツイートを出し直した。

国外逃亡したゴーン氏への「腹いせ」に、「潔白だというなら無罪を証明しろ」と言ったことは明らかだったが、さすがに、それは弁護士でもある法務大臣の発言として、国際的な笑いものになると思ったようで、ツイートを訂正して出し直し、次の会見の際は、「言い間違い」だと強弁した。

このように、法務大臣在任中、その説明や答弁について度重なる批判を受けた森氏だったが、「統一教会」との関係についても、その説明の不合理性は際立っている。

森氏は、旧統一教会施設の建物内に同氏のポスターが貼られていた件について、

「統一教会の関係者と認識せずにポスターをお渡ししてしまった」

とSNSで弁明し、旧統一教会との関係についての朝日新聞の質問には、

「知らない。(誰かが)事務所に置いてあるポスターを持って行ったか、旧統一教会と知らずにポスターを渡したのだと思う」

などと回答していた。

この時点では、ポスターが「家庭連合」の施設に貼られていたことの認識自体を否定し、「持っていかれた。」「素性がわからない相手に渡した」などと、あたかも「盗まれた」か「騙し取られた」かのように説明していました。

ところが、今回、2018年11月11日、その「家庭連合」のイベントで森氏が講演をしていたことが写真付きで報じられると、森氏の事務所は、イベントに参加して演説を行ったことを認めたうえで、

「(家庭連合が)旧統一教会と同じ団体だと気がつかなかった。認識が甘かったと反省している」

とコメントし、2018年11月の時点で、講演の主催者の「家庭連合」は「統一教会」とは関係のない、全く問題のない団体だと認識していた、だからイベントに参加して講演をしたと弁明している。

しかし、その弁明自体が、全く信用できないものだ。

2018年11月のイベントでは、上記新潮記事に掲載されたポスターによれば、旧統一教会の当時の会長の徳野英治氏が「特別講演」を行い、「祈願書・献花奉納」と称する儀式まで行われている。主催者は、「世界平和統一家庭連合福島教区支部」とされている。「教区支部」という言い方からも、単なる「家庭」に関連する団体ではなく、「統一」という言葉を含む名称の「宗教団体」であることは一見して明らかだ。

また、もし、「家庭連合」は「統一教会」とは関係のない、全く問題のない団体だと認識していたというのであれば、いわき市内の「家庭連合」の施設にポスターが貼ってあったことがストリートビューで確認された2019年7月の時点では、「家庭連合」について、どのように認識していたのだろうか。

その時点でも、「家庭連合」は旧統一教会と同じ団体だと知らず、何も問題のない組織だと認識していたということであれば、2018年11月のイベントで講演まで行っているのだから、そのような団体が参議院選挙で応援してくれるのを断る理由はない。いわき市内の施設に森氏のポスターを貼ってくれるというのであれば、喜んで貼ってもらっていたはずだ。朝日の質問に対しても、

「『家庭連合』には参院選で応援してもらったが、それが統一教会と同じ団体だとは知らなかった」

という回答になるはずだ。

一方で、「家庭連合」の側では、「家庭連合」の全国団体の徳野英治会長とともに講演までしてくれた国会議員が参議院選挙に臨んでいるのだから、積極的に選挙応援をしたはずだ。施設内に森氏のポスターを貼っていたのも、その選挙応援の一環として当然の対応ということになる。そのような「家庭連合」の関係者が、森氏の事務所から、森氏の選挙用のポスターを、森氏側に了解を得ることなく勝手に持ち出して、教団の施設内に貼るなどということは考えられない。

森氏が、2018年11月のイベントの際は知らなかったが、2019年7月の時点では、「家庭連合」が、反社会的活動を繰り返してきた旧統一教会と同じ団体だと知っていたとすると、前年の11月にそういう団体のイベントで講演していた事実があるわけだから、そのような団体から参院選で応援してもらうなどということは、あってはならないことのはずだ。何らかの対応をしなければならないのは当然だ。いわき市は、森氏の出生地で、同市内には地元事務所があるわけだから、その市内の「家庭連合」の施設内にストリートビューでもわかるような形で森氏のポスターが貼ってあるのを放置するなどということは考えられない。

参院選挙期間中に「家庭連合」のいわき市内の施設にポスターが貼ってあった事実があっても、前年秋にイベントで講演した事実があっても、「統一教会との関わり」を全面的に否定する森氏の説明は、完全に破綻していると言わざるを得ない。

それに加えて、上記新潮記事では、当時の森氏の秘書が

「19年の参院選が公示される少し前、いわき市の中心部にある統一教会の施設に、森さんと共に足を運んだことがあります」

と証言していることが書かれている。

これが事実だとすると、「統一教会」の施設にポスターが貼ってあったことについての森氏の説明は、意図的な虚言そのものだということになる。

森氏は、法務大臣在任中の国会答弁や記者会見に関して厳しい批判を受けた。

伝統と形式を重んじる法務省において、大臣の決裁を口頭で行ったなどという、あり得ない弁明を繰り返し、答弁に窮すると、「震災の際に検察官が逃げた」などという無関係の話を持ち出して開き直る。そして、記者会見で、弁護士でもある法務大臣としてあり得ない「被告人は司法の場で無罪を証明せよ」などという発言をした時も、ツイートをこっそり出し直すなどという姑息な手段を用いる。

森氏の態度は、「統一教会」との関係に関する説明でも、基本的に変わるところはなく、自分の非を一切認めず、姑息な手段まで弄して強弁を続けるという不誠実極まりない姿勢をとり続けている。

「統一教会問題」で批判に晒されている自民党議員に共通しているのは、マスコミ等で取り上げられる度に、「その場凌ぎ」の最低限の説明に終始する姿勢だ。「統一教会」との関係が深ければ深いほど、説明内容は不自然なものとなり、その後、新たな事実が判明すると、前の説明を覆して、新たな「その場凌ぎ」の不合理な説明を繰り返す。

現在も首相補佐官の職にある森氏は、河井克行氏の辞職を受けて法務大臣に就任し、河井氏が多額現金買収事件で検察の強制捜査を受け、逮捕・起訴された間も、法務大臣として、検察に対する指揮権をも行使し得る重責を担ってきた元重要閣僚だ。その森氏の、「統一教会」と認識して関わったことは全くないかのような説明はあまりに不合理であり、逆に言えば、参議院選挙で応援を受けるような親密な関係があるからこそ、関わりを全否定しようと虚偽説明を繰り返しているのではないか、と考えざるをえない。

8月26日、自民党は、議員本人に事実確認と説明を委ねてきたそれまでの対応を一転させ、全ての所属国会議員を対象に、旧統一教会とその関連団体との接点の有無を確認する調査を開始した。

茂木敏充幹事長名で、各議員事務所に調査書を配布し、(1)教団側の会合への出席(2)祝電の送付(3)会費などの支出(4)寄付やパーティー収入(5)選挙支援――の有無などについて回答を求めるとのことだ。

森雅子首相補佐官が、この調査に対してどのような回答をするのか、それまでの説明に事実に反する点があったとすると、それについてどう弁明するのか。党の調査に対する自民党議員の姿勢を象徴するものとして注目したい。

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