東京五輪談合事件に表れた、公取委と検察の関係による“企業の重大リスク”

他の被告会社への「有罪印象操作」が行われた森氏初公判

7月5日、東京五輪談合事件で起訴されている大会組織委員会の元次長森泰夫氏の第1回公判が開かれ、「間違いありません」と起訴内容を認めた。この事件では、電通や博報堂など広告会社・イベント会社6社と、その幹部ら7人が、東京五輪大会のテスト大会と本大会の会場運営等をめぐる2018年の入札で、あらかじめ受注業者を決めて「事業活動を相互に拘束し競争を実質的に制限した」として独占禁止法違反の罪に問われている。


通常、自白事件であれば、第一回公判で検察側立証に費やす時間はせいぜい30分だ。ところが、この事件では、傍聴席に詰めかけたマスコミの前で、検察側冒頭陳述に50分、検察官請求証拠の「要旨の告知」で100分という異例の長時間が費やされた。これを通して、森氏と同時に逮捕・起訴され、まだ公判が始まっていない7社及びその役員等、事件全体への「有罪印象操作」が行われ、それが、検察の意図どおり、マスコミに大きく報じられた。この中には、全面否認して無罪を主張している株式会社セレスポ、株式会社フジクリエティブコーポレーション(FCC)の2社と同社幹部も含まれる。

元次長は電通側と情報交換するなどして会場ごとの受注予定企業をまとめた「割り振りリスト」を作成。各社の幹部と入札前に個別に面談し、リストに基づき受注予定を事前に伝えたと指摘した。自らの手で大会を成功させ、地位や名誉を保持するために受注調整を進めた。

森被告はある業者から、バスケットボール会場の落札希望を伝えられると「バスケは電通でしょ」と述べて入札参加を断念させたほか、別の業者からはメールで「電通様のお口添えもあり話が前に進みました」と報告を受けていた、
入札が実施された26会場の大半は、割り振り表通りの結果に。被告6社の売上高は約20億~約104億円に上り、売り上げから原価を差し引いた粗利益が最も高かったのは、イベント大手「セレスポ」で約52億円だった。


などと報じられれば、誰しも、東京五輪大会の裏で、悪質・露骨な談合が行われ、業者が暴利を貪ったと思うだろう。
しかし、検察冒頭陳述、要旨の告知に続いて行われた森氏の被告人質問についての記事では、

森被告は弁護側から違法性の認識を問われ、「違反の不安を抱えながらも、目の前の状況を解決して大会を成功させるためどうするかにとらわれていた」と説明した。
謝罪の一方で、「受注調整をしなければ現場は本当に大きな混乱になったと思う」と話し、法に触れず大会を成功させるにはどうしたらよかったかとの質問には、「今もどうしたらできるんだろうと…」と考え込んだ。


などとも報じられている。
 
このような森氏自身の供述内容を見れば、森氏が罪状認否で公訴事実について「間違いありません」と述べているのが、罪を認めたというよりは、罪を犯したとは思っていないのに、事実を認めざるを得なかったことが推測できる。


この記事では「約104億円に上る売り上げから原価を差し引いた粗利益が最も高かったのは、イベント大手セレスポで約52億円」などとされているが、これは、イベント制作会社セレスポは、一人の社員が同時に複数の案件を手掛けることが多いため、案件ごとの売上総利益(粗利)の算出において、社員の人件費を個別の案件の売上原価に配賦していないことによるものであって、多くの業務を下請に出す会社と比較することはできないはずだ。経費の多くが、決算の際に差し引かれる「本社経費」となっているために、各案件の形式上の売上総利益及び売上総利益率(粗利率)は、自ずと高くなっているにすぎない。取調べの時から、検察官が、不当に高い利益を得ているように誤解しているようだったので、会社関係者は何回も説明したが、検察官は聞く耳を持たなかったという。結局、検察官は、それを、セレスポ関係者不在の場での「有罪印象操作」で用いたのである。

独禁法違反の犯罪の成否に重大な問題

以前、この事件を独禁法違反の犯罪ととらえることへの疑問を、Yahoo!ニュース記事【東京五輪談合事件、組織委元次長「談合関与」で独禁法の犯罪成立に重大な疑問、”どうする検察”】で指摘した。


同事件での起訴の直後に、私は、セレスポと同社専務取締役鎌田義次氏の弁護人を受任し、公判に向けての弁護活動を行っている。逮捕時から一貫して全面否認し、無罪を主張している鎌田氏は、「人質司法」によって、4回にわたる保釈請求が却下され、逮捕から150日が経過した今も東京拘置所での身柄拘束が続いている。


森氏の第一回公判の2日後の7月7日午前、東京地裁で、第一回の公判前整理手続が開かれ、同日午後、鎌田氏の勾留理由開示公判が行われた。
以下は、出廷した鎌田氏の前で、弁護人として行った意見陳述の一部だ。

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 勾留には、相応の嫌疑の存在と、勾留の必要性、相当性が必要であることは言うまでもありません。被告人の鎌田義次氏は、今年2月8日に逮捕され、その後、勾留・起訴されて、150日にわたって身柄拘束されています。しかし、その犯罪の嫌疑が極めて希薄で、勾留の必要性も相当性も全くないことは、検察官が証拠を開示し、公判前整理手続において、検察官が提出した証明予定事実記載書面によって明らかになっています。
 本件は、東京五輪大会のテストイベント計画立案等業務の発注をめぐって、事業者間の「入札談合」があったとされ、それによって「事業活動が相互に拘束され、競争が実質的に制限された」として、独禁法3条後段の「不当な取引制限」の罪で起訴されているものです。
 しかし、そもそも「談合」などというものが行われたと言えるのか、重大な疑念を生ぜしめる事実があるのに、検察官は完全に無視しています。
落札率は平均でも「62.6%」と非常に低い数字となっており、一部の競技では20%台となっています。それは、受注の「割り振り」を受けていると認識した上で応札した社も、「割り振り」を受けていない事業者或いはアウトサイダーが受注意欲を持って入札してくる可能性を認識し、価格を予定価格から大幅に引き下げたことによるもので、まさに、各事業者が徹底した競争行動を行っていたことを示すものです。「事業活動の相互拘束」も「競争の実質的制限」も全くなかったことの証左です。

 本件は、「入札談合」であり、また、独禁法違反の「不当な取引制限」なのですから、当然のことながら、犯罪であることの根拠は、事業者間の「共同行為」、すなわち「事業者間の意思連絡」です。
 ところが、検察官が、証明予定事実記載書面で、「本件犯行状況」として具体的に挙げているのは、以下の7つ、これらは、犯罪行為に当たるような事業者間の意思連絡では全くありません。
 一つは、東京2020大会の担当でも何でもない一社員が、電通の担当幹部と会食した際のやり取りとその後のメールで、東京2020大会でのセレスポの希望競技を伝えた、というだけです。しかも、当時は発注方式すら決まっておらず、被告人やセレスポ側は、本件業務は随意契約で発注されると認識していた時期です。このようなものが、「入札談合」に関する「事業者間の意思連絡」と言えるわけがありません。
 それ以外の一つは、組織委員会に出向中の社員とのやり取り、3つは、被告人の役員会、役員ミーティングでの発言、もう一つは、本件業務の発注者である組織委員会の森次長と被告人との間での、被告会社の希望競技と発注者からの入札参加依頼についてのやり取りです。
 被告会社と他の事業者の意思連絡という要素は、全くないのです。
 そして、検察官が「本件合意成立」と主張している事実は、被告人・被告会社が全く知らないところで行われた、発注者側の森氏と事業者の電通との間で、「受注者の割振りの一覧表を更新した」というものなのです。
 このような検察官の主張を前提にすると、鎌田さんを「不当な取引制限」の罪で起訴し、150日にもわたって勾留する理由となる嫌疑が一体どこにあるのでしょうか。
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この東京五輪談合事件とは、いったい、どういう事件なのか、改めて振り返り、犯罪の嫌疑がないことがあまりにも明白であること、この事件が「独禁法違反」とされるのであれば、多くの企業が受注に当たって常に摘発リスクを覚悟しなければならないことを指摘しておきたい。

「東京五輪汚職事件」から「東京五輪談合事件」へ

2022年8月、東京地検特捜部は、電通元専務で東京五輪組織委員会の元理事の高橋治之氏をスポンサー契約で便宜を図った収賄容疑、スポンサー企業経営者等を贈賄容疑で立件する「東京五輪汚職事件」の捜査に着手した。「東京五輪の闇」「電通の闇」に斬りこむことが期待された。しかし、結局、高橋氏と多数のスポンサー企業の経営者は起訴されたものの、捜査は政治家には波及せず、電通本体も摘発を免れた。


そこで、電通を含め広告代理店、イベント制作会社等によるテスト大会の計画立案業務等の受注をめぐる談合が独禁法違反の不当な取引制限に当たるとして、摘発に乗り出したのが、東京五輪談合事件だった。


組織委員会の発注は、公共的性格もあるが、法的には「民間発注」であり、どのような方式で発注するかは、発注者が自由に選択できる。競争性を重視し、入札を行って、受注を希望する業者間で競争を行わせることも可能だが、発注物件の商品、サービスの性格などから、発注者側が最も有利な発注先を選択する随意契約によって発注することも可能だ。


東京五輪大会は、60もの競技がほぼ同じ時期に行われる世界最大のスポーツイベントであり、その26の会場で行われる競技すべてについて、穴を空けることなく、それぞれの競技についての過去の実績や競技団体との関係などに基づいて、実施能力のある事業者を選定する必要がある。しかも、その準備が大幅に遅れていたことから、発注にかけられる時間に制約があった。

「一般競争入札」に拘った財務省主計局系の組織委員会CFO

大会運営に関する最初の発注が、今回、談合があったとされるテスト大会の計画立案業務だった。当初、特命随意契約による発注のほか、電通を中心とするコンソーシアム方式(複数の企業が「共同企業体」を組成して、一つのサービスを共同で行う方法)による発注が検討されたが、そこに立ちはだかったのが、財務省主計局から組織委員会に出向していた企画財務局長と、自動車メーカーで長く調達を担当していた同局調達部長だった。

財務省主計局というのは、予算査定の専門家だが、予算執行の現場のことを意外に知らない。長崎地検次席検事として公共調達関連犯罪の捜査に取り組むことになる直前の2000年頃、法務省法務総合研究所研究官として談合問題の研究で欧州に出張した際にお世話になった現地のジェトロ事務所長が、大蔵省主計官として諫早湾干拓工事の当初の総事業費1590億円(最終的には約2530億円)の予算査定を担当した人だった。その人と話をしていて、公共調達制度など、予算執行の実態を殆ど知らないことに驚いたのを覚えている。

また、自動車メーカーの調達というのは、規格に適合した素材、部品を発注する仕事であり、規則・基準どおりでいかにコストを下げて発注するのか何より重視される世界だ。
こういう世界の人達には、多数の競技がほぼ同じ時期に行われる世界最大のスポーツイベントの大会運営に関する業務について、穴を空けることなく確実に実績、能力がある受託業者を確保するために最適な発注方式をとる、という発想はほとんどなかったにちがいない。組織委員会の内部規則どおり、「入札による発注の原則」にこだわった。

発注方式について最終的に決定権を持つ元財務事務次官の武藤敏郎事務総長は、当時、東京五輪をめぐるエンブレム問題や、違法長時間労働の問題などで批判にさらされていた電通と契約することによる世間への「見え方」を極端に気にしており、入札にこだわる企画財務局の意見に与した。

結局、テスト大会計画立案業務は、総合評価方式の一般競争入札で発注されたが、単に、入札を公示して入札参加者を募り、競争で落札した事業者と契約するだけではすまないことは明らかだった。人気のあるメジャーな競技に応札が集まり、マイナーな競技にはどこも応札しないという可能性が否定できないうえに、同時に多数の競技を行うことから、国内のスポーツイベントに関わるリソースをバランスよく配分する必要があった。

しかも、スポーツイベントは専門的な業務の組み合わせにより成り立つため、1社でやり切ることが難しく、各業務に精通したスタッフを揃える必要がある。そのため、日常的に元請けと下請けが入れ替わることや、競合する企業とも協業することが必要になる。東京五輪大会のような巨大な国際的スポーツイベントでは、国内リソースを最大限に活用するために、得意領域の異なる複数事業者による「協業」が必要だった。

そこで、発注者の組織委員会側の総括者として、各社の実績や意向に基づいて、全競技について、責任をもって業務を実施できる事業者が「最低一社」応札してもらうようにするため「入札前の調整」を、東京五輪大会のマーケティング専任代理店の電通の協力を得て行ったのが、森氏だった。

「民間発注」であれば、そのような発注者側の意向が伝えられれば、どのような形式で発注されることになるにせよ、業務実施体制を検討し、受注の可否の意向を伝えるのは、事業者側にとって当然の対応だ。「入札での発注であれば、正式手続の前には発注者様とはお話できません」などと言っていたら、その会社の仕事はなくなってしまうだろう。発注の方法が法的に制約され違法性に留意したコンプライアンス対応が求められる「公共発注」とは全く異なる。

森氏は、実態に全く適合しない発注方法を押し付けられ、その対応に苦慮し、東京五輪大会を無事開催にこぎ着けるために、企画財務局側の「入札のみで決定すべきという建前」には反していても、実質的に合理的な方法で対応せざるを得なかった。それが、上記の被告人質問での森氏の「言葉を詰まらせての供述」の真意なのではないだろうか。
森氏は、検察官から、組織委の上層部に公式に相談しなかった理由を問われ、言葉を詰まらせる場面もあったようだ。「公式に」相談しなかった、というのは、実質的には「入札前の調整」について認識を共有していたと言う趣旨だろう。

東京都から出向していた局長の方針などもあり、一つの会場の複数の競技の業務を「一事業者」に発注することになった。そうなると、競技ごとに過去の大会運営実績、実施能力などが異なるので、複数の事業者による「協業」が不可避になる。

発注の実情に目を向けず、内部規則遵守の形式論を振り回した局長や、調整、協業の必要性が一層高まる方法を指示した幹部にも、相応の責任はあるはずだ。しかし、実際には、東京五輪大会開催に間に合わせるように、現場で必至に調整をし、何とか26会場の業務委託先を確保した森氏とその森氏の意向にしたがって業務を受注した事業者側だけが罪に問われている。

「独禁法違反の犯罪」は無理筋

この事件を独禁法違反の「不当な取引制限」の犯罪と捉えるのは、明らかに無理筋だ。
「不当な取引制限」の犯罪事実は、「共同して事業活動を相互に拘束し、一定の取引分野における競争制限すること」だ。少なくとも「事業活動の相互拘束」として、自らの行動を他の応札者の行動に合わせて制約することが必要だ。また、そのような「相互拘束性」を持った、当該取引分野全体についての「事業者間の合意」を形成する行為が、「犯罪の実行行為」ととらえられる。しかし、東京五輪談合事件では、「協業」の話合い以外に事業者間で意思連絡が行われた事実はない。「犯罪の実行行為」としての、「事業者間の合意」が、いつ、どこで成立したのかも明確ではない。

検察官の起訴事実では、「テスト大会計画立案業務等の受託業者8社が、平成30年2月頃から同年7月頃までの間、組織委員会の事務所等において、面談の方法等により、受注希望等を考慮して受注予定事業者を決定するとともに基本的に当該受注予定事業者のみが入札を行うこととなどを合意した上、同合意にしたがって受注予定事業者を決定した」とされている。

「基本的に当該受注予定事業者のみが入札を行うこととなどを合意」という起訴状の記載は、「割り振り」されていない事業者も応札している事実を意識したものであろうが、そもそも、それは、事業者の応札が必ずしも「割り振り」に拘束されていないことを示す事実でもある。「事業活動の相互拘束」「競争の実質的制限」も生じていないのである。

検察捜査先行の事件での公取委「追従告発」の重大リスク

1990年代初頭、検察から公正取引委員会事務局(現在は「事務総局」)に出向した私が、公取委でまず取り組んだのは、公取委と検察との独禁法違反の刑事告発に向けての枠組みだった。当時、日米構造協議でのアメリカの圧力で、日本での独禁法違反に対する制裁の強化、とりわけ建設談合への厳正な処罰が強く求められており、公取委は「告発方針」を公表し、具体的事案について告発の要否を検討する場として「告発問題協議会」の場で協議する枠組みができた。

しかし、独禁法違反事件の刑事処罰に対する公取委と検察の考え方には、大きな違いがあった。公取委には専属告発権が与えられ、不起訴の場合には、検察が法務大臣を通じて内閣総理大臣への報告する必要があることなど、告発に関して、公取委の判断を尊重する法律の規定がある。公取委は、行政処分のための調査を行った結果、告発の基準に該当すると判断した場合に、公取委の判断で告発を行えば良い、行政処分の延長上で告発を行って、その後、その「刑事事件」をどう捜査してどう処分するかは検察に任せればよいという考え方だった。

従来から、検察は、行政官庁の告発は、犯罪の嫌疑が明白な場合に限られるべきで、告発をしようと思えば、事前に検察と協議し、「起訴の見通し」が立つ程度に検察の意向に沿った証拠収集を行わなければ、告発など行うことはまかりならぬ、という考え方だった。

1992年の「埼玉土曜会談合事件」では、「犯罪の実行行為」が特定できないことを理由に、公取委としては当然と考えていた「典型的なゼネコン談合事件の告発」は検察に抑え込まれた。検察によって、公取委の告発権限の行使を消極方向に捻じ曲げられたのが、埼玉土曜会事件だった。当時の梅澤節男委員長が「検察が消極意見なのであれば、告発は諦めざるを得ない」として告発を断念した経緯、その後、それが、ゼネコン汚職事件での中村喜四郎元建設大臣のあっせん収賄事件での東京地検特捜部の捜査と関連することになった経緯は、拙著【告発の正義】(ちくま新書)で詳述している。

東京五輪「談合」事件では、「犯罪の実行行為」は不特定で抽象的であり、何が「一定の取引分野の競争を実質的に制限する合意」なのかも不明だ、しかし、検察は独禁法違反での起訴の方針を固め、公取委は、検察の要請に応じ、起訴事実と全く同じ事実を「告発事実」として告発を行った。それは、30年前の埼玉土曜会談合事件とは、まったく真逆の事態である。

告発をめざす犯則調査の専門部署が設けられ、それが、検察の配下に置かれ、検察の指示・要請にはそのまま追従せざるを得ない存在となった。つまり、刑事罰適用に関する限り、独禁法の運用の主導権が、独禁法の専門機関である公取委から、「刑事司法の正義」を独占する検察に移った。そして、専属告発権を有する公取委の告発が、検察によって積極方向に捻じ曲げられ、便利に使われるようになった。それが、露骨に表れたのが、2018年に東京地検特捜部が手掛けた「リニア中央新幹線工事をめぐる談合事件」(【リニア談合、独禁法での起訴には重大な問題 ~全論点徹底解説~】【「リニア談合」告発、検察の“下僕”になった公取委】)だった。そして、今回の「東京五輪談合事件」で、それが繰り返されたのである。
独禁法違反に対する罰則を、検察が思うままに適用し、公取委が、独禁法違反の成否について十分な検討も行うこともなく追従するというようなことが恒常化することは、日本企業にとって重大なリスクになりかねない。

東京五輪談合事件、「人質司法」で逮捕後150日を超え身柄拘束が続く


東京五輪談合事件で起訴された会社のうち、セレスポとFCCの2社は「東京五輪大会の運営業務を受注する事業者として通常どおりの仕事を行っただけ、しかも、東京五輪大会の開催に全力を尽くしたのに、なぜ犯罪とされるのか」という当然の疑問から、独禁法違反の犯罪事実を争う姿勢を貫いている。

拘置所で勾留中の身でも、今もセレスポの専務取締役を務める鎌田氏は、勾留理由開示公判で、弁護人の私の「150日間の身柄拘束された中で考えてみて、今回の件で何か反省すべきと思った点がありましたか」との質問に対して、正面の裁判官を見て、「全くありません」と言い切った。

今週、鎌田氏の5回目の保釈請求を行う。

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「衆院解散は首相の専権」には憲法上疑義、「解散風」煽る岸田首相は“歪んだ民主主義”の象徴

今通常国会は、今日(6月21日)、会期末を迎える。

 国の最高権力者である内閣総理大臣が、国権の最高機関である国会の衆議院議員全員の地位を失わせる「衆議院解散」が、いつ、どのような理由で行われるのか、というのは国のガバナンスの根幹にかかわる問題だ。

 その衆議院解散をめぐって大きく揺れたのが今国会最終盤だった。そこでは、岸田首相自身が、解散を考えていることを仄めかして「解散風」を煽る場面もあった。そこには、「三権分立」という憲法の基本原則、そして、衆議院解散に関する憲法の規定との関係で、重大な疑問がある。

「解散風」を煽り、2日後に「否定」した岸田首相

 6月15日、官邸での「ぶら下がり会見」で、岸田文雄首相は、野党が内閣不信任案を出した場合の対応を問われ、

「立憲民主党が内閣不信任案を出すというのであれば、内閣の基本姿勢に照らして即刻否決するよう、先ほど茂木幹事長に指示を出しました」

と述べ、それに続いて、

「今国会での解散は考えておりません」

と、解散を行わないことを明言した。

 その前々日の6月13日、野党が内閣不信任案を提出した場合に、それが「解散の大義」となり、即刻解散することもできるとの自民党内の声で「解散風」が高まり、野党の内閣不信任案提出に注目が集まる中、岸田首相は、官邸での「ぶら下がり会見」で、今国会での解散について質問されたのに対して、

「様々な動きが出てくることが見込まれるため、情勢をよく見極めたい」

などと、いかにも野党の出方次第で解散もあり得るような言い方をして「薄ら笑い」を浮かべ、首相自らが「解散風」を煽った。

 その2日後、一転して今国会での解散を完全否定する際に、「内閣不信任案が出たらただちに否決するよう指示した」と発言したものだった。

 首相官邸での「内閣総理大臣」としての発言である。「国会で内閣不信任案が提出した場合に、否決するよう指示した」というのは全く理解し難い。

 憲法は、議院内閣制を定めている。行政のトップの内閣総理大臣は、国会議員の中から選ばれる。総理大臣が閣僚を指名して内閣が成立する。内閣は、国会の信任によって成り立っており、その信任を否定する「内閣不信任案」が提出された場合には、国会で審議し、その賛否の議決が行われ、もし、不信任案が可決されれば、内閣は総辞職するか、衆議院を解散するか、という選択を迫られることになる。

 内閣不信任案の議決は、三権の一翼を担う「国会」が行うものであって、同様に、三権の一翼を担う「内閣」、その長の内閣総理大臣は、国会での内閣の不信任案の審議と議決を見守り、その結果を厳粛に受け止める立場だ。 

 岸田内閣総理大臣は、与党自民党の総裁でもある。自民党総裁の立場で、党所属議員に内閣不信任案に対して否決の方針で臨むよう指示することは、あり得ないではない。

 しかし、冒頭の発言は、岸田首相が、首相官邸で、内閣総理大臣の立場で行ったものだ。内閣の長として、内閣不信任案を「否決」するよう自民党幹事長に指示する、というのは、憲法の大原則である「三権分立」を無視するものだ。

安倍氏「立法府の長」発言との共通性

 安倍晋三氏が首相の時代に、衆議院予算委員会で、

「議会については、私は立法府の長であります」

と答弁し、野党から、その趣旨について政府に質問主意書が提出されたこともあった。この時は、「内閣の長」を「立法府の長」と言い間違えた、というのが政府答弁書での説明だった。

 国会で与党が圧倒的多数を占める「安倍一強体制」の下で、内閣と国会とが実質的に一体化していた状況だからこその「言い間違え」であった。

 安倍氏と岸田首相の発言に共通するのは、国会と並び三権の一翼を担う内閣の長である「内閣総理大臣」としての地位と、与党の長としての「自民党総裁」との地位が、頭の中で区別されていないことだ。

 内閣総理大臣の地位は、国会の「信任」によって成り立っているものであり、それが国会で正面から問われる場が、内閣不信任案の議決の場面だ。一方、「自民党総裁」の地位は、党所属国会議員と党員によって行われる総裁選挙で、多数の支持を得て選任されることによるものであり、党所属の国会議員と党員の「支持」によって成立している。

 この「信任」と「支持」が頭の中で渾然一体となって、国政全般にわたって「全権を握っている」かのような認識であることが、安倍氏と岸田首相の発言に表れている。

「法令遵守と多数決による単純化」

 その背景には、私の新著【「単純化」という病 安倍政治が日本に残したもの】で主題にした、「『法令遵守』と『多数決』の組合せですべてが解決する」という、世の中の「単純化」がある。

 国会では与党が絶対的多数を占め、一方で、与党内では、小選挙区制の下で公認権を持つ党執行部が絶対的権力を持つ、という国会と与党内での双方の「一強体制」は、自民党内でも、政府内部でも、安倍首相と側近政治家や官邸官僚には逆らえず、その意向を忖度せざるを得ない状況をもたらした。

 こうした中で、安倍政権側、支持者側で顕著となったのが、

「法令に反していない限り、何も問題ない」

「批判するなら、どこに法令違反があるのかを言ってみろ。それができないないなら、黙っていろ」

という姿勢であった。その「法令」は、選挙で多数を占めた政党であれば、どのようにも作れるし、変えることもできる。閣議決定で解釈を変更することもできる。憲法違反だと指摘されれば、内閣法制局長官を、都合のよい人間に交代させればよい。

 このようにして、多数決で選ばれた政治家が「法令」を支配し、そこに「法令遵守」が絶対という考え方が組み合わさると、すべての物事を、「問題ない」と言い切ることができる。「法令遵守」と「多数決」だけですべて押し通すことができるということになる。

 そのような状況をもたらした大きな要因が、「解散権は首相の専権」という理解を背景に、政権にとって最も都合のよい時期に「大義のない解散」が行われ、国民の関心が盛り上がらない「低投票率選挙」が繰り返されてきたことだ。それが、「安倍一強体制」を一層盤石なものにすることにつながった。

 岸田首相が「情勢をよく見極めたい」などと言って「薄ら笑い」を浮かべて「解散風」を煽り、それを自ら否定したのも、安倍氏と同様に、いつでも、自分の思うままに「首相の解散権」を行使できるという認識を前提にしている。

 しかし、憲法の規定上は、決して、首相に無制約の解散権を与えているのではない。「衆議院解散は首相の専権」という考え方に重大な誤謬がある。

憲法上の内閣の解散権の根拠

 内閣による衆議院の解散が、憲法69条により衆議院で内閣不信任案が可決された場合に限られるのか、それ以外の場合でも認められるのかは、古くから、憲法上の論点とされてきた。

 憲法の規定を素直に読めば、憲法45条が衆議院の任期は4年と定めており、69条がその例外としての内閣不信任案可決に対抗する衆議院解散を認めているのだから、解散は69条の場合に限定されるということになるはずだ。憲法草案に携わったGHQも、衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採っていたようで、現行憲法下での最初の衆議院解散となった1948年のいわゆる「馴れ合い解散」は、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、「69条所定の事由による解散」とする方法が採られた。

 ところが、1952年の第2回目の衆議院解散は、69条によらず天皇の国事行為を定めた7条によって行われた。

 その解散で議席を失った苫米地義三議員が、解散が違憲であると主張して議員の歳費を請求する訴訟を起こしたのに対して、東京高裁が69条によらない7条による衆議院解散を合憲と認め、最高裁判所は、いわゆる「統治行為論」を採用し、

高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられる

として、違憲審査をせずに上告を棄却したこともあり、その後、69条によらない7条による衆議院解散が慣例化した。

諸外国での議会解散権

 しかし、内閣には議会の解散権が無条件に認められるという日本の現状は、国際的に見ると異例である。先進諸外国でも、内閣に無制約の解散権を認めている国はほとんどない。

 米国のような大統領制の場合、議会の解散権はないのが一般だ。日本でも、二元代表制の地方自治体では、首長が議会を解散できるのは不信任案が可決された場合だけだ。

 日本と同じ議院内閣制のドイツでも、内閣による解散は、議会で不信任案が可決された場合に限られている。法制度上は内閣に自由な解散権が認められているイギリスにおいても、政権与党に有利なタイミングでの解散への批判が高まり、2011年に首相による解散権の行使を封じる「議会任期固定法」が成立した。英国のEU離脱の是非をめぐって国会の機能を妨げたなどの理由で同法は廃止され、首相の解散権は復活したが、そのような経緯からしても、解散権を無制約に行使できるわけではない。

理由なき解散は「内閣の解散権の逸脱」

 もともと、議院内閣制の下では、内閣は議会の信任によって存立しているのであり、議会の解散は、その信任が失われた場合の内閣の側の対抗手段だ。自らの信任の根拠である議会を、内閣不信任の意思を表明していないのに解散させるのは、自らの存在基盤を失わせる行為に等しい。予算案や外交・防衛上重要な法案が否決された場合のように、実質的に議院による内閣不信任と同様の事態が生じた場合であればともかく、それ以外の場合にも無制限に解散を認めることは、内閣と議会との対立の解消の方法としての議会解散権の目的を逸脱している。

 現行憲法が、衆議院議員の任期を原則として4年と定め(45条)、例外としての衆議院解散を、条文上は内閣不信任案が可決された69条の場合に限定しているのも、議会の解散を、基本的に、内閣に対する国会の信任に関する手段と位置づけ、内閣が、自らを信任している議会を解散することを原則として認めない趣旨と解するべきだ。

 69条の場合以外に、憲法7条に基づく衆議院解散が認められるとすれば、重大な政治的課題が新たに生じた場合や、政府・与党が基本政策を根本的に変更しようとする場合など、民意を問う特別の必要がある場合であり、内閣による無制限の解散が認められると解するべきではない。

 議会の信任を得ている内閣が、政権基盤の安定強化のために、民意を問うべき重大な政治上の争点もないのに衆議院を解散することは、衆議院議員の任期を定める憲法45条及びその例外として衆議院の解散を認める憲法69条の趣旨に実質的に反すると言うべきであろう。

「衆議院解散」と民主主義の関係

 安倍氏は、衆議院解散をその政権基盤の強化のために最大限活用し、それによって首相在任期間は史上最長となった。国政上の重大な争点もないのに与党に有利と判断される時期に衆議院解散総選挙が行われれば、選挙への関心は高まらず、従来から50%余にとどまっている投票率をさらに低下させることになる。それによって、選挙結果は国民全体の意思から一層乖離したものとなり、民主主義の機能を一層低下させることにつながる。

 岸田首相は、直近の衆院選からの任期の折り返しにも至らない時期に、解散を考えているかのような発言をした後に、「三権分立」をも無視するかのような言い方で今国会での解散を否定した。それは、「解散権は首相の専権」との思い込みが極端に表れたものだ。

 首相公邸忘年会問題、マイナンバーカードをめぐる問題などで、内閣支持率が急落し、国民の支持を失いつつある岸田政権が、唯一頼るのが、憲法上も疑問がある「首相の無制限の衆議院解散権」だというのが、日本の「歪んだ民主主義」を象徴するものだ。

 今国会での衆議院解散は断念した岸田首相だが、自民党総裁選挙での再選を狙うための戦略として、今秋以降に解散に踏み切る可能性があると言われている。

 もし、そのような解散が行われた場合には、岸田首相が、「解散風」を煽る際に見せた「薄ら笑い」を思い出し、その解散総選挙に意味を、しっかり考えて投票に臨まなくてはならない。

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岸田首相「首相公邸忘年会」問題が、英国ジョンソン首相辞任の「パーティーゲート」より重大である理由

昨年の年末に、首相公邸で岸田総理の親族を集めて忘年会が開かれた件について、拙稿【首相公邸忘年会問題、建造物侵入罪成立の可能性は?】で、首相秘書官だった岸田首相の長男の翔太郎氏が公邸の公的スペースに同年代の親族らとともに立ち入って写真撮影などを行った行為について、岸田首相が、事前に了解していなかったとすれば、建造物侵入罪が成立する可能性があることを指摘した。

 一方、松野博一官房長官は、「岸田総理は、この問題について報道で初めて知った」と会見で説明しているが、仮にその説明が事実と異なっていて、岸田首相が公的スペースへの立入りを事前に了解していたのであれば、建造物侵入罪は問題にならないが、岸田首相には重大な政治責任が生じることになる。

 その場合、この問題の構図は、ジョンソン首相が辞任に追い込まれる原因となった、2022年の英国での「パーティーゲート」と多くの点で共通している。

英国「パーティーゲート」で問題にされたジョンソン氏の国会答弁

 BBCの記事【ジョンソン元英首相、「パーティーゲート」めぐる意図的ミスリード否定 議会特別委】によると、パーティーゲートでジョンソン氏が辞任に追い込まれた経過は概要、以下のようなものであった。

イギリスで新型コロナウイルス対策のために屋内での集まりが制限されていた2021年末以降、当時首相だったボリス・ジョンソン氏が首相官邸などで複数の飲み会やクリスマスパーティーを開いていたことが相次いで発覚。「ウォーターゲート」事件をもじって「パーティーゲート」と呼ばれている。

一連のパーティーが発覚した後、ジョンソン氏は2021年12月に下院で「パンデミック対策のルールは順守されていた」と答弁していたが、ジョンソン氏と当時財務相だったスーナク現首相がロックダウン中のパーティーの開催でロンドン警視庁から罰金を科せられ、野党側が、「ジョンソン氏の答弁は議会に対するミスリードだ」として特別委員会の設置を求めた。

その後、特別委員会でジョンソン氏は、

「ロックダウン中に開かれた首相官邸の集まりでは、社会的距離は『完璧には』守られていなかった」

と認めた上で、

「一連の集会は『必要な』仕事のイベントで、そうした集まりは許されていた。ガイドラインは常に守られていたと自分は理解している」

と述べた。

イギリスでは、議会で閣僚がわざと嘘をついたり、議会をミスリードした場合、辞職・解任理由になる。「ミスリード」とは、議会に虚偽の情報を事実であるかのように提示し、誤った方向へ導くことを意味する。

「当時は、できる限り(感染対策の)ガイドラインに従っていた。それこそガイドラインが定めたことだった」

ともジョンソン氏は述べ、当時の首相官邸では窓を開けたままにしたり、できる限り屋外で仕事をしたり、同じ部屋にいる人数を制限したり、検査を繰り返したりと対応していたと説明。

「それによって、完璧にソーシャルディスタンスを保てないことによる問題の影響を緩和しようとした」

と述べたが、与党保守党の議員からも、

「下院で(2021年末当時に)そのように当初から答弁するべきだった」

と指摘された。

 結局、ジョンソン氏は、2022年7月7日に、与党・保守党の党首を辞任すると表明、同年9月に首相退陣に追い込まれた。

ジョンソン氏の「パーティーゲート」と岸田首相「公邸忘年会問題」の共通性

 パーティーゲートで、ジョンソン氏は、国会で虚偽ないしミスリーディングな答弁をしたとして、野党のみならず与党議員にも追及され、首相辞任に追い込まれた。

 岸田首相にとっては、今回、長男の翔太郎秘書官を辞職させる事態となった「首相公邸忘年会問題」も、まさに「首相公邸でのパーティー」の問題であり、「岸田パーティーゲート」とも言える。今後の国会での野党の追及如何では、ジョンソン氏にとってのパーティーゲートと同様の展開になる可能性がある。

 岸田首相は、5月26日の参院予算委員会での田名部匡代議員の質問に対して、

「厳重に注意した」

と述べて更迭することを否定していたが、週明けの29日月曜日には、

「ケジメをつけるため」

として、翔太郎秘書官を6月1日付で辞職させ、事実上更迭する方針を明らかにした。また、5月26日の官房長官会見で松野官房長官は

「岸田総理は、この問題について報道で初めて知った」

と説明しており、岸田首相は、翔太郎氏などの公的スペースへの立入りを事前には了解していなかったことが前提とされていた。

 しかし、もし、事前に了解していなかったとすれば、翔太郎氏が公的スペースについて秘書官として独自の管理権を有していたのでない限り、建造物侵入罪が成立する可能性がある。

 この場合、翔太郎氏の建造物侵入罪について告発が行われる可能性もあり、岸田首相が、公的スペースへの親族の招き入れを容認していたと認めない限り、刑事責任は簡単には否定できない。岸田首相の後継者として指名されている翔太郎氏が刑事事件の捜査の対象となることは、政治家一家である岸田家の「世襲政治」にとって大打撃となることは間違いない。

 岸田首相は、翔太郎氏が忘年会後に親族らを公的スペースに招き入れるのを事前に了解していたという「真実」を述べざるを得なくなるかもしれない。そうすると、松野官房長官の説明とは全く異なることになる。首相公邸に親族を招いた忘年会という「パーティー」について、国会での答弁に重大な問題があったことになり、まさにジョンソン氏の「パーティーゲート」と同様の展開となる。

英国と日本の議院内閣制のもとでの民主主義の成熟度の違い

 問題は、英国と日本とでは、同じ議院内閣制を採用している国であっても、「民主主義」の成熟度が大きく異なることである。

 議院内閣制では、内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名され、内閣は、行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う。内閣の国会に対する責任は、国会の場での質問に対して誠実に真実を答弁することが大前提であり、国会での答弁で閣僚が意図的に虚偽答弁をしたり、議会をミスリードした場合、国会に対して重大な責任が生じ、辞職・解任理由になるのは当然のことと言える。

 ジョンソン氏が首相辞任に追い込まれた「パーティーゲート」も、コロナ下とは言え、官邸内でのパーティーの問題であり、ジョンソン氏が言うように首相の仕事にも必要だったとの説明も可能だったのであれば、日本では、国会で首相が政治責任を追及される程大きな問題とはされないだろう。しかし、英国の議会では、ジョンソン氏の説明が、当初の国会での説明から変わったことに対して、与野党を超えて首相の国会答弁を問題視した。

 保守党のジェンキン議員は、

「もし下院で(2021年末当時に)あなたがそう答弁していたなら、私たちはおそらく今ここでこうしていない。けれどもあなたは当時、そう言わなかった」

と述べた(前記BBC記事)。英国では、首相が、国会で誠実に真摯に答弁する義務は極めて大きなものであり、それを求めることは党派を超えた国会議員としての責務と認識されているということなのであろう。

日本の民主主義を崩壊させた安倍氏の「国会での虚偽答弁」

 日本では、国会での首相や閣僚の虚偽答弁に対する対応は全く異なる。それが決定的となったのが、第二次安倍政権で、森友学園・加計学園・桜を見る会問題と、首相をめぐるスキャンダルが相次いで表面化した際の政権側の対応だった。

 私の新著【単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】では、これらの問題を通して、「法令遵守と多数決による単純化」が進んだ経緯を分析している。

 森友・加計学園問題を「多数決の力」で乗り切った安倍氏だが、2019年11月以降国会で追及を受けた「桜を見る会」問題で、公選法違反と政治資金規正法違反の両面の法的問題に直面し、将棋で言えば明らかに「詰んだ状態」になったが(【「桜を見る会」問題の本質~安倍首相説明の「詰み」を盤面解説】)、それでも、明らかに虚偽だと思える説明・虚偽答弁を繰り返した。

 2020年8月末に首相を辞任した後、検察捜査で明らかになった事実から、安倍氏が首相として国会で118回もウソの答弁をしていたことが否定できなくなり、答弁の訂正に追い込まれる事態となった。

 2020年12月25日の衆参両院の議院運営理事会が答弁訂正の説明の場として設定されたが、そこでも安倍氏は、国会での虚偽答弁の際の認識などについて明らかにウソの説明をした。しかし、国会での野党からの追及の場は極めて短い時間に限られ、自民党や維新の会などからは、虚偽答弁を批判するどころか、違法とされた法律の建付けがおかしいかのような発言すらあった。

 結局、首相の立場で国会での虚偽答弁を繰り返したことが発覚しても、安倍氏の政治責任には全く影響がなく、自民党の最高権力者であり続けたのである。

安倍氏が旧統一教会関連団体にリモート登壇する決断を行った理由

 2021年9月12日、安倍氏は統一教会のフロント団体・UPFが主催した国際イベントにリモート登壇し、冒頭で

「日本国、前内閣総理大臣の安倍晋三です」

と名乗った後、

「朝鮮半島の平和的統一に向けて努力されてきた韓鶴子総裁をはじめ皆様に敬意を表します」

と韓鶴子総裁を礼賛した。

 このような、安倍氏のあまりにも大胆で無神経な行動によって、統一教会の霊感商法等の反社会的行為の被害者や宗教二世から強い反感と憎悪を持たれることになり、山上徹也が手製の銃で安倍氏を狙撃する犯行の動機となった。

 第二次安倍政権の間に、森友学園問題・加計学園問題・桜を見る会問題と、安倍氏自身が追及される問題が表面化し、野党・マスコミからの追及が続いたものの、結局、常に「強気」で押し通した結果、実質的に問題なく収束することができた。

桜を見る会問題での「虚偽答弁」問題をも、さしたる苦労もなく乗り切ったことで、UPFの国際イベントに登壇してもそれ程大きな問題にはならないと高をくくっていたのかもしれない。

 そういう姿勢で史上最長の総理大臣の在任期間を「全う」した安倍氏を、「国葬」を行って弔ったのが岸田首相なのである。

日本では、首相や閣僚の議会への説明・答弁の誠実性・真実義務という議院内閣制の大前提が、全く形骸化している。ある自民党議員と、この岸田首相公邸忘年会問題について話す機会があり、英国でのパーティーゲートと同程度の重大な問題なのになぜ大きな問題として取り上げられないのかと尋ねたところ、

「日本では、首相や閣僚がウソをつくことに有権者が慣れ切ってしまっているので、どうにもならない」

という言葉が返ってきた。

あまりに悲しい、日本の政治の現実である。

「首相公邸公的スペースでの悪ふざけ」は国民への重大な背信行為

 今回の「首相公邸忘年会問題」というのが、国民にとってどういう問題なのか、改めて考えてみる必要がある。それは、英国でジョンソン氏が首相辞任に追い込まれた「パーティーゲート」と比較しても、決して軽々に扱える問題ではない。

 現在の首相公邸は、昭和4(1929)年に竣工された旧首相官邸を曳家・改修したもので、現在の首相官邸が竣工した平成17年(2005年)から「公邸」として使用されている。

 首相官邸だった時代には、5・15事件、2・26事件の舞台にもなり、壁面には、その時の銃弾の後も残っているという。まさに、昭和・平成の歴史を刻んできた貴重な遺産であるからこそ、首相官邸新築にあたって、総重量2万トンの建物を、東に8度回転させるとともに50メートル南に移動させるという大工事を行ってまで、歴史遺産として保存された。今でも、外国からの賓客の接遇や、内閣の重要行事等に活用されている。その膨大な曳家・改修の費用も年間1億6000万円に上るとされる維持費も、すべて国民の税金によって賄われている。

 現在の首相公邸は、そのような国民負担によって維持されている歴史的遺産なのであり、その一部に首相の「私的スペース」が設けられているのも、基本的は、首相官邸に近接した場所に居住して首相としての職務を全うするために提供されているものであり、一般的な公務員の「宿舎」などとは全く性格が異なる。

 岸田首相の長男の翔太郎秘書官が行ったことは、その歴史上の遺産としての首相公邸に親族を招いて忘年会を開き、公的スペースに立ち入って、「悪ふざけ」で、組閣の記念撮影や内閣の記者会見の真似をしたり、赤じゅうたんに寝そべっているポーズをとって写真撮影したりしたのである。

 まさに、国民の貴重な財産である首相公邸の公的スペースを辱める行為に他ならない。

 そのような行為のそもそもの発端となった「親族を招いた忘年会」について、当初、岸田首相は

「私も私的な居住スペースにおける食事の場に顔出しをし、あいさつもした」

と述べていたが、その後、写真週刊誌FRYDAYの記事(【やっぱりあった!岸田首相が「息子大ハシャギ公邸忘年会」に「ご満悦参加写真」独占入手】)で、岸田首相本人が「記念写真」の中心にご満悦で収まっていることが明らかになり、岸田首相自身が「主催者」であった疑いが濃厚になった。

 それにもかかわらず、岸田首相は、私的スペースでの忘年会については

「親族と食事を共にした。私的なスペースで親族と同席したもので不適切な行為はない」

などと述べるだけで、詳しい説明も国民に対する謝罪も全く行っていない。

 翔太郎氏の「公的スペースへの親族の招き入れ」については、当初は「厳しく注意した」と述べるだけだったが、その後「公的立場にある秘書官として不適切であり、けじめをつけるため交代させる」として、翔太郎氏の秘書官辞任を明らかにした。

 しかし、「更迭」ではなく、あくまで「自主的辞職」である。首相秘書官として重大な問題を起こしたことについての責任を問い、制裁を科すことは何一つ行っていない。岸田首相自身の責任についても、何一つ発言せず、国民に対して謝罪もしていない。

 このような「首相公邸忘年会問題」に対する、岸田首相のあまりに無責任かつ無神経な対応に対して、野党もマスコミも、国会の場や会見などで十分な追及が行われているとは到底言えない。

なお、【前掲拙稿】で、

首相秘書官の職務は、内閣総理大臣に常に付き従って、機密に関する事務を取り扱い、また内閣総理大臣の臨時の命により内閣官房その他関係各部局の事務を助ける役職であり、固有の権限を有しているわけではない。首相自身からの指示なく、自分の判断で行えることは基本的にないはずだ。翔太郎氏には、首相秘書官だった時も、首相公邸の公的スペースについての管理権はなかったと考えられる

と述べたが、元NHK解説委員の岩田明子氏が、この問題が週刊文春で報じられた直後のテレビ番組出演で、以下のように述べていたことがわかった(【岩田明子氏、「ウェークアップ」で岸田翔太郎氏の首相官邸での不適切行為を解説…「セキュリティーに問題がある」】)。

赤じゅうたんの階段がある公的ゾーンは「ここって入れるのは通行証を持っている総理と総理SPと秘書官だけなんです。官房長官とか副長官ですら勝手には入れない。(公的ゾーンに)誰を入れるかは、政務の秘書官が判断をする」とし、プライベートゾーンと公的ゾーンへの通行移動時に「セキュリティーが解除されますので、第三者の移動の許諾権限は政務の秘書官と警察出身の秘書官が持っている。その権限を肉親が持っている部分は、ちょっと…」と疑問を投げかけていた。

 仮に、岩田氏の発言の通りだとすると、岸田首相の政務秘書官だった翔太郎氏には、「公的スペースに誰を入れるか」を判断する独自の権限を持っていたことにはなるが、それは当然のことながら公的な必要性があることが前提であって、管理権を有する岸田首相の了解なく、忘年会の流れで親せきを連れて入る権限ではない。建造物侵入罪が成立する可能性があることに変わりはない。

「公邸忘年会問題」が未解決のままの岸田首相による解散総選挙はあり得ない

 この問題は、岸田首相にとって、ジョンソン氏のパーティーゲート問題以上に、深刻かつ重大な問題である。それは、まさしく、日本にはびこる「世襲政治」の悪弊が一気に顕在化したものである。

 この「首相公邸忘年会」の問題が、国会での追及もなく、曖昧なまま幕が引かれるとすれば、ジョンソン首相が国会での説明の在り方を与党議員にまで追及され辞任に追い込まれた英国とは、同じ議院内閣制であっても、民主主義のレベルにあまりに大きな落差があることになる。

 このような重大かつ深刻な問題が追及されることもないまま、岸田首相が今国会末に国会を解散し総選挙に打って出ることは決して許してはならないことだ。それが現実に行われ、その選挙で、岸田首相が目論見どおり勝利を得るような結果になるとすれば、それは、日本の民主主義の「実質的な終焉」を意味するものとなるだろう。

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容疑者完全黙秘の殺人事件で露骨になる「犯人視報道」と“日本の刑事司法の構造”

2023年5月10日、東京都江戸川区の住宅で住人男性を殺害した疑いで同区立中学教諭が逮捕され、同月31日に起訴された。この事件では、

現場の住宅から教諭の持っているスニーカーと同じ型の土足の足跡が見つかってい  た。

捜査が及ぶことを想定して教諭があらかじめ作成したとみられる“想定問答”のメモが関係先から見つかっていた

事件前後に少なくとも2回、服を着替えていた。

など、被疑者の犯人性に関する「警察リーク情報」が山のように垂れ流された。

2022年10月に、21歳の女子大学生をタリウムを摂取させて殺害したとして起訴された京都市左京区の元不動産業の男性が、3年前の7月にも、61歳の叔母を殺害しようとしたとして2023年5月24日、殺人未遂の疑いで再逮捕されたが、この事件では、

容疑者のスマートフォンを調べたところ、叔母に対する殺人未遂事件の5か月前から「殺人」ということばが、さらに、2か月前からは、「タリウム」ということばが検索された履歴が残っていた。検索は叔母が体調不良を訴えた数日前まで続いていた

などと報じられている。

いずれも、取調べに対して、容疑者は黙秘しているとのことだ。

このような話が、連日報じられると、殆どの人は、被疑者はこの事件の犯人だと確信するだろう。実際に刑事裁判が開始される前に、世の中的には事実上「有罪の結論」が出てしまうことになる。この事件は殺人事件なので、当然、裁判員裁判の対象だ。報道によって裁判員が予断を持つことにもなりかねない。

一方、5月25日に発生した長野県での4人殺害事件については、警察からの捜査情報リークによると思える報道はほとんどない。4人殺害後、犯人が猟銃を持って立てこもった末に逮捕されたこの事件では、「犯人性」に殆ど問題がない。警察側に、捜査情報をリークして犯人視報道をさせる必要がない、ということだろうか。

被疑者が黙秘して犯人性を認めない事件においての露骨な「犯人視報道」の背景には、国選弁護人が起訴後にしか選任されず被疑者段階の弁護が限定的にしか行われなかった昔とは異なり、当番弁護士や起訴前国選弁護が充実し、逮捕直後から弁護人の介入が行われ、しかも、無実を訴える被疑者に対しては、捜査段階での黙秘を勧めるのが刑事弁護のデフォルトとされるようになっているため、警察の取調べで自白が得られにくくなったことがあるようだ。

日本では、世間の耳目を集めた殺人事件などの場合、警察の側に、「事件を解決する」ということに対する拘りが強い。昔であれば、取り調べで被疑者を自白に追い込み、「全面自供」で事件が解決、という決着が多かったが、被疑者が「完全黙秘」では、それは見込めない。そこで、警察幹部が記者クラブを通じて各社の記者を集め、被疑者の犯人性について警察が収集した証拠の内容を一方的にマスコミに情報提供しているようだ。それによって、世の中に「被疑者が犯人であること」を確信させ、それによって、事実上、「事件の解決」にしたいということであろう。

しかし、本来、刑事事件について有罪無罪の判断は、裁判によって行われるというのが当然の原則のはずだ。

被疑者は、取調べに対して黙秘して、刑事裁判で自らの主張をしようという姿勢なのであるから、その刑事裁判が開かれ、そこで、公正な審理によって有罪無罪の判断が行われるのを待つべきであろう。

その被疑者が真犯人であるかどうか、有罪であるかどうかの判断は、国家の公正な手続で行われなければならない。被疑者側の弁解や主張が全く行われない状況で、警察がマスコミを通じて一方的に世の中に「有罪の認識」を広めていき、刑事裁判が始まった時点では、既に世の中には「有罪の確信」が動かしようがないものになっている、というのでは、あまりにもアンフェアだ。

前記のような「犯人視報道」からすると、江戸川区立中学教諭が逮捕された殺人事件でも、被疑者が犯人であることは間違いないように思える。

しかし、それらの事実について、被疑者・弁護人に弁解・反論の機会が与えられたわけではない。「想定問答作成」にしても、どの時点で、どのような状況において被疑者が作成したのかによって、その意味は異なってくる。警察側の情報提供による一方的な報道をそのまま信じ込むことが危険であることは言うまでもない。

このように、被疑者逮捕後の「犯人視報道」によって社会の中に「有罪の認識」が定着するのが恒常化していることの背景に、日本の刑事司法の構造そのものの問題がある。

日本では、被告人が起訴事実をすべて認めた「自白事件」でも、検察官が「有罪を立証する証拠」を裁判所に提出する。その証拠が公判廷で取調べられ、裁判所が証拠に基づいて犯罪事実を認定し、有罪判決が言渡される。ここでは、有罪判決は、裁判所の証拠による事実認定に基づいて行われているという「建前」が維持されているが、被告人が起訴事実を認めているのに、裁判所が、「証拠が十分ではない」と判断して「無罪」を言い渡した事例は、過去にはほとんどない。

つまり、実際には、日本の刑事裁判では、起訴される事件の9割以上を占める「自白事件」について、裁判所は量刑の判断をしているだけだ。それなのに、「証拠に基づいて事実認定を行う」という外形を維持するために「(当然)有罪の事件の司法判断」に膨大な労力と時間が費やされている。その分、被告人が無罪を主張する「否認事件」に費やす時間と労力が限られてしまう。このような刑事司法の構造の下で、有罪率は99.5%(否認事件だけでみても98%)を超える。

刑事裁判は、本来は、納得できない、謂れのない容疑で逮捕され起訴された者が、弁解・主張を述べ、裁判所がその言い分に正面から向き合い、証拠によって事実を確認する場であるはずだ。しかし、現実の日本の刑事裁判の多くは、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎないものとなっている。

被疑者の逮捕」というのも、本来は、「逃亡のおそれ」「罪証隠滅のおそれ」がある場合に、それを防止するための措置に過ぎないはずだ。しかし、実際には、それによって、実名報道が行われ、「犯罪者」というレッテル付けが行われる。そのレッテル付けに「犯人性」の裏付けを与えるのが、警察情報による一方的な「犯人視報道」だ。

検察官の起訴は、刑事訴訟法上は、刑事裁判を求める「検察官の行為」に過ぎないはずだが、日本では、公訴権を独占し、訴追裁量権を持つ検察官が「正義」を独占している。検察官の判断は「正義」であり、事実上、そのまま司法判断となる。

日本では、このように、警察の逮捕によって「犯罪者」としてレッテル付けがされ、それが、検察官の起訴で「正義」のお墨付きを与えられることで、「被告人=犯人」の推定が働く、まさに「推定無罪の原則」の真逆の構図がある。そのため、起訴された被告人の多くは、自白し、裁判でも起訴事実を認める。「犯罪事実を認めず悔い改めない被告人」は、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎない刑事裁判の場に引き出される前に、「犯人視報道」が、「自白」に代わって、世の中での「有罪」の確信を生じさせる機能を果たすのである。

刑事裁判の手続においては、警察や検察に逮捕された者は、通常、潔く自白し、裁判でも罪を認めるのが「デフォルト」だと思われてきた。そこでは、被疑事実を争ったり、裁判で無罪主張したりする行動自体が異端視される。そのような人間は、罪を認めるまで身柄拘束されるのは当然だという考え方が「人質司法」につながる。

憲法上の権利である黙秘権を行使する被疑者に対して、警察幹部が、「犯人視情報」を提供し、それをマスコミが垂れ流す、その背景には、日本の刑事司法の構造そのものが存在するのだ。

このような、刑事裁判というものをおそろしく軽視した日本の刑事司法のままで良いのだろうか。刑事裁判の在り方そのものを、そして、これまでの「形骸化した刑事裁判」を前提にした犯罪報道の在り方を、根本的に考え直すべきではなかろうか。

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安倍政権下で進んだ「法令遵守と多数決による“単純化”」への危機感

拙著【単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】(朝日新書)が、5月12日に発売になった。

8年近くの第二次安倍政権の間に、「安倍一強体制」と言われるほどに権力が集中し、自民党内でも、政府内部でも、安倍首相と側近政治家や官邸官僚には逆らえず、その意向を忖度せざるを得ない状況になった。安倍支持派と反安倍派との対立は激しくなり、「二極化」が進み、両者の対立は、妥協の余地どころか、議論の余地すらないほど先鋭化した。

こうした中で、安倍政権側、支持者側で顕著となったのが、

「法令に反していない限り、何も問題ない」

「批判するなら、どこに法令違反があるのかを言ってみろ。それができないないなら、黙っていろ」

という姿勢だった。

その背景には、「法令」は、選挙で多数を占めた政党であれば、どのようにも作れるし、変えることもできる、閣議決定で解釈を変更することもできるし、憲法違反だと指摘されれば、内閣法制局長官を、都合のよい人間に交代させて憲法解釈を変更すればいい、という考えがあった。

このようにして、多数決で選ばれた政治家が「法令」を支配し、そこに「法令遵守」が絶対という考え方が組み合わさると、すべての物事を、「問題ない」と言い切ることができる。「法令遵守」と「多数決」だけですべて押し通すことができるということだ。

これが、本書の主題の「『法令遵守』と『多数決』の組合せですべてが解決する」という「単純化」だ。

そういう「単純化」が進んでいった第二次安倍政権の時代には、森友、加計学園、桜を見る会問題など、多くの問題が表面化したが、安倍批判者が追及を始めると、安倍氏本人から、或いは、安倍支持派から、決まって出てくるのが、「何か法令に違反しているのか。犯罪に当たるのか」という開き直りのような「問い」だった。

黒川検事長定年延長問題での「検察庁法に違反する」との指摘に対しても、

「閣議決定で法解釈を変更した」

ということで押し通した。

「法令遵守」という言葉自体の問題を指摘してきたのが、これまでの私の“コンプライアンスへの取組み”だった。

2004年、検察に在籍中に兼職していた桐蔭横浜大学大学院特任教授として、六本木ヒルズの同大学のサテライトキャンパスの中にコンプライアンス研究センターを開設して以降、日本社会の法令や規則と社会の実態が乖離し、経済社会にさまざまな混乱不合理が生じていることを指摘してきました。

形式的な「法令遵守」から脱却して「社会的要請への適応」をめざすコンプライアンスの啓蒙活動を展開し、『法令遵守が日本を滅ぼす』(新潮新書)『思考停止社会』(講談社現代新書)などの著作群で、「歪んだ法」や「歪んだ法運用」にひれ伏す日本人の有り様、それを生む構造を指摘してきた。

そこで訴えてきたのが、

「コンプライアンスは、法令遵守ではなく、社会の要請に応えること」

「『遵守』という言葉で法令規則等を『守ること』が自己目的化してしまうことで思考停止に陥る」

ということだった。組織論としてのコンプライアンスは、単に不祥事防止だけでなく、経営とコンプライアンスが一体化することで、組織の活動を健全なものとし、一層発展させていこうとする「前向きな考え方」だった。企業・団体などで多数の講演を行う中でも、「法令遵守」の弊害を説く私のコンプライアンス論は注目され、共感を得た。

しかし、第二次安倍政権に入り、権力が集中し、「長い物には巻かれろ」という風潮の下で「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」が進むと、「法令遵守」を絶対視する人達に対して、法令遵守の「弊害」を指摘し、「脱却」を訴えても、聞き入れられる余地はなかった。「多数決の論理」と結びついた「法令遵守」は、彼らに政治的優位と安定的な利益をもたらすドグマなのであり、それに疑問を差し挟む意見を受け入れる余地はない。

そういう考え方の集団に権力が集中するにつれ、官僚組織には権力者に阿る「忖度の文化」がはびこり、世の中の価値観もコンプライアンスの考え方も全体として「単純化」していった。

日本社会にとって、今、重要なことは、第二次安倍政権以降に「法令遵守と多数決による単純化」が進んだ経緯を改めて辿ってみることだ。

第一次安倍政権とは異なり、第二次政権で「単純化」が進んでいった背景に何があったのか。森友学園、加計学園では、本来単純ではないはずの問題が「単純化」され、安倍批判者、支持者の議論は全く噛み合わない状況になった。そして、それ自体が単純な「弁解の余地のない違法事象」であった「桜を見る会問題」では、安倍首相が国会で度重なる虚偽答弁まで行って問題の隠蔽が図られた。こうして安倍政権下で進んでいった「『法令遵守』と『多数決』の組合せによる単純化」は、菅政権、岸田政権にも引き継がれ、安倍氏銃撃事件以降も、国葬実施をめぐる問題などで同様の事態が生じている。

単純化という病 安倍政治が日本に残したもの】では、このような経過を振り返り、日本社会における「単純化」の本質に迫る。

多くの国民が「法の素人」という意識を持つ日本では、 “お上”によって「法」は正しく運用されていると無条件に信じ、「法」にひれ伏してしまう傾向がある。法の内容或いはその運用に「歪み」が生じていても、国民にほとんど知られることなくまかり通っている。そこでは、政治権力が集中することによって「法令遵守」のプレッシャーの弊害は一層顕著になり、「法令遵守と多数決による単純化」による弊害がさらに深刻化する。そういう「歪んだ法」とその運用の実態を、具体的な事件、事故等を通して指摘したのが、今年3月に上梓した【“歪んだ法”に壊される日本  事件・事故の裏側にある「闇」】(KADOKAWA)だ。

この2冊の拙著に込めた、日本の政治と社会への危機感が、少しでも多くの人に共有されることを願っている。

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岸田首相襲撃事件で再燃した「犯人の思う壺」論、どこがどう間違っているのか

4月15日に、和歌山市で選挙演説中の岸田文雄首相が、手製の爆弾のようなもので襲撃される事件が起きた。昨年の7月8日、安倍晋三元首相が選挙演説中に自作銃で銃撃されて死亡する事件が起きてから9か月余りで、首相本人が、選挙演説中に現職の首相が襲撃される事件が起きたことは、社会に衝撃を与えた。この事件を我々はどう受け止めるべきか、そこには多くの困難な問題がある。

安倍元首相銃撃事件は、首相退任後も大きな政治的影響力を保持していた政治家が突然亡くなったということに加えて、事件の動機・背景に関連して様々なことが明らかになり、それが日本の政治、そして社会に極めて大きな影響を及ぼした。

山上徹也容疑者(既に起訴されいるので「山上被告」)の犯行の動機は、母親が統一教会にのめりこんで多額の献金をし、それによって家庭が崩壊したことへの恨みを、統一教会と関係が深いと思われた安倍元首相に向けたものだった。

この事件を機に、旧統一教会をめぐる問題に大きな関心が集まった。

とりわけ自民党の政治家と統一教会との関係に注目が集まり、連日大きく報道された。

そして、反社会的な活動を繰り返してきたとされる旧統一教会に対して解散命令請求をすべきだという声が高まり、それまで一度も使われたことのなかった宗教法人法に基づく質問権も行使され、旧統一教会の被害を救済する立法も成立した。

統一教会への恨みによる殺人という刑事事件を機に、その犯罪者が意図していた方向に、その問題提起を受けた形で世の中が動き、その動きがどんどん活発になっていった。このような、安倍元首相銃撃事件以降の社会の動きに関して、「犯人の思う壺にするな」ということが声高に言われていた。

私はそれを「犯人の思う壺」論と言って、Yahoo!ニュース【“「統一教会問題」取り上げるのは「犯人の思う壺」”論の誤り】などで批判してきた。

その安倍元首相銃撃事件から1年も経たないうちに、今度は現職の首相を狙った襲撃事件が起きたことで、また「犯人の思う壺」論が、声高に唱えられるような状況になってきている。

犯罪者の意図を実現するような方向に社会が動くと、模倣犯が現れて、同じような犯罪が繰り返される、だから犯罪の動機・背景は一切取り上げるべきではない、というのが「犯人の思う壺」論の人たちの主張だ。

彼らは今回の事件について、

安倍元首相銃撃事件の際に、山上容疑者の犯行の動機に関して、統一教会問題などを取り上げ、自民党と統一教会の関係を問題したことで、「犯人の思う壺」になった。それが、今回の岸田首相襲撃事件という模倣犯につながった、

と言っている。

それが果たして正しいのかどうか。

刑事事件における「同種犯行の防止」と犯罪の動機・背景の報道

重大な犯罪が発生した場合、それがどう報じられ、社会の反応はどうあるべきなのか、犯罪の背景になった事象に我々はどう目を向けるべきなのか。犯罪を防止することと、犯罪の背景にある問題に目を向けていくことの、両面から考えなければいけない問題だ。

犯罪には通常何らかの動機がある。まったくの衝動的、偶発的犯罪というのでない限り、何らかの意図で犯罪が行われるのが大部分だ。殺人事件であれば、例えば被害者に対する恨みが動機になって「人を殺す」という行為が行われる、それによって恨みを抱く相手が死亡する、それによって、その犯罪の最大の目的が実現されることになる。

そして、殺人事件に関して動機が報じられることによって、動機の背景に、被害者の側にも落ち度があったとか、批判・非難されるべきことをしていた、という事情があったことが明らかになることもある。それは、殺人の犯罪者にとって、もう一つ別の形で犯罪の目的を実現することにもなる。

日々、様々な刑事事件の報道が行われることは、そういう犯罪が実際に起きていることについて、世の中に警鐘を鳴らす面もある。

しかし、事件の詳細が報じられることは、犯罪の抑止、再犯防止、模倣犯の防止にマイナスになる面もある。

特に、政治家を狙った襲撃事件、テロのような事件が起きた時に、その原因・背景や政治家の側にどういう問題があったのかを報じることは、犯罪者の目的を実現することになり、それが同種の犯行を招く可能性を高める。だから社会は、犯罪の動機・背景には一切反応するなという考え方が出てくる。

犯罪に関しては、世の中がその犯罪の発生を知ること自体が重要な社会の要請だ。それと同時に、模倣犯を含めて同種の犯罪を抑止することももちろん重要な要請だ。犯罪と社会の関係は、この両面から考える必要がある。

犯罪を抑止するために、主としてその行為の責任に見合う厳正な処罰を行い、それによってその犯人が再犯を行うことを防止する、それを「特別予防」という。そして、犯罪者を処罰することによって、同じような犯罪が繰り返されることを防ぐことを「一般予防」という。これが、犯罪を抑止する基本的な手段だ。

そして、犯罪の動機・背景が報じられ、犯人が問題にしたかったことが取り上げられて意図のとおりになると、その分、一般予防の効果を弱めるだけでなく、同じような結果を狙う犯罪を誘発する可能性がある。そこで、もし、犯罪者の意図を一切実現させてはならない、その目的が達せられる方向、犯人の意図する方向には一切反応するなというのであれば、一切殺人事件の報道などは行わず、粛々と裁判をやって犯罪者を処罰すればよいということになる。しかし、果たしてそれが、刑事事件の報道として、それに対する世の中の反応として正しいと言えるだろうか。

それは、その国の社会で一般的に犯罪報道がどのように行われているかということも関係する。

安倍元首相殺害事件や岸田首相襲撃事件に関連して、ジャーナリストの窪田順生氏は

海外では、このような事件が起きた際に、テロ実行犯や集団無差別殺人犯などの人柄や、犯行にいたるまで考え方、思想などはなるべく報じないように「自制」をするのが常だ。アメリカでは「No Notoriety(悪名を広めるな)」という団体が発足して、その名の通り、事件を起こした人間にフォーカスせず、有名人にしない事件報道をメディアに求めている。模倣犯やさらに過激な犯行の「呼び水」になるからだ。

と指摘している(【山上被告を「同情できるテロ犯」扱いしたマスコミの罪、岸田首相襲撃事件で言い逃れ不能】)。

「No Notoriety」は2012年、銃乱射事件の被害者の両親が始めた運動で、テロというよりも、銃の乱射などによる大量殺戮を防止するための運動とされている。

軍保有の物を除いても3億丁を超える銃が存在し、人口100人当たりの銃所有数は120.5丁、2022年1月から5月末までの間に、銃による死亡者は8031人、負傷者は15119人に及び、発砲事件は231件発生しているというアメリカ(【相次ぐ銃撃事件、なぜ米国では銃規制が進まないのか?】)と、犯人が数か月にわたる作業で散弾銃を自作し、山中で試射を繰り返した末に行った銃撃が、警備体制上の不備等のいくつかの偶然が重なって安倍元首相に銃弾が命中した事件、管の中に火薬などを詰め込んだパイプ爆弾が投擲され、岸田首相や聴衆が退避後に爆発した事件という二つの元首相、現首相を狙った事件が続いたという程度の日本とは、殺人、テロの脅威のレベルが全く違うので、同列に論じるのは適切ではない。

しかも、陪審制の歴史が長いアメリカでは、もともと、事件報道が陪審裁判に与える影響が強く意識されており、刑事事件の発生時に事件の内容についてはある程度報道されるものの、被疑者が捜査機関によって特定された後は、事件の「動機」「背景」についての報道は、ほとんど行われないようだ。

アメリカでは、司法手続や陪審制と表現の自由との関係で、1976年の連邦最高裁のNebraska Press事件判決で基本的に後者が優先され、報道機関が把握している事実関係の報道を裁判所が禁止することはできないとされているが、それ以前の取材制限命令については頻繁に発せられ、裁判所侮辱による処罰や拘束ということも生じ得る。それもあって、法廷で明らかにされたことは別として、被疑者の犯人性や、犯人であることを前提にするような不確かな報道が行われること自体がほとんどないというのが実情のようだ。

そもそもアメリカでは、事件報道で「人格報道」を行うこと自体が、テレビや代表的な新聞等ではほとんど行われないという点で、被疑者が逮捕された途端に、生い立ちや人物像も含めた人格報道が氾濫する日本とは、前提条件に大きな違いがあるということを見過してはならないと思う。

日本のように、一般的には、殺人事件などの場合、犯人が逮捕されると、犯罪の動機・背景、犯人の生い立ち、性癖まで報じられること自体が異常なのであり、それを容認し、一方で、政治的目的による犯行の場合だけ、動機・背景を一切報じるなという話は通らない。

「犯人の思う壺」論は、外国との比較を持ち出しても、それによって正当化されるものではない。

安倍元首相襲撃事件後の「統一教会問題」をどう見るか

安倍元首相銃撃事件後の日本の社会の反応に関して、その背景となった統一教会問題が大きく取り上げられたことに特に問題があるとは思えない。

本来、統一教会問題は、それ以前に世の中で問題にされ報じられるべきであったのに、それが異常に問題にされてこなかったことの方が問題だ。

あの銃撃事件以降、世の中の多くの人が「統一教会問題」を具体的に認識した。

高額献金、霊感商法的なもの、マインドコントロールにかかった状態で全財産を収奪された人たち、宗教2世3世の問題など、いろいろな深刻な問題が発生していることについて、元首相銃撃事件という犯罪が発生したことが契機となって、社会的に重要な事実を知ることになったというのは、我々が受け止めなければいけない一つの事実だ。

それ以前にあまりに社会が、そしてマスコミが、その問題に対して目を向けてこなかったことをまず反省すべきだ。そのうえで、知るべきことは知り、報じるべきことは報じ、そしてそれに対して行うべき対応は社会としてしっかりやっていかなければならない。

もちろん、マスコミには、統一教会問題が大きな社会的な関心を集めたから、これをやればやるほど視聴率が稼げるというような安直な動機で統一教会問題に追従するという動きも確かにあったと思う。しかし根幹のところにある、これだけ重大な社会的問題をもっともっと社会が目を向けて報じるべきだという地道な活動を続けてきた、例えば鈴木エイト氏や全国弁連の弁護士の人たちなどの活動すら、あの事件までは社会に知られていなかった。そのことをまず反省しなければいけない。

そういう意味で、安倍元首相銃撃事件に対する社会の反応に大きな問題があったとは言えない。

今回の岸田首相襲撃事件についても、安倍元首相銃撃事件の模倣犯だと言って、動機になったと思われる選挙制度の問題など一切論じるべきではない、という「犯人の思う壺」論を声高に唱えている人がいるが、根本的に間違っているように思う。

岸田首相襲撃事件をどう受け止めるべきか

今のところまだ木村容疑者は完全黙秘ということで犯行の動機等詳しいことは全くわからない。ただ、これまで報じられたところでは、木村容疑者は日本の選挙制度に大変不満を持っており、被選挙権が自分にないことが憲法違反だと主張し、国賠訴訟を起こしている。それが動機になったのではないかと言われている。

そういう木村容疑者の動機と推測される選挙制度の問題について、日本では国会議員の衆議院が25歳、参議院が30歳、地方議員が25歳、知事が30歳、首長も知事以外だと25歳、と被選挙権に制限がある。今回改めて海外の選挙制度で被選挙権がどう扱われているのか、供託金制度がどのようになっているのか調べてみたが、日本の現行制度は、国際的にみてかなり特異だということがわかった。

まず被選挙権年齢だが、多くの国が18歳以上、選挙権年齢と被選挙権年齢が変わらない。

アメリカは国会議員が下院が25歳、上院が30歳で日本の衆議院参議院と同じだが、アメリカの場合も、地方の政治家、公職者については21歳と低い年齢が定められている。

供託金制度は、最近は殆どの国で廃止されており、韓国はまだ供託金制度を維持しているが、それも国会議員で500万ウォン、日本円で約45万円、それと比べると日本の選挙制度は本当に特異だということは間違いない。

私は、これまで公職選挙法に関する問題は、記事やYouTubeでも取り上げてきたし、公選法改正の提案などもしてきた。その私ですらこの問題に気付いていなかったわけだから、国民の大部分に知られていなかったと思う。

このことに関連して、4月21日の朝日新聞朝刊で、【「首相襲撃余波で中傷 選挙制度改正求める人へ 容疑者と同じ」団体が声明、暴力断固反対】という記事が出ている。

これは、上記の日本の選挙制度の問題を社会的運動として指摘していた人がいて、それが今回の首相襲撃事件の木村容疑者と同じことをやっているではないかといって誹謗中傷されていることを報じる記事だ。

これまで言ってきた「犯人の思う壺」論からすると、今回の事件を機に日本の選挙制度の問題を指摘するとか、そういう動きを紹介することは「犯人の思う壺」だ、ということになり、この朝日のような記事を出すこともけしからんということになる。

しかし、犯罪の抑止ということと、犯罪を契機にその背景にあるものを社会として認識し、それを受け止めてしっかり世の中を良い方向に持って行く、これは同時実現していかなければならない問題だ。今回、木村容疑者がどのような動機で岸田首相を襲撃し、その犯罪がいかに厳正に処罰され、同様の犯罪を防止していくかということと、その背景にある問題をどう認識し、どう対応していくのかとは別の問題だ。我々は、この選挙制度の問題について、日本の民主主義を本当に機能させるためにも、制度を改めることに取り組んでいくことが必要だと思う。

日本の公職選挙の現状と、それをどう是正していくか

統一地方選挙の後半戦で市町村議会議員選挙や首長選挙などが行われたが、市町村長、市町村議会のかなりの部分が無投票で、選挙が行われずに決まってしまった。

これで地方自治を含めた民主主義が機能していると言えるのだろうか。

今回の事件を機に、被選挙権年齢と供託金制度の問題に気づき、それを検討していくことは重要である。しかし、それに関する木村容疑者の主張を正当なものと評価すべきかどうかは別の問題だ。

木村容疑者は、参議院議員の被選挙権が30歳以上であることに不満を持ち、そのために昨年7月の参議院選挙に立候補できなかったのは「年齢による差別」だとして憲法違反を主張しているようだ。

しかし、日本では1925年の普通選挙制度開始当時から25歳以上という定めがあり、その後に制定された日本国憲法でも、44条は当該資格を法定事項としており、同条も14条も「年齢」を差別禁止の対象として掲げていないので、違憲の主張は難しいだろう。

供託金について国際比較を行う際には、日本の場合、本来候補者が負担すべきポスター代等を公費負担とするかわりに、公費負担枚数以上のポスター等を禁止するなど、貧富の差によって選挙運動に不公平が生じないように、選挙が半ば公営で行われていることとの関係を無視することはできない。特に、国政選挙の場合、政見放送が公費で行われることも300万円という高額の供託金制度が維持される理由の一つだろう。

そのような選挙の公費負担が、果たして、国民の政治参加の場としての選挙の機能を高めているのかどうかを、改めて考えてみる必要がある。公費負担があったとしても、それだけで当選できるほど、選挙運動の機会が公平になるわけではない。そうであれば、むしろ、選挙の公費負担も供託金も大幅に下げて、立候補自体がしやすくなるようにすべきではなかろうか。

被選挙年齢に関しては、木村容疑者のように、国政選挙権での被選挙権、供託金を問題にするより、当面は、若者にとってもっと身近な地方議員選挙における被選挙権の制限を撤廃することの方が現実的だ。それは、若者の政治参加にとって意義があるだけでなく、地方議員の人材を確保するという面でも、有益だろう。

20歳前後の人も含めて、若い世代の人たちが被選挙権を与えられて、どんどん地方レベルの政治に参加することが重要なのではないか。それを阻んでいるのが被選挙権の制限、供託金による制限ではないか。

木村容疑者の犯罪は、その刑責に応じて厳正に裁かなければいけないし、同様の犯罪が繰り返されないようにいろいろ対策を講じ、要人警護も考えなければならない。

しかし、岸田首相襲撃事件の発生を機に、明らかに国際的にも特異な日本の選挙制度を改めていくこと、地方も含めた民主主義を機能させていくことにも、まったく別の問題として取り組んでいくべきだ。

安倍元首相銃撃事件、岸田首相襲撃事件という、要人を狙った犯罪が相次いだことを、日本社会がどのように受け止め、どのよう対応していくか、ある意味で日本社会は岐路に立っていると言える。

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”日露戦争由来「必勝しゃもじ」ウクライナ持参”に見る岸田首相の戦争への「無神経」

先週、岸田首相が突然ウクライナを訪問、首都キーウまで行ってゼレンスキー大統領とも会談した。その際、お土産に、宮島の「必勝しゃもじ」を持って行ったことについて、国会でも議論が行われたりしている。

私自身、広島は小学校3年から中学2年まで暮らした地であるし、そのあと両親は広島に住み着いたこともあり、私にとって広島は郷里だ。その私が、この「必勝しゃもじ」の話を聞いた時にどう思ったか。

広島人にとって、この「必勝しゃもじ」が一番多く使われるのは、高校野球などで広島のチームの応援をするときだ。まさに「応援グッズ」である。このしゃもじで「飯を取る」ということから、「敵を召し取る」という意味で応援に使う、というのが一番馴染みがあるもので、そのほかに、店などに商売繁盛などを願う「縁起物」として飾ることもある。

そういう高校野球などの応援グッズのようなものを、ロシアと戦争を行っている当事国のウクライナに持って行くというのは非常に違和感がある、とまず思った。

戦争と高校野球などのスポーツの応援とでは全然意味合いが違うではないか、というのが最初の率直な印象だ。そういう最初の印象をツイートしたところ、それに対して、以下のようなツイートで反論があった。

必勝とは文字どおり必ず勝て、という意味で、これは「日本がウクライナを支持し勝利を願う」という強いメッセージです。必勝しゃもじの由来は日露戦争ですから、尚更です。これをさりげなく縁起物を装ってウクライナに渡すというのは、この上なく見事な外交だと思います。

私は、正直なところ、「必勝しゃもじ」の由来が日露戦争だということは知らなかった。改めて調べてみると、確かに日露戦争の時に、戦勝を願う兵士たちが宮島にこのしゃもじを奉納した、そして実際に日露戦争で日本が勝ったということで、必勝を実現する、敵を召し取る「必勝しゃもじ」ということになった、というのが由来だったことが分かった。

もともと、そういう由来で「必勝しゃもじ」になったことは今の広島人にはあまり認識されることなく、「応援グッズ」や「縁起物」として使われてきたというのが、実際のところだろう。

では、岸田首相は、多くの広島人の感覚と同様に、「応援グッズ」「縁起物」として、ウクライナに「必勝しゃもじ」を持っていったのか、それとも、日露戦争での兵士の戦勝祈願と実際に勝利したことに由来するということで、今ロシアと戦争を行っているウクライナに持っていったのか。

もし、前者だとすれば、悲惨な戦争の最中に、応援グッズをウクライナにもっていくというのはあまりに軽薄だ。一方、先程のツイートで書かれていたように後者だとすると、ぞっとする程恐ろしい行動だ。それを知れば、広島人は、どう受け止めるだろうか。

多くの日本人にとって、広島の過去については、終戦の直前の忌まわしい原爆投下で膨大な人が犠牲になった時点以降の認識しかないだろう。それ以前の広島がどういう都市として発展したのか、戦前の日本にとって、広島がどういう位置づけだったのか、ということを知る人はあまりいないだろう。

広島は、日清戦争の時代、戦争の最高指導機関である大本営が東京から広島に移され、明治天皇も滞在した。日清戦争の戦費を審議する臨時帝国議会を広島で開催するため、仮の国会議事堂も建てられた。日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、広島はまさに、戦争に向けての拠点である「軍都」として発展したのだ。

そういう広島の宇品港に陸軍の船舶司令部があり、上陸用舟艇などをそこで建造していたのだが、それがいかに陸軍にとって重要な拠点であったか、そこでの司令官たちの苦悩を描いた【暁の宇品】という本がある。ジャーナリストの堀川恵子さんが書いた大変優れたノンフィクションだ。

私の両親が住んだ、そして、私自身も司法試験受験生時代を過ごした実家が宇品にあったこともあって、この本のタイトルに関心を持って読んだ。陸軍船舶司令部が、太平洋戦争においても重要な位置づけであったことがよく分かった。

そして、軍都広島からは、日清・日露の戦争を始め、大陸での戦争へも多くの出征兵士が送り出されていった。そのような軍都広島の歴史の結末が、あの忌まわしい原爆投下だったのだ。

アメリカが日本に原爆を投下するにあたって、投下地の候補がいろいろあり、最初は京都も候補地の一つだったと言われている。実際に原爆が投下された広島・長崎のうち、長崎は、もともと小倉に投下する予定だったのが、天候の関係で急遽長崎になったという経緯があったと言われている。しかし、広島はそうではない。

広島は最初から原爆投下の地として選ばれていた。それは、広島が重要な軍の拠点だったからであろう。

そういう意味では、広島にとって、広島市民にとって、原爆投下という悲惨な戦争の結末の起点となったのが、日清日露の戦争であり、それ以降の「軍都」としての発展だったのだ。

日露戦争での「必勝しゃもじ」が、出征する兵士の必勝祈願の奉納で使われたのが起源だとすると、被爆地広島にとって、その「必勝祈願」は、まさにそういう広島の悲惨な戦争への道を象徴するものだったことになる。そいういうことはあまり認識されていないから、「必勝しゃもじ」を「応援グッズ」として、カチカチと無邪気に打ち鳴らすこともできるのだ。

岸田首相が、日露戦争での「必勝しゃもじ」の由来を知った上で、敢えてそれを当時ロシアと戦った日本と重ね合わせて、今ロシアと戦っているウクライナに持参したとすれば、私は、無神経さに唖然とする。

しかも、日露戦争でロシアと戦った日本と、今、ロシアと戦うウクライナを同じように考えること自体も、全く理解できない発想だ。

ウクライナを支持する国際世論というのは、ウクライナはロシアから一方的に侵略された、武力によって国土を侵奪された。そのロシアと戦うウクライナは正義だ、だから全面的に応援すべきだ、というものだろう。

日露戦争でロシアと戦った日本は今のウクライナとは全く違う。日露戦争の当時、日本は朝鮮半島を侵略して植民地にしようとし、それに関してロシアと対立していた。まさに帝国主義的な野望がぶつかりあったことで日露戦争に至ったのだ。

その戦争は、第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となったことで、ポーツマス講和条約締結で終戦になった。しかし、この日露戦争では、多くの日本の若者たちが戦死した。大きな犠牲を代償にして、日本の勝利で終わったのだ。

歌人・与謝野晶子が、日露戦争の激戦地にいる弟を思って詠んだ歌がある。

『君死にたまふことなかれ』

ああ、弟よ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ。

末に生れし君なれば

親のなさけは勝りしも、

親は刄をにぎらせて

人を殺せと教へしや、

人を殺して死ねよとて

廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの

老舗を誇るあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順の城はほろぶとも、

ほろびずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家の習ひに無きことを・・・

日露戦争は、日本人が「不敗神話」を信じることにつながり、日本海海戦での大勝利は、日本海軍に、その後、時代遅れの「大艦巨砲主義」をはびこらせた。そして、それが無謀極まりない日米開戦に導き、沖縄戦への戦艦大和の「特攻出撃」、神風特攻隊による多くの若者達の犠牲、そして、広島・長崎の原爆投下という悲惨な結末につながっていくのである。

そういう歴史からは、広島人の意識としては、日露戦争の出征兵士の必勝祈願に由来する「必勝しゃもじ」という発想は出てこない。単なる「縁起物」「応援グッズ」だからこそ、広島人の生活習慣に溶け込んでいるのだ。

岸田首相が、帝国主義的な領土拡大の最中にあった日本がロシアと戦った日露戦争での「必勝祈願」に重ね合わせ、同じようにロシアと戦っているウクライナに「必勝しゃもじ」を持参したのだとすれば、岸田首相の無神経さは、原爆投下の被害に晒された広島人の「平和を祈る心」とは凡そ相容れないものである。

広島市民に選挙で選ばれながら、広島市民とは全く思いを共有していない「東京出身の政治家」だからこその発想なのではないだろうか。

このような首相に国を委ねていくことが、今後の日本にどのような将来をもたらしていくのか、まさに背筋が凍る思いだ。

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「組織的証拠捏造」可能性認める袴田事件“再審開始決定”、検察の特別抗告は許されない

3月13日、袴田事件で、東京高裁(大善文男裁判長)で再審開始決定が出された(以下「大善決定」)。捜査機関によって、確定判決で有罪の決め手の一つとされた証拠について「捏造された可能性が極めて高い」との判断まで示された。検察は、法的には特別抗告を行うことが可能だ(期間は、決定の翌日から5日、土日を挟んで20日が期限)。

しかし、死刑判決の確定から43年、静岡地裁の再審開始決定からも9年を経過しており、87歳という袴田氏の年齢、健康状態を考えれば、これ以上の審理の遅延は、到底許容し難い。検察は特別抗告を行う方針と報じられているが、袴田氏の冤罪救済を求める支援者のみならず、社会全体からも、特別抗告を断念し、一日も早く再審を開始するよう求める声が検察に押し寄せている。

以下に述べるような再審請求審の経過と実質的な争点を考えれば、大善決定に対する検察の特別抗告は許されるものではない。

静岡地裁の再審開始決定

確定した有罪判決に対して裁判のやり直しを求める再審が開始される要件には様々なものがあるが、その多くは、無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見した」(刑訴法435条6号)と認められた場合、つまり新規性、明白性を充たす証拠とされた場合である。

2014年3月に、静岡地裁(村山浩昭裁判長、以下、「村山決定」)で再審開始決定が出されたが、そこで、「明らかな証拠」とされたのは、以下の2つだった。

(1)袴田氏が逮捕・起訴され公判審理が行われていた最中に味噌樽の底から発見され、袴田氏が犯人であることを裏付ける有力な証拠とされている5点の衣類や被害者が着用していた着衣等から血液細胞を他の細胞から分離して抽出する「細胞選択的抽出法」を実施した上で、採取した試料のDNA鑑定を行った結果、袴田氏のDNA型とは一致しないという本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)。

(2) 5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っていたとされるが、1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないことを実験によって証明したとする「味噌漬け実験報告書」。

村山決定は、(1)(2)が、いずれも、新規性、明白性を充たす証拠だとして、再審開始を決定したが、その最大の根拠とされた(1)の本田鑑定には、後述するように、科学的鑑定と評価できない杜撰なものだという批判があり、その信用性に大きな疑問があった。

地裁での再審開始決定に対しては、ほとんど例外なく、検察は即時抗告を行い、高裁で決定が取り消されることも多かった。それまでは、死刑の確定判決に対する再審が地裁で決定されても、死刑の執行が停止されるだけで、その前提となる勾留まで停止することはなかった。しかし、村山決定は、地裁段階の再審開始決定で死刑囚の釈放を命じるという異例の措置をとった。

釈放された袴田氏は、自由の身となって支援者・家族の元に戻った。釈放された死刑囚が公の場に姿を現わせば、その映像的な効果によって、社会全体に袴田氏の「冤罪」「無実」が確定的になったと認識することになり、その後、再審開始決定が取り消され、袴田氏が収監された場合、「無実の人間を強引に収監して死刑を執行しようとする無慈悲な刑事司法」と受け止められ、強烈な反発が生じることは必至だった。

東京高裁決定による再審開始決定取消

これに対して、検察官が即時抗告し、3年半にわたる審理の末、東京高裁(大島隆明裁判長、以下、「大島決定」)は、(1)(2)は、いずれも無罪を言い渡すべき明らかな証拠には当たらないとして、再審開始決定を取消し、再審請求を棄却した。

大島決定は、(1)については、その根拠となった本田克也筑波大学教授のDNA鑑定(以下、「本田鑑定」)対して、以下のように述べて、信用性を否定した。

本田氏の細胞選択的抽出法の科学的原理や有用性には深刻な疑問が存在しているにもかかわらず、原決定は細胞選択的抽出法を過大評価しているほか、原決定が前提とした外来DNAの残存可能性に関する科学的原理の理解も誤っている上、平成23年12月20日付けの本田鑑定書添付のチャート図の解釈にも種々の疑問があり、これらの点を理由として本田鑑定を信用できるとした原決定の判断は不合理なものであって是認できず、本田鑑定で検出したアリルを血液由来のものとして、袴田のアリルと矛盾するとした結果も信用できず、本田鑑定は、袴田の犯人性を認定した確定判決の認定に合理的な疑いを生じさせるような明白性が認められる証拠とはいえないと判断した。

(2)については、

5点の衣類の各写真は、写真自体の劣化や、撮影時の露光といった問題があり、発 見当時の色合いが正確に再現されていないのであるから、色合いを比較対照する資料とはなり得ないものである上、前記各みそ漬け実験で用いられたみそは、5点の衣類が発見された1号タンク内にあったみその色合いを正確に再現したものとはいえないのであるから、みそ漬け実験報告書等を刑訴法435条6号にいう明白性がある証拠と判断した原決定は不合理なものといわざるを得ない。

として村山決定の判断を覆した。

5点の衣類が、その血痕の色等から、袴田氏が、犯行後に味噌樽の底に隠したものではないとすると、他の者が、味噌樽の底に入れたことになり、それを行うとすれば警察の可能性が高いということになる。それについて、村山決定では「警察は、人権を顧みることなく、袴田を犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、5点の衣類のねつ造が行われたとしても特段不自然とはいえず、公判において袴田が否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、全く想像できないことではなく、もはや可能性としては否定できない。」としたが、大島決定は、次のように述べてその可能性を否定した。

自白追及の厳しさと証拠のねつ造の可能性を結び付けるのは、相当とはいえない。これまでしばしば刑事裁判で自白の任意性が問題となってきたように、否認している被疑者に対して厳しく自白を迫ることは往々にしてあることであって、それが、捜査手法として許される範囲を超えるようなことがあったとしても、他にねつ造をしたことをうかがわせるような具体的な根拠もないのに、そのような被疑者の取調方法を用いる捜査当局は、それ自体犯罪行為となるような証拠のねつ造をも行う傾向があるなどということはできず、そのような経験則があるとも認め難い。しかも、そのねつ造したとされる証拠が、捜査当局が押し付けたと主張されている自白のストーリーにはそぐわないものであれば、なおさらである。

最高裁決定による差戻し

東京高裁の即時抗告審で、静岡地裁の再審開始決定が取り消されたことに対しては、袴田氏の冤罪救済を求め、支援する人達からは強い反発と批判の声が上がった。

弁護人が、最高裁に特別抗告したところ、2020年12月、最高裁は大島決定を取消し、同高裁に差し戻した。

この最高裁決定は、(1)について、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとした前高裁決定は、結論において正当であるとし、大島決定を支持し、(2)についても、

前高裁決定は、みそ漬けされた血液の色調に影響を及ぼす要因、とりわけみそによって生じる血液のメイラード反応に関する専門的知見について審理を尽くすことなく、メイラード反応の影響が小さいものと評価した誤りがあるとし、このことは5点の衣類に付着した血痕に赤みが全く残らないはずであるとは認められないとの前高裁決定の判断に影響を及ぼした可能性があり、審理不尽の違法があるといわざるを得ず、その違法が決定に影響を及ぼすことは明らかであり、前高裁決定を取り消さなければ著しく正義に反する

とした。

最高裁は、大島決定が村山決定を否定して、再審決定を取消した判断の大部分を支持したが、「メイラード反応の影響」という一点についてだけ、大島決定の審理不尽を指摘して、東京高裁に差し戻したものだった。

こうして、東京高裁に差し戻された袴田氏の再審請求について、審理が尽くされた末に、出された決定が、2023年3月13日に出された今回の決定だった。

大善決定は、

原審で提出されたみそ漬け実験報告書は、中西実験に加えて、みそ漬けされた血痕の色調の変化に影響を及ぼす要因について当審で取り調べた前記各専門的知見等によって裏付けられることによって、1年以上みそ漬けされた5点の衣類の血痕には赤みが残らないことを認定できる新証拠といえるのであり、前記の各証拠と総合すれば、1号タンクから発見された5点の衣類に付着した血痕の色調に赤みが残っていたことは、5点の衣類が昭和41年7月20日以前に1号タンクに入れられて1年以上みそ漬けされていたとの確定判決が認定した事実に合理的な疑いを生じさせることになる。

とし、新旧証拠を総合評価した上で、

5点の衣類が1年以上みそ漬けされていたことに合理的な疑いが生じており、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号夕ンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できず(この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。)、袴田の犯人性の認定に重大な影響を及ぼす以上、到底袴田を本件の犯人と認定することはできず、それ以外の旧証拠で袴田の犯人性を認定できるものは見当たらない。

として、静岡地裁の再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却し、袴田氏に対する再審開始を決定した。

以上が、これまでの袴田氏の再審請求審の審理の経過である。

静岡地裁の再審開始決定が出された当初、最大だったのは、前記(1)の本田鑑定が科学的鑑定として評価できるかだった。

本田鑑定は、「細胞選択的抽出法」によって、「50年前に衣類に付着した血痕から、DNAが抽出できた」というもので、もし、それが科学的手法として確立されれば、大昔の事件についてもDNA鑑定で犯人性の有無の決定的な証拠を得ることを可能にするもので、刑事司法の世界に大きなインパクトを与える画期的なものだった。しかし、そのような方法によって「DNAが抽出できた」というのであれば、その抽出の事実を客観的に明らかにするデータが提示される必要があるが、鑑定の資料の「チャート図」の元となるデータや、実験ノートの提出の求めに対し、血液型DNAや予備実験に関するデータ等は、地裁決定の前の時点で、「見当たらない」又は「削除した」と回答するなど、実験結果の再現性に重大な問題があった。

本田鑑定は、科学的鑑定と評価できない杜撰なものであり、前記(1)について、それを根拠に再審開始を決定した静岡地裁の判断は不合理だった(【袴田事件再審開始の根拠とされた“本田鑑定”と「STAP細胞」との共通性】。大島決定が、村山決定は本田鑑定の証拠価値の評価を誤った違法があるとして本田鑑定の信用性を否定し、その判断を最高裁も支持したのは当然だった。 

実質的な争点は「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性

本田鑑定に代って、大島決定に対する特別抗告審以降、再審請求の争点になったのが、前記(2)の「味噌漬け実験報告書」だった。

「5点の衣類には付着した血痕の色の赤みが残っており、それが1年以上味噌に浸かっていたとは考えられないこと」が科学的に証明できるかどうかが、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と認められるか、をめぐって、実験や多くの証人尋問が行われた。

弁護側の主張は、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」という客観的事実から「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という事実が導かれ、それが、「袴田氏が犯行の際に着用していた着衣」という証拠を消失させ、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」になるとの主張だった。これに関して、最高裁決定で、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」を科学的に明らかにすることが求められた大善決定では、その点について徹底して審理し、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着いた。

しかし、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色」というのは、50年以上前のことであり、それを厳密に客観的に再現することができるわけではない。結局のところ、どちらの結論を導こうとするかによって、その「科学的な推定」の中身が左右されることは否定し難い。

そういう意味では、「警察による組織的な証拠の捏造が行われた可能性」についてどう考えるかが実質的に重要であり、その点こそが、大島決定と大善決定とで判断が分かれた決定的な要因だったと見るべきであろう。

大島決定は、当時の警察が、仮に、袴田氏を有罪にするためにあらゆる手段を使おうとしていたとしても、無関係の衣類を袴田氏の着衣のように偽って、味噌樽の中から発見するという行為は、「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という、全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになるので、このような「証拠のねつ造」を疑うことは、警察がいかに人権を無視した過酷な取調べを行っていたとしても困難だとして、村山決定が認めた証拠捏造の可能性を否定するものだった。

冤罪事件や再審の歴史は、警察や検察による証拠の「隠ぺい」の歴史だったと言っても過言ではないほど、過去の多くの事件で、不当に証拠が隠されていたことが、真相解明を妨げてきた。また、警察でも証拠の改ざんが刑事事件に発展した事例も過去に発生している。検察においても、現に、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件という「改ざん」事件が発生しており、警察や検察による「証拠に関する不正」が行われる抽象的な可能性があることは、否定できるものではない。

しかし、日々発生する膨大な刑事事件の摘発・捜査・処分が、現場の警察官・検察官によって行われ、その職務執行が基本的に信頼されることで刑事司法が維持されているのであり、それら全体に対して、常に証拠に関する不正を疑うことはできず、疑うのであれば、相応の根拠がなければならない。しかも、この袴田事件では、逆に、捜査機関の証拠捏造があったとすると「袴田氏の自白と矛盾する」ことになり不合理だ、というのが大島決定の考え方だ。

それは、従来の刑事裁判所の一般的な考え方とも言えるだろう。袴田事件の当初の裁判の過程では、味噌樽の中から発見された衣類を実際に袴田氏に着用させる実験を行った結果、サイズが合わず、着用させることができなかった、という袴田氏の犯人性に重大な疑問を生じさせる事実も出てきたが、それでも、控訴審も、最高裁も有罪の判断を変えなかった。その最大の理由は、大島決定と同様の理由から「警察による組織的な証拠捏造の可能性」が否定される、ということだったものと思われる。

ところが、大善決定は、5点の衣類については、事件から相当期間経過した後に、袴田以外の第三者が1号夕ンク内に隠匿してみそ漬けにした可能性が否定できないとし、これについて「この第三者には捜査機関も含まれ、事実上捜査機関の者による可能性が極めて高いと思われる。」との判断まで示した。

大善決定の前提には、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性も否定できないという見方があったものと考えられる。だからこそ、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な面からの審理を重ね、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という結論を導いたのであり、大善決定の大島決定との決定的な相違は、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を肯定した点にあるというべきであろう。

大善裁判長が「断罪」した東京地検特捜部の虚偽捜査報告書による検察審査会誘導

では、なぜ、大善決定は、大島決定とは異なり、従来の裁判所の一般的な見方に反して、「捜査機関による組織的な証拠の捏造」の可能性を認めたのか。

大善裁判長には、「検察の組織的な証拠の捏造」が疑われた事案に対して、判決で、検察に厳しい指摘を行った経験がある。

陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件で、小沢一郎氏に検察審査会の起訴議決によって起訴された。その東京地裁の一審の審理の中で、石川知裕氏(当時衆議院議員)の取調べ内容に関して、石川氏が小沢氏との共謀を否定しているのに、特捜部所属の検事が、それを認めているかのような事実に反するように記載した捜査報告書を作成し、それを特捜部が検察審査会に提出したことで、検察審査会の議決を誘導した疑いが表面化した。この事件で一審を担当したのが大善裁判長だった。2012年4月に東京地裁で出された小沢氏に対する一審判決では、「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」などと異例の厳しい指摘が行われた。

2012年6月27日、最高検察庁は、虚偽有印公文書作成罪で告発されていた担当検事、特捜部長(当時)など全員を「不起訴」としたが、2013年4月22日、東京第一検察審査会は、担当検事に対して「不起訴相当」の議決を出した。議決書は、「虚偽有印公文書を作成するにつき故意がなかったとする不起訴裁定書の理由には十分納得がいかず、むしろ捜査が不十分であるか、殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られるので、以上に指摘した点を踏まえて、本件についての不起訴処分は、不当であると判断し、より謙虚に、更なる捜査を遂げるべきであると考える。」と検察の不起訴処分を厳しく批判した。

大善裁判長は、小沢氏に対する一審判決で、検察の「組織的な供述捏造」の疑いが強いと判断し、「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」と指摘した。しかし、その後の検察の対応は、最高検が行った調査結果の報告書を公表したものの、その内容は全く不合理で、凡そ説明になっていないものだった。東京地検特捜部が組織的に捜査報告書での供述の捏造を行った疑いは全く払拭されなかった(【検察崩壊 失われた正義】)。検察の対応は、「組織的な供述捏造と検察審査会騙し」を疑った大善裁判長の指摘に応えるものでは全くなかったのである。

そういう意味で、「警察による組織的な証拠捏造」は、それを疑う具体的な証拠がなければ可能性は否定される、という従来の刑事裁判所の一般的な経験則が、大善裁判長には通用しなかったのである。

当時の東京地検特捜部の「組織的行動」は、政権交代の可能性が高まっていた時期に、野党第一党の代表だった小沢一郎氏の秘書を、犯罪性の希薄な政治資金規正法違反で逮捕・起訴し、政権交代後は、強引な捜査で小沢氏本人を政治資金規正法違反で起訴しようとしたが、検察上層部の了解が得られずに不起訴に終わり、何とかして、小沢氏の政治生命を奪おうと、組織的に供述を捏造した捜査報告書を作成し、検察審査会に提出して、強制起訴に持ち込んだ、というものだった疑いが強い。

21世紀に入り、裁判員制度も導入されるなど、日本の刑事司法に大きな変革が訪れている時期にそのような「捜査機関による組織的証拠の捏造」が行われたのだとすると、半世紀以上昔、拷問的な取調べや不当な捜査による冤罪が少なくなかった時期の袴田事件での警察が、人権を無視した強引な取調べで自白に追い込んで袴田氏の起訴に至ったものの、自白調書の大部分は任意性が否定されて裁判で採用されず、さしたる裏付け証拠もない、という状況に追い込まれ、起死回生を図って、5点の衣類を味噌樽の底に入れる「組織的証拠捏造」を行った可能性が、「経験則上あり得ない」と言えるだろうか。

「過酷な取調べの末に得られていた袴田氏の自白とは全く矛盾する証拠を、発覚のリスクを冒して敢えてねつ造する」という全く合理的ではない行動を警察組織が行ったことになる、との大島決定の指摘も、警察の悪意の程度によっては「組織的証拠捏造」を否定する理由にはならない。

当時の警察は、人権を無視した拷問的な取調べで得た袴田氏の自白を、果たして「真実」だと思っていたのだろうか。袴田氏を犯人だと決めつけて逮捕した以上、いかなる手段を用いてでも、起訴、有罪判決に持ち込む、ということが警察組織にとって至上命題だったとすれば、それによって袴田氏から得た自白が「真実」との認識すらなかったのではないか。警察にとっては、袴田氏が「自白」した後も、それは、単に「自白調書」を得たというだけで、袴田氏の事件は、依然として「否認事件」であるように認識していたのではないか。そうだとすれば、警察が、袴田氏が犯行時に着用していた衣類という証拠を捏造してそれを味噌樽の底に入れるという「組織的な証拠捏造」を行うことは、それが発見されることで、袴田氏を有罪に追い込み、「誤認逮捕の汚名」から免れることができる合理的な行動とみる余地もある。

石川氏が小沢氏との共謀を認めているかのような事実に反する捜査報告書を検察審査会への提出証拠に紛れ込ませ、それが功を奏して検察審査会は小沢氏に対して起訴議決を行い、小沢氏は幹事長辞任に追い込まれて事実上政治生命を失った。石川氏の取調べの開始時に、担当検事は、「録音機を持っていないか」と執拗に質問したが、石川氏は、それを上手くごまかして秘密録音し、それが、虚偽捜査報告書による供述の捏造という前代未聞の検察不祥事の発覚につながった。特捜部にとっては秘密録音が防止できなかったことが大誤算だった

袴田事件でも、警察が組織的に証拠捏造を行ったとしても、そのようなことが行われるなどと、刑事裁判官が疑うこともないし、その証拠が決定的な証拠となって袴田氏の有罪判決は確定し、死刑が執行されて、証拠捏造は歴史の闇に消えるだろうということを目論んでいたのかもしれない。味噌樽に沈められた衣類の変色の程度、という鑑定で、証拠の捏造の可能性が明らかになるとは思いもよらなかったのであろう。

このように、当事者の立場に立って考えると、「捜査機関による組織的証拠捏造」も決してその可能性を認めることが不合理とは言えないのである。

大善決定は、大島決定のような理由で「警察の組織的証拠捏造」の可能性を否定するという考え方はとらず、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」について徹底して審理し、検察側が、約1年2か月にわたって静岡地検の一室で行った「味噌漬け実験」による色調変化の観察に、大善裁判長自らも立ち会うなどした上、「味噌樽に衣類を隠したのは袴田氏ではない」という認定にたどり着いた。そして、その客観的な立証に基づいて、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」との判断まで示したのである。

検察の特別抗告は許されない

慎重かつ緻密な審理を経て出された大善決定に対して、検察が、「5点の衣類に付着した血痕の味噌樽の中での変色の程度・速度」についての客観的な事実認定に異を唱えて特別抗告をしても、その判断が覆る余地がないのは当然である。それでも、検察が特別抗告をするとすれば、「捜査機関による組織的証拠捏造」について、「事実上捜査機関の者による可能性が極めて高い」とまで述べた大善決定に服するわけにはいかないという、「検察の面子」によるものということになる。

検察には、大阪地検特捜部の主任検察官による証拠改ざん問題という重大な不祥事を起こし、その際、特捜部長、副部長の「犯人隠避」を立件した。「改ざん」「隠蔽」の批判に晒されたが、特捜部長以下の問題に矮小化し、検察の組織的問題は十分に解明されなかった。それに加えて、陸山会事件の虚偽捜査報告書による検察審査会騙しが組織的に行われた疑惑も全く払拭できていない。そういう検察に、「捜査機関による組織的証拠捏造」の可能性を認めて再審開始の判断を行った大善決定に対して異を唱える資格などない。

検察は、特別抗告を断念すべきである。

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高市氏には、虚偽公文書作成罪で告発する「覚悟」はあるのか?~加計学園問題と共通する構図

3月3日、参院予算委員会で立憲民主党の小西洋之議員が、安倍政権下で放送法の政治的公平性をめぐる新解釈が加わる過程で、当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省側に働きかけた発言、当時の安倍晋三首相、高市早苗総務相のものとされる発言などが記録されている文書を、総務省内部文書として公表し、質疑を行った。当時の総務大臣の高市早苗氏(現経済安全保障担当大臣)は、3月3日の参院予算委員会でこの文書を

「信ぴょう性について大いに疑問を持っている」

「悪意を持って捏造されたものだ」

とし、小西参院議員から

「もし捏造でなければ議員辞職するのか」

と迫られると

「けっこうですよ」

と答えた。

放送法が規定する「政治的公平性」をめぐっては、政府は従来

一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体をみて判断する

と解釈してきたが、安倍政権下の2015年5月、高市氏が国会答弁で

「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」

と新たな解釈を示した。小西議員が公表した文書は、この放送法の解釈に関する総務省内のやり取りと安倍氏と高市氏の電話などを内容とするものだった。

松本剛明総務大臣は、7日午前、

「すべて総務省の行政文書であることが確認できた」

と明らかにした。

文書が捏造でなかった場合、議員辞職も辞さない考えを示していた高市氏は、会見で自身の進退について問われ、

「私に関係する4枚の文書は不正確だと確信を持っている。ありもしないことをあったかのように作るというのは捏造だ」

とした。

「閣僚辞任や議員辞職を迫るのであれば、文書が完全に正確なものであると相手様も立証されなければならない」

とも述べた。

このような総務省内部文書に対する高市氏の発言や対応が、森友学園問題が初めて国会で取り上げられた2017年2月17日の衆議院予算委員会で、当時の安倍晋三首相が

「私や妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて、一切かかわっていないということは明確にさせていただきたい」

「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」

などと述べ、それが発端となって、当時の財務省理財局長の国会での虚偽答弁や決裁文書改ざんなどに発展していったことと対比して論じられている。

しかし、むしろ、放送法についての総務省文書や高市氏の発言の問題は、森友学園問題と同時期に表面化した加計学園問題とも併せて対比した方が、構図を正しくとらえることができるように思う。

2017年5月17日、朝日新聞が「これは総理のご意向」等と記された加計学園の獣医学部新設計画に関する文部科学省の文書の存在を報道した。菅義偉内閣官房長官は、この報道について、

「全く、怪文書みたいな文書じゃないか。出どころも明確になっていない」

と述べた。

5月25日、前任の文科省事務次官だった前川喜平氏が、記者会見を開き、文科省内に「総理のご意向」文書が存在したことを認め、

「行政が捻じ曲げられた」

と明言したことで、この問題をめぐる構図が大きく変わった。

その直近まで文科省事務次官という中央省庁の事務方のトップの地位にあった人間の発言や、その省内で作成された文書によって、「不当な優遇」を疑う具体的な根拠が示された。それによって、国会の内外で安倍首相や安倍内閣が厳しい追及を受ける事態に発展することになった。

その後も、文科省内部者からの匿名の告発・証言が相次ぐ中、菅義偉官房長官は、6月8日の記者会見で、

「出所や、入手経路が明らかにされない文書については、その存否や内容などの確認の調査を行う必要ないと判断した」

との答えを繰り返していたが、翌9日午前、松野博一文科大臣が記者会見を開き、「文書の存在は確認できなかった」としていた文科省の調査について、再調査を行う方針を明らかにした。

その再調査の結果、同省内部者からの存在が指摘されていた19文書のうち14文書の存在が確認された。

文書が確認できなかったとした当初調査の後、複数の同省職員から、同省幹部数人に対して「文書は省内のパソコンにある」といった報告があったのに、こうした証言は公表されず、事実上放置されていた。「文書の存在が確認できなかった」とした当初の調査も、実質的に「隠ぺい」であった疑いが濃厚になった。

こうした中で、前文科次官の前川喜平氏が、記者会見でそれが正式な文書だと公言する動きを見せるや、読売新聞が、前川氏の「出会い系バー通い」に関して、官邸筋からの情報に基づくと思える記事で「売春、援助交際への関わり」を印象づけるような真実性に重大な問題のある記事を掲載したり(【読売新聞は死んだに等しい】)、義家弘介文部科学副大臣が、参院農林水産委員会で、「国家公務員法違反(守秘義務違反)での処分」を示唆したりするなど(【菅「怪文書」発言、義家「守秘義務」発言こそ、国民にとって“残念”】)、文科省側からの告発封じのために、あらゆる手段が講じられた。

森友学園問題では、安倍氏と昭恵氏が、同学園の認可あるいは国有地払い下げに関わったのかどうかという「安倍氏自身の側の問題」についての安倍氏自身の国会答弁が発端となって、財務省側が様々な問題行為を行い、決裁文書改ざんを命じられた赤木俊夫氏の自殺という痛ましい出来事に至ったのであるが、加計学園問題では、「総理のご意向」文書について、その意向の当事者である安倍首相の総理官邸側が、朝日新聞が報じた「文科省文書」を「怪文書」扱いして、「行政文書」であること自体を否定し、その否定が続けられなくなるや、ありとあらゆる方法で、文科省文書の信憑性を否定しようとした。

加計学園問題で問題になったのが文科省の文書に記載された「総理のご意向」だった。国家戦略特区に関する権限を有する総理大臣と、加計学園理事長が「腹心の友」であることで、文科省が所管する獣医学部新設の認可が捻じ曲げられた疑いが問題とされた。

今回の放送法に関する総務省の文書でも、当時の安倍首相の意向で、総務省が所管する放送法の解釈が捻じ曲げられた疑いが指摘されている。しかし、両者の展開は大きく異なる。

加計学園問題では、首相官邸側が、当初、新聞で公開された文科省文書を「怪文書」と切り捨て、その意向を受けた文科省の大臣・副大臣が、内部文書の信憑性を否定しようとする方向に動き、それに反発する文科省からの内部告発の動きも封じ込めようとした。

それに対して、高市氏は、安倍氏自身が、首相として放送法への不当な介入に関わったという批判につながりかねない総務省の文書の信憑性を必死に否定しようとし、小西議員が公表した文書を、当初は、「捏造」と決めつけたが、松本総務大臣以下総務省側が、小西議員が公表した文書についてただちに調査を行い、当該文書が「行政文書」であることを明確に認めたことで、総務省の「行政文書」であることが否定できなくなった。そこで、高市氏は、「捏造」を「不正確な文書を作り上げた」という意味にすり替えて、「捏造ではなかった場合には大臣も議員も辞職」と明言したことによる辞任を免れようとしている。

しかし、安倍氏亡き後、「最大の政治的な後ろ盾」を失った高市氏にとっては、一人で、放送法の解釈変更についての「安倍氏の意向」が示されたことを否定しようとしても、加計学園問題について、官邸・政府を挙げて文科省文書の信憑性と「総理のご意向」の事実を否定しようとした状況とは全く異なる。

高市氏は、大臣会見でにこやかな表情で余裕があるように装っているが、内実は、土壇場に追い込まれていることは否定できない。

正式な行政文書と認められた「公文書」について、「意図的に不正確な記載が行われた」というのであれば、その文書は「虚偽公文書」に該当することになる。高市氏が、その主張を通すのであれば、不正確だと確信を持っているとする「4枚の文書」の作成者を「虚偽公文書作成罪」で告発するのが当然、ということになる。

高市氏が検察に告発を行えば、検察が捜査に乗り出し、文書の作成者を特定して、その内容の正確性について捜査することになる。文書作成者は、安倍氏と高市氏との電話の内容について何らかの情報があったからその文書に記載したはずだ。意図的に虚偽の記載をしたと疑われる状況がなければ、「意図的に虚偽の記載をしたこと」は否定され、不起訴処分ということになる。(捜査の結果判明した文書作成の時期によっては、公訴時効完成による不起訴となる可能性もある。)

同様に虚偽公文書作成罪で告発され、検察の捜査の対象とされた森友学園への国有地売却についての決裁文書については、多くの記載が削除されていても「決裁文書の内容に実質的な変更はない」との理由で不起訴となった。しかし、高市氏は、「不正確な記載」を意図的に行ったことを「捏造」として問題にしているのであり、虚偽公文書作成罪の成否と、高市氏が問題にしている「不正確な記載」のレベルは、実質的に一致することになる。

高市氏は、総務省文書についての現在の主張を貫くのであれば、虚偽公文書作成罪で告発すべきだが、もし、検察の捜査の結果、不起訴となった場合には、逆に、高市氏の側に虚偽告訴罪の問題が生じることになる。

「虚偽公文書作成罪による告発」を行うのか、高市氏には、その「覚悟」が問われている。

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籠池氏名誉棄損発言を含む「安倍晋三回顧録」増刷で、「安倍官邸チーム」VS籠池氏の対立再燃か!

2023年2月上旬に、中央公論新社から、【安倍晋三回顧録】が出版された(以下、「回顧録」)。2022年7月8日に、参議院選挙の街頭演説中に銃撃されて死亡した安倍晋三氏が、首相退任後の2020年10月から2021年10月までの間に、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏と尾山宏論説副委員長の18回にわたるインタビューで語っていた内容を、安倍晋三氏自身の著書として公刊したとのことだ。発売後、新聞、テレビ等で紹介されるなどして大きな話題になっており、Amazonでは書籍全体のベストセラー1位を続け、既に4刷5万部の重版が決定され、部数は累計で15万部に上るとされている。

橋本氏は、同書の序文で、

「安倍さんの回顧録は歴史の法廷に提出する安倍晋三の陳述書でもあるのです」

と述べている。史上最長の首相在任期間の間に、それまでの首相がなし得なかった、国家安全保障会議の設置、武器の禁輸見直し、集団的自衛権の容認、特定秘密保護法、共謀罪法の制定など国民の間で賛否が分かれる多くの問題について業績を残したことを考えれば、安倍氏の肉声の記録としての回顧録を出版することの意義は大きいと言えよう。

しかし、同書中の籠池泰典氏に関する記述には、刑事上・民事上の名誉棄損に該当する可能性があることを、2月15日に「論座」Web版で公開した【話題の書『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、名誉棄損に当たる可能性がある】で指摘している。今後の重版分について、このような指摘を受けた上での出版ということになると、内容の「虚偽性」についての認識も明確になるので、刑法の名誉棄損罪による処罰も現実的な問題となる。

刑法の規定を踏まえて、同罪の成否について具体的に検討してみることとしたい。

名誉棄損罪の要件

刑法230条は、1項で

「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。」

と規定し、2項で、

「死者の名誉を毀損した者は、虚偽の事実を摘示することによってした場合でなければ、罰しない。」

としている。

同条2項は、「死者に対する名誉棄損」についての規定であり、「死者を主体とする名誉棄損」ではない。死者は行為をなし得ないのであるから当然である。

しかし、このように、社会的影響力の大きい死者の発言を内容とする公刊を行う場合、その内容によって他者の名誉を棄損することがないよう、すなわち、「死者の発言」公表による名誉棄損に当たることがないよう、十分な注意が必要であることは言うまでもない。故人の発言を内容とする出版については、名誉棄損の内容を認識して出版を判断した者が法的責任を負うことになる。

そこで、まず、刑法の名誉棄損罪の一般的な要件について確認しておこう。

名誉棄損罪における「名誉」とは、人が社会から受ける一般的評価である。その「社会的評価」を低下させる行為が「名誉棄損」である。厳しい批判をしても、それが「批評」や「論評」にとどまるのであれば、「表現の自由(言論の自由)」の範囲内なので、刑事処罰の対象とはならない。

また、社会的評価を低下させることを公にしても、「事実の指摘」がなければ、名誉棄損罪には該当しない。個人の自尊心やプライドなどの「名誉感情」が傷つけられた場合には、侮辱罪が成立するにとどまる。

刑法230条の2で「公共の利害に関する場合の特例」が規定されており、

「前条第1項の行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない。」

とされ、同条2項で、

「前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。」

とされている。

名誉毀損の要件に該当しても、公共の利害に関する事実で、公益を図る目的で、真実であると認める理由がある場合には、違法性が阻却され、名誉毀損罪は成立しない。そして、起訴されていない犯罪行為を摘示した場合は、「公共の利害に関する事実」とみなされるので、「真実であることの証明」があれば、処罰されない。

籠池氏についての安倍氏発言の「真実性」

回顧録で、森友学園元理事長の籠池泰典氏に関して、名誉棄損に該当する疑いがあるのは以下の記述である(252頁)。

理事長(籠池泰典氏)は独特な人ですよね。私はお金を渡していませんが、もらったと言い張っていました。その後、息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。理事長は野党に唆されて、つい「もらった」と口走ったんでしょ。理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう。

この記述は、一次的には、安倍氏が、橋本氏らのインタビューでそのような発言をした、ということを内容とするものであるが、それによって、籠池氏の社会的評価を低下させる具体的事実を指摘したと認められれば、籠池氏に対する「名誉棄損」に該当することになる。同記述で書かれているのは、泰典氏が「(100万円を、安倍氏ないし安倍昭恵氏から)もらったと言い張った」という事実、そして、その話が「虚偽だった」ということである。

籠池氏が「もらったと言い張った」場は、最終的には、2017年3月23日の衆参両院の予算委員会での証人喚問の場である。つまり、国会の証人喚問で宣誓の上、100万円授受について、「虚偽の証言」を行ったとの「籠池氏の犯罪事実」を摘示した、ということである。

そこで、問題となるのが、真実性が認められるか、真実だと信じることに相当の理由があったと認められるか、である。

回顧録では、この点について、安倍氏が

「(籠池氏の)息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。」

と述べたとされている。この「息子さん」というのは籠池氏の長男の佳茂氏のことだと思われる。同氏が100万円授受話を否定しているので、泰典氏の100万円授受話が虚偽だったことが明確になったとの趣旨である。

少なくとも、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」と同書で示されている根拠は、「佳茂氏が、私や昭恵との100万円授受を否定している」ということだけである。

では、この「佳茂氏が100万円授受を否定している」というのは、事実なのか。

森友学園問題が表面化した当初、両親の籠池夫妻を支える立場で共に行動していた佳茂氏は、夫妻が詐欺罪で逮捕・起訴された後の2018年秋頃から、花田紀凱氏、小川榮太郎氏などの、安倍氏に近い言論人に接近するようになった。

そして、佳茂氏は、2019年9月24日に、以下のようなツイートを投稿し、その直後に、安倍氏批判に転じた泰典氏夫妻を批判する【籠池家を囲むこんな人たち】と題する同氏の著書が公刊された。

一番、森友学園騒動が盛り上がったのは、寄付金100万円の問題ですね。2017年3月15日、父がメディアに向けて昭恵夫人から寄付金100万円を受け取ったとの発言をしたのですが、この発言をしろと言ったのは菅野完です。捏造であり、報道テロです。

ツイートでは「捏造」という言葉を用いているが、著書では、その点については、以下のように書いている。

今となっては、それがあったかなかったかどちらでもいいような状態です。別に法的に問題があるわけではないし、むしろそれが寄付であるなら、それはそれできれいな話です。

しかし、この100万円授受話の真相は、菅野完から言われたシナリオ通りの話を3月15日の小学院の中で私が父に耳打ちし、敢行されたものだったのです。そういう意味では父は、言われたことをしたまでであり、何らの落ち度もありません。

要するに、泰典氏が100万円寄付の話を公言したのは、菅野完氏の指示にしたがったものだと言っているだけで、「100万円授受の事実」がなかったとか、創作だったと言っているわけではない。むしろ、「それが寄付であるなら、それはそれできれいな話です。」と書いていること、父の籠池氏について「何らの落ち度もありません。」などと、泰典氏が100万円授受の証言をしたことには問題はないという趣旨のことも言っているのであり、100万円授受の事実自体はあったことを前提にしているようにも思える。

佳茂氏は、この著書の公刊後、菅野完氏から、上記投稿と著書について名誉棄損による損害賠償請求訴訟を起こされ、敗訴が確定している。

その訴訟で、被告佳茂氏は、「被告の認否」で、「100万円授受」については「真偽不明である」としている。つまり、佳茂氏は、ツイートで「捏造」というインパクトのある言葉を使用しただけで、「100万円授受話」の真偽についてはわからないということなのである。

また、「籠池泰典氏が、100万円の寄付の話を公言したのは、菅野完氏に指示にしたがったもの」という点についても、菅野氏が上記訴訟で、そのような事実はないと主張したのに対して、佳茂氏側は、泰典氏の発言内容についての証拠を提出したようだが、判決は、このような佳茂氏側の主張は認められないとした上、同証拠についても

「原告が訴外泰典のメディア対応を仕切って、対応する相手を管理していたこと、訴外泰典の自宅に原告に近しいマスコミ関係者が寝泊まりするようになって、訴外泰典の言動を記事にしていった記載があるに過ぎず、上記指示を受けた旨の記載はない」

と判示している。

要するに、佳茂氏が100万円授受を否定した事実はない。安倍氏が、「息子さんが100万円授受を否定し、籠池氏の話が虚偽だったことは明確になった」と認識していたとすれば、誤解である。

回顧録で、このような安倍氏の発言を掲載することは、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」との事実を摘示し、しかも、その事実を、「籠池氏の息子が100万円授受を否定した」という存在しない事実によって、あたかも真実であるかのように見せかけようとしたということになる。単に、社会的評価を低下させる事実を摘示するより、一層悪質・重大な名誉棄損行為だと言える。

回顧録の中に、このような安倍氏の発言を記載するのであれば、「佳茂氏は100万円授受を否定していないことは、訴訟上も明らかになっているので、この安倍晋三氏の発言は誤解によるものです」との注記を付すことが最低限必要だった。

しかし、同回顧録には、そのような注記は全く記載されていない。

100万円授受がなかったとする根拠

もっとも、「籠池氏が100万円授受について虚偽の発言をした」という事実について、泰典氏の息子の佳茂氏の発言が「100万円授受」を否定する根拠にならないとしても、回顧録の編集責任者の橋本五郎氏等や、出版元の中央公論新社の側が、佳茂氏の発言以外に、「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だったこと」が真実だと信じる十分な根拠を有している、というのであれば話は別である。

そこで、問題になるのが、泰典氏が述べる100万円授受の一方の当事者である昭恵夫人の供述との関係だ。昭恵夫人については、自身のフェイスブックのアカウントで、泰典氏の国会証言の直後に、「籠池さんに100万円の寄付金をお渡ししたことも、講演料を頂いたこともありません。」とする投稿が行われている。

しかし、この昭恵夫人のフェイスブック投稿は、昭恵氏本人が作成して投稿したものとは考えられず、内容も、安倍首相官邸側の泰典氏の証言に対する反論を記載したもので、昭恵夫人自身の話を内容とするものとは考えにくい。

まず、この昭恵夫人のフェイスブック投稿は、それまでの昭恵夫人の投稿とは多くの点で表現が異なっており、昭恵夫人自身が自ら書き込んで投稿したものとは思えない。

第一に、昭恵夫人のフェイスブックの投稿は、すべて年号が西暦表示になっており、数字はすべて半角表示であるのに、このコメントでは年号が元号で表示され、数字がすべて全角で表示されていることである。

第二に、昭恵夫人が使うとは考えにくい典型的な「役人用語」が多く使われている。特に「旨」「当該」「何らか」などの言葉は、典型的な「官僚的、公用文書的表現」であり、そのような役人仕事、公的事務の経験がない昭恵夫人が書いた言葉とは思えない。

これらのことから、このFBコメントは、昭恵夫人が直接フェイスブックに書き込んで投稿したのではなく、別に作成された文書を、フェイスブックの投稿欄にコピー・アンド・ペーストしたのではないかと考えられる。

では、この「別に作成された文書」が、昭恵夫人自身が話したことを内容とするものか、それとも官僚が作成したものなのか。

内容面からしても、昭恵夫人自身が書いたものではないことが疑われる。その後の菅官房長官の記者会見での説明や、安倍首相の参議院予算委員会での答弁と比較すると、むしろ、証人喚問での籠池証言に対する「首相官邸側の反論ないし弁明」そのものであり、官邸側が作成して、昭恵夫人のアカウントで投稿した可能性が高いと思える。

「100万円授受」をめぐって、泰典氏の供述と対立している昭恵夫人の供述が、泰典氏より特に信用できると判断する理由があるとは思えない。昭恵夫人が100万円授受について「渡した記憶がない」否定していることが、同氏の話が虚偽だと信じる根拠になるものではないことは明らかである。

籠池氏偽証告発に向けての自民党調査チームの動き

籠池氏が2017年3月23日の証人喚問で行った証言に関しては、同月28日に、「籠池氏偽証告発」に向けての自民党調査チームの調査結果が公表されている。

自民党の西村康稔総裁特別補佐が、西田昌司参議院議員、葉梨康弘衆議院議員とともに、党本部で緊急の記者会見を行い、衆参両院で証人喚問を受けた森友学園の籠池泰典氏による複数の発言に虚偽の疑いが濃厚だとして、議院証言法に基づく偽証罪での告発について「偽証が確定すれば考えたい」などと述べた。

偽証の疑いがあるとして、告発をめざす調査の対象とされた事項は、

①籠池氏は、「学園の職員が払込取扱票の振込人欄に“安倍晋三”と書き、郵便局に持参した」などと証言したが、「安倍晋三」の筆跡が籠池氏の妻が書いたとされる字に似ていることから、郵便局に行ったのは、職員ではなく籠池夫人ではないか。

②寄付依頼書に「安倍晋三小学校」の記載がある払込取扱票を同封して使用した期間について、籠池氏は、「(安倍首相が)衆院議員時代、つまり総理就任、24年12月以前」であり、「使用してきたのは、ほんの一瞬」と午前の参議院予算員会で証言し、衆議院では「5カ月余り」と訂正したが、平成26年3月にも配っている。27年9月7日の100万円の振込に使われた払込取扱票にも「安倍晋三小学校」が記載されていることから、もっと長期にわたって使用していたのではないか。

の2点だった。

このような自民党の調査チームの調査結果は、自民党として総力を挙げて(おそらく官邸、内閣情報調査室等も協力して)、泰典氏の国会証言の中で偽証告発の対象となるものがないかを徹底して検討したが、①、②のようなものでしかなかったのである。この時点で、泰典氏の「100万円授受」証言についての虚偽であることを疑う根拠がほとんどなかったことは間違いない。

また、その後、籠池夫妻は検察に詐欺罪で逮捕され、300日にもわたって身柄拘束されたが、検察捜査でも、100万円授受について泰典氏の偽証の話は全く出てこなかった。鈴木宗男議員や、守屋武昌元防衛事務次官など、過去の議院証言法に基づく偽証事件の多くは、証言後に、別の犯罪の容疑で検察の捜査が行われた結果、国会での偽証も明らかになったケースだ。泰典氏についても、検察は、100万円授受の証言が偽証である疑いがあるのであれば、詐欺罪の捜査と併せて、それについても徹底して捜査したはずだ。検察捜査で、泰典氏の国会での偽証の話が全く出てこなかったのは、同氏の証言の偽証を疑う理由がなかったということである。

名誉棄損罪の主体は誰か

では、回顧録で安倍氏の発言内容を公開することによる名誉棄損の主体は誰か、犯罪は誰について成立するのか。

回顧録に、著者の安倍晋三氏と並んで名前を出しているのは、「聞き手」の橋本五郎氏、「聞き手・構成」の尾山宏氏、「監修」の北村滋氏である。

そして、回顧録の「謝辞」(395頁)には、

北村滋前国家安全保障局長は、第1次内閣から蓄積してきた資料の提供や事前の安倍さんとの打ち合わせをはじめ、インタビューのすべてを支えてくれました。また事後的な原稿のチェックや掲載写真の選定もお願いしました。それがなければ、このような形で歴史的かつ実証的な回顧録が世に出ることは不可能だったと思います。

と書かれている。

これらの記載からすると、安倍氏のインタビューは、橋本氏と尾山氏の2人で行い、その内容を尾山氏が「インタビュー録」の原稿にまとめたもので、北村氏は、そのインタビューの際の資料を提供するなどした上、原稿をチェックし、それによって出版する回顧録の内容が固まった、ということのようである。

そして、回顧録の末尾の「奥書」には、

@2023 Shinzo ABE,The Yomiuri Shimbun, Shigeru KITAMURA

Published by CHUOKORON-SHINSHA,INC.

と記載されており、この回顧録の著作権は、故安倍晋三氏、読売新聞社、北村滋氏に、出版権が中央公論新社に帰属するということのようだ。

読売新聞社に著作権が帰属している理由は不明だが、同社の論説委員である橋本氏、尾山氏がインタビューの「聞き手」であるというだけでなく、回顧録の編集に読売新聞社が組織的に関わっているということであれば、同社についても、泰典氏に対する名誉棄損の責任が生じる可能性がある。

いずれにせよ、上記の「謝辞」と「奥書」の記載からすれば、「第1次内閣から蓄積してきた資料」に基づいて、「安倍官邸」を代表して、回顧録の作成全般に深く関わったと言えるのが北村氏であり、その中の「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのが虚偽だった」との事実摘示についても、北村氏が最も重い責任を負う立場であることは間違いないと考えられる。

北村氏は、警察官僚出身で第二次安倍内閣で内閣情報官、内閣安全保障局長を務めた人物だ。内閣情報官は、政府の情報収集活動を統括する。2017年3月に籠池氏の国会証人喚問が行われた際も、政府として可能な限り籠池氏に関する情報を収集したはずであり、その情報が内閣情報官を務めていた北村氏の下に集められていたはずだ。そのような情報を知り得る立場の北村氏が、「息子さんが100万円授受を否定し、籠池氏の話が虚偽だったことは明確になった」との安倍氏の発言を回顧録の出版によって公にすることの意思決定を行ったのであれば、当時の「安倍官邸」を代表して、再び籠池氏との対決に打って出たことになる。

「死者の発言」の公表による名誉棄損

最後に検討を要するのが、回顧録について問題になる名誉棄損は、「死者の発言」の公表を手段とするものという特殊性があるということだ。冒頭でも述べたように、「死者に対する名誉棄損」については刑法に明文の規定があり、虚偽の事実を摘示した場合でなければ名誉棄損罪は成立しないとされている。では、「死者の発言」の公表を手段とする名誉棄損についても、明文はないが、虚偽の事実の摘示の場合に限定されると考える余地があるのか。

死者に対する名誉棄損罪の保護法益は、死者自身の名誉の侵害と考えるのが通説である。死者には名誉感情はなく外部的評価だけが保護の対象となる。死者が歴史的批判や研究の対象になり、虚名は保護されないと考えられ、真実であれば批判してよいとも考えられることが、「虚偽の事実の摘示」だけが処罰の対象とされる趣旨と理解されている。

一方、「死者の発言」の公表を手段とする名誉棄損の方は、名誉棄損の被害者が存在し、外部的評価だけでなく、名誉感情も保護法益である点は、通常の名誉棄損と何ら異なることはなく、「虚偽の事実の摘示」だけが処罰の対象とされる理由はない。

もっとも、死者が歴史的批判や研究の対象になるという意味では、「死者の発言」が正確に記録され公開されることにも社会的意義が大きいことは確かであり、「死者の発言」をそのまま公表することが他者に関する事実の摘示に当たり、名誉が棄損される場合も、虚偽の事実を含むものでなければ、違法性のレベルは低いはとの考え方はあり得る。

そういう意味では、「死者の発言」の公表による名誉棄損については、「虚偽の事実の摘示」に当たる場合以外は、違法性が相当程度軽減され、処罰の必要性が低いと考える余地もあるだろう。

そうなると、回顧録で取り上げられた「泰典氏が100万円をもらったと言い張ったのは虚偽だった」との安倍氏の発言について、その根拠とされた「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している」というのが事実と異なることの認識の有無が、名誉棄損罪の処罰を考える上で重要な要素となる。その点が虚偽であることを認識した上で、回顧録を公刊物として世の中に広めたと言えるかどうかが問題になる。

回顧録については、前掲拙稿【話題の書『安倍晋三 回顧録』の籠池泰典氏に関する記述は、名誉棄損に当たる可能性がある】で、「(佳茂氏が)私や昭恵との100万円授受を否定している」との事実がないと、回顧録の記載が名誉棄損の犯罪や不法行為に該当する可能性を指摘している。

本稿で引用した菅野完氏が籠池佳茂氏及び出版社青林堂に対して提起した名誉棄損損害賠償訴訟の判決文(東京地裁2021年8月6日判決)は、菅野氏から入手し、同氏の了解の下に【前記拙稿】で引用したものであるが、その際、

「安倍晋三回顧録の籠池氏に関する記述に問題があることには私も気づいていましたが、私自身は、佳茂氏との訴訟との当事者ですので、その問題について指摘することは差し控えていました」

と述べていた同氏は、2月21日に、自身のブログを更新し、中央公論新社に、「貴社出版『安倍晋三 回顧録』の虚偽記載についての通知」を送付し、「(森友学園の籠池泰典元理事長の)息子さんが、私や昭恵との100万円授受を否定しています。この話が虚偽だったことは明確でしょう。」との記述が、事実から大きく乖離した、虚偽記載だと指摘したことを明らかにしている(【『安倍晋三回顧録』に森友問題に関する虚偽記載があったので、中央公論新社さんに教えてあげました。】)

出版社の中央公論新社が、2月15日にアップされた拙稿を認識し、菅野氏の通知を受領した時点以降に、回顧録の増刷本を出版して、同書の内容をさらに世に広めるのであれば、該当箇所に上記の「注記」を付すこと、或いは、その旨記載した紙の挟み込みをすることが不可欠である。それを行わないで、従前のままの回顧録を増刷するなどすれば、北村氏や同社の編集責任者らについて、名誉棄損罪による処罰の対象となる可能性は避けられないように思われる。

籠池氏側の反応

名誉棄損罪は親告罪であり、被害者の告訴がなければ処罰されることはない。

回顧録で安倍氏の発言によって籠池氏の名誉を棄損したとしても、被害者が告訴を行わなければ、刑事事件とはならない。

では、回顧録について、泰典氏側はどう受け止めているのか。

泰典氏の妻の諄子氏は、「籠池諄子@kagoike2u2u」のアカウントで日々ツイートを投稿しているが、回顧録発売後、100万円授受についての安倍氏の発言の問題を指摘した【前掲拙稿】が公開された後の2月17日に、

「何故百万円を今頃になってむしかえされるのですか。」

という趣旨のツイートをし、18日には、

「小学校の寄付に100万円昭恵さんを通じて渡されたのに、何故詐偽をしたといわれたのかわからない。」

との投稿を行っている。文意が不明確だが、回顧録の安倍氏の発言で、「100万円授受の話が虚偽だったことは明確」とした上、「理事長夫妻はその後、国や大阪府などの補助金を騙し取ったとして詐欺などの罪に問われました。もう、私と理事長のどちらに問題があるのかは、明白でしょう。」とされていることについて反発しているものと思われる。

籠池夫妻と安倍夫妻のこれまでの関係や事件の経緯からすると、回顧録での安倍氏の発言に強く反発するのは当然だろう。

籠池夫妻は、かねてから幼稚園の教育で園児に安倍晋三の礼賛までさせるなど安倍氏を強く支持し、昭恵夫人は、籠池夫妻が経営する学校法人の名誉校長にまでなっていた。ところが、国有地売却の問題化で、籠池夫妻は窮地に立たされ、100万円授受の話を公言したことで、自民党側(おそらく安倍晋三氏が中心になって)が強く反発し、国会での証人喚問が行われ、そこで、籠池氏が100万円授受を明言する証言をしたことで、自民党側が調査チームを作って検討したものの、上記のとおり、全くの不発に終わったことは前記のとおりだ。それとほぼ同時に、それまで検察では問題にすらされていなかった籠池氏の補助金不正受給の告発について、突然「告発受理」が報じられ【籠池氏「告発」をめぐる“二つの重大な謎”】)、それが、その後、幼稚園での府や市からの補助金不正受給の詐欺事件の捜査に展開していった。ここで、従来は補助金適正化法違反とされていたのに、強引に詐欺罪で逮捕された(【検察はなぜ”常識外れの籠池夫妻逮捕”に至ったのか】)。籠池夫妻については、既に詐欺罪で実刑が確定しており、近く収監される予定だが、一連の検察捜査を、安倍氏の意向に沿う「国策捜査」と批判している。

籠池夫妻にとっては、もともと親しい間柄だった安倍夫妻との対立が生じた起点が100万円授受の話だったのであるが、その対立から派生した詐欺事件について司法判断が確定していても、起点となった100万円授受の話については、泰典氏が国会で宣誓の上証言し、検察の捜査でも偽証が指摘されることがなかったことで、偽証ではなかったことが確定したと考えているはずだ。それを、安倍晋三氏が死亡した後の今になって、「泰典氏の100万円授受の話が虚偽」などという話を蒸し返されるのは、絶対に許せないと考えるのが当然であり、上記の諄子氏のツイートには、そのような思いが込められているのであろう。

今後、回顧録が、問題の個所に注記が付されたり、その旨の紙が挟み込まれたりすることもなく、同一の内容で大増刷されて、その内容が広く国民の間に拡散され、それによって出版社や著者が巨額の利益を得るということになれば、泰典氏が、実刑で収監された後であっても、名誉棄損による告訴を行う可能性は十分にあると言えよう。

中央公論新社、読売新聞社、北村氏は、そのリスクを敢えてとろうとするのであろうか。

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