「録音録画停止後の脅し」を覆い隠そうとする検察と、加担する裁判所

日本最大級の宅配サイト「出前館」を運営するジャスダック上場会社「夢の街創造委員会」(以下、「夢の街」)の株式をめぐる相場操縦事件で東京地検特捜部に起訴された花蜜伸行氏の論告弁論公判が、2月17日、東京地裁で行われ、結審した。

傍聴席を埋め尽くしたマスコミ関係者や、花蜜氏の知人、支援者らの前で、主任弁護人の私の弁論の内容に対して、検察官が異議を申し立てるという異例の事態が発生した。

私の弁論での主張の内容は、これまでの検察官の主張立証の経過に基づき、検察官立証の不十分性を指摘しようとする、無罪を主張する弁護人としては当然のものであった。その「経過」というのは、「弁護人から、取調べの録音録画停止後の検察官の発言に関する問題を指摘されるや、検察官は、被告人調書の請求を撤回し、供述による主観面の立証を断念したこと」などである。

その弁論に対して、検察官が「証拠に基づかない弁論」などと異議を申し立てた。弁護人の主張としての弁論に不当な言いがかりを付ける、何の理由もない異議だった。ところが、信じ難いことに、裁判長は、その異議をあっさりと認めて、弁護人の弁論の削除を命じた。そして、異議を認めたことの不当性を、弁護人から訴えても「異議は処理済み」と言って一切耳を貸さず、予め検察官の論告、弁護人の弁論ともに30分と指定されていた持ち時間が、異議のやり取りのために消費されているのに、弁論開始から30分経過した時点で「もうやめてください」と言って、弁論を打ち切らせとしたのである(法廷は、次の公判まで十分に時間が空いていた。)。これが、多くの傍聴人の前で繰り広げられた異常な裁判の光景だったのである。

取調べの録音録画は、検察官の独自捜査においては全過程で実施することが義務付けられており、近く施行される刑事訴訟法改正では正式に制度化される。その制度を有名無実化することにもつながりかねない重大な事象を、必死に覆い隠そうとする検察官と、それに加担する裁判所、という構図を露呈した今回の問題は、今後の刑事司法制度の運用や立法にも重大な懸念を生じさせかねない。

裁判の争点

花蜜氏に対する起訴事実は、第1事実が、株価の上昇局面での「変動操作取引」、第2事実が、追証発生価格以下に株価が下落しないように買い支えていた時期の「安定操作取引」だ。

第1事実の変動操作取引に関する最大の争点は、花蜜氏に「売買を誘引する目的」があったか否かである(第2事実については、そもそも取引の内容自体が「安定操作取引」には該当せず、第1事実以上に花蜜氏の無罪は一層明白だと考えているが、冒頭で述べた問題と直接関係ないので、本稿では省略する。)。

特定の株式を継続的に買い進めて、一定の数量保有しようとすれば、それによって株価が上がるのは当然だ。その買い注文で株価が上がるのに伴って、その動きを見て、他の投資家が買い注文を入れてくることはあり得るし、当然予想可能なことである。それを認識していたというだけで相場操縦罪に当たるということになると、まとまった株の買い付けはすべて違法ということになってしまう。

そこで、継続的かつ大量の株式買付けが行われた場合、「違法な相場操縦」が成立するためには「売買を誘引する目的」があることが要件とされている。

この目的については、最高裁判例(平成 6年 7月20日協同飼料株価操作事件)で、「人為的な操作を加えて相場を変動させるにもかかわらず、投資者にその相場が自然の需給関係により形成されるものであると誤認させて有価証券市場における有価証券の売買取引に誘い込む目的」と解されている。要するに、「他の投資者に誤認させようという意図」がなければ犯罪は成立しないのだ。

花蜜氏は、「夢の街」の創業者で、同社が上場するまでは社長を務めていたが、その後、同社の経営から離れていた。顧問に復帰して再び同社の経営に関与することになった同氏は、信用取引で夢の街株を買い進めて15%の持株を取得し、株価時価総額を増大させることを目論んでいた。花蜜氏は、自身が買い進むことによって株価を上昇させようとしていたが、株を売り抜ける意図も、他人を売買に引きずり込んだり、「誤認」を与えたりする意図もなかったのである。

検察官の取調べでの「録音録画停止後の脅し」

花蜜氏は、証券取引等監視委員会の特別調査を受け、告発されていたが、同委員会での調書上は、事実を争う態度は見せていなかった。検察は、問題のない「自白事件」として扱っていたようで、逮捕されることもなく、在宅の取調べが始まった。

ところが、検察で、花蜜氏が「だまして引っ張り込もうという気持ちはなかった」「違法とも思っていなかった」という言い分を初めて述べたため、取調べ検察官が、「違法だとわかっていた」と認めさせようとして行ったのが、冒頭に述べた「録音録画停止後の『脅迫的発言』」だったのである。

監視委員会の告発による検察の独自捜査ということで、花蜜氏の取調べは、それまで、開始時から終了時まで録音録画されていた。ところが、昨年5月14日の取調べでは、検察官は、取調べの終了時、録音・録画を停止した後に

花蜜さんの主張は否認ということになります。否認となれば、罪を認めていない、反省していないということになるので、それなりの対応することになります。

花蜜さん、「関係者には寛大な処分を」と、取り調べ初日におっしゃいましたよね?否認ということでしたら、関係者も同様な対応をせざるを得なくなります。

というようなことを言ってきた。

ここで言っている「それなりの対応」が「逮捕」を、「関係者も同様な対応」が、「関係者の起訴」を意味していることは、花蜜氏にもすぐにわかった。もちろん、刑事事件で逮捕されることは恐怖だったし、株取引の名義を借りた知人Tさんも共犯者として監視委員会に告発されていた。Tさんを刑事事件に巻き込むことだけは何とかして避けたいと思っていた。仕方なく、花蜜氏は、検察官の意に沿う供述をすることにした。

その次の取調べが行われた5月17日、録音録画を開始する前に、検察官から、弁護人と話をしたかどうか聞かれ、「やはり程度の差はあれ、罪の意識はあったと思います」と答えると、「よし」ということになり、そこから録音録画が開始された。

その後、検察官から、しらじらしく、「前回までは全く違法だと思わなかったと話していたのに、本当のことを話すことにしたのはなぜか」などと質問された花蜜氏は、「逮捕されたり、共犯者が起訴されたりするのが怖いから」という本当のことは言ってはいけないと感じ、考えた末に、「当時の気持をもう一回冷静に考えてみた結果です」などと答えた。

それ以降の取調べでも、検察官は、「出来高を多く見せかけて他人の売買を誘い込む目的で仮装売買を行った」などと認めさせようとしてきたが、花蜜氏にとっては「対当売買」は、株価上昇で評価益が出ている信用建て玉の「益出し」が目的で、それによって「出来高を多く見せかける目的」は全くなかったので、その点については抵抗した。

すると、6月5日の取調べ終了時に、また、録音録画を停止した後に、検察官から

このままだと否認していると取らざるを得ない。

と言われた。

花蜜氏は、「自分が逮捕されるかもしれない。」「Tさんも起訴されてしまう。」という強い恐怖を覚えた。そこで、検察官の意向どおりの調書に署名しようと考えて、翌日の取調べに臨んだ。

翌日の取調べでも、検察官から「出来高を多く見せかけて他人の売買を誘い込む目的」があったか否かを確認され、「ありました」と答えると、そこから録音録画が開始された。

この日も、検察官は、対当売買が違法な仮装売買だと認識していたか否かについて、「昨日までと今日とで、話が違うのはなぜか。」などとしらじらしく質問してきた。花蜜氏は、「よくよく考えてみた結果です。」などと答えた。

その時点以降の取調べは、検察官が一方的に話し続けて確認を求め、花蜜氏は、単にうなづいたり、検察官からの問いかけに「そうです」と答えるだけ。その一方で、あたかも花蜜氏が話したことかのような供述調書が作成され、読み聞かされて署名をするということが繰り返されていった。途中からは、検察官の確認のプロセスもなくなり、花蜜氏が話してもいない内容の供述調書が一方的に作成され、読み聞かされて、それに署名するだけということが多くなっていった。

本来、取調べの録音録画は、被疑事実を否認している被疑者の取調べで、自白をさせようとする説得の経過や、供述変更の理由などを、そのまま録音録画記録に残すための制度のはずだ。しかし、花蜜氏の取調べの経過を見る限り、検察官には、そのような記録を残そうとする姿勢は全く窺われない。

事実を認めるに至った肝心なやり取りは、録音録画の対象から外され、検察官の意向どおりの調書作成に応じている被疑者と検察官との間での調書作成の過程が記録されているだけなのである。

検察官取調べの問題についての弁護人の主張と検察官の対応

花蜜氏が起訴された後に、弁護人を受任した私は、供述調書の作成の過程について上記のような重大な問題があることを把握した。そこで、公判では、取調べ検察官の録音録画停止後の脅迫的言辞によって作成された調書であることを理由に、争点となる「売買を誘引する目的」等の主観面に関する部分は、「任意性がない自白」だとして、すべて「不同意」にした。

少なくとも、前記の最高裁判例を前提にすれば、相場操縦事件では、「売買を誘引する目的」が要件となるので、行為者が他の投資者に「誤認」をさせる目的で取引を行ったことの立証が不可欠のはずだ。

検察官が、録音録画終了後に、花蜜氏に逮捕や共犯者の起訴をほのめかすということまでやって認めさせようとしたのも、他の投資家に「誤認」をさせようとして「仮装売買」「買い上がり買付け」「下値支え」を行ったという「自白」を得るためだった。

最大の争点に関連する検察官調書の枢要部分なので、検察官は、弁護人が不同意にした部分を、当然、「任意性のある自白」だと主張して刑訴法322条1項で証拠請求してくるものと予想していた。今年1月に行われた被告人質問では、「録音録画停止後の脅し」の経緯を花蜜氏に供述させて、検察官調書に任意性がないことを立証しようとした。すると、そこに検察官が異議を出して介入してきた。

「検察官調書のうち一部不同意部分は証拠になっておらず、本件と関連性がない」というのである。そして、裁判長は、「争点と関連性がないので質問はやめてください」と言って異議を認めたのである。弁護人は、検察官に、被告人調書の不同意部分について、322条1項による請求の予定がないことを確認した。驚いたことに、検察官は「請求しない」と答えた。それでも、供述経過に関する質問を封じられるのは不当だと思ったが、「証拠にならないのであれば」ということで、それ以上質問はしなかった。

このときの検察官の異議と、裁判所の対応も、「録音録画停止後の脅し」に関する弁護人の主張を、法廷で表に出したくないという検察官と、それに加担する裁判所の姿勢そのものだった。

その後の検察官からの被告人質問において、検察官は、被告人供述調書には全く触れないばかりか、株式取引の目的・意図に関する被告人の説明に対して、不合理性を具体的に指摘したり、追及したりすることもしなかった。結局、「他人を誤認させて売買を誘引する意図」についての被告人の供述はゼロということで終わった。

花蜜氏の供述調書以外に、検察官が「他人を誤認させて売買を誘引する目的」を立証するために請求した証拠に、借名口座の名義人のTさんの供述調書があった。「会話の中で、花蜜氏が、他人に誤認させる目的で取引を行っていることを、専門用語も交えて明確に説明した」という内容だった。弁護人がTさんに確認したところ、そのような供述はしていないのに、検察官が勝手に作文して署名を求めてきたので、仕方なく署名したという話だった。

当然のことながら、弁護人は、Tさんの検察官調書をすべて不同意とし、検察官の請求で証人尋問が行われたが、Tさんは公判でも弁護人への説明とほぼ同趣旨の証言を行い、検察官は、供述調書を、刑訴法321条1項2号(証人が公判で供述調書と相反する証言をしたときに、検察官調書の供述に「特に信用すべき情況」があれば、証拠採用できるとの規定)で証拠請求することもできなかった。検察官調書の内容が、検察官の作文であることが明らかで、「特に信用すべき情況」の立証が困難と考えたからであろう。

主観面の立証に失敗した検察官論告と弁護人弁論

結局、検察官が「録音録画停止後の脅し」まで行って作成した供述調書の不同意部分の請求を撤回したために、「他人を誤認させて売買を誘引する目的」についての花蜜氏の供述はゼロ、会話の中でそれを認める話を聞いたとするTさんの供述調書も証拠請求しなかったので、花蜜氏の主観面に関する直接証拠は全くなく、「売買を誘引する目的」についての検察官の立証は完全に失敗に終わった。

論告でどのような主張をしてくるのだろうと思っていたら、何と、検察官の被告人の主観面に関する主張は、「客観的な取引の内容だけで十分に推認できる」というものだった。争点に関する検察官の主張は、「取引の内容」だけを根拠とするもので、それ以外には、検察捜査で収集した証拠も、公判立証に用いた証拠もほとんど引用しなかった。

もし、それで、相場操縦の犯罪が立証できるのであれば、監視委員会での1年2ヶ月にわたる取調べも、検察官の合計24回にわたる取調べも、6ヶ月にわたる公判審理も、全て不要だったことになる。

弁護人の弁論では、万が一にも、裁判所が、「客観的な取引内容だけで相場操縦の主観的要件の立証が可能」という検察官の苦し紛れの主張を受け入れることがないよう、公判での検察官の主張立証と、弁護人の主張を整理して改めて指摘し、「客観的な取引内容」だけで「売買を誘引する目的」等の被告人の主観面についての立証が十分だとする検察官の主張がいかに無理筋で不合理かを強調しようとした。

その中で、検察官が、取調べに関する問題を弁護人から主張され任意性を争われて、一部不同意となった被告人調書の証拠請求を撤回したことを指摘しようとした際に、冒頭に指摘した、検察官の「証拠に基づかない弁論」との異議が出され、裁判長は、それをそのまま認め、弁論のうち、以下の部分を削除するよう命じたのである。

弁護人において、検察官が取調べにおいて、自らが逮捕されること及び被告人とともに告発されていたTが起訴されることを極端に恐れていた被告人に対して、録音録画を停止した後に、被告人の逮捕及び共犯者Tの起訴をほのめかす発言をしたことを理由に、被告人の検察官調書のうち、主観面に関する記述部分について、任意性を争い、一部不同意としたところ、検察官は、刑訴法322条1項で請求することもせず、請求を撤回した。被告人質問においても、検察官は、上記意図に関する質問はほとんど行わず、株式取引の目的・意図に関する被告人の説明に対して不合理性を具体的に指摘することもなく、追及することもしなかった。そのため、本件公判で取調べ済の証拠には、他人に「誤認」「誤解」させる意図を認める被告人供述はない。

この弁論のどこがどう不当なのであろうか。このような弁護人の当然の主張が封じられるようでは、まともな刑事裁判とは言えない。

今回の問題が制度及び立法に与える影響

今回の問題は、裁判長が、公判で検察官の理由もない異議を認めて弁護人の弁論を不当に制限し、「無罪主張に対して聞く耳を持たない姿勢を示した」という個別の刑事事件における「著しく偏頗で不公正な裁判所の姿勢」の問題にとどまらない。

取調べの録音録画は、平成26年6月16日付け最高検次長検事による依命通知で、検察独自捜査においては取調べの全過程で行うこととされ、昨年成立した刑事訴訟法改正で、正式に制度化されることになっている。大阪地検特捜部の問題等の検察不祥事を発端とする検察改革の中で、私も委員を務めた「検察の在り方検討会議」(2010年11月~2011年3月)での提言以降、様々な経緯を経て、ようやく「取調べの全過程の録音録画」の制度化が実現したものである。

ところが、花蜜氏の事件では、取調べ担当検察官は、録音録画を停止させた後に、本人の逮捕や共犯者の起訴を示唆する「脅迫的発言」を行い、被告人の弁解を封じ込め、自白させるという方法をとり、自白に至る過程が録音録画記録に一切残らないようにしたのである。そのようなやり方が許されるのであれば、「取調べの全過程の録音録画」の意味は全くない。

しかも、花蜜氏によれば、それぞれの脅迫的発言は、一通りその日の取り調べを終えて、休憩を取った後の発言であり、取調べ官が席を外して上司に報告した後、上司から指示されて行っている可能性が強い。つまり、このようなやり方は、取調べ官個人の問題ではなく、組織的に行われている疑いがあるのである。

もし、弁護人が主張する「録音録画終了後の脅迫的発言」の事実が存在せず、取調べに何の問題もないのであれば、せっかく録取した検察官調書の枢要部分の請求を撤回する必要はないはずであるし、自白の任意性には問題がないことを公判で立証するのが当然だ。ところが、検察官は、供述調書の証拠請求を断念し、取調べに問題がなかったことの立証も行わず、弁護人が、弁論で、それを検察官の立証不十分の根拠として指摘しようとするや、不当な異議を述べて、弁論を封殺しようとした。そして、事もあろうに、裁判所がその異議を認めて、検察官に加担したのである。

このようなことがまかり通るのであれば、取調べの録音録画という検察の取調べの適正化のための制度が導入されても、運用上、制度を捻じ曲げるやり方が横行することは必至であり、しかも、裁判所までがそれに加担するというのであれば、制度本来の機能は全く期待できないことになる。

それは、改正刑事訴訟法で正式に導入される取調べの録音録画の制度運用に重大な懸念を生じさせるばかりではない。法律や制度の導入が運用段階で不当な方向に歪曲され、その実態を捜査機関や検察が覆い隠そうとする画策に、本来であればチェック機能を果たすべき裁判所までもが加担するということなのであれば、法律や制度の「悪用」に対して何の歯止めもかからないことになる。

我が国には、戦前、検察が主導して治安維持法の拡大適用や不当な拷問的取調べによる思想弾圧が行われ、それに裁判所が加担した忌わしい歴史がある。不当な取調べ防止のための制度が設けられても、その運用が捻じ曲げられ、裁判所のチェックも機能しないということであれば、今国会に提出が予定されている「共謀罪」を含む「テロ等準備罪」新設法案に関しても、不当な人権侵害が行われる懸念を払拭することなどできるはずもない。

取調べの録音録画の適切な運用に重大な疑念を生じさせる今回の花蜜氏の取調べの問題について、法務・検察当局には徹底した事実調査と厳正な対応を求めていこうと考えている。

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“美濃加茂市長選、藤井氏圧勝”に、誤った「憲法論議」で水を差す中日新聞

1月29日、控訴審で「逆転有罪判決」を受けて、藤井浩人市長が辞職したことに伴う、美濃加茂市長選挙が行われ、再出馬した藤井氏が、1万9088票を獲得し、4105票の対立候補に圧倒的な差をつけて当選した。しかも、投票率は、57.1%と、前回、藤井氏が初当選して全国最年少市長となった際の選挙より4.24ポイント上回り、獲得票数も、前回より7694票も上回った。

「不当判決と戦いながら市長職を続けていくことへの信任」を訴えて出馬した藤井氏への市民の圧倒的支持が確かめられた選挙結果と見るのが当然であろう。

ところが、この選挙結果を報じる紙面で、藤井氏圧勝に思い切り水を差すような報道を行ったのが地元の中日新聞だ。

同じ日に行われた岐阜県知事選挙の記事よりも遥かに大きく、社会面トップで報じているのだが、大きな横見出しは《疑問消えぬ圧勝劇》、その下に《支持者は「選挙必要なかった」》、左横の方の《藤井氏は「信任を得た」》の見出しの下に、「三権分立抵触のおそれ」というタイトルで、「地方自治に詳しい昇秀樹名城大学教授(行政学)」の以下のコメントが掲載されている。

藤井氏は「法廷闘争をしながら市長を続けることの是非を問う」と唱え、選挙戦では「有罪判決の不当性」を訴えていたと聞く。司法が判断したことの是非を選挙で有権者に判断させるやり方で、憲法が定める三権分立に触れかねず、不適切だ。五月の市長選に藤井氏は立候補するべきでない。当選しても、有罪判決が確定して失職する可能性が残り、市政を混乱させかねない。政治家の身の処し方として、いったん身を引くべきだろう。

このコメントは、どう読んでも全く理解できない。

「三権分立」とは、国家権力を立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)に分立させ、各権力相互間の抑制・均衡を図ることで、国民の権利・自由の確保を保障しようとするシステムである。

控訴審で「逆転有罪判決」を受けて市長を辞職した後に、「控訴審判決は不当であり、最高裁に上告中であるが、最終的に上告審の判断を仰ぎ、その判断が出るまで市長職を続けたい」と市民に訴えて支持を呼びかけることが、どうして「三権分立」の問題になるのであろうか。

地方自治体である美濃加茂市長選挙で示される「有権者たる市民の意思」は、「三権」に該当しないだけでなく、そもそも「権力」ではない。また、「司法が判断したことの是非」と言っているが、本件は、一審無罪、二審有罪で、まだ最終的な司法判断は出ていないのであり、前提が根本的に間違っている。

「昇教授コメント」は、そのような「明白に誤った意見」を述べた上で、「五月の市長選に藤井氏は立候補するべきでない。」などという、まさに余計なお世話とも言える意見を述べているのである。

この問題で、「三権分立」を持ち出すのが誤りであることは、中学生でもわかる話であり、このような明白に誤った「専門家コメント」を一方的に掲載して、市長選挙の結果に対して誤ったイメージを与えることは、まともな新聞メディアとして許されないやり方である。

中日新聞には、上記の点を指摘して、記事の訂正ないし反対意見の掲載を求める要請を行ったが、「コメントも含めて記事は誤っておらず、訂正はしない。反対意見を掲載することもしない。」との返答であった。

「昇教授コメント」の藤井氏の出直し選挙出馬への批判は、単に、「三権分立」を持ち出していることが誤っているだけでなく、実質的にも不当である。

司法判断と市長職との関係から言えば、有罪判決を受けても、それを無視して「不当判決」と言って市長職にとどまることの方が、はるかに「司法軽視」と言うべきであろう。一審、二審で判断が分かれた事件なのであるから、上告審の司法判断にすべてを委ねることとし、それが出るまでの間、引き続き市長職を担うことについて市民の審判を仰ぐというのは、むしろ、司法判断を尊重する姿勢にほかならない。

また、選挙で「有罪判決の不当性」を訴えたことが問題であるかのように言っているが、「控訴審判決が納得できないので上告審の判断を仰ぎたい。それが出るまで市長職を続けたい。」と言っている藤井氏としては、市民に対して「判決に納得できない理由」を説明するのは当然のことだ。

もちろん、有権者の市民に刑事事件の判決の中身について事細かな点まで理解してもらうことはできないであろう。しかし、藤井氏の事件に関しては、以下のような控訴審までの審理の経過等を外形的に説明するだけでも、控訴審判決が、藤井氏だけでなく美濃加茂市民にとっても到底納得できないものであることは十分にわかるはずだ。

藤井市長は、収賄事件で逮捕・起訴された後、保釈されて市長職に戻って以降、現金授受の事実が全くなく、自らが潔白であること、市議会議員時代は、純粋に市民のために、災害対策としての浄水プラントの導入に尽力してきたものであることを、直接、多くの市民に会って、繰り返し、繰り返し説明し、市長の話を信じる圧倒的多数の市民や市議会の支持の下で、被告人の立場にありながら、市長職を務めてきた。そして、一審の3人の裁判官は、藤井市長が法廷で述べたことを慎重に評価した末に「無罪」の結論を出した。ところが、控訴審判決は、被告人質問も全く行わないで、自分達が直接、見聞きしたわけではない一審での証拠を、事件記録だけで判断して、無罪判決を覆して有罪としたのである。多忙な市長が公務をやりくりして毎回公判に出廷しているのに、一言も藤井氏の言葉を聞くことすらなかった。

それだけでも、名古屋高裁の「逆転有罪判決」は、美濃加茂市民にとって到底受け入れられないものであり、藤井氏が、そのような不当判決を受け入れず、「最高裁での最終的な司法判断を待ちたい。それまでの間、引き続き市政を担当させてほしい。」と訴え、支持を求めることには、十分な合理性がある。

メディアは、「第4権力」とも言われる存在であり、「司法」「行政」「立法」の3つの権力の監視という重要な役割を担っている。「警察」と「検察」という権力機関が、市民によって選ばれ、市政を担う市長を、その職から引きずりおろそうとしたのが今回の事件であり、それに対して、美濃加茂市民は、そのような権力行使に屈することなく、一貫して市長の潔白・無実を信じ、支持・支援してきた。一審判決は、証拠の希薄さ、贈賄証言が信用できないことを適切に指摘して無罪を言い渡したが、控訴審判決が、それを覆した。その判決がいかに不当なものであるかは、当ブログにおいても、これまで指摘してきたとおりだ。その控訴審判決に対して上告して最高裁に最終的な司法判断を求めている藤井氏は、警察・検察、そして裁判権力に対する戦いを続けているのである。その藤井氏に対して、美濃加茂市民が圧倒的な支持を表明したのが、今回の選挙である。

本件に関して、憲法上の問題に言及するとすれば、国の不当な権力行使によって、市民が首長を選ぶという住民自治を基本とする地方自治が損なわれかねないという、地方自治の本旨(憲法92条、93条)の問題であろう。(【藤井美濃加茂市長の不当勾留は地方自治を侵害する重大な憲法問題】)

もちろん、再選されても任期は4ヶ月余りで再度選挙となることから、敢えて辞職することの是非や、選挙にかかるコスト(今回は岐阜県知事選挙との同時選挙なので、実際にかかるコストは、通常の市長選挙の3分の1の500万円程度)との関係で、藤井氏の「辞職・出直し選出馬」の是非について議論の余地があることは否定しない。

しかし、中日新聞が紙面で述べていることは、そのような議論にとどまらない。「三権分立」などという全く的外れの「憲法論議」を持ち出して「5月の市長選に立候補すべきではない」などと批判する「識者コメント」を掲載し、市長選挙での藤井氏の圧勝に水を差そうとし、その誤りを指摘しても、訂正・反論掲載すらしようとしないのである。

中日新聞は、名古屋・岐阜地区で圧倒的な販売部数を誇り、政治的・社会的影響力も大きい。美濃加茂市でも多くの市民が購読している。それだけに、とりわけ選挙に関し、公正な報道が強く求められるのであるから、掲載する識者コメントの内容が明らかに間違ったものでないかを検討し、読者に誤解を与えることのないようにすることは、最低限の要請であろう。

 

 

 

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「小池劇場」の”暴走”が招く「地方自治の危機」

東京都が豊洲新市場で実施した第9回地下水モニタリング調査の結果、最大で環境基準値の79倍のベンゼンが検出されたことや、それまで未検出だったシアンが計数十箇所で検出されたことが明らかになったことを受けてアップした、前のブログ記事【豊洲市場問題、混乱収拾の唯一の方法は、小池知事の“謝罪と説明”】で、

小池氏は、これまでの対応について、「安全」と「安心」との混同があったことを率直に認めて謝罪し、地下水の環境基準は「安心」のためのものであって、安全性には全く問題がないことを丁寧に説明すべきだ

と述べた。

しかし、先週金曜日の都知事定例会見で小池都知事が述べた豊洲市場問題への対応方針は、それとは全く逆の方向であった。

小池氏は、東京都が「豊洲市場の売買契約締結に関して、東京都が石原慎太郎元都知事に対して約578億円を請求すること」を求められている住民訴訟で、石原元都知事の損害賠償責任を否定していた従来の都の対応を見直し、損害賠償責任の有無や範囲を検討し、裁判所に書面を提出する方針を明らかにした。

端的に言えば、豊洲市場への移転の問題について、それを決定した石原元知事の責任追及を求める住民側の主張を受け入れて、都が石原氏に巨額の損害賠償を求めることも含めて検討するというのである。

私も、そもそも土壌汚染の問題がある工場跡地に生鮮食品を扱う市場を移転させようとしたこと自体が適切だったのか、それを決定した当時の石原都知事の判断が適切だったのか、その経緯に問題はなかったのか等について、疑問を感じないわけではないし、その問題に関して石原氏を擁護するつもりはない。

しかし、今回の小池氏のやり方は、「盛り土」問題や、地下水の調査結果と環境基準の関係等で、都民に大きな誤解が生じている現状における豊洲市場問題への都知事の対応としては、重大な疑問がある。

なぜ、今、石原氏への損害賠償請求の話が出てくるのか

まず、地下水のベンゼン含有量などによって豊洲の安全性に関して大きな誤解が生じているこの時期に、石原氏への損害賠償責任の追及の話を持ち出すこと自体に重大な疑問がある。

会見の中で、小池氏は、訴訟対応の話が唐突に出てきたことについての記者からの質問に対して、以下のように答えている。

これまでどおりで、石原元都知事が行った行政について、そのままの延長で一体いいのかということがあるわけでございまして。そして、今、まさしく9回目の数値が出たという、驚くべき数値が出たということで、改めてこの段階で、これまでと同じ対応でいいのかという疑問も当然生じてくるわけでございます。

小池氏は、豊洲市場の地下水の9回目の調査で、「ベンゼンが環境基準の79倍」など、それまでとは全く違う結果が出たことを、訴訟対応の見直しの理由として説明しているのであるが、それが、全く筋違いであることは明らかであろう。

この9回目の地下水調査の結果については、専門家会議の平田座長も、「あまりにも今までの傾向と違っている。とても驚いている。」とコメントし、他の委員も困惑しており、基準を大きく上回った観測地点を中心に30カ所程度を選んで再調査を実施する方針が明らかにされている。今回の調査業務の発注が最低制限価格を設定しない競争入札で行われ、極端な低価格で落札されたために、業者に採水・分析を行う十分な能力がなかったのではないかとの疑念も指摘されている。この9回目の調査結果については、その正確性について疑問があり、再調査の結果を待たなければ、判断の根拠とはできないはずである。

それなのに、なぜ、「驚くべき数値が出たこと」が、石原氏に対する訴訟対応の見直しの理由になるのか。

しかも、「環境基準値」というのは、飲料水に適用される基準であって、豊洲市場の地下水のように、飲用にも清掃用にも使わない場合は、そもそも問題にはならないのであり、地下水の調査結果でのベンゼンの数値等を、豊洲市場の安全性に関する客観的な事実のように取り上げること自体が適切とは言い難いことは、【前回ブログ記事】で述べた通りである。そのことは、橋下徹氏のほか、小池氏を支持する音喜多都議も指摘している。

そればかりか、小池氏が、「盛り土」問題を大々的に取り上げる際、「安全性の確保のオーソライズを行う機関」として位置づけた専門家会議の平田座長も、「地上と地下は明確に分けて評価をしていただきたい。」「地上に関しては大きな問題はない。」と繰り返し述べて、豊洲市場の地上の安全性について、地下水の数値と環境基準との関係を過大視すべきではないことを強調しているのである。

「安全ではなく安心」を更に強調する小池氏

この点に関して、記者会見で、専門家会議の平田座長が、「今回の結果も踏まえた上で、地下の問題と地上のことを切り離して、地上の部分の方の安全性を考えることができるのではないか」という趣旨の発言をしていることについて記者から問われて、小池氏は以下のように回答した。

平田先生はまさしく専門家でいらっしゃいます。ご専門の立場から、そのようにおっしゃったのだと理解をいたします。一方で、私は一般消費者の1人だと思っておりまして、地下と地上と分けるのというのを、理解していただけるのは、なかなか難しいものがあるかなとも思うわけであります。よって、再調査のことも待ちたいとは思います

趣旨が不明確だが、要するに、平田座長が環境の専門家の立場から「地下水と環境基準値との関係は、地上施設の安全性とは切り離して考えることができる」と言っていることは、「専門家の立場」からは正しいことであっても、一般消費者の立場からは理解できない、ということのようである。

しかし、そもそも、「専門家会議」の設置目的について、東京都は、都民向けに、

東京都は、現行法令に照らして問題のない水準で、土壌汚染対策を行うこととしていますが、都民や市場関係者の一部になお懸念の声があります。市場が生鮮食料品を扱うことの重要性から、都民が安心できる市場とするため、土壌汚染対策等を検証する専門家会議を設置しました。

と説明してきた。豊洲市場の土壌汚染対策の安全性について、都民の「安心」を確保することを主目的として設置されたことは明らかである。

そのような都民の「安心」のための「専門家会議」が、地下水の数値を過大視すべきではないと言っているのに、小池氏は、一般消費者の「安心」の観点から、その見解すら受け入れようとしないのである。土壌汚染対策の安全性についての誤解を解消し、都民の「安心」を確保するための努力をするどころか、地下水の調査結果と環境基準との関係を殊更強調する小池知事の発言は理解し難い。

小池氏の発言からは、豊洲への市場移転の「白紙撤回」を視野に入れ、それによって東京都に生じる重大な損害についての責任追及の矛先を、豊洲への市場移転を決定した石原元知事に向けようとしているように思える。

そのような小池氏の姿勢が、豊洲市場問題の速やかな解決につながるどころか、ますます混迷を深めることになりかねない。

住民訴訟への都の対応方針の変更の「重大な意味」

もう一つの問題は、小池氏が、豊洲市場の問題に関する石原元知事の損害賠償責任の追及に関して、東京都としての対応方針を見直すとしたことである。

冒頭でも述べたように、私は、豊洲市場をめぐる問題について、石原氏を擁護するつもりはない。しかし、今回、都知事の定例会見の場で、元都知事の石原氏の損害賠償責任に関して「東京都としての方針見直し」を明らかにした小池氏のやり方は、余りに一方的であり、独断的といえる。

もし、石原元都知事に対する損害賠償の請求を求めている住民訴訟で、都が、被告としての主張を、原告の住民側の請求を受け入れる方向に変更した場合、住民訴訟は早期に決着し、それを受けて東京都が石原氏に対して損害賠償請求訴訟を提起することになる。石原氏の責任が認められるか否かの最終的な判断は裁判所に委ねられるが、石原氏がトップを務めていた東京都自身が、「石原氏に賠償責任あり」として提訴した場合、裁判所で責任が認められる可能性は、相当高くなるものと考えられる。

かつての地方自治法では、住民訴訟は「代位訴訟」であり、住民が監査請求を行い、請求が棄却された場合には、住民が直接、「違法な行為又は怠る事実」のあった自治体職員に対して訴訟を提起することができたが、濫訴による自治体職員の応訴の負担が過大なものとなること等を考慮し、2002年の地方自治法の改正によって、監査請求が棄却された住民側が、地方自治体に対して、違法行為等があった自治体職員に対して損害賠償を請求することを求める訴訟を起こす制度に改められた。「損害賠償の請求」について、自治体側が首長の判断で住民側の請求を認諾してしまうなどということは、法改正時には想定されていなかったことである。

東京都としての石原氏の損害賠償責任についての判断のプロセス

最大の問題は、石原氏の損害賠償責任の有無に関する東京都としての判断を、「誰が」・「どのようにして行うのか」だ。

小池氏は、記者会見で、「東京都の訴訟代理人の弁護士をすべて交代させ、新しい訴訟代理人で“訴訟対応特別チーム”を編成し、事実関係を解明して証拠を収集し、石原元都知事の法律的な損害賠償責任の有無・範囲を判断させる」などと述べ、「訴訟対応特別チーム」に損害賠償責任についての証拠による判断をさせるかのように言っているが、訴訟代理人は、依頼者との間で委任契約を締結し、依頼者の方針に従い、報酬を得て、依頼者に代わって訴訟行為を行う立場であり、客観的な立場で事実を認定・判断するのではない。訴訟対応の方針を決めるのは東京都側である。

小池氏は、住民訴訟への対応方針の見直しの理由について、会見で、

事実関係、それをもたらした責任を曖昧にすることなく、明らかにするということは、都政を改革して、緊張感を持って適正な運営を行う上で不可欠だという、そういう判断のもとで今回の見直しを東京都として致したいということでございます。

と述べているが、「都政改革」の一貫として、過去に元知事の下で行われた豊洲への市場移転や売買契約の経緯の問題を取り上げるのであれば、その事実関係の究明・原因分析等は、政治的な利害を離れて、第三者機関に中立的・客観的な立場で行わせ、その調査結果に基づいて、関与者に対する責任追及の要否を判断すべきであろう。

過去の組織のトップの損害賠償責任の有無についての東京都の判断を、小池氏自身が、「顧問団」等の意見を聞いて行うということであれば、大統領が代わる度に、前任の大統領が刑事訴追され、断罪されるという事態が繰り返されて来た韓国と同じようなものだ。

同じ豊洲市場の問題で、小池知事が大々的に取り上げた「盛り土」問題では、東京都が行った「第一次自己検証」に加え、都知事の方針に沿って大幅に変更する「第二次自己検証」もが、「内部調査」として行われ、「第三者による検証」は全く行われなかった。

最終的な「第二次自己検証」の内容は、「十分な根拠もなく認定した事実に基づいて、(小池知事の意向に沿って)責任を(無理やり)肯定した」というもので、組織の「調査報告書」とは凡そ言い難いものであったことは、【「小池劇場」で演じられる「コンプライアンス都政」の危うさ】においても詳細に述べたとおりである。

そしてさらに、8人の都幹部に対して、報告書の「職責を全うしなかった責任」などという抽象的な記述に基づいて、懲戒事由として「何をしたこと」、或いは「何をすべきなのにしなかったこと」が理由であるのかすら明示することなく、「6ヶ月間給与20%減額」の懲戒処分などの「大量粛清」が行われた。

民間企業でも、官公庁・自治体であっても、組織にとっての重大な問題についての調査・検討は、中立性・客観性を確保するために「第三者委員会」方式をとるのが、通常の方法だ。しかし、小池氏は、そのような方法を一切とろうとせず、顧問団等の助言にしたがって都知事自身が決める方針のようである。

日本の地方自治制度における首長への権限集中と小池劇場の「暴走」

日本の地方自治制度は、首長に権限が集中しているところに特色がある。大統領制という面ではアメリカと同じだが、予算・条例の提出権が首長側にしかなく、議会は、それを議決する権限しかない日本の地方自治制度は、予算・法律の提出権限がなく、議会に対しては拒否権しかないアメリカの大統領より、首長としての権限は強い。

これまで、日本の地方自治体の首長は、そのような強大な権限を、相当程度抑制的に行使してきた。前任者に選挙で勝利して首長に就任しても、首長自らが前任者の責任追及を行った例はほとんどなかった。過去の問題に関して「第三者委員会」方式がとられるのも、ある意味では、首長の権限行使を客観的に適正な範囲に自己抑制しようとするものにほかならない。今回の石原氏への責任追及に向けての動きを見ると、小池氏は、その抑制を取り払い、独裁的な権限行使を行おうとしているように思える。

「情報公開」「透明性の確保」を理念として、「東京大改革」をアピールする小池氏は、それらの理念を、批判や攻撃に多用するが、その一方で、重要事項に関する自らの判断・決定のプロセスの透明性を確保しようとする姿勢は、極めて希薄である。判断の適正さ、客観性を確保しようとする姿勢もうかがわれない。強大な首長の権限の下で、そのような透明性・客観性を欠いた意思決定がまかり通るとなると、前述したように、住民訴訟制度が、首長の判断如何で政敵の前任者を陥れるために使えることとも相俟って、自治体運営は、限りなく「独裁」に近づくことになる。

客観的な検証を全く行わず、小池氏とその側近の判断だけで、東京都として石原氏の損害賠償責任を追及する方向に舵を切るとすれば、それは、ある種の「暴走」である。ところが、小池劇場での「悪党退治」の巧みな演出のために、マスコミも世論も追従し、ほとんど批判すら行われない。

日本の地方自治制度にとって、危機的な事態だと言わざるを得ない。

 

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豊洲市場問題、混乱収拾の唯一の方法は、小池知事の“謝罪と説明”

1月14日に開かれた豊洲新市場の安全性を検証する第4回専門家会議で、東京都が豊洲新市場で実施した第9回地下水モニタリング調査の結果が発表され、最大で環境基準値の79倍のベンゼンが検出されたことや、今まで未検出だったシアンが計数十箇所で検出されたことが明らかになった。

「盛り土問題」で悪化した「豊洲市場」のイメージは、さらに極端に悪化し、市場関係者からは、「もはや豊洲への移転は不可能」という声も上がっている。豊洲への移転を断念し、築地市場の再整備を求める声も高まっている。

東京都は、大幅に基準値を超えた場所を中心に、30カ所程度で再調査を実施する方針を明らかにしているが、その結果、どのような数値が出たとしても、今回「基準値の79倍のベンゼン」「シアン検出」という言葉が出たことで、生鮮食品を扱う市場にとって致命的なイメージ悪化がもたらされてしまった以上、その回復は著しく困難になっていると言わざるを得ない。

しかし、ここで問題にされている「環境基準値」というのは飲料水に適用される基準であって、豊洲市場の地下水のように、飲用にも清掃用にも使わない場合は、もともと問題にはならない。しかも、「地下水の環境基準値」というのは、70年間、毎日2リットル飲み続けて、健康を害する人が(何千人に1人)出るか出ないかという数字であり、ベンゼンやごく微量のシアンが検出されたとしても、少なくとも、地下水を利用することのない地上の豊洲市場での生鮮食品の取扱いに影響を及ぼすものではない。

この点を端的に指摘しているのが、橋下徹氏である。ツイッターで「飲むわけでもなく、使うわけでもない地下水に環境基準を設定したことが全ての混乱の原因」と述べている。

小池都知事を支持する音喜多駿都議は、このような橋下氏の指摘を「全くそのとおり」とした上で、「敷地全体の地下水を環境基準値以下に浄化する方針が技術者会議で打ち出され、その方針に沿って市場関係者や議会への説明・説得が行われてきた」ので、今になって「環境基準は飲料水の基準だから問題ない」というのは、その「約束に反する」と述べている。一方で、築地市場は、「安心どころか現行法上の安全基準すら満たしていないことはほとんど明らか」であり、「豊洲新市場は『安全なのに安心ではない』、築地市場は『安全ではないのに安心である』という極めて矛盾した状態になっている」と指摘している(【安心と約束、豊洲市場問題、混在する2つの考えと解決アプローチ】)。

このような音喜多都議の指摘は、全く正しい。

小池都知事「豊洲市場問題対応」をコンプライアンス的に考える】でも述べたように、安全性や健康被害が問題になる場合、コンプライアンスの視点から問題となる要素は、①「客観的な安全性」、②消費者、利用者等の「安心」、そして、③事業や業務に関する情報開示・説明責任であり、客観的な問題である①と、主観的な理解・納得の問題である②③とは区別して考えなければならない。開示された「情報」が正しく理解されず、誤ったイメージを持たれ、価値判断や評価が行われることで、大きな弊害が生じる場合もある。「地下水の環境基準」という、市場の安全性とはほとんど関係ない数値によって市場の安全に対する重大な不安が生じている今回の問題はまさにその典型である。

音喜多都議が指摘するように、豊洲市場は、今回の「環境基準の79倍のベンゼン」を前提にしても、土壌汚染に関しては全く安全であり、むしろ、安全性に関しては、現在の築地市場の方が問題は遥かに大きく、豊洲市場への移転を断念し築地市場再整備に方針転換することは、合理的な判断としては凡そあり得ないものだ。

ところが、冒頭にも述べたように、既に豊洲市場のイメージ低下は致命的なものとなっており、生鮮食品を扱う市場として開場することが極めて困難な状況に立ち至っている。

音喜多都議は、「できる限りの環境基準適合を目指し追加対策などを検討しつつ、一定のところで線引をして安全宣言という折衷案が現実的な解決策」だとしているが、これまでのマスコミ報道によって豊洲市場の土壌汚染への不安が極端に高まっている現状において、市場関係者や都民に、そのような冷静かつ合理的な判断を期待することができるであろうか。音喜多都議の言う「現実的な解決策」で現在の事態が打開されるとは思えない。

築地市場の豊洲への移転問題がこのように混乱し、「進むも地獄、引くも地獄」という状況に立ち至った最大の原因は、昨年8月末に、既にほぼ施設が完成し、業者が設備の稼働まで開始させていた豊洲市場への移転を延期した小池知事の対応にある。

上記ブログ記事】でも述べたように、8月31日に、小池知事が移転延期の理由に挙げた「安全性への懸念」「巨額かつ不透明な費用の増大」「情報公開の不足」の3つのうち、本来、この移転延期の理由になり得るのは「安全性への懸念」だけだった。小池氏が考えていた「安全性」というのは一体何だったのだろうか。それが最終回の地下水検査の結果ということだったとすれば、「安全性」に関して、およそ的外れな認識を持っていたと言わざるを得ない。

このときの小池氏の説明で、「情報公開の不足」という「安心」の問題と「安全性」の問題とを混同したまま、豊洲への市場移転延期を決定したことが、その後の市場移転問題をめぐる混乱の発端となった。

そして、その10日後、小池氏が、豊洲市場の施設の下に「盛り土」がされていなかった問題を公表した際、「専門家会議」の提言に反しているので、「土壌汚染対策の安全性についてオーソライズされていない」と説明した。この専門家会議というのは、もともと「都民の安心」のために設置された組織であり、それを「安全性のオーソライズ」のためであるかのように説明したのは誤解を招くものであった。そのため、その後の報道において、移転を進めてきた(小池知事就任前の)東京都を批判する報道が過熱し、「土壌汚染対策は十分なのか」「食の安全は確保できるのか」といった世の中の懸念は一気に高まった。(【「小池劇場」で演じられる「コンプライアンス都政」の危うさ】)。

そして、小池氏は、今回の地下水の調査結果が出る直前にも、年初のマスコミ各社のインタビューにおいて、市場移転の問題について、「科学的に安全性を判断する」と述べ、1月14日に発表される地下水の調査結果を重視する意向を示していた。それによって、公表される地下水の調査結果が、「安全性」の問題であるかのような認識の下で、注目を集めることになった。

このように小池氏が、豊洲市場の「地下水の環境基準」が「安心」の問題であるのに、「安全」の問題であるかのような誤解を与えたまま、その数値に注目が集まるような対応を続けてきた結果、安全面では全く問題ない地下水の環境基準の数値が公表されたことで、安全性に関する重大な問題が明らかになったかのように誤解され、豊洲への市場移転が極めて困難な状況に立ち至っているのである。

この状況をどのようにして打開していけばよいのか。

音喜多都議が、前記ブログの最後で強調しているように、「現在の79倍ベンゼン等という数値は暫定値であり、まずは再調査の結果を待つべき」というのも理解できないわけではない。しかし、その数値が市場の安全性の問題であるかのように誤解されたままでは、再調査の結果を待つこと、そして、その数字に注目することが、その公表の時点でさらなる混乱を招くことになりかねない。豊洲への市場移転をめぐる混乱を収拾し、問題を解決するための唯一の方法は、小池氏が、これまでの対応について、「安全」と「安心」との混同があったことを率直に認めて謝罪し、地下水の環境基準は「安心」のためのものであって、安全性には全く問題がないことを丁寧に説明することである。

「都政大改革」への期待から都民の圧倒的支持を得てきた小池氏であれば、真摯に説明することで、都民の理解を得るのは不可能ではないはずだ。混乱収拾のために敢えて「過ちは改めるに如かず」との姿勢をとる小池氏が、都民に一層評価されることにつながる可能性もある。

市場移転問題を、今年夏に行われる都議会議員選挙の争点になどという声も上がっているが、この問題の「安全」と「安心」を混同したまま「政争のネタ」にするというような「愚」は絶対に犯してはならない。地下水の調査結果と環境基準との関係に関する問題が、「頭の黒いネズミ」のイメージと重ね合わせて、「小池劇場」の素材に使われるようなことになると、この問題に対する世の中の誤解と市場移転問題の混乱は更に拡大し、市場関係者や都民の損害は回復不可能なものになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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「ASKA不起訴釈放をめぐる謎」によって生じる覚せい剤捜査への影響

今年最後のブログ記事である。

11月28日の美濃加茂市長事件控訴審の「逆転有罪判決」については、上告趣意書の作成の準備作業に着手しているが、判決内容を仔細に検討すると、証拠や当事者の主張、控訴審での検察の主張すらも無視した、「凡そ控訴審判決の体をなしていない判決」であることを一層強く感じる。マスコミ関係者の話によると、検察幹部ですら、「逆転有罪」を手放しでは喜べないようで、「理由がなあ…」などと浮かない顔をしているそうだ。

この判決が、論理的にも証拠的にも「凡そあり得ない異常判決」であることは、既に出している(【”重大な論理矛盾”を犯してまで有罪判決に向かったのはなぜか】【被告人の話を一言も聞くことなく「逆転有罪」の判断ができるのか】の二つの記事や、You Tubeにアップしている美濃加茂市での【市民向け不当判決説明会の動画】をご覧頂ければ、十分に理解してもらえると思うので、ブログではこれ以上触れないこととし、私の方は、年明けから、上告趣意書作成の作業に全力を尽くすことにする。

今年は、芸能人等の覚せい剤事件が社会の注目を集めた年であった。【「一発実刑」で清原を蘇らせることはできないか】【ASKA氏を不起訴にした「異常に弱腰」な検察、美濃加茂市長事件での「無謀極まりない起訴」との落差】など、当ブログでも取り上げてきた。若年層への薬物の蔓延が深刻な社会問題になっている状況でもあるので、今年は、ASKA氏(以下、「ASUKA」)事件をめぐって今なお残る謎と、今後の覚せい剤捜査に与える影響について問題を整理して、ブログを締めくくることとしたい。

前のブログ】でも述べたように、ASKAが提出した液体(尿の提出を求められ、スポイトに入れたお茶を提出したと供述)から覚せい剤が検出されたのに、覚せい剤所持で起訴されることなく、全面的に不起訴で釈放となったのは不可解だ。

その後、この事件についての、いくつかのブログ記事がBLOGOSにも転載されているが、その中に、弁護士(元国会議員)で、「ASKA無罪放免事件は、検察が警察に対するチェック機能を果たしたケースと評価すべき」と書いている人がいるのには、些か驚いた。「検察は、警察の言い分を鵜呑みにしないで、ちゃんと仕事をした。」「お茶を尿だと見間違えなかった検察官を褒めておこう。」ということだそうだ。

この人が言うところの「警察の不適切捜査」というのは何のことだろうか。「採尿の際に手元を見ていなかったために、提出した液体が尿だと断定できなかった」というのは、確かに、自宅での採尿にしても、やり方がやや生ぬるかったとは言えるだろう。しかし、「尿ではない液体を提出されて受け取ったために、鑑定したが、覚せい剤が検出されず、被疑者を逮捕できなかった」というのであればともかく、その液体からは覚せい剤は検出されているのである。警察の対応が手ぬるかった面はあったとしても、覚せい剤の検出を免れようとする被疑者側の画策は不発に終わったと見るべきであろう。今回の警察捜査には、「若干間抜けな面があった」とは言えても、「違法捜査」とか「不適切捜査」というような性格のものではない。

もし、警察捜査に重大な問題があったとすれば、ASKAが提出した液体について、①覚せい剤が検出されたという「科捜研での鑑定結果」に疑問がある、②警察が提出を受けた後に液体に覚せい剤が混入された疑いがある、のいずれかの場合だ。しかし、①については、科捜研における覚せい剤鑑定は定型化され、その手法も定着しており、「覚せい剤検出」の鑑定結果が誤っていたとは考えにくい。ASKA自身も、その後更新したブログで、「科捜研に間違いはないと思います。」と述べている。

②については、もし、そのような疑いがあるというのであれば、警察内部に、被疑者が提出した尿に混入するための覚せい剤の「在庫」があることになり、警察の覚せい剤捜査そのものが根本的に信用できないということになる。何らかの具体的な根拠がない限り、検察官が、警察にそのような疑いをかけることはできないはずだ。

この点に関して思い出すのは、私が、まだ駆け出しの3年目の検事だった30年余り前、暴力団犯罪、覚せい剤犯罪が多発する都市の地検で担当した覚せい剤事件のことだ。覚せい剤中毒と思われる錯乱状態で逮捕された常習者について、同居していた両親から日頃の様子を聴取したところ、「覚せい剤中毒と思える状態はずっと続いており、逮捕される数か月前に、部屋で覚せい剤のような『白い結晶』を発見して警察に届けたが、警察からはその後全く音沙汰がなかった。」と言い出したのだ。私はその「覚せい剤らしきもの」を受け取った警察署と、担当警察官を特定し、地検に呼び出した。担当警察官は、最初は否定していたが、結局、「10グラムぐらいの覚せい剤と思える物を両親から受け取ったが、他の事件で忙しかったので、ロッカーに入れたまま、放置していた。」と認めた。その後、その警察署内から、実際に約10グラムの覚せい剤の結晶が発見された。その後、覚せい剤事犯の捜査の信頼を根底から失わせかねない重大な問題として、地検と警察の幹部との間で対策が協議されたことは言うまでもない。

このような重大な失態があったというのであればともかく、今回のASKAの事件では、警察の重大な違法捜査や失態があったことが具体的に明らかになっているわけではない。

それなのに、なぜ、提出された液体から覚せい剤が検出されているのに不起訴となったのかは全くの謎だ。その点への疑問が解消されないままでは、①②の理由で覚せい剤の使用を否認するケースが多数出てくる可能性があり、今後の覚せい剤捜査に大きな影響を及ぼすことが懸念される。

過去に、覚せい剤事件に関して重大な違法捜査の事実が明らかになり、不起訴処分や無罪判決につながった事例は多数ある。そのような違法捜査の抑制は、検察にとっても、当事者の警察にとっても極めて重要な課題だ。

しかし、覚せい剤事犯の捜査の現場では、「『被疑者側から押収した証拠物を鑑定した結果、覚せい剤が検出された事実』がある場合には格別の事情がない限り起訴される」というのは当然の前提であり、その大前提が崩れたのでは、そもそも覚せい剤捜査は成立しない。薬物事犯が若年層にまで蔓延し一層深刻化する現状において、不起訴処分によって、その大原則に疑念が生じるような事態が生じているのに、その事情もわからないまま、「検察はよくやった」などと安易な評価を行う無責任な言動は慎むべきであろう。

警察等の覚せい剤事件の捜査に対しては、適切な批判の目を持ちつつ、基本的には捜査を信頼する姿勢が必要である。それなしには、深刻化する薬物事犯の抑止は到底なし得ないことを強調して、今年のブログを締めくくることとしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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社長が代わっても「隠す文化」から抜け出せない東芝

東芝が、原発事業で数千億円の損失を出す見込みとなり、今期(2017年3月期)の決算が最終赤字になる可能性が高まったと報じられている。

今年3月に、原発事業で約2500億円の減損を行って損失処理を行う一方、医療機器子会社をキャノンに約6655億円で売却して財務体質を強化し、その資金を好調な半導体事業の投資に回した。その半導体部門の好調等で、今期は1450億円の黒字に急回復する見込みを公表していた。

それが、一転して、巨額の損失を出し最終赤字に転落する可能性が高まったというのだ。収益回復の見込みを前提に、最安値155円から反騰し、475円まで買われていた東芝株は、12月27日、28日と、連続ストップ安で311円まで売られている。

東芝会計不祥事追及で独走してきた日経ビジネスのオンライン記事(NBO)【東芝、原発事業で陥った新たな泥沼】によると、米原発子会社ウエスチングハウス(WH)が2015年末に買収し、子会社化した米CB&Iストーン・アンド・ウェブスター(S&W)について、 買収後にWHがS&Wの経営状況を見直したところ、原発の建設プロジェクトなどでコスト超過が判明。資材や人件費などが想定よりも大幅に増え、その結果、S&Wの資産価値が当初の想定から大きく下がり、多額の損失計上が必要だと判断したとのことである。

2006年に約6000億円を投じてWHを買収し、買収価格とWHの純資産との差額、約3500億円の「のれん」を計上していた。買収後、リーマンショックや原発事故などで経営環境が激変したのに、一貫して「原子力事業は好調」と説明し、巨額ののれん計上を正当化してきた東芝だったが、16年3月期の2500億円に続いて、17年3月期でも数千億円の損失を計上することで、会計不祥事表面化後にも続けていた説明が全く誤りであったことが示されたことになる。

上記NBO記事では、東芝の子会社WHがS&Wの買収を決断した理由に関して、以下のように述べている。

原発建設の現場では「コストオーバーラン」が深刻な問題になっていた。WHは米国内で4基の原発を建設していたが、規制強化による安全対策や工事の遅延などでコストが増大し、事前の見積り額を超過するようになったのだ。発注元の米電力会社はWHに超過分のコスト負担を求め、一部は訴訟に発展。工事を担当するCB&IとWHとの間でも、負担割合などをめぐって争いになっていた。こうした係争が深刻化して損失計上を迫られれば、WHの収益計画を見直さざるを得なくなる。すると、のれんの減損処理が現実味を帯びる。こうした事態を回避するために、東芝はS&Wを買収することで関係を整理することにした。

(中略)

つまりS&Wを買収することが、電力会社との関係を修復する条件だったのだ。前述の東芝関係者は「S&Wを買収しなければ、WHは2015年中に減損処理に追い込まれていたかもしれない。資産査定などの時間は限られていたが決断せざるを得なかった」と振り返る。

そのような事情から、東芝がS&W買収・子会社化を発表したのは2015年10月28日だった。その直後の11月に、日経ビジネスが、(【スクープ 東芝、米原発赤字も隠蔽 内部資料で判明した米ウエスチングハウスの巨額減損】【スクープ 東芝、室町社長にも送られた謀議メール 巨額減損問題、第三者委の調査は“出来レース”だった】)等のスクープ記事を連発した。それによって、第三者委員会発足前に、当時の東芝執行部が、米ウエスチングハウスの減損問題を委員会への調査委嘱事項から外すことを画策し、その東芝執行部の意向が、東芝の顧問である法律事務所から第三者委員会の委員の弁護士に伝えられ、原発事業をめぐる問題が第三者委員会の調査対象から除外されたことが明らかになった。しかも、その中で、当時の田中社長が、社内メールで「今回の課題は原子力事業の工事進行案件と初物案件(ETCなど)であって、それ以外は特に問題がないという論理の組み立てが必要だ。そうでなければ、会社の体質、組織的な問題に発展する。」と述べていたことも明らかになった。東芝内部者からの告発によると思われるスクープ記事で、問題の本質の隠ぺいの事実が否定できない事態に追い込まれていったのとほぼ同じ時期に、東芝執行部は、S&W買収によってWHの減損処理を必死に先送りしようとしていたのである。

今回、原子力事業で更なる巨額の減損の見通しが明らかになったことで、東芝の再建は極めて厳しい状況に追い込まれることとなった。債務超過を免れるための資本の増強も検討されているようだが、特設注意市場銘柄に指定され、12月19日に、その期間が来年3月まで延長された東芝は、公募増資を行うことは困難で、金融機関に支援を求めても、主力事業の二つのうちの原発事業が巨額の損失を出し、現時点では好調な半導体事業も、巨額の投資を継続しないと競争に取り残されかねない、というのでは、金融機関が資本増強や巨額の融資に応じることは常識的には困難だろう。2日間の株価の暴落も、そのような惨状を見越してのものといえる。

今回の突然の巨額損失の公表に関して、16年3月期決算の段階で、正確な金額は確定できなくても、損失の発生の可能性を何らかの形で決算に反映させられなかったのかという点は、会計処理上の問題として検討する必要があろう。また、会計処理として問題がなかったとしても、17年3月期で黒字転換の業績見通しを公表していたのに、一転して巨額の損失を計上して赤字転落の見通しになったことで、投資家、株主の利益を著しく損なったことは事実であり、今回の問題も、広い意味での「東芝会計不祥事の続篇」と言うべきだろう。

そして、今回、明らかになったことは、結局、東芝という企業は、社長が誰に代わっても、「隠す文化」の組織的体質から脱却できないということだ。綱川智社長は、会見で、「コストを見積もったのが10月初めでWHが再び資料をチェックして報告したのが12月初め。私は今月半ばに報告を受けた。」と述べたという(日経)。会社の屋台骨を揺るがすほどの事態が生じているのに、最近までそれを知らなかったと強弁してはばからないというのが、東芝の社長が歴代共有してきた特質のようだ。

先月、一連の東芝会計不祥事の追及で、誌上で内部告発の募集まで行ってスクープ記事を連発し、独走してきた日経ビジネス誌から、12月19日号で特集する「次代を創る100人」のうちの1人の東芝の綱川社長について、記事の執筆依頼が来た。これまで東芝を徹底批判してきた私が同社の現社長についてコメントするとすれば、極めて厳しい内容になるのは当然だ。それでも良いのかと聞いたら、「構わない」とのこと。以下は、私が寄稿した綱川社長についての記事の全文だ。

2017年は、東芝が本当に変わることができるか試される1年になる。会計不祥事では、「偽りの第三者委員会」を使って問題の本質を覆い隠したので、結局、抜本的な改革はできず、組織にしみついた「隠す文化」は変わっていないのではないか。

多くの企業不祥事に弁護士として関わってきたが、教訓として活かしていく企業と忘れ去ろうとする企業の二つに分かれる。2007年に一連の食品不祥事で危機的事態に陥った不二家は前者だ。不祥事を風化させず、取組みを継続していくため、「食品安全の日」を設け、毎年、社員全員による行事を開催している。これまでの対応を見ると東芝は後者の典型のように思える。ブランドと信頼を失墜させた不祥事を次の世代へと語り継いでいくことは経営陣の責務でもある。

創業141年、培ってきた技術の底力を活かすためには、組織を根底から変える姿勢を世の中に見せることが不可欠だ。

発売後に送られてきた同誌を見ると、他の99人についての記事は、ほとんど例外なく、賞賛と期待に埋め尽くされており、まさに「次代を創る100人」に相応しい。その中で、私が書いた綱川社長に関する記事だけが、異彩を放っている。

日経ビジネス編集部は、今回の原発事業での巨額損失公表を見通していたわけではないだろう。それにしても、同誌の徹底した東芝批判の報道姿勢には、改めて驚嘆させられる。

 

 

 

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ASKA氏を不起訴にした「異常に弱腰」な検察、美濃加茂市長事件での「無謀極まりない起訴」との落差

東京地検は、12月19日、覚せい剤取締法違反(使用)容疑で逮捕されていた歌手のASKA氏(以下「ASKA」)を、嫌疑不十分で不起訴処分とし、釈放した。

昨夜、フジテレビのニュース番組の電話取材を受けたが、「尿から覚せい剤反応は出ていた」「出したものは尿ではなくお茶だったと言っている」という説明だが、一体なぜ、不起訴となったのか、わけがわからなかったので、コメントのしようがなかった。

その後のニュースで、大まかなことがわかった(時事)。

①地検は、ASKAが「尿」として任意提出した液体からは覚せい剤成分が検出されたが、液体が本人の尿と立証するのは困難だと説明。

②捜査関係者によると、ASKAは逮捕後、液体について「あらかじめ用意したお茶を尿の代わりに入れた」などと説明。液体が少量だったため再鑑定はできなかった。

③採尿は、ASKAが「自宅内であれば応じる」と話したため、自宅トイレで実施。この際、警察官らが背後に立って確認したが、手元は見えなかった。

とのことだ。

それにしても、覚せい剤事件の結末として、全く信じられない話だ。

もし、被疑者が提出した液体が、尿ではなく、被疑者が説明するように、あらかじめ用意していたお茶だとすると、なぜそこに覚せい剤が含まれていたのか。もし、警察官が自宅に来た時に、意図的に「覚せい剤を含有するお茶」を用意していたのだとすれば、微量とは言っても、覚せい剤の所持罪が成立するはずだ。その中に、被疑者がわからないうちに覚せい剤が混入されたということも考えられない。

自宅での尿の任意提出の際に、排尿を直接確認していないなど警察官の対応に問題があったとしても、実際に、被疑者自身が提出した液体から覚せい剤が検出されているのに不起訴ということは、通常は考えられない。検察の判断は、全く不可解極まりないものだ。

奇しくも、ASKAの不起訴・釈放と同じ12月19日に、藤井浩人美濃加茂市長は、名古屋高裁での「逆転有罪判決」を受けて市長を辞任した。奇しくも、判決が出た日も、ASKAが逮捕されたのと同じ11月28日だった。

公文書偽造を含む巨額の融資詐欺を犯した「詐欺師」の供述を鵜呑みにし、しかも、現金の授受があったとされる現場に同席していた人物が、「席は外しておらず、現金の授受は一切なかった」と供述しているのを無視して、藤井市長を起訴した検察は、あまりに無謀で、大胆極まりない判断を行った(【「責任先送りのための起訴」という暴挙】)。一審判決で無罪とされたのは当然であり、それを逆転有罪とし、検察を救った控訴審判決は、常識では考えられない不当なもので、全く論外だ。(【”重大な論理矛盾”を犯してまで有罪判決に向かったのはなぜか】【被告人の話を一言も聞くことなく「逆転有罪」の判断ができるのか】不当判決説明会の動画は【こちら】

藤井市長に対して、無謀極まりない起訴を行い、一審無罪判決を受けたが、控訴審の「異常判決」に救われた検察。その検察が、ASKAの覚せい剤事件については、異常なまでに「弱腰な判断」を行った。一体どうしてしまったのか。

少なくとも、自宅のトイレでASKAが提出した液体に覚せい剤が含まれていたことは確かだ。体内か室内かに覚せい剤が存在していた事実をどう説明するのか。この事件を、このまま終わらせてしまったのでは、今後の覚せい剤事犯の捜査・処分に重大な支障が生じることになるだろう。

控訴審判決に対して即日上告した藤井市長は、不当判決と戦いながら引き続き市政を担うことへの市民の信任を求めて、出直し選挙に臨む意向を表明している。

ASKAの覚せい剤の(再犯)事件も、このまま終わらせてはならない。

 

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被告人の話を一言も聞くことなく「逆転有罪」の判断ができるのか~美濃加茂市長事件控訴審不当判決(村山浩昭裁判長)の検討(その2)~

 

前回の【”重大な論理矛盾”を犯してまで有罪判決に向かったのはなぜか ~美濃加茂市長事件控訴審不当判決(村山浩昭裁判長)の検討(その1)~】に続き、美濃加茂市長事件控訴審判決の不当性について具体的に述べていきたい。

今回の控訴審判決で、「逆転有罪」という判決が出ることは、我々弁護人だけでなく、マスコミ関係者、そして、おそらく、検察関係者にとっても予想外だったはずだ。その最大の理由は、被告人の藤井市長が控訴審の公判に毎回出廷していたのに、被告人質問どころか、法廷で一言も言葉を発する機会を与えられていなかったことだ。

「刑事事件で裁判にかけられる」と言われて、多くの人が思い浮かべる場面は、裁判の法廷で、裁判官に問い質される場面であろう。警察や検察の取調べに対しては、黙秘をすることも否認を通すこともできる。しかし、裁判にかけられると、法廷に立たされ、有罪・無罪の判決を言い渡す裁判官の前で、検察官・弁護人から、そして、最後には裁判官からも直接質問される。裁判の最初に「この法廷でも、言いたくないことは言わなくてもよいという権利があります」と黙秘権の告知が行われるが、身に覚えのない罪であれば、そのことをしっかり訴えて裁判官に理解納得してもらえなければ、無罪判決を得ることは期待できない。法廷で証言した場合は、供述内容だけではなく、話し方、態度、表情などあらゆる面から、「起訴事実を否認している被告人が言っていることは本当か」が裁判官に判断される。そういう意味で、否認事件の裁判での被告人質問は「裁判の核心」であり、それは、被告人にとっても最大の「緊張の場面」である。

一般的には、検察官の立証と弁護人の反証がほぼ終わった段階で被告人質問という心証形成のための重要な場面を経て、裁判所の判断が固められて、判決が言い渡される。一審が無罪判決の場合、控訴審において、一審判決を覆して有罪を言い渡すのであれば、控訴審裁判所も被告人質問を実施して、被告人に直接問い質して心証をとるのが最低限の要請であろう。

最高裁判所のホームページで公開されている「裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第2回)」の「高等裁判所における刑事訴訟事件(控訴審)の審理の状況」についての解説中に、2006年の司法統計に基づき控訴審の判決結果ごとの被告人質問実施事件の数が掲載されている。控訴審判決には、「控訴棄却」「破棄差戻し」「破棄自判」の3通りがあるが、一審判決を破棄して、自ら有罪・無罪を言い渡す「破棄自判」をした1474件の事件のうち、被告人質問が実施されていない事件は9.9%の146件に過ぎない。この146件の中には、「法令適用の誤り・訴訟手続きの法令違反」の場合や、被告人供述と無関係な証拠上の判断で有罪判決が覆って「無罪」が言い渡される場合など、被告人質問の必要性がない「破棄自判」が相当数あると考えられることからすると、被告人質問が行われないで「破棄自判」の「逆転有罪判決」が言い渡される事件はほとんどないことが、統計上も裏付けられている。

一審の被告人質問で、藤井市長は、現金授受は全くないことを訴えた上、市議時代の浄水プラントの導入に向けての活動も、中林の依頼によるものではなく、美濃加茂市民のための防災対策として積極的に取組んでいたことを明確に述べた。検察からは、4人の検事が入れ替わり立ち代わり、様々な質問を行ったが、覚えていることはしっかり答え、覚えていないこと、はっきりしないことは、その通り答えた。検察官からの質問は、ほとんどが的外れで、供述の信用性に疑問を生じさせるようなものではなかった(当ブログ【「空振り」被告人質問に象徴される検察官立証の惨状】)。被告人が弁護人・検察官の質問に答える様子や、その証言内容は、それまでの審理の結果を踏まえて被告人質問に臨んでいた裁判官にも十分に理解納得できる内容だったはずだ。一審の3人の裁判官は、その際の心証も含めて、被告人供述は信用でき、中林証言は信用できないと判断したのである。

ところが、控訴審では、一審で行われた被告人質問での藤井市長の供述を、裁判記録の中の速記録だけを読んで、「信用できない」と切り捨てたのである。

その理由は、

被告人は、原審公判において、各現金授受の事実をいずれも否認している。そして、それは、捜査段階から一貫している。しかし、被告人は、中林から現金を受け取ったことはないと明確に否定する一方で、中林が各現金授受があったとする際の状況について、曖昧若しくは不自然と評価されるような供述をしている。

というものだ。

(10万円の現金授受があったと中林が証言している)4月2日にガストで中林と会った際のことについは、

①メールのやり取りからすれば、当日会った目的の一つとして資料の交付があったはずなのに、被告人は、当日資料を受け取ったかどうかはっきり覚えていない、受け取ったことを否定するわけではないが、渡された資料の内容はちょっと覚えていない、同(2)の資料を見せられても、ガストでそれを見たという光景が思い出せないなどと述べている。また、同(1)のメールのやり取りからすれば相当多忙な中時間をやりくりして中林と会ったはずであるのに、当日に中林と何を話したのかも具体的な記憶がないなどと供述している。中林の供述からは、この日被告人と会った大きな目的の一つは被告人に現金を渡すことであったことが明らかで、また、中林は、被告人に対して、資料の中に現金入りの封筒を入れて渡したと供述しているところである。被告人としても、多忙な中でわざわざ時間を作って中林らと会ったのに、その目的や話した内容、渡された資料などについて、具体的な記憶がないなどと供述しているのは、やや不自然との感は免れない。

と述べている。

そして、(現金20万円の授受があったと中林が証言している)4月25日の山家でのやり取りについては

②中林と何を話したかはっきり覚えていない、浄水プラントの話も出たかどうか記憶にないし、資料を受け取ったかどうかもはっきり覚えていない、中林が当日どうして山家に来たのかも分からないなどと述べている。翌日のメールのやり取りでは、被告人自らが、中林からのメールに対して、山家での会合が盛り上がったことを認め、「本当にいつもすみません。」と感謝の意を表していることに照らすと、この被告人の供述にも不自然さが感じられる。

と判示している。

しかし、①については、藤井市長(被告人)は、その場で現金は全く受け取っておらず、一緒に昼食をしただけだと一貫して述べているのである。そういう藤井市長が、1年半も前に誰かとファミレスで短時間、昼食を一緒にした時のことについて、資料をもらったか否か、どのような話をしたのかなど具体的に覚えていることの方がおかしい。しかも、「多忙な中で時間を作った」のであれば、余計に細かいことは覚えていないのが普通であろう。

②についても同様だ。被告人は、その場でも、現金を受け取ったことを一貫して否認している。単に、Tと会って話をするために指定された居酒屋に赴いたら、その場に中林がいて、30分程度同席していただけだ。その時にどんな話をしたのかと聞かれても、細かく覚えているわけがないし、中林は何をしに来たのかなどと聞かれてもわかるわけがない。翌日のメールで感謝の意を表していることと、1年半も経った後に、その日のやり取りについて記憶しているかどうかということと、どう関係するのかも全く不明である。

裁判でこのような理屈が通るのだとすれば、他人と一緒に食事をしたりする時は、必ず話の内容や受け取った資料の内容をメモしておかなければならないことになる。会った相手が、後で、「現金を渡した」と言い出した場合、全く現金をもらったことなどなくても、その時の会話の内容や受け取った資料の中身について記憶が曖昧だと、「現金を受け取っていない」という話を全く信じてもらえない、ということになるのである。

結局のところ、被告人質問調書の中から、記憶が曖昧だと正直に述べている部分を拾い出して、被告人供述全体が信用できないと判断したのである。そのような理由で、多忙な公務をやりくりして控訴審の公判期日に毎回出廷した藤井市長の話を全く聞くことなく「逆転有罪」と判断することがどうしてできるのか。

本日、藤井市長は、近く市長を辞任し、選挙に出馬することで、不当判決と戦いながら、市長の職責を今後も全うしていくことへの市民の信任を問う意向を表明した。

藤井市長は、収賄事件で逮捕・起訴された後、保釈されて市長職に戻って以降、多くの市民に直接会って説明し、現金授受の事実が全くなく、自らが潔白であること、市議会議員時代、純粋に市民のために、災害対策としての浄水プラントの導入に尽力してきたものであることを、繰り返し、繰り返し説明し、市長の話を信じる圧倒的多数の市民や市議会の支持の下で、被告人の立場にありながら、市長職を務めてきた。

そして裁判では、一審の3人の裁判官が、藤井市長が法廷で述べたことを慎重に評価した末に出した結論が「無罪」であった。その結論を、市長の言葉を一言も聞くことなく、いともたやすく覆したのが今回の控訴審判決だ。

これまで何度となく市長の生の声を聞き、理解・納得してきた美濃加茂市民は、この判決を、どう受け止め、どう判断するのであろうか。

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”重大な論理矛盾”を犯してまで有罪判決に向かったのはなぜか ~美濃加茂市長事件控訴審不当判決(村山浩昭裁判長)の検討(その1)~

前回のブログ記事【村山浩昭裁判長は、なぜ「自分の目と耳」を信じようとしないのか】でも書いた「名古屋高裁刑事2部が、マスコミには配布されている判決要旨を、当事者の被告人・弁護人に渡すことを拒絶していた問題」のその後の動きとして、昨日(12月1日)午後、高裁から「判決謄本ができたので、今日の午後6時以降に交付できる」という連絡があり、先程、判決謄本(正式な判決書全文の謄本)を受け取ることができた。

11月30日には、藤井市長自身と森弓子市議会議長が美濃加茂市から名古屋高裁にまで出向いて判決要旨の提供を求めたのに、書記官に拒絶されたことをマスコミが報道したので、批判が高まるのを恐れて、判決書を大急ぎで完成させたということだろう。

しかし、今回のように、自治体の首長のような公職者が「有罪判決」を受けた際に、マスコミに渡されている詳細な判決要旨が、裁判長の「お心次第」で、被告人に提供することを拒絶することができるのであれば、判決内容について、正確な説明ができない被告人が政治的に追い込まれ、辞任に追い込まれるということにもなりかねないのであり、このようなことは、絶対に起こり得ないように、裁判所の取扱いを是正すべきだと思う。

とにもかくにも、今回の控訴審判決の正確な内容がようやく把握できたので、これから、「逆転有罪」という結論だけではなく、その理由がいかに不当なものかを順次解説することにしたい。

今回は、控訴審判決に根本的な「論理矛盾」があることを指摘する。

まず、一審での検察官の主張、一審判決の認定・判断、検察官の控訴趣意の大枠は、以下のとおりである。

①一審での検察官の主張

中林の贈賄証言は、関係証拠と符合し、供述内容が具体的で自然であることから、信用性が認められる。

②一審判決の認定・判断

ア 中林の贈賄証言が本件各現金授受の事実を基礎づける唯一の証拠である。

イ 中林の公判供述は、全体として具体的かつ詳細なものであり、不合理な内容も見受けられない。

(しかしながら)

ウ 捜査段階における中林の供述経過、記憶喚起の経過に関する中林の説明内容に疑義があること、重要な事実に関して変遷し、不自然であり、客観的な事実を示されて、それに符合するような供述を行った可能性がある。

エ 中林のような会社経営の経験があり、金融機関を相手として数億円の融資詐欺を行うことができる程度の能力を有する者がその気になれば、内容が真実であるか否かにかかわらず、法廷において具体的で詳細な体裁を備えた供述をすることはさほど困難なことではない。

オ 中林は、本件証人尋問に臨むに当たり、検察官との間で相当入念な打合せをしてきたものと考えられることから、公判廷において、客観的資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で、不自然かつ不合理な点がない供述となることは自然の成り行きと言える。

カ 中林が、融資詐欺に関して、なるべく軽い処分、できれば執行猶予付き判決を受けたいとの願いから、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようとすることは十分にあり得る。

③検察官の控訴趣意

ア 中林証言を離れて、間接証拠によって認定できる間接事実から現金の授受の存在が推認される

イ 中林証言と整合する間接事実の内容や、中林の供述及び裏付けの経過、本件贈賄が捜査機関に発覚する前の時期に中林が捜査機関とは無関係な第三者に被告人に対する現金供与を自認する発言をしていたこと等の事実から、論理則・経験則等に従って検討すれば、中林の虚偽供述の可能性は全て否定される。

そこで、控訴審判決の認定・判断であるが、重要なことは、検察官が控訴趣意の柱として、趣意書の冒頭で詳述した③アについては、「中林の原審公判証言を離れ、本件に関する間接事実だけから各現金授受の存在が推認できるとは言えない」と判示して否定しただけでなく、控訴趣意の③イについても、「論理則、経験則から中林の虚偽供述の可能性が全て否定される」という検察官の論理は採用していないということである。

控訴審判決は、むしろ、一審での検察官主張に近い①のような認定手法によって、「関係証拠と符合し、供述内容が具体的で自然である」として中林証言の信用性を認め、一審判決が指摘した②ウの供述の変遷や不自然さについて、一つひとつ取り上げて否定したのである。

ここで疑問が生じるのは、検察官は、それ相当の理由に基づき、①の、一審での検察官の主張・立証では不十分と考えて、控訴趣意において、新たな立証の枠組みとして③のア、イを主張したと考えられるが、それをいずれも採用しないで、①だけで中林証言の信用性を認めることができるのか、という点である。

そこで、改めて控訴審の審理の経過を振り返ってみる必要がある。

【控訴審逆転有罪判決の引き金となった”判決書差入れ事件”】でも述べたように、控訴審では、まず、検察官の控訴趣意に関する事実審理が行われたが、それが終了した昨年12月11日の打合せ期日で、裁判長が、職権で中林の証人尋問を行うことを検討中であることを示唆し、2ヶ月余りの検討を経て、2月23日の打合せ期日に、裁判長が、職権証人尋問を実施することを決定した旨明らかにした。しかも、検察官には証人テスト(打合せ)を控えるようにという異例の要請があった。

検察官の控訴趣意に基づく事実審理が終了した段階で、その時点の証拠関係に基づき、中林証言の信用性が認められるかどうかについて、2ヶ月余りをかけて検討した末、それまでの立証では不十分だと判断したからこそ、異例とも言える控訴審での職権証人尋問が決定されたと見るべきであろう。

この職権証人尋問は、「記憶の減退」を理由に強く反対する検察官の意見を押し切って決定されたものであり、控訴審裁判所も相当な覚悟を持って決断したものだった(【検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審】)。

このような審理経過からも、検察官の控訴趣意に関する事実審理が終了した段階では、裁判所が、中林の証言の信用性が最大の問題になっている本件に関して、一審とそれまでの控訴審での審理の結果からは、公訴事実が合理的な疑いを容れない程度に立証されたとは言えないと判断していたことは疑う余地はない。

そこで、一切事前には情報を与えず、まさに中林の「生の記憶」を確認することで、中林の供述の信用性について、決定的な判断材料を得ようとして行われたのが、中林の職権証人尋問だったのである。

ところが、証人尋問の前に、融資詐欺・贈賄の罪で服役中の中林の下に、中林自身の裁判で弁護人だった東京の弁護士から、尋問事項に関連する資料として、藤井市長に対する一審無罪判決の判決書等が送られて差し入れられるという想定外の事態が起こった。そのため、中林は、その判決書に記載されている自分の捜査段階での供述や一審での証言内容をすべて把握して証人尋問に臨むことができることになったため、実質的には検察官と打合せを行ったのと同様に、中林の「生の記憶」を確認することができなくなってしまった。

証人尋問では、中林は、一審の証言とほとんど同じような証言を行い、「資料は差し入れてもらい、ざっと目を通したが、その直後、面会に訪れた弁護士から、『資料は読まないで、自分の記憶で証言してほしい』と言われたので、その後は読んでいない」と証言した。しかし、弁護人は、尋問項目ごとの中林証言と送付された判決書の内容との比較等から、中林が、入手した判決を熟読し、尋問項目に沿って証言内容を周到に準備していたことを論証し、証人尋問が行われることを聞いて資料入手を画策した中林の行動や、判決を熟読して証人尋問に臨んでいるのに、読んでいないと虚偽の証言をしていることからも、中林の意図的な虚偽供述は明白になったと主張した。

これに対して、検察官は、上記のような中林の証言を受けて、「当審中林証言は、骨格部分は一審中林証言と同様である一方、細部について記憶が減退している箇所等が存するというものであり、これを経験則に照らして素直に評価すれば、中林が記憶どおり証言しているからこそ、骨格部分は一審中林証言と整合し、他方で、時間の経過や供述経過という記憶に残りづらい事項に関する証言であることなどから、細部について記憶が減退していると評価すべきものである。」と主張した。

既に述べたように、この中林証人尋問が行われる前の段階において、控訴審裁判所が、公訴事実についての検察官の証明が不十分だと判断していたことは明らかなのであるから、この証人尋問での中林証言について、弁護人・検察官のいずれの主張を認めるのかで、控訴審の帰趨は決するものと考えられた。

この点について、控訴審判決は、以下のように判示している。

なお、中林については、当審においても事実取調べとして証人尋問を行った。これは、弁護人が主張し、かつ、原判決も指摘するように、原審における証人尋問に際して、検察官が入念な打合せを行ったため、中林の原審公判証言が、客観的な資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で、不自然、不合理な点がない供述となるのは自然の成り行きと評価されたことを考慮して、職権で採用し、検察官側の事前の打合せを控えてもらって、時間が経ったとはいえ、証人自身のそのときの具体的な記憶に基づいて供述してもらおうと試みたものである。しかし、受刑中の中林が、当審証言に先立ち、原判決の判決要旨に目を通したという、当裁判所としても予測しなかった事態が生じたことから、当裁判所の目論見を達成できなかった面があることは認めざるを得ない。したがって、当審における中林の証言内容がおおむね原審公判証言と符合するものであるといった理由で、その信用性を肯定するようなことは当然差し控えるべきである。

このように判示して、控訴審での証言が骨格部分で一審証言と整合するから証言が信用できるとする検察官の主張を排斥しただけでなく、控訴審の中林証言は、事実認定にも信用性の判断にも全く使わなかった。つまり、裁判所にとって「予測し難い事態」が生じたことから、控訴審での中林証人尋問は「なかったこと」にしたのである。

そうであれば、状況は、中林証人尋問が行われる前の時点に戻るのであり、中林の証言の信用性についての検察官の立証が不十分であるということになるはずである。つまり、有罪判決を書ける状況にはない、ということである。

しかも、上記判示では、原審における中林証言について、検察官との間で「入念な打合せ」が行われた原審の中林証言は、客観的な資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で、不自然、不合理な点がないものであっても、それだけでは信用性を認めることはできないという、一審判決の指摘②オを受け入れたからこそ、検察官との打ち合わせを排除した証人尋問を行おうとしたのである。

それにもかかわらず、控訴審判決は、原審の証言が、客観的な資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で、不自然、不合理な点がないということを理由に信用性を認めて、藤井市長に、逆転有罪判決を言い渡した。

このように、上記判示との関係から、控訴審判決の判断・結論は、根本的な論理矛盾を犯している。

少なくとも、事実審理が終了し、検察官・弁護人の弁論が行われて結審した段階では、中林証言の信用性を認めて有罪とするだけの材料はそろっていなかったことは間違いないと考えられる。それを、敢えて村山裁判長が上記のような明白な論理矛盾を犯してまで「逆転有罪判決」に至ったのがいかなる理由なのか、謎である。

 

 

 

カテゴリー: 藤井浩人美濃加茂市長 | 4件のコメント

村山浩昭裁判長は、なぜ「自分の目と耳」を信じようとしないのか

一昨日(11月28日)、控訴審逆転有罪判決を受けた藤井美濃加茂市長から、「判決要旨を入手して有罪判決について詳しく議会に説明するようにと強く要請されている」との連絡を受け、再三にわたって、名古屋高裁刑事2部の担当書記官に、「判決要旨」を交付してもらえるよう要請したが、「『判決謄本』ができるまで待ってほしい。弁護人には判決要旨は渡せない」との回答。それが、村山浩昭裁判長の方針なのだろう。

だが、判決言渡しの直後に、60頁以上に及ぶ判決要旨がマスコミに配布されており、美濃加茂市の担当記者は、みなその要旨を読んで取材している。いろいろコメントを求めてくる。ところが、当事者である藤井市長も、市民の代表が集まる市議会も、その判決要旨を入手できていなかった。

このような状況の中、本日、藤井市長が、直接、名古屋高裁に出向き、マスコミに配布されている判決要旨を交付してもらえるよう要請した。この要請には、森弓子美濃加茂市議会議長も、市議会を代表して同行し、同じように、市議会にマスコミ配布の判決要旨を交付してもらいたいと依頼した。

しかし、今回の事件を担当した高裁刑事2部の書記官は、「刑事2部(村山浩昭裁判長)としては、報道用の便宜供与として、マスコミには配布したが、当時者には渡さないという方針だ」との一点張りで、はねつけられてしまった。

「記者から写しをもらえば良いのではないか」と思われるかもしれない。しかし、前のブログ記事【控訴審逆転有罪判決の引き金となった”判決書差入れ事件”】でも述べたように、今回の事件で、我々弁護人は、最終弁論でも、控訴審での証人尋問の前に中林に藤井市長事件の一審判決要旨が差し入れられたことについて、「本来、判決要旨は、正確な判決報道をする目的に限定して裁判所から配布され、他の目的に使うことは固く禁じられているのに、マスコミから、事件の当事者ではない者に判決要旨が渡ったとすると重大な問題だ」と、強く主張している。そのような主張を行っている一方で、市長に、マスコミから判決要旨を入手するよう勧めることはできない。本来、刑事事件の判決要旨は、マスコミに配布された場合も、その後、他の目的に使用されないように厳重に管理されるべきであり、記者の判断で勝手に写しを渡すことを認めるべきではない。

それにしても、今回の控訴審で、「マスコミには判決要旨を渡すのに、被告人・弁護人には渡さない」という村山裁判長のやり方は理解不能だ。私の知る限りでは、これまで、マスコミに判決要旨を配布する場合は、当事者の検察官・弁護人にも渡すのが通例だ。判決は口頭で言い渡せばよく、その後、正式な判決書ができたら、被告人・弁護人に判決謄本を交付する、ということになっているので、それまでは、書面は一切渡せないというのも、「法律上は」間違ってはいない。しかし、その判決書の完成は裁判所次第であって、いったい何日後にできるのかもわからない。マスコミに判決要旨を配布するという「便宜」は、法律に基づかない「便宜」であるが、マスコミにその「便宜」を図るのであれば、その程度の「便宜」は、被告人・弁護人に対しても提供するのが当然ではないか。ましてや、今回の事件は、単なる一私人ではなく、現職市長の事件である。逆転有罪判決が報じられれば、その内容如何では、市議会で市長に辞職を求める動きが出ることも考えられる。説明が不十分であれば、市長は追い込まれることになる。村山裁判長は、自分が出した逆転有罪判決で、市長が政治的に追い込まれるのを望んでいるのだろうか。

ということで、判決要旨が入手できておらず、判決内容を正確に把握できないので、判決の詳細について書くことができないが、私なりに、今回、我々にとっては驚愕の判決が出たことに関して、わかってきたことがある。

一つは、村山浩昭という裁判長が、つい最近、他の一審無罪事件でも藤井市長に対する判決と同様の判決を出しているということだ。

名古屋弁護士会の金岡繁裕弁護士が、村山裁判長が最近出した逆転有罪判決のことを書いている【逆転有罪・・】というブログ記事によると、驚いたことに、そこで書かれている「逆転有罪判決」での事実認定のやり方、姿勢は、美濃加茂市長事件とほとんど同じようだ。金岡弁護士は、次のように書いている。

 第1審は、随所で検察官の立証不足を指摘した。

そこで検察官は、種々の証拠を新たに請求した。事実誤認を主張する論旨であるから、やむを得ない事由が必要になるが、全て第1審段階で可能・すべきものと見受けられた。そして今般の高裁判決も、そのとおり、「やむを得ない事由」はない、と認めた。

しかし、である。

高裁判決は、要旨「第1審の証拠関係からも第1審の事実誤認は相当程度明らか」と断じて、そのように、「自分たちは無罪だとは思わない」という姿勢に基づく職権探知を「制限される謂われはない」と開き直った。

「第一審の証拠関係」の中で最も重要なのは、裁判所で行った証人尋問、被告人質問などで、裁判官が直接、証人の証言や被告人の供述に接して形成した心証だ。被告人が無罪を主張しているのであれば、その被告人の言っていることが本当なのか。その被告人が罪を犯したと証言する証人の言っていることが本当なのか、自分の目と耳で確かめ、その上で有罪か無罪かの判断を下すのが、刑事裁判というものだ。

ところが、村山裁判長は、そんなことはお構いなしだ。「法律上、控訴審では、一審での証拠も含め、すべて事実認定の根拠にできるのだから、そのうちのどの証拠を使って、どのような判断をしようが、裁判長の自分が自由に好きなように考えればよい、一審の3人の裁判官が、直接話を聞いて『信用できない』とした証人の証言であっても、尋問記録という『書面』で判断して、合理的だとか、他の証拠と整合しているなどという理由で、『信用できる』と判断するのも勝手だし、一審で無罪判決を受けた被告人が毎回出廷し、ずっと目の前に座っていても、その被告人の話を聞きたくなければ、一度も聞くことなく、「有罪」を言い渡すことも全く自由にできるのが高裁の裁判長というものだ」と考えているようだ。

そんなことが、刑事裁判において許されてよいのか。それが刑事司法だと言えるのか。

特に、この事件は、5万6000人の市民を抱える首長である美濃加茂市長が収賄を疑われ、任意捜査当時から一貫して無実を訴え続けてきた結果、一審で無罪を得た後の控訴審である。逆転判決を下すことによる、美濃加茂市政、美濃加茂市民への影響に、少しでも思いをはせることができる裁判官であれば、一度も話を聞くこともなく、藤井市長の証言に信用性がないなどという判断ができるはずがない。

さらに重要なことは、今回の藤井市長の事件については、村山裁判長は、唯一の直接証拠である贈賄供述者中林の証人尋問を、裁判所が職権で行うという異例のやり方で、自ら直接その信用性を確かめる機会があったということである。その証人尋問は、検察官には事前の打合せを控えさせ、証人自身の生の記憶に基づいて供述させることを目的に行われたのに、それが、事前に受刑中の中林に藤井事件の一審判決書等の資料が送られたという、「予期せぬ事態」が発生したために、裁判所の目論見が実現しなかったことは、村山裁判長が、判決でも認めているとおりである。

しかし、実際に行われた中林の証人尋問では、裁判所の目論見に反するような資料の送付が行われた経緯や、中林が、控訴審で証人尋問を受けることついてどのように考え、どのような行動をとったのかということについて質問を行い、それに対して中林が証言した内容、その証言の姿勢等から、中林の証言が意図的な虚偽供述であるかどうかについての大きな手掛かりが得られたのである。

私は、証言内容から、中林が意図的な虚偽供述をしていることは、疑いの余地がなくなったものと確信した。弁護人最終弁論の冒頭で、控訴審での中林証人尋問の結果について25頁にわたって詳述し、中林が意図的な虚偽供述を行っていることは疑いの余地がないことを主張した。日頃は検察寄りの判決を予想することの多いマスコミも、今回ばかりは、控訴棄却無罪の方向で事前取材を進めていたようだ。

ところが、控訴審判決は、私が法廷で聞いた限りでは、この中林職権証人尋問の結果、中林の証言内容には「全く」触れていない。村山裁判長は、自分の目と耳でしっかり確かめることができたはずの中林の控訴審での証言を信用性の判断の根拠とせず、直接接していない、事件記録で見るだけの証言・供述に基づいて、直接接した一審裁判官が「信用できない」と判断した中林の一審証言を「信用できる」としたのである。そして、中林の控訴審証人尋問の結果に関する弁護人の主張も完全に無視し、判決では全く触れることもなかった。

村山裁判長にとって、刑事裁判とは何なのだろうか。生身の人間の生の声、生の表情を「自分の目と耳」で確かめるのではなく、事件記録、書面の上に存在している「事件」を、紙の上だけで片付けてしまえばよいということなのであろうか。

 

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