甘利問題、「政治的向かい風」の中で強制捜査着手を決断した検察

都市再生機構(UR)と建設会社との間の補償交渉に介入した甘利元経済財政再生TPP担当大臣の元秘書らが、同社総務担当者から多額の金銭を受領し、甘利氏自身も、大臣室等で現金を受領した問題(以下、「甘利問題」という)に関して、昨夜(4月8日)、東京地検特捜部が、URの千葉業務部と建設会社に家宅捜索に入ったことが大きく報じられている。

私は、最初に週刊文春で報道された時点から、ブログ等で「絵に描いたようなあっせん利得」と評し、衆議院予算委員会公聴会でも、「狭いストライクゾーンのど真ん中のストライクの事案」などと表現して、あっせん利得処罰法違反等による刑事事件の捜査の対象とすべき事件であることを繰り返し訴えてきた。

しかし、今年1月にこの問題が表面化し、その1週間後に甘利氏が大臣を辞任したが、その後も、検察が本格的に捜査を行おうとしている様子はうかがえなかった。「検察は参議院選挙までは捜査に着手しない」というような話も耳にしていた。

だからこそ、昨夜、NHKの「ニュースウォッチ9」の冒頭で、このニュースを聞いた時には、正直驚いた。

この問題での処罰の中心となるべき甘利事務所や秘書の側が対象となっておらず、URや建設会社側だけに捜索が行われたということから、それまで散発的に報じられていた捜査の動きと同様に、告発を受けて捜査をせざるを得ない立場の検察が「ガス抜き」のためにやっているのではないか、という見方もできなくはない。

それにしても、甘利氏が外交交渉を担当したTPP関連法案の国会審議が始まろうとしている時期、しかも、この7月に衆参同時選挙が行われる可能性も取り沙汰されており、その前哨戦として極めて重要な衆議院北海道5区の補欠選挙を直前に控えている時期だ。この時期の「甘利問題」での強制捜査着手というのは、政治的な影響は大きいと言わざるを得ない。

政治的影響を生じさせる事件、とりわけ選挙への影響が大きい強制捜査の着手に対しては、検察に対し、法務省サイドからの抑制が強く働く。まして、絶大な政治権力を握る安倍政権の意向に反する方向での捜査着手に対しては、強い反発が生じることは必至だ。

どの時期に、どのような捜査を行うかは、捜査機関側が判断する問題であり、政治的影響への配慮を優先させるなら、告発されていても、当面は本格的捜査を見合わせるということも考えられる。

それだけに、突然の強制捜査、しかも、夕方に着手し夜を徹して行われているというUR等に対する捜索差押というのは、捜査の方法としてもインパクトが強い。検察の本気度を示しているように思える。

捜索の対象に甘利事務所が含まれていないことも、この事件に関する証拠関係の特殊性と、事件の政治的影響を考えれば、捜査のやり方として考えられないものではない。建設会社の総務担当者は、甘利氏の秘書とのやり取りをすべて録音していると言われており、その点や現金授受について甘利事務所側の証拠隠滅は困難だからだ。

告発されている「あっせん利得処罰法違反事件」について言えば、事件を起訴できるか否かの最大のポイントは、「国会議員の権限に基づく影響力の行使」があったと認められるか否かであり、その点については、「UR」に対する捜索は極めて重要な意味を持つ。甘利事務所側への強制捜査は政治的影響に最大限に配慮する法務省側の意向の下で高検・最高検に了解を得ることは困難なので、まず、告発事件のあっせん利得処罰法違反の捜査に関して、現時点で最も重要といえるUR側への捜査を先行させるというやり方は、あり得る。そのような観点から、UR側への捜査を進めていたところ、UR側の対応から任意捜査では事実解明が困難だと判断して強制捜査着手を決断したのであろう。

もちろん、甘利事務所側を強制捜査の対象としなければ、URへの働きかけへの甘利大臣個人の関与について十分な証拠を得ることが困難であることは否定できない。しかし、まず、現時点で可能な範囲での最大限の積極捜査としてUR側等への捜索を行うなどして、秘書に対するあっせん利得処罰法違反の証拠を固め、その捜査の目途が立った後に、甘利氏自身の関与の解明を行うという方法も、捜査の進め方として十分にあり得る。

大阪地検の不祥事など一連の不祥事以降、旧来の「検察が考えたストーリーどおりの供述調書」をとることを中心とする捜査が行えなくなり、それ以降、目ぼしい成果をほとんど挙げることができなかった特捜検察。しかも、安倍政権への政治権力の一極集中が進み、政権側の意向を忖度せざるを得ない状況の検察にとって、「甘利問題」への本格捜査へのハードルは相当高かったと思われる。「絵に描いたようなあっせん利得」に対する検察の積極的捜査を当然視し、期待する発言を続けてきた私も、内心では、「たぶん今の検察には無理だろう」というあきらめに近い思いが強かった。それだけに、今回の、この時期の強制捜査着手は、意外であった。

「甘利問題」の刑事事件としての評価、捜査のポイント等については、今年1月以降、【甘利大臣、「絵に描いたようなあっせん利得」をどう説明するのか】【甘利大臣をめぐる事件で真価を問われる検察】【甘利問題、検察が捜査着手を躊躇する理由はない】などのブログで繰り返し述べてきた。甘利氏の政治家としての経歴、事件当時のポジション等からして、あっせん利得処罰法違反の要件としての「国会議員の権限に基づく影響力の行使」を立証することは十分に可能だと考えられる。また、補償交渉での要求が不当なものであれば、刑法の「あっせん収賄」に該当する可能性すらある。

今回のUR側等への捜索に関しては、「政治的な強い向かい風」の中での強制捜査に着手にした東京地検特捜部の決断に、まずは敬意を表したい。そして、今後、事件の真相解明に向け、幾多の困難を乗り越えて捜査が遂行されていくことを強く期待したい。

 

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八田氏国賠訴訟、「控訴違法」で窮地に追い込まれた国・検察

美濃加茂市長事件では、現職市長を起訴した収賄事件で一審無罪判決を受け、組織の面子だけにこだわって無謀な控訴をした検察は、控訴審での立証が破たんし、現職市長の潔白が一層明白になるという、「泥沼」に追い込まれている【検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審】。その一方で、検察の「不当な控訴」をめぐるもう一つの裁判が佳境に入りつつある。

それまでは有罪率100%だった東京国税局が告発し、東京地検特捜部が起訴した脱税事件で、一審無罪判決、検察官控訴棄却で無罪確定という全面勝利を勝ち取った八田隆氏(【勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか】)は、2014年5月16日、国税局の告発、検察の起訴、控訴が違法だったとして、国に損害賠償を請求する訴訟を提起した(【八田隆氏が国家賠償請求訴訟で挑む「検察への『倍返し』」】)。

この訴訟では、八田氏の弁護人として八田氏の刑事裁判で検察と戦った小松正和弁護士、喜田村洋一弁護士に、元裁判官の森炎弁護士と元検察官の私(対談本【虚構の法治国家】(講談社の共著者))が加わって結成した原告代理人弁護団は、告発・起訴・控訴それぞれが違法であったことを主張し、被告の国側と戦ってきた。(八田氏は、それを「ドリーム・チーム」と称している。【#検察なう(393)「国家賠償訴訟に関して(2)~代理人ドリーム・チーム結成!」】

美濃加茂市長事件で、主任弁護人として、検察の不当極まりない控訴を受けて立ち、戦っている最中の私は、八田氏の国賠訴訟でも、検察の控訴の違法性(控訴違法)の主張を主に担当している。「無罪判決に対する検察の控訴」をめぐる戦いを、まさに同時並行で進めてきた。

美濃加茂市長事件では、贈賄供述者の控訴審での職権証人尋問という異例の展開に、検察は「証人テスト」も封じられて手も足も出せない状況にある。(この検察の惨状については、既に【前掲ブログ】で詳述。)

八田氏国賠訴訟での「控訴違法」をめぐる争いでも、検察の意向に沿って行われていると思える被告・国側の対応が混乱・迷走を続けており、原告が求めている控訴検察官の証人尋問をめぐって、国側は窮地に追い込まれている。

米国では、一審で無罪判決を受けた被告人に対して、検察官が控訴を行うことは、「二重の危険の禁止の法理」に反するとして、許されていない。我が国でも、学説では、「何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。」と定める憲法39条の規定が、米国の「二重の危険の禁止の法理」に由来するものだとして、無罪判決に対する検察官控訴は憲法に違反するとの見解が有力に主張されてきたが、最高裁判例では合憲とされ、実務上は、容認されてきた。

しかし、違憲ではないとしても、野放図に認められるべきではないのは当然だ。

三審制の下で、被告人の側が、有罪判決を不服として上級審による救済を求めることが認められるのは当然だが、検察官が、一審の無罪判決を覆そうとして控訴することは、いかなる場合にも許されるというものではない。少なくとも、検察の実務においても、検察官側からの控訴は、検察内部での慎重な検討を経て、控訴審で新たな証拠を請求し、採用される可能性がある場合など、一審無罪判決が覆せる十分な見通しがある場合でなければならないと考えられてきた。

そして、裁判員制度の導入に伴って、控訴審のあり方の見直しなどが議論され、控訴審では第1審の判断を尊重すべきという主張が行われたことを受け、平成24年2月13日の最高裁判決で「控訴審が第1審判決に事実誤認があるというためには,第1審判決の事実認定が論理則,経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要であるというべきである。」とされた。

これによって、無罪判決に対する検察官の控訴も、さらに制約を受けることになった。

控訴審が一審の無罪判決を覆すことができるのは、「一審判決に事実誤認がある」と判断した場合だ。最高裁で、その「事実誤認」について、「論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要」との判断が示されたため、検察官が「事実誤認」を理由に一審無罪の破棄を求めて控訴するためには、一審判決が「論理則、経験則に反していること」を具体的に主張できることが必要になったのである。

ところが、八田氏の脱税事件では、検察官控訴を慎重に判断する検察内部における慣例も、平成24年最高裁判例による制約も、完全に無視された。

この事件の控訴審では、検察官は、一応「新証拠の請求」を行っているが、すべて一審段階で存在していた証拠である。控訴審で請求する証拠については、「一審で請求しなかったことについてやむを得ない事由」があることが必要であるが、この制約の下で、新証拠が採用される可能性は全くなかった。また、検察官の控訴趣意書での主張は、言葉の上では、「一審無罪判決の論理則、経験則違背」を主張しているように見えるが、その中身は、ほとんど一審での主張の繰り返しで、「論理則、経験則に照らして不合理であることを具体的に示すこと」など全くできていない。

実際に、控訴審では、第一回期日で、検察官の証拠請求はすべて却下され、ただちに結審、控訴棄却の判決が言い渡された。検察官の控訴は「問答無用」で斬り捨てられたに等しい。

この事件については、そもそも国税局が告発したことも、その告発事件を検察官が起訴したことも、全くデタラメだが、何と言っても最も明白に違法なのは、一審で無罪判決が出た後に、それを覆す見込みが全くないのに、検察官が無理やり控訴したことだ。

控訴違法に関する原告側の主張に対して、被告・国側は、凡そ的外れな主張を繰り返してきた。

上記の「平成24年最高裁判決」については、

刑事事件における控訴審の審査の在り方を示したものであり、検察官による控訴申立ての判断基準や要件を示したものでもなければ、検察官による控訴申立ての国賠法上の違法性判断基準を示したものでもない

などと述べ、

検察官は、第一審の事実認定が不合理であることを『具体的に』示すことができない場合に控訴申立てをしても国賠法上違法ではない

とまで言い切ったのである。これはすなわち、控訴審での主張や立証と関係なく、検察官が、「あいつは有罪だ」と思っていれば控訴していい、という主張だ。

しかし、一審無罪判決に対して検察官が控訴するとすれば、無罪という結論を導いた事実認定が間違っている(事実誤認)と主張して、控訴審で、その主張を認めてもらい、無罪判決を覆すことが目的のはずだ。

国側の主張は、検察官は、公訴権(刑事事件を起訴する権限)を自由に行使できるのと同様に、無罪判決に対する控訴も、したいと思えば自由に行うことができ、控訴がどのような結果に終わっても一切責任を問われないという、まさに「検察の独善」そのものだといえよう。

大阪地検特捜部の村木厚子氏の冤罪事件や証拠改ざん事件で厳しい社会の批判を浴び、「検察の理念」を定めるなど、抜本的な改革を迫られた検察組織である。「有罪」だと判断し「正義」だと思えば、無罪判決に対する控訴でも何でもやることができる、という考え方が、国民に許容されないのは当然であろう。

平成24年の最高裁判決以降、無罪判決に対する検察官の控訴の違法性が争われた事例での裁判例はまだ出ていない。八田氏の国賠訴訟は、その点についての貴重な先例になる可能性がある。

この点に関して重要なことは、検察官の権限と責任に関する法的枠組みが、検察という組織と一般の行政庁とでは大きく異なるということだ。

一般に、官公庁では、その長である大臣が有する権限を各部局が分掌するという形で権限が配分されているが、検察庁では、検事総長、検事長、検事正などの職にあるからといって、刑訴法上、特別の権限があるわけではない。勾留請求、起訴、上訴など刑訴法上の権限は、全て「検察官」個人に与えられている。

検察庁法1条は、「検察庁」と「検察官」の関係について、「検察庁は検察官の行う事務を統括するところとする」としている。これは、個々の検察官は独立して検察事務を行う「独任制の官庁」であり、そのような個々の検察官の事務を統括するのが組織としての「検察庁」だという趣旨だ。

検察庁内部では、上司は各検察官に対して、各検察官の事務の引取移転権(部下が担当している事件に関する事務を自ら引き取って処理したり、他の検察官に担当を替えたりできる権限)を有している。だから、主任検察官と上司との意見が異なる場合は、上司が引取移転権を行使することで、主任検察官とは異なった処分を行うことはあり得るが、部下に自分の意見を強制することはできない。

事件を担当する検察官は、証拠を精査・検討して、権限を行使するかどうかを判断する。その検察官個人の判断については、検察庁内部の決裁システムによって「組織としての承認」を受けた上で、実際の権限を行使することになるが、刑訴法に基づく権限自体は、検察官個人に帰属しているので、権限行使についての責任も、組織ではなく検察官個人に帰属するのである。

控訴するか否かは、検察庁にとって極めて重要な判断であり、地検の内部での検討の後に上級庁の高検との協議を行い、場合によっては最高検との協議も行われる。そして、事件を起訴した検察官や公判を担当した検察官ではなく、その地方検察庁の検察事務を統括する立場の次席検事が自ら検討した上で控訴を決定し、控訴申立書に署名して控訴を行うのが通例だ。本件では、控訴申立書を書いて、裁判所に対して控訴の手続きをとった当時の東京地検次席検事のI検事が、控訴申立ての責任を負うのであり、過失の有無・違法性も、I検事個人の認識や行為から判断されることになる。

当然、一般的には、控訴の責任を負う立場にある検察官自身が、一審無罪判決の内容や証拠関係を検討した上で、控訴審で無罪判決を覆せる見通しが十分にあると判断して、控訴が行われる。

しかし、本件に関しては、そのような慎重な検討が行われないまま、I検事が控訴申立てを行った可能性がある。

国税当局と検察とはかねてから深い関係にある。国税が告発相当と判断した事件については、必ず両者で「告発要否勘案協議会」が開かれた上で、告発するかどうかが判断される。その告発要否勘案協議会で検察官の了承を得て国税局が告発した事件については、不起訴にはしないというのが「不文律」である。その告発事件に対して一審無罪判決が出た場合、国税局との関係からは、控訴せずに一審で無罪を確定させることなどできないというのが「検察の立場」であろう。そうなると、東京地検次席検事として、「検察の立場」を守るべき中心的地位にあるI検事は、判決内容や証拠関係とはかかわりなく、「控訴しかあり得ない」と判断して、一審判決を覆せる見込みが全くないにもかかわらず無謀な控訴を行ったのではないか。

そのように推測するもう一つの根拠は、控訴の違法性の判断基準に関する被告の国側の主張内容だ。前述したように、被告は、「検察官は、第一審の事実認定が不合理であることを『具体的に』示すことができない場合に控訴申立てをしても国賠法上違法ではない」などという凡そ世の中に受け入れられるはずもない主張を続けている。そのような判断基準を前提にしないと、I検事が行った控訴の違法性を否定することができないからだとしか考えられない。

これらの根拠に基づいて、東京地検次席検事だったI検事の控訴申立てについて、原告は、次のような具体的事実を主張した。

東京地方検察庁検察官(I次席検事)は、本件一審無罪判決が出された時点で、東京国税局が告発し東京地検特捜部が起訴した脱税事件についての一審無罪判決は承服し難いものと考え、控訴することを決断したものであり、判決書を検討することも、証拠関係を直接確認することもせず、第1審判決の事実認定が論理則・経験則に照らして不合理であることを具体的に示すことができるか否か、控訴審において有罪判決を得る見込みがあるか否かなどの検討を行わないまま、本件控訴申立てを行った。

ところが、被告は、この具体的事実について、

原告の主張する判断枠組みは採用し得ない独自の見解であり、これによって控訴申立てが国賠法上違法であるかが判断される余地はない(そのため、上記に対して認否を行う必要を認めないものである。)

などと述べているのである。

原告の「法的枠組みの主張」は、平成24年最高裁判例を踏まえた、十分に根拠のあるもので、「独自の見解」などと言って済ませられるようなものではない。裁判所が採用する可能性がないなどとは到底言えないはずだ。ところが、被告・国は、原告の主張事実に認否をしようとせず、最終的に、裁判長から「被告は原告の事実主張に対して『沈黙』でよいのか」と念押しされて、ようやく「検討する」と言っている始末だ。

認否についても、当然、検察庁側の意向を確認しているものと思われるが、「I検事が判決内容も証拠も検討せずに、控訴申立てを行った」と主張されているのに、それをただちに否定すらできないというのは、この事件での控訴が、いかに不当極まりないものであったのかを端的に示していると言える。

有罪率99.9%という圧倒的に不利な状況の下で、無実を訴え続けて裁判を戦い抜いた者にとって、また潔白を信じて支援してきた者にとって、一審無罪判決は、まさに「待ちわびた春」だ。その「春」を土足で踏みにじる権限が、検察官に与えられていいはずはない。無罪判決を覆す見通しもないのに、組織の面子維持、結論先送りのために控訴することなど、絶対に許されてはならない。そのような控訴を行った検察官と検察の組織は、当然の控訴棄却という結果に対して、厳しい責任を問われるべきだ。

一審無罪判決を覆す見込みがないのに行われた無謀な控訴について、その権限行使を行った検察官が、判決内容や証拠関係をどれだけ検討し、どの時点で控訴を決断したのか。八田氏の国賠訴訟で真相を明らかにすべき重要なポイントだ。

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最終局面を迎えた東芝会計不祥事を巡る「崖っぷち」

今月発売の文芸春秋4月号の特集「アベノミクス崖っぷち」の中の【スクープ・東芝「不正謀議メール」を公開する】と題する記事によって、東芝会計不祥事に関して注目すべき事実が明らかになった。

昨年7月の東芝第三者委員会報告書公表以降、新聞、テレビ等の多くのメディアが、「会計不正を主導した経営トップを厳しく断罪する第三者委員会報告書」によって歴代3社長が辞任に追い込まれたことを大々的に報じ、それによって、「幕引き」の雰囲気が醸成される中、誌面で東芝内部者に内部告発を呼びかけるという異例の対応まで行って、東芝会計不正の徹底追及を続けていたのが日本を代表する経済誌「日経ビジネス」であった

私は、当ブログ(【監査法人に大甘な東芝「不適切会計」第三者委員会報告書】)、日経ビジネスオンライン(NBO)(【東芝は「社長のクビ」より「監査法人」を守った】【「東芝不適切会計」第三者委員会報告書で深まる混迷】(プレジデントオンライン)、【「問題の核心」を見事に外した第三者委員会報告書】(岩波・世界9月号)等において、報告書の内容に重大な疑問があることを指摘し、「第三者委員会を中心とする東芝の不祥事対応」を徹底的に批判してきた。

そこでは、

①会計不正の問題なのに、不正の認識の根拠となる監査法人による会計監査の問題が委嘱の対象外とされていること、

②調査の対象が、「損失先送り」という損益計算書(P/L)に関するものに限られ、原発子会社の巨額の「のれん代」の償却の要否等、会社の実質的な財務基盤に関わる貸借対照表(B/S)項目は対象から除外されていること

などからすると、第三者委員会の調査は、意図的に問題の本質から目を背けようとしているとしか思えないことを特に強調してきた。

そして昨年11月に、日経ビジネスが、本誌とNBOにおいて、内部告発によると思われる【スクープ 東芝、米原発赤字も隠蔽 内部資料で判明した米ウエスチングハウスの巨額減損】【スクープ 東芝 減損隠し 第三者委と謀議 室町社長にもメール】という二つの衝撃的なスクープを報じたことで、東芝問題をめぐる状況は激変した。

これらの記事から、第三者委員会発足前に、当時の田中久雄社長、室町正志会長(現社長)、法務部長(現執行役員)等の東芝執行部が、米国原発子会社の減損問題を委員会への調査委嘱事項から外すことを画策し、その東芝執行部の意向が、東芝の顧問法律事務所である森・濱田松本法律事務所から、第三者委員会の委員の松井秀樹弁護士に伝えられ、原発事業をめぐる問題が第三者委員会の調査対象から除外されたことが明らかになった。

その直後に出したブログ【偽りの「第三者委員会」で原発事業の問題を隠蔽した弁護士と東芝執行部】で、私は、

記事の内容が事実だとすると、東芝の会計不正への対応で中心とされてきた「第三者委員会スキーム」は、世の中を欺くための手段として使われた「壮大な茶番」だったことになる。

と述べた。

今回の文芸春秋の記事では、東芝社内でやり取りされたメールに基づき、以下のような事実を報じている。

(ア)会計監査人の新日本有限責任監査法人(以下、「新日本」)が、米国原発子会社の減損に関して、東芝に厳しい指摘をしていた。

(イ)田中社長を始めとする会社執行部は、この新日本の指摘を「受け入れがたい」として徹底して戦う姿勢であった。

(ウ)新日本の意見を封じ込めようとする東芝側の画策には、同じ大手監査法人の有限責任監査法人トーマツ(以下、「トーマツ」)の100%子会社のデロイトトーマツコンサルティング(以下、「DTC」)が深く関わっており、新日本が崩せない「工作」を東芝に授けていた。

(エ)田中社長は、厳しい指摘をしてくる新日本に対して、「翌期からの監査法人(会計監査人)の変更も辞さない姿勢」で臨むよう財務部長に指示していた。

(オ)DTCは、原発子会社の減損対策等に関する対応助言メモについて、対外的には東芝の社内メモのように装うことで、DTCの関与を隠蔽するよう東芝側に要請していた。

(カ)東芝の会計不正の第三者委員会の委員に就任した公認会計士の一人は、直前までトーマツの業務執行社員であったうえ、調査補助者には「デロイトトーマツファイナンシャルアドバイザリー合同会社」が起用された。

(キ)東芝財務部から、監査法人のヒアリング対象になる幹部社員向けに、極秘の対策マニュアル(真実を隠蔽するための「想定問答集」)が配布されていた。

文芸春秋の記事に書かれていることが真実だとすると、東芝は、新日本に会計監査を任せる一方で、競合する大手監査法人であるトーマツの子会社から、新日本の監査意見に対抗するための「工作」の伝授を受け、会計不正が発覚するや、その不正調査に、会計監査対策に関わっていたトーマツ傘下の公認会計士を起用したことになる。

会計監査人の新日本に対して東芝側が虚偽の資料を提出したり、虚偽説明を行ったりしていた事実があることは、第三者委員会の報告書でも認めている。そのような虚偽資料・虚偽説明に、DTCがどこまで関わっていたのか、トーマツ側にどの程度の責任があるのかはわからないが、東芝の監査対応に深く関わっていたトーマツの関係者が第三者委員会の調査を主導していたことは、委員会の調査や判断の公正さについて、新たに重大な疑念を生じさせるものと言えよう。

会計不正の問題なのに、なぜ、不正の認識の根拠となる監査法人による会計監査の問題が第三者委員会の調査の対象外とされたのかという当初からの疑問(前記①)に関しても、第三者委員会の委員の一人がトーマツの公認会計士で、調査補助者もトーマツの関連会社だったことと無関係ではないように思える。監査法人に関する問題を突き詰めていくと不正が新日本に発覚しないようにするための「工作」に加担したトーマツ自身にも跳ね返って来かねないという懸念が、監査法人問題が調査対象から除外される事情の一つになった可能性もある。

文芸春秋の記事では、

不正の振り付けをした会社が不正の調査をする。おまけに、どちらの仕事も費用を払うのは「被疑者」の東芝である。茶番としか言いようがない

と述べている。そうであるとすると、東芝の「第三者委員会スキーム」は、既に私が指摘しているように、委員会を設置した東芝執行部と第三者委員会の関係という面で「茶番」であっただけでなく、調査を担当し、補助する公認会計士の立場という面でも、世の中を欺くための手段として使われた「茶番」だったことになる。

今回の記事で明らかになった東芝社内のメールのやり取りは、東芝会計不祥事の核心が原発事業をめぐる会計処理上の問題であったこと、東芝執行部が、それを隠ぺいするためにいかなる手段も辞さない姿勢であったことを窺わせるものである。

東芝の財務部門から、新日本のヒアリング対象者に配布されていた「極秘のマニュアル」にDTCがどのように関わっていたのか、DTCの東芝の財務部門に対する指導・助言が、東芝の財務部門や事業部門が行っていた監査法人への虚偽説明にどのように関係していたのかなどは、文芸春秋の記事からは不明であるが、記事に掲載された東芝社内のメールのやり取りからは、東芝の新日本への虚偽の資料提出・説明に何らかの形でDTCが関わっていたことが疑われても致し方ないと言えよう。

文芸春秋の記事で明らかになった事実は、最終局面を迎えていると思われる証券取引等監視委員会による金融商品取引法違反(有価証券報告書虚偽記載)による告発の動き、そして、検察当局による刑事事件の捜査での東芝歴代経営幹部の刑事責任追及にも相応の影響を与えるものと言えよう。

第三者委員会報告書が公表され、歴代三社長が辞任を表明した直後から、東芝経営幹部が粉飾決算で刑事責任を追及される可能性についてメディアから質問を受ける度に、「その可能性は極めて低い」と答えてきた。少なくとも、第三者委員会報告書には、経営トップ主導の不正会計を印象づけるセンセーショナルな表現は並んでいても、経営トップの「不正の認識」を具体的に裏付けるような事実はほとんど指摘されていなかったからだ。

【NBOのインタビュー】でも述べたように、東芝経営陣が会計不正を認識していたとすれば、監査法人を「だます」か、監査法人に「見逃してもらう」かのいずれかを具体的に認識していたはずだ。監査法人との関係というポイントを見事にスルーしている第三者委員会報告書では、東芝経営陣の不正を立証することは到底できないというのが私の見方だった。しかし、文芸春秋の記事に掲載されている東芝社内のメールからも、田中社長ら東芝幹部が、DTCの指導・助言を受けながら、新日本の会計監査での指摘に対抗しようとしていたことが窺われる。会計監査人たる新日本の意見を「受け入れがたい」とし、それを抑え込もうとしていたとすれば、会計不正の認識があったことの疑いを強めるものだと言えよう。

東芝会計不正を、「粉飾決算の刑事事件」として立件する上で重要なことは、「粉飾の動機」の解明だ。東芝経営トップが不正な会計処理を行ってまで守ろうとしたのは何だったのか。その点も、調査対象を、4つの事業部門の「不適切会計」に限定した第三者委員会報告書では、全く明らかにされていなかったが、前記の日経ビジネスの一連のスクープ記事と、今回の文芸春秋の記事を総合すれば、東芝の会計不正の核心が米国原発子会社の減損など原発事業をめぐる問題であることが強く疑われる。

しかし、東芝会計不正の背景に、国策として行われてきた原発事業を守るためであれば会計不正もやむを得ないという考え方による歴代経営トップの経営倫理の弛緩があったとすれば、東芝の会計不正の核心が原発事業をめぐる問題であることが明らかになることが、逆に、刑事責任追及のハードルとなる可能性もある。

原発事業をめぐる会計不正も含め、背景・動機について徹底した捜査を行い、真相解明することは、国内の原発の再稼働や海外での原発事業を積極的に推進しようとしている安倍政権にとって、決して歓迎すべきことではないであろう。

証券取引等監視委員会が告発できるかどうかも、検察当局が告発を受け入れ積極的に捜査に乗り出す方針を固めるかどうかにかかっている。

検察に、そのような安倍政権側の意向を忖度することなく、原発事業をめぐる会計不正を含めて東芝の粉飾決算事件に積極的に斬り込んでいくこと、適正かつ厳正な捜査を行って真相を解明することが期待できるだろうか。

文芸春秋が、東芝の記事を含む特集を「アベノミクス崖っぷち」と題しているように、東芝会計不祥事は、コーポレートガバナンスの強化を柱として位置付けるアベノミクスにとっても、避けては通れない問題だといえる。

「東芝会計不祥事をめぐる闇」は余りにも深い。しかし、その闇の真相を明らかにし、責任を明確にしない限り、日本企業のコーポレートガバナンスに対する信頼の回復・確立はあり得ない。

検察が、国民の期待・社会の期待に応えて、国の経済社会にとっても極めて重要な経済事犯の真相を解明する使命を果たすことができるかどうか。最終局面を迎えつつある東芝会計不祥事から目が離せない。

 

 

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「国会の懲罰動議を貶める発言」がまかり通る異常な事態

2月24日の衆議院予算委員会中央公聴会で公述人として意見陳述した際に、おおさか維新の足立康史議員から誹謗中傷発言を受けた件については、【独法URのコンプライアンスの視点から見た甘利問題】で述べ、国会としての重大なコンプライアンス問題であり、国会内での発言について議員の免責特権が保障されている以上、国会での懲罰による対応が不可欠であることを指摘した。(【看過できない重大な”国会のコンプライアンス問題”】

その日に、実際に懲罰動議が出されたことから、私としては、その問題には、それ以上関わらないこととし、その後は、ブログでも、刑事実務に関する重要案件を取り上げてきた(【検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審】【札幌地裁「おとり捜査」再審開始決定が「画期的」であることの意味】)。

しかし、その後も足立議員の常軌を逸した言動は続いており、もはや国会の自律、自浄という面からも看過できないものとなっている。そのことを、懲罰動議の取扱いを検討する衆議院議院運営理事会の方々や、何より、選挙において、足立議員の国会議員としての適格性を判断する選挙区の有権者の方々にお伝えしておく必要があると考え、ここ数日の足立議員の言動と、それについて私が考えたことを取り上げることとした。

先週水曜日(3月2日)の午前中、足立議員の事務所から、私の法律事務所宛てに電話があり「足立議員が郷原先生に直接会って謝罪したいと言っているので、可能であれば、今日の夕方にも、事務所に伺わせて頂きたい。」と言ってきた。

その旨の連絡を受けた私が、秘書を通じて、「何を謝罪したいのかを明らかにして貰わないと、謝罪を受けることはできない。」と返答したところ、足立議員本人から直接、私の秘書宛てに電話があり、「とにかく全面的に謝罪したい。本当に申し訳ない。」ということを言ってきた。

しかし、その時点で足立議員は、公聴会の際やその後の他の委員会での発言だけではなく、自分のブログ、ツイッター等でも、私を「エセ専門家」などと誹謗中傷する発言を続けていた。私は、秘書を通じて、「少なくとも、誹謗中傷する内容のブログや、ツイッターを削除した上で、謝罪を申し入れるべきではないか。」と指摘したところ、「御趣旨はわかりました。やってみます。」と答えたとのことだった。

ところが、その後も、私への誹謗中傷を内容とするツイッター、ブログは全く削除されなかった。そこで、昨日(3月7日)、秘書を通じて、足立議員本人に、「誹謗中傷を内容とするツイッター、ブログも削除されておらず、何の連絡もないので、謝罪の話はなくなったということで良いですね。」と確認したところ、「ブログは転載された分は削除できない。ツイッターは既に多数リツイートされている。」などと言って、要するに、自分のアカウントにある誹謗中傷ツイートすら削除する気は全くなく、私に直接会って謝罪をする気もないことを認めたのである。

足立議員が私の秘書に対して口にした「全面的に謝罪する」という言葉は、2月24日の予算委員会公聴会で彼が行った誹謗中傷発言からすれば、あまりに当然であり、遅きに失したものとはいえ、それを聞いた時に、私は、ようやく彼も最低限の良心を見せてきたのかと思った。しかし、実際には、真摯に謝罪する気など、最初からなかったのである。

そして、驚くべきことに、足立議員は、【民主党の新しい看板は「鶏鳴狗党」が相応しい 憲政史上初“野党間”懲罰動議は一生の誉れ】と題するブログの中で、

郷原公述人に対する非礼は、民主党批判が高じて、その「火の粉」が飛んだもので、心から反省している。既に公聴会後にも直接非礼を詫び、予算通過を機に往訪し謝罪することも申し入れた。

などと述べている。

「公聴会後にも直接非礼を詫び」というのは、暴言を吐いた議員本人が、終了後、私のところに駆け寄り、いきなり一方的に手を握ってきて何やらわめいていたのであって、その時に、彼がどのようなことを言ったのかわからないし、ましてや、「誹謗中傷発言を行ったことへの謝罪」を受けた覚えは全くない。

政治家、国会議員は「言葉」によって有権者の心をつかみ、国会内で政策をめぐって真剣に「言葉」を戦わせることで国民の負託に答える職責を担っているはずだ。ところが、足立議員は、「謝罪申入れをした」「心から反省している」などという言葉で世の中を欺き、あろうことか、私への誹謗中傷発言によって出されている懲罰動議に対して「一生の誉れ」などと述べて、国会の自律・自浄のための最後の拠り所である懲罰手続すらも貶める発言を行っているのである。

もはや、このような人物が、国会議員として議院内を闊歩していること自体が、国会のコンプライアンスとして看過できない深刻かつ異常な事態だと言わざるを得ない。

このような異常事態が生じていることについて、野党議院を誹謗中傷したり、口汚いヤジで発言を妨害したりする足立議員の「用心棒的言動」の恩恵に与ってきた自民党のみならず、そのような足立議員の言動によって被害を受けながらも、それを表立って問題にして来なかった民主党・維新の党側の対応にも、反省すべき点があったと言わざるを得ない。

【独法URのコンプライアンスの視点から見た甘利問題】でも述べたように、私が公聴会で行った意見陳述は、私の専門であるコンプライアンスの観点に基づくものだ。予算執行の段階で公平かつ適正に行われるべき「契約」に介入する「口利き」が、あっせん利得処罰法の対象とされていることを踏まえ、財政投融資によるURの公的住宅資産の活用の在り方と住のセフティネット構築のために、公費投入も含めて議論する必要があり、前向きな議論をする前提を確保するためにも、URが行う「契約」への口利きで報酬を受けた甘利氏をめぐる疑惑の事実解明が必要であることを指摘したものだ。それは、国民の声として識者の意見を聞く場としての予算委員会公聴会に相応しいものだったと考えている。

しかし、そのような私の意見陳述が、推薦した両党のその後の国会対応に活かされているようには思えない。予算執行における「契約」の適正確保の問題も、URの事業の在り方の問題も議論されてはいないし、むしろ、私の意見陳述と足立議員の誹謗中傷発言を機に、甘利氏をめぐる問題は収束してしまったような感すらある。

私が、【前記ブログ】などで、免責特権が与えられた議員の国会内での誹謗中傷発言に対しては懲罰で臨むべきと指摘したこともあり、予算委員長の厳重注意に加えて、懲罰動議が出されたが、それは、足立議員の院内での言動に対する初めての公式の対応だった。

これまで、民主党・維新の党が、国会内での足立議員の言動に対して、「触らぬ神に祟りなし」的な態度をとってきたことがが、言動を増長させる一因となったことは否定できない。

検察での刑事実務の経験から言わせてもらえば、一般的に、「やってはならない行為」を行った者は、その後、同様の行為に対する抵抗感が確実に鈍麻する。特に、然るべき制裁が科されない場合には、一層甚だしいものとなる。それは、殺人にも、家庭内暴力にも、児童虐待にも、覚せい剤事犯にも、同様に当てはまることである。

何の反省もない足立議員が、懲罰も受けることなく、平然と問題発言を繰り返しながら議員活動を続けていくことができるのであれば、今後も、政権側の意に沿わない野党推薦の参考人・公述人に暴言を浴びせる「政権与党の用心棒議員」の発言に全く歯止めが利かなくなる。それは、国民から様々な意見を取り入れ健全な議論を行う場としての国会の機能を著しく損なうことになりかねない。まさに「常習的」と言える足立議員の常軌を逸した言動の歯止めになりうるのは、国会において、発言の悪質性に応じた厳正な懲罰が行われること、そして、次の選挙で、有権者の適切な審判が下されることしかない。

懲罰動議の取扱いを検討する衆議院議院運営委員会の委員の方々には、与野党含め、このような足立議員の言動の異常性を直視し、国会の良識を守るために適切な審理を行って頂きたい。

そして、何より重要なことは、このような人物に多くの有権者が投票し、比例復活とはいえ当選したことが、現在のような国会での異常な事態を招いていることを、大阪9区の有権者の方々がしっかりと認識した上で、次の選挙での投票を行うことである。

 

 

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札幌地裁「おとり捜査」再審開始決定が「画期的」であることの意味

銃刀法違反(拳銃の所持)で実刑判決(懲役2年)が確定し、服役を終えていた元船員のロシア人男性が、「北海道警のおとり捜査は違法だった」として再審請求していた事件について、札幌地裁(佐伯恒治裁判長)は3日、再審開始を認める決定をした【毎日ネット記事】

上記記事の弁護人のコメントにもあるように、今回の再審開始決定は「極めて画期的」と言えるものだ。違法なおとり捜査を認めて再審開始を決定したのが初のケースで「画期的」というだけでなく、今回の再審決定は、そもそも、再審は、どのような事実が明らかになった場合に認められるべきかという一般論にも大きな影響を及ぼすものだ。

これまで、再審開始の事由とされてきたのは、有罪が確定した者について、「犯人ではなかったこと」、「犯意がなかったこと」など、犯罪が成立しないことが新証拠によって明らかになった場合である。

しかし、今回の事件では、再審を請求したロシア人男性は、「拳銃所持」という犯罪自体は否定していないし、再審開始決定でも、犯罪の成立自体は否定していない。

再審開始決定が「無罪を言い渡すべき」事由としたのは、その拳銃所持の犯罪の証拠である「拳銃」が、違法な「おとり捜査」によって収集されたもので、「違法収集証拠」として証拠とすることができないものだということが「新証拠(警察官の証言)」によって明らかになったということである。

これまで再審開始決定が出された事件と決定的に異なるのは、犯罪事実の有無・犯人性などの「実体判断」の問題ではなく、有罪の証拠とされた証拠が「違法収集証拠」だという訴訟手続法上の事実によって証拠とすることができない、だから、本人が犯罪の成立自体は否定していないとしても、「自白の補強証拠がない」として「無罪を言い渡すべき」だとされた点だ(憲法38条3項、刑訴法319条2項は、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には有罪とされないとしており、自白があっても、それを補強する証拠がなければ有罪とはできない。)。

三審制の下で、刑事裁判が行われ、その結果一度確定した判決が再審で覆されるのは、どのような証拠で、どのような事実が明らかになった場合なのかについて、これまで、様々な議論や裁判所の判断が積み重ねられてきた。再審開始の判断に関して、再審の扉を大きく開くことにつながったのが、最高裁白鳥事件決定での「『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則は再審制度にも適用されるべきであり、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できる」という判断だった。しかし、この決定も、有罪が確定した請求人の犯罪の成否という「実体判断」について行われたものだ。

再審事由に訴訟法上の事実が含まれるか否かについて明確に判断した裁判例はなく、学説上は、「含まれない」という見解の方が有力だった。もし、有罪の根拠とされた証拠が違法収集証拠であったことなどの訴訟法上の事実が再審開始の事由にされるとすると、違法収集証拠の主張に関連する再審請求の余地が大きく拡大することになる。

例えば、覚せい剤使用で起訴され、弁護側が「採尿が無令状で本人の意思に反して強制的に行われたので違法だ」と主張したが、裁判で警察官が「任意に採尿に応じたもので違法ではない」と証言して有罪が確定した者について、その後、警察官の偽証が明らかになり、実は採尿が「違法」で、採尿に関する捜査書類が「違法収集証拠」で証拠にできないものだったことが明らかになった場合にも、再審開始の余地があるということになる。

今回の再審開始決定では、おとり捜査が、もともと犯罪を行う意思がある者に捜査機関側が犯罪を行う機会を与えたという「機会提供型」ではなく、もともと罪を犯す意思のなかった者に働きかけて積極的に犯罪を行わせる「犯意誘発型」だったこと、北海道警が、おとり捜査の事実を組織的に「隠ぺい」し、警察官が偽証まで行ったことが認定されており、本件の捜査が、公正な捜査を行うべき警察として許し難いものであったことが認定されている。

このような警察の違法捜査と組織的隠ぺいは、全く弁解の余地のないものであり、「犯罪を抑止すべき国家が自ら新たな銃器犯罪を作りだした」などと厳しく批判した裁判所の姿勢は極めて適切なものと言えよう。

しかし、その極めて当然の批判を行った裁判所が、「将来の違法捜査抑止の観点からも、証拠能力は認められない」との判断を示して再審開始を決定したことは、今後、「再審」という手続の刑事訴訟における位置づけ自体を大きく変える可能性をはらんでいる。

これまで、再審は、有罪判決が確定して刑に服すこととなった者、あるいは服した者について、「冤罪救済の最後の手段」として位置づけられてきた。「違法収集証拠」という訴訟法上の事実自体を再審事由に含めることになれば、再審が、有罪判決が確定するまでの経過に、国家が刑罰を科す手続として許容できないものがあったか否かを検証する新たな機能を果たすことになる。

刑事事件の公判で捜査の違法性が争われる事例は多いが、ほとんどの場合、警察・検察が公判で違法性を徹底して争い、警察官・検察官が捜査に違法がなかったことを証言するため、実際に裁判所が捜査の違法性を認定する例は極めて少ない。むしろ、有罪判決が確定した後になって、何らかの事由が契機となって、捜査の違法性を根拠づける事実が明らかになるということのほうが起こり得る。その場合に、「違法収集証拠」という判断を通じて、再審開始決定に至る可能性があるということになると、再審が刑事裁判において果たす機能が、「冤罪の救済」だけでなく、「捜査の適法性の検証」にも及ぶという意味で、大きく変わることになる。

この再審開始決定について、検察が即時抗告を行って上級審の判断を仰ぐのか、もし行った場合に、抗告審が再審事由の範囲についてどのような判断を行うのかが注目される。

 

 

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 検察にとって「泥沼」と化した美濃加茂市長事件控訴審

2月23日に開かれた美濃加茂市長事件の控訴審の裁判所、検察、弁護人の三者打合せで、今後の審理の予定がほぼ確定したので、その結果について、早くブログ読者の皆さん(とりわけ、美濃加茂市民の方々)にお伝えしなければならないと思っていましたが、翌日の2月24日の衆議院予算委員会中央公聴会で公述人として意見陳述を行ったことや、公聴会での意見陳述の際に議員の一人から誹謗中傷発言を受けたことへの対応などに煩わされたことなどもあって、遅くなってしまいました。

2月23日の三者打合せの結果、次回5月の公判期日において、贈賄供述者中林の証人尋問が裁判所の職権で行われる予定になったことについては、同日、裁判所内の記者クラブでの記者会見で明らかにしましたし、既に、各紙で報道されています。(その後、期日は5月23日に決まりました。)また、名古屋地裁での一審から、この裁判を傍聴し取材してくれているジャーナリストの江川紹子さんからの取材に応えて、別途、打合せの結果について説明しており、江川さんは、【高裁が職権で最重要証人を尋問へ~美濃加茂市長の事件で異例の展開】と題して、記事にしてくれています。

江川さんも書かれているように、「高裁が職権で最重要証人を尋問」という事態になっていることについて、控訴審で、一審の無罪判決が覆る可能性が出てきたのではないかと心配されている美濃加茂市民の方もおられるのではないかと思いますが、主任弁護人の私としては、そのようなことは全く心配しておりません。

控訴審の審理が当初の予定より時間がかかっていることについては、美濃加茂市民の皆様には申し訳ないと思いますが、審理の経過は弁護人側にとって極めて順調であり、今回、実施されることになった贈賄供述者の証人尋問で控訴審の事実審理は終了し、夏から初秋にかけて控訴審判決が言い渡され、藤井浩人市長の潔白が明らかになるものと確信しています。

控訴審のこれまでの経過は、控訴した検察にとっては、まさに「泥沼」と言える状況であり、検察幹部は、組織の面子だけにこだわって控訴したことを激しく後悔しているものと思います。

一審では、市長逮捕後の圧倒的な有罪視報道に対抗して、市長が潔白であることを美濃加茂市民の方々に信じてもらうため、ブログ、ツイッター、ニコ生などを通じて、捜査状況や一審の経過等について、弁護人からも発信を続けてきましたが、一審で無罪判決を勝ち取ることができたことから、控訴審では、検察官からの挑戦を受ける立場として、裁判経過についての発信は、記者会見での対応など最小限にとどめてきました。

しかし、既に、控訴審第1回公判期日から半年以上経っており、美濃加茂市民の方々にも、この辺りで現状をご説明しておく必要もあると思いますので、現時点で、明らかにできる範囲で、お伝えしたいと思います。

一審無罪判決の主な理由と控訴審での検察官の主張

昨年3月5日に言い渡された名古屋地裁での一審判決は、①捜査段階における中林の供述経過、記憶喚起の経過に関して、中林の説明内容に疑義があること、重要な事実に関して変遷し、不自然であること、客観的な事実を示されて、それに符合するような供述を行った可能性があることなどの問題点を指摘し、中林供述の信用性を否定する背景事情として、②「中林が融資詐欺に関してなるべく軽い処分、できれば執行猶予付き判決を受けたいとの願いから、捜査機関の関心を他の重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、自身の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくとも、その意向に沿う行動に出ようとすることは十分にあり得るところである」とした上で、「(平成26年)3月26日に融資詐欺に関して2回目の起訴がなされた後、被告人の弁護人らの告発を受けて同年10月20日に融資詐欺に関して3回目の起訴がなされるまでの間、融資詐欺に関する起訴はなされておらず、上記告発がなされるまでは具体的な起訴の予定がなかったものと考えられ、結果的に見れば、中林の期待に沿う有利な展開になっていたと言える」などと判示して虚偽供述の動機の存在の可能性を認めました。

これに対して、検察官は控訴趣意書で、まず、(1)中林証言を離れ、証拠によって認められる「中林と被告人との癒着」と「癒着の深まり」に関する客観的な間接事実から現金の授受が推認されると主張し、控訴審裁判所に「有罪」を印象づけようとしました。

そして、控訴審での事実審理で、検察官が行おうとしたことは、(2)取調べ警察官に中林の供述経過・記憶喚起の経過と、証拠請求している取調べメモが中林の取調べ時に作成したものである旨を証言させ、証言と取調べメモの両方によって、中林供述について、一審判決が指摘している上記①の「客観的な事実を示されて、それに符合するような供述を行った可能性」を否定しようとする立証、(3)中林の融資詐欺事件の捜査・処理を担当した検察官の証人尋問で、中林の融資詐欺の捜査・処理の経過及び処分理由等を証言させることで、検察官が、中林の融資詐欺の捜査処理に関して有利な取扱いを行ったことがなく、一審判決が判示した上記②の「虚偽供述の動機の存在の可能性」を否定しようとする立証、という二つの面からの立証でした。

控訴審での検察官立証の「迷走」

このうち、控訴趣意書での検察官の(1)の主張は、書かれていることの大部分が証拠に基づいていない、或いは、事実を歪曲しているという、ほとんど「偽装」に近いもので、弁護人の答弁書で、その「偽装」の一つひとつを徹底して引き剥がしていったことは、答弁書を提出した昨年7月のブログ【検察控訴趣意書と東芝不適切会計に共通する「偽装の構図」】で述べたとおりです。

弁護人からは、裁判所に対して、検察官の証拠請求を認めず、ただちに結審して控訴棄却することを求めましたが、8月25日に行われた控訴審の第一回公判期日で、裁判所(木口信之裁判長)は、(2)について中村道成警察官、(3)について苅谷昌子検察官の証人尋問を行うことを決定しました。

ところが、尋問されることになった苅谷検察官というのは、平成26年9月4日に、名古屋地検が、弁護人による告発を受理した後に、中林の融資詐欺の告発事件の捜査・処理を担当した検察官で、それ以前の中林の融資詐欺の事件の捜査・処分には全く関わっていませんでした。検察官は、苅谷検察官の証言予定事実を記載した書面を提出しましたが、同告発以前の捜査経緯は、同人が直接体験したことではなく、すべて、愛知県警捜査二課担当者や当時の担当検察官からの伝聞だったのです。

一審判決は、「告発がなされるまでは、中林にとって(中林の融資詐欺の捜査が)当初の期待に沿う有利な展開になっていたといえる」と指摘して、中林が、虚偽の贈賄の事実を自白する動機が存在した可能性があったことを認めましたが、そこでの「有利な展開」というのは、弁護人の告発が行われる前のことです。

「虚偽供述の動機が存在した可能性」に関する最大の問題は、平成26年2月から3月にかけて中林が起訴された2件の融資詐欺の捜査経緯と、それ以外に中林が総額3億6400万円に及ぶ詐欺について自白していたのに、それらの事案について、弁護人による告発が行われるまで、捜査も起訴も全く行われなかったのが、いかかなる事情によるものだったのかだったのか、という点ですが、苅谷検察官はこの点についての捜査・処分には全く関与しておらず、証言できる立場ではなかったのです。

事実が争われている裁判では、自分が「直接」体験した事実でなければ証言させられません。もし、検察官が、苅谷検察官にそのような伝聞証言をさせようとしたら、弁護人が「異議」を述べ、証言が制止されることになります。

弁護人からは、検察官が主張していることは、苅谷検察官が証言可能な事項ではなく、むしろ平成26年2月から3月までの融資詐欺の捜査を担当した愛知県警捜査二課の警察官に「直接」証言させるべきだと指摘し、検察官が証人尋問を請求しないのであれば、弁護人から証人尋問請求を行う方針を示しました。しかし、検察官は、頑なに、警察官の証人尋問の請求を拒否し、弁護人が証人尋問請求をしようとすると、「控訴審は一審判決の当否を審査する『事後審査審』なのに、弁護人は、その範囲を超えて審理のやり直しを求めている」などと、言いがかりをつけてきました。

弁護人が、「苅谷検察官自身が経験した融資詐欺の捜査・処理については、その部分に限定した苅谷検察官の報告書が証拠請求されれば、その書証の取調べに同意する」と述べたところ、内容を限定した書証が採用されました。その結果、苅谷検察官を証人尋問して証言させるべき事項がなくなってしまったので、昨年12月11日の第3回公判に予定されていた苅谷検察官の証人尋問は取り消されたのです。

苅谷検察官の証人尋問を行う旨の決定を行った木口裁判長は、9月末に退官し、その後任としてこの裁判を担当することになった村山浩昭裁判長が、この証人尋問の取消決定をしました。

結局、控訴審での検察官の立証は、証人尋問としては、中林の取調べを担当した中村警察官だけになりました。

それ以外に検察官が請求していた主な証拠は、(ア)その取調べの際に中村警察官が作成したとする「取調べメモ」、(イ)中林が贈賄を自白した後に、知人のA氏が、中林に頼まれて贈賄資金を貸したと供述したことで中林証言が裏付けられたという「供述の前後関係」を立証するためのA氏の上申書、(ウ)中林が起訴された後に初めて事情聴取を受けたB氏が、中林から「市長に30万円ぐらい渡した」と話したという「供述の前後関係」を立証するためのB氏の検察官調書でした。

このうち、(ア)の取調べメモについては、弁護人から、そもそも、供述経過については、本来、録音・録画等の客観的記録を残しておくべきで、それを、いつ、どのように作成したのかもわからない取調べメモで立証しようとするのは不当だと主張し、検察官が都合の良い部分を断片的に拾い上げて立証しようとしている可能性があるとして、取調べメモ全体を証拠開示するように請求しました。

その結果、検察官は、開示した中林の取調べメモの中に、検察官が請求した「手書きの取調べメモ」と同じ時期に作成された「ワープロ打ち取調べメモ」があり、そこには、手書きメモで検察官が主張していることとは異なった供述内容が記載されていることがわかったのです。

惨憺たる結果に終わった中村警察官の証人尋問

中村警察官が作成した取調べメモにも、そのような重大な食い違いがあることが明らかになった後、昨年11月26日に、中村警察官の証人尋問が行われたのですが、それは、検察官にとって惨憺たる結果でした。

中村警察官は、二つの取調べメモの食い違いについて、「ワープロ打ちメモの方は、上司への報告のために、実際の供述とは違うことを書いた」と証言したり、(「手書きメモ」に書いているように)中林が第一授受のガスト美濃加茂店にT氏が同席していたどうか「記憶がはっきりしない」と述べていたのに、最初に作成した中林の警察官調書ではT氏が「いなかった」ことになっていることに関して、「若いころから、先輩には、調書というのは基本的には断定で取るもんだよという話を聞いて実践してきたことから、高峰がいなかったと断定して調書を作成した」というようなことを証言したり、その証言内容は、凡そまともな捜査官の証言とは思えないものでしたが、特に決定的だったのは、中林が、取調べの中でガスト美濃加茂店にT氏が同席していたことを思い出した経緯に関しての証言でした。

一審で中林は、ジャーナル(利用人数が3人だったことを示す店の資料)を見せられる前に、高峰が同席していたことを「自分で思い出した」と証言していたのですが、中村警察官は、「ジャーナルから3人で利用していることが判明し、その回答結果を中林に見せたところ、中林は、特に驚いた様子もなく『ああ、高峰さんいたんですね』と言った」と証言したのです。検察官は、中村警察官が、一審での中林証言と明らかに食い違った証言をしたことに気づき、弁護人の反対尋問が終わった後の再主尋問になって、「あなたが記憶違いをしているということは考えられませんか」と質問し、これに対して、中村警察官は、「全部覚えているわけではありませんので、まあ、もしかしたらということは確かにあるかもしれません」などと証言しました。警察官が、証言の最後になって、自分の記憶の曖昧さを認めるという結果になったのです。

(イ)の上申書、(ウ)の検察官調書については、A氏もB氏も一審で既に証人尋問を行っており、そこで質問すれば良かったもので、控訴審で証拠にできるようなものではありません。検察官は、それらの書証を裁判所に採用してもらうために、供述の時期を立証するためのもので「非供述証拠」だなどと屁理屈を持ち出していましたが、昨年12月11日の三者打合せで裁判所から「証拠採用しない」との判断が示されました。

極めて異例の最重要証人の職権尋問

こうして、控訴審での検察官立証が「迷走」を続け、ズタボロになった後に、村山裁判長から、控訴審での中林の証人尋問を検討していることが明らかにされ、2月23日の三者打合せで、5月に証人尋問を行うことが事実上決定されたのです。

控訴審裁判所が、職権で最重要証人の証人尋問を行うというのは、極めて異例のことです。本件公判において証言の信用性が強く争われ、一審無罪判決においてその信用性に重大な疑問があるとされた贈賄供述者の中林という人物について、控訴審において、中林の取調べ警察官である中村道成の証人尋問が行われ、一審での中林証言と同人の証言との間に相反する部分も生じていることを踏まえて、控訴審裁判所としても直接話を聞いて信用性を判断したいという趣旨だと思われます。

一審で、中林証言の信用性が否定されて無罪判決が出されているわけですから、その中林を控訴審で再尋問するというのは、本来、弁護人として歓迎すべきことではないはずですが、我々としては、中林が供述する現金の授受の事実など全くなく、藤井市長は潔白だと確信していますし、中林の証人尋問を重ねれば重ねるほど、その証言の信用性を否定する方向に働くものと考えています。これまでの控訴審における事実審理の経過からも、控訴審で中林の証人尋問が行わることについて、反対はせず、裁判所の公正な判断に委ねることとしました。

本来、中林証言の信用性について一審判決の判断を覆そうとするのであれば、検察官の方から、控訴審での中林の再尋問を請求するのが通常だと思います。ところが、検察官は、再尋問を請求しようとしないどころか、裁判所が中林を再尋問するかもしれないという話が出た時点から、尋常ではない狼狽ぶりでした。検察官は、打合せの場で、「時間もかなり経過し、記憶の後退等もある」などの理由で再尋問に反対する姿勢を見せていましたが、その後の書面では、「もし、裁判所が再尋問の必要があると判断する場合には検察官からも証人尋問請求する」との意向を示してきました。

検察官は、中林の再度の証人尋問には反対だが、もし、裁判所が尋問を行うということであれば、いきなり裁判官から質問されると中林が何を言い出すのか予想がつかないので、事前に、中林と「証人テスト(打合せ)」をしたいと考えて、「検察官からも尋問を請求する」と言い出したと思われます(「証人テスト」は、証人尋問を請求した当事者が尋問準備のための行うものです)。一審では、主任検察官と中林との間で「証人尋問の打合せ」が、「連日朝から晩まで休みもなく」行われていたことが明らかになり、一審判決でも、検察官と中林との間で「入念な打合せ」が行われたことが証言の信用性を否定する事情の一つとして指摘されました。

検察官が中林の「証人テスト」を行えば、一審と同じように、中林の供述を検察官に有利な方向にガチガチに固めようとしてくることは明らかで、中林の「生の話」を直接聞いてみたいという控訴審裁判所の公正な証人尋問を妨害するものだとして、弁護人からは、検察官の証人尋問請求にも、「証人テスト」を行うことにも強く反対しました。

このような検察官の姿勢に対する村山裁判長の姿勢は徹底したものでした。検察官の証人尋問請求については、裁判所の意図に反しているので、もし、請求しても却下すると明言し、「検察官は証人テストを控えてもらいたい。もし、証人テストを行った場合には、中林の証言の信用性の評価に影響する」と検察官に釘を刺しました。

ということなので、【江川さんのブログ】では、「異例の控訴審での最重要証人の職権尋問」について、落合洋司弁護士と元裁判官の木谷明先生の二人の見方が紹介されていますが、「裁判所としてできるだけ証人の素の記憶を知りたいということではないか」という木谷先生の見方の方が裁判所の意向に近いと思います。

村山裁判長は「裁判所が直接尋問するというのは、それ自体リスクはあるが、質問の仕方を工夫して、法廷で必要に応じて資料を示して記憶を喚起しながら質問を行いたい」と述べて、公判廷で、中林から生の証言を聞き出すことに意欲を示しています。

美濃加茂市民の皆さん、裁判所の公正な尋問によって、なぜ、中林が、無実の藤井美濃加茂市長を陥れるような、全く事実に反する供述を行ったのか、なぜ、一審で検察官の意向に沿った証言を続けたのか、真相が明らかになることを期待しようではありませんか。

 

 

 

 

 

カテゴリー: 藤井浩人美濃加茂市長 | 2件のコメント

看過できない重大な”国会のコンプライアンス問題”

2月24日の衆院予算委員会中央公聴会で公述人として招かれた私に対して、おおさか維新の会の足立康史議員が「郷原さんは専門家ではなく政治家、政治屋だ。予算委の場で売名行為をされたことについて批判する」などと暴言を吐いたことについて、竹下亘委員長が、問題発言をしたとして注意することと、委員長が私に直接謝罪することを決めた旨報じられている。

足立議員に対しては、おおさか維新の会の予算委メンバーを通じて厳重注意したとのことだが、足立氏は、昨日(2月25日)、自身のフェイスブックで、

中央公聴会では民主党がまたまたエセ専門家=郷原弁護士の権威を笠に政府与党批判を展開したので、郷原弁護士は公述人に相応しくないとの観点から質問しました。

などと述べ、同日の、衆議院予算委員会第二分科会では、

衆議院規則に、ある事柄についての賛否が分かれるテーマについて公述人を呼ぶ時は、両方バランスよく呼ばないとダメだということが書いてあります。そうあらねばならないと、これはもう衆議院の規則なんですね。ところが、昨日の予算委員会の中央公聴会というのは予算について議論しているんだけれども、何故か郷原公述人が居て、郷原公述人がある特定の立場のことだけを言ったわけです。それについては山下委員からも、あなたは元検察の弁護士としてある主張をしているけれども、自分が知っている別の元検察の弁護士は全く真反対の意見をお持ちの人もいるんですよということを指摘されました。至極ごもっともで。昨日の中央公聴会は、要すれば両方の意見の公述人をちゃんと並べて説明させないといけないという、そういう根本的な違和感があったものですから、そういう発言、質疑になったということで。

などと発言している。反省している気配も、自身の発言の問題を認める姿勢も全く見受けられない。

しかも、足立氏が、分科会で、「自民山下議員が『別の元検察の弁護士は全く真反対の意見を述べている』」と発言した」と言っているが、予算委員会公聴会で自民党の山下貴史議員がそのような発言をした事実は全くない(山下議員は、昨日のブログでも述べたように、「権限に基づく影響力」に関して、私の著書や美濃加茂市長事件を引用して、的外れの反論をしていただけである。)。足立氏は、山下議員の発言を捏造してまで、自らの発言を正当化しようとしているのである。

昨日のブログ【独法URのコンプライアンスの視点から見た甘利問題】でも述べたように、中央公聴会での私の意見陳述は、これまで、国会審議でもしばしば取り上げられてきた「政治とカネ」の問題を整理し、あっせん利得処罰法の適用範囲について予算執行との関係で説明し、コンプライアンス論の観点から、財政投融資によるURの公的住宅資産の活動と、住のセフティネット構築のために公費投入も含めて議論するに当たって、前向きな議論ができる前提を確保するためにも、甘利氏の問題の事実解明が必要だと述べたものだ。

10年前の2006年にも、同じ中央公聴会で「コンプライアンスは『法令遵守』ではなく『社会の要請に応えること』である」との私のコンプライアンス論を、国の予算に生かしていく必要性について意見を述べたことがある。今回、衆議院予算委員長からの文書で、中央公聴会において公述人として意見を述べるよう依頼された私にとって、改めて、コンプライアンス・刑事実務という専門の知見から行った当然の意見陳述だった。

昨日夕刻、予算委員会の委員の民主党議員から、足立議員に対する厳重注意と、予算委員長の謝罪については私にも伝えられた。しかし、私に対して委員長の謝罪が、どこで、どのような形で行われるのかは、何も決まっておらず、足立氏の暴言が議事録から削除されるのかどうかについても、「速記録ができていないので、まだ決まっていない」とのことだ。

足立氏の、「政治屋だ。予算委の場で売名行為をされたことについて批判する」などという足立氏の発言が新聞等で掲載され、その発言にどのような問題があり、どのように間違っているのかについての予算委員会としてのコメントが全くなく、しかも、足立氏本人は、私に対する発言を正当化するような言動を続けていることで、私の名誉は、さらに著しく害されている。

足立氏の発言は、一般的には、名誉棄損に当たり、刑事上、民事上の責任が問われるべき問題であるが、憲法51条で、「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。」とされていることから、名誉棄損の法的責任が否定される可能性がある(もっとも、足立氏の発言は、公述人の意見陳述に対する質問の範囲を著しく逸脱しているので、免責が認められない余地もある)。

免責特権が国会議員に与えられているのは、国家議員の発言について、国会の外部から法的責任の追及が行われることになると、外部者が、司法権に基づいて、国会での議論に介入することを許すことになり、国会、内閣、司法の三権分立を損なう恐れが生じるからである。そこで、憲法は、国会内での議員の発言を司法審査の対象とすることを否定し、国会内での発言の当否や、その責任については、国会の自治、自律的判断に委ねることとしているのである。

第103回国会衆議院社会労働委員会において、議員が、医療法の一部を改正する法律案件の審議に際し、札幌市のとある病院の問題を取り上げて質疑し、その病院の院長について、「院長は五名の女性患者に対して破廉恥な行為をした。同院長は薬物を常用するなど通常の精神状態ではないのではないか。現行の行政の中でこのような医師はチェックできないのではないか。」等と発言し、この発言の翌日、この院長が死をもって抗議するとして自殺した事案においても、賠償請求は棄却されている(最高裁判決平成9年9月9日)。国会議員の免責特権というのは、それだけ重いものなのである。

足立氏が、公述人の名誉を棄損する発言をしたことについて、法的責任を負わないとすれば、発言について国会内で懲罰等により責任を問われることになる。暴言について、所属する党のメンバーから「予算委員会の厳重注意」を伝達されただけで済む問題ではない。しかも、その後も、足立氏は、全く反省もせず、他の議員の発言までねつ造して、自己の発言を正当化する言動を続けているのであるから、国会において厳正な懲罰が行われるのは当然である。

しかし、少なくとも、これまでの予算委員会及び予算委員長の対応を見る限り、このような憲法の規定の趣旨を踏まえた対応が行われているとは思えない。

国民が、国会内での議員の発言によって名誉を毀損されるなど権利を侵害されることを防止すること、国会に対する他の権力の介入を防止するという二つの要請を両立させることが、国会が真に社会の要請に応えることにつながるという、「国会のコンプライアンス」を、ここで改めて認識する必要がある。

足立議員の予算委員会公聴会での発言は、足立氏個人の問題というだけではなく、看過できない重大な「国会のコンプライアンス」の問題である。

 

 

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独法URのコンプライアンスの視点から見た甘利問題 

衆議院予算委員長名の文書で、昨日2月24日の中央公聴会において公述人として意見を述べるよう依頼が来たので、出席して意見を述べた。

10年前の2006年に、同じ中央公聴会で「コンプライアンスは『法令遵守』ではなく『社会の要請に応えること』である」との私のコンプライアンス論を、国の予算に生かしていく必要性について意見を述べたことがある。

昨日は、改めて、コンプライアンスの観点から、「政治とカネ」の問題、あっせん利得処罰法違反と予算執行の関係、今回の甘利問題を通して、独立行政法人URの組織や活動の在り方、政治との関係性について所見を述べた。

その要旨は以下のとおりだ。

 これまで、多くの政治家に関して「政治とカネ」という括りで指摘がされてきたが、この曖昧な言葉で、性格の異なる問題が一把ひとからげに混同されて議論されてきたことには問題がある。

「政治とカネ」の問題は、「賄賂」系の問題、「政治資金の公開」系の問題、「寄附制限」系の問題の3つに大別することができる。

「賄賂」系の問題について、国会議員の場合、その直接の職務権限は、議会での質問・表決等であり、その対価として賄賂と認められるものの範囲は限られるため、国会議員に収賄罪が適用される例は極めて少ない。むしろ、職務権限を背景として行われる、行政官庁等へのいわゆる「口利き」等で対価を受け取る行為が厳しい社会的批判を受けるケースが多いことから、「あっせん利得処罰法」が制定され、国会議員等の政治的公務員については、処罰の範囲が拡大されている。

「政治資金の公開」系の問題というのは、政治資金の寄附やその使途を政治資金収支報告書によって公開し、政治家や政党の活動が政治資金によって不当な影響を受けていないかを、国民の不断の監視に委ね、選挙における有権者の選択に反映させようとの趣旨で行われている政治資金公開制度の下で、収支報告書に虚偽の事実を記載するなどの行為が違反に問われるものである。

「寄附制限」系の問題というのは、政治資金の寄附に関して、政治資金規正法によって制限されている連続赤字会社、補助金受給企業、外国企業からの寄附の禁止や、寄附の量的制限等に違反する問題である。

これまで、うんざりするほど取り上げられ、中には国会審議にも大きな影響を与えてきた「政治とカネ」の問題の多くは、第二、第三の、いわば政治資金処理の手続き上の問題である。これらは、意図的に行われたものでない限り、基本的には、政治資金を正しく公開することと、再発防止の徹底が重要となる。

それに対して、第一の「賄賂系の問題」というのは、公務の廉潔性を損なう「犯罪」そのものであり、政治的公務員の職務の信頼性にも関わる問題であるだけに、事案の真相を解明した上で厳正な処罰が行われる必要があるが、最近10年以上、国会議員について表面化した事例はない。

国会議員等の政治的公務員の「賄賂系の問題」に対して適用される極めて重要な罰則規定である「あっせん利得処罰法」は、2000年に公明党を中心とする議員立法によって成立し、2001年に施行されたものだ。

もっとも、国会議員等の政治家が、支持者・支援者等の国民から依頼され、裁量の範囲内の行政行為について行政庁等に働きかけて依頼に応えようとすることは、国民の声・要望を行政行為に反映させるための政治活動として必要なものでもあることから、立法にあたっては、そのような政治活動全般を委縮させることがないよう、看過できない重大な事案だけが処罰の対象となるよう配慮がなされている。

要件としては、「特定の者に対する行政庁の処分」に関する「あっせん」が対象とされているほか、予算執行の段階での、国、地方自治体及び国が2分の1以上を出資する団体の「売買、貸借、請負その他の契約」に関する「あっせん」が対象とされている。

国会における予算案の審議・議決、決算の審査・承認という国会議員の直接の権限を背景に、支持者、支援者等の要望を行政庁側に伝え、それを予算の作成・執行に反映することも政治家の政治活動の重要な役割だが、その中でも、予算の策定段階での行政庁への働きかけは、特定の個人や企業に有利に働く面があっても、基本的には政策実現を目的として行われるもので、政治活動の自由が保障される必要性が高いのに対して、予算執行の段階で行われる事業者等との契約というのは、法令上の手続に基づいて適正かつ公平に行われるべきものであり、政治家が契約の相手方や契約内容に介入することは正当な政治活動とは言い難い面がある。そこで、「契約」に関する行政庁等への「あっせん」によって利得を得る行為は、行政処分への介入と並んで、「口利き」による弊害が大きいと考えられ、あっせん利得処罰法の対象とされている。

「権限に基づく影響力の行使」も要件とされているが、国会議員の場合、「権限に基づく影響力」の典型は、議院において法律・予算等を多数決で成立させることに関して他の議員への働きかけを行い、多数の意思を形成することである。法律や予算は、通常は、議会において多数を占める与党の賛成で成立するので、与党議員であることや、党内で有力議員であることは影響力の大きさの要素であると言える。

このように、あっせん利得処罰法は、あっせんの対象を、「行政処分」と「契約」に関するものに限定した上、「権限に基づく影響力を行使」した場合に処罰の対象を限定するもので、「二重の絞り」をかけることで、政治活動を不当に委縮させないように配慮しつつ、行政庁等に不当な影響力を及ぼし、依頼者の個人的利益を図ろうとする悪質な行為を処罰する適切な立法と評価できる。

この法律の施行後、国会議員やその秘書に対して同法の罰則が適用された例はないが、法律が施行されたことが、悪質な「口利き」によって利得を得る行為に対して一定の抑止効果をもたらしたと見ることもできる。

ところが、今般、現職有力閣僚であった甘利氏とその秘書をめぐって、独立行政法人のURとの補償交渉をめぐるあっせん利得処罰法違反の疑いが表面化し、しかも、そのような「口利き」を依頼したと告白している者から、「現職大臣が大臣室で現金を受領した」という信じ難い事実も明らかになった。

URとの補償交渉は「補償契約」によって決着するので、「契約」に関する「あっせん」であることは明らかである。甘利氏の秘書は、補償の金額にまで介入して、その報酬として多額の金銭や接待を受けた事実があったようであり、「国会議員の権限に基づく影響力」についても、現職閣僚で有力な与党議員であるうえ、2008年に麻生内閣で行革担当大臣に就任した甘利氏は、2012年に自民党が政権に復帰して以降、組織の在り方や理事長の同意人事など、URをめぐる問題が与党内で議論される場合には相当大きな発言力を持っていたものと考えられることから、「議員としての影響力の行使」が十分可能な立場だったといえる。

甘利氏をめぐる問題は、二重の絞りがかけられ、ストライクゾーンが狭く設定されたあっせん利得処罰法の処罰の対象の、まさにど真ん中のストライクに近い事案である。

検察当局としては、早急に強制捜査に着手して証拠を確保すべきと考えられるが、「東京地検がUR職員から聴取」などと一部で報じられた以外、捜査が行われている形跡は全くない。また、甘利氏は、大臣辞任後国会には全く登院しておらず、辞任を表明した記者会見で「元特捜部の弁護士に調査を依頼している」と述べているが、果たしてそのような「元特捜弁護士」というのが存在しているのか否かも疑問だ。

この問題が、大臣辞任ということだけで、何ら真相解明が行われず、うやむやにされるとするとすれば、国会議員の政治活動に関する倫理感の弛緩を招くことになりかねず、あっせん利得処罰法が制定された意味がなくなってしまいかねない。

最後に、「コンプライアンスは法令遵守ではなく組織が社会の要請に応えること」という観点から、公的な住宅供給を担う独立行政法人URの組織の問題として今回の甘利氏をめぐる問題を考えてみたい。

URは、財政投融資による住宅等の資産12兆円を保有する巨大な公益法人だ。事業の内容が、民間の住宅建築・住宅供給と競合することから、事業の効率化、合理化が求められ、民営化の議論が遡上にのぼってきたが、一方で、これから超高齢化社会を迎え、また、若年世代の貧困も大きな社会問題となっている我が国社会において、住宅供給を民間のみに任せておいてよいのか、衣食住の基本と言える「住」のセフティネットを確保していくため、公的住宅供給が、どのような役割を果たしていくべきなのかは、大変重要な問題だ。

そういう問題に関して、政治家が、国民・地域住民から、幅広く、公的住宅供給をめぐる声を、UR・国交省に伝えるというのは、良い意味での、健全な「口利き」と言える。

公益法人としての経営の効率性・合理性を追求する一方で、社会的な必要があれば、公費を投入してでも、住のセフティネットの役割を果たすことに関して、介護・年金等の社会福祉の問題とも関連づけて、国会の場で議論することが必要であり、それが、URにとっての「社会の要請に応える」真のコンプライアンスにつながるはずだ。

ところが、今回の甘利氏の問題では、公有地を不法占拠する建物への補償交渉という、いわば「薄汚い口利き」に介入し、それによって秘書は多額の金品を受け取り、頻繁に接待をうける、大臣は大臣室で現金50万円を受け取る、UR幹部は与党の有力議員や秘書の顔色を窺う、というようなことが明らかになっている。

こんなことで、「公的住宅供給を通して社会の要請に応える」というURの本当の役割が果たせるだろうか。まず、こういう歪んだ関係に関して、一体何が起きたのか、どういう事実があったのかということを早急に解明した上で、今後のこうした問題についての政治とUR・国交省との関係等を前向きに建設的に議論していくべきだ。

本来、検察が、刑事事件として取り上げ捜査の対象にすべき案件だが、それが全く行われないのであれば、国会審議の前提としての重要性を考えれば、国会における事実解明も必要になってくるものと思う。

私としては、国会審議でもしばしば取り上げられる「政治とカネ」の問題を整理し、あっせん利得処罰法の適用範囲について予算執行との関係で説明し、コンプライアンス論の観点から、財政投融資によるURの公的住宅資産の活動と、住のセフティネット構築のために公費投入も含めて議論するに当たって、前向きな議論ができる前提を確保するためにも、甘利氏の問題の事実解明が必要だという意見を述べたものである。公述人として意見を述べるよう求められた私にとって、コンプライアンス・刑事実務という専門の知見から行った意見陳述だった。

ところが、それに対する、自民党とおおさか維新の対応は、信じ難いものであった。

私が甘利氏の問題に言及し「まさにど真ん中のストライクに近い事案」と言ったあたりから、右半分強の自民党席はざわつき始め、何人もの議員が立ち上がって他の議員の席に行って話をするなど、ほとんどまともに聞いている議員はいないという、さながら「学級崩壊」の状態だった。

特に、最前列に座っていた平沢勝栄議員は、最後列にいた質問者のトップバッターの山下貴司議員とのところに歩み寄り、なにやら耳打ちを始めた(この「耳打ち」は私の陳述終了後も続いていた)。

そして、私を含め4人の公述人の意見陳述が終わり、最初に山下議員が質問に立ち、普通の表情で他の公述人に対する質問をした後、にわかに物凄い形相になって「質問」、ではなく「演説」し始めた。

一見まともなことを言っているように思えるが、内容は支離滅裂で、私の意見陳述に対する反論には全くなっていない。

まず、山下議員は、「国会が法制度や予算に対する建設的議論を脇に置いて、個別の事件追及に汲々とするのは、捜査機関や司法権に対する国会の介入になりかねない」、「法律家として、民事刑事に関わらず、個人の法的な責任の有無について国会の場で取り上げることについては慎重でなければならない」などと述べた上で、民主党政権時代に、陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件について、小沢一郎氏や秘書について予算委員会での証人喚問や参考人招致を求めたが実現しなかったことを指摘した。

しかし、政治資金規正法違反で秘書が逮捕されていた小沢氏の事件とは異なり、甘利氏の問題については、現時点では告発すら行われていないし、捜査機関の捜査が現実化しているわけでもない。しかも、私は、あっせん利得処罰法の立法の趣旨、罰則の適用範囲を示し、甘利氏の問題が、当然、検察があっせん利得処罰法違反で捜査の対象とすべき事件だと述べた上、もし、検察が捜査によって事実解明を行わないのであれば、国会による事実解明を行うこともやむを得ないと言っているのである。国会が捜査機関に直接介入すべしと言っているわけでもないし、ましてや、甘利氏の法的責任を国会の場で取り上げろと言っているわけでもない。

そして、もっとも的外れなのは、山下議員があっせん利得罪について、「その権限に基づく影響力を行使して」というのが「新しい構成要件」であり、その解釈については「まだ固まっていない」と述べた上で、私の著書「検察の正義」の記述を引用したり、美濃加茂市長事件に言及した点である。

「検察の正義」で「議員の職務としての活動より政治活動が中心になっている国会議員や秘書が、この罪で摘発された事例は過去にはない。野党議員の場合には「権限に基づく影響力」というのは一層考えにくい」と、やや消極的に述べておられますが、郷原先生、このとおりで間違いないですか?今うなづいていただきました。

そして、私が主任弁護人となった一審無罪となった美濃加茂市長事件で、収賄と併せてあっせん利得罪について起訴されており、私を含む弁護側が

「当時市議会議員であった被告人は、市議会で質問権を行使したこともないし、市職員にとって議会で再質問されることは一般的なことであって特に負担になるものではないから、これを恐れて対応することは考えられず、市議会議員としての権限に基づく影響力の行使に該当するとは言えない。市が動いたのは市として必要があったからであり、被告人の権限に基づく影響力の行使によるものではない。」

と主張していることに言及し、

美濃加茂事件について、「影響力の行使」要件について、そのようなご主張をされたことは間違いありませんか。今、うなづいて頂きました。

などと言うのである。

いずれについても、私に説明すら求めず一方的に引用して、私が、その引用に「うなづいた」だけで、私が、あっせん利得罪に対して消極的な姿勢を示していることを認めたかのように扱おうとする。

しかし、著書で述べているのは、私が、意見陳述の中でも述べたように、法律や予算は、通常は、議会において多数を占める与党の賛成で成立するので、与党内で影響力を持つ有力議員であることが「権限に基づく影響力」の大きな要素であり、野党議員の場合には影響力は大きくないということだ。甘利氏は、与党の有力議員なのであるから、著書で述べていることは全く違うのであり、あっせん利得罪の「ど真ん中のストライク」であることには変わりはない。

また、美濃加茂市長事件で弁護人として主張しているのは、検察が主張する「議会での質問」の事実が「ない」ということと、被告人は、一人会派で、議会で多数を占める政党に所属しているわけでもなく、「議員の権限に基づく影響力」は極めて低い、ということであり、甘利氏のような与党の有力政治家の場合とは全く異なる。

山下議員は、このような的外れな引用をして、私が、「書いてあることとしてはその通りだ」という意味で「うなづいた」というだけで、

このように、解釈が分かれ、しかも当てはめも事案によって異なる法律の個別事件の法解釈について、国会の、特にこの予算委員会で延々と取り上げることについては疑問があるということなんです。

などと、一方的に「独演」を続けた。「公述人に対する質疑」を行う立場なのに、公述人に発言する機会をほとんど与えようともしなかった。

衆議院の予算委員会における質疑で、このような議論のやり方がまかり通るというのは驚きである。

しかも、この山下議員の質問は、単なる個人プレーとは思えない。質問の前、平沢議員は、山下議員の席に歩み寄って、入念な「打合せ」をしていた。自民党チームの「平沢監督」が、ネクストバッターズボックスにいた山下議員に気合を入れ、その上でバッターボックスに入って行ったのが、この「演説」だったのである。

そして、この山下議員の発言は、5番目に質問に立ったおおさか維新の会の足立康史議員にも多大な影響を与えた。

足立議員は、「今日は、山下委員から、冒頭、スキャンダル周りの話があって、大西委員(民主党)からも議論があったので、私がほっとくわけにもいかない」などと言って、山下議員の「演説」を受けての質問を始めた。

その内容は、公述人の私に「(公聴会に)なぜ来たのか」、「普通の人は民主党の応援団には弁護士の仕事は頼まない」、「郷原さんは専門家じゃない、政治屋なんです」などと、公述人の意見陳述とは全く無関係な、露骨な誹謗中傷そのものであり、まさに、国会の品位を貶める発言そのものであった。

足立議員の誹謗中傷質問に対しては、予算委員会理事の民主党の山井議員が委員長に、発言の撤回を求めて激しく詰め寄っていた。野党席から非難の怒声があがる一方、自民党席から、「議事進行!」「議事進行!」という叫び声が上がり、委員長は、「後日、理事会で協議する」と言っただけで、そのまま、足立議員の質問は終了した。

これが、昨日の、衆議院予算委員会中央公聴会での私の意見陳述をめぐる顛末である。

残念ながら、このような状態の予算委員会で審議され、成立しようとしているのが、我が国の国家予算なのである。

 

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甘利氏疑惑調査の「元特捜弁護士」は、本当に存在するのか

甘利明氏は、1月30日の夕刻に開いた記者会見において、「元東京地検特捜部の検事である弁護士」が秘書や経理担当者などの関係者から直接聴取し、関連資料等を確認された結果、とりまとめられた報告書があるとして、それにもとづいて、URへの「口利き」や現金授受の疑惑についての説明を行った。そして、その「特捜OBの第三者の弁護士」が秘書からの聴取等による調査した結果として、「S社総務担当者からURとの間の補償に関する陳情があった」「URに行って話合いの進捗状況について確認した」「URに行って現状について教えてもらった」「秘書が金額交渉等に介入したことはない」などと説明した。

甘利氏は、「URへの口利き」も「金額交渉への介入」も否定した上で、秘書が、S社側から政治献金として現金を受領しながら一部を使い込んでしまったり、多数回にわたって現金を受領したり、飲食の接待を受けていたことなどについて、「秘書が疑惑を招いていることについての監督責任をとって辞任する」ことを明らかにした。

「私の監督下にある事務所が招いた国民の政治不信を秘書のせいと責任転嫁するようなことはできません。それは私の政治家としての美学、生き様に反します。」などと涙ながらに述べた甘利氏は、ネットを中心に、「全く潔い」「現代の『武士』」などと賞賛され、重要閣僚の辞任にもかかわらず、安倍内閣の支持率を低下させるどころか、逆に、支持率が上昇するという結果をもたらした。

甘利氏の記者会見での説明において最大の拠り所とされたのが、「元特捜検事の弁護士による調査」だった。しかし、その弁護士が一体どこの誰なのであるのか、甘利氏は、一切明らかにしなかった。

私は、この時点から、果たして、甘利氏が説明しているとおり、「元特捜検事の弁護士による調査」が行われているのか、そもそもそのような弁護士が果たして存在しているのか、多大な疑問を持ってきた。

その後、20日近く経ったが、「元特捜検事の弁護士による調査」に関する情報は、何一つ明らかになっていない。一方で、昨日、民主党の疑惑追及チームが、甘利事務所に「口利き」を依頼したS社の一色氏が甘利事務所側やURとのやり取りを録音した音声記録を公表し、甘利氏の秘書がURからS社へ支払う補償金の金額交渉に深く関わっていたことがわかり、会見での甘利氏の説明が事実に反していたことが明らかになった。

「元特捜検事の弁護士」による調査が本当に行われているのかについて疑問に思った第一の理由は、甘利氏が、「私は調査を担当した弁護士とは一切接触をしておりません。」と述べたことである。「公正な調査を担保するため」だということだが、第三者としての調査を受任する際に、依頼者と全く会わないで調査をするということは、我々の常識からは考えられない。企業不祥事等でも、「第三者調査」を受任する際には、依頼者本人と会って、調査の趣旨・目的、調査の範囲、調査期間等を確認するのが通常のやり方である。

もし、依頼者である甘利氏本人が直接会っていないとすると、そのような調査依頼に関する協議・打合せは誰との間で行われたのであろうか。甘利事務所は、事務所長の公設第一秘書、現政策秘書、政務秘書官等の事務所の主要メンバーが、すべて今回の問題に関係し、少なくとも、そのうち二人は犯罪的な行為を行って既に退職している。「自らは違法なこと、やましいことは全くしておらず、秘書の監督責任しかない。」と言っておられる甘利氏以外に、第三者調査の依頼に関して話ができる人間はいないはずだ。

甘利氏が、「第三者としての公正な調査」を依頼したいのであれば、「真実が明らかになるように、私に遠慮することなく厳正に調べてください」と言って直接頼めば済むことであり、接触しない理由は全く考えられない。

しかも、その弁護士が甘利氏と接触しておらず、甘利氏本人のヒアリングは行われていないということであれば、調査のやり方としても考え難いものである。今回の疑惑の中心は、大臣室及び大和事務所における現金授受の問題など「甘利氏自身の問題」なのだから、調査を行うのであれば甘利氏本人からの聴取が不可欠なはずだ。ところが、甘利氏は、その弁護士と全く接触していないというのだ。少なくとも、特捜部でまともな仕事をした経験のある検事であれば、あり得ない調査方法だ。

調査を担当している「特捜OBの弁護士」というのが実際には存在しないので、甘利氏が、そのような人物と接触しようにも接触できるわけがないということではないのか。

わざわざ「元特捜検事の弁護士」に依頼したということは、できる限り真実を明らかにするために「捜査経験を持つプロ」に頼んだということのはずだが、甘利氏の説明どおりだとすると、調査のやり方も姿勢も、到底「プロ」とは思えない。

甘利氏自身も、会見で、「このたびの報道によれば異例にも相手方が膨大な録音や写真を持っているとのこと」と述べているように、今回の週刊文春の記事では、一色氏が、甘利氏の秘書やUR側とのやり取りについて50時間以上にわたる録音記録を残しているとはっきり書かれているのであるから、第三者の弁護士が調査を行うのであれば、調査結果が録音記録によって覆されることがないよう、秘書のヒアリングを行う際にも、真実を話すように強く説得するはずだ。

しかし、甘利氏が明らかにした調査結果の中には、文春の記事に書かれていないことで、甘利氏にとって不利なことは何一つ含まれていない。真相を明らかにしようとする姿勢は全くうかがえない。

今回、一色氏の録音記録が公表されて、秘書がURのS社への補償金の金額交渉に深く関わっていたことが明らかになり、会見での甘利氏の説明が事実に反していたことが明らかになったのも当然の結果と言えよう。

「元特捜検事の弁護士による調査」は、甘利氏側においても真相解明のための努力が行われているかのように世の中に認識させることに最大の効果を発揮した。甘利氏自身が「涙ながらのパフォーマンス」で「潔さ」を演出したことと相まって、「現職閣僚の口利き疑惑」から国民の関心をそらすことにつながった。

昨年の東芝の会計不祥事において、「第三者委員会スキーム」があたかも中立的かつ客観的な調査が行われているかのように装い、ステークホルダーを欺くために悪用され、不祥事対応において重要な機能を果たすべき「第三者委員会」に対する一般的信頼すら損ないかねない事態を招いたばかりだ(⇒【偽りの「第三者委員会」で原発事業の問題を隠蔽した弁護士と東芝執行部】)。

それと同様に、記者会見で甘利氏が強調した「元特捜検事による調査」が、「特捜検事」という言葉で、国民の目をごまかすために使われたものだったとすれば、多くの国民がこれまで「正義」と重ね合わせてきた「特捜」ブランドを悪用するものであり、「特捜関係者」にとっても許し難いもののはずだ。

「元特捜検事の弁護士」というのが、本当に実在しているのか、実在しているとすれば、誰なのか、これまでどのような調査が行われてきたのか、甘利氏は、早急に明らかにすべきである。

 

 

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「一発実刑」で清原を蘇らせることはできないか 

2月2日の覚せい剤所持での逮捕以来、テレビのニュース番組やワイドショーは、清原和博元プロ野球選手(西武・巨人・オリックス)の話題で埋め尽くされている(まだ、「容疑者」の段階だが、「清原容疑者」という呼称には、かえって犯罪者的イメージがあるので、以下では、現役時代からの「清原」という呼称を使う。)。

テレビでは、警察の事前リークがあったから撮影できたとしか思えない逮捕後の同行シーンの映像が繰り返し映し出されている。有名人が警察に逮捕されて転落する様を「見世物」にして視聴率を稼ごうとするやり方に、ある種のさもしさを感じるのは私だけではないであろう。

今回の「清原報道」の多くは、大物元プロ野球選手が覚せい剤で逮捕された初のケースのように大々的に扱われているが、実は、過去に、プロ野球において、清原以上の実績を残した大選手が、覚せい剤で逮捕された実例がある。

1993年に覚せい剤の所持で逮捕され、懲役2年4月の実刑判決を受けた江夏豊氏(現野球解説者、本来「江夏氏」と呼ぶべきだが、同様に、現役選手時代の「江夏」という呼称を使う。)だ。

最多勝2回 最優秀防御率1回、最多奪三振6回、最優秀救援投手5回、MVP2回という輝かしい戦績に加え、1979年の日本シリーズ最終第7戦、1点リードの9回裏に一死満塁のピンチで、三塁ランナーがスタートしたのを見て、指先だけのコントロールでスクイズを外して併殺に打ち取り、広島を日本一に導いたシーンは、多くの野球ファンの脳裏に残っている。間違いなく球史に残る名投手だ。通算本塁打525本(歴代5位)を放ったものの、無冠に終わった清原とは比較すべくもない。

その江夏が逮捕されたのが現役引退後8年目、容疑は「覚せい剤所持」、いずれも今回の清原と全く同じだ。江夏は覚せい剤の所持量が多かったことなどから、いきなり実刑判決を受けて服役した。しかし、服役後、覚せい剤と絶縁し、見事に社会復帰を果たした江夏は、野球解説者や指導者として今も活躍している。

覚せい剤事犯の再犯率は極めて高い。江夏のケースは数少ない成功例と言ってよいであろう。なぜ、覚せい剤から立ち直ることができたのか。本人の強い意志があり、支援する人達の努力があったことはもちろんであろうが、初犯で実刑という思い切った量刑が行われ、江夏もそれを受け入れて服役したことで、一定期間、物理的に覚せい剤から隔絶されたこと、刑務所の規律の下での規則正しい生活で健康状態が劇的に改善したことが、江夏を見事に蘇らせることにつながったと考えられる。

覚せい剤事犯の場合、初犯に対しては、ほとんど執行猶予の判決が出される。そして、多くの者が、執行猶予中に再び覚せい剤に手を染めて有罪判決を受け、執行猶予が取り消され、新たな事件の懲役に、前の事件の懲役が加算され、かなり長期の受刑となる。いきなりの長期の服役で更生の意欲が失われてしまうことも珍しくない。

「初犯⇒執行猶予」「再犯⇒実刑・初犯の執行猶予取消」というお決まりのパターンが、かえって、覚せい剤事犯者の社会復帰を妨げているとも言える。

清原の場合も、数年前から覚せい剤の影響と考えられる奇行が目立っていたと言われており、覚せい剤への精神的依存性は相当高いと思われるが、初犯なので執行猶予となる可能性が高い。執行猶予であれば、服役はせず、社会内で生活できることになるが、もちろん、社会の表舞台で働けるわけはない。もともとの知名度の高さに加え、今回、これだけテレビで顔を露出させられた清原が、普通の社会人として暮らすことは困難であろうし、結局、どこかに閉じこもって失意のうちに時を過ごすことになる可能性が高い。そのうちに再び覚せい剤に手を染める、というパターンで再犯に及んでしまうことが強く懸念される。

江夏の成功例を見る限り、清原の場合も、初犯であっても、1年程度の実刑とし、一定期間矯正処遇を受けさせることが、逆に、社会復帰の可能性を高めることになるのではないか。

執行猶予を付するか実刑にするかは裁判官の裁量だ。覚せい剤事犯は、それ自体は一般的には被害者がいない犯罪であり、裁判官として初犯に実刑を言い渡すことに抵抗があるのは理解できる。しかし、本来、執行猶予は、社会内での処遇が本人の更生に資すると確信がもてる場合に言い渡されるべきだ。社会に戻ることで逆に再犯の可能性が高まると考えられるような場合にも、形式的・機械的に執行猶予の恩典を与えるのが果たして本人のためになるのだろうか。

清原を裁く裁判官に、球史に残る名投手江夏豊に一発実刑を言い渡した裁判官と同様の英断を望むことはできないだろうか。

 

 

 

 

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