「憂国の士」としての愛川欽也氏の最期

俳優の愛川欽也氏が亡くなって1か月になる。

私は、同氏が司会を務めていた番組「愛川欽也のパックインジャーナル」に数回出演しただけのお付き合いだったので、その人柄についてコメントするような立場ではないと考え、心の中で哀悼の意を捧げるだけにとどめてきた。

しかし、故人に関する話題は、「俳優・タレント」「愛妻家・おしどり夫婦」が中心となり、私が、パックインジャーナルでお付き合いをさせて頂いた中で強く感じた「憂国の士」としての側面がほとんど取り上げられないことに若干の違和感を覚える。私が強く感じた愛川氏の国を憂うる思いについて書いてみようと思う。

「愛川欽也のパックインジャーナル」には、CSテレビの朝日ニュースターの時代には、電話出演も含めて7~8回、その後、朝日ニュースターがなくなった後、愛川氏が自ら立ち上げたインターネット放送「kinkin.tv」の番組にも2回ほど出演させて頂いた。

今年2月7日の出演の際、美濃加茂市長事件のことも話題になり、「3月5日の判決が出たら、是非また出演してほしい。」と言われていた。無罪判決を勝ち取ることができ、その後出演の日程を調整したが、3月中は予定が合わず、4月11日と5月9日に出演することになっていた。

しかし、4月6日に、「kinkin.tvが終了する」との連絡を受け、一体何があったのだろうと思っていたところ、4月15日のニュースで、愛川氏が肺がんで亡くなられたという突然の訃報を聞き、事情を理解した。

愛川氏は、反「権力」・反「戦争」・反「対米追従外交」・反「原発」という思想で一貫した人だった。その思想の根本には、私のような戦後生まれの人間には想像もつかない、「戦争」や「権力」の恐ろしさを知る実体験があるのであろう。愛川氏の言葉の端々に、そういう自らの体験を基に、今の日本をめぐる状況を、そして、この国の行く末がどうなるのかを本当に心配する熱い思いが込められていた。

2月7日の番組出演は久しぶりだった。その時点で既に、愛川氏の体は癌に蝕まれ、その苦痛はかなりのものだったはずだが、昨年6月と何も変わった印象は受けなかった。愛川氏は、以前と同様、憲法改正の国民投票の問題、TPP交渉の問題等に関して、自らの思いを語っていた。そこに貫かれていたのは、政治権力が一極に集中することへの不安・危惧だったように思う。

5年程前、鳩山政権下で、「普天間基地の県外移転」の公約実現が困難になり、鳩山首相が窮地に陥っていた時期、パックインジャーナルの出演日の前夜に、愛川氏から私の携帯に電話がかかってきたことがあった。

「郷原さん、何とか基地の県外移転はできないものだろうか。沖縄の人達の思いからすると、それしかない。それに、せっかく政権交代が実現したのに、今回の件で政権がダメになってしまうのは本当に残念でならない。」

愛川氏は、本当に、思い詰めているような声で、私にそう言ってきた。

私は、パックインジャーナルでは、検察問題や九電やらせメール問題などの問題を中心に発言していた。基地問題や外交問題は専門外だ。しかし、そういう私にも、沖縄の基地の移転先について何か良い知恵がないか、と真剣に聞いてくる愛川氏の熱意に心を打たれた。

私は、その後、私がかつて長崎地検次席検事をしていた頃のつてを辿って、佐世保基地や長崎県内等に、普天間基地の一部の移転先候補が考えられないかを情報収集したり、外交軍事の専門家の田岡俊次氏と連絡をとって話したりした。

最期の最期、癌で余命いくばくもなかった愛川氏の頭には、愛妻のことや、俳優、タレントとしての活躍を振り返ることだけではなく、今の日本という国の政治・外交・社会をめぐる状況を、心の底から憂うる思いもあったのではないだろうか。

愛川氏は、まさに「憂国の士」だった。

我々は、どのような思想、どのような立場であっても、このような愛川氏の思いを受け止め、この国の、この社会の今後のことを、真剣に考える姿勢を持ち続けなければならない。

改めて、愛川欽也氏の死を心から悼み、御冥福をお祈りする。

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「松本整氏総監督解任決議撤回」は、自転車競技連盟の抜本改革の契機となるか

昨年7月1日、松本整氏が公益財団法人日本自転車競技連盟(以下「JCF」という。)に対して提起したに地位確認及び損害賠償請求の訴訟について、3月27日、和解が成立した。(毎日新聞【自転車:競技連盟 代表総監督の解任決議撤回で和解】

この訴訟は、2011年からJCFのナショナルチーム総監督を務めていた松本氏を、JCFが昨年6月4日に理事会で解任決議を行って解任したこと対して、松本氏が、自らが総監督の地位にあることを確認すると共に、JCFの松本整に対する数々の不法行為(理事会による違法な解任決議、同決議等のマスコミへの情報リーク等)に対する損害賠償を求めた訴訟だった。

昨年6月の当ブログ東京五輪に向けての選手強化を阻む競技団体のガバナンス崩壊でも述べているように、公益財団法人たるJCFにとって、税金を投入して、ナショナルチームの強化を行い、国内外への大会へ参加する以上、ワールドカップやオリンピックでメダルを継続的に獲得できるよう、ナショナルチームの組織的な強化を行うことは、社会的使命である。JCFの前会長の故富原忠夫氏は、そのような認識から、競輪を知り尽くし、プロスポーツ選手のトレーナーとしても活躍し、科学的トレーニングの造詣も深い松本氏にナショナルチーム総監督就任を要請した。

松本氏は、リオデジャネイロオリンピックまでの長期的な計画に基づいて、責任を持って選手強化に臨むため、契約期間内は解任されないことを条件に総監督就任を受諾し、2011年に、総監督に就任したものだった。委託契約書にも、解任できないとの条件が明記されている。

ところが、このように斬新な方法でナショナルチームの選手強化を真摯に推進する松本氏を疎む勢力が、チームとしての組織的な情報管理や科学的なトレーニング手法に対する反発などもあって、松本総監督を引きずりおろそうと画策し、理事会における「数の論理」で、契約を無視した不当な解任決議を行ったのである。

それに対して、松本氏が、「自分の推進してきた改革を支持してくれた人々のために、自転車競技連盟における、法や契約を守る健全な組織運営を回復し、正常化する」ことを目的として提起したのが今回の訴訟である(松本氏は、訴訟提起時に、自らのホームページにコメントを公表している。⇒【http://tetsujin.tv/pop/20140611.pdf】)。

今回の和解の主な内容は、以下の3点である。

① JCFは、松本整の総監督解任決議を撤回する。

② 松本整とJCFは、本日をもって、総監督の委嘱契約を終了させることに合意した。

③ JCFは、この訴訟及び和解を契機として、コンプライアンス体制の強化を推進する。

和解条項の詳細については、既に、JCFのホームページの新着情報欄に掲載されている。

①の「解任決議の撤回」に関しては、「松本整氏を2016年度まで総監督の職から解任できない旨合意しているにもかかわらず、2014年6月4日に開催された本連盟の理事会で松本整氏を総監督から解任する決議をすると共に、松本整氏に対し、総監督から解任する通知したことにつき遺憾の意を表する」ことも和解条項に含まれており、「解任できない旨の合意に反して行われた解任決議」が、JCFとして行われるべきではなかったことを認めた上で解任決議を撤回するものである。公益財団法人の理事会決議が10ヶ月後に撤回されるという異例の事態となった理由も、それによって理解できるのである。

また、③のコンプライアンス体制の強化も、この「訴訟及び和解を契機として」行われるものであり、連盟のコンプライアンス体制に問題があったことが、「解任決議の撤回」という異例の事態を引き起こした原因となったことを事実上認めるものと言えよう。

解任決議の撤回で総監督の地位を回復した松本氏は、②によって連盟との合意で契約を終了することになり、ナショナルチームの総監督として今後、選手の指導育成に当たることはなくなった。

昨年6月の契約を無視した不当な解任決議の後、JCFでは、既に新体制でナショナルチームの指導育成を行っている。現時点で松本氏が総監督としての職務に復帰することは事実上、不可能であった。そして、松本氏は、当初から、「ナショナルチームの強化に貢献したいという思いは変わっていないが、総監督の地位にしがみつく気持ちはなく、連盟に対して金銭的要求を行うことも目的ではない」と明言していた。

「JCFが契約を無視した違法なやり方を強行してきたことに対して、それに屈することは、自転車競技の世界のみならず、広くスポーツの世界に重大な悪影響を生じさせると考え、あらゆる法的措置を講じて、連盟と戦う」と宣言していた松本氏は、上記の和解条項で、本訴提起の目的を達成できると判断し、今回の和解に応じることにしたものである。

(松本氏のコメント⇒【http://tetsujin.tv/pop/20150327.pdf】)

あらゆる法的措置を講じることによって、JCFを、法や契約を守る健全な組織運営が行える組織に生まれ変わらせることを目指してきた松本整氏の戦いは終わった。

今後、松本氏の戦いによってJCFにもたらされた「解任決議の撤回」という事実を、JCFの組織内部においてどのように受け止め、どのような措置を行うのか。本件訴訟及び和解を契機とするコンプライアンス体制の強化が、形式的なものにとどまらず、公益財団法人として当然に必要とされるコンプライアンスを実現すべく徹底して行われるのかどうかなど、多くの課題が残された。訴訟提起直前に出したブログ自転車競技連盟総監督解任決議問題、連盟の混乱極まる~「解任理由不明の解任決議」の責任は誰が負うのか~で指摘したことが、今回の和解による「解任決議の撤回」で改めて現実の問題となるであろう。

今後のJCF組織の抜本改革の行方を、今回の訴訟で原告代理人を務めた私も、松本氏とともに、関心を持って見守っていきたい。

 

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組織の面子にこだわり「検察史上最悪の判断」を行った大野恒太郎検事総長

昨日(3月18日)午前10時、名古屋地裁から、「美濃加茂市長に対する無罪判決に対して検察官が控訴を行った」という連絡が入った。

3月5日に言い渡された無罪判決に対する控訴期限は3月19日である。地方自治体の現職市長に対して言い渡された無罪判決に対する控訴の可否の判断なのだから、慎重の上にも慎重な判断を行われるのが当然である。期限の一日前の、しかも朝に、検察官の控訴申立書が慌ただしく裁判所に持ち込まれるなどという事態は、予想していなかった。

3月16日に、一部マスコミが「検察が控訴の方針を固めた」と報道したことを受けて、翌17日に当ブログに出した【「美濃加茂市長無罪判決に検察控訴の方針」は、「妄想」か「狂気」か】は、BLOGOS、ハフィントンポストにも転載され、トップページ、或いは準トップのページに掲載され、ページビューも大きく伸びていた。

このブログでは、検察控訴の方針を報じる中日新聞の記事で、「検察関係者の主張」によると、「二人のメールのやりとりや、授受を聞いたとする関係者証言などについて判決が評価していない点が不服だ」とされていたことに関して、これらの証拠の具体的な中身を示して、賄賂授受の証拠になど全くなり得ないものであることを詳述し、検察が控訴の方針だとすれば、「担当検察官が都合のよい証拠だけ取り上げて説明するのを鵜呑みにし、弁護人の弁論も読まず、証拠全体も見ていないのではないかと思える」と書いた。

このようなブログが世の中に拡散することによって、「証拠上、控訴はあり得ない」「無罪判決が覆る可能性はない」との認識が広まり、検察内部でも動揺が生じて、証拠を再検討すべしという意見が出てくるのを恐れて、控訴期限の一日前の朝に控訴申立書を裁判所に提出するという「異例の対応」が指示されたとしか思えない。

悪質極まりない4億円近くもの融資詐欺を行いながら、僅か2000万円余しか立件されていなかった「詐欺師」の贈賄供述を信じ、同席者の聴取すら行わないまま現職市長を呼び出して聴取に踏み切ったこと、逮捕して勾留請求を行ったこと、何ら新たな証拠もないのに起訴したこと、公判での弁護人の反証で賄賂授受の立証が完全に崩壊しているのに有罪論告を行ったこと、そして結果的に当然の無罪判決を受けたこと、この全てについて、もし、検察が控訴断念の決断をしていれば、名古屋地検の担当検察官の暴走と地検幹部の監督責任という、地検レベルの問題で済ますことも不可能ではなかったはずだ。

しかし、この「当然の無罪判決」に対する控訴を行ったことで、検察はそれまでの名古屋地検の暴走を、組織として認めただけではなく、市長を控訴審の被告人の立場に立たせることで美濃加茂市民に更なる不利益を生じさせ、市政に影響を及ぼす責任を、組織として背負い込むことになった。秋元祥治氏もブログ【美濃加茂・藤井市長、検察は控訴だって。これ、無罪確定ならだれが責任とるんですかね。】で、控訴に関する検察の責任を適切に指摘している。

そもそも、先進国で、無罪判決に対する検察官控訴を認める国はほとんどない。アメリカでも、無罪判決に対する上訴は認められていない。

日本国憲法は、第39条で「既に無罪とされた行為については,刑事上の責任を問われない。又,同ーの犯罪について,重ねて刑事上の責任を問われない」と規定している。この規定は、「国家がある犯罪について刑罰権の有無を確かめるために,被告人を一度訴追したならば,もはや同一人を同一事実について再度刑事的に追及することは許されない」という英米法の「二重の危険の原理」を規定したものとする説が有力であり、かねてから、「無罪判決に対する検察官控訴は憲法 39条に違反する」という主張がなされてきた。

判例は、「一審の手続も控訴審の手続もまた,上告審のそれも同じ事件においては,継続せる一つの危険の各部分たるにすぎない」という理由で、検察官上訴を許容してきたが、学説では根強い批判がある。(【検察官上訴の研究 二重の危険の原理の観点から 高倉新喜】他)

つまり、一審無罪判決に対して検察官が控訴を行うこと自体に、憲法違反の疑いがあるのだ。もし、例外的に、検察官控訴が容認されるとしても、一審判決が法令の解釈や適用を誤った場合や、十分な証拠に基づく判断が行われなかった場合などに限られるはずである。実際に、検察実務でも、無罪判決に対する控訴は、一審が採用しなかった証拠、或いは新たな証拠の提出が可能な場合に限る、という取扱いが行われてきたはずだ。

美濃加茂市長事件の一審判決に対して、法令の解釈・適用に関する問題など何もない。しかも、「事件との関連性など全くない」として弁護人が強く反対した「渡したことを聞いたとする関係者」についても検察官の尋問請求が認められるなど、検察官の請求証拠はすべて採用した上で、無罪の判決が言い渡されたもので、証拠採用に関する問題も全くない。

前記ブログで述べた「証拠関係からして一審無罪判決が覆る可能性が全くない」というだけでなく、それ以前の問題として、無罪判決に対して検察官が控訴できる場合に当たらないのである。

どうして、このような無茶苦茶、デタラメな控訴の判断が行われたのか。検察組織のトップである大野恒太郎検事総長は、何を考えて、名古屋地検、名古屋高検の控訴意見を認める判断をしたのか。

検察内部のことだけに、真相は知る由もないが、マスコミ関係者や検察関係者からの情報によれば、大野総長を含め検察幹部は、美濃加茂市長事件の一審判決の前に、無罪判決が出る可能性すら認識しておらず、当然有罪だと考えていたようだ。「予想外の無罪判決」に対して、「検察が引き下がるわけにはいかない」として、証拠判断とは別のところで控訴の方針が決まったようだ。

しかし、仮にそうだとすると、検察組織における事件の捜査・公判に関する報告の在り方に重大な問題があると言わざるを得ない。

美濃加茂市長事件での逮捕、勾留、起訴が、何の証拠にも基づかないもので、公判審理の過程でも無罪の可能性が高まっていることは、私が、逐一ブログで述べてきた(【「責任先送りのための起訴」という暴挙】【「空振り」被告人質問に象徴される検察官立証の惨状】【美濃加茂市長事件、「検察の迷走」を象徴する実質審理の幕切れ】など)。

そして昨年12月24日に行われた公判期日での弁護人の弁論で、検察官立証が完全に崩壊したことは、公判に立ち会っていた4人の検察官は十分に認識したはずだし、その上司も弁論を読んだはずだ。そして、この時点で、主任弁護人の私が、無罪判決を確信したことは、年末のブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】でもはっきりと述べている。

実際、3月5日の判決公判期日、開廷前に久々に目にした主任検察官の関口検事の顔色は、それまで見たこともないほど蒼白で、明らかに無罪判決を覚悟していた様子だった。

それなのに、名古屋地検から上級庁に「有罪判決が出る見通し」が伝えられていたとすると、検察内部での重要事件の報告体制に重大な欠陥があることは明らかだ。

このような組織に、社会に重大な影響を与える刑事事件に関する決定を行わせることは危険だし、先日、閣議決定され、今通常国会に法案が提出される予定の「日本版司法取引法案」についても、そもそも、「検察組織が、司法取引を適正に行えるような信頼できる組織なのか?」という点から根本的に考え直してみる必要がある。

今回、検察が組織として行った控訴の決定は、明らかに誤りである。

検察官には、控訴を行う権限が与えられているだけでなく、行った控訴を取り下げる権限もある。

私は、昨日、名古屋地裁から検察官が控訴を行ったとの連絡を受けた後、ただちに、最高検察庁宛の要請書をファックス送付した(名古屋高等検察庁、名古屋地方検察庁にも同旨の要請書を送付)。その中で「検察の理念」にも言及し、以下のように述べている。

控訴を断念することにより、本件に対するこれまでの検察官の権限行使に重大な問題があったことを自認せざるをえなくなることは確かである。しかし、それを怖れて、理由のない不当な控訴という権限行使を行うことは、検察の理念に照らしても、断じて許されないものである。

すなわち、一連の検察不祥事を受けて定められた「検察の理念」においては、検察官の権限行使に関し、「自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず,時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。同時に,権限行使の在り方が,独善に陥ることなく,真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する,謙虚な姿勢を保つべきである。」と述べられており、検察としての面子にこだわり、或いは、捜査・公判の不当性を自認することを怖れて控訴を行ったとすれば、明らかに上記理念に反するものである。

「過ちは改むるに憚ること勿れ」という言葉がある。

大野検事総長が、今、まず行うべきことは、名古屋地検からの報告を鵜呑みにすることなく、証拠全体を再検討した上、控訴が「過ち」であったことを認め、控訴の取下げを行って無罪判決を確定させることである。

 

 

 

 

 

カテゴリー: 藤井浩人美濃加茂市長, 検察問題 | 5件のコメント

「美濃加茂市長無罪判決に検察控訴の方針」は、「妄想」か「狂気」か

3月5日に名古屋地裁で言い渡された美濃加茂市長事件に対する無罪判決に対して、検察が控訴の方針を固めたと新聞、テレビ等で報じられている。

3月16日の中日新聞夕刊によると、「名古屋地検と名古屋高検が協議を重ね、同日午前に合意。近く手続きする。」とのことである。

そもそも、今回の事件は、中林の贈賄供述以外には証拠らしい証拠は全くなく、その贈賄供述にも、捜査機関の関心を他の重大な事件に向けることによって自己の融資詐欺の捜査の進展を止めたいという虚偽の供述の動機があり、供述経過も本人の記憶に基づくものとは思えない不自然なものであり、信用性には重大な疑問がある。無罪判決は極めて当然であり、控訴などしても、無罪判決が覆ることはあり得ないし、全く無意味であることは、無罪判決後の記者会見で述べたとおりである。

「現職市長を逮捕・起訴した事件で、一審が無罪判決となった場合に控訴しないことは、検察の対応としてあり得ない」というのは、検察の常識からするとそのとおりだが、本件には、その「常識」は通用しない。名古屋地検・名古屋高検・最高検で、今回の事件の証拠関係を、組織として冷静に判断すれば、「控訴」という結論が出てくる余地はないと思っていた。

ところが、この中日新聞等の記事によると、何と!検察は「控訴する方針を固めた」とのことである。しかも、「検察関係者の主張」によると、「二人のメールのやりとりや、授受を聞いたとする関係者証言などについて判決が評価していない点が不服だ」というのがその理由だそうだ。

確かに、検察官は、論告で藤井市長(当時は市議)と中林とのメールのやり取りや、中林から「渡すもんは渡している」という話を聞いたとする知人のHの証言を、「現金の授受を裏付ける証拠」として主張したが、判決では、いずれも、簡潔な判示で、あっさりと切り捨てられている。

しかし、それが「不服」だというのは全くの的外れである。そもそも、このような、証拠にもならないものを、贈収賄事件の論告で真顔で主張する検察官の神経が信じ難いものであり、裁判所の判示が短いのは、「あまりに当然なので、詳しく述べるまでもない」ということなのである。

常識をわきまえた賢明なブログ読者に理解して頂くため、上記の2点についての判決文の内容と証拠関係を、少し詳しく紹介しておこう。

二人のメールのやりとり

検察官は、論告で、中林の供述を裏付ける証拠として、二人の間で交わされた以下のメールを指摘している。

[4月2日ガスト美濃加茂店での現金10万円の授受に関連すると検察官が主張するメール]

  • 午前8時25分 中林⇒藤井

 おはようございます。朝から申し訳ございません。御相談とお渡ししたい資料がございます。どの時間でも結構ですので、少しお時間頂けませんでしょうか。美濃加茂に伺わせて頂きますので、宜しくお願い致します。

  • 午後5時40分 中林⇒藤井

 本日はお忙しい中、突然申し訳ございませんでした。議員のお力になれるよう、精一杯頑張りますので宜しくお願いします。

[4月25日山家住吉店での現金20万円の授受に関連すると検察官が主張するメール]

  • 26日午前8時49分 中林⇒藤井

昨晩はありがとうございました。市長選頑張ってください。お手伝いや、ご協力、そして・・・。何でも遠慮なくご相談ください。

  • 26日午後0時31分 藤井⇒中林

昨晩はありがとうございました!本当にいつもすいません。

 

判決では、①について、「検察官は、同日午前中に被告人と中林との間でやり取りされたメールの文言は、被告人に対して現金を渡そうと考えた中林の行動を裏付けるものであると主張するが、同文言は、その内容に照らしても何ら第1現金授受の裏付けになり得るものではない。」、②について、「検察官は、ガストでの会合後に中林から被告人に送信された同日のメールの文言について、現金授受を前提とする更なる中林からの資金援助の意図を含むものと解釈できる旨主張するが、同メールの文言は多義的に解釈しうる上、現金授受がなかった木曽路での会合後に中林から被告人に対して同旨のメールが送信されている事実に照らしても、中林の上記意図を裏付ける証左であるとの検察官の主張は根拠に乏しい推測というほかない。」と述べて、メールに関する検察官の主張を、簡単に切り捨てている。

③、④についても、「検察官は、4月26日に被告人と中林との間でやり取りされたメールの文言は、中林による資金援助を意味する思わせぶりな内容と2度にわたる現金供与を受けたことに対する被告人の感謝の言葉と解釈できる旨主張するが、同メールの文言もまた多義的に解釈し得るところであり、中林から被告人に対して将来的に現金供与を行う気持ちがあることを暗に伝えようとしたものと解釈する余地はあるとしても、第2現金授受があったことを裏付ける証左であるとの検察官の主張は根拠に乏しい推測というほかない。」と判示している。

判決が、このような比較的短い判示で、検察官のメールに関する主張が「およそ中林供述の信用性の裏付けになり得ない」と排斥しているのは、弁護人が弁論で指摘したことを踏まえてのものだと考えられる。弁論を併せて読めば、検察官の主張が凡そ「論外」であることは明らかだ(弁論については、【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】から全文参照できる)。

まず、①のメールについて、検察官は、論告で、「中林が現金と一緒に被告人に渡したと証言しているこれら資料は、何ら利用された形跡がないことから、中林から被告人に会って相談しなければならないことはなく、早急に直接手渡さなければならない資料もなかったとして、上記①のメールが、『会いたい理由は現金を渡すことであったが・・・口実として相談と渡したい資料があると記載して呼び出した』という中林の証言と正に合致している」と主張した。

つまり、この①メールで、中林が「御相談とお渡ししたい資料がある」と書いているのに実際には渡す意味のない資料を渡しているのだから、「お金を渡したかっただけだった」との中林証言が裏付けられていると主張していたのである。

しかし、この検察官の主張は、弁護人が弁論などで以下のように指摘したことで、完全に崩れている。

4月2日に中林が被告人(藤井市議)に渡したと検察官が主張している資料は、【防災安全課打合せ報告書】と題するワープロ打ちメモと、浄水プラントの設置が計画されていた中学校の航空写真である。

同メモは、4月1日に中林が美濃加茂市の防災安全課で浄水プラントの導入について課長らと打合せをした結果を記載したもので、それまでは飲料水としての利用で水道代が大幅に削減できることを前提に提案していたが、それに対して、防災安全課側から、「学校側から飲料水としての使用に対して異論が出ているので、本格的な浄水プラントではなく、生活用水だけのための濾過機だけを購入できないか」という話が持ち出されたことが記載されている。

これに対して中林が、「弊社見解」として、防災安全課側の異論が全く論外であることを、具体的な根拠とともに詳細に書いているのが、同メモである。

つまり、前日の打合せの結果、そのままでは、浄水プラントを導入してもらえそうにないと危機感を強めた中林が、早急に藤井市議にそれを伝え、美濃加茂市当局への対応をしてもらうために作成したのが同メモなのである。

検察官は、このメモについて「利用された形跡がない(ので重要な資料ではない)」と述べているが、この時の資料は、上記内容からして、藤井市議に読んでもらうために作成したものなので、他の資料のように藤井市議から防災安全課に渡したりする必要がなかったのは当然である。

 しかも、同資料に含まれる航空写真は、赤いボールペンで、校舎とか体育館の屋根から雨水をプールに集めるという集水経路を書き込んだもので、浄水プラントを中学校へ設置した場合、雨水をどのようにプールに集めるかについて説明するための資料である。メモだけであればメールで送信することも簡単であるが、ボールペンでの書き込みのある写真をメールで送るのはやや手間がかかる。そのうえ、それらの資料については、見てもらうだけでは藤井市議に中林の危機感や意図が理解されないかもしれず、直接会って口頭で説明をして、それ以降の動きについても相談する必要があったものと考えられる。

「4月2日午前に急遽被告人を呼び出したのは、現金を渡すことが目的であったと」の中林証言が、同日朝に送信された①のメールで裏付けられているという検察官の主張は、渡した資料が早急に渡す必要性のないものだということを根拠にしているが、検察官が4月2日に被告人に渡ったとして証拠提出している資料の内容からは、逆に、「早急に渡す必要がある資料」であることが明らかになっているのである。

検察官は、この主張を、論告の他の箇所で3回も繰り返している。要するに、検察官は証拠の中身を全く見ていないか、あるいは無視して「中林供述の裏付け証拠」だと繰り返し主張しているのである。

このような弁論での指摘を踏まえ、判決は、①のメールについて「同文言は、その内容に照らしても何ら第1現金授受の裏付けになり得るものではない。」と検察官の主張を、簡潔な言葉で切り捨てているのである。

また、③のメールについて、中林は、「そして・・・」という部分は、「お金とか資金という意味である」と証言し、検察官は、論告で、この記載について、「美濃加茂市民ではなく投票権もない中林が市長選挙で被告人に協力できることは、個人的に手伝うことのほか、資金援助と考えることは常識的である」と述べている。

しかし、もし仮に、「そして・・・」という部分が「お金とか資金という意味」であったとしても、それは、「その時点以降に、市長選挙への応援としての資金援助を行う意思がある」という意味であり、その前日に、中林が被告人に現金を渡したか否かとは直接関係しない、というのは、常識で考えても明らかであろう。

また、検察官は、③のメールへの返信の④のメールで「『本当にいつもすいません。』と記載しているのは、複数回の現金授受に対する感謝の言葉と解するのが合理的である」などと主張したが、常識で考えても凡そ通らない主張であり、弁論では、以下のように指摘した。

藤井市議が会話やメールで「すいません」を使うのは珍しいことではない。「すいません」「ありがとうございます」は口ぐせであり、日常的に多用していて、それらの言葉に大きな意味はない。例えば、中林と出会うころから山家での会食直後までの間に(平成25年3月5日~同年4月26日)、藤井-同席者の間、又は藤井-中林の間で送受信されたメールの中から、藤井市議が「すいません」又は「ありがとうございます(ありがとうございました)」をメール内で使用したものだけを抽出したが、30回もある。それに、「いつも」がついているからといって、特に意味があると考えるのはこじつけである。藤井市議は、4月25日以前にも中林と食事したことがあるので、そのことに関して「いつも」と言ったにすぎない。

「いつもすいません」については、検察官もこだわりがあるのか、このメールの記載が現金への礼だと認めさせようと執拗に藤井氏に質問する検察官に対して、裁判長が「もういいでしょう」というような辟易した表情を見せていたことが記憶に残っている(【「空振り」被告人質問に象徴される検察官立証の惨状】)。

H証言の内容

中林から「渡すもんは渡している」と聞いた、というHの証言について、判決では、「Hの公判供述における中林の発言内容は曖昧な内容であることからすると、Hの公判供述によっても中林の公判供述に関する前記判断は左右されるものではない」と述べているだけで、Hの公判供述の内容には具体的には触れていない。

それは、弁護人の弁論でHの公判供述について、以下のように述べていることを踏まえ、「Hの供述が凡そ補強証拠になり得ないことは明らか」と判断したということであろう。

Hが、中林から聞いたというのは「接待はしているし、食事も何回もしてるし、渡すもんは渡してる」という発言のみであり、同発言は、誰に対して何をどれだけ渡した、という最も重要な部分が欠落している。渡した相手方が、藤井市議であるのか、美濃加茂市役所の役人であるのか、学校関係者であるのか、それとも、藤井市議を介した役人や学校関係者であるのか、といった点が全く明らかではなく、この点に関するHの供述は、その内容からして、中林の現金供与という供述内容の信用性を補強する関係にはない。

また、Hが証言するところの中林発言の前半部分の「接待はしているし」に関して、反対尋問で弁護人がHに尋ねたところ、Hは、「中林から、キャバクラやクラブといった夜の店に行って接待していると聞いていた」と答えた。実際には、中林は藤井市議とファミリーレストランなどで3回昼食を一緒にし、一回、居酒屋で45分程度会った程度であり、キャバクラやクラブで接待したことなど一切ないことは争いのない事実である。Hの証言は、中林の現金供与の供述の信用性の補強等には全くなり得ないのである。

しかも、このHの証言の元になる検察官調書は、昨年7月の藤井市長の起訴の直後に急遽作成されたものだ。私が、ブログ【「責任先送りのための起訴」という暴挙】で、

藤井市長が、現金の授受を一貫して全面否定し、会食の場にいた同席者も、席をはずしたことはなく、現金の授受は見ていないと供述している以上、賄賂の授受の立証が到底無理だということは、常識で考えればわかるはずなのに、なぜ起訴という暴挙に出たのか。それは、現職市長を逮捕した事件だからこそ、処分保留・不起訴にすることは、警察幹部、そして、その逮捕を了承し、勾留請求をした検察にとって、重大な責任問題になるからだ。いくら公判立証が困難であっても、無罪の可能性が高いと思っても、現時点で、現職市長逮捕が見込み違いであったこと、間違いであったことを認めるよりは、ましだからだ。

等と痛烈に批判したことを受けて、検察官が、急遽苦し紛れで仕立て上げてきたものであろう。

このようなHを証人尋問したいという検察官の請求に対して、弁護人は「関連性なし」として強く反対したが、裁判所は、敢えて検察官の請求を認めて証人尋問を行うという丁寧な審理を行った。その結果、Hが法廷で証言した内容は、前記のような、およそ中林証言の補強とはなりえないものだったのである。判決が、Hの証言を「曖昧な内容」の一言で切り捨てているのは当然と言うべきであろう。

①~④のメールが、藤井市長に現金を渡したとする中林の供述の信用性を裏付けるものだという検察官の主張も、Hの供述で中林供述が補強されるとの主張も、「常識的に考えて凡そ論外」というレベルのものであり、裁判所が、簡単な判示で切り捨てたのは誠に当然なのである。

控訴審議に関わっている検察関係者が、上記の2点についての名古屋地裁の判断に納得できないから控訴すると本気で言っているのだとすれば、名古屋地検・高検で、控訴の可否についてまともな審議が行われているか否かすら疑問だと言わざるを得ない。担当検察官が都合のよい証拠だけ取り上げて説明するのを鵜呑みにし、弁護人の弁論も読まず、証拠全体も見ていないのではないかと思える。

美濃加茂に本当の春を

「検察控訴の方針」と報じる中日新聞の上記記事は、一部の検察関係者の「妄想」を真に受けた誤報であってほしい。それは、検察組織に「最後の良識」が残っていることを信じる私の切なる願いだ。

記事にも書かれているように、美濃加茂市議会は11日、市政への影響が長期化することを懸念する声明を発表。市長の支援者は、12日に声明文を地検に手渡して控訴断念を求めている。

5万5000人余の美濃加茂市民は、春を待っている。

名古屋地裁の「極めて当然の無罪判決」が確定して藤井市長の潔白が明らかになり、市長の不当逮捕の影響で延期されていた市政60周年記念式典等の行事が晴れて行えるようになる時、美濃加茂市民にとっての本当の春が訪れる。

もし、検察が、「いまさら後には引けない」「控訴断念では検察組織の面子が潰れる」という理由で控訴を行うとすれば、それは、もはや、権力の亡者による「狂気」そのものである。

 

 

 

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「美濃加茂市を焼け野原に」という言葉の意味

3月5日の名古屋地裁判決で無罪判決を勝ち取った藤井美濃加茂市長は、昨年8月25日に保釈されて以降、記者会見やインタビュー、公判での被告人質問などで、警察の取調べの不当性、悪辣さを象徴する言葉として、逮捕直前の任意取調べで、「美濃加茂市を焼け野原にする」と言われたことを、繰り返し述べてきた。

BLOGOSに転載された私のブログ【美濃加茂市長無罪判決~極めて当然だが決して容易ではない司法判断~】に対するコメント欄に、この「焼け野原」に関する以下のコメントがあった。

判決については文句ないんだけど市長が取調べ中に受けたという「美濃加茂市を焼け野原にするぞ」って暴言あれ、本当にあったのかなぁ?って疑問に思ってしまう 屈辱を受けるよりは「お前は何を言ってるんだ?」ってポカーンとしてしまいそうで いくらなんでもそんなアホなこといわんだろうと思ってしまうのですよ。

確かに、警察は軍隊ではないのだから、焼夷弾や火炎放射器で美濃加茂市を焼き払ってしまうことができるわけではない。この言葉だけ聞くと、警察官の言葉は、あまりに荒唐無稽で、「脅し」にすらならないようにも思える。

しかし、実は、この警察官の「焼け野原」発言には、前後関係がある。

藤井市長によると、その言葉は、次のような流れの中で出てきたものだった。

支援者のA、B、C、D(いずれも美濃加茂市内の会社経営者)・・知ってるよね。経営者には警察に聞かれて嫌なことはいくつかあるはずだ。早くお前が話さないと、どんどん関係者や市民のところに警察の捜査が及ぶことになる。美濃加茂市中が焼け野原になっちゃうぞ。塾の子どもたちのところにも警察が行かなければいけない。そんなことになってもいいのか? 

「美濃加茂市を焼け野原にする」というのは、美濃加茂市の建物や田畑を物理的に「焼き払う」という意味ではないのである。

警察の捜査の対象を、藤井市長の支援者や関係者など、美濃加茂市の人達にどんどん拡大していって壊滅的な打撃を与えてやるという意味であり、警察が、その捜査権限を使って、現実的に行い得ることとして告げられた「脅し」そのものなのである。

そのような取調べでの心理的強迫は、検察の特捜部でも、警察の捜査2課でも、被疑者を自白に追い込む常套手段として使われてきた。

被疑者に自白を迫り、参考人に、捜査機関側の意向に沿う供述をするように迫る場合、効果的なのは、その人の最も弱いところを衝くことだ。

社会的地位のある人間は、犯罪の嫌疑をかけられた場合、自分が処罰されること自体よりも、それによって自己が所属する組織や他人が事件に巻き込まれることを怖れる。

罪を犯したのに潔く認めず、他人にも迷惑をかけ、社会や他人との関係性が破壊されることは、身に覚えのない罪で処罰されること以上に辛いことなのである。

それだけに、「美濃加茂市を焼け野原に」という言葉は、5万5000人の美濃加茂市民のために市長職に全力を尽くしてきた藤井市長にとって、自分の支援者や知人を中心とする美濃加茂市民に捜査の手をどんどん拡大し、「草木も生えないような状態にしてやる」という「現実的な脅し」だったのである。

そのような卑劣極まりない不当な取調べの実態は、昔から、特捜事件・捜査二課事件の取調べで心ならずも自白調書に署名させられた被告人や弁護人が訴えてきたし、私も、ゼネコン汚職事件をモデルに書いた推理小説【由良秀之「司法記者」】(昨年5月、WOWOWドラマ「トクソウ」で映像化)の中でも描いた。

そういう取調べの手法は、一連の検察不祥事等で、世の中からの厳しい批判を受け、痛烈な反省を迫られたはずである。ところが、今回の事件で愛知県警は、そういう前時代的手法で藤井市長を自白に追い込もうとし、それを丸ごと容認した名古屋地検が、自白も証拠もないこの事件を強引に起訴した。

それが、今回、無罪判決という一審の結末を迎えたのである。

「美濃加茂市を焼け野原に」、まさに警察・検察の暴走を象徴する言葉だと言えよう。

 

 

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美濃加茂市長無罪判決 ~極めて当然だが決して容易ではない司法判断~

3月5日午後2時、名古屋地裁で、藤井浩人美濃加茂市長に対して、無罪の判決が言い渡された。

昨年6月24日の逮捕の直後から、藤井市長の潔白を確信して、全力で弁護活動に臨んできた私にとって、待ち望んでいた判決そのものであった。

今回の判決について、この最初のブログでは、判決を私がどのような思いで迎えたのか、そして、言い渡された判決が、日本の刑事司法においてどのような意味を持つものなのかについて述べたいと思う。

まず、判決言渡しの直前の私の率直な心境を述べておきたい。

藤井市長が潔白であり、現金を受け取った事実などなく、警察、検察の逮捕・起訴、そして、公判が全くデタラメなものであることは、昨年6月末の市長逮捕以来、私が、ツイッター、ブログ、インターネット番組等で繰り返し述べてきたとおりである。

しかも、9月中旬から始まった公判において、裁判所の事実解明への積極的な姿勢が示され、検察の捜査・立証の杜撰さが、次々と明らかになっていった。鵜飼裁判長の訴訟指揮の方向性、証人尋問、被告人質問での裁判所の質問事項などからしても、裁判所が無罪の心証であることは疑いの余地がないように思えた。

昨年12月24日の第9回公判期日、弁護人が行った11万字に及ぶ膨大な弁論は、論告での検察の主張を完全に崩壊させることができたと手応えを感じたし、無罪は間違いないとの確証を持ったことは、年末のブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】でも詳細に述べた。(同ブログに、弁論全文を掲載した私の法律事務所HPを引用している)

藤井市長逮捕から結審までの約半年、弁護人としてやれることはすべてやり尽くした。私としては無罪判決を確信し、自信を持って判決言渡しに臨むつもりだった。

しかし、判決が近づくと、私の胸中は次第に穏やかではなくなっていった。

我々弁護人が、公判で立証し、弁論で明らかにしたことを、そのまま裁判所が認めるとすると、検察の面子は丸つぶれであり、このような事件で現職市長を起訴して有罪論告を行ったことについて、組織内外で重大な責任を問われかねない。

これまでの日本の刑事裁判における検察と裁判所の関係、とりわけ、今回のような社会的、政治的に極めて重大な影響を及ぼす事件に対する裁判所の一般的姿勢からして、本当にそのようなことができるのだろうか、結審から判決までの間に、裁判所が変節してしまう可能性はないだろうか、そのような不安が次第に大きくなっていった。

今年1月、私と元裁判官の森炎弁護士との対談本【「虚構の法治国家」(講談社)】が出版された。その中で、森氏は、刑事裁判官の「検察の言いなりになる、というより、積極的に、検察にもたれかかりたいという精神性」「根深い依存意識」を指摘し、その「検察にもたれ込む裁判所」が刑事司法の虚構の構図の中心だと、いみじくも述べている。

同書の最後の4章「美濃加茂市長事件から考える裁判所と検察」のあとの「あとがき」で、「一連の検察不祥事を経て、検察は変わったのか、戦前から長らく検察にもたれかかってきた裁判所の姿勢が、司法制度改革を機にどのように変わるのか。それらを占うためにも、美濃加茂市長事件の今後の展開に注目していただきたい。」と書いて、本を締めくくったが、森炎氏が言うように絶望的とも言える日本の刑事裁判官の一般的な姿勢の中で、名古屋地裁刑事6部だけは特別だと、本当に期待して良いのだろうか。

しかも、マスコミ等を通じて伝わってくる検察側の感触は、「判決には全く心配していない」というものだった。あれだけ、弁論で論告がコテンパンにやられているのに、それでもめげないというのは、裁判所が検察の意に反する判決を出すことはないという確たる見通しでもあるのだろうか。

そういう懸念が、いくら打ち消そうとしても、頭から離れなかった。

藤井市長逮捕から公判が結審するまでの半年間、全精力を傾けて、この弁護に取り組んできただけに、万が一、予想外の判決だった場合には、私にとっても打撃は計り知れない。

判決の数日前に、数年ぶりのひどい風邪を引き、声が出しづらい状態になったのも、そういう複雑な心境が影響していたのかもしれない。

そして迎えた判決言渡し。

「主文、被告人は無罪。」という鵜飼裁判長の言葉を聞いて、感無量だった。

裁判の経過からも、我々弁護人が主張・立証してきたことからも、当然の無罪判決である。しかし、その「当然の無罪判決」を出すことが、裁判所にとって、いかに大変なことか。とりわけ今回の事件のように、検察が組織を挙げて取組み、面子にかけて有罪判決を得ようとしている事件において、いかに困難なことか。現職検事としての23年間を含め、これまで刑事司法に関わってきた私が十分過ぎるぐらいに認識していることだった。

そういう意味で、今回の、鵜飼裁判長以下の名古屋地裁刑事6部によって、藤井市長無罪という公正な判断が示されたことに、心から敬意を表したい。

しかし、この判決の本当の意義は、「無罪」という主文だけではない。その結論を導いた理由に極めて大きな意味がある。

判決では、公訴事実の要旨、当事者の主張、公判供述や供述調書の概要等に続いて、本件の最大の争点である「贈賄供述の信用性」についての検討を行っている。

これについて、まず、

中林の公判供述は、全体として具体的かつ詳細なものと評価でき、一定の裏付けが存在する上、弁護人からの反対尋問にも揺らいでおらず、供述内容に矛盾を含むなど明らかに不合理な内容も見受けられないことは検察官の主張するとおりである。

として、検察官が中林供述を信用できる根拠として主張する点を概ね認めた上で、

中林のような会社経営の経験があり、また、金融機関を相手として数億円の融資詐欺を行うことができる程度の能力を有する者がその気になれば、その内容が真実である場合と、虚偽や誇張等を含む場合であるとにかかわらず、法廷において具体的で詳細な体裁を備えた供述をすることはさほど困難なことではない。加えて、本件では、中林は、平成26年10月1日の第2回公判期日及び同月2日の第3回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたり、検察官との間において相当入念な打ち合わせをしてきたものと考えられる上、隣房者との間で対質の方法により行われた第7回公判期日で実施された証人尋問に臨むにあたっても、検察官との間で6,7回に及ぶ打合せを行っていたというのであるから、公判廷において、客観的資料と矛盾がなく、具体的かつ詳細で不自然かつ不合理な点がない供述となることは自然の成り行きといえる。

と述べて、中林が関係資料に整合するように供述を整えた可能性を指摘した。

これまでの刑事事件では、検察官の立証においては、「具体的かつ詳細」「裏付けがある「一貫している」というような要素が認められれば、「供述は信用できる」と判断されるのが一般的だった。

しかし、今回の判決では、中林の贈賄供述について、そのような一般的な供述の信用性の要素は認められるとした上で、中林と検察官とが「入念な打合せ」をしていることなどから「具体的で詳細な体裁を備えた供述をしている可能性がある」として、「供述の信用性が供述者によって作り出されている疑い」を指摘している。

そして、そのように疑う根拠に関して、判決の最後に、「中林の虚偽供述の動機の可能性に関する当裁判所の判断」という項目を設け、

捜査機関の関心を他の重大な事件に向けることにより融資詐欺に関するそれ以上の捜査の進展を止めたいと考えたり、中林自身の刑事事件の情状を良くするために、捜査機関、特に検察官に迎合し、少なくともその意向に沿う行動に出ようとすることは十分にあり得るところである。

と述べているのである。

私は、弁論の冒頭の「はじめに」で、本件の贈賄供述の信用性に関して、以下のように述べている

《中林については、融資詐欺等での自己の処罰を軽減するために、被告人への贈賄の事実を作り出し、意図的に虚偽供述をしていることが疑われているのであり、しかも、そのような中林の供述を、捜査機関側も容認し、取調べ、証人テスト等において、中林とともに、供述の信用性を作出している疑いがある。そのことを踏まえ、「中林が意図的に虚偽供述をしているのか、そうではないのか」を判断することが、本件において真相を明らかにする上で不可欠なのである。

検察官が中林の供述の信用性に関して強調する「関係証拠との符合」「供述内容が具体的で自然であること」などの外形的要素は、事後的に作出することが可能なものであり、上記の意味における「中林の供述の信用性」の評価とはほとんど無関係である。そのようなものは、連日長時間にわたる取調べ、証人テストの中において、中林・取調官のいずれが主体的かはともかく、自由自在に作出することが可能なのである。

本件における中林の供述の信用性評価において重要なことは、事後的には作りだせない供述動機、供述経過等から、中林の供述が自らの記憶に基づくものであるか否かを判断することなのである。》

今回の判決は、裁判所が、弁護人が本件での贈賄供述の信用性に関して強く訴えてきたことを正面から受け止め、「意図的な虚偽供述が疑われる場合の信用性」について適切な判断を示したところに、極めて重要な意味があるのである。

それは、検察が設定した刑事事件の判断の枠組みそのものに対して判断するということであり、元裁判官の森炎氏が対談本で言うところの「検察にもたれかかる裁判所」であれば、このような判断は到底行い得なかったはずだ。

これまでの刑事裁判での裁判所の判断は、基本的に、検察官が設定した土俵の上で、検察の判断の枠組みの下で行われてきた。それが、99.9%を超える高い有罪率につながり、無実を訴える被告人にとっては絶望的な状況が続いてきた。今回の判決は、検察の土俵・枠組みの中での判断ではなく、裁判官自身の、そして世の中の常識に沿った判断枠組みの下での、公正な判断を示したものといえる。

その意味で、今回の判決は、「極めて当然だが、決して容易ではない司法判断」だった。

それを行い得る裁判体によって市長の事件が裁かれたことは、市長逮捕以来8か月余、不当な捜査・公判で大きな損失を受けてきた美濃加茂市民、市役所職員など、市長の潔白を信じて支えてきた人達にとって、最大の幸運であった。

そして、それは、日本の刑事司法に一筋の光明をもたらしたものと言えよう。

 

 

 

 

 

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中京テレビ問題を通して考える訂正謝罪放送のあり方

1月21日の当ブログ【美濃加茂市長事件に関する中京テレビの「重大な誤報」】で、中京テレビのニュース・情報番組「キャッチ」で、藤井美濃加茂市長への贈賄供述者に対する判決の報道において重大な誤報があったことを指摘し、放送内容に対しても批判した。このことを受けて、中京テレビは、同日午後4時半過ぎ、同番組の中で、訂正謝罪を行った。

以下が、その訂正謝罪放送での発言内容である。

【ナレーション】

先週の金曜日、岐阜県美濃加茂市の市長への贈賄罪や別の事件での詐欺罪などに問われた会社社長への判決のニュースをお伝えしましたが、その中で一部訂正があります。

起訴状などによりますと、水道機器販売会社社長の中林正善被告は、おととし、美濃加茂市長の藤井浩人被告に対して、市内の中学校に雨水のろ過設備を設置する見返りに現金合わせて30万円の賄賂を渡したとして贈賄の罪などにも問われています。

また、美濃加茂市などから工事を請け負ったとするうその書類を銀行に提出するなどして、融資金合わせて6100万円をだまし取った詐欺罪なども問われています。

これまでの裁判で、中林被告は起訴内容をいずれも認めていて、先週金曜日、名古屋地裁は、社会に大きな影響を及ぼし、刑事責任は重いなどとして、問われた罪をすべて認定。合わせて懲役4年の判決を言い渡しました。

【キャスター】

「この裁判の贈収賄事件についてなんですけれども、この中林被告の有罪判決が、全面的に無罪を主張しています美濃加茂市長の藤井被告の判決に影響するのかどうか、先日のニュースの中で、中林被告と藤井被告の裁判は別々に行われていまして、裁判官も独立しているので、中林被告の有罪判決が藤井被告の判決に影響を及ぼすことはないとお伝えしました。

つまり、証拠も別で、独立した裁判のわけなんですね。

この部分は正しいんですけれども、ただ、その後のコメントで、これまでの贈収賄事件で、送った側が有罪で、受け取った側が無罪という例はない、とお伝えしました。

しかし、これについてはですね、贈賄側が有罪で、収賄側が無罪というふうに異なる判決が出て、確定したケースがあることが分かりました。

この点訂正して、お詫びいたします。

失礼いたしました。

なお、藤井被告の判決は、3月5日に言い渡される予定です。

私が、同放送について指摘した主な問題は、①判決は融資詐欺と贈賄に対するものであるのに、融資詐欺をほとんど無視し、30万円の贈賄の事実だけで懲役4年の実刑判決が言い渡されたとしか思えない報道であること、②、「藤井判決に影響を及ぼすことはないことの理由が、裁判官に独立性が保障されていることが中心で、中林は公判で贈賄事実を全面的に認めており、収賄事実を全面否認する藤井市長の主張を踏まえた審理は行われておらず、藤井公判とは証拠が全く異なることに一切触れていないこと、③「贈収賄事件で贈った側が有罪で受け取った側が無罪という例がない」という、事実に反する発言をしたこと、の3つである。

中京テレビの放送では、このうち③について訂正と「謝罪」を行ったほか、①については、当初の放送では述べていなかった「美濃加茂市などから工事を請け負ったとするうその書類を銀行に提出するなどして、融資金合わせて6100万円をだまし取った詐欺罪にも問われていること」についても述べ、②については、「証拠も別で独立した裁判のわけなんですね。」と述べた。

一応、私のブログでの指摘に応える内容になっており、当初から、この内容の放送が行われていたら、私が問題を指摘することはなかった。

しかし、訂正放送は、ゼロからの放送ではない、中林の判決に関して、事前の要請文によって、誤解を与えないように要請されていたにもかかわらず、それをほとんど無視した放送を行い、視聴者に重大な誤解を与えたと指摘されたことを受けての対応である。

そういう意味では「訂正謝罪」が十分なものだったとは到底言えない。

まず、①の点については、贈賄だけで懲役4年に処せられたかのような誤解を与えた。

「訂正謝罪放送」では、贈賄だけではなく、融資詐欺も含めて懲役4年の判決だったと述べている。しかし、それは、当初の放送の言葉を訂正するものでもないし、それについて「誤解を招いたこと」を認めるものでもない。当初の放送で、「贈賄で懲役4年になった」というイメージを持った視聴者は、同じ判決のことを再度報じられても、前の放送と何が違うのかがわからないので、当初の印象が変わることは考えにくい。

②の点についても、「訂正謝罪放送」では、確かに「証拠も別で独立した裁判」と言っている。しかし、これだけでは、なぜ、中林被告の有罪判決が藤井被告の判決に影響を及ぼすことはないのかを理解できる視聴者は少ないであろう。

そして、何より重要なことは、「贈賄だけで懲役4年の有罪判決が出たように報じることで、視聴者に対して、贈賄者以上に厳しい有罪判決が藤井市長にも出されるような印象を与えることに問題があり、贈賄側有罪・収賄側無罪の判決が今まで例がないという明白な誤りも、単なる過誤ではなく、そういう方向に報じる材料を集めようとした結果としか考えられない」という指摘に対して、何も答えていないことだ。

【美濃加茂市長事件に関する中京テレビの「重大な誤報」】で引用した当初の放送の内容について、報道局長名で「特に問題ないと考えております。」と回答した中京テレビは、その点の問題が全く理解できていなかったとしか思えない。そのような理解のレベルのままで、明白な誤りだとわかった「贈賄側有罪・収賄側無罪が今まで例がない」という点だけを訂正しても、視聴者に与えた誤解や誤った印象を解消することにはならない。

ここに、訂正謝罪放送の在り方に関する根本的な問題がある。

私は、拙著「『法令遵守』が日本を滅ぼす」などで、かねてから、「法令遵守」の考え方から脱却し、コンプライアンスを「法の趣旨・目的と、その背後にある社会的要請に応えること」ととらえるべきとの持論を述べてきたが、その中で、「放送事業者のコンプライアンス」と「放送法の法令遵守」の関係について。以下のように述べてきた。

公共の電波を用いて行われるテレビ放送の内容は社会に大きな影響をもたらす。それが真実に反し、名誉や信用を害するものであれば、被害は甚大である。免許を与えられている放送事業者に高度な真実義務と倫理が要求されることは言うまでもない。影響の大きさからすると、意図的な虚偽・捏造に対して重い罰則や行政処分が用意されていてもおかしくない。

しかし、一方で、放送内容への国家の介入は、憲法が保障する表現の自由、報道の自由を侵害するので、極力慎重でなければならない。そのため、放送法は、真実でない事項の放送による権利侵害について、放送事業者に、被侵害者の請求によって「事実を調査する義務」と、「真実ではないことが判明した場合に訂正放送を行う義務」を定め(同法4条)、義務違反について50万円以下の罰金という極めて軽い罰則を設けている。「請求があったのに調査しないこと」、「真実に反すると判明したのに訂正放送しないこと」は違反になるが、監督官庁には調査権限も与えられていないので、放送事業者が調査を行いさえすれば、放送事業者自ら真実に反することを認めない限り、同法違反に対して電波法が定める電波停止や免許取消しの処分は、発動しようがない。

そのため、放送内容が事実に反すると指摘された際の放送事業者の対応は、「放送法の法令遵守」という観点からは、「請求があったら必ず調査は行い、その上で、真実に反していないと言い続ける」という態度になりやすい。

実際に、放送内容が事実に反することの立証は困難な場合が多いので、放送事業者としては、そのような態度を取り続けることで、「真偽不明」に終わり、訂正放送を行わなくても済むことが多いのである。

2007年1月に表面化した、不二家の消費期限切れ原料使用問題で、TBSの番組「みのもんたの朝ズバッ」で、半月以上もの間、一日平均15分以上も「不二家バッシング」の放送を垂れ流していたが、その中には、事実に反するもの、事実を歪曲するものが多数あった。

連日のバッシング放送によって、不二家は全製品の製造・販売停止に追い込まれ、フランチャイズチェーンの20%が倒産・廃業に追い込まれた。

当時、不二家信頼回復対策会議の議長を務めていた私は、その中の一つの「消費期限切れチョコレート再利用スクープ」がインタビュー映像の「すり替え」によるねつ造である疑いを掘り起し、発足したばかりだったBPO放送倫理検証委員会にも審理要請を行うなどして、朝ズバッの不二家バッシングの放送倫理上の問題を追及し、事実に反する放送、ねつ造疑惑についての調査に終始消極的だったTBSを徹底的に批判した。

そして、この問題に関連して、その頃、国会で審議されていた放送法改正案に関して、衆議院総務委員会で参考人として意見陳述を行い、「放送の自由の尊重と真実性の確保という二つの社会の要請を両立させるため自律を重視するのが放送法の趣旨・目的であり、そこで放送事業者に求められるのは、自主的に真実を明らかにして放送内容を検証するための調査体制の整備である。監督官庁が果たすべき役割は、体制整備を指導支援することであり、放送内容への直接的な調査や介入ではない。」との意見を述べた。

放送内容に対する国家の介入を排除し「放送の自由」を守るためには、放送事業者が、放送法の「法令遵守」を超えて、事実に反する報道について自主的に調査し、社会の要請に応える姿勢を持たなければならない。このことは、新聞にも寄稿し(【法令順守をはき違えるな】朝日「私の視点」)2007年5月17日)、著書でも、再三にわたって取り上げてきた(【思考停止社会】(講談社現代新書)179頁以下)。

 

「事実に反する放送」について指摘を受けた際に放送事業者がとるべき対応は、決して放送法の「法令遵守」だけにとどまるものではない。それと同様のことが、「事実に反する放送」であることが判明した場合の訂正放送の在り方の問題についても指摘できる。

事実に反する放送を行ったことが否定できなくなった場合、その「事実に反していた部分」を訂正する放送を行いさえすれば、放送法上は問題ない。

しかし、そのような「法令遵守」の観点からの「局所的な訂正」で、本当の意味で、放送事業者として社会的要請に応えたと言えるだろうか。誤った放送が行われる背景には、多くの場合、番組の編成、編集上の問題、取材の方向性、姿勢の問題などがある。そのような点も含めて、視聴者に誤解を与えたり、誤った印象を与えたりしたことの原因を明らかにし、それらを全体として解消し、是正していくことが、放送事業者の真のコンプライアンスである。

中京テレビの今回の「訂正放送」は、「放送法の形式的な法令遵守」という面からは、事実に反する部分が訂正されている。しかし、当初の放送で視聴者に与えた誤った印象や誤解を解消しないままであることは、「公正かつ客観的な報道を行うことで、世の中の事象を視聴者に正しく伝える」という放送事業者のコンプライアンスの側面からは、いまだに重大な問題が残っていると言わざるを得ない。

昨年6月24日に藤井美濃加茂市長が逮捕されてから半年余にわたり、弁護人の立場から、公正かつ客観的な報道・対等報道の要請を続けてきた。

市民の代表者として同市の行政を担う現職市長が、容疑事実を全面的に否定し潔白を訴える事件であるだけに、「推定無罪の原則」の下での報道の在り方が大きく問われる事件であったが、全体として、旧来の「犯人視・有罪視報道」の悪弊を改めたとは到底言えない報道が多く、この種事件の報道の在り方に大きな課題を残したと言って良いであろう。

3月5日午後に言い渡される予定の藤井市長に対する判決を踏まえて、これまでの報道についても検証してみる必要がある。

 

 

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美濃加茂市長事件に関する中京テレビの「重大な誤報」

1月16日、藤井市長に対する贈賄を供述している中林正善に対する判決公判が開かれ、名古屋地裁刑事3部(藤井市長の公判は刑事6部が担当)は、有印公文書偽造・同行使、詐欺、および贈賄の罪で、中林に懲役4年の実刑判決を言い渡した。

当ブログ【「藤井市長への贈賄者に有罪判決」報道に騙されてはならない】でも述べたように、この判決の前日の1月15日午前に、藤井市長の主任弁護人の私から、読者・視聴者に誤解を与える報道が行われることがないよう、報道関係者宛の要請文をファックス送付していた。

程度の差はあれ、その要請に配慮した報道が多かった中で、要請をほとんど無視し、全体として視聴者に重大な誤解を与える内容の放送を行ない、しかも、その中で、「贈収賄事件で贈った側が有罪で受け取った側が無罪という例がない」などという事実に反する内容を報じたのが、中京テレビ(日本テレビ系)の夕方のニュース・情報番組「キャッチ」であった。

少なくとも、我々が把握しているだけで、贈賄側の有罪判決が確定した後に、収賄側が無罪で確定した事例として、1989年11月13日に大津地裁で滋賀県土木部幹部の収賄事件で無罪判決を言い渡した事例(検察官控訴断念)、1992年1月8日に熊本地裁で同県菊池市議会議長の収賄事件で無罪を言い渡した事例(検察官控訴したが棄却され確定)がある。

中京テレビの放送は、これらの事実に反する。

この誤報は、単なる「過誤」とか、「調査不足」などで済まされる問題ではない。事実を全面的に認め、何も争っていない贈賄供述者に対して、有罪判決が言い渡されるのは当然のことである。その判決結果を用いて、収賄で起訴されている藤井市長の有罪も確実であるように印象操作を行おうという意図で行われたとしか考えられない、重大・悪質な誤報である。

この判決に対しては、藤井市長が

私が全く関わっていない中林被告自身の裁判で、どのような判決が行われるかは、私の裁判とは全く関係ないものと思います。私に贈賄したと述べた中林被告の話が信用できるかどうかは、3月5日に予定されている私に対する判決で裁判所の適切な判断が下されるものと信じています。

とコメントし、私も、主任弁護人として、

まず、中林の公判では、中林が贈賄の事実を含め公訴事実を全面的に認めており、中林の弁護人も何らの主張もしていないので、中林の自白に基づいて有罪判決が言い渡されるのは当然である。贈賄事実について、収賄事実を全面的に否認している藤井被告人側の主張を踏まえた事実認定は行われていないので、藤井市長の公判とは全く無関係である。

有罪とされた有印公文書偽造・同行使、詐欺の事実の犯行態様の悪質性・重大性を考慮すれば、贈賄が起訴されていなかったとしても4年の実刑は当然であり、贈賄の事実が認定されたことの量刑への実質的影響は軽微だと考えられる。

むしろ、4年の実刑とされたのは、藤井弁護団が4000万円の融資詐欺の事実を告発したことを受けて、検察官が、同事実を追起訴したことによるものであり、それがなければ、融資詐欺の起訴は2100万円にとどまっていたと考えられる。

しかも、検察官は、弁護人が、10月24日付け、及び12月19日付けで告発した合計被害額3億4750万円の融資詐欺の事実を、中林が全面的に自白しているにもかかわらず、嫌疑不十分等の裁定主文で不起訴処分にしているのであり、このような検察官の不当な事件処理によって、中林の融資詐欺の起訴事実が6100万円の被害額にとどまったことが、量刑が懲役4年にとどまった原因であり、未決勾留が210日算入されたことをも考慮すると、中林に対する量刑は、その刑事責任と比較して著しく軽いと言わざるを得ない。

とコメントした。

この判決についての新聞、テレビ各社の報道の多くは、判決内容のほかに藤井市長や主任弁護人のコメントを報じており、全体としては、程度の差はあれ、上記要請を考慮したことが窺われる内容だった。

中部地区で圧倒的な発行部数を誇る中日新聞は、社会面で、「市長『判決は関係ない』 美濃加茂汚職 市議『予想通り』」との見出しで、市長や主任弁護人のコメント、中林弁護人のコメントを載せ、1面の解説では、

「美濃加茂市長に30万円を渡したとして贈賄罪に問われた中林正善被告の有罪判決は、被告が全面的に起訴内容を認める中で導かれたものだ。無実を訴える市長藤井浩人被告の判決は3月に予定されているが、異なる審理内容を基に別の裁判長が有罪か無罪かを判断するため、今回の判決が影響することはない。過去にはリクルート事件の1審で贈賄側の江副浩正元会長が有罪になる一方、収賄側の藤波孝生元官房長官は無罪(二審で逆転有罪となり確定)になるなど、判断が分かれた例もある。中林被告の公判では、検察側、弁護側ともに事実関係に争いはなく、証言台に立ったのは中林被告だけ。それも「反省している」と情状酌量を求めるもので、有罪判決は必然だった。しかし、藤井被告の公判で検察側、弁護側は「現金授受の有無」をめぐって真っ向から対立。藤井、中林両被告や各証人ら七人が証言台に立った。弁護側は両被告の会食に同席した知人から「授受の機会はなかった」との証言を引き出した。一方、検察側は中林被告の知人2人から「現金を渡したと聞いた」との趣旨の証言を得た。授受の現場を防犯カメラでとらえるなどしていたわけではなく、唯一の直接証拠と言えるのは中林被告の贈賄供述のみだ。知人らの証言など中林被告の公判では存在しなかった審理内容を基に、藤井被告の判決が贈賄供述の信用性をどう評価するのか。争いのない今回の公判に比べ、核心に迫った判決となるに違いない。」

と、両公判での主張立証の違いを分かりやすく説明している。

NHKは、午後6時の全国ニュースとその後の中部・東海地区のニュースで、判決を取り上げ、主任弁護人のコメントのほか、「贈賄側は有罪となり、収賄側が無罪になるということはあり得ます」という刑訴法学者の識者コメントを入れている。

民放局では、名古屋テレビ(テレビ朝日系)の夕方の番組で、

「2人の裁判は、別々の裁判長のもとで行われている。対立する2人の主張を裁判所がどう評価するか、注目されている。藤井市長の裁判で、中林被告が検察側の証人として出廷し、贈収賄の有無について争う場面があった。一方、中林被告の裁判では、贈賄行為の前提について争われることなく、贈賄があったことが前提として裁判が進められてきた。その結果、<被告人を懲役4年に処する>中林被告には、贈賄罪のほか、2つの金融機関から融資金をだまし取った罪も含め一括とした量刑が言い渡された。」

と、中林公判と藤井公判との証拠が全く異なることにも言及した。

このような両公判の証拠の違いについて言及した報道は、上記中日新聞と名古屋テレビの報道くらいであり、結論が異なる場合の理由として、別々の裁判長が担当することを挙げているのが大部分であった。懲役4年という量刑が、贈賄が含まれず有印公文書偽造・同行使、詐欺だけでもおかしくない量刑であることに触れた報道がなかった点に不満は残るが、判決に関する報道は、全体として、要請文に相当程度配慮したものといえよう。

その中にあって、要請を完全に無視し、視聴者に誤解を与える最悪の内容で、しかも、その中に、明らかな誤りがあったのが、中京テレビ(日本テレビ系)の番組「キャッチ」だった。

以下は、その中での、中林判決に関する放送の音声である。

【ナレーション】

贈賄側に懲役4年の判決が言い渡されました。今日、名古屋地裁に入る贈賄などの罪に問われている水道機器販売会社社長中林正善被告44歳。起訴状などによりますと、中林被告は、おととしの4月、当時市議会議員であった美濃加茂市長藤井被告に対し、市内の中学校に雨水のろ過設備を設置してもらう見返りに現金30万円を渡したなどとされています。一方で、収賄などの罪で起訴されている藤井浩人被告は、一貫して現金の授受はないとして無罪を主張しています。名古屋地裁で開かれた裁判で、堀内裁判長は、「自己の会社の利益を図るため、30万円という少なくない現金を市議会議員に交付した」として、中林被告の贈賄の事実を認め、懲役4年の判決を言い渡しました。弁護側は、中林被告の供述の信用性が認められたなどとして、控訴しない方針だ、ということです。無罪を主張している藤井被告は、中林被告の有罪判決を受けて、「私の裁判とは全く関係ないものと思います。裁判所の適切な判断が下されるものと信じています」とコメントしています。3月5日に藤井被告に判決が言い渡される予定です。

  【キャスター】

今回、贈賄側の中林被告に懲役4年の有罪判決が言い渡されました。控訴しない方針、ということですので、有罪判決が確定する見通しなんですね。一方で、一貫して無罪を主張し続けている美濃加茂市長の藤井被告。名古屋地裁などによりますと、それぞれ裁判官が別なんですよ。裁判官には独立性が保障されています。さらにですね、藤井被告の審理も終了していまして、あとは判決を待つばかり、という状況となっていますので、今日の中林被告の有罪判決がですね、藤井被告の判決に影響を及ぼすことはないであろうということです。ただ、今まで贈収賄事件で贈った側が有罪で受け取った側が無罪という例がない、ということなんですね。この注目の藤井被告の判決は、3月5日に言い渡される予定です。

要請文でも述べているように、中林に対する裁判所の量刑の殆どは、公文書偽造・行使を伴う悪質な融資詐欺に関するものであり、贈賄の事実の量刑は僅かなものに過ぎない。もし、30万円の贈賄だけで起訴されていたら、贈賄の法定刑は三年以下の懲役・罰金であるから、せいぜい懲役1年程度で、執行猶予が当然であり、4年の実刑など、まずあり得ない。ところが、この放送を見る限り、中林は「30万円の贈賄の事実」だけで懲役4年の実刑判決を受けたとしか思えない伝え方をしている。

また、藤井公判への影響について、「藤井判決に影響を及ぼすことはないであろう」と言ってはいるが、その理由は、「裁判官には独立性が保障されていること」「藤井被告の審理が終了していること」とされているだけである。中林は公判で贈賄事実を全面的に認めており、収賄事実を全面否認する藤井市長の主張を踏まえた審理は行われておらず、藤井公判とは証拠が全く異なることに全く触れていない。

その上で、最後が、「ただ、今まで贈収賄事件で贈った側が有罪で受け取った側が無罪という例がないということなんですね。」という、全く事実に反する「解説」で締めくくられているのである。視聴者誰もが、「中林の判決とは別の裁判官が判断しても、贈賄の中林が有罪なのだから、収賄の藤井市長も(いくら悪あがきしても)有罪になるだろう」と思うような内容である。

「弁護側は、中林被告の供述の信用性が認められたなどとして、控訴しない方針だということです」というのも全く意味不明であり、あたかも中林判決で、中林の供述の信用性が判断されたかのような誤解を招くものである。中林公判では事実関係は争っていないのであるから、中林供述の信用性は問題にならない。仮に中林の弁護人がそのような発言をしたとしても、不控訴の理由としてわざわざ報道するようなことではない。現に、他の新聞、テレビでは、そのような「不控訴理由」は全く報じられていない。

このような、視聴者に重大な誤解を与える放送が行われたため、週明けの1月19日に、中京テレビ報道責任者宛に文書を送付し、同番組で、中林の判決について、上記「有印公文書偽造・同行使、詐欺」の点を完全に無視し、贈賄だけで4年の実刑が言い渡されたかのように報じた点、「今まで贈収賄事件で贈った側が有罪で受け取った側が無罪という例がない」などと報じた点において、上記要請を完全に無視した内容の放送であったと指摘し、①上記番組を放映するに当たって、当職からの要請文をどのように取り扱ったのか、②上記番組について、問題はないと考えているのかについて、回答を求めた。

(他に、東海テレビ(フジテレビ系)の報道責任者に対しても、「東海テレビ スーパーニュース」の放送内容に関する指摘と、回答を要請する文書を送付したが、その問題の程度は中京テレビとはかなり差があるので、当ブログでは東海テレビの問題には触れないこととする。)

同日夕刻に送付されてきた中京テレビ報道局長名の回答書は、以下のようなものだった。

1.番組放送にあたって、郷原様からの「要請文」をどのように取り扱ったか

まず、「要請文」については、社内で検討させていただきました。その上で、「当時、現職の市会議員に現金を送ったとされる贈賄容疑」は、「社会的にも関心の高い重要な事案であり、その判決内容を中心に報道することは意義がある」と判断いたしました。

また、判決文についても「贈賄および利益供与」について相当量をさいて説明をしており、内容的にも「合計30万円という少なくない現金を市会議員に交付したことは、市民の信頼を毀損し、社会に大きな影響を及ぼすものである。被告人の刑事責任は重い」旨を記しており、充分に中心的に報道すべき内容であると判断いたしました。

その上で、「有印公文書偽造・同行使、詐欺」については、画面のスーパーインポーズで「贈賄・詐欺などの罪」と示し、原稿でも「贈賄の罪などに問われているのは…」と表現し、判決が「贈賄罪」だけでないことを示しました。

また、本番組の中では、藤井被告のコメントとして「私の裁判とは、全く関係ないものと思います。裁判所の適切な判断が下されるものと信じています」と、ナレーションで紹介しています。

加えて、スタジオ部分では「それぞれの裁判官は、独立性が保証されていることから、この中林被告の有罪判決が、藤井被告の判決に影響を及ぼすことはない」旨をキャスターが説明しています。

スタジオの最後で、「今まで贈収賄事件で賄賂を渡した側が有罪で、受け取った側が無罪となった例がない」というのを、これまでの「確定判決」の例から、事実をそのまま述べたものです。

2.番組内容が、問題ないかと考えるか

これについては、上記1の理由から「特に問題ない」と考えております。

 

回答書の最後の部分で、「贈賄側有罪・収賄側無罪の判決が今まで例がない」というのが全くの誤りで、「事実をそのまま述べた」と強弁した点には全く弁解の余地はない。

しかし、問題はそれだけではない。この回答文は、要請文を踏まえて放送を行ったことの説明には全くなっていない。

「贈賄および利益供与について相当量をさいて説明をしており」と述べているが、実際の判決は、当然のことながら、贈賄および利益供与より、融資詐欺についての量刑理由の説明の方の量が多いのに、その点を完全に除外し、誰もが贈賄だけで懲役4年の実刑判決を受けたと思わせる内容になっていることが問題なのである。

「贈賄・詐欺などの罪」と画面に表示した、と述べているが、そのような表示はそれほど気に留めないし、「詐欺」という一言があっても、上記コメント等がなされているので、それだけでは意味がわからない。

つまり、放送全体が、贈賄者に対する懲役4年の有罪判決が出たことから、視聴者に「藤井市長に対してもそれ以上に厳しい有罪判決が出される」と思わせる内容になっているのである。そのことが問題なのであり、「贈賄側有罪・収賄側無罪の判決が今まで例がない」という明らかな誤りも、単なる過誤ではなく、そういう方向に報じる材料を集めようとした結果、としか考えられない。

この放送を見た藤井市長は、「いくら自分の裁判で潔白を訴えても、贈賄者の裁判で有罪判決が出ると、無罪判決が出る可能性は全くないのかと、暗澹たる気持になった。」とのことであり、放送を見た美濃加茂市職員の多くも、「市長は潔白なのに、有罪にされてしまうのか…とショックを受けた。」とのことである。

我々弁護人の主張の内容や審理を知っている被告人の藤井市長や、日頃から藤井市長の裁判に関心を持って情報に接している市役所職員でも、そのような受け止め方なのである。この放送だけを見た一般の市民がどのように受け取るかは、容易に想像できるであろう。

中京テレビは、放送法による規律の下で、公共の電波の使用を許可されている放送事業者である。このような放送倫理上重大な問題を引き起こしたことを、単に、「贈賄側有罪・収賄側無罪の判決が今まで例がない」という点だけを形式的に訂正するだけで済ますことは、決して許されない。

 

 

 

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「藤井市長への贈賄者に有罪判決」報道に騙されてはならない

1月16日午前、名古屋地方裁判所で、藤井浩人美濃加茂市長への贈賄供述者中林正善の有印公文書偽造・同行使、詐欺、贈賄被告事件に対する判決言い渡しが予定されている。

藤井市長の公判では、中林は、4億円近くもの融資詐欺を犯したと自白しているのに、僅か2100万円しか立件・起訴しないことの見返りに藤井市長への30万円の贈賄供述が行われた「闇取引」の疑いを指摘しているのであるが、藤井弁護団の告発を受けて、藤井市長の公判中に追加起訴された4000万円を含む6100万円の融資詐欺と30万円の贈賄が中林の起訴事実であり、それら全体に対して判決が言い渡される。

中林の贈賄供述は、中林の創作或いは捜査官側の誘導によるもので、全くの虚偽であることは、藤井弁護団が一貫して主張してきたところであり、昨年12月24日の公判期日で弁護人の弁論で詳細に論証した(その概要は、当ブログ【美濃加茂市長事件結審、揺るがぬ潔白への確信】)。藤井市長も、我々弁護人も、3月5日に予定されている判決で、市長の無実が明らかになることを信じている。

しかし、中林自身の公判では、被告人の中林が贈賄の事実を含め公訴事実を全面的に認め、全く争っていないので、有罪判決が言い渡されるのは当然である。

被告人中林からも、弁護人からも、事実関係について何の主張もされておらず、贈賄の事実を否定する藤井市長の供述も証拠として提出されていないのだから、裁判所としては、贈賄の事実を否定する余地がない。もちろん、藤井市長の公判で争点となっている中林の贈賄供述の信用性についても判断が示されることはない。

しかし、藤井市長の逮捕直後から、「有罪視報道」を繰り返してきたマスコミは、この「当然の有罪判決」についても、世の中に、「藤井市長有罪」のイメージを拡散するために、最大限に活用しようと考えているようだ。実際に、中林の判決に先立って、複数の報道機関から、藤井市長に対して、中林公判での贈賄の有罪判決についての感想・コメントを求めてきている。

中林に対する判決の中で、量刑上は贈賄より遥かに重い融資詐欺を除外あるいは極端に矮小化して、贈賄の部分を殊更に強調し、「藤井市長への贈賄者に有罪判決」などの見出しで、「無罪を主張する藤井市長公判への影響が必至」などと報じ、「裁判所の判断が出ても辞職の意向なし」などと非難しようというのであろうか。

万が一にも、このような不当な報道が行われて、読者・視聴者に、裁判所が藤井市長の収賄事件について有罪を認定したかような誤解を与えることがないよう、本日、主任弁護人の私から、名古屋、岐阜の報道関係者宛ての要請文を送付した。以下にその全文を引用する。

  2015.1.15

報道関係者各位

 中林正善被告人に係る判決の報道についての要請

                   藤井浩人主任弁護人 弁護士 郷原 信郎

1月16日午前、名古屋地方裁判所で中林正善の有印公文書偽造・同行使、詐欺、贈賄被告事件に対する判決が言い渡される予定である。

中林の公判では、中林が贈賄の事実を含め公訴事実を全面的に認めているので、検察官請求の証拠に不備でもない限り、中林の自白に基づいて有罪判決が言い渡されるのは当然である。そこでは贈賄事実の有無について格別の判断が示されるものではなく、ましてや、藤井市長の公判で争点となっている中林の贈賄供述の信用性について、判断が示される余地は全くない。

しかも、中林に対する公訴事実のうち、「有印公文書偽造・同行使、詐欺」は、地方自治体等の名義の発注書・受注証明書・契約書等を偽造して、浄水設備を受注しているかのように装い、取引先の名義で自社の預金口座に振込を行って発注者から代金が入金されているように仮装するなどして、金融機関から6000万円もの金員を騙取した悪質・重大な融資詐欺事案であるのに対して、「贈賄」の公訴事実は、金額が30万円と僅少であるうえ、上記詐欺等での勾留中の自首に等しい経過であることから、刑事責任の程度は軽微である。

同被告人に対する裁判所の量刑判断の殆どは、「有印公文書偽造・同行使、詐欺」の事実に関するものなのであるから、同被告人に対する判決を報じるのであれば、金融機関を食い物にする悪質かつ重大な融資詐欺の再発防止の観点からも、融資詐欺の事実を中心に報じるのが当然であり、それが、報道機関としての社会的責任でもある。

しかるに、中林公判で上記判決が予定されていることに関して、複数の報道機関から、藤井浩人美濃加茂市長に対して、中林公判での贈賄の有罪判決についての感想・コメントを求めるなど、中林に対する贈賄の有罪判決を、藤井市長の事件に関連づけて報じようとする動きがある。

藤井市長は、上記中林の贈賄供述に基づいて受託収賄で逮捕・起訴されたが、一貫して賄賂の授受を否定し、潔白を訴えている。贈賄事実を全面的に認める中林に有罪判決が出たからといって、それを、担当裁判部も異なり、主張も証拠も完全に異なる藤井市長の事件に関連付け、贈賄の事実を同一の裁判所が認めたことを印象づけるかのような報道を行うことが許されないことは言うまでもない。

また、中林に対する有印公文書偽造・同行使、詐欺、贈賄の事件に対する有罪判決のうち、贈賄の部分だけ殊更に強調し、「藤井市長への贈賄で中林被告に有罪判決」などの見出しで報じることは、読者・視聴者に対して、藤井市長の贈収賄事件で裁判所が有罪を認定したかのような誤った印象を抱かせることになる。

藤井市長は、受託収賄等を全面的に否認したまま保釈され、美濃加茂市長の職に復帰し、市民の支持と信頼を得て市長の公務に全力を尽くしている。万が一、中林に対する有罪判決があったことが、藤井市長事件の有罪無罪の判断に関連づけて報道された場合、読者・視聴者に、「藤井市長有罪」の誤った印象を与えることとなり、藤井市長の公務に重大な支障を生じさせることとなる。また、中林に対する判決の報道を通して、藤井市長が有罪であるかのような印象操作を行うことは、「推定無罪の原則」の下での報道倫理にも反するものである。

そこで、藤井市長の主任弁護人として、中林判決の報道に当たって、下記の事項を要請する。

①有印公文書偽造・同行使、詐欺、贈賄被告事件に対する判決であることを正確に表示すること(法定刑、量刑への影響の比較からも、「贈賄等被告事件」などと略称することは事実に反する歪曲であり、許されない。)

②判決での「量刑についての判断」は、融資詐欺の事実に対するものと贈賄に対するものとを区別し、融資詐欺に関する判示が贈賄に対する判示と誤解されないようにすること

③贈賄に関する判決について、藤井市長の公判との関係に言及する場合は、「中林被告は起訴事実を全面的に認めているので有罪判決は当然であり、証拠関係も異なるので、藤井市長に対する判決とは直接関係ない」旨付記すること

 

万が一、上記要請に反する報道が行われた場合には、報道倫理上の問題としての対応及び法的措置を検討せざるを得ないことを付言する。

上記①の「贈賄等被告事件」というのは、新聞等での表現で言えば、「贈賄などの罪に問われている中林被告」という言い方であろうが、いずれにしても、中林の刑事責任の大半は融資詐欺であり、それを「贈賄など」と表現するのは、判決の歪曲以外の何ものでもない。

名古屋・岐阜のマスコミ各社の報道が、上記要請に反するものとなっていないか、明日の判決に関する新聞記事、テレビニュースに注目したい。

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マック問題における「商品の品質」と「顧客対応の品質」の混同

昨年末から、マクドナルドのハンバーガーやチキンナゲット等の商品に、ビニール片、金属片、中には人の歯が発見されたなどと、異物混入の問題が、連日、メディアで大きく報道されている。

ワイドショーで、匿名・顔無しで登場する異物混入の「被害者」は、「マクドナルド側は100円返金しただけで、謝罪がなかった。原因についても説明がなかった。」などと同社側の対応を厳しく批判している。

3連休中に立ち寄ったショッピングモールのフードコートでは、他のコーナーは行列ができているのに、マクドナルドのコーナーだけが閑散としていた。このことからも、「異物混入問題」の影響の深刻さを感じる。

異物混入の問題についての見方は二つに分かれる。「商品として出荷された食品に異物が混入することなどあってはならない。許されない。」という教条主義的な考え方がある一方で、「食品の製造工程で異物混入を完全になくすことは不可能であり、それを一つひとつ取り上げるのは騒ぎ過ぎ。」という、冷静な見方もある。

多くの食品企業では、「100万個の商品についての発生件数」をPPMという単位で表示し、異物混入の統計をとっている。異物混入で健康被害が発生したとか、その危険性があったというのであれば話は別だが、そのような問題ではない異物混入については、本来は、このPPMの数値等に基づいて発生頻度の大きさが問題にされるべきだ。

そういう意味では、今回の異物混入の問題は、「商品の品質問題」としてとらえると、報道は過剰であり、この問題を正しく伝えているとは言い難い。

もっとも、直近の報道で取り上げられているのは、必ずしも「異物混入の問題」自体ではない。むしろ、異物混入の事実が指摘されたことに対するマクドナルド側の対応の問題が取り上げられることが多くなっている。

そこには「顧客対応」というもう一つの問題がある。

食品に関連する事業は、製造業、流通業、小売業、飲食店事業の4つに大別できる。

食料品を工場で大量生産して供給する食品製造業の場合、顧客との接点は日常的なものではない。直接対応しなければならないとすれば、商品に関して消費者からの苦情等があった場合である。この場合、もし、製品の品質に問題があれば、ほとんどの場合、当該製品だけではなく、同じ工場やラインで製造された製品全体に関わる問題になるので、消費者からの苦情に対しては、情報の収集把握の観点からも、最大限に丁寧に対応することが求められる。(ペヤングが虫の混入問題で商品の出荷を全面的に停止したのは、まさにその典型例である。)

一方、食品小売業、飲食店事業の場合、顧客との接点は日常的だが、顧客から商品や提供した料理に関して苦情・クレームがあった場合にも、それは当該食品の提供の過程、つまり小売業であれば商品の保存・管理、飲食店であれば食材の加工・調理の過程における個別問題である可能性の方が大きい。そのため、提供する商品や料理全体に関わる問題というよりは、その苦情・クレームを言ってきた特定の顧客との個別対応の問題になる場合が多い。

そして、その顧客対応においては、礼節をもって丁寧に対応するのは当然であるとしても、中には「不当要求」や「詐欺的な要求」というのもあり得るのであるから、顧客の要求にすべて応じることが適切な対応、ということにはならない。

一般的に、顧客対応に関しては、小売業や飲食店の業態や取扱う商品のグレード等に応じた「業務品質」が要求されることになる。同じ飲食店事業であっても、高級レストランとファーストフード店との間には、要求される顧客対応の品質に差があるであろう。

そういう観点から言えば、全国津々浦々に膨大な数のハンバーガーショップを擁し、大量の飲食物を提供するマクドナルドの業態というのは、ちょうど食品製造業と小売業、飲食店事業の中間形態であり、そこには、顧客対応に関する複雑な要素がある。

主として国外の工場で製造した食材を、個々のハンバーガーショップで加工し、店内で顧客に提供する。そこで、顧客からの商品に関する苦情・クレームがあった場合、原因としては、工場での製造過程と、ハンバーガーショップでの加工の過程の両方が考えられるが、厳重な製造管理が行われている工場の過程より、個別のハンバーガーショップでの加工の過程での発生確率の方が圧倒的に大きいのが一般的であろう。

このことを前提にすれば、マクドナルドにおける顧客対応は、基本的には、飲食店事業型であり、しかも、提供する商品のグレードという面で言っても、一般的に要求される「顧客対応の品質」は、高級レストランとは異なるものといえ、だからこそ、アルバイト中心の従業員や若年の店長等による対応が可能だということであろう。

このように考えると、少なくとも、このところ新聞、テレビ等で報じられている「異物混入問題」におけるマクドナルドの顧客対応が、特に問題があると言えるかどうかは疑問だ。

それなのに、これだけの騒ぎになってしまったのは、なぜだろうか。

異物混入を発見した消費者が、メーカーに連絡をする前に、ネット上に写真をアップしたり、マスメディアに連絡をしたりすることが原因との指摘もあるが、それは一因ではあっても、主たる原因ではないように思う。

通常であれば、商品の中にビニール片等の異物が入っていたとしても、その写真をすぐにネット上にアップすることはしないであろうし、もし、アップされたとしても、それがすぐにネット上で大きく取り上げられて大騒ぎになることもない。

一般的には、ハンバーガーショップにおける「異物混入」の問題は、工場での製造過程の問題ではなく、個別店舗の問題であり、その一つひとつが、マクドナルド全体の問題として大きく取り上げられることにはならないからだ。

それが、今回の「異物混入問題」では全く異なった展開になった理由として考えられるのは、2014年7月に発覚した、マクドナルドの「消費期限切れの食肉使用問題」だ。

上海の中国法人が製造した消費期限切れ食肉がマクドナルドの商品の原料として使われていた問題は、マクドナルドの商品の品質問題そのものであった。それが、メディアで大々的に報道されたことによって「マクドナルドの商品の品質」に対する信頼が大きく揺らいだ。

その問題から半年しか経過しておらず、マクドナルドの商品イメージに影響が残っている状況下で、「異物混入」がネット上にアップされたことで、もともとは、個別店舗における「顧客対応」の問題だったのが、消費期限切れの食肉問題と同様の「商品の品質問題」のように誤解された面があるように思われる。

その点の誤解が、インターネットでの情報拡散、マスコミでの大々的な報道につながり、社会的問題となってくると、個別店舗における異物混入に対する顧客対応の問題までもマスコミ等で大きく取り上げられることになる。

では、マクドナルドは、食品関連企業として、今回の問題に対してどのような対応をすべきだったのだろうか。

まず重要なことは、昨年の消費期限切れ問題の影響を考慮して、通常の「異物混入問題」とは異なった対応を行うことだったと考えられる。

ネットでの動きが始まった段階で、ハンバーガーショップにおける「異物混入」が、一般的には「個別店舗の問題」であることを理解してもらうため、「異物混入」についての問合せ・苦情件数の推移の統計数字等を用いて、それが、消費期限切れの食肉問題のような「工場の製造過程における品質問題」とは性格が異なることを十分に説明することが必要だった。

会社として、すみやかに、ネットで取り上げられている問題について、それがどのような問題なのかを丁寧に説明すれば、大きな誤解は防げたはずだ。

食品企業の危機対応は、発生した問題の性質と、それに関連する環境を考慮した柔軟なものでなければならない。危機対応は決してマニュアル通りで済むものではない。

そういう意味で、マクドナルドの「異物混入問題」への対応は、食品企業の危機対応にとって大きな教訓となるものと言えるだろう。

今回の「異物混入問題」については、マスコミ報道にも危ういものを感じざるを得ない。現時点では、報道ないし放送倫理上の問題は具体化していないが、一つ間違うと、ちょうど8年前の今頃の「不二家消費期限切れ原料使用問題」でのTBS「みのもんたの朝ズバッ」のような問題を引き起こしかねない。

この時も、ペコちゃんブランドで国民的に人気が高い不二家に対するマスコミのバッシングは異常だった。

当初は、消費期限切れの牛乳をシュークリームの原料に使用した事実を「バレたら雪印の二の舞」と言って社内に箝口令を敷いたことへの「隠ぺい企業批判」から始まったが、実は、この「雪印の二の舞」は、雪印の社内者が考えたものではなく、外部のコンサルタント会社のスタッフが、自らの存在価値を誇示するため、社内会議に提出した資料の中で使った表現であった。「隠ぺい企業批判」は誤解であり、「消費期限切れ牛乳使用」といっても品質上何の問題もない、単なる社内基準違反だった。⇒拙著【思考停止社会(講談社現代新書)19頁】

しかし、それがわかっても、マスコミのバッシングは止まらなかった。些細な社内基準違反や、真偽不明の元従業員の告発証言を取り上げるなどして、連日、新聞・テレビでの不二家バッシングが続いた。その中で、異常なまでの執拗な報道を展開したのが「TBS朝ズバッ」だった。一日平均15分の枠を使って連日不二家問題を取り上げ、その中で、凡そ公共の電波での放送にはあるまじき報道を垂れ流し続けた。【組織の思考が止まるとき(毎日新聞社)205頁以下・166頁以下】

この番組の不二家バッシング報道の中には、「異物混入」を取り上げたものもあった。

2007年1月31日の番組で、異物混入問題で批判されていた不二家が、件数が他メーカーと比較して特に多くないことの根拠として、1年間の「異物混入問い合わせ件数」を「1670件」と公表し、100万個当たりの発生件数を意味する「PPM」の数字が食品メーカーにおける一般的な数字と異ならないことを示したのだが、翌日の「朝ズバッ」では、「問合せ件数」をことさらに「苦情件数」に書き替え、PPMの数字を削除した表を紹介した上、みのもんた氏が、「苦情件数が1年間に1670件」だと呆れたように言い放った上、「これはもう異物というより汚物だね、こうなると。」などと、食品メーカーの問題に対して、絶対に口にしてはならない「汚物」などという言葉で、不二家をこき下ろしたのである。

不二家には全国に洋菓子のフランチャイズ店を展開している。この問題の不二家バッシングの影響で、そのうち2割の店が、倒産・廃業に追い込まれ、自殺者まで出ることとなった。

不二家信頼回復対策会議の議長として、あまりに理不尽な不二家バッシングへの怒りと悲しみを経験した私には、今回のマクドナルド・バッシングが、不二家バッシングのような異常な事態に発展することが懸念されてならない。

マスコミ関係者には、このところ報道されている問題が、「商品の品質問題」ではなく「顧客対応の品質問題」であることを認識・理解した上、節度ある、良識に基づく報道が行われることを切に望みたい。

 

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