「問題の単純化」によって不祥事が「巨大化」する構図

今年は、特に、7月以降の後半に、企業不祥事がマスコミに大々的に取り上げられ、社会問題化する事例が相次いだ。

7月4日、カネボウ化粧品が、美白成分ロドデノールを含む化粧品の自主回収を発表し、それ以降、「白斑被害」がマスコミで大きく取り上げられ、大きな社会問題に発展した。8月には、JR北海道が、レール幅が基準値外となっているのを放置していた問題を始め、様々な問題が明らかになって、厳しい批判を受けた。

9月下旬には、みずほ銀行が「暴力団員向け融資」の問題で金融庁から業務改善命令を受け、そのタイミングが、ちょうど、メガバンクの幹部の不正に「倍返し」と言って立ち向かう銀行マンを描いたドラマ「半沢直樹」が空前の高視聴率を記録して終了した直後だったこともあって、批判が一気に過熱し、反社対策の問題は、金融業界全体を巻き込む問題に発展した。

そして、10月下旬には、阪急阪神ホテルズの「食材偽装」問題が表面化、社長が辞任してもなお批判は収まらず、ホテル・レストランのみならず百貨店業界をも巻き込む社会問題に発展した。

東日本大震災が発生した2011年の九州電力「やらせメール」問題、オリンパス問題以降、企業不祥事が大きな社会問題にはならない状況が続いていたが、それが一変し、今年は「巨大不祥事」が相次いだ年と言ってよいだろう。

今月12日に公刊した拙著【なぜ企業は危機対応に失敗するのか~相次ぐ「巨大不祥事」の核心】では、今年後半に表面化したカネボウ化粧品・みずほ銀行・阪急阪神ホテルズの3つの不祥事を取り上げ、企業の危機対応の失敗によって、世の中に重大な誤解が生じ、それを解消するための企業の対応が更なる不信を生むという、「誤解」と「不信」の連鎖によって、業界全体や社会全体にも重大な影響を及ぼす「巨大不祥事」に発展していく構図について、詳しく述べている。

このように不祥事が「巨大化」した事例に共通するのは、マスコミによる「問題の単純化」である。

マスコミは、複雑で微妙な問題を単純化し、「新聞やニュースの見出しにしやすい表現」に当てはめて伝える。単純でわかりやすい話でないと、読者・視聴者に理解されず、受け入れられないからだ。それに、企業の経営トップが沈痛な面持ちで深々と頭を下げる謝罪会見の映像が加わる。この映像の効果は大きく、「頭を下げているのだから、悪いことをしたのだ」という印象が強烈に刻み込まれる。謝罪会見映像と単純化された事実によって、結果的に、「わかりやすい不祥事像」が作り出されて報じられることになる。

本来、企業という組織体の活動に伴って起きる不祥事は決して単純なものではない。その背景には様々な構造があり、その評価・判断も微妙なものが大部分である。それが、わかりやすく単純化されることによって、不祥事の実態についての大きな誤解が生じることになる。もともと単純ではない問題が単純化されることで、不祥事は「巨大化」していくのである。

拙著で取り上げた3つの不祥事の中身も、その評価も決して単純なものではない。

カネボウ化粧品の問題では、今でも、美白成分ロドデノールと「白斑様症状」との因果関係は全く明らかになっていない。原因不明の白斑症状を呈する病気は化粧品に関係なく以前から相当数発生していた。また、他社の美白化粧品にも同様の問題があるのか否かも全く明らかになっていない。この問題の評価・判断は、本来は非常に微妙なのである。

しかし、繰り返しテレビに映し出される謝罪会見の映像と、白斑被害者の白斑部分を映し出した「顔無し映像」によって、美白成分ロドデノールを含有するカネボウ製品だけが問題であって、それによって膨大な白斑被害を発生させたかのように問題が単純化された。

みずほ銀行の問題は、銀行は融資先との接点は全くなく、提携先のオリコが審査をして融資した自動車ローン等の小口のローンの資金の供給元になっただけであり、かつて企業と暴力団との関係で問題にされた「不当要求の拒絶」の問題ではない。「一切の関係の途絶」によって反社会的勢力を社会から排除することが求められる最近の情勢の中で、組織としての対応が若干遅れたという問題だった。ところが、それが、「暴力団向け融資を知りながら、二年間放置した」などと単純化して報じられた。

しかも、金融庁が業務改善命令で指摘した「情報が担当役員止まりだった」というのは、事実誤認で、実際には、取締役会、コンプライアンス委員会に報告されていた。その事実誤認が、みずほ銀行側の責任なのか、検査を行った金融庁側の問題なのかも微妙な問題だったはずだが、みずほ銀行側の隠ぺいの疑いと、金融庁とメガバンクの癒着・馴れ合いの疑いに単純化された。

阪急阪神ホテルズの問題は、食材とメニュー表示の不一致の程度は殆どが軽微なもので、しかも、大部分がホテル内の格安レストランや宴会でのビュッフェ形式の料理の提供の問題であり、メニュー表示によって消費者に誤認を与えた程度は極めて低かったのに、それが「高級ホテルの高級レストラン」での「食材偽装」であり、利用者を欺く許しがたい行為として単純化された。

問題が「単純化」されることによって、企業に対して、本来受ける必要のない批判や非難の矛先が向けられることになるのである。

もう一つ企業不祥事の「巨大化」にとって大きな転換点となるのが、「社長辞任」又は「辞任表明」である。

一般的には、経営トップの社長が引責辞任するというのは、不祥事に対してケジメをつけ、最終的に事態を収拾するための有効な方法である。しかし、一方で、「社長辞任」は、経営トップが引責辞任すべき重大な不祥事であることを会社自身が認めることになり、重大な問題だとして不祥事を追及するマスコミ側を勢いづかせることにもなりうる。過去の「巨大不祥事」では、辞任表明後も、批判・非難が収まらないどころか、逆に、一層激しくなり、企業にとって危機が拡大した事例も少なくない。

2000年の雪印乳業の集団食中毒事件で、石川哲郎社長が、記者会見直後に「私は寝ていないんだ」と発言してマスコミの激しい批判を招き、6日後に「辞任表明」を行ったが、その後も、同社への批判・非難はさらに拡大した。

2007年の不二家消費期限切れ原料使用問題でも、藤井林太郎社長が、問題表面化の4日後に「辞任表明」を行ったが、それを機に、不二家に対するマスコミのバッシングが一層拡大していった。

前記拙著で取り上げた2013年の三大不祥事の中では、阪急阪神ホテルズの「食材偽装」問題が、まさに「社長辞任」によって、事態が収拾できず、企業への批判・非難がさらに拡大していった事例である。

出崎弘社長は、問題が表面化してわずか6日後に阪急阪神ホテルズの社長辞任と、親会社の阪急阪神ホールディングス取締役の辞任を併せて表明したが、その記者会見でも、マスコミから徹底的に批判され、会見映像が、テレビのワイドショー等で繰り返し映された。巷では、阪急阪神ホテルズの問題が話題になる度、「あの社長の謝罪の態度が悪い」「言い方が悪い」などとこき下ろされ、「顔つきが悪い」などという声まで聞かれた。出崎社長は「食材偽装」問題の最大の「悪役」にされてしまった。

辞任会見でマスコミの反発を招いたのは、「今回の問題は『偽装』ではなく、従業員の知識不足や現場の連携不足があり、誤表示を認識していなかった」という言葉だった。

この説明は、「食材とメニュー表示の不一致」に関する極めて正確な説明である。しかし、その「正確な説明」が、問題を沈静化させるどころか、マスコミの反発を招くことになったのはなぜか。

辞任会見での出崎社長の発言は、不祥事の中身に対する「正確な説明」ではあったが、「高級ホテルの高級レストランでの『食材偽装』」として単純化された問題が広まる流れに逆らうことになってしまった。結局、出崎社長の「偽装」否定発言は、「真摯な反省の態度が見えない」という批判の根拠とされ、危機は一層拡大していったのである。

この際の出崎社長の「正確な説明」が逆に混乱を拡大させることになった最大の原因は、会社側が、当初から、追及のキーワードとなることが必至の「偽装」という言葉について、定義が曖昧なまま、事実公表、記者会見に臨み、「偽装」の意味について会社側とマスコミの認識が食い違ったまま、「偽装」であるか否かについて応酬を繰り返したことにある。

マスコミ側は、食材とメニュー表示との間に何らかの「相違」があり、その違いを「認識」した上で食材を使用した料理を提供していればそれだけで「食材偽装」に当たるという前提で、阪急阪神ホテルズの問題は「偽装」だと決めつけ、追及した。

しかし、一般的な「偽装」という言葉の意味は、そうではない。食材とメニュー表示との違いにも様々なレベルがある。それをすべて厳密に一致させることは困難である。その違いが、許される範囲を超えていることを認識しつつ、食材を提供すること、それによって不正の利益を得ようとする行為を「偽装」と呼ぶのが一般的ではないだろうか。阪急阪神ホテルズ側の「偽装」の定義は、そのような一般的認識に近い。食材とメニュー表示の違いを認識していても、「その程度の食材と表示の相違は許される」と考えて提供していた場合は偽装ではないというのが、会社側の見解だった

許されないことを認識した上で、敢えてやっていたとすると、その動機は、不正な利益を得ることしかあり得ない。不正な利益を得る目的ではなかったことは、今回の阪急阪神ホテルズの担当者すべてが強く否定しており、この問題に関する会社側関係者の言い分の核心だったのであろう。

しかし、そのような前提での「偽装」の否定は、食材とメニュー表示の「相違」とその点の「認識」があれば「偽装」だとして問題を単純化するマスコミ側には受け入れられず、「不合理な言い訳をしている」「真摯な反省がない」とされたのである。

「偽装」という言葉の意味するところが、問題を説明する会社側と追及するマスコミ側とで食い違っていたことが、事実公表当初からの記者会見の混乱の最大の原因だったといえる。

辞任会見でも「偽装ではなくメニューの誤表示である」と言い続けた出崎社長に対しては、「最初にあっさり『偽装』を認めてしまえば、あれほどの騒ぎにはならなかった」という声もある。「食材偽装」を最後まで否定し、社長の地位を失った後も「悪役」とされるような発言をしてまで、彼が守ろうとしたのは、従業員の名誉だったのではないか。

「不正な利益を得ようとする意図はなかった」「そういう意味での偽装ではない」という点は、ホテル、レストランの担当者の従業員達にとって、どうしても譲れない「言い分」の核心だった。出崎社長にとって、今回の問題に関わった多くの社員・従業員の名誉を守るためにも、絶対に譲れない線だったのであろう。

90年代末、山一證券の野澤社長が、「みんな私らが悪いんであって、社員は悪くないんです!」と言って絶叫した同社の廃業の際の記者会見は、経営トップが率先して行った誠意ある謝罪として伝説に残る会見だとされている

「従業員を守りたい」という思いに関しては、出崎社長も、変わるところはなかったと思われる。社長を辞任、親会社の取締役まで辞任すること表明をしているのに、なおも「偽装」を否定することが出崎社長個人にとってプラスになるわけではないからだ。

しかし、感情を露わにして、涙ながらに社員に対する応援を求めた野澤社長とは異なり、終始冷静な態度で説明をしようとした出崎社長は、世の中から冷ややかな目で見られ、「食材偽装」問題の最大の悪役にされた。

危機対応に失敗し、不祥事を「巨大化」させてしまったことについての出崎社長の経営トップとしての責任は大きい。しかし、彼が最後まで「偽装」を否定し続けたことは、経営者の姿勢として理解できる。

重要なことは、組織としての危機対応のレベルを高めることで、マスコミによる「問題の単純化」を防ぎ、不祥事を「巨大化」させないようにすることなのである。

 

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「権力の内幕」の描き方

12月4日にちくま新書から公刊された元裁判官である森炎氏の「司法権力の内幕」が、実に面白い。

【特定秘密保護法 刑事司法は濫用を抑制する機能を果たせるのか】でも述べたように、現在の政治状況からすれば、特定秘密保護法が成立することは避けられない状況にあったのであり、むしろ、問題は今後である。法律の濫用が行われないよう、マスコミも、我々も、刑事司法がいかに運用されているのかに最大の関心を持って見守っていかなければならないだろう。

そういう観点からも、この元裁判官が書いた「裁判所の内幕」「刑事司法の内幕」を書いた同書は貴重だ。

「権力の内幕」の描き方というのは、大変微妙である。公務員として知り得た秘密を漏えいしたということで、守秘義務違反に問われることがあり得るし、表現の仕方によっては、マスコミに局所的に取り上げられて、スキャンダルを提供することにもなりかねない。

その点、同書の著者の森氏は、「内幕」の描き方の勘どころを、実にうまく掴んでいる。

まず、同書には、「はじめに」もなく、いきなり、カフカの「審判」のストーリーの紹介から始まる。「全体主義の社会における政治体制とその恐怖を予見した書」とも言われる、この「審判」の世界と、日本の司法の現実とが対比されることで、何とも不気味な「プロローグ」となる。

そして、第一章では、著者の裁判官時代の様々な体験が、登場する裁判官を匿名にして語られる。その最初のあたりで、新任裁判官として赴任した大阪地裁での「地裁所長との衝突」について、次のように書かれている。

≪私が所長の秘書官が持ってきた書類に判を押さなかったことで、ひと悶着起きた。これは慣行として続けられてきた公費に関連する事柄だったが、客観的に見れば目くじらを立てるような問題ではなかった。当時は、官公庁の公費の使途について関心が高まりつつあったが、とりたてて、それまでの慣行に逆らわなければならないというようなことではなかった。何の理由もなく拒否したことではないとはいえ、せいぜい三分の理ぐらいしかなかった。それに、事柄は、新任裁判官の歓迎行事に関係していた。だから、当時の所長からすれば、実に理不尽と感じたことだろう≫

ここで書かれている「慣行として続けられてきた公費に関連する事柄」というのが何なのか、「事柄は、新任裁判官の歓迎行事に関係していた」というのはどういうことなのか。それに関して「秘書官が持ってきた書類」というのが何なのか、一般の読者には、よくわからないであろう。しかし、なんとなく、過去に慣行化していた役所の公費の不正流用のことを言っているのではないか、ということはわかるであろう。

そして、我々のように、この時代の官公庁に勤務した経験を持つ人間には、何を言っているのかは、よくわかるのである。当時は、多くの官公庁で、何らかの予算を庁内での懇親会費や慶弔費に流用することは慣行化していた。そのためには、正規の予算執行に見せかけるための書類作成(例えば、出張旅費の申請書)が必要であり、その書類に、執行する官が押印する必要があった。それは、形式的には虚偽の公文書に押印することになる。

そのような前提知識に基づいて、前記の文章で森氏が言おうとしていることは、具体的にわかるのである。

まさに、読者の健全な推察力を期待して、ギリギリの範囲まで書いているということであろう。

前記の【特定秘密保護法刑事司法は濫用を抑制できるのか】でも引用したが、私も同じちくま新書の【検察の正義】の中で、1980年代末、テロなどによる暴力革命を標榜していた過激派の事件に東京地検公安部の検事として関わった経験の中で、非公然活動家が公安警察に捕捉された際の「転び公妨」について述べている。そこで私が述べていることは客観的な事実だけだ。

しかし、読者の中には、このように思われる方もいるであろう。

「指名手配されているわけでもないのだから、じっとしていれば捕まることもないのに、なぜ非公然活動家が、警察官に取り囲まれた際に、突き飛ばしたりするのか。そう考えると、公安部の警察官が、やっと見つけ出した非公然活動家をそのまま逃がすことはできないので、自分の方から転んでおいて、突き飛ばされたとして現行犯逮捕するのではないか。」と思われる読者もいるであろう。それは、警察の捜査活動に対する「健全な懐疑心」と言えるだろう。

【検察が危ない】(ベスト新書)では、特捜検察の実態に関して、自らの特捜部での勤務経験に基づいて書いているが、そこでの具体的事件に関する記述は、新聞報道などで明らかになっている事項にとどめている。そして、本当に世の中に認識してもらいたい、「特捜暴走の実態」については、むしろ、由良秀之のペンネームで書いた推理小説【司法記者】の中でフィクションとして詳細に描いている。私も、「権力の内幕」の描き方には、相当工夫をしてきたつもりである。

そして、森氏は、第二章以下で、自らが体験した具体的事実から離れて、裁判所の「権力的姿」を一般的に記述しているが、それに先立って、第一章の末尾で、次のように述べている。

≪本書次章以下では、司法権力は様々な仕方で市民の前に出現するという前提のもとに、それぞれの場面で立ち現れる裁判所の権力的姿をとらえ、多様な角度から、差し矢、尖り矢、繰り矢、投げ矢、征矢、火矢、あらゆる批判の矢で第三権力の的を射抜くことを試みる。そのため、自然と、それは激烈な権力批判になる。もしかしたら、いきおい余って過剰になる面も出てくるかもしれない。その代わり、必ずや市民にとって意義のある司法権力批判になると考える次第である。≫

第二章以下には、森氏が、予め断っている通り、明快に「司法権力の内幕」が描かれている。冤罪に対しても、「人質司法」と言われる不当な身柄拘束の長期化に対しても、裁判所が殆ど司法的救済機能を果たせていない現実に関して、裁判官での体験に基づく鋭い批判が展開されている(「特捜検察の権力」に関しては、私とは若干視点が異なるが)。

特定秘密保護法が、重大な人権侵害につながりかねないとして強く反対した人たちにとって、同書は必読の書と言えよう。

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特定秘密保護法 刑事司法は濫用を抑制する機能を果たせるのか

特定秘密保護法案が、少数の野党の反発やマスコミなどの強い反対を押し切って、今日、参議院で採決され、成立する見通しだと報じられている。

私も、このような行政への一層の権限集中を招く立法が行われることには反対である。しかし、それは、法案自体に問題があるということではない。むしろ、官僚組織である検察に権限が集中し、しかも、マスコミも、それに対して批判機能を果たせない日本の刑事司法の現状の下では、その法律に基づく権限の濫用を抑制することが困難だという、刑事司法の実情の方に問題がある。検察出身の法律実務家の立場から、その点を中心に、私の見解を述べてみることにしたい。

まず、特定秘密保護法案をめぐる議論の現状を、私なりに整理してみる。

外交、防衛に関して、国家が厳重に管理しなければならない秘密があることは確かであり、そのような秘密を保護するために、秘密を取扱う公務員に特別に厳格な義務を課すことも、合理的と言えるであろう。そして、公務員がその義務に反しないようにするためには、公務員に秘密を漏えいさせようとする行為も一定の範囲で処罰の対象とせざるを得ない。そして、そのような行為は、現在の国家公務員法でも罰則の対象とされているのであり、特定秘密保護法によって初めて処罰の対象とされるわけではない。

このように考えると、特定秘密保護法案の内容には問題はないとして、法案に反対するマスコミを批判する池田信夫氏、高橋洋一氏らの見解は、一応筋が通っていると言えよう。

また、元法制局長官の阪田雅裕氏が、「公務員が職務上知り得た秘密全般について、漏らす行為やその煽り、そそのかしが、現行の国家公務員法で処罰の対象とされており、何が秘密なのかについては曖昧で、その指定の手続も定められていない。特定秘密保護法は、その中で特に厳格に管理すべき秘密について、指定の手続と、それを保護するための措置を定めているものであり、国公法で秘密とされていないものが秘密にされるわけではない。」と述べているのも、特定秘密保護法案に対する法律家としての常識的な見方だと言えよう(特定秘密保護法案法律としては構造的な問題はない)。

安倍内閣が、現行憲法の解釈変更によって集団的自衛権の行使を認めようとしたことに対して、憲法改正によらなければ不可能であると異を唱えた阪田氏ですら、このように述べているのであり、少なくとも、純粋に法律家の立場から考えると、この法案に根本的な問題があるとはいえない。

しかし、同法案に対しては、当初から強い反対意見がある。特に、衆議院で強行採決された後は、法案を短期間で成立させようとする政府与党のやり方に対する批判も加わり、反対意見が高まっている。

法案に反対する立場・意見は、次のように整理できる。

第1に、「国家として、外交、防衛などに関して、厳重に管理しなければならない秘密事項があるのは当然である。」という法案の前提に関して、その背景にある外交政策に反発する立場がある。

今回、この時期に、急いで法案を成立させようとしている背景に、アメリカの意向が働いていることは否定できないであろう。現在の、日本の外交政策の下で、外交・防衛に関する秘密管理を厳格化することは、「対米追従」を一層進め、アメリカとの軍事同盟を強化することにつながる。それ自体に反対する立場からは、法案に強く反対するのは、ある意味では当然と言えよう。

しかし、自公両党及びそれと外交政策的には大きな違いはない野党が、衆参両院で圧倒的多数を占める現状では、そのような「対米追従」を批判する「反米イデオロギー」は、国民の支持するところではない。外交政策的な観点からの反対は潜在化し、法案自体の内容に関する批判に振り向けられることになる。

第2に、秘密の指定権・判断権が、基本的に当該行政機関に委ねられていることに対する反発がある。「特定秘密に当たるか否かの判断は、第一次的には、行政行為を遂行する行政機関に委ねざるを得ないのであり、その濫用に対するチェックも、国家として『厳重に管理すべき秘密』であることから、第三者に関与させることには限界があり、基本的には政府内部によるチェックに委ねざるを得ない。」というのが、政府与党側の論理である。

行政機関の権限の源泉は、行政の遂行に関して、情報を独占することにある。その情報の独占状態は、2001年に「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」が制定され、情報公開制度が拡充されることによって、大幅に緩和されてきた。そして、2006年に公益通報者保護法が施行され、企業の世界においては、内部告発が積極的に行われるようになり、それを奨励することが社会的風潮になってきたが、行政機関の職員も、この法律による保護を受けて内部告発を積極的に行うことになると、行政機関による情報の独占は一層崩れていくことになる。

特定秘密保護法が、行政機関側に秘密を厳格に管理する権限を与え、それを重い罰則で担保することは、このような情報公開制度等による、行政の権限を制約する流れに逆行することになる。情報を入手して報道することを仕事としているマスコミとしては、それに反発するのは、ある意味では当然の反応と言えよう。そこでは、マスコミの「報道の自由」、国民の「知る権利」が侵害されるという点が強く主張される。

第3に、これらの反対や懸念を背景に、現在、法案の最大の問題点とされているのが、 防衛に関する事項、外交に関する事項、外国の利益を図る目的で行われる安全脅威活動の防止に関する事項、テロ活動防止に関する事項とされている特定秘密の範囲の問題である。

特に、自民党の石破幹事長の「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質において変わらない」というブログでの発言も相まって、特定秘密の範囲に関する「テロリズム」の定義が大きな問題となっている。

この点に関しては、法案における「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」という定義が、「強要」、「殺傷」、「破壊」を同列に並べているように読めることも問題とされている(「与える目的で」と「人を殺傷」の間に読点「、」が入っていれば、このような誤解を受けることはなかったと思われ、細かい点ではあるが法案の文言上の欠陥と言えよう)。

この点に関連して、「公安捜査」の実情から、法定刑も重く、処罰範囲が広範な罰則の導入に対して、捜査権限濫用に対する危惧感を表明するのが、元検事の落合洋司弁護士である。同弁護士は、「公安事件では、『犯罪があるから捜査する。』だけでなく、『捜査すべき組織や人がいるから捜査する。」『捜査することに意味、意義がある。』『捜査により組織や人に打撃を与える。』という観点から捜査が行われる」として、「秘密」に関わる行為を広範囲に処罰対象にしている今回の法案が、公安事件捜査で濫用される恐れがあることを指摘している(ブログ【弁護士落合洋司(東京弁護士会)の日々是好日】)。

 

私も、1980年代末から90年代にかけて、東京地検公安部に約2年半在籍した。落合弁護士が在籍した90年代と異なり、中核派、革マル派などの過激派の事件を含む公安事件が多発していた時代であった。そのような時期に公安事件の捜査を経験した者として、特にこの点に言及する必要があるだろう。

公安事件捜査は、一般の刑事事件捜査のように、発生した犯罪について捜査し、犯人を特定して逮捕する、という経過をたどるのではない。政治的目的で活動する特定の団体という対象が予め設定され、その活動を制圧・排除するという目的に沿った捜査活動が行われる。そして、そこでは、あらゆる罰則、あらゆる権限が使われる。

その実態については、拙著【検察の正義】(ちくま新書:2009年)25頁以下で触れている。

 ≪当時は、極左暴力集団と言われる中核派、革マル派などの非公然活動家によるテロなどの破壊活動や内ゲバ殺人事件が多発しており、警視庁公安部は、その対策のために、非公然活動家の検挙を目的とする取締りを行っていた。非公然活動家が警視庁公安部に逮捕され送致されてくると、東京地検公安部では、主任検事とは別に取調べ担当検察官を指名して共同捜査体制で臨む場合が多かった。

非公然活動家というのは、テロなどの「軍事行動」を実行する革命軍に所属する者と、そのための偵察、情報収集活動などの後方支援活動を行う者に分かれる。いずれも、家族、親族、知人など、すべての個人的つながりを絶って、その存在と活動が、まったく把握されないよう地下に潜って活動を行っている。その行方を追い続けているのが公安警察だった。過去の内ゲバ殺人事件やテロ事件などの重大事件で指名手配されている革命軍所属の「兵士」が、その所在を突き止められて逮捕状によって逮捕される、というケースもあったが、多くは、後方支援部隊の非公然活動家が、警察官から職務質問を受けた際に警察官に暴行を加えたという公務執行妨害の現行犯や、運転免許証の更新手続の際に、住居不定で非公然活動をしているのに、実家などを住所として申告して免許証を取得したという免状等不実記載罪など、いわゆる「微罪」で逮捕されてくるケースだった。

非公然活動家が公務執行妨害で逮捕される場合の多くは「転び公妨」などと呼ばれる事案だった。指名手配をされているわけでもない非公然活動家であれば、警察官から職務質問を受けても、おとなしくしていれば何も問題はないはずなのに、なぜ、警察官を突き飛ばしたりするのか、疑問に思える。しかし、警察の送致書類の上では、被疑者が職務質問を受けた途端に抵抗を始め、警察官に暴行を働いた状況を複数の警察官が詳細に報告している。

このような事案でも、公務執行妨害の嫌疑を裏付ける警察官の供述があり、非公然活動家である以上「住居不定」などで、当然に、勾留の要件は充たされる。そこで、その身柄拘束の期間内、完全黙秘の被疑者と取調べ担当検察官とが対峙することになる。≫

ここで言っている「免状不実記載」「転び公妨」で逮捕されても、ほとんど起訴されることはない。要は、20日間余りの身柄拘束のネタに使われるというのが実態だった。

犯人の処罰に向けての刑事事件の手続という面から考えると、そのような事実で身柄拘束をする必要性は、実際にはない。そのことは、検察官も裁判官もわかっているはずだ。しかし、公安事件で、「非公然活動家」が逮捕され、送致されてきた事件で、検察官が勾留請求をしないということはほとんどなかったし、裁判官が勾留請求を却下した例も少なかった。

このようなことは、「刑事司法に対する一般的な認識」としては考え難いことであろう。しかし、それも、テロなどの軍事活動を標榜する過激派の取締りという目的の下では、刑事司法の現場で実際に起こり得るのである。

特定秘密保護法の罰則が、そのような目的で使われる恐れがあるのかどうかは、何とも言えない。しかし、刑事司法が、常に適切に、法の目的に沿って運用されているという前提で考えることは危険である。

捜査機関が法の本来の趣旨に反する権限行使を行おうとした時、刑事訴訟法上、それを抑制する多くの手段が定められている。検察官が勾留請求するかどうかという判断、裁判所が勾留請求を認めるかどうかの判断、最終的な判決における事実認定などを通して、適切な判断が行われるというのが、刑事訴訟法の建前だが、ひとたび国家が一定の方向に動き始めたときは、それらの手段によって抑制できるとは限らないのである。

前出の阪田元法制局長官が、「特定秘密保護法案には法律として構造的な問題はない」とする理由として、「もし、不当に特定秘密に指定された事項に関して、刑事事件が立件され起訴された場合には、裁判所が適切に判断するはずだ」と述べている。それは、「刑事司法に対する一般的な認識」に基づく見解としては正しいであろう。しかし、実際に、公安事件も含め、刑事司法の現場が、すべて、そのような認識通りに運用されているかといえば、必ずしもそうではないのである。

日本の刑事司法は、事実を否認する被疑者を長期的に身柄拘束する「人質司法」、検察官による証拠の独占など、検察官にあらゆる権限が集中している。そして、検察は、第一次捜査機関の警察とは極めて近い関係にある。

このような刑事司法の実情を考えた時、私は、「刑事司法への信頼」を前提に、特定秘密保護法に問題がないとする意見には、賛成できない。

特定秘密保護法案に関して問題なのは、法案の中身自体というより、むしろ、現行の刑事司法の運用の下で、このような法律が成立し、誤った方向に濫用された場合に、司法の力でそれを抑制することが期待できないということである。

そのような刑事司法に対して、マスコミは、これまで十分に批判的機能を果たしてきたであろうか。過去に、過激派等に対する公安捜査の実情に関する問題を指摘した報道がどれだけあったであろうか。「人質司法」など、刑事司法の問題点について、どれだけ指摘してきたであろうか。直近では、検察の一部が、虚偽の捜査報告書で検察審査会を騙して政治的目的を遂げようとした陸山会事件での「特捜部の暴走」に対して、民主主義を危うくするものとして徹底した批判が行われたであろうか。

検察や警察との「もたれ合い」的な関係によって、刑事司法の歪みを温存してきたという点からは、責任の一端はマスコミにもあるのではなかろうか。そういうマスコミが、「知る権利」「報道の自由」を振りかざして、法案に反対していることに対して、若干の違和感を覚えざるを得ない。

しかも、日本の官僚、行政組織と親密な関係を維持してきた自民党が、昨年12月の衆議院選挙で圧勝して政権に復帰し、今年7月の参議院選挙でも圧勝して、衆参両院において安定的な勢力を維持する政治状況になったことから、行政権限の肥大化、官僚組織による情報の独占に向けて立法が行われることも、ある意味では当然の趨勢と言うべきであろう。

このような政治状況を招いてしまった最大の原因は、昨年12月まで政権の座にあった民主党が事実上崩壊してしまったことにある。それは、第一次的には、民主党の自業自得だ。しかし、政権交代直後から、民主党が「政治とカネ」の問題をめぐる党内抗争に明け暮れる状況になったことには、マスコミも深く関わっている。

その結果できあがった、「単一の価値観に支配される政治状況」の下で、今、行政組織の権限の更なる強化に向けての特定秘密保護法が成立しようとしているのである。

いかに少数野党が抵抗しようと、マスコミがこぞって批判しようと、多くの知識人、文化人が反対しようと、特定秘密保護法が今国会で成立することを阻止することは避けられないであろう。

そういう政治の現実を、重く受け止めるべきではなかろうか。

元法制局長官の阪田氏も言うように、法律家の常識から法案自体の内容を客観的に見れば、特に問題があるとは言えない。であれば、重要なのは法案が成立した後である。法の趣旨を逸脱する、法律家の常識に反する法の運用が行われた場合に、適切な抑制機能を果たし得る刑事司法の実現に向けて、マスコミを含め世の中全体が問題意識を持ち、議論を深めていくべきではなかろうか。

 

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猪瀬都知事問題 特捜部はハードルを越えられるか

猪瀬東京都知事が、医療法人徳洲会からの5000万円の資金提供の問題で窮地に立たされている。

都知事選の公示直前に、徳洲会の徳田虎雄理事長を尋ねて、都知事選立候補の挨拶を行い、その後、少なくとも、1億円の選挙資金の提供を要請し、5000万円を現金で、徳田理事長の長男の徳田毅衆議院議員から受領したという事実関係は、ほぼ間違いないようだ。

都が許認可権を有する病院の経営母体である医療法人から多額の資金提供を受けていた事実が明らかになり、しかも、説明が二転三転していることなどから、都知事の職は継続できないのではないかという見方も出てきている。

猪瀬氏は、今年4月に、オリンピック招致をめぐって、米ニューヨークタイムズ紙のインタビューで、他の立候補都市と東京とを比較し、「イスラム諸国は互いにケンカばかりしている」などと述べたことが問題にされた際、単に「規定を知らなかった」「今回の件でルールがわかって良かった」と言って済ませ、規範の背後にあるオリンピックの基本理念に反する発言をしたことについては一切反省しなかった人物である。その対応については、当ブログの猪瀬知事の「謝罪」に見る「法令遵守」への逃避でも厳しく批判した。

今回も、捜査当局、司法当局が、違法と認定しない限り問題ない、と言って「法令遵守」を盾にとって逃げ込みを図ろうとする可能性が十分あるようにも思える。

そこで、今回の事件の刑事立件に関して、私の検事時代の経験に基づき、法律上、実務上、問題となる点を整理・検討しておくことにしたい。

前提事実と成立し得る犯罪

今回の現金提供の経緯や趣旨に関して、猪瀬氏側の主張と、報じられている徳洲会側の説明とはかなり異なっているが、政治団体「一水会」代表の木村三浩氏の証言を中心とする11月25日付けの時事通信の記事

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013112400243

の内容が、猪瀬氏、徳洲会側の説明の、概ね中間のように思えるので、以下、この記事の内容を前提に考えてみる。

同記事によると、政治団体「一水会」代表の木村三浩氏が、猪瀬氏と徳田虎雄前理事長の面会を仲介した。その場ではあいさつだけで、お金の話は出なかったが、木村氏が、面会後に、虎雄氏の次男徳田毅衆院議員に電話で「選挙はいろいろお金が掛かるから応援してやってくれ」と、知事への資金提供を依頼し、実際の金額については、徳田議員と虎雄氏が決め、徳洲会側からその後、5000万円が猪瀬氏側に提供された、とのことである。

これに対して、猪瀬氏は、「個人的な借入金で、短期間で返済する予定だったが、それが遅れ、徳洲会に対する捜査が開始された後に返済した。出納責任者にも知らせていないので、収支報告書に記載すべき収入ではない。」と説明しているようだ。

そこで、成立し得る犯罪として、まず、収賄罪の成否が問題となる。

5000万円の受領が、当時副知事だった猪瀬氏の職務権限に関するものであれば、単純収賄が成立する余地がある。特命事項として猪瀬知事にどのような所管事項が与えられていたのか、その中に病院に関係するものがあったのかが問題となる。

次に、知事選挙では当選確実とされていたのであるから、知事就任前の事前収賄に当たらないかも問題になるが、この場合には「請託」が必要である。知事の職務権限に関する事項について、徳洲会側から、例えば、病院に関する許認可等に関して何か具体的な依頼を受けたというような事実がない限り、事前収賄に問うことは困難である。

そこで問題となるのは、公職選挙法に定める選挙運動費用収支報告書の虚偽記入罪の成否である。

徳洲会からの5000万円の受領が、公職選挙法における「選挙運動に関してなされた寄附その他の収入」に当たるとすると、収支報告書にそれを記載しないで選挙管理委員会に提出した場合、収支報告書の虚偽記入罪が成立するのではないかが問題となる。

なお、一般的には、選挙資金と政治資金の関係も問題となるが、猪瀬氏は、政党の公認、推薦を受けておらず、しかも「個人の借入金」と弁解しているので、政治資金規正法との関係は、当面は問題とはならない。

公職選挙法違反の成否

猪瀬氏が説明するように、この5000万円が借入金だったとしても、選挙運動のためのものであれば、選挙運動費用収支報告書に記載すべき「寄附その他の収入」に当たるとされている(総務省見解)。猪瀬氏が受領した5000万円は、木村氏が述べているように猪瀬氏が直接要求したものではないとしても、都知事選挙の資金として提供されたもので、そのことは猪瀬氏も十分に認識していると考えられるので、その収入が選挙運動費用収支報告書に記載されていないことについて、公選法違反が成立することは明白であるようにも思える。

しかし、この種の公選法の罰則適用というのは、決して単純な問題ではない。

公選法の選挙運動費用収支報告書の記載に関しては、公選法の「選挙運動に関してなされた寄附その他の収入」の解釈に関して、選挙資金、政治資金、個人の資金の三つの関係に関わる微妙な問題がある。それに加え、公選法上の出納責任者と候補者本人の関係に関して、政治資金規正法の収支報告書の記載における政治団体、政党の代表者と「会計責任者」の関係と同様の問題がある。

後者の問題については、公職選挙法は、収支報告書の記載義務を、出納責任者に課していることから、猪瀬氏が徳洲会から受領した5000万円が「選挙運動費用収支報告書に記載すべき収入」に当たるとしても、猪瀬知事が5000万円を受領した事実を出納責任者に知らせなかったとすると、出納責任者には不記載の責任は問えない。

しかし、収支報告書の虚偽記入罪は「身分犯」ではなく、虚偽の記入に関与した人間であれば誰にでも成立すると解されている。とすれば、収入の一部を除外したことで収入の総額についての記載が虚偽となり、その総額の虚偽の記載に候補者本人が関わっている、ということになれば候補者本人に虚偽記入罪が成立し得る。

収支報告書の記載に猪瀬氏本人がどの程度関与しているのかが問題になるのは、陸山会事件において、資金管理団体の代表者の小沢一郎氏が、収支報告書の虚偽記入について共謀が問題になったのと同じ構図だが、異なる点もある。不動産の購入代金に関して、銀行からの借入金と小沢氏本人が提供した資金との関係が問題になり、しかも、陸山会事件では「小沢氏からの4億円の借入金」が政治資金収支報告書に記載されていた(同事件では、控訴審判決は、実行行為者の秘書についても偽装・隠ぺいの意図を否定した。)。しかし、猪瀬氏の場合はそれとは異なり、猪瀬氏本人が現金を徳洲会からの選挙支援としての5000万円を受領していたという単純な事案である。収支報告書に記載すべき収入であるか否かという前者の問題がクリアされ、しかも猪瀬氏に隠ぺいの意図が認めらる場合は、猪瀬氏本人を虚偽記入の実質的な主体と構成することは十分可能であろう。

「選挙運動に関してなされた寄附その他の収入」の範囲

そこで、最も重要な問題は、選挙運動費用収支報告書に記載すべき「選挙運動に関してなされた寄附その他の収入」とはどの範囲なのかという点である。猪瀬氏に徳洲会から提供された5000万円が、猪瀬氏の都知事選挙支援のための資金であったとしても、それが、ただちに収支報告書に記載すべき収入に該当するわけではない。

公職選挙に立候補し、当選に向けての活動をするためには、様々な資金が必要になる。

選挙の準備期間から公示・告示後の選挙期間中も含めた候補者本人の生活費も必要となる。立候補するまでの間に、政党、団体の支持を獲得するための活動に必要な資金、候補者の名前や政策を世の中に認知してもらうための活動など、選挙の公示・告示の前から行われる活動にも費用が必要となる。政党の公認、推薦候補であれば、このような広範囲の選挙のための活動が、政党の政治活動として行われ、その資金が政治資金によって賄われることになるが、政党の推薦を受けない無所属候補であれば、自己資金が中心となる。

本来、公職選挙に関する収支を報告させ公開する目的は、公職の候補者が、これらの様々な選挙資金について、どのような個人や団体から支援を受けて選挙運動を行ったのかを有権者に公開することで、選挙の公正を確保し、当選した候補者が公職についた後に行う職務が公正に行われるようにすることにあるはずだ。

そうであれば、このような選挙にかかる様々な資金の提供元を広範囲に選挙運動費用収支報告書に記載させ、公開することが、制度の趣旨に沿うものと言えよう。

しかし、従来の公職選挙に関しては、実際に、選挙運動費用収支報告書の記載の対象とされてきた収入は、様々な選挙運動の資金のうち、ごく一部に過ぎなかった。

選挙期間中、選挙運動に直接かかる費用「人件費・家屋費・通信費・交通費・印刷費・広告費・文具費・食糧費・休泊費・雑費」などが法定選挙運動費用であり、これについては、公職選挙法で、支出できる上限が定められている。選挙事務所を借りる賃借料、ポスターの作成・掲示の費用、街頭活動のためのガソリン代費用などである。

そして従来、収支報告書の支出欄には、このような選挙運動期間の選挙運動に直接かかった費用だけが記載され、収入欄の記載も、この支出に対応する収入金額にとどめるのが通例であった。

つまり、収支報告書の支出としては、選挙期間中の選挙活動に直接必要な費用を記載し、その支出にかかる資金をどのようにして捻出したかを収入欄で明らかにする、というのが一般的な選挙運動費用収支報告書の記載の実情だったのだ。

猪瀬氏が徳洲会からの5000万円の資金提供について説明しているように、候補者個人が他人から資金提供を受けていても、出納責任者に知らせていない収入は、収支報告書の収入には記載されない場合が、これまでは多かったものと思われる。

しかし、それでは、選挙活動の収支報告書が公開されても、公選法の選挙活動の収支報告書公開の意義は、極めて限られたものにしかならない。その候補者の選挙活動全体が、どのような個人、企業、団体等に支えられているのかは、ほとんど明らかにならないのである。

政党の公認、推薦等で立候補する場合には、政党の政治活動によって支援されることになり、その政治活動の収支は、政治資金収支報告書によって公開される。しかし、むしろ、その候補者の支持基盤を明らかにする必要があるのは、猪瀬知事のように、無所属で立候補する場合だ。その場合の実質的な選挙資金の提供元が明らかになることが、選挙の公正を確保するために重要である。

そういう意味で、選挙資金として提供されたものであれば、候補者個人が受け取って、出納責任者には知らせず、出納責任者が支出を管理する選挙期間内の直接の費用には使わなかったとしても、公選法の法目的に照らせば、収支報告書に記載すべき収入と解するべきであり、「選挙運動に関する寄附その他の収入」という文言からは、そう解釈するのが当然である。従来の選挙運動費用収支報告書の記載には、本来記載すべき収入が記載されていなかった実態があった、ということに過ぎないのである。

私は、2004年から2009年まで6年間、年に2~4回、警察大学校での都道府県警幹部向けに、「経済警察」に関する講義を行っていた。その中で、公選法の収支報告書虚偽記入罪の適用について触れている。

以下が、拙著【入札関連犯罪の理論と実務】(東京法令)の末尾に収録している、警察大学校での講義録の該当部分である。

これまではほとんど使われたことのない罰則ですが、いずれ使われる時期が来るのではないかと思っているのが、選挙運動に関する収支報告書の虚偽記入罪です。(中略)最近、選挙に関するルールがどんどん厳しくなる方向に向かっていますから、今後選挙運動の資金の透明化がこれまで以上に強く求められることになると、選挙に関する収入・支出に関してもルールが次第に明確になり、報告書の虚偽記入を処罰する条件が整ってくることも考えられます。それは、選挙に関する不正な金のやり取りを刑事事件として立件し、場合によっては贈収賄など他の事件に展開させていくための有力な武器になるかもしれません。ということで、公職選挙法にも収支報告書の虚偽記入罪の罰則があるということは頭に入れておいてもらったほうがいいと思います。

罰則適用へのハードルの高さ

もっとも、「選挙運動に関してなされた寄附その他の収入」をこのようにとらえ、罰則適用の対象にするとすれば、公職の選挙に関して、選挙支援のための資金提供を受けたのに、選挙運動費用収支報告書には記載されていない多くの事例が、形式的には公選法違反だということになり、その点をめぐって告発が繰り返されることになりかねない。このような罰則適用に対しては、法務・検察当局としても慎重な態度をとることにならざるを得ないであろう。

私が長崎地検の次席検事として捜査を指揮した2003年の自民党長崎県連事件においても同様の問題があった。

当時の自民党長崎県連幹事長が、長崎県知事選挙での選挙資金として中央ゼネコン各社に寄附を要求し、政治資金収支報告書に記載する「表の寄附」と、記載しない「裏の寄附」の両方で多額の寄附が行われた事実を、公共工事受注業者から首長等への「特定寄附」の禁止規定(公職選挙法199条)を適用して摘発したものであった。

長崎地検では、県連からの要求文言の内容から「知事選挙に関する寄附」であることは明白だと判断して強制捜査に着手する方針であったが、最高検、法務省刑事局から、「実質的にも選挙に関する寄附だったと言えるために、県連に入った資金が実際に選挙に関して使われていることが裏付けられること」、「寄附要求の悪質性を示す事実があること」などが、強制捜査着手へのハードルとして課された。どこまでが政治資金でどこまでが選挙資金なのかが曖昧だという「選挙に関する寄附」と「政治資金の寄附」との間の微妙な関係があり、政治資金の寄附と区別できるような寄附でなければ、政党に対する寄附に特定寄附の禁止規定を適用することは問題がある、との判断だった。それをクリアした事案でなければ、一つの事件の摘発によって、多くの同種事件が告発されて刑事事件化することにつながる、というのが実質的な理由であった。形式的に違反になるかだけではなく、検察としてその事案に罰則を適用することの妥当性に関して、納得できる指摘であった。

長崎地検捜査班は、そのハードルを一つひとつ乗り越え、最終的には、強制捜査への最高検、法務省のゴーサインを得た。そして、この事件は、当時、小泉政権の絶頂期だった自民党の地方組織のゼネコンからの集金構造を明らかにする事件として全国的にも注目され、国会での「政治とカネ」の論議にも火をつけることになった。

この際、若い検事、副検事、検察事務官が一体となった長崎地検の捜査で、多くのハードルを乗り越えていった経過については、拙著【検察の正義】(ちくま新書)の最終章「長崎の奇跡」で述べている。

二つのハードルを乗り越えるためには

徳洲会事件を捜査している東京地検特捜部にとっても、猪瀬氏の徳洲会からの5000万円について公選法違反で立件することについてのハードルは相当高いと言わざるを得ない。

そのハードルを乗り越えるためには、自民党長崎県連事件の場合と同様に、猪瀬氏が徳洲会から受領した5000万円が、従来の公職選挙でも恒常化していた「選挙運動費用収支報告書への収入の単なる不記載」と二つの面で区別できる必要がある。

一つは、当該5000万円の資金提供が、実質的にも「選挙運動に関する」ものだったと言えるかどうか、もう一つは、猪瀬氏が徳洲会からの5000万円の資金提供を収支報告書に記載しなかった行為の悪質性である。

猪瀬氏が徳洲会の徳田虎雄理事長に選挙出馬の挨拶に行き、その後、次男の徳田毅氏から5000万円の資金が提供されたということから、選挙支援の趣旨で提供された資金であることは明らかであるが、問題は、実質的に、猪瀬氏の選挙運動にどのような影響を与えたのかである。

猪瀬氏の選挙運動費用収支報告書によると、支出は2113万円。しかし、実際に選挙にかかった費用全体は、これだけではないだろう。収入として記載されているのは、猪瀬氏個人からの3000万円と市民団体からの50万円だけだが、選挙のための費用全体が、これだけで賄えたとは限らない。

猪瀬氏が立候補表明の時点で、選挙運動全体にどれだけの資金が必要だと考え、その資金をどのように賄おうと考えていたのか。そして、実際に、どれだけの費用がかかり、それをどのようにして賄ったのか。徳洲会から5000万円の提供を受けたことが、猪瀬氏の都知事選の選挙運動全体の収支にとって重要な役割を果たしたと認められれば、実質的にも「選挙運動に関する収入」と言えるであろう。そのためには、実際に選挙運動費用収支報告書に記載されているものだけではなく、猪瀬氏の選挙運動全体の収支を解明する必要がある。

行為の悪質性については、都が認可権を持つ病院を経営する医療法人から5000万円という多額の選挙資金の提供を受けたことだけでも相当に悪質な行為だと言えるが、それに加えて、資金提供を受けたことを隠ぺいしようとしていた事実があれば、悪質性はさらに高まることとなる。選挙運動費用収支報告書に記載された収入3050万円のうち3000万円が猪瀬氏の自己資金とされているが、もしそれが、猪瀬氏が出納責任者に徳洲会からの資金の提供を受けたことを秘匿し、大半を自己の預金だけで賄ったように装っていたからだとすれば、それ自体が悪質な隠ぺいである。それによって、「出納責任者が知らなかったから収支報告書に記載する義務がない」という弁解をしようと考えていたとすれば、さらに悪質である。本件発覚後に出てきた「借用書」も、作成経緯によっては、悪質性に関する重要な事実である。

実質的に「選挙運動に関する収入」と言えるか否か、及び行為の悪質性の二つの面から、猪瀬氏の行為が、単なる選挙運動費用収支報告書への収入の「不記載」とは区別できるものと認められれば、特捜部が、その種の公選法違反のリーディングケースとして捜査に着手するに相応しい事件として、最高検、法務省刑事局のゴーサインを得ることもできるのではなかろうか。

都から認可を受けている病院の経営母体の医療法人から5000万円もの多額の選挙資金の提供を受け、それを全く開示していなかったという猪瀬氏のような行為が許されるのであれば、選挙の公正は著しく害されることになるからだ。

大阪地検不祥事に加え、陸山会事件の不祥事への対応で、検察への信頼は崩壊したと言わざるを得ない状況にあり、とりわけ特捜検察は積極的な捜査が行い難い状況にあるが、ここは、汚名返上のため、そして、特捜検察再生のため、山上秀明特捜部長が指揮する東京地検特捜部の積極的かつ公正な捜査に期待したい。

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阪急阪神ホテルズ問題、「偽装」「誤表示」の微妙な関係と第三者委員会

 【阪急阪神ホテルズ問題、「自爆」を招いた会社側の「無神経」】でも詳しく述べたように、阪急阪神ホテルズの問題が重大な企業不祥事に発展したのは、阪急阪神ホテルズの危機対応の拙劣さによるところが大きい。

出崎社長が、記者会見で「『偽装』ではなく『誤表示』だ」と繰り返したことが、マスコミから厳しい批判を浴び、辞任に追い込まれる原因にもなった。

会見の混乱は、「偽装」と「誤表示」の関係を、会社側とマスコミ側とが異なった意味で理解していたことによるところが大きいように思える。

先日、この問題を取材している某記者から、次のような感想を聞いた。

「間違いはすべてメニューより安い食材を使うという共通点があります。メニューは芝エビだけれど実際は車エビを使っていた、などという逆のケースがひとつでもあれば『誤表示』という主張も説得力を持つのですが。」

このような「誤表示」という言葉の理解が、マスコミ側の追及の前提になっているようだ。

確かに、「誤表示」における「誤り」が、何の意図もない「表示のミス」という意味であれば、実際の食材がメニュー表示の価格水準より低い場合だけではなく、高い場合もなければおかしい、ということになる。

しかし、阪急阪神ホテルズ側が「誤表示」だと言っているのは、そういう意味ではないのであろう。

実際の食材と異なる表示をしたことについて、「その程度の相違は許される」と誤って判断したものは、「違法・不当」な表示をする意図はなかったのだから、「偽装」ではなく「誤表示」だという考え方なのであろう。

マスコミ側は、食材と表示とが多少なりと違うことを認識していれば、それだけで「偽装」であり、「誤表示」ではない、という考え方、会社側は、食材と表示の違いが「違法・不当」とは思っていなかった場合は「誤表示」に含まれる、という考え方、そこに大きな違いがある。

どこまでが「誤表示」と言えるのかを、野球の投球における「コントロールミス」に例えて考えてみよう。

マスコミ側の考え方によれば、投手は、ストライクを投げようとするのであれば、ストライクゾーンの真ん中(正確な表示)を狙って投げるのが当然で、「コントロールミス」(誤表示)というのは、真ん中に投げようとしているのに、外角内角どちらにも外れてしまうという「ノーコンピッチャー」のことだけを意味することになる。

内角ギリギリのストライク(許される範囲の表示)を狙って投げたところ、さらに内角に少し外れてボールになったというのは、真ん中を狙って投げなかったのだから、ストライクを狙う投球ではなく、「コントロールミス」とは言えない、ということだ。

マスコミの「誤表示」の定義によれば、食材についての一般的、客観的な表示を、一切の作為を加えないで行うべきで、その結果、たまたま表示が実際の食材と異なってしまった場合だけが「誤表示」だということになる。

しかし、プロの投手であれば、内角外角ギリギリを狙って投げて打者に打たれないようにするのが当然であるのと同様に、広告表示で、少しでも商品のイメージを良くしようとして、「違法、不当」とされない範囲で広告表示を行うのは、世の中の商売においては一般的なことだという考え方もあり得るのではないか。

この点は、「誤表示」と「偽装」の定義と、これらの関係をどのように理解するのかに関わる微妙な問題である。この定義や関係性の整理が曖昧で食い違ったまま、質疑・応答が繰り返されてしまったことが、記者会見をめぐる混乱に拍車をかけたことは否定できない。

会見における企業の内部者の説明で、この点について定義などを明確にし、誤解を解消することはなかなか困難である。そのような時は、外部者の第三者委員会が、中立的・客観的立場から、「偽装」「誤表示」の定義や関係を整理した上で、問題を指摘することができるし、そうすべきだといえる。

ところが、阪急阪神ホテルズの第三者委員会の委員長に就任したのは、元大阪地検検事正の小林敬氏である。同氏は、大阪地検検事正として、村木事件の証拠品のFDデータの改ざん問題について、当時の大坪特捜部長らから、「過失によるデータ改変です」と報告され、それを鵜呑みにして、何の問題意識も持たず、何の措置もとらなかったことの責任を問われて辞職した人物だ。

小林氏らが、戒告という内部処分だけしか受けなかったのは、大坪氏らから「過失によるデータ改変」と報告されたために、過失としか認識しなかったことが理由であった。

しかし、今年9月25日に大阪高裁で言い渡された大坪氏らの控訴審判決は、次のように判示して、「過失によるデータ改変」を見過ごした、当時の小林検事正及び玉井次席検事の責任を厳しく指摘している。

「小林及び玉井は、被告人両名の報告が、前田の行為により過誤による改変が生じたとの内容にとどまったとしても、大阪地検の最高幹部として、重大事件における最重要の証拠であるデータに手を加えたという重大な不祥事との認識を持って、被告人両名に対し、真相の解明を急ぐなど迅速な対応を指示するとともに、上級庁にも直ちに報告すべきであった」

当時、特捜部長、副部長だった大坪氏、佐賀氏は、犯人隠避罪で有罪が確定して法曹資格を失い、次席検事だった玉井氏は、大坪氏らに責任を押し付けたことで心労がたたったのか、辞任後まもなく急死した。

つまり、前代未聞の検察不祥事となった「証拠改ざん」、すなわち「証拠偽装」の問題について上司として責任を問われながら、今も法曹資格を維持しているのは小林氏だけ。その人物を、敢えて「食材偽装」問題の第三者委員会委員長に選任する阪急阪神ホテルズという企業の「無神経さ」には、ただただ、呆れるばかりである。

 

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 みずほ問題の本質は、銀行・金融庁の「環境変化への不適応」

10月28日、みずほ銀行の反社会的勢力への提携ローンを通じた融資の問題に関して、「提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会」の報告書が公表された。

今回の第三者委員会は、佐藤頭取が、10月8日の記者会見で、歴代の頭取が報告を受け問題を認識していたこと、問題が報告された取締役会に出席していた佐藤頭取自身も「認識し得る立場」にあったと認めたことで、メガバンクの経営トップが「暴力団向け融資」を知りつつ放置したのではないかとの重大な疑念が生じたことを受けて設置されたものであり、歴代頭取の責任に関わる事実解明が重要課題とされた。

それに加えて、金融庁検査で問題融資が指摘されたことに対して、当初、報告は担当役員止まりと説明したことが意図的な虚偽報告の「検査忌避」ではないかということも、調査の重要課題とされた。

前者についての第三者委員会の認定は、オリエント・コーポレーション(以下、「オリコ」)を通じた問題融資が発覚した2010年、当時の西堀利頭取が対応策を協議したが、銀行として融資先を事前にチェックするかなどの対策は「検討する」にとどまり、抜本策は先送りされ、翌年3月の東日本大震災直後に発生したシステム障害に伴う混乱で西堀氏が引責辞任し、関係役職員も大幅に異動した際、問題を承継する手続きがとられず、(後任頭取で現会長の)塚本隆史氏は問題を認識するに至らなかったというものであった。

そして、後者については、「担当職員の記憶に基づいた回答」とし、「隠蔽の意図などは認められない」と結論づけた。

第三者委員会報告書を受けて、みずほ銀行は、再発防止策と頭取の半年間無報酬など関連役員54人の処分を公表したが、「甘い処分で幕引きを図ったとしか思えない。これでは、暴力団員への融資で失墜した信頼の回復に向けた道は険しい」(10.29読売社説)などと批判されており、第三者委員会の調査についても「そもそも強制力がない20日足らずの調査で、金融庁の検査もかわした問題の真相をどこまで解明できるのか、最初から疑問がつきまとった。案の定、それが払拭されたとは言えない」(10.30朝日社説)、などと批判されている

今回の問題に対しては、90年代に同行の前身の一つである第一勧業銀行が総会屋に対する巨額融資事件を引き起こした組織の体質や、10年以上前の3行統合の影響が残存しているのではないかなどという見方もある。そのようにとらえるべき問題なのかどうか、世の中の理解・納得を得るためには、問題の背景・構造も含めて、問題の所在を明らかにする必要があった。

しかし、今回の第三者委員会報告書は、銀行側の言い分を当たり障りなくなぞり、一方で、表面的な批判をしたに過ぎなかった。第三者委員会という、不祥事からの信頼回復に向けての貴重なカードを無駄に切ってしまった感が否めない。

 問題の背景・構造

今回の問題の背景として、重要なことは、反社会的勢力への対策に関して、この数年、企業等をめぐる環境に急激な変化が生じていることである。

かつての日本社会における反社会的勢力への対応は、「不当要求の拒絶」。それが、2007年頃から、「一切の関係遮断」の方向に大きく転換していった。企業が暴力団等からの不当な要求に屈し、企業の利益を損なうことを防止することが主目的であったのが、数年前から、反社会的勢力を社会から排除するためのシステムを企業が担うことが強く求められるようになっているのだ。

それは、企業の反社会的勢力対策にも質的転換が求められていることにほかならない。かつては、企業が、特定の反社会的勢力から不当な要求を受けて屈しないという、個別の関係に関するものであった。それが、反社会的勢力に対する「ヒト・モノ・カネ」の供給を途絶し、社会から排除する社会全体のシステムを構築していくことが必要だとされ、企業にもそのシステムの一翼を担うことが求められるようになったのである。

第三者委員会報告書でも指摘されているように、今回問題になったオリコのキャプティブローンに関しては、みずほ銀行の側は、ローンの債務者とは全く接触しないため、債務者が暴力団関係者であっても、みずほ銀行がその債務者から不当な要求を受けることも、癒着が生じる恐れも全くない。つまり、「不当要求の拒絶」という観点からは、殆ど問題はないのである。

しかし、「一切の関係遮断」のための社会システムの構築という観点からすると、みずほ銀行側としては、オリコをグループ企業として取り込むのであれば、オリコを通じた提携ローンに関する「一切の関係遮断」をどのようにして実現していくのかを検討しなければならない。

そういう意味で、みずほ銀行には、提携ローンを通じた融資に関しても、「一切の関係遮断」という観点からの積極的な取組が求められていたのに、そういう方向への発想の転換が不十分で、銀行幹部も含めた組織的な検討が適切に行われなかったのである。

 具体的対応の困難性

しかし、ここで一つ指摘しておきたいのは、みずほ銀行にとって、「一切の関係遮断」の観点から、オリコの関連会社化に伴った反社会的勢力対策を行っていくことは、決して容易なことではないということだ。

まず、融資契約に暴力団排除条項が導入されているかどうかが問題になる。暴排条項導入前に実行された融資については、その条項違反で契約を解除することはできないため、相手が暴力団関係者であるとわかったとしても、とり得る手段は、債務者側の何らかの不履行があったときに厳格に債権回収を図ることぐらいである。

暴排条項導入後の融資についても、条項違反として対応するためには、警察が把握している情報等で、暴力団関係者であることを裏付ける必要がある。そして、条項違反と認められても、「期限の利益」を失わせ、ただちに回収に入るべきなのか否かについても微妙な問題がある。約定弁済が続いているのであれば、無理に回収を図って回収不能の状況を作るより、それを完済させて融資金を回収し暴力団関係者の手元に資金を残さないようにしたほうがよいという考え方もあり、むしろそれが、民事暴力対策を専門とする弁護士の間では一般的のようだ。

オリコが経産省に提出した報告書によると、今回問題となった提携ローンを通じた融資147件のうち、暴力団排除条項導入後の融資は37件、そのうち、警察情報との照会で関係者と推認されるものは数件である。

また、新規融資への対応に関しても、銀行側が保有している「反社情報」と、信販会社であるオリコが保有している「反社情報」は異なるので、相互に共有することに関しては、個人情報保護に関する問題があり、ただちに情報を共有して、該当者の新規融資をすべて拒絶すれば良いという単純な対応は取りにくいのである。

 本件に関する世の中の誤解

このような、今回の問題への対応の困難性と、その背景としての本件の問題の核心が、世の中に正しく認識されているかと言えば、必ずしもそうではない。マスコミ報道の多くは、「暴力団向けに融資をしていたことを把握しながら、2年間にわたって放置していた。しかも、その事実を歴代の頭取が報告を受けて認識し、現頭取も、取締役会で知り得る立場にあったのに何もしなかった。」と単純化し、それを前提に、みずほ銀行が、過去からの「暴力団との癒着体質」をひきずっているかのように批判している。そこには、マスコミの側にも、本件の問題を、旧来の暴力団対策の「不当要求の拒絶」の観点でとらえている傾向が強いことは否定できない。

このように、不祥事の中身について、企業が世の中から誤解を受けている時にこそ、中立的、第三者的立場から、不祥事の中身を説明することで、マスコミや社会に、問題を正しく理解されるようにすることも、第三者委員会の重要な役割なのであるが、みずほ銀行が設置した第三者委員会の報告書が、その役割を十分に果たせたかと言えば、そうとは言い難い。

報告書は、今回の提携ローンを通じた融資の問題について、反社会的勢力との取引の更なる解消に向け、より積極的な取組みを行うことが求められていたのに、取締役会やコンプライアンス委員会への報告が行われず、抜本的な取組みが行われなかったことなど、銀行内での組織的取組みが不十分であったことを指摘し、その理由について、東日本大震災後のシステム障害で経営陣が交代した際、後任への引き継ぎが不十分だった上、信販会社を介した仕組みのため自行融資の意識が薄かったことを挙げている。

しかし、本件は、そのような形式面の指摘だけで済むような単純な問題ではない。みずほ銀行が、オリコのグループ会社化に当たって、企業の反社会的勢力対策が「不当要求の拒絶」から「一切の関係遮断」へ「急激な環境変化」が起きていることに気付かず、その変化に適応できなかったところに根本的な原因があると見るべきなのである。

本件を根本的な視点からとらえることで、「暴力団向け融資の放置」と単純化して批判するマスコミや世の中の誤解を解消することにもつながるのであるが、第三者委員会報告書では、そのような世の中の誤った認識が解消される方向に向かったとは思えない。

金融庁側の問題

本件は、問題融資に関して、金融庁がみずほ銀行に業務改善命令を出したことが発端となった。しかし、そのような金融庁側の対応は、「不当要求の拒絶」から「一切の関係遮断」の方向への転換という、金融機関も含めた企業の反社会的勢力対策をめぐる環境変化に適応できているのか。今回の問題に対する金融庁側の対応にも、いくつか疑問な点がある。

一つは、金融庁が、「(1)提携ローンにおいて、多数の反社会的勢力との取引が存在することを把握してから2年以上も反社会的勢力との取引の防止・解消のための抜本的な対応を行っていなかったこと、 (2)反社会的勢力との取引が多数存在するという情報も担当役員止まりとなっていること等、経営管理態勢、内部管理態勢、法令等遵守態勢に重大な問題点が認められた。」点を指摘して業務改善命令を出しながら、検査の中で、本件の融資の問題がコンプライアンス委員会や取締役会に報告されていたのかどうか、報告されていたとしたら、その内容はどのようなものであったのかについて、銀行の内部資料を求めていなかったということである。

金融庁側が、みずほ銀行がオリコのグループ会社化に当たって、「一切の関係遮断」によって反社会的勢力の排除を図るシステムの構築の観点から十分な検討が行われたのか、という点を問題にしたのであれば、その点についての具体的な検討や報告の内容を客観的資料に基づいて確認することが不可欠だったはずだ。それを行わないまま、担当者からの説明を「鵜呑み」にして金融庁検査を終えてしまったのは、なぜなのか。

もう一つ重要なことは、本件は、みずほ銀行という「銀行の領域」での「形式的措置」だけで済む問題ではないということである。みずほ銀行は、ローンの資金をオリコに提供しているのであるから、オリコに代位弁済を請求して、資金を回収することで、銀行だけを見れば「やれることはやった」ということになる。しかし、それだけでは、暴力団関係者に対する未回収債権が、みずほ銀行から、グループ内のオリコに移るだけで、「一切の関係遮断」によって反社会的勢力を排除するという目的は何一つ実現しない。みずほ銀行とオリコとを一体として考えて、トータルで、暴力団関係者への「ヒト・モノ・カネ」の供給を途絶して、社会から排除するシステムを担っていかなければ意味がないのだ。そのために具体的に、どのような対策を講じたら良いのかという点に関しては、既に述べたような非常に困難な問題があるのである。しかも、信販会社であるオリコの監督官庁は、割賦販売法等を所管する経済産業省であり、反社情報の銀行と信販会社の共同利用については、経産省が公表する個人情報保護ガイドラインにより書面の同意なく共同利用することはできない、という観点から問題を指摘していることが制約要因となっていた、ということも否定できない。

このような構造の下で、金融庁が、「銀行の領域」での「形式的措置」として、オリコへの代位弁済の請求が行われているのかどうか、という点だけを問題にして、みずほ銀行に対して業務改善命令を出したのであれば、そこにも問題があるのではなかろうか。

「一切の関係遮断」によって反社会的勢力を排除する、暴力団関係者への「ヒト・モノ・カネ」の供給の途絶を図るシステムの構築という、大きな社会的取組みには、官庁・企業などの社会内の組織すべてが連携して取り組まなければならないはずである。金融庁と経産省との間でも、「縦割り組織の壁」を超えて実質的な連携・協力が図られなければならない。

金融庁側も、「一切の関係遮断」によって反社会的勢力の排除を図るシステムの構築という視点で考えていなかったのではないか。そういう面で、金融庁側の対応にも問題があるのではないかと考えざるを得ない。

本件をめぐる混乱の原因

オリコを通じての提携ローンの問題は、「一切の関係遮断」によって反社会的勢力の排除を図るシステムの構築という面からは重要な問題だったはずだが、それが金融庁検査の対象とされた際、みずほ銀行側が問題の重要性の認識を欠いたまま対応し、金融庁側も十分な問題意識を持たずに検査を終了した。その後、金融庁内部の検討の結果、みずほ銀行にとっては予想していなかった業務改善命令が出された。そのタイミングが、ちょうど、メガバンクの幹部の腐敗と金融庁検査との確執をテーマにしたドラマ「半沢直樹」が空前の高視聴率を記録して終了した直後だったこともあって、業務改善命令が予想外に大きくマスコミに取り上げられることとなった。そのため、銀行側の対応が混乱、金融庁の対応も混乱し、両者の不手際の相乗効果もあって、ますます混乱が拡大した。というのが、今回のみずほ銀行問題をめぐる構図なのではなかろうか。

このような構図を前提にすれば、本件について、歴代の頭取も、現頭取も、報告は一応受けたが、十分な認識を持っていなかったこと、そして、みずほ銀行の金融庁検査への対応において隠ぺいの意図がなかったということ自体は、容易に理解・納得できるものである。

第三者委員会の調査が短期間で終了し、以上のような本件の背景・構造を踏まえた判断を示せなかったことで、この問題をめぐるみずほ銀行と金融庁の混乱がさらに長期化・深刻化し、それが、企業の反社会的勢力対策全体にも悪影響を及ぼすことを、強く懸念している。

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阪急阪神ホテルズ問題、「自爆」を招いた会社側の「無神経」

10月22日、株式会社阪急阪神ホテルズが運営する8ホテルのレストランなどが提供した料理47品目でメニュー表示と異なる食材が使用されていたことを会社側が公表し、利用客に代金を返還することを明らかにした。ニュース、ワイドショー等でも「料理偽装」問題として大々的に取り上げられるなど、大きな波紋を生じている。「料理偽装」と報じられたことで、阪急阪神ホテルのブランドイメージのみならず、高級ホテルのレストランに対する信頼にも重大な影響を与える事態となった。

過去に、多くの企業が「不祥事対応」に失敗し、ダメージを拡大させてきたが、それにしても、今回の阪急阪神ホテルズの対応は、「自爆」と言いたくなるほど、あまりに拙劣だ。危機を拡大させた根本的な原因は、会社側の「無神経なコンプライアンス対応」にあると言うべきだろう。

まず、会社側の「メニュー表示と異なる食材の使用」という事実の公表のやり方に重大な問題がある。

会社側は、「メニュー表示と異なった食材を使用していたことに関するお詫びとお知らせ」と題する公表文の別紙に、「メニュー表示と異なった食材を提供した内容等の一覧」と題して、47件について、「施設名」、「提供場所等」「メニュー名」、「誤表示の内容」、「ご利用人数」「販売期間」の項目を記載した一覧表を添付した。

この公表文と一覧表の記載が独り歩きしたために、「高級ホテルの高級レストランにおける膨大な数の『料理偽装』」のように認識されて、批判・非難が一気に拡大していったのである。

会社側は、今回の問題は「料理の偽装」ではなく、「メニューの誤表示」だと説明している。10月24日に行われた社長の記者会見でも、「誤表示」であることを強調している。

それなら、「実際の食材と異なったメニュー表示」というタイトルにすべきであった。

確かに、メニューが先にできていて、それと異なる食材が使用された場合には、意図的か否かは別として、「食材の使用」の問題と言わざるを得ない、というのも一つの理屈だ。しかし、会社側として、使用した「食材」の方には問題はなく、それと適合するメニュー表示が行われていなかったことが問題だった、と言いたいのであれば、「メニュー表示」の問題をタイトルにすべきだった。

「メニュー表示と異なった食材の使用」というタイトルにしたことが、新聞、テレビなどの見出し、記事で「メニュー表示」ではなく「食材の使用」の問題のように扱われ、食材の方に問題があるように認識される原因になったことは否定できない。

不祥事についての事実の公表に関する措置や表現の一つひとつが、どのようにマスコミに扱われ、どのように使われるのかを考えなければならない、というリスクコミュニケーションの基本的な認識の欠如という「無神経さ」が、危機を拡大させたと言える。

さらに、大きな問題は、47件の「メニュー表示」の問題全体を、一つの「一覧表」で表現したことである。

一覧表には、食材とメニュー表示の違いがあったすべてのケースについて、提供施設名と「誤表示の内容」「利用人数」「販売期間」が単純に並べて記載されている。

しかし、ここに記載された施設の中には、「高級ホテルの高級レストラン」もあれば、競馬場、劇場、病院、学生会館の中のレストランも含まれている。また、料理の提供の方法にしても、レストランの客が、個別にメニューを見て料理を注文するものもあれば、ホテルの宴会場でパーティー料理として提供したもの(大部分はビュッフェ形式だと思われる)も多数含まれている。

高級店では商品・サービスの内容が個別化され、逆に、低価格店では規格化される。メニューについても、高級レストランであれば、接客担当者が、内容を丁寧に説明してくれるが、低価格店では、印刷したメニューがテーブルに置いてあるだけであることがほとんどだ。また、ビュッフェ形式のパーティーであれば、メニューは、パーティーの主催者側に示されるだけで、飲食するパーティー参加者は直接目にしない場合も多い。

このように、提供する料理・食材と表示の関係は、施設の規模、性格や提供の形式によって異なる。その違いによって、使用した食材とメニュー表示の違いが利用者の側にどのように認識されるのかも異なってくる。

しかも、一覧表を見ると、食材とメニュー表示の違いも、当該料理を提供し全期間にわたって生じていたように思えるが、実際には、そうではなく、当初は、メニュー表示通りの食材を使用していたのが、途中から、何らかの事情で他の食材を使用したというのが大部分であろう。そうであれば、違いが生じた期間とその期間の利用人数を可能な限り特定して記載すべきであろう。

しかも、「メニュー表示と異なる食材の使用」の47件が、一覧表で同列に並べられ、会社側がすべてを消費者庁に報告し、同庁が、不当表示(景品表示法違反)の疑いで調査を行っていると報じられたことが、47件全体が景表法の不当表示に該当するかのように受け止められることにつながったが、不当表示となるのは「一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示す表示」であり、多くの件は該当しないと思われる。

「不当表示に当たる違法行為」などという先入観を捨てて、これら47件の中身を、改めて冷静に眺めてみると、多くは、メニュー表示と食材との間に何らかの違いはあっても、それ程重大なものだとは思えない。

今回事実を公表した47件のうち、「冷凍魚」を「鮮魚」と表示したというのが13件あるが、「鮮魚」の「鮮」は、「冷凍保存」という「鮮度維持の方法」をすべて排除する意味なのであろうか。冷凍技術の発達によって、冷凍物でも、生で運搬・保存するもの以上に鮮度が良いものも多いはずだ。冷凍物であっても、シェフが自信を持って選んだ食材で作った料理を、「鮮魚のムニエル」などと表示することが「実際のものよりも著しく優良であると示す表示」になるのだろうか。

「鮮魚の刺身盛合せ」に冷凍まぐろが含まれていた件も問題にされているが、まぐろの刺身は通常は冷凍物であり、生のまぐろの方を「生まぐろ」と区別して呼ぶのが一般的だ。「鮮魚の刺盛り」に冷凍まぐろが含まれていたことに不満を持つ客がいるだろうか。

「自家菜園の野菜」などと表示した野菜に他の野菜が含まれていたなど「野菜」に関する問題が15件あるが、ホテル菜園の品目・収量に限界があるのは当然であり、一部他の野菜が含まれていても、菜園で採れた野菜も使用しているのであれば、利用者の期待を裏切るものとは言えないだろうし、少なくとも、「著しく優良」と誤認させる表示とは言えないことは明らかである。

「レッドキャビア」が「マスの魚卵」ではなくトビウオの魚卵だったという問題も、テレビ等で大々的に取り上げられたが、クラゲの上に「彩り」として微量添えられているものに過ぎない。しかも、「レッドキャビア」が通常「マスの魚卵」を意味するということを知っている人がどれだけいるであろうか。むしろ、食感や魚卵の大きさは、トビウオの魚卵の方がキャビアに近いようにも思える。

このように、47件の大部分は、メニュー表示と食材の違いは、利用者側に誤解を与える程度は低く、実質的に大きな問題になるものとは思えない。

景表法の不当表示という面でも、該当する可能性があるとすれば、産地の異なるポークを「霧島ポーク」と表示、沖縄産でない豚を「沖縄まーさん豚」と表示したなどの豚肉の産地表示の問題、「津軽鶏」を「津軽地鶏」と表示した問題ぐらいだろう。

ビーフステーキに「牛脂注入牛肉」を使用していた件も、もし「霜降り牛肉」と表示したのであれば、「人工的な霜降り」を「天然の霜降り」のように表示したということで、不当表示に該当する可能性が高いが、単に「ビーフステーキ」と表示しただけであれば、加工・調理方法の範囲内の問題とも言えるので、不当表示に当たるとは言えないであろう。消費者庁のHPでは、表示方法として「牛脂注入加工肉使用」と明記する方法を挙げているが、それを行わなければ違反になるというものではない。

個々に見ていくと、利用者に大きな誤解を与えるとは思えない「メニュー表示の誤り」も、47件が同列に並べられ、しかも、会社側が景表法に違反する疑いがあると判断して消費者庁に報告したとなると、最初から、重大な「料理偽装」のようなイメージを与えてしまうことは否定できない。

47件について、販売の全期間の利用客に、一律に代金全額を返金するというのも、あまりに短絡的な措置だ。

「鮮魚のムニエル」の食材が冷凍魚だったこと、「自家菜園の野菜」に他の野菜が含まれていたことが、提供した料理の価値を全て否定するほどのものなのであろうか。その中には、大切な記念日にホテルで楽しんだディナーなどもあるはずだ。その「思い出」すらも、「偽装料理」という言葉で汚されてしまうことになりはしないか。

株式会社阪急阪神ホテルズは、阪急電鉄、阪急交通社、東宝、阪神電鉄などの会社が阪急阪神ホールディングスに経営統合されたことに伴って、各社のホテル部門が合併してできた会社であり、売上高は約630億円、業界4位の大規模ホテル会社である。

大企業として、傘下の多くのレストランを運営することになった同社が、他社における同種の問題が発覚したのを機に社内調査を行った結果、今回の問題が明らかになり、親会社の阪急阪神ホールディングスのコンプライアンス方針に従って判断をした結果が、今回の事実の公表、返金の措置ということだろう。その前提となったのは、「法令遵守」の観点から、景表法に違反する疑いが少しでもあれば、是正措置をとる必要があるという「大企業のコンプライアンスの論理」であろう。

しかし、ホテル、レストランにおける料理の提供は、単なる「食品の販売」ではなく、施設の雰囲気、シェフやソムリエ、給仕接客態度、料理の味・外観なども含めて客に満足を与える総合的な商品・サービスである。同じ阪急阪神ホテルズが経営する施設であっても、一つひとつに個性があり、客との関係、メニューの作り方も異なるはずだ。メニュー表示と食材に関して問題を把握したのであれば、個々の施設ごとに、事例ごとに、事実関係と問題の大きさの程度を調査・確認し、個別の実態に適合した丁寧な措置をとるべきだったのではなかろうか。

それを、一般的な食料品の製造・販売をめぐる問題のようにとらえ、「大企業のコンプライアンスの論理」で画一的に取扱い「表示と異なる食材の使用」として事実を公表し、代金を返金する措置をとった。そのような阪急阪神ホテルズという企業のコンプライアンスの「無神経さ」が、危機を拡大させた最大の原因と言えるのではなかろうか。

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みずほ銀行第三者委員会は何を期待されているのか

10月8日、前回のブログ【メガバンクとして余りにお粗末なみずほ銀行の危機対応】で取り上げた、反社会的勢力への提携ローンを通じての融資の問題に関して、みずほ銀行が、第三者委員会である「提携ローン業務適正化に関する特別調査委員会」を設置することを公表した。

同日、佐藤頭取が、暴力団関係者への融資の問題について初めて記者会見し、歴代の頭取が報告を受け問題を認識していたこと、問題が報告された取締役会に出席していた佐藤頭取自身も「認識し得る立場」にあったことを認めた。日本を代表するメガバンクのガバナンス、コンプライアンスの根幹が問われる事態になっている。

みずほ銀行の経営陣が社会の信頼を喪失しつつあるだけに、組織の信頼を回復できるかどうか、第三者委員会の役割は極めて重大である。

重大な不祥事で社会から批判・非難を浴び、信頼を失墜した組織は、不祥事の事実関係を調査し、原因を究明して再発防止策を策定することが信頼回復のために不可欠となる。しかし、組織自体の信頼性が失われていると、組織の内部者が調査・検討を行っても、その結果が世の中から信用されない。そこで、調査・検討の中立性、客観性を確保するために設置されるのが、この種の第三者委員会である。

このような「第三者委員会」の設置と活動に関する問題については、拙著【第三者委員会は企業を変えられるか】(毎日新聞社)で、私自身が委員長を務めた九州電力「やらせメール」問題の第三者委員会の事例を題材に、詳細に述べている。

そこで重要なことは、第三者委員会が、どのような位置付けで、どのような役割を与えられ、どのような体制で事実調査・原因分析・提言を行っていくかである。

第三者委員会が、本来の役割を果たすためには、組織から独立した客観的な立場で活動が行う地位が保障され、十分な権限が与えられなければならない。

しかし、今回の第三者委員会の設置についてのみずほ銀行の対応を見ると、果たして、独立した客観的な立場で十分な調査・検討が行えるのか疑問である。

設置についての公表文では、「今般、当行は、再発防止・信頼回復のため、本件に関する事実確認、原因の究明、改善対応策の妥当性評価ならびに提言を得るべく、当行と利害関係を有しない外部の識者・専門家から構成される第三者委員会・・・を本日付けで設置した」とされているが、ここには、最も重要な「調査」という言葉が入っていない。事実「確認」という言葉からは、第三者委員会が独自に調査を行うのではなく、みずほ銀行が行う行内調査について外部専門家が検討し、その調査の手法、経過、結果が「妥当である」との「お墨付き」を与えることを目的とする委員会であるようにも思える。

今回の問題に関して調査すべき事項には、歴代の頭取が、暴力団関係者への融資の事実の報告を受けたのに、なぜ放置したのか、また、取締役会への報告を受けたのにそれを記憶していないと述べている現頭取の供述の信用性など、みずほ銀行のトップを含む経営陣の責任問題につながる事項が多く含まれている。通常、このような問題について行内調査で真相解明することは到底困難であるし、第三者委員も、独自に調査することなく、そのような行内調査の結果について、適正であるか否かを判断することは困難であろう。

日本を代表するメガバンクの経営の根幹に関わる問題なのであるから、第三者委員会の独自の調査体制を構築し、必要に応じて内部者を調査に活用することはあってもよいが、外部者中心の調査を行うべきであろう。

 そして、もう一つ不可解なことは、設置後、第三者委員会側の記者会見は行われず、何のコメントも出されていないことだ。社会的にもこれだけ大きな注目を集める組織不祥事について、重大な使命を担う第三者委員会が設置された場合には、第三者委員会の側で記者会見を行い、調査の方針、調査体制、調査期間等について説明するのが通例だ。

組織自体の信頼が失われている時に、組織の内部者に代わって、第三者委員会が事実解明・原因究明の役割を担うのであれば、その第三者委員会の側から、社会に対して、それらの使命を果たすことについてしっかり責任を負う旨のメッセ―ジを発するべきだ。それが行われれば、マスコミも、世の中も、第三者委員会による事実解明に期待することになり、当該組織に対する批判・非難も、ひとまず一応沈静化する。第三者委員会が、単に、公表文という紙の上だけの存在にとどまったのでは、その設置の効果は限られたものにしかならない。

 みずほ銀行の第三者委員会は、この問題を、「環境の激変に対する組織の不適応」という観点からとらえて事実解明、原因分析を行うことが重要である。

九州電力の「やらせメール」問題の本質は、原発を運営する電力会社の組織が福島原発事故による環境の激変に適応できなかったことにあったのと同様に、反社会的勢力、暴力団の排除をめぐる最近の世の中の「激変」に、みずほ銀行という日本を代表するメガバンクの組織が適応できなかったことに問題の本質があるように思える。そこには、組織の体質、企業文化等の構造的な要因が起因している可能性がある。

みずほ銀行の第三者委員会には、徹底した主体的調査を行い、このような構造的な要因を解明することが求められている。

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メガバンクとして余りにお粗末なみずほ銀行の危機対応

近年、金融機関のコンプライアンス対応の中で、特に重視されてきたのが暴力団等の反社会的勢力への対策である。国際的なマネーロンダリング防止の要請もあって、金融機関の対応のレベルは急速に高まっている。

そうした中で表面化したのが、みずほ銀行が提携ローンを通じて反社に融資をしていた問題だ。反社への融資であることを把握した後も2年間も放置していたとのこと。日本を代表するメガバンクとしては誠にお粗末としか言いようがない。

もちろん、反社と認識しながら直接融資したわけではない。しかし、日本の経済社会全体で反社対策、暴力団対策が一層徹底され、金融機関の義務が強化されている中においては、反社への融資に対して、副頭取等の銀行幹部が認識していながら、長期間何の対策もとらなかったというのは、金融機関の社会的責任という観点からも、厳しい批判を免れない。

反社問題で監督官庁から業務改善命令を受けるというのは、メガバンクにとって極めて深刻である。反社への融資について金融庁の調査で指摘され、何らかの処分を受ける可能性があることを認識した段階で、重大な不祥事として受け止め、そのような問題に対するみずほ銀行としての姿勢、方針を明確に示し、今後の対応と再発防止の基本的な方向性を示すことで、社会からの信頼の維持を図るべきであった。

ところが、みずほ銀行は、金融庁調査の後、業務改善命令が公表され、問題が世の中に対して明らかになった後も、広報部での説明や、幹部が囲み取材に応じる程度で、記者会見も開かなかった。そのため、社会からの批判は否応なく高まっていった。

ようやく、一週間後の昨日、会見を開いたものの、頭取は顔を見せず、副頭取が謝罪に終始した。誰もが注目している「問題を2年間放置した経緯・原因」等については「調査中」としか答えなかった。銀行内でのこれまでの反社問題への対応の経過も、対応が遅れた原因も、今後の対応方針も、ほとんど明らかになっていない。反社取引という不祥事そのものに加え、このようなみずほ銀行の一連の危機対応の稚拙さが、今回の問題を一層深刻化させたことは否定できないであろう。

クライシスマネジメントの迅速さ、適切さは、企業等が不祥事によって受けるダメージの有無・程度に決定的な影響を与える。

私が、第三者委員会の委員長として不祥事の事実関係の調査、原因分析、再発防止策の策定等に関わった新日本有限責任監査法人職員のインサイダー取引問題と、野村証券社員のインサイダー取引問題とを、クライシスマネジメントの面で比較したのが、拙稿【野村証券はなぜ危機管理に失敗したのか 組織の生死を分けるクライシスマネジメントである。ここでは、クライシスマネジメントの違いによって、組織もたらされる結果が大きく異なることを明らかにした。

新日本有限責任監査法人のケースでは、証券取引等監視委員会による調査の早い段階から、問題の表面化に備えて十分な準備を行い、新聞報道の直後に記者会見を開き、第三者委員会の設置を明らかにした。

それに対して、刑事事件に発展した野村証券のケースでは、対応がすべて後手に回り、記者会見での社長の説明も混乱、調査委員会のメンバーが社外取締役中心であることについて「調査の客観性」も問題視された。

この記事を書いたのは2008年5月。もう5年以上も昔のことである。それ以降、経済社会の環境が激しく変化する中で、日本企業のコンプライアンスに対する姿勢も取組みも進化してきたはずだ。

グローバルな事業活動を展開し、様々なコンプライアンス上のリスクにさらされているメガバングの一角をなすみずほ銀行のクライシスマネジメントのレベルが、いまだに、今回のような程度だというのは、何とも情けない限りである。

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大坪・佐賀断罪のために「検察の正義」を丸裸にした控訴審判決

9月25日、大坪弘道元大阪地検特捜部長の犯人隠避事件の控訴審判決が言い渡された。

主文は、「控訴棄却」だった。

大坪氏が特捜部長として指揮した郵便不正事件・村木氏事件での検察の捜査・公判を厳しく批判してきた私が、なぜ一審有罪判決に対して控訴した大坪氏の弁護人という立場での活動を行うに至ったのか。

それは、部下の特捜部主任検察官による証拠改ざんという問題に対する危機管理対応において、長年所属してきた「検察の論理」に従い、組織防衛のために行った大坪氏を、独占する公訴権の「刃」で斬り捨てた検察のやり方が、あまりに理不尽かつ不当なものだと考えたからだった。そのようなやり方は、検察の歴史に重大な禍根を残すだけではなく、検察不祥事の本質から目をそむけ、検察の抜本改革を妨げるものでしかないと考え、私は、大坪氏の弁護人として、検察の「不当な組織防衛」を追及する側に立った。

ところが、判決は、控訴趣意書・補充書での弁護人としての私の主張をことごとく退け、大坪・佐賀両氏を逮捕・起訴した検察の主張と一審判決を、丸ごと容認した。その結論だけを見ると、判決は、大坪・佐賀両氏の「組織防衛」のみを断罪し、検察組織の「組織防衛」を丸ごと許したかのように見える。

しかし、判決書を熟読すると、そのような結論を導き出すために判決が示した判断には、検察組織に対して重大な影響を生じさせる論理が含まれていることがわかる。

検察が行った両氏の逮捕・起訴、それを丸呑みした一審判決は、明らかに無理筋だった。それが無理筋であることを指摘する控訴趣意書の主張を排斥するために、控訴審判決が用いた論理は、検察組織、検察実務に対して、猛毒となるものだった。

この事件の特異性、公判の経過、争点などについては、【控訴審で「立ち往生」する検察~明日から元特捜部長控訴審公判】【大坪元特捜部長逮捕・起訴は、検察組織の重大な不祥事・歴史上の汚点】で詳しく述べた。

一審判決は、1月30日の電話で、佐賀氏が前田から故意改ざんの告白を受けたことを、2月1日午前に、大坪氏に報告し、大坪氏は前田の故意改ざんを確定的に認識していたと認定した。しかし、佐賀氏は、1月30日に前田と電話で話した事実自体を否認し、当然のことながら、その電話で前田から故意改ざんの告白を受け、それを大坪氏に報告したことも否定している。その点についての直接証拠は全くない。

一審判決が認定の根拠にした「推認」は、「佐賀は、『もし、前田から故意改ざんの告白を受けていたら部長の大坪に報告しているはずだ』と述べている。当裁判所は、佐賀が故意改ざんの告白を受けたと認定した。だから、佐賀は大坪に報告している」というものだった。しかし、そのような「推認」が刑事事件において凡そ通用しないものであることは少し考えればわかるだろう。そのような「推認」がまかり通るのであれば、自宅から拳銃が発見されて不法所持で取調べを受けている暴力団組員が「もし、拳銃を入手したら、必ず組長に報告しているはずです」と供述して、拳銃所持の認識を頑強に否認していたとしても、何らかの根拠で、「その組員が拳銃所持を認識していた」と認定できれば、組員の「供述」によって拳銃所持の組長への報告も認定でき、組長も共同所持で処罰できる、という話になってしまう。さすがにこんな乱暴な事実認定は刑事事件においてはあり得ない。

私は、控訴趣意書で、その点を徹底して主張し、それに加えて、仮に、1月30日に、佐賀氏が前田と電話で話した事実があり、その際、前田から故意改ざんの告白を受けたとしても、佐賀氏が、それを大坪氏に報告しなかった可能性を示す事情が多々あることも主張した。

しかし、控訴審判決は、このような弁護人側の主張を退け、一審判決と同様に、「もし前田から故意改ざんの告白を受けていたら、大坪部長に報告していたはず」との佐賀供述を根拠に、大坪氏の故意改ざんの確定的認識を認定した。しかし、さすがに、それだけでは、推認の根拠があまりに薄弱と考えたのか、「被告人の弁解の不合理性」を殊更に強調した。

大坪氏が佐賀氏から前田の告白について報告を受けていなかったとしても、「前田の過誤説明」を鵜呑みにして、検事正、次席検事に報告し、何らの裏付け調査も行わなかったことは「特捜部長の要職にある者」の対応として厳しく非難されるべきものだと述べた上で、そのような特捜部長にあるまじき対応を行ったと述べる大坪氏の供述自体が不自然・不合理で信用できないとしたのである。

判決は、次のように述べている。

故意または過失のいずれの場合であっても、前田個人にとどまらず検察庁全体に対する信頼を大きく傷付け、刑事司法の威信をも損なうおそれのある重大な不祥事になることは必定というべきである。したがって、いずれにしても、前田の直属の上司である被告人両名としては、前田による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにして、検察庁ないし刑事司法の自浄作用を迅速に機能させることにより、検察庁に対する信頼や刑事司法の威信をできるだけ保持するとともに、同事件に関する公正な公判審理を早期に進行させるためにも、その全容の解明が急務であった。

つまり、判決は、「仮に過失であったとしても、大坪氏・佐賀氏は、前田による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにすべきだった。FDデータ改変問題を把握していながら、その問題の全容を解明して村木事件公判に反映させることなく、有罪をめざした公判活動を継続しようとすること自体が許されない。」と述べているのである。

大坪氏が、前田の故意改ざんの告白について佐賀氏から報告を受けたか否か、故意改ざんについて確定的認識を持ったか否かに関わりなく、村木公判の最重要証拠についてデータが改変された事実があるのであれば、それを公表して、村木事件の有罪立証を断念し、白旗を上げろ、と言っているのである。

しかし、このような控訴審判決の論理を前提にすれば、断罪されるべきは大坪氏・佐賀氏だけではない。

大阪地検の小林検事正、玉井次席検事は、村木公判に関して、関係者供述と作成された文書のFDのプロパティ問題が矛盾するという、証拠上重大な問題があることの報告を受けていた。そのFDのプロパティ・データが、主任検察官の前田によって改変された疑いがあるとの報告を受けたが、被告人側に還付されたFDデータの再提出を求めるなどした調査を行うことも、問題を公表することもせず、村木事件での有罪をめざした立証を継続することを了承した(判決も、「大阪地検最高幹部」としての検事正・次席検事の対応の問題を指摘している)。

村木事件公判担当主任検察官の白井は、前田が佐賀氏に故意改ざんを告白した1月30日の電話を見聞したと証言し、検察の立証の大きな支えとなったが、その白井は、2月1日に、特捜部長の大坪氏に前田の改ざん問題についての公表を強く迫っていながら、その後、特捜部長から検事正・次席検事にどのような内容の報告が行われたのかを確かめもせず、捜査主任検察官による故意の証拠改ざんの事実を認識しつつ、村木公判で、村木氏を有罪にするための主張・立証を継続し、有罪論告まで行っている。

公判部長も、白井から前田の故意改ざんについて報告を受けていながら、村木事件の公判対応に関して何らの措置もとろうとしなかった。

さらに、過失によってデータが改変された可能性があることは、特捜部長の大坪氏から大阪高検榊原刑事部長にも報告されたが、刑事部長は、調査を行わないことを了承し、何らの措置もとらなかった。

その後、村木事件公判で、検察官調書の大部分が証拠請求を却下され、FDプロパティ問題が最高検の知るところとなり、調査が行われたが、この際、FDデータが主任検察官によって改変された可能性があることを、これら検事正、次席検事、公判部長、主任検察官、高検刑事部長など多くの人間が認識していたはずなのに、その点は全く問題にされることなく、検察は、村木氏に対して有罪論告を行っている。

検察は、「検察組織の論理」にしたがって部下の証拠改ざん問題への危機管理対応を行った大坪・佐賀両氏を、「組織防衛」のために斬り捨て、事件を検察の組織的問題から切り離すために、「故意改ざんの過失へのすり替え」を強調した。それによって、「過失によるデータ改変」に対して何らの対応をとらなかった検察組織を守ろうとした。

しかし、大坪氏の故意改ざんの確定的認識についての証拠があまりに希薄だったために、控訴審判決は、検察の論理だけでは大坪氏を有罪にできないと考え、「過失によるデータ改変」であっても、村木事件の最重要証拠について疑念が生じた以上、特捜部長としてそれを見逃すことは許されないという論理を展開した。「公判での重要証拠に関して何か問題があれば、ことごとく公判で明らかにせよ」という「裁判所の論理」に基づくものであろう。

その論理は、従来からの「検察組織の論理」にしたがって、「過失によるデータ改変」の事実があったとしても、改変前のFDデータの内容が捜査報告書に記載されて公判で明らかにされている以上、大きな問題ではなく、FDの再提出を求めず、村木事件公判での有罪立証を継続することに問題はない、と判断した検察組織の側にとっては、思いもよらないものだったはずだ。

この控訴審判決の論理が、検察にとって、いかに「猛毒」であるかは、陸山会事件捜査の過程での田代元検事による虚偽捜査報告書作成事件に対する検察の対応との比較を考えてみれば明らかであろう。

この事件については、市民団体が、田代検事等を虚偽有印公文書作成・同行使、偽証で告発するとともに、東京地検幹部等を、実際の取調べでのやり取りとは全く異なった内容の捜査報告書が作成され検察審査会に提出されていたことを把握したのに、捜査・調査を行わず、公表も行わなかったことについて犯人隠避で告発したが、最高検は、いずれも不起訴とした。

この事件に、大坪氏控訴審判決の論理を当てはめれば、こうなる。

検察審査会での小沢氏の議決に重大な影響を与えた田代捜査報告書の内容が虚偽であることが判明し、石川氏の供述経過について検察審査会の審査員に誤った認識を与えた疑いが生じた以上、田代検事が「記憶の混同」などと弁解していても、それを鵜呑みにすることなく、田代による職務犯罪ないし事務過誤の詳細を早急に明らかにして、検察庁ないし刑事司法の自浄作用を迅速に機能させることにより、検察庁に対する信頼や刑事司法の威信をできるだけ保持するとともに、同事件に関する公正な公判審理を早期に進行させるためにも、その全容の解明が急務であったということだ。

そして、検察は、虚偽捜査報告書の問題を公表しなかった理由を「秘書事件の公判を控え、小沢氏の起訴も間近に予想される段階で、証拠の内容を、その公判の前に明らかにすれば、裁判に予断を与えることになりかねず、指定弁護士等の今後の公判活動にも影響を与える可能性もあった」としているが、控訴審判決の論理からすると、「小沢事件や秘書事件の公判への影響を理由に、田代検事や当時の特捜幹部が行った重大な職務犯罪の疑いを放置することも許されない」ということになる。

「過失によるデータ改変であったとしても、そのまま放置すべきではなく徹底調査し、その結果を公判に反映すべきであった」という控訴審判決の論理は、これまで身内の不祥事に対して、できるだけ内部にとどめ、公判での立証を優先する対応をしてきた検察組織全体への厳しい批判でもあるのだ。

控訴審判決が検察官の職務行為に関する犯人隠避罪の成立に関して示した法解釈も、検察実務、特に、特捜部の捜査に重大な影響な影響をもたらすものである。

私は、控訴趣意書で、検察官は、刑事事件の起訴不起訴だけではなく、事件を認知立件して捜査すべきかどうかについても裁量権を有しているのだから、その職務行為について犯人隠避罪が成立するとすれば、一般的な検察官の職務行為から逸脱している場合に限られると解するべきだという主張をした。

それに対して、控訴審判決は、検察の実務からの「逸脱性」を全く問題にせず、「捜査機関である検察庁内において、検察庁の幹部が、部下である検察官による職務犯罪を覚知した場合において、犯人を隠避させたといえるためには、上級庁を含む検察組織全体として犯人逮捕に至るべき捜査に着手させない状況を作出することを要する」「上司や上級庁に対しては、証拠隠滅に関する嫌疑を抱かせないための工作を行うとともに、地検の内部及び部下の検察官らに対しては、当該嫌疑に関する情報を管理し、捜査に向けた動きを封じる工作を行うことが必要」と判示した。

このような考え方で、犯人隠避罪の成立が認められることになると、特捜部の実務は成り立たない。特捜部では、情報提供、告発などの様々な捜査の端緒の中から、捜査の対象事件を取捨選択し、その捜査結果に基づいて、さらに、捜査を継続するかどうか、強制捜査に着手するかどうかを、事件の性格や規模、他の事件の捜査との関係、捜査に動員できる人員などを考慮して判断する。犯罪の嫌疑について有力な証拠が得られている事件でも、特捜部としての政策的な判断によって、本格的な捜査着手、立件を見送ることもある。その場合には、捜査着手を見送ることを検事正、次席検事、上級庁等に報告し、了承を得るわけだが、その際に、有力な証拠が得られているとか、被疑者が自白していることなど、敢えて報告しないということも、従来の検察実務としては十分あり得る。そして、捜査着手が見送られることになれば、その事件について部下に厳しい箝口令を敷くことになる。

「上司や上級庁に対しては、証拠隠滅に関する嫌疑を抱かせないための工作」「地検の内部及び部下の検察官らに対しては、当該嫌疑に関する情報を管理し、捜査に向けた動きを封じる工作」の両方を行うことで犯人隠避罪が成立するという控訴審判決の法律解釈によれば、これまで特捜部で当然のように行われてきた事件の取捨選択と、それについての上司・上級庁への報告は、すべからく犯人隠避罪に当たることになる。

しかも、判決は、このような法律解釈の本件への当てはめについて、「本件改ざんの隠蔽に関する成算は、かならずしも十分なものであるまでの必要はなく、被告人両名としては、本件改ざんの隠蔽の動機や思いから、上司に対する報告の成り行きに賭けてみようとするだけの成算があれば足りる」と述べている。この考え方によれば、特捜部幹部が、事件の捜査着手見送りについて上司の了解を得るための報告をする際に、「上司から質問されたらありのままに報告せざるを得ないが、取りあえず犯罪の嫌疑に関する有力な証拠があることは報告しないでおこう」と考えて証拠の存在を秘匿した場合は、それだけで犯人隠避罪が成立することになる。

従来の刑事司法においては、刑事事件に関する情報、証拠の管理、取扱いは、基本的に検察の判断に委ねられており、検察が、起訴後に想定外の特別の事情が生じない限り、有罪判決を得ることを目的とした「公判維持最優先」で対応することで、100%近い有罪率が維持されてきた。それが、「検察の正義」中心の刑事司法の構図を支えてきた。

そして、その「検察の正義」の象徴となってきたのが、広範な裁量で捜査の対象を取捨選択し、一度ターゲットを定めると、捜査権限を最大限に活用して徹底的に追い詰める、特捜検察であった。

今回の控訴審判決で示された「裁判所の論理」は、そのような「検察の論理」を根底から揺さぶりかねない。まさに検察による、情報と証拠の独占によって支えられてきた「検察の正義」そのものを丸裸にするものである。

それは、「検察の論理」にしたがって対応した両氏を、検察が「組織防衛」のために斬り捨てたことが招いた、当然の結果といえる。

このような「裁判所の論理」が、控訴審で確定するのか、上告によって最高裁に持ち込まれることとなるのか、検察幹部は固唾を飲んで見守っていることであろう。

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