「不起訴不当」議決を検察はどう受け止めるのか

陸山会事件をめぐる虚偽捜査報告書等の事件に関して、昨年6月、検察が田代政弘元検事(以下、「田代」と略称)らに対する不起訴処分について、「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」(以下、「市民の会」と略称)による検察審査会への審査申立てが行われていたが、今月22日、東京第一検察審査会は、田代元検事について「不起訴不当」、佐久間達哉元特捜部長(以下、「佐久間」と略称)、主任検察官だった木村匡良検事(以下、「木村」と)ら上司について「不起訴相当」の議決を出した。

この虚偽捜査報告書作成等の問題は、検察審査会の起訴議決によって起訴された小沢一郎氏に対する東京地裁での審理の中で表面化し、「市民の会」が田代らを告発していたものだった。最高検は、昨年6月28日に田代らを不起訴処分にしたが、昨年4月に出された小沢氏に対する一審判決の中で、「事実に反する捜査報告書の作成や検察審査会への送付によって検察審査会の判断を誤らせることは決して許されない」「事実に反する内容の捜査報告書が作成された理由、経緯等の詳細や原因の究明等については、検察庁等において、十分調査等の上で、対応されることが相当」などと異例の厳しい指摘が行われたことなどもあって、不起訴処分の際に、「国会議員の資金管理団体に係る政治資金規正法違反の捜査活動に関する捜査及び調査等について」と題する報告書をマスコミ等に開示し、同事件の不起訴処分の理由を明らかにした。

この報告書の内容については、本ブログ【社会的孤立を深める検察~最高検報告書は完全に破綻している】において、「今回の問題に対する真相解明にはほど遠く、この問題に関する疑惑の説明にも全くなっていない。そして報告書の中で述べられている考え方や物の見方の多くは、内部だけで全てを決められる閉鎖的な組織の中だけにしか通用しない「身内の理屈」であり、社会の常識から理解できず、到底受け入れられるものではない。」と厳しく批判した。

また、昨年9月に公刊した【検察崩壊 失われた正義】(毎日新聞社)[kindle版]では、田代元検事の取調べの対象者で虚偽報告書作成問題の当事者の石川知裕衆議院議員、元法務大臣の小川敏夫参議院議員など4名との対談を交えて、同報告書が、全くの「詭弁」と「ごまかし」だらけのものであることを指摘した。

そして、最近になって、小川参議院議員が、『指揮権発動 検察の正義は失われた』と題する著書を公刊し、最高検報告書を厳しく批判するとともに、指揮権発動について当時の野田首相に了承を得られず不発に終わった経緯を明らかにした。

田代らに対する虚偽捜査報告書作成等の事件の不起訴処分に対して、昨年8月、「市民の会」による検察審査会への審査申立てが行われ、8ヶ月の期間の審査の末に出されたのが今回の議決である。

今回の議決は、田代の事件については、「田代報告書の提出を受けた東京第五検察審査会は、田代報告書を基に、B(石川知裕氏)がA(小沢一郎氏)への報告・相談等を認める旨の供述を維持した再捜査の供述の信用性を認めるなど、公文書の内容に対する公共的信用を害している」などとして報告書の虚偽性を認めた上、「記憶の混同」だとする田代の弁解やそれを是認した検察の判断を厳しく批判し、「不起訴不当」の結論を出している。

一方、田代の上司の佐久間、木村については、田代報告書の内容が事実に反するものであることは容易に知り得たのではないかという状況的な疑いは残るものの、田代も上司の虚偽報告書作成の指示を否定しており、その認識を窺わせる証拠がないとして、「不起訴相当」としている。

田代についての「不起訴不当」の議決を受けて、検察は再捜査を行うことになる

検察審査会が出す議決には「起訴相当」「不起訴不当」「不起訴相当」の3つがある。検察の不起訴処分を是認するのが「不起訴相当」。「起訴相当」「不起訴不当」は、いずれも検察の不起訴が不当だとして再捜査と再検討を求めるものだが、「起訴相当」の場合、検察が、再度の不起訴処分を行っても、その後、検察審査会の再審査で、「起訴議決」が出ると、指定弁護士による起訴手続きが行われることになるので、「法的拘束力」が生じる可能性があるのに対して、「不起訴不当」の場合は、検察が再捜査の結果、再度不起訴処分を行えば、それで事件は終結するので「法的拘束力」はない。

「起訴相当」ではなく「不起訴不当」にとどまったという議決の結論を重視すれば、「検察に対して生ぬるい議決」だと見ることもできる。審査補助員として委嘱された弁護士が検察幹部出身者だったことが、そのような議決の結論に至った原因だとして、判断の公正さに疑念を示す意見もある。

確かに、「検察の身内の犯罪に関する不起訴処分」に対する検察審査会への申立ての案件において、その検察の幹部出身の弁護士が審査補助員を務めるということは、判断の公正さに重大な疑問を生じさせるものである。いかなる経過、事情でこのような審査補助員の選任が行われたのかを解明することが必要である。

しかし、逆に言えば、そのような「検察寄り」の審査補助員の助言や働きかけが疑われる状況にあったにもかかわらず、検察審査会が、検察の不起訴処分に対して「不当」との結論を出したことの意味は、逆に大きいと言えるのではなかろうか。

議決書の中には、検察の不起訴理由に対する厳しい指摘、疑問が並んでいるが、それらは、「検察寄り」の審査補助員の意見、一般市民の審査員の率直な意見に基づくものといえるであろう。

しかも、この事件での「不起訴不当」議決に対する検察の対応は、通常の事件と同程度で済まされるものではない。

通常の事件であれば、検察審査会の「不起訴不当」の議決に基づいて検察の再捜査が行われても、その結果、再度「不起訴」の処分について理由の説明が求められることはない。検察としては、何らかの再捜査を行って、不起訴にすれば、それでお終いである。

しかし、当初の不起訴処分の段階で、「最高検報告書」まで公表して、実質的に不起訴理由の説明を行っている本件においては、そのようなことでは済まされない。

検察審査会の議決で不起訴が「不当」とされた理由に基づいて、その疑問や問題の指摘に応えられるような捜査を行い、その捜査結果について、議決書の「不起訴不当」の意見・指摘に応える形での説明が十分に行うことが求められることになる。

そういう意味では、本件議決は、法的拘束力はなくても、一般的な「不起訴不当」議決とは異なるのであり、検察は、議決に正面から応えられるよう、捜査を尽くす重い義務を負ったと見るべきである。

では、今回の検察審査会の議決では、検察の不起訴理由に関して、具体的にどのような問題が指摘されているのか。検察官が検察審査会に説明した不起訴理由は、前記の最高検報告書と同様だと考えられるので、そこに記載された不起訴理由と、議決書の内容、「市民の会」ホームページで公開されている検察審査会への審査申立書等とを比較対照してみよう。

議決書で示された田代の不起訴処分を不当とする理由の多くは、上記審査申立書の申立理由を認めたものであり、同審査申立書及び別紙「最高検報告書の不当性と本件の明白性」と対比しながら読むことで、その趣旨が良く理解できる。

最高検報告書では、「田代報告書と録音記録との間の趣旨の不一致の有無」として、田代報告書の記載と実際の取調べでのやり取りとを比較すると、田代報告書の記載に「相応するやり取り」が録音記録の中にあるので、「田代報告書に記載されている内容と実際の取調べにおける供述の趣旨とは実質的に相反するものではない」としている。

田代報告書の中では、石川氏が、「検事から,『貴方は11万人以上の選挙民に支持されて国会議員になったんでしょ。そのほとんどは,貴方が小沢一郎の秘書だったという理由で投票したのではなく,石川知裕という候補者個人に期待して国政に送り出したはずですよ。それなのに,ヤクザの手下が親分を守るために嘘をつくのと同じようなことをしていたら,貴方を支持した選挙民を裏切ることになりますよ。』って言われちゃったんですよね。これは結構効いたんですよ。それで堪えきれなくなって,小沢先生に報告しました,了承も得ました,定期預金担保貸付もちゃんと説明して了承を得ましたって話したんですよね。」と供述したことになっている。しかし、これに「相応するやり取り」というのは、録音記録中の「なんか、ヤクザの事件、ま、検事も言ってたけどね。『石川さん。ヤクザの事件と同じなんだよ』って」という石川氏の発言だというのである。

この点について、議決書は、捜査報告書の記載内容に関する一般論として(以下、議決書の主な引用部分は[])、[読みやすくするために、誤解を与えない範囲で文言を付加して話を若干膨らませるようなことはあり得る]と認めた上で、[このような理解に立って、田代報告書の被疑事実該当部分と取調べにおける実際のやり取りを記載した反訳書を比較するに、田代報告書の当該部分が、実際のやり取りの「ヤクザの事件」云々等からどのように連想されたか理解できない。両者の内容は実質的にも相反していると言わざるを得ない。]と述べて、両者の内容が実質的に相反していることを明確に認めている。

また、議決書は、審査申立書で虚偽公文書作成罪等に当たるとして審査申立ての対象事実としていた、「色々と考えても、今まで供述して調書にしたことは事実ですから、否定しません。これまでの 供述を維持するということで、供述調書を作ってもらって結構です。」 と供述した旨の記載についても、[読み手に誤解させるおそれを払拭できないので、虚偽記載の疑いがある]としている。

「虚偽公文書作成罪の故意」については、

[上記「ヤクザの事件」の前後のやり取りを子細に検討すると、Bが勾留中の供述を翻した場合のAの起訴の可能性やAの共犯性のやり取りに関して、上記「ヤクザの事件」の発言が出たものと推察される。一方、田代報告書では、選挙民に支持されたことやヤクザの親分を守るために嘘をついたら選挙民を裏切る旨説得したことが記載されている]

と指摘し、田代報告書に記載された「ヤクザの事件」の話と実際の取調べでのやり取りが全く異なったものであることから、平成22年5月17日の取調べにおいては存在しなかった「ヤクザの事件」に関する問答を、虚偽と認識しながら意図的に取り込んで報告書を作成した可能性を指摘している。

田代が、捜査報告書作成時点において、石川氏が「ヤクザの事件」について発言したことを記憶していたのであれば、それが「ヤクザの親分を守るために嘘をついたら選挙民を裏切ることになる」という意味ではなく、Bが勾留中の供述を翻した場合のAの起訴の可能性やAの共犯性のやり取りに関するものであることを認識していたはずであり、それは「記憶の混同」を基礎づけるものではなく、逆に、意図的に虚偽の記載をしたことを示すものだという指摘は、審査申立書でも、拙著でも指摘していない、田代の虚偽文書作成の故意に関する新たな指摘である。市民の審査員の大変鋭い視点だといえよう。

要するに、議決書では、最高検報告書の「田代報告書の記載が録音記録中の『ヤクザの事件』の話と実質的に相反しない」という見方を明確に否定し、田代報告書の虚偽性を明確に認めた上、両者の内容の比較からも「記憶の混同」の弁解は全く通らないと厳しく指摘しているのである。

さらに、議決書は、取調べ中にメモを作成しないか、作成してもごく簡単な内容のものしか残さないという田代元検事の一般的な取調べ方法にも触れ、

[その様な取調べ方法を採る検事は、それなりに自己の記憶に自信を持っているはずで、その記憶の自信からしても、簡単に記憶の混同を起こすとは考えられない]

として、田代元検事の「記憶の混同」があり得ないことを重ねて述べている。

そして、注目すべきは、この点に関連して、検察審査会での検察官の説明の際の審査員とのやり取りについても異例の言及を行っていることである。

[検察審査会において説明した検察官は、審査員からの「駆け出しの検事ならいざ知らず、40才台のベテランの検事である田代が、簡単に記憶の混同を起こすとか、勘違いをすることが有り得るのか」という趣旨の質問を受け、「検事も人の子ですから、間違いはあると思う」旨答えているが、それでは答えになっておらず、むしろ、答えに窮して、表現は悪いが、誤魔化していると評さざるを得ない。]

と厳しく批判している。

議決書が、検察官の不起訴理由説明の際の審査員と検察官のやり取りに言及したのは、田代の「記憶の混同」の弁解を崩せないという不起訴理由の説明が、審査員に全く納得できないものであったこと、そして、その検察官の説明の姿勢が「誤魔化し」に近いものであったことに対する審査員の強い不満を表したものと見るべきであろう。

さらに、議決書は、

[検察官の不起訴裁定では、虚偽の内容の報告書を作成しても、過失を処罰する規定がないので、認識していなかったとか、間違えて書いてしまったと言えば、結局のところ責任逃れになり責任追及はできなくなるのではないか。]

とまで言っている。

過失による虚偽の捜査報告書作成が処罰されない現状の下では、「記憶の混同」の弁解を安易に認めれば、検察官が捜査報告書に意図的に虚偽記載をする行為が野放しになるとして、田代の「記憶の混同」の弁解を「鵜呑み」にした検察の不起訴処分を厳しく批判するものである。

議決書は、これらの厳しい指摘を踏まえて、田代の不起訴処分についての「結論」として、

[虚偽有印公文書を作成するにつき故意がなかったとする不起訴裁定書の理由には十分納得がいかず、むしろ捜査が不十分であるか、殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られるので、以上に指摘した点を踏まえて、本件(被疑事実の要旨第1の1)についての不起訴処分は、不当であると判断し、より謙虚に、更なる捜査を遂げるべきであると考える。]

と述べている。

「殊更不起訴にするがために故意がないとしているとさえ見られる」との表現は、身内の犯罪に関して、「記憶の混同」などという明らかに不合理な弁解を容認した検察の捜査・処分に対して重大な疑念を示したものである。検察の再捜査は、このような検察の捜査・処分に対する異例の厳しい指摘、批判に応えられるものでなければならないもし、再度不起訴にするのであれば、当初の不起訴処分の際と同様に、検察には十分な理由の説明が求められることになる。当初の不起訴処分と同様に「記憶の混同」の弁解を理由に再度不起訴にすることは、検察審査会の議決を無視するものであって、到底許されるものではない。かかる意味で、再捜査の結果に基づく検察の処分は、法的な拘束力は受けなくても、社会的には大きな制約を受けることになる。

もう一つ重要なことは、田代報告書が対話形式で記載されていること、(石川氏の反応について)「『うーん』と唸り声を上げ」などというリアルな記載があることなどから、「何らかの意図」をもって、虚偽の内容の捜査報告書を作成したのではないかとの「推察」を示していることである。

[記憶が曖昧であるにもかかわらず、対話形式で書いたということは、そういう心証を持たせたいという意図があったのではないか。さらに、捜査の対象の社会的影響の大きさなどを考え合わせると、田代報告書の作成において慎重な姿勢はうかがわれず、むしろ何らかの意図があってこのような報告書を作成したのではないかと推察される。]

と議決書では述べているが、ここで言うところの「何らかの意図」というのが、「小沢氏の事件に対する検察審査会の議決を起訴相当の方向に誘導すること」であることは明らかであろう。そのような「意図」は、田代の「個人の意図」とは考えられない。

議決書では、田代の上司であった佐久間及び木村についての不起訴処分について、[佐久間及び木村は、平成22年5月17日のBに対する取調べ中に、数回にわたり、その取調べ状況、とりわけ供述内容について報告を受けたり質問したりして、供述調書の作成方針に関する指示を出していたことがうかがえるので、田代報告書が事実に反することは容易に知り得たのではないかという状況的な疑いは残るものの]と述べて、佐久間及び木村が、田代の虚偽報告書作成に関与した疑いを指摘した上で、[田代自身も、上記両名から田代報告書の虚偽記載に関する指示は一切ない旨供述していること]を理由に、[佐久間及び木村の供述に不自然な点はあるものの、虚偽公文書作成、同行使罪の成立を認める証拠は見当たらない]として、結論としては、不起訴処分を[相当と言わざるを得ない]としている。

要するに、「佐久間及び木村が虚偽捜査報告書の作成に関与した疑いはあるが、田代が、両名からの指示を否定しているので、その証拠がない」という理由で、不起訴処分は致し方ないと言っているのである。

そこで問題とされる田代の供述内容に関して、議決書は、田代の「記憶の混同」の弁解は到底信用できないばかりではなく、「何らかの意図」を持って虚偽の捜査報告書を作成したと「推察」している。

再捜査で、田代に対して、議決書の内容を踏まえた十分な取調べが行われれば「記憶の混同」の弁解が容認されることはあり得ないし、田代が真実を供述すれば「何らかの意図」を持って虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになり、それが、佐久間及び木村の側の「何らかの意図」に基づいて行われた可能性が十分にある、という趣旨であろう。

今回の事件に関して検察審査会の議決が検察に求めているのは、現時点の証拠関係のままで田代を起訴することで決着させることではない。

「記憶の混同」などという明らかに不合理な弁解を許すのではなく、議決で指摘した事実を含め、十分な追及を行うことで、田代に、虚偽の内容の捜査報告書の作成の経緯、「何らかの意図」の内容について真相を語らせ、上司の関与、組織的背景も含めて明らかにした上で、田代の処分を決することを求めていると見るべきであろう。

十分な事実解明が行われれば、田代は、上司に命じられるままに虚偽の捜査報告書を作成したことが明らかになるかも知れない。そうであれば、田代の処分は起訴猶予にとどめ、上司の刑事責任を追及するのが適切ということも考えられる。また、「虚偽の捜査報告書による検察審査会の議決の誘導」という、検察にとってあってはならない重大な不祥事が発生させることになった東京地検特捜部の陸山会事件捜査が、どのような経緯で、いかなる方針で行われ、そこにどのような問題があったのかについて、外部者も含めた客観性を確保した体制による検証を行われることが、何より重要なのであり、それが、検察或いは法務省によって適切に行われ、検察の抜本改革に結びつくのであれば、田代やその上司個人の刑事処罰は必ずしも不可欠ではない。

今回の議決を受け、検察は、田代に対する再取調べで、議決書での指摘及びその背景となった審査申立書及び別紙「最高検報告書の不当性と本件の明白性」での指摘を十分に踏まえた徹底した再捜査を行うべきである。議決書での異例の言及を行って批判した審査会において行われた検察官説明のような「誤魔化し」の姿勢は決して許されない。

田代に対する徹底した再取調べを行えば、田代も「記憶の混同」の弁解を維持することはできないはずである。田代から真実の供述を得ることができれば、それを発端に、日本の民主主義に重大な脅威を生じさせた陸山会事件捜査の真相を解明することは決して不可能ではないはずだ。

「法的拘束力」のない「不起訴不当」だが、最高検報告書の不起訴理由を正面から否定した厳しい内容の今回の議決が、検察組織に対して、抜本的な改革を求める「刃」となるかどうかは、この議決を受けて行われる検察の再捜査に対して、多くの国民とマスコミが関心を持ち続け、捜査の結果行われる処分についての説明責任をどれだけ厳しく追及するかにかかっている。

検察の権力行使にかかる犯罪に対して厳正な捜査・処分が行われるようチェック機能を果たすことは、検察審査会による審査制度の最も重要な機能である。本件議決後の事件の展開は、制度の真価を問うものと言っても過言ではない。

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法曹養成改革の失敗に反省のかけらもない「御用学者」

政府の法曹養成制度検討会議が、中間提言をまとめ、教育の質が低い法科大学院に対して「公的支援の見直し」を含む厳しい措置で臨む方針を確認し、司法試験の年間合格者数を「3000人程度」とした政府目標の撤回を了承した。

法科大学院の創設、法曹資格者の大幅増員を柱とする法曹養成制度改革は、2001年の司法制度改革審議会の提言で、「平成30(2018)年ころまでには、実働法曹人口は5万人規模(法曹1人当たりの国民の数は約2,400人)」との目標を掲げ、「平成22(2010)年ころには新司法試験の合格者数を年間3,000人とすることをめざすべき」との方針が打ち出されたことに基づいて進められてきたものだったが、今回の政府の検討会議の中間提言により、そのような政府の施策が無残な失敗であったことは動かし難いものとなった。

2004年の法科大学院設置以降の「法曹資格者の大幅増員」をめざして行われてきた法曹養成改革は、文科省から法科大学院に無駄な補助金を出させることで膨大な財政上の負担を生じさせたばかりでなく、拡大する司法の世界をめざして法科大学院に入学した多くの若者達を、法曹資格のとれない法科大学院修了者、法曹資格をとっても就職できない司法修習修了者として路頭に迷わせるという悲惨な結果をもたらした。

法科大学院創設時には、新司法試験の合格率が7割程度になるとされていたが、実際には、当初の前提を大幅に上回る数の法科大学院が設置され、定員も大幅にオーバーしたことに加えて、合格者も当初予定されていた3000人を大きく下回ったため、合格率はどんどん低下して25%程度となり、法曹資格が取れない法科大学院修了者を大量に生みだされる結果になったしてしまった。

そういう状況になると、優秀な人材が、法曹資格が取れないリスクを覚悟してまで法科大学院に入らない。志願者が減少し、人材の質も落ちるので、合格者も増やせない、という悪循環に陥っている。

一方、法科大学院を修了して司法試験に受かって、司法研修所を出て弁護士資格を取っても、弁護士に対する需要が高まらないので、なかなかまともに仕事にありつけない、弁護士の就職難が深刻な問題になり、ワーキングプア状態の弁護士が急増していると言われている。

まさに、法曹養成の現状は、司法制度改革の当初の想定とは全く異なる極めて厳しい状況になっている。

合格者が2000人にとどまっているのは、司法試験で客観的に能力を評価、判定した結果だというのが法務省側の説明だ。しかし、果たして、司法試験による選別が、本当に、法律家として社会の要請に応えられるかどうかの判定として正しいと言い切れるのであろうか。私の法科大学院の教員としての経験から言えば、司法試験に合格した修了者の中には、実務家としての能力・適性に疑問を持たざるを得ない者もいる一方で、最終的に司法試験に合格できず法曹資格を取得できなかった修了者の中にも、法律実務家としての十分な能力・資質を持った者も少なからずいた。司法試験合格者が500人だった時代とは異なり、合格者が2000人にもなると、法律実務家の能力・適性について試験で適切な選別を行うのは容易ではない。司法試験が適切な選別機能を果たしているのか否かについては、関係者からも疑問が指摘されている。

私は、「法令遵守」が世の中にもたらす弊害を説く中で、旧来の司法の世界の構造を根本的に変えることなく、法曹資格者を大幅に増員しても、市民に身近な司法を実現することにはつながらず、法曹資格者の需給ギャップの拡大と法科大学院修了者の就職難を招くだけであることを、かねてから、指摘してきた。

桐蔭横浜大学法科大学院教授として法科大学院教育に関わっていた2005年に、法科大学院の乱立によって司法試験合格率が当初の予定より大幅に低下することが予想される中で、司法試験合格に特化した法科大学院教育は早晩行き詰まらざるを得ないこと、司法試験合格をめざす教育だけではなく、経済社会における様々なニーズに応えられる教育を実施することができるよう、法科大学院教育の内容や司法試験制度を改める必要があることを指摘する新聞への寄稿を行った(「新司法試験 実務経験者に受験枠新設を」(2005年2月3日 朝日新聞「私の視点」)。

2009年1月に出した「思考停止社会」(講談社現代新書)では、最終章でこの問題について、次のように述べている。

旧来の日本では、司法の世界は社会の周辺部分でしか機能していませんでした。それは、社会内の普通の人が普通に起こすトラブルではなく、異端者・逸脱者や感情的対立の当事者など、普通ではない人が起こす特殊なトラブルでした。そういう特殊な問題の解決を委ねられるのが法曹資格者で、そういう人たちに「遵守」させるべき法令の解釈を行うことや適用されるべき法令を示すことが法曹資格者の仕事の中心でした。法廷という一般社会や経済社会からは隔絶された司法固有の世界での争訟に関連する業務が中心で、非日常の世界である水戸黄門のドラマに例えれば、「控えおろう」と言って印籠を示して人々をひれ伏させる「助さん」の役割が法曹資格者の基本的な役割だったのです。

「社会的要請に応えること」をめざしていく場合は、法律家には、従来とは異なった重要な役割が期待されることになります。それは、一言で言えば、個人や組織が法令を使いこなすことをサポートしていくことです。法令と社会的規範の相互関係を把握し両者のインターフェース(接点)の機能を果たしていくことです。

今後、日本の経済社会において、「社会的要請に応えること」をめざす活動によって「法令遵守」による思考停止状態からの脱却を図っていくのであれば、あらゆる分野で、経済社会の実態を十分に理解した上、問題になっている事項について事実関係を解明し、法律の解釈と適用ができる能力を持つ法律家が、原動力になっていく必要があります。そのためには、法律家、とりわけ、その中心的役割を果たすべき法曹資格者が、経済社会に対して開かれた、身近な存在になり、「社会的要請に応えること」という意味のコンプライアンスを共通言語にして、企業人、経済人と本当の意味でコラボレーションできる関係を構築していかなければならないと思います。

裁判員制度導入と並ぶ司法制度改革のもう一つの目玉が法科大学院の創設による法曹資格者の大幅増員です。しかし、この改革の法曹養成制度の改革によって、その目的とされている「市民に身近な司法」の実現、経済社会における司法の機能の拡大ができるかと言えば、まったく期待できないと言わざるを得ません。法科大学院修了者の司法試験合格率が3割余に低迷する一方、若手弁護士の就職難が深刻化している現状は、法曹資格者の増員という改革を思考停止状態で行ってきたことの当然の結果です。

制度改革の前提として、法曹資格者を大幅に増やせば、それに伴って法曹資格者に対するニーズが拡大するだろうとの予測があったわけですが、それは、まったく的外れの予測です。日本の司法はこれまで社会の周辺部分で特殊な問題を解決する機能しか果たしておらず、市民生活や経済活動の中で発生する様々なトラブルの解決という経済社会の中心部のニーズに応えるものではありませんでした。そういう司法の世界を担ってきたのが法曹資格者の世界です。その世界を従来のままにしておいて、法曹資格者の数だけを増やしても、ニーズが高まるわけではありません。大幅な需給のミスマッチが生じるのは当然です。

法曹資格者に対するニーズを拡大しようと思えば、経済社会の中心部で使いこなせるように法曹の世界を変えていかなければいけないのですが、従来の司法の世界に慣れ親しんできた従来の法曹資格者によって構成されている法曹教育の世界はそういう方向には向かっていません。従来の法曹資格者が、基本的に従来と同じ考え方で司法試験制度が維持され、その試験に合格することを主たる目的として法科大学院の教育が行われているわけですから、旧来の司法の世界と何ら変わらないのは当然です。そういう世界に、法曹資格者をめざして大量の若者達が迷い込んだ結果、司法試験に合格して司法研修所を出てもまともな就職ができない弁護士が多数出る一方、司法試験に合格できない大量の司法浪人が発生しているという、深刻な事態が生じているのです。

このような指摘を行ってきた私にとっては、今回の事態は当然の結果であり、むしろ、政府が司法制度改革の一環として行おうとした法曹養成制度改革が誤りであることを政府として認めるのが遅きに失したと言わざるを得ない。

問題なのは、このような法曹養成制度改革の失敗が、国家財政にも大きなマイナスを生じ、制度の混乱の中で有意な若者達の人生にも影響を与える結果になったことに対して、誰が反省し、誰が責任をとるのかということである。

この問題に関しては、2010年に、総務省行政評価局による「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価」が開始された。その論点整理と調査の方向性を検討するために「法科大学院(法曹養成制度)の評価に関する研究会」を開催し、その成果を取りまとめた報告書を公表して一般から意見を募集した後に、研究会の検討結果に基づいて調査を開始し、その結果を、2012年4月に政策評価書として公表した。この政策評価では、「司法試験の年間合格者数の数値目標については、これまで及び今後の弁護士の活動領域の拡大状況、法曹需要の動向、法科大学院における質の向上の状況等を踏まえつつ、速やかに検討すること」「定員充足率が向上しない法科大学院に対し、実入学者数に見合った更なる入学定員の削減を求めること」「法科大学院の公的支援の見直し指標については、未修者への影響や、法科大学院における教育の質の改善の進捗状況などを踏まえ、必要な改善措置を講ずること」などの勧告が行われている。

今回の法曹養成制度検討会議の中間提言は、概ね、総務省の政策評価における勧告内容に沿ったものだ。

私は、総務省顧問として、同政策評価の企画にも参画し、研究会でも副座長を務めるなど、この政策評価に深く関わった。

【研究会報告書】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000095209.pdf

【報告書に対する意見】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000102517.pdf

【政策評価書の概要】

http://www.soumu.go.jp/main_content/000156306.pdf

ところが、このような経過で行った総務省の政策評価に対しては、法科大学院協会の側から強い反発があった。

以下は、政策評価に関する総務省の調査が開始された2011年6月に、法科大学院協会が、「法曹人口の拡大及び法曹養成制度の改革に関する政策評価に対する意見」と題して出したプレスリリースである。

http://www.lawschool-jp.info/press/press11.html

法曹養成に関するフォーラムというのが設置されて検討が開始されたのだから、総務省などがしゃしゃり出てくるべきではない。教育研究に関して専門的能力や経験がない者が、大学の教育研究について調査を行うことは、憲法23条の「学問の自由」を侵害するというのだ。

このような法科大学院協会側からの「横槍」に対して、当時、総務省顧問・コンプライアンス室長として、総務省顧問室での「記者懇談会」を開催していた私は、2011年7月14日の記者懇談会でこの問題を取り上げた。

その際の私の発言内容が総務省のHPに掲載されている。

http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3196505/www.soumu.go.jp/main_content/000122765.pdf

この中でも述べているように、法科大学院協会から会員校に対して出された非公式の文書には「法科大学院制度をはじめとする現在の法曹養成制度や趣旨を否定するための調査が実施されていると受け取られかねない内容になっているのではないか」というようなことが書かれている。要するに、現在まで行われてきた司法制度改革に重大な問題があることを棚に上げて、それを否定する方向での調査が行われること自体がけしからんと言っているのだ。

司法制度改革は、従来、社会の周辺部分でしか機能していなかった司法を社会の中心部で機能するようなもの変えていかないといけない、そのためには、従来の司法の世界自体を抜本的に改め、社会に対して開かれたものにしていかなければいけない、その世界を変えていかないといけない。ところが、この法科大学院協会の反応からも明らかなように、司法の世界の「中心」にいる人たちは、司法の世界が外からの力で変わることを最初から拒もうとしているのだ。

このような総務省の政策評価に対する法科大学院協会側の反発の中心になっていたのは、司法制度改革審議会の中心メンバーとして法曹養成制度改革を主導してきた大学教授だったようだ。

この大学教授は、典型的な法務省の「御用学者」で、検察不祥事からの信頼回復のための法務省の「検察の在り方検討会議」にも委員として加わり、刑事司法に関して長々と大学の講義のような発言を行ったり、検察に厳しい意見を述べる江川紹子氏や私の意見に対して異論を述べたりして、会議の議論が抜本的な改革の方向に向かうことに抵抗してきた。

そして、今回の政府の法曹養成制度検討会議にも委員として加わり、「司法制度改革審議会報告書の提言の方向性は間違っていなかった」「現状で合格者が2000人にとどまっているのは、受験者の能力がないからに過ぎない」などと述べて、司法試験の年間合格者数を「3000人程度」とした政府目標を撤回することに反対している。

自分が主導して進めてきた法曹養成制度改革が根本的に誤っていたために、制度が立ち行かなくなり、国に膨大な財政上の損失を与え、多くの若者達を露頭に迷わせる結果になったことについて、何の責任もとることなく、反省をすることもない。そればかりか、その誤りを是正する政策評価の動きに対しても「学問の自由」を盾にとって抵抗し、制度改革の見直しを遅らせようとする。それが、法学の世界の「大御所」の実態なのである。

それは、前回の当ブログ【佐藤真言氏の著書『粉飾』で明らかになった「特捜OB大物弁護士」の正体】で取り上げた、「特捜OB大物弁護士」、すなわち検察OBの世界の「大御所」の問題と相通ずるものがある。

このような「大御所」が、法務・検察の「守護神」として存在している限り、司法制度改革による司法の世界の混乱は収まることはないし、真の検察改革は遅れ、不当な冤罪も絶えることはない。

それが、現在の日本の司法の「残念な現実」なのである。

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佐藤真言氏の著書『粉飾』で明らかになった「特捜OB大物弁護士」の正体

「貸し渋り」「貸し剥がし」が横行する中小企業金融の実態に幻滅して大手銀行を退職、中小企業経営者に寄り添い、経営改善の支援に懸命の努力をしていた経営コンサルタントの佐藤真言氏が、粉飾決算の指南で多額の報酬を受け取っているとの誤った「見立て」をした東京地検特捜部に狙われ、引き返さない捜査に追い詰められていく経過を描いた迫真のノンフィクション『粉飾~特捜に狙われた元銀行員の告白』が出版された。51qzRri-WyL._SL500_AA300_

粉飾決算による融資詐欺で一審、二審で懲役2年4月の実刑判決を受け、上告審に最後の望みを託して戦い続けている佐藤氏の悲痛な叫びが、最高裁にも届くことを祈りたい。

当ブログでは、昨年9月、「『正義を失った検察』の脅威にさらされる『400万中小企業』」で、この事件を世の中に知らしめた石塚健司氏の著書『400万企業が哭いている 検察が会社を踏み潰した日』を紹介した。懸命に中小企業の経営改善に取り組む経営者朝倉亨氏と、それを必死に支える経営コンサルタントの佐藤氏を踏み潰した捜査というのが、実は、廃止される寸前の東京地検特捜部直告2班が「起死回生の一打」を狙って手掛けたもので、まさに検察改革の生み出した悲劇であることを明らかにした。

その後、私は、控訴審第1回公判を直前に控えた朝倉氏の弁護人に就任、検察の捜査・起訴が、誤った認識に基づくもので、刑事事件として立件されるべきではないこと、この事件での実刑はあり得ないことを訴え、「朝倉亨さんを支援する会」に全国から寄せられた400万円を超える支援金で被害弁償を提供するなどして、刑の執行猶予を求めたが、昨年11月に出された判決は、実刑を維持し、被害弁償を考慮して懲役2年という、4か月分の軽減にとどまった。朝倉氏はただちに上告するとともに、法律問題に関して上告受理申立ても行ったが、今年3月に上告は棄却。朝倉氏は、間もなく収監される。

今回の佐藤氏の著書『粉飾』では、『400万企業が哭いている』には書かれていない、この事件のもう一つの断面が明らかにされている。それは、一審と二審で佐藤氏の弁護人を務めた弁護士のことだ。

この弁護士は、『粉飾』では「義家」という仮名で登場するが、『400万企業が哭いている』の中では実名で登場する。その特捜部長・検事長OBの「大物弁護士」は、特捜捜査に立ちはだかった「現役の特捜検事たちにとって『最も厄介な敵』」として描かれている。しかし、その「大物弁護士」と、佐藤氏の『粉飾』に出てくる「義家弁護士」とが、同一人物とはとても思えない。

『400万企業が哭いている』の「大物弁護士」は、「特捜部など検察で多くの華々しい成果を挙げ、高検検事長まで上り詰めた後、退官後は母校の法科大学院教授として教鞭をとる、その一方、弁護士として古巣に真っ向から立ち向かい、後輩たちにひと泡もふた泡も吹かせる判決を勝ち取っている」。本来であれば、佐藤氏が弁護を依頼できるような人物ではないが、佐藤氏が事務所への「飛び込み」で相談をしたところ、「大物弁護士」は、「中小企業を助けるコンサルタントという仕事に対する情熱」、「真剣なまなざし」、「己のやったことへの確かな信念に触れて感銘を受け」、「君、お金がないんだろ。お金のことは心配しなくていいよ。私は君から取ろうとは思っていないから」と言って、弁護を受任することにした。そして、主任検事と直接何度か話し合い、捜査拡大に苦言を呈する。特捜の手の内を知り尽くし、特捜の先輩たちも苦渋をなめさせた人物、しかも、検察首脳にも太いパイプを持った「大物弁護士」の動きによって、捜査拡大にブレーキがかかり、幕引きに向かう。

検察に大きな影響力を持つ「大物弁護士」が、まさに手弁当で、懸命の弁護活動を行ったことが、佐藤氏を最悪の事態から救ったかのように書かれている。

ところが、『粉飾』で描かれている「義家弁護士」は、それとは全く違う。

起訴され、保釈になった後の「義家」弁護士と佐藤氏との話合いの場面が出てくる。粉飾決算書による融資詐欺での起訴自体に、佐藤氏は全く納得ができず、事実関係を争い、無罪の主張をしたい意向だったが、「義家弁護士」は、「一発実刑もあり得る」と言って、事実関係を争わず、執行猶予狙いで行くことを勧める。その際、「義家」の「執行猶予が当然の事件」という言葉で、佐藤氏は、「義家弁護士」に全幅の信頼を置いて裁判に臨むことにし、反省と謝罪を行い、情状酌量を求めることに徹した。

しかし、一審判決は2年4月の実刑。執行猶予はつかなかった。判決の内容は、多くの点で事実と異なり、佐藤氏にとって全く納得のいかないものだった。

その判決に先立って、「義家弁護士」は、万が一の実刑判決の場合、再保釈のために保釈保証金を積み増す必要が生じるので500万円を用意しておくよう佐藤氏に求めていた。佐藤氏は、やむなく、末期がんで余命僅かの宣告を受けていた実母が形見として名義変更して残してくれていた保険を解約した500万円を「義家弁護士」に渡していた。

一審の実刑判決後、200万円の保釈保証金増額で再保釈が認められたが、その際、「義家弁護士」は、「控訴審をこれから戦うのに費用もいろいろかかる」「刑法の大先生にも控訴趣意書を書いてもらわないといけない」「残りの300万円は控訴審の費用として頂いておく」と言ってきた。佐藤氏は、有無を言わせない「義家弁護士」の言葉に従うしかなかった。

その際、佐藤氏は、妻から、逮捕時にも、「義家弁護士」から弁護費用として200万円を要求され、支払っていたことを聞かされた。

「義家弁護人」ら弁護人が提出した控訴趣意書が、「佐藤真言さんを応援する会」のホームページにアップされているが、それを見る限り、一審の実刑判決が破棄されることが期待できるような「控訴審での戦い」が真剣に行われたとは全く思えない。

控訴趣意書で、情状に関する事実として述べているのは、①粉飾決算は、朝倉氏など融資を受けた会社経営者の判断によって行われたもので、経営コンサルタントとして指導・助言を行った佐藤氏は、「幇助的役割」に過ぎないこと、②粉飾決算に関与した佐藤氏の動機、心情は、中小企業の経営再建に貢献したいという思いからであること、③佐藤氏は、朝倉氏などに、決算期ごとにリスケ(返済延期)を進言していたが、朝倉らが、これを拒否して、粉飾決算のままで融資を受けていたものであること、④佐藤氏が行っていたコンサルタント業務は、粉飾決算による融資に関するものだけではなく、他の経営指導も行っていたこと、⑤佐藤氏は粉飾決算の違法性、危険性を説き、粉飾決算に関与することに躊躇していたのに、朝倉氏らが、粉飾を強く依頼し、協力させたものであることなどである。要するに、責任が佐藤氏ではなく、朝倉氏などの経営者の側にあることを繰り返し、佐藤氏が自らの非を認めて反省していることを強調しているだけである。

驚くのは、「銀行関係者の処罰感情が厳しい」と一審判決が指摘していることに関しては、「処罰感情が厳しくても、行為者が既に改しゅんの情を示し、改善・更生が確実に期待できるときは、施設内処遇(実刑)を選択すべきではない」というような、一般的な刑事政策論を展開していることである。このようなことを弁護人が言わざるを得ないのは、被害者側の被害感情が峻烈で、それを尊重すれば実刑しかあり得ない場合であろう。しかし、本件は、そもそも「処罰感情が厳しい」といえるような事案ではない。

朝倉氏の控訴審で提出した「控訴趣意補充書2」(私が朝倉氏の弁護人に加わった時点で、既に控訴趣意書は提出されていたので、主張を再構成して「控訴趣意補充書」として提出した)で述べているように、一審判決で、「銀行関係者の処罰感情が厳しい」という一審判決の認定は誤っている。本件では、「被害者」の銀行及び信用保証協会の側が出した書面は、犯人の処罰を求める「告訴状」ではなく、被害事実を申告する「被害届」に過ぎず、しかも、その時期は逮捕前ではなく、起訴の直前である。そこでは「厳正な処罰」を求めているが、「厳重処罰」という言葉は使っていない。通常の窃盗・詐欺等の財産犯において、被害者の被害申告・告訴等による「厳重処罰」の要請を受けて刑事事件が立件されるのが一般的であるのに対して、本件では、被害者側から自発的に「被害届」が提出されたものではなく、検察官側から、起訴することを告げられた上、強く要請されたために提出されたものであることは明らかだ。

要するに、刑事事件として立件し、債務者側を処罰することを、銀行等の被害者側も決して望んではおらず、検察官に強く要請されて、しぶしぶ被害届の提出に応じたものであり、「処罰感情が厳しい」という一審判決の判示は誤っている。

その点は、元銀行員の佐藤氏が、今回の事件について最も強く訴えたいことのはずだ。少なくも、朝倉氏の関係に関して言えば、検察の強制捜査がなければ、会社が破産することもなく、それまで通り約定返済を続けることは可能であった。銀行側にとっても、検察の強制捜査のために、融資先が返済不能になってしまったのであり、まさに迷惑至極だったはずだ。

ところが、「義家弁護士」らの控訴趣意書では、このような被告人が最も訴えたい本質的な問題には全く触れず、「処罰感情が厳しい」という一審判決の認定を当然の前提にして、使い古されたような「刑事政策の一般論」を持ち出して「刑務所に入れるべきではない」と言っているだけなのである。

それ以上に不可解なのは、「東日本大震災復興緊急保証制度を悪用したことを真摯に反省して贖罪寄附をする予定」と書かれていることである。佐藤氏から直接確認したところでは、実際に、弁護士会を通じて300万円の「東日本大震災被災者のための贖罪寄附」を行い、それを控訴審で立証したそうである。

通常、贖罪寄附というのは、被害者がいない刑事事件などで、改悛の心情を表すために行うものである。本件では、前記のような経緯に問題があるとはいえ、被害届を提出している「被害者」たる銀行等が存在しているわけで、資金があるのであれば、まず、被害弁償を行うのが当然である。佐藤氏の贖罪寄附については、控訴審の裁判官も首を傾げ、被告人質問で「なぜ、被害弁償をしないで贖罪寄附をしたのか」と質問したそうである。

朝倉氏の控訴審では、本人には被害弁償を行う資力がなかったが、「朝倉亨さんを支援する会」に全国から寄せられた400万円の支援金を「被害者」の銀行側に提供し、供託したことが情状面で評価され、一審の2年4月の実刑が4月軽減されて2年の実刑となった。佐藤氏の300万円が被害弁償に回っていたら、量刑面でも相当な影響があったのではないかと悔やまれる。

もちろん、本件は、2つの銀行と信用保証協会が「被害者」とされており、権利関係は単純ではない。実際に、朝倉氏関係での被害弁償金の提供に対しても、当初、銀行側は受領しようとせず、弁護人側で供託の手続きをとった。弁護士会にお金を持ち込むだけで行える贖罪寄附などとはとは、かかる手間もコストも全く異なる。しかし、そのような手間を厭わず、何とかして、なけなしの被告人の資金を有利な情状評価につながるよう活用するのが弁護人の職責と言うべきであろう。「被害届」を出している銀行側が被害弁償を受領しようとしないことは、銀行側の処罰感情がもともと希薄であることを示す事実とみることもできる。朝倉氏の控訴趣意補充書2では、その点も主張している。

控訴趣意書で述べていることは、殆どが一審での主張の「焼き直し」であり、一審の実刑判決が破棄されるわけがない。佐藤氏の控訴審判決は、弁護人の量刑不当の主張を簡単な理由で退けて「控訴棄却」、一審の2年4月の実刑がそのまま維持された。

そして、控訴審判決の一ヶ月半後、佐藤氏は、「義家弁護士」から、一方的に、弁護人辞任を通告される。佐藤氏が、自分の事件のことをネットで発信したり、明治大学で開かれたシンポジウムに参加して、事件の内容・問題点について発言したりしているのが「弁護方針と合わない」ということが理由なのだという。控訴審でも実刑判決を受け、厳しい状況に追い込まれた佐藤氏が、不当な捜査や裁判によって世の中に広まった汚名を、社会への発信によって少しでも晴らそうとするのは、当然のことではないか。上告趣意書提出期限を1ヶ月後に控えた時期に、「義家弁護士」から、突然、見捨てられた佐藤氏は、途方にくれる。

特捜捜査も全くデタラメであるが、そのような不当な捜査で起訴された佐藤氏が、二審まで実刑判決という厳しい裁判になっていることの大きな原因は、この「義家弁護士」の弁護活動にあるように思える。

『400万企業が哭いている』の中(238頁)で、「大物弁護士」は、石塚氏のインタビューに答えて、東京地検特捜部が佐藤氏・朝倉氏を粉飾決算書の提出による融資詐欺を立件して捜査の対象としたことについて、次のような「本音」を語っている。

《震災復興の保証を受けた会社を調べていったら、かなりの数がそれ(粉飾)をやっているはずだよ。捜査をもっと広げたいんなら、中小企業向けの保証融資を受けている会社を全部調べてご覧よってことだよ。ほとんどマイナスの会社だよ、多分。そんな捜査をやっていったら大変なことになるでしょ。だからつまりね、こんなものは検察のやるべき領域じゃないんだよ。金を貸す銀行が相手企業の与信について検討して判断するわけなんだから、銀行の判断の誤りを検察がやる話じゃないんだよ。そんなものを検察がやっていたらおかしくなる》

そのように認識しているのであれば、なぜ、『震災復興の保証を受けた会社を調べていったら、かなりの数がそれ《粉飾》をやっている』という認識に基づいて、本件は、本来、立件されるべきではない事件が立件され、捜査の対象にされたものだということを主張しないのか。証人尋問で「被害者」の銀行側の真意を問いただせば、「融資詐欺」の実態が、検察の主張とは全く異なったものであったことも明らかにできたであろう。

証人尋問まで求めないとしても、特捜OBの「大物弁護士」が、石塚氏のインタビューで語ったような、中小企業の粉飾決算による「融資詐欺」を刑事事件として取り上げることに対する根本的な疑問を少しでも公判で主張していたら、裁判所の事件の見方にもかなりの影響を及ぼしていたはずだ。

ところが、「義家弁護士」が行ったのは、佐藤氏が著書で述べているような、特捜部の捜査・起訴に対して、最も言いたいこと、納得できないことを一切主張せず、佐藤氏の事件への関与は「従犯的」であり、粉飾決算を主導したのは朝倉氏などの経営者側だなどと経営者側の責任を強調することと、佐藤氏の反省・悔悟を強調することばかりだった。そして、前記のように、一審判決での「被害者」の銀行側の「処罰感情が厳しい」と認定には誤っているのに、それに対して何ら異論を差し挟まず、一方で、何とかして執行猶予を得るために佐藤氏が用意した300万円も、その「被害者」への弁償ではなく、贖罪寄附に提供してしまう。

このような「義家弁護士」の対応が、佐藤氏の情状立証に殆ど役立たなかったばかりか、経営者側の朝倉氏などの責任を強調したことで、朝倉氏も含めて経営者側が二人とも実刑判決を受けることの一因になり、それが、結局、佐藤氏も実刑判決を受けることにつながったと見ることもできる。

特捜部が誤ったストーリーや事件の評価に基づいて、不当な捜査が行われ、被疑者、被告人が、刑事裁判による救済を求めているのに、弁護人の特捜OB弁護士が、「争っても勝ち目はない」「身柄の拘束が長期化する」などと言って、事実を争うことを断念させるということが、過去の多くの事件で行われてきた。それが、特捜捜査の問題を表面化させないようにすることにつながってきた。

今回の事件の当事者である佐藤氏が、「義家弁護士」について、敢えて著書『粉飾』で書いていることは、事実としてほぼ正確と考えてよいであろう。

『400万企業が哭いている』が書かれた頃は、まだ、弁護人の「義家弁護士」に全幅の信頼を置き、その刑事弁護の手腕に望みを託していた佐藤氏が、石塚氏の取材に対して、「義家弁護士」のマイナス面の事実は話さなかったことが、同書で「大物弁護士」が極端に持ち上げられて描かれることにつながったものと思われる。

『400万企業が哭いている』が出版されたのをきっかけに、事件の中身について、自ら社会に対する発信を行うようになった佐藤氏を、「義家弁護士」が一方的に切り捨てたことで、「義家弁護士」、すなわち「大物弁護士」の「実像」が明らかになった。佐藤氏がそのような行動をとることがなければ、『400万企業が哭いている』に実名で書かれた「大物弁護士」が、手弁当で特捜部に立ち向かう正義の味方であることについて、誰も疑いすら抱かなかったはずだ。

この「実像」と「虚像」の違いは、「検察の正義」の象徴として絶大な信頼を得てきた東京地検特捜部のイメージが、実はマスコミに作られた「虚像」であったのと相通ずるものがある。

「普通の市民」が特捜検察に狙われ、踏み潰されそうになったとき、救いを求めるのは弁護人しかいない。特捜部の現場にも影響力がある検察OBの「大物弁護士」に依頼できたとなれば、それ以上心強いことはない。全幅の信頼を寄せるのも当然であろう。その「大物弁護士」が、実は「義家弁護士」のような存在であったとしたら、「普通の市民」はどこに救いを求めたらよいのか。

私は、『400万企業が哭いている』を読んで、特捜部が、中小企業の経営に懸命に取組む経営者と、使命感に燃えて中小企業の経営指導に当たっていた経営コンサルタントに捜査の「刃」を向け、踏み潰したことを知り、大きな衝撃を受けた。西松建設事件、陸山会事件などに関して特捜捜査を厳しく批判してきた私だったが、その力が及ばす、検察改革の動きの中で、失地回復を図った特捜部の常識はずれの捜査のために、佐藤氏・朝倉氏が犠牲になったことは痛恨の極みだった。

だからこそ、既に控訴審の第一回期日を直前に控えていた朝倉氏の弁護人を頼まれた際、迷うことなく引き受け、殆ど手弁当で、控訴審での主張や「朝倉亨さんを支援する会」の支援金による被害弁償を行い、上告審でも、上告受理申立理由書上告趣意書で、この事件の根本的な問題を必死に訴えた。それは、検察に23年間所属し、検察に育てられた人間として、その検察の犠牲になろうとしている朝倉氏、佐藤氏のために少しでも力になることが、自らの責務だと思ったからだ。

一方、佐藤氏の弁護人を務めた特捜OBの「大物弁護士」は、一体、どのような気持ちで、弁護を引き受けたのであろうか。特捜検察に踏み潰され、全幅の信頼を置き公判対応を全面的に委ねていた弁護人にも切り捨てられ、上告審に、最後の、一縷の望みを託す佐藤氏に対して、今、彼は、どのように思っているのであろうか。

佐藤氏が著書『粉飾 特捜に狙われた元銀行員の告白』に込めた心からの叫びを、少しでも多くの方々に受け止めてもらいたい。そして、それが、さらに大きな支援の動きにつながることを祈りたい。

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「刑事裁判の絶対権力者」による「ざまあ見ろ」判決の傲慢

3月13日、石川知裕衆議院議員など小沢一郎氏の秘書3人に対する政治資金規正法違反事件について、東京高裁(飯田喜信裁判長)は、弁護人の控訴を棄却し、一審の執行猶予付懲役刑の有罪判決を維持する判決を言い渡した。

刑事事件の控訴審というのは、一体何のためにあるのだろうか。

刑事事件の裁判で誤った判断が行われることが、被告人に対する重大な人権侵害につながることに鑑み、一審判決の事実認定、法律適用等についての誤りがないかどうかを、必要に応じて新たな証拠も取り調べた上、慎重に審査するというのが、控訴審の最大の目的のはずだ(現行刑訴法は、被告人に不利な方向で誤判を是正することも認めてはいるが)。

陸山会事件では、小沢氏の秘書3人が政治資金収支報告書の虚偽記入で逮捕・起訴された事件(以下、「秘書事件」)と虚偽記入について秘書3人との共謀の刑事責任が問われ、検察では不起訴となったものの検察審査会の起訴議決によって起訴された小沢氏本人の事件(以下、「小沢氏事件」)の二つの刑事裁判が行われたが、この中で、東京地検特捜部の捜査において、不当な威迫、利益誘導等による取調べを行ったり、虚偽の捜査報告書によって検察審査会の判断を誤らせようとするなどの重大な問題があったことが、小沢氏を無罪とした一審の東京地裁判決(大善文夫裁判長)で指摘されただけではなく、最終的には秘書3人を有罪とした一審の東京地裁の公判の過程でも指摘された(検察官調書の証拠却下決定)。

そして、昨年11月12日、小沢一郎氏に対する政治資金規正法違反事件の控訴審判決(小川正持裁判長)では、一審の無罪判決が維持されただけでなく、一審判決は認めていた小沢氏の秘書3名の虚偽記入の犯意や、4億円の銀行借入れ、定期預金担保が隠蔽の意図によるものであったことも否定する判断が示され、この事件の捜査で検察が前提にした事件の構図そのものが否定された。秘書3人を有罪とし、虚偽記入の犯意だけではなく、4億円の隠蔽の意図まで認めた東京地裁判決(登石郁朗裁判長)とは大きく異なった判断であり、上記小沢氏無罪判決の直後に開始された、秘書3人に対する控訴審では、これらの地裁、高裁の審理経過、判決を踏まえて、秘書3人に対して、慎重な見直し判断が行われるであろうと誰しも思ったはずだ。

しかし、その後、開かれた秘書3名の控訴審第一回公判で、裁判所は、弁護側の証拠請求を、情状関係を除き全て却下し、事実関係に関する審理は一切行わず結審した。控訴審裁判所が、一審の事実認定を見直す気が全くないことは明らかになった。そういう意味では、今回の控訴審判決の結論は予想通りではあった。

しかし、驚いたのは判決文の内容だった。一審判決が「論理則、経験則に違反しない」と念仏のように繰り返しているだけで、何の根拠も示しておらず、小沢氏控訴審無罪判決での認定や指摘は、殆ど無視しているに等しい。

このようなデタラメな判決がなぜ出されたのか、その背景には、刑事事件の事実認定、法令適用の最終判断を行う控訴審の裁判長が絶対的権力を持つ、刑事司法の歪んだ構図がある。裁判長の意向一つで、控訴審に持ち込まれた刑事事件の判断は如何様にもなるという専制君主の裁きのような異常な世界で、控訴審の裁判長が、極力排除しなければならないはずの「個人的な感情」に支配されて判断を行った場合、控訴審判決は単なる「意趣返し」の手段になってしまう。今回の事件は、そのような恐ろしい日本の刑事裁判の現実を示すものと言える。

陸山会事件の判決の経過と東電OL事件の屈辱的結末

秘書事件の一審判決については、本ブログで、「東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図」と題して、一審判決が事件の実体を完全に見誤ったものであること、検察が4億円の虚偽記入の動機に関して、水谷建設からの裏金1億円を立証するという本来関連性のない事実の立証を認めてしまったために、土地購入代金の原資が「ゼネコンからの裏金であることの隠蔽」が動機であるような無理な事実認定をせざるを得なかったと考えられることを指摘した。そして、その構図は、再審で無罪となった東電OL事件において、一審無罪判決直後に、控訴審の審理を行う東京高裁の裁判部が、無罪判決を受け無罪の推定が一層強く働くべき被告人に対して「罪を犯したと疑うに足る十分な理由がある」と判断して、勾留を認めた段階で、事実上、控訴審の逆転有罪判決の結論が決まってしまったのと共通していることを指摘した。

今回、秘書事件の控訴審判決を出した飯田喜信裁判長は、東電OL事件の逆転有罪判決を出した裁判部の裁判官の一人であり、しかも、主任裁判官として勾留決定においても判決においても中心的な役割を果たしたとされている。裁判長だった高木俊夫氏は既に死亡しており、再審開始、再審無罪判決が確定し、ゴビンダ氏の冤罪が明らかになった今、「一審無罪になった被告人を勾留し控訴審の逆転有罪判決を出して無実のゴビンダ氏を15年にわたって服役させた冤罪裁判官」としての汚名を一身に背負うことになった(裁判所での審理を含めて、この事件の冤罪原因の究明を求める動きもある。)。

飯田裁判長にこのような屈辱を与えることになった東電OL事件の再審開始決定、再審無罪判決を出したのが、同じ東京高裁の小川正持裁判長の裁判部(以下、「小川裁判部」)であった。しかも、この再審開始決定は、「新証拠の有無」だけではなく確定判決の心証形成にまで踏み込んで事実認定の誤りを指摘したもので、従来の再審に関する判断と比較すると異例の積極的な再審判断との受け止め方もあった(その後冤罪の決定的証拠が発見されたことで、結果的には再審開始決定の事実認定が正しかったことが証明された。)。飯田裁判長にとって「誤判」「冤罪」という結果に終わった東電OL事件は、まさに屈辱以外の何物でもなく、終わり間近の裁判官人生の最大の汚点となった。この事件がそういう結末に終わったのは、同じ東京高裁の小川裁判長の裁判部が、再審開始決定で異例とも思える踏み込んだ判断を下し、冤罪であることを積極的に明らかにしたからにほかならない。

そして、その小川裁判部が、東電OL事件の再審無罪判決の僅か5日後に出したのが、小沢氏の控訴審無罪判決であった。

しかも、陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応でも詳述したように、小沢氏の控訴審無罪判決は、無罪の結論は一審判決と同じでも、その結論に至る過程が大きく異なる。一審では、石川氏ら秘書の収支報告書の虚偽記入については犯意も含めて認めた上で、「小沢氏に収支報告書が虚偽であることの認識がなかった可能性がある」との理由で小沢氏を無罪にしたものだったが、控訴審無罪判決では、収支報告書虚偽記入について秘書と小沢氏の「共謀」を否定しただけではなく、更に踏み込んで、秘書の虚偽記入の犯意自体も否定した。そして、検察と指定弁護士が事件の核心としていた4億円をめぐる偽装・隠蔽の意図がなかったとして、陸山会事件の構図そのものを否定した。

東電OL事件のことだけでも、飯田裁判長としては、小川裁判部に対して心中穏やかではなかったであろう。それに加え、小川裁判部は、秘書事件に関しても、小沢氏の犯意を否定するだけでなく、敢えて、秘書の犯意まで否定する判示を示すことで、秘書事件を担当する飯田裁判長に対して、「適切に証拠により事実認定を行えば、秘書についても無罪しかあり得ない」という強烈なメッセージを送ってきた。

飯田裁判長は、小川裁判部に対しては、内心「恨み骨髄」だったのではないか。

飯田裁判長にとって、小川裁判部からのメッセージを受け入れて、秘書事件について一審の有罪判決を覆して無罪の判断をするのは、何より耐え難いことだったはずだ。小川裁判部とは全く反対の結論、つまり、一審判決秘書の犯意や隠蔽の意図を認める結論を出そうとするのも、小川裁判部にここまでコケにされた飯田裁判長の「心情」としては、わからないでもない。

問題は、その判決の中身だ。小川裁判部とは反対の結論を出すことでリベンジしたいというのなら、自ら、或いは合議体の他の裁判官の力も活用して、小沢氏無罪判決の秘書に関する判示について問題点を徹底的に洗い出し、それを否定する根拠を示す方向で最大限の努力を行い、その方向で、説得力のある判決文を書くというのが、刑事裁判官の最上位の東京高裁部総括にまで上り詰めた「刑事裁判のプロとしての矜持」というものであろう。

しかし、実際の判決文の内容は、それとは凡そかけ離れたものだ。

前記ブログ東電OL殺人事件と陸山会政治資金規正法事件に共通する構図でも詳しく述べたように、健全な常識に基づく事実認定とは凡そかけ離れた異常な「推認」判決としか言いようのない秘書事件一審判決を丸ごと容認したものであり、秘書事件の控訴審開始の直前に出された小川裁判部の小沢氏控訴審無罪判決の緻密な事実認定と比較すれば、その中身のひどさ、杜撰さは素人目にも明らかだ。

そして、それ以上に異様なことは、飯田裁判部による秘書事件控訴審判決の中に、小川裁判部による小沢氏無罪判決の判決文を意識し、敵意をむき出しにしたと思える記載があることだ。

小沢氏事件控訴審判決

まず、小川裁判部の小沢氏控訴審判決の中の、小沢氏の秘書の石川知裕氏らの虚偽記入の故意を否定した部分を見てみよう。

《原判決は,石川は,Xとの交渉の結果,決済全体を遅らせることはできず,所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成し,所有権の移転時期を遅らせるには至らなかったとする。そして,原判決は,所有権移転の先送りができたと認識していた旨の石川の原審公判供述は信用できないとする。

しかし,関係証拠に照らすと,残代金全額の支払がされ,物件の引渡しがされて,本件土地の所有権移転登記手続に必要な書類の引渡しがされるなどしたことから,平成16年10月29日に本件土地の所有権が移転したとした原判断を不合理とすることはできないが,石川の上記原審公判供述は信用できないとする原判断は,経験則等に照らし,不合理というほかはない。

(ア)石川は,「本件合意書の1条において,本件土地の所有権を平成17年1月7日に移転することが取り決められたと考えていた。また,当時,所有権の移転と登記名義の移転との違いをよく理解していなかったことや司法書士からの説明で所有権移転の先送りができたと認識していた。」旨を原審公判で供述した。

これに対し,原判決は,本件売買契約書の記載を見れば,所有権の移転と登記名義の移転が異なるものとして扱われていることは専門家でなくても容易に理解できる,高額の不動産購入に当たり本件売買契約書の内容を慎重に検討したはずであり,所有権の移転と登記名義の移転とが区別されるものであることを理解していたはずであるから,本件合意書により本件土地所有権の移転時期の変更などは合意されていないことも認識していたものと認められる,司法書士は,その立場等に照らせば,陸山会における経理処理や収支報告書の計上方法について,石川に助言をするはずがない, として,石川の前記公判供述は信用できない旨認定判示する。

(中略)

これらからすると所有権の移転時期については本件合意書によって変更されておらず,本件売買契約書に従って処理されることになると理解することも可能といえる。

しかし,本件合意書作成の経緯等を見ると,関係証拠によると,次の事実が認められる。

すなわち,石川は,本件売買契約後に先輩秘書からの示唆を受けるなどして本件土地公表の先送りの方針を決め,当初は本件売買契約の決済全体を来年に延ばすようにYに求めた。しかし,売主の意向が残代金は10月29日に支払ってほしいというものであったことから, Yの担当者が,司法書士から聞いていた仮登記を利用して,本登記を延ばすことを提案し,陸山会側がこれを了承し,本件合意書の作成に至った。その際,所有権の移転時期についての具体的なやり取りがされた様子はない。(下線は筆者)そして,前記のとおり,本件合意書の第1条には,残代金の支払時期及び物件の引渡し時期は明記されているが,所有権の移転時期については何ら明記されていない。

(イ)そこで,石川の認識についてみると,仮に原判決のいうように石川が所有権の移転と登記名義の移転とを区別して理解していたとすると,本件合意書の作成に当たり,所有権の移転時期はどうなるのかと聞いたり,本登記の先送りだけでなく所有権移転時期の先送りも本件合意書に明記してほしいなどという要望をすることになるのではないかと思われる。石川がそのような行為に出ていないということは,石川としては,所有権の移転と登記名義の移転とを区別して認識しておらず,これらを一体のものとして認識していたためではないかとみるのがむしろ自然ともいえる。

また,本件売買契約書及び本件合意書の内容について,原判決は,石川が慎重に検討したはずであり,専門家でなくても容易に理解できるとする。しかし,石川は, 10月29日の決済直前にいわば駆け込みで先送りを実現しようとするなど,慌ただしい状況にあったといえるのであるから,時間をかけて慎重な検討をするような心理的余裕がなかったのではないかとみる余地がある。しかも,陸山会側からの要望が契機であるとはいえ,本件合意書自体は,司法書士という専門家も関与した形でYから提案されたものである。法律の専門家でもない石川がそれを十分な検討を経ることなく信頼したということはあり得ることといえる。したがって,原判決のいうように石川が慎重に検討して理解したとはいい難いというべきである。

そうすると,石川が,本件合意書により,自らの要望どおりに所有権の取得も先送りできたものと思い込んだということもあり得ることといえる。

他方,本件合意書作成の経緯等からすると,売主であるXとしても,陸山会側の当初の要望である決済全体の先送りに応じることはできないが, 10月29日に残代金の支払が受けられ,物件の引渡しができれば足りると考えていたものとみられ,登記と所有権取得とを一体のものとして先送りするという陸山会側の明示的な要望があれば,これに反対するような状況は何らうかがえない。これは,前記のような石川の認識に矛盾しない。

以上からすると,石川としては,原判決がいうような所有権移転登記手続のみを遅らせるという限度で本件合意書を作成したとの認識であつたとは認め難く,登記と一緒に本件土地取得も先送りされたと理解したとみる余地があるといえる。したがって,これまで検討したような考察を欠いたまま石川の前記公判供述は信用できないとした原判決の判断は,経験則等に照らし不合理というほかはない。

以上のとおり,石川は,本件土地の取得を平成17年に先送りできたと思い込んでいた可能性があり,石川から本件土地購入等に関する引継ぎを受けた池田についても,石川と同様の認識であった可能性を否定できない。そうすると,本件土地の取得について,石川の平成1 6 年分の収支報告書不記載(本件公訴事実の第1の3 ) の故意,池田の平成1 7年分の収支報告書虚偽記入(本件公訴事実の第2の2 ) の故意はいずれも阻却されることになるので,これらの故意を認めた原判決の判断は,論理則,経験則等に照らし不合理であって,是認することができない。》

この中で重要なのは下線部分の「石川氏が登記と一緒に本件土地取得も先送りされたと理解した」と認める根拠についての判示である。不動産業者Yの担当者の公判供述を踏まえて認定されたものである。

そして、このような事実認定を踏まえ、小沢氏から提供された4億円の処理に関する石川氏の認識について、

《石川は,平成16年10月28日から29日にかけて,預金担保貸付の手続や送金手続を短期間で実行するという慌ただしい状況にあったこと,返済計画等の事後処理は池田に任せていることなどに鑑みると,本件預金担保貸付を利用した本件4億円の簿外処理は,ある意味で,その場しのぎの処理として慎重に検討することなく実行されたとみられるのであり,石川としては,前記のような本件4億円の簿外処理のスキームについてそれなりの形がつけられたなどと安易に認識していた可能性がある。また,前記のとおり,石川としては,本登記と共に本件土地の取得の先送りが実現できたと思い込んだ可能性があり,本件土地取得費等支出の計上についても,本登記と合わせて計上することで一応の説明がつかなくはないと考えていた可能性があることは否定できない。》

と判示して、石川氏の処理が、「その場しのぎの処理として慎重に検討することなく実行された」ものであると認定した。

また、「石川らが本件4億円の簿外処理(りそな4億円の借入れ)を実行したのは,被告人が4億円もの巨額の個人資産を陸山会に提供し陸山会が本件土地を購入したことについて想定される追及的な取材と批判的な報道を避けるため」だとする指定弁護士(検察官役)の主張に対しても、

《前記のとおり,石川は,本件土地公表の先送りの方針について,短期間で慌ただしく実現しようとしており,ある意味で場当たり的な計画であったといえ,所論がいうようなところまで石川が考えていたとは疑わしいといえる。本件土地公表の先送りと本件4億円の簿外処理を行っただけでは,つじつまの合わない状況は平成1 7 年分に先送りされるだけで根本的には解消されないし,そうした状況が生ずるのを避けるより有効な別の方法が考え得るところである(例えば,本件4億円を原資とする定期預金の名義を陸山会ではなく被告人とし,これを担保に陸山会がりそな銀行衆議院支店から必要な金額を借りたり,本件売買代金全額を陸山会等が保有する現金で支払い,それによる陸山会等の日常的な資金繰りの不足分をその都度必要な限度で被告人が負担したり,端的に本件売買代金のうち必要な限度でその一部を被告人の個人口座からの借入金で賄うなどの方法)。これらからすると,本件土地公表の先送りと本件4億円の簿外処理とが専ら連動しているとはいえない。そうすると,原判決の判断を不合理とすることはできない。》

と判示して、石川氏の処理が意図的な隠蔽であることを否定した。

小川裁判部の小沢氏控訴審無罪判決での石川氏の虚偽記入の故意、隠蔽の意図を否定する論旨は極めて明快である。

秘書事件控訴審判決

これに対して、秘書事件の控訴審判決(飯田喜信裁判長)は、石川氏らの故意に関して、以下のように述べている。

《原判決は,本件4億円の借入れ等に関する「不記載」及び「虚偽記入」について,被告人  石川の故意及び動機が認められるとしているところ,その理由付けを要約すると,次のようになる。

ア 被告人石川は,小沢から受け取った本件4億円を分散入金した上,後日りそな衆院口座に 集約している。このような迂遠な分散迂回入金は,本件4億円を目立たないようにするための工作とみるのが自然かつ合理的である。

イ 本件4億円は,本件土地購入の原資として小沢から借り入れたもので,実際に本件土地の取得費用等に充てられている。それにもかかわらず,被告人石川は,本件土地の残代金等を支払った後に,小沢関連5団体から集めた金員を原資とする本件定期預金を担保にした本件預担融資を組み,小沢を経由させた上で陸山会が転貸金4億円を借り受けている。本件預担融資を巡るこれら一連の経過をみると,被告人石川において,平成16年分収支報告書上,本件4億円の存在を隠そうとしていたことが強くうかがわれる。

被告人石川は,本件土地の購入を平成16年分収支報告書に記載せず,平成17年分収支報告書に記載しようと考え,被告人大久保を介して売主側と交渉し,所有権移転登記を平成17年1月7日に延期している。このような画策行為も,前記イと同様に,被告人石川が本件4億円の存在を隠そうとしていたことをうかがわせるものといえる。

エ 以上を総合すれば,被告人石川は,本件4億円の収入や,これを原資とした本件土地取得費用等の支出が平成16年分収支報告書に載ることを回避しようとする強い意思をもって,それに向けた種々の隠ぺい工作を行ったものと推認することができる。

被告人石川が本件4億円の収入等を平成16年分収支報告書に載せないように,種々の隠ぺい工作を行っていたとする原判決の推認の過程は,自然かつ合理的であって,種々論難する所論を踏まえて検討しても,被告人石川の故意及び動機を認定した原判決の判断に,論理則及び経験則に違反するところはない。》

これを、前に引用した小川裁判部の小沢氏事件の控訴審無罪判決の判示と比較すれば、秘書事件判決の石川氏の犯意と隠蔽の意図についての判示が全く理由になっていないことは明らかである。

例えば、小沢氏事件の控訴審判決では、不動産の所有権移転の時期についての石川氏の認識に関して、不動産業者Yの側からの提案によって、所有権移転の延期の合意が行われたと認定しているが(下線部分)、秘書事件控訴審判決では、「石川氏が売主側と交渉して所有権移転登記を延期した」とだけ認定している(下線部分)。

判決後の記者会見で、石川氏の弁護人の安田好弘弁護士が明らかにしたところによると、秘書事件控訴審でも、小沢氏の控訴審判決の記録の取り寄せが行われ、その記録中に含まれる不動産業者Yの証人尋問調書を弁護人が証拠請求したのに、請求却下されたとのことである。

所有権移転登記が延期された経緯や、それについての石川氏の認識等について小沢氏控訴審判決では様々な証拠に基づいて緻密な事実認定をしているのに、秘書控訴審では、その点について、小沢氏控訴審判決が根拠とした証拠を検討しようとすらしなかったのだ。

また、小沢氏事件では指定弁護士(検察官役)が主張しなかった水谷建設からの5000万円の授受の問題等については、

《原判決は,検察官が本件の動機ないし背景事情として主張する,① 本件4億円がその原資を公表できないものか否か,② 水谷建設からの5000万円の授受の存否の2点についても考察を加えて,① については,本件4億円は,その原資を明快に説明することが困難なものとの限りで認定することは可能であると,② については,水谷建設の社長が平成16年10月15日被告人石川に現金5000万円を手渡した事実が認められ,それが本件4億円隠ぺいの動機形成の一因になっていると説示しているが,そこまで至らずとも,被告人石川の故意及び動機は,前記隠ぺい工作自体から推認するに十分である。(下線は筆者)》

と述べた上、

《次に,② については,原判決は,前記社長の原審証言が信用できることについて詳細な説示をしているところ,所論を踏まえて検討しても,関係証拠に照らせば,その説示に不合理又は不相当な,点は何もないから,原判決の認定に誤りはない。》

と述べて、原判決の認定を丸ごと容認し、

《原判決は,それを前提に,平成16年10月当時,胆沢ダム建設工事の利権を巡って小沢が金員を受領した疑いがあるとの報道がなされ,同月19日にその記事が被告人石川にファックス送信されていることなどを併せみれば,被告人石川が,同記事の受領を契機として,よりー層本件4億円を隠ぺいする必要性を感じて,そのための工作に及んだとみるのが合理的である旨説示しているところ,被告人石川において,被告人大久保に前記2ウの交渉を依頼したのが平成16年10月24日か同月25日頃であり,また, りそな銀行衆議院支店長に預担融資を申し込んだのが同月28日であって,いずれも,前記送信から数日後に行われていることに加えて,小沢の選挙地盤で行われる工事の受注に絡みゼネコンから多額の金員を受領したという事柄の性質を併せ考慮すれば,被告人石川が,同記事の受領を契機として本件4億円隠ぺいの必要性をよりー層感じ,それが,上記交渉や本件預担融資等の各工作を押し進める方向に影響を与えたことは否定できないというべきである。②の点も,被告人石川の本件4億円隠ぺいの動機形成の一因になっており,ひいては,被告人石川の故意の存在を裏付けるものということができる。原判決は,同旨の判断を示しており,その判断に誤りはない。》

と判示して、裏金受領の事実が4億円の隠蔽の動機であると認定している。

「敵意丸出し」の判示

この中の下線部分の「そこまで至らずとも、被告人石川の故意及び動機は,前記隠ぺい工作自体から推認するに十分である。」の判示には、飯田裁判長の個人的感情が相当程度影響しているように思える。

その後に、その水谷建設からの5000万円の事実を、原判決と殆ど同じ理由で認め、しかも、それが、石川氏の隠蔽の動機形成の一因になったと認定しているのだから、「小沢氏事件では主張立証されていない水谷建設からの5000万円のことを除外しても、石川氏の犯意や隠蔽の意図は十分に認定できる」などと言う必要はないはずだ。わざわざ、そのようなことを言うのは、水谷建設からの5000万円の受領の主張・立証が行われなかった小沢氏事件の公判で、石川氏の犯意や隠蔽の意図を否定した小川裁判部に「喧嘩を売っている」としか思えない。

しかし、わざわざ「喧嘩を売っている」わりには、納得できるような根拠は何一つ示していない。その理由とされているのは、前記ブログでも詳述したように明らかに不合理な一審判決の「推認」を丸ごと容認しているだけだ。

しかも、石川氏の弁護人の安田弁護士が記者会見で明らかにしたところでは、秘書事件の一審で、全日空ホテルで5000万円を石川氏に渡したことを認める証言をした水谷建設関係者が、その証言が検察官の誘導によるもので、実際には渡した日時も相手も記憶にないことを認める陳述書等、5000万円の授受がなかったことを明らかにする証拠を請求したのに、飯田裁判長は、その証拠請求を却下したとのことだ。飯田裁判長には、事実に向き合う気も、小川裁判部の認定や判断と異なる判断を示すことについて納得できる根拠を示す気も全くないと言わざるを得ない。

要するに、「小川裁判部がどういう認定をしようとクソくらえだ。私の裁判部では、どんな判断をしようと私の勝手だ。ざまあ見ろ」と言っているようなものだ。

控訴審裁判長が「絶対権力者」となる日本の刑事裁判の歪み

日本の刑事裁判は、三審制とは言え、上告理由は、憲法違反、判例違反等に限られており、事実認定、法律適用については、事実上控訴審が最終判断であり、その当否が上告審で見直されることは殆どない。こうした日本の刑事裁判の現実の下では、控訴審の裁判長を務める高裁部総括判事というのは、まさに「刑事司法の絶対権力者」なのだ。

しかし、人の命や人生そのものを決定的に左右しかねない刑事裁判で、このような野蛮な判決が行われることは到底許容できない。

たしかに、刑事裁判では、共犯者間で、証拠が違えば同じ犯罪事実についても結論が異なることはあり得る。例えば、甲は、事実を全面的に認めて検察官請求の証拠をすべて同意し、同じ事実で起訴された共犯の乙は全面否認して証拠をすべて不同意にした、ということであれば、甲の裁判では、検察官請求の証拠だけで事実認定をせざるを得ないのだから、乙の公判での証人尋問の結果如何で、甲、乙の裁判の結果が異なるのは致し方ない。

しかし、今回の飯田裁判部による控訴審判決の問題はそれとは全く異なる。

同じ東京高裁の小川裁判部の小沢氏事件の控訴審で、秘書の犯意、隠蔽の意図等についても認定が行われ、判断が示された。そして、その根拠とされた証拠について、記録の取り寄せも行い、弁護人が証拠請求しているのであるから、その証拠を採用し、必要なら証人尋問も行うことも可能だった。そのような審理を尽くした上で、小川裁判部の認定がおかしいというのであれば、堂々とそういう判断を行い、最終的には最高裁の判断に委ねるべきだ。

ところが、この飯田裁判部の判決文には、そのような姿勢は全く見られない。東電OL事件での冤罪裁判官の汚名にもかかわらず、「刑事司法の絶対権力者」の地位にある飯田裁判長の傲慢さを象徴した判決と見るべきであろう。

石川氏は、控訴審判決を不服として即日上告した。憲法違反、判例違反等の上告理由はなくても、高裁の二つの判決で同一の事実についての認定・評価が真っ二つに割れているのであるから、「原判決を破棄しなければ著しく正義に反する」事由が問題になることは明らかだ。最高裁は、事実審理を行った上、小川裁判部の判断と飯田裁判部の判断のいずれが正しいのか、裁判所としての最終判断を示すべきである。

カテゴリー: 検察問題 | 5件のコメント

PC遠隔操作事件:反省なき「有罪視報道」の構図

「PC遠隔操作事件で警察が容疑者を逮捕」というニュース速報を見て、「完璧なサイバー犯罪者の仕業のように思えたが、とうとう警察の手に落ちたか。写真をメールで送りつけたり、猫に首輪を付けたりして現実空間に表れたことで墓穴を掘った。少し調子に乗り過ぎたということか。」というのが率直な感想だった。

「誤認逮捕で煮え湯を飲まされた警察が、まさに威信をかけて行った捜査の末に、マスコミに顔までさらさせて逮捕しているわけだから、余程の自信があってのことだろう。」と思ったし、逮捕直後の報道の内容からは、容疑者が犯人であることはほぼ間違いがないように思えた。

例えば、容疑者逮捕直後の2月12日の毎日新聞のネット記事。

《首輪に記憶媒体が取り付けられた神奈川県・江の島の猫をめぐり、片山容疑者とみられる男が猫に首輪を取り付けていたのは1月3日だった。5日に報道関係者らへ送りつけられたメールには、4日付の神奈川新聞と猫の首輪の写真が添付されていた。4日以降に取り付けたと見せかけるため、わざわざ、4日付の新聞を入手して偽装していたとみられる。合同捜査本部が防犯カメラを解析した結果、片山容疑者が記憶媒体の付いた首輪を猫にはめたのは3日午後3時ごろだった。

また、片山容疑者はこの猫が映った写真を保存していた携帯電話を先月、売却していたことも分かった。合同捜査本部はこの携帯電話を入手。写真は既に削除されていたが、データを復元したところ、問題の猫とみられる写真が見つかったという。この写真は5日に報道関係者らに送信されてきた猫の写真と同じ物だった。》

この記事によれば、容疑者が猫に記憶媒体を付けた首輪を取り付けているところが、防犯カメラの映像に残されており、しかも、容疑者が売却した携帯電には犯人が報道関係者に送信したのと同じ写真のデータがあり、それが復元できたように思える。そうであれば、容疑者の犯人性にはほぼ問題はないことになる。

容疑者逮捕の日に、私宛の「遠隔操作事件についてもご発言を!」というツイートに対して、「報道を見る限りでは、さすがに今度は間違いなく犯人という感じがしますが、万が一、真犯人が別にいて、いかにも犯人らしい人間が逮捕されるように仕向けたなどということが絶対にないと断言はできないので、今の段階ではコメントは差し控えます。」というツイートにとどめた。

私としては、まさか警察がまた誤認逮捕を繰り返すことはないだろうと思ったし、それを疑う根拠もなかったが、それでも、逮捕された容疑者は事実を全面否認していることに関して、「本当に大丈夫なのだろうか」という懸念は捨てきれなかった。それを、「万が一」という言葉に込めたものだった。

4人もの人が、身に覚えのない犯罪で誤認逮捕され、重大な人権侵害を受けた。その一方で、誤認逮捕した人から虚偽自白までとっていた警察・検察は厳しい批判を受け、面目は丸つぶれとなった。刑事司法機関を手玉にとり、重大な人権侵害を引き起こした「前代未聞の大犯罪者」の逮捕となれば、報道が過熱するのは致し方ないようにも思える。しかし、それにしても、逮捕後のバラエティ番組等で繰り返し映し出される容疑者の映像は異常だった。各社のカメラが、逮捕前から容疑者の周辺に殺到し、人気芸能人さながらに密着取材していたようだ。それら取材・報道は、明らかに「有罪視」「有罪決めつけ」そのものだった。少なくとも、読者・視聴者の多くは、そのような印象を持ったはずだ。

それから1週間が経ったが、その後の「報道を見る限り」、「万が一」の懸念は払拭されるどころか、逆に、高まっているように思える。

逮捕の2日後には、容疑者の弁護人となった佐藤博史弁護士が記者会見を行い、容疑者が「真犯人は別にいる。自宅や会社から遠隔操作ウイルスの証拠が出るはずがない。」と述べていることを明らかにした。

容疑者逮捕の最大の決め手となったのは、容疑者が江の島で、犯行に使われたウイルスのソースコードを含むメモリーカードを付けた首輪をぶら下げた猫と接触している映像が防犯カメラに残っていたことのようだ。しかし、首輪を付けた猫と接触しただけではなく、猫に首輪を付けたのが容疑者だと言えなければ、犯人性を認定するに足る証拠にはならない。

佐藤弁護士の会見を踏まえて、改めて、前記の毎日新聞のネット記事を見ると、「防犯カメラを解析した結果、片山容疑者が記憶媒体の付いた首輪を猫にはめたのは3日午後3時ごろだった」と言っているだけで、容疑者が猫に首輪をはめた映像が防犯カメラに残っていたとは書いていない。また、携帯電話に残された写真のデータについても、「この写真は・・・『同じ物』だった」という意味不明の表現が使われている。果たして、容疑者の犯人性の根拠となる客観的証拠があるのだろうか。新聞記事は、それを承知の上で、あえて、曖昧な表現で、読者に容疑者の犯人性を印象づけようとしたようにも思える。

警察に誤認逮捕をさせるという犯行態様からも、「警察・検察への恨み」が犯行動機になった可能性が高く、犯人を名乗るメールでもそのことは自認している。容疑者には、ネットへの殺害予告の書き込みの強要未遂事件で実刑判決を受けた前科があるため、そのことが、動機面で犯行を裏付けているようにも思える。

しかし、弁護人の接見で、容疑者は、「(過去の事件は)悪いことをしたと思っている。警察に恨みはない。」と説明しているという。過去の事件で警察に逮捕された際には、逮捕直後から素直に事実を認めていて、警察で自白を強要された事実もないということであれば、「警察・検察に恨みはない。」という容疑者の話も真実味を帯びてくる。単に同種前科があるというだけではなく、事件を起こしてから処罰されるまでの状況を詳しく調べてみなければ、前科から動機が裏付けられるとは限らない。

この他にも、容疑者に関して様々な事実が報じられているが、「犯人であることと整合する事実」、或いは「矛盾しない事実」ではあっても、犯人性を認定する決め手になるものではない。

逆に、容疑者の犯人性の立証の妨げになりかねない事実もある。

犯人が、1月5日に、マスコミ等に送りつけたメールに添付されていた写真に写っていた1月4日の神奈川新聞は、都内江東区在住の片山容疑者が入手可能だったのか、という点である。

この点について、《神奈川新聞は東京都内でも購入可能で、警視庁などの合同捜査本部は、都内で購入して写真を撮り、メールに添付したとみて調べている。》としている記事があるが(2月16日付時事)、神奈川新聞が都内で購入可能だと言っても、販売箇所が町田市内の駅の売店と中央区銀座の神奈川新聞東京支社だけに限られているようだ。「東京都内で購入可能」で片づけられる問題ではなく、1月4日中にこの2箇所のいずれかに容疑者自身が移動して購入した事実、或いは、他人から入手した事実が裏付けられないと、逆に、犯人性を否定する根拠になりかねない。

上記時事記事では「東京都内でも購入可能」としか書いておらず、容疑者の購入の可能性や裏付けについては全く触れられていない。何の問題意識もなく警察リークを垂れ流したのではなかろうか。

注目されるのは、アメリカのFBIの協力によって、遠隔操作に用いられたウイルスが、片山容疑者の関係先で作成されたことが裏付けられたと報じられていることである。

2月16日から、新聞、テレビなどで、「遠隔操作された名古屋市の会社のパソコンはインターネット掲示板を経由して、アメリカ国内のサーバーに保管されたウイルスに感染していた。警視庁から協力要請を受けたFBI=アメリカ連邦捜査局がサーバーの管理会社を捜索し、サーバーを差し押えたところ、遠隔操作ウイルスが見つかった。そのウイルスを解析したところ、容疑者関係先で作られたことを示す情報が含まれていたことが分かり、FBIから情報提供があった」と一斉に報じられている。

この報道は、犯行に使われたウイルスが「容疑者の関係先で作られた」ことを示す証拠が得られたことを報じようとしているのかもしれない。そうであれば、容疑者の犯人性に関する決定的な証拠ということになる。

しかし、もし、そのような決定的証拠が、外国の捜査機関の捜査協力によって得られたのだとしたら、情報の取扱いは慎重の上にも慎重に行われるのが当然であろう。取調べで被疑者に提示して自白に追い込む材料に使われるか、公判まで秘匿しておくべきものであり、それをマスコミが先行して報道することには強い違和感を覚えざるを得ない。このウイルス解析結果についての報道を額面どおりに受け取ることはできないように思える。

「記憶媒体を付けた首輪が猫に取り付けられたのと同時期に、わざわざ東京江東区から江の島まで出かけ、どこにでもいるような野良猫を抱いて写真まで撮っていたのが単なる偶然とは考えられない」というのは、容疑者を犯人と疑う有力な根拠のように思える。しかし、この「江の島の野良猫」は猫マニアの間では有名な猫だったという話もある。そうだとすると、猫マニアの容疑者が江の島に行ってその猫と写真をとること自体は必ずしも不自然な行動とは言えない。

容疑者が、問題のウイルスを作成するためのコンピューター言語を理解していて、ウイルス作成が可能だったことが立証できれば犯人性の有力な根拠となる。しかし、佐藤弁護士が明らかにしているところでは、現時点で、容疑者は、当該コンピューター言語は使えないと供述しているようだ。この点について容疑者の弁解を覆す立証を行うことは容易ではない(一方で、「当該言語が使えないこと」を弁護人側で立証することも困難であり、この点は、いずれの方向にも決定的な事実とはなり難い)。

今後の捜査の最大のポイントは、容疑者の自宅や職場から押収されたパソコンの分析結果だ。そこから、容疑者がウイルスを作成したしたことを示す何らかの痕跡が発見されれば、事件は一気に解決に向かうことになる。逆に、何も新たな証拠が得られなかった場合、起訴不起訴を決する検察官は極めて困難な判断を迫られることになる。

この種の事案に対しては、最も疑わしい容疑者の逮捕と関係箇所の捜索を同時に行い、パソコンを押収して分析結果に全てを託す、という手法に頼らざるを得ないのは、事件の性格上致し方ない面もある。そうだからこそ、逮捕した容疑者を犯人と決め付けることに関しては、慎重な対応が必要であるのに、これまでの報道で、そのような配慮が十分で行われているとは言い難い。

誤認逮捕までさせられ、犯人にコケにされてきた警察にとって、まさに威信をかけた捜査だったはずだ。それだけに、コンピューターの専門家も動員した特別チームで、徹底した密行捜査を行った上に、突然の容疑者逮捕、という展開になるべきであった。しかし、今回の事件の捜査をめぐる状況は、それとは凡そ異なっており、逮捕前からマスコミが容疑者に殺到し、逮捕直後は、有罪視報道に埋め尽くされている状況は、過去の重大事件の度に繰り返されてきた歪んだ犯罪報道の構図そのものだ。

 

裁判員制度の導入の是非をめぐって議論が行われていた時も、重大な刑事事件の容疑者が逮捕されたときに、マスコミの露骨な有罪視報道が裁判員に犯人性についての予断を与えかねないことが大きな問題点とされ、マスコミ倫理協会、新聞協会等でも様々な議論が行われた。その後も、有罪視報道が行われた末に、起訴されて無罪となった事件、再審無罪となった事件など、冤罪事件が相次ぎ、その度に、犯罪報道の在り方、捜査機関とマスコミとの関係が問題とされ、真摯な反省がなされたはずだった。

しかし、今回の事件をめぐる警察捜査の経過、マスコミの動き、報道内容を見ると、そのような過去の問題への反省は、殆ど忘れ去られていると言わざるを得ない。

この事件の捜査の展開や起訴の見通しについては予断を許さない。まずは、捜査の経過を冷静に客観的に見守るべきであろう。その上で、今回の事件の報道を全体的に検証し、今後の犯罪報道の在り方、捜査機関とマスコミの関係等について、改めて検討する必要がある。

 

 

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映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」と「供述調書中心主義」

 欧米で導入され、組織的犯罪に関して証言を得るために重要な機能を果たしていると言われる「証人保護プログラム」を題材にした映画が上演されていると知り、久しぶりに映画館に足を運んだ。

 タイトルは「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」

 火災現場で、消火・救助活動に大活躍する若い消防士Aが、偶然立ち寄った街角の小さなグローサリー・ショップで、店主親子が、店の立退きを要求していた男達に、銃で惨殺されるのを目の当たりにする。唯一の目撃者となったAも殺されそうになるが、命からがら逃げ延び、警察官、検察官から、犯人が、過去にも同様の凶悪犯罪を繰り返しながらも、重要証人やその家族を殺害することで処罰を免れている、最も凶悪な犯罪集団のボスであることを知らされた上で、法廷で目撃証言を行うことを求められる。幼い頃に両親と死別し、家族のいないAは、証言をすることを決意する。Aは、「証人保護プログラム」によって、名前を変え、戸籍、住民登録などもすべて抹消され、幽霊のような存在になって、もともとの住居地から遠く離れた都市に移り住んで、警察の保護下に置かれる。しかし、犯罪組織の側は、警察内部者を賄賂で籠絡するなどしてAの個人情報を突き止め、Aの所在だけではなく、そこで知り合った女性警察官との関係まで突き止め、二人を殺そうとする。そして、組織のボスである犯人が直接、Aの携帯に電話し、「証言したら、将来、結婚して子供を作っても、目の前でその子供を殺してやる」と脅す。Aは、自らその犯人を殺すこと決意し、犯罪組織に立ち向かっていく…。

刑事裁判の在り方、とりわけ、供述調書の位置づけに関して、深く考えさせられる映画だった。組織を背景にした犯罪の証人が、「幽霊」のような存在になって、身を隠さなければならず、家族や親友まで危険にさらされる。アメリカ、イギリスなどでは、そういう事態が現実に発生するからこそ「証人保護プログラム」が導入されている。

 これまで、日本では、このような事態があまり起きることがなく、「証人保護プログラム」が制度化されなかったのはなぜか。その大きな要因は、日本の刑事裁判が、基本的に「調書裁判」だったことだ。供述調書による立証が基本的に否定され、法廷証言による立証に頼らざるを得ないアメリカ等の国では、その証人を威迫し、場合によっては抹殺して証言をできないようにしてしまえば、どのような犯罪を行っても、処罰を免れることができる。犯罪組織の力が強大であればあるほど、証人は危険にさらされることになる。その証人を守るための徹底した「証人保護プログラム」が必要となるのは、ある意味では必然だ。供述調書が刑事事件の立証の重要な手段として位置付けられてきた日本では、このようなことはあまり起きなかった。

 映画の中に、犯人が、身柄も拘束されず、ウイスキーを飲みながら証人出廷を予定している目撃者に電話で脅しをかけるシーンがある。日本では、このようなことは考えられない。目撃者が警察、検察に対して供述し、法廷で証言することを約束している場合、犯人は、その供述調書に基づいて逮捕され、起訴後も、「罪証隠滅の恐れがある」という理由があるので、保釈は認められない。そして、日本の場合は、証人が、公判廷の犯人の前で供述を翻した場合でも、検察官の取り調べで作成した供述調書の内容が、「特に信用できる情況で行われた」と裁判所が認めれば、刑訴法321条1項2号の書面として調書が証拠として採用され、有罪認定を行うことが可能であるし、仮に、供述者が殺害された場合には、「供述者の死亡で公判供述が不能」ということで、供述調書を同条項3号書面として証拠とすることもできる。日本でも、広域暴力団等の反社会的組織の間で、拳銃等による抗争事件が発生することはあるが、暴力団犯罪でも、証人を威迫したり、殺害したりする事例は、決して多くない。それは、証人を抹殺したり、威迫しても、供述調書による立証という手段が可能である以上、罪を免れることができないからだ。捜査機関や検察官が、犯人と証人の間に、「供述調書」という手段によって強力に介入することが可能となる、日本の刑事裁判における「調書中心主義」は、少なくとも、凶悪な組織的犯罪の抑止という面では、効果的なものだったと言えよう。

 一方で、「調書中心主義」による刑事裁判が、供述調書をとることの自己目的化、意に反する供述の強要などの不当な取調べ、供述の捏造などによる冤罪の危険を孕んでいることも否定できない。大阪地検特捜部の郵便不正事件、東京地検特捜部の陸山会事件をめぐる不祥事等は、まさに「調書中心主義」の問題点が露呈したものだ。こうした取調べや供述調書の作成をめぐる問題の発生を受けて、冤罪防止のための刑事司法の抜本改革に関して、「調書中心主義」を「法廷証言中心主義」に変えていくべきとの声や、取調べの全面可視化を求める声が高まっている。

 そこで、しばしば持ち出されるのが『十人の真犯人を逃すとも一人の無辜(むこ)を罰するなかれ』という刑事裁判における格言である。確かに、理念としてはその通りであり、密室での取調べで作成される供述調書によって無辜が罰せられたり、不当な身柄拘束を受ける事例が多発している以上、それを根本的に見直そうという動きが出てくるのは当然だ。しかし、一方で、法廷証言中心主義がもたらす現実の世界は、映画で描かれているように、証人ばかりでなく家族や親友までが危険にさらされ、証人は「証人保護プログラム」によって「幽霊」のように身を潜めざるを得なくなり、凶悪犯罪組織が野放しになってしまう危険があることも否定できない。「調書中心主義」そのものを否定することが、日本社会にとって正しい選択であると言えるのか、躊躇を覚えざるを得ない。

 この「証人保護プログラム」の必要性の問題は、取調べの全面可視化に関する議論にも密接に関連する。英米などでは、捜査機関が、弁護人の立ち会いなく、密室で、被疑者を取り調べること自体が認められていない。取調べはすべて録音・録画によって可視化され、その内容は、法廷での証言と同様に扱われ、検察官、弁護人、双方から証拠として使うことができる。日本で、検察などで既に実施されている取調べの可視化は、録音・録画は、調書の読み聞かせをしている場面など取調べの一部に限定するもので、弁護人の立ち会いも認められない。基本的に、調書中心の立証を維持し、それを補完するものとして、取調べの録音・録画を活用しようというものだ。これに関して、日弁連などからは、録音・録画の範囲を「一部」ではなく、「全過程」とするべきとの意見が出されている。確かに、現在、検察が導入している取調べの可視化は、都合の良いところだけを録音・録画して、都合よく有罪立証に使おうというもので、密室での不当な取調べによって供述者の意に反する供述調書が作成されることによる冤罪を防止のために効果的なものとは言えない。取調べを全面的に可視化し、録音・録画するというのは、冤罪防止という面では最も徹底したやり方ともいえる。

 しかし、取調べが全面可視化され、その録音・録画が裁判の証拠として使われることになると、アメリカ、イギリスの刑事裁判のように、供述調書による立証は基本的に否定されることになる。その方法を、あらゆる刑事事件について導入するとすれば、凶悪な組織犯罪に対しては、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」のような「証人保護プログラム」の導入も必要になる。現在日本で導入されている取調べの可視化では、録音・録画した記録媒体は、それ自体が犯罪事実を証明するための証拠としても使われている。しかし、日本の制度を手本に刑事訴訟制度を作っている隣国韓国では、録音・録画は、取調べが適切に行われ、供述者の供述が正しく調書に記載されたことを示す証拠とされるが、直接、犯罪事実の証拠とされるのではない。

 大阪地検不祥事からの信頼回復のために設置された「検察の在り方検討会議」でも、検察の取調べの可視化の在り方が中心的議題となったが、そこで、私は、取調べの「全過程」を記録化するが、「直接証拠化」せず、検証の際の材料とすること、すなわち、取調べの記録は、弁護側から取調べの状況に関して問題が指摘された際に、実際の取調べの状況を確認するためだけに用いることを提案した。しかし、会議では、「直接証拠化」の是非はほとんど争点とはならなかった。取調べに関して問題となったのは、供述調書が、検察官のストーリーの押し付け、威迫、利益誘導等の不当な取調べによって作成されたことであり、まず必要なことは、そのような不当な取調べが行われないようにすることだ。最大の問題は、不当な取調べが行われても、捜査機関側が否定すると、その事実を公判で立証することが困難だったことである。そのような不当な取調べを防止するためには、取調べの全過程を録音し、供述調書の信用性に関して取調べ状況が公判で問題とされた時に、録音記録で確認できるようにしておくことが有効だ(陸山会事件の虚偽捜査報告書作成問題において、隠し録音をしていたことで取調べの問題が判明したことからも、録音だけでも十分に有効なことは明らかだ。)。この方法であれば、「供述調書による立証」を基本的に維持しつつ、不当な取調べを抑止することが可能だ。録音・録画を直接証拠として使わなければ、「証人保護プログラム」が必要となる事態も避けられる。

 刑事裁判における立証が、供述調書中心に行われてきたことと、検察が日本の刑事司法の中核として「正義」を独占してきたこととは不可分一体の関係にある。刑事事件の真相は、公判廷ではなく、検察官の取調室で解明され、その解明された真実が供述調書化され、判決で調書どおりの事実認定が行われるというのが、日本の刑事司法の枠組みであった。それが、「供述調書至上主義」の特捜検察の独善、暴走を招き、大阪地検の郵便不正事件の不祥事では「ストーリー捜査」による冤罪、陸山会事件では、虚偽の捜査報告書で検察審査会を欺くという重大な問題が明らかになった。しかし、一方で、このような検察中心の旧来の刑事司法の枠組みの下で、公判証言に頼ることなく検察官調書によって犯罪の立証が可能だったことから、凶悪な組織犯罪で証人が危険にさらされることも防止できた。それが、日本社会の安全に貢献してきたことも確かである。

 このように検察官が刑事司法の正義を独占し、供述調書中心の立証が可能であったのは、取調べを行い供述調書を作成する検察官に対する、高度の信頼があったからである。取調べに関する問題が多発し、検察に対する信頼が根底から失われていることが、刑事裁判における供述調書の活用を否定する方向の議論の背景になっていることは否定できない。度重なる不祥事によって信頼を失墜し、特に、拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)でも詳述した陸山会事件をめぐる不祥事への対応で、当時の法務大臣をして「検察は今後50年信頼を回復できない」と言わしめるほどの大失態を犯してしまった検察には、もはや、刑事司法の中核機関として「調書中心主義」を支える資格も能力もない、とされるのも無理からぬところである。

 しかし、少なくとも、凶悪な組織犯罪に対しては、従来のような、検察を中核とする「供述調書中心主義」で対抗していくことが極めて有効な手段であることは間違いない。日本の社会を、「証人保護プログラム」が必要とされる世界にしてしまわないために、「供述調書による立証」という日本の刑事裁判の伝統的手法を維持することの意義は大きい。そのために不可欠なのが、検察に対する社会の信頼が確保されることである。これまで、凶悪組織犯罪とは基本的に無縁であった特捜部が「検察の正義」の象徴のように位置づけられ、その威信や看板を維持することを目的とした捜査によって様々な不祥事を起し、検察全体の信頼の崩壊につながってしまったことは、日本社会にとって、誠に残念なことだと言えよう。検察の信頼を回復するためには、信頼崩壊の最大の原因となった特捜部の不当捜査の実態、とりわけ、「陸山会事件捜査の暴走」と「検審騙しの策略」の内実を自ら検証し、そのような事態を招いた検察組織自体に関する問題(拙著「検察の正義」ちくま新書、「検察が危ない」ベスト新書等を参照)を明らかにすることだ。

 日本の社会を、映画「ファイヤー・ウィズ・ファイヤー」の世界にしないよう、凶悪組織犯罪に対峙できる刑事司法を維持するために、「供述調書による立証」は極めて重要な手段だ。そのためには、検察が「供述調書」の適正さ、公正さを担保できる信頼できる組織であること、そのために組織の在り方を抜本改革することが不可欠だ。

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原発問題をめぐり交錯する議論の座標軸

12月4日公示、16日投票の今回の総選挙に向けて、原発問題が最大の争点になることが必至の状況の中、各党の原発に対する政策・議論が揺れ動いている。

橋下徹大阪市長が率いてきた「日本維新の会」は、当初は「脱原発」を明確に打ち出していたが、都知事を突如辞任した石原慎太郎氏の「太陽の党」と合流したことでトーンダウン、「先進国をリードする脱原発依存体制の構築・原発政策のメカニズム ・ ルールを変える=ルールの厳格化」という方向に変わった。政策実例の中に「結果的に2030年代までに原発はフェードアウトすることになる」という文言を残したことをめぐっても、石原氏との対立が表面化するなど混乱が生じている。

既成政党の中では、「2030年代の脱原発」の閣議決定をめざしていた政権与党の民主党は、明確な閣議決定を見送り、「革新的エネルギー・環境戦略を踏まえて、関係自治体や国際社会などと責任ある議論を行い、国民の理解を得つつ、柔軟性を持って不断の検証と見直しを行いながら遂行する」という閣議決定にとどまった。

一方、かつて長期政権で原発推進を一貫して続けてきた自民党は、「原子力の安全に関しては、『安全第一』の原則のもと、独立した規制員会による専門的判断をいかなる事情よりも優先します。原発の再稼働の可否については、順次判断し、全ての原発について3年以内の結論を目指します。」と基本的に原発維持の方針を堅持している。一方、共産党、社民党は、「原発を再稼働せず、即時廃止」の方針を掲げている。

こうした中、嘉田由紀子滋賀県知事が、10年後の原発廃止をめざす「卒原発」を政策の中心に据えた「日本未来の党」を結党し、小沢一郎氏が代表を務める「国民の生活が第一」、亀井静香・山田正彦氏らによる「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」、河村たかし名古屋市長が代表を務める「減税日本」などの政党が合流し、にわかに日本維新の会と並び「第三極」の中で注目される存在となった。

しかし、現状を見る限り、総選挙に向けての原発をめぐる議論が、十分にかみ合っているとかと言うと、決してそうとは思えない。

これまでの議論は、「再稼働を容認するか否か」、「脱原発を認めるか否か」についての二分法的な評価に終始し、また、政党の側も、選挙での勝敗への影響ばかりを意識し、原発に関する根本的な議論を敢えて避けているように思える。

原発問題に関しては、これまでは、現在福島原発事故によって殆どが停止している全国の原発の再稼働を認めるか否かに関して、個々の原発の安全性と、短期的な電力需給に関わる問題ばかりが議論されてきた。

しかし、国政選挙の政策として争われるべき原発をめぐる議論は、決してそのような表面的なものにはとどまらない。原発問題は、文化的・社会的要因、経済システム的要因、軍事外交的要因など、まさに国家や社会の問題に関わる根本的な要因が複雑に絡み合っている。原発に関する各党の政策を判断・評価するためには、原発問題に関する根本的要因と関連づけて、原発の是非に関する基本的視点と実質的な理由が論じられなければならない。そのような議論をなおざりにしたまま、再稼働の是非と「脱原発」の標榜の有無という、2つの論点のみを表面的に取り上げていることが、この問題をめぐる議論を混乱させているように思える。

福島原発事故という重大な原発事故を経験した我々日本人が、当面の原発再稼働や将来的な原発への依存の是非という、総選挙の争点としての原発問題について、賢明な選択を行っていくためには、原発に関する積極論、消極論の論拠を的確に整理し、議論を客観化していくことが必要であろう。

原発肯定否定の理由(ABC左右)

原発消極論の論拠

まず、原発への消極論、原発の再稼働に反対し、原発を廃止すべきとする方向の意見について見てみよう。何と言っても、現時点での最大の理由とされているのは、「原発の危険性」[A]の問題である。

福島原発事故という悲惨な原発災害を経験したことを受けての議論であるだけに、原発事故の危険性の観点が原発への消極論の最大の理由となるのは当然である。危険性を理由とする消極論の中で中心となってきたのは、福島原発事故を踏まえた個別の原発の危険性の指摘[A―①]である。地震によって引き起こされる重大な原発事故のリスクに関して活断層の有無などが問題とされ、一方で、原発事故に対する備えとして、福島原発事故で問題となった防潮堤の高さ、非常用電源の装備、事故対応に重要な機能を果たした「免震重要棟」の存否などが問題とされるが、このような問題がクリアされさえすれば、将来的にも原発を維持してよいということにはならない。

原発の危険性という観点から、より根本的なのは、地震国日本に原発が存在すること自体が危険だという理由[A―②]である。そのような視点からの原発に対する慎重論、反対論は、かねてから存在していた。その観点の原発消極論からみると、福島原発事故は、まさに、地震国日本における原発の本質的な危険性が現実化したものと捉えられることになる。

次に、原発の稼働・活用に関して重要な要因として指摘できるのが、原発を所有し、運営する主体の「電力会社の問題」[B]である。

原発の稼働は、電力会社の経営問題と密接に関連する問題である。原発の停止は、火力発電の燃料費を増大させ、電力会社の経営に大きな打撃を与える。電力会社側にとって原発の再稼働を求める最大の理由はその点にあるのであるが、そのことは、表面的には理由とされない。地域独占、発送電の一体的運用によって競争から守られてきた公益企業としての電力会社に対する潜在的な批判に火を付けることになりかねないからである。むしろ、電力会社が経営上の理由によって原発を稼働させ、維持しようとしていることは、逆に、そのような電力会社の利益保護のために原発を稼働させることへの抵抗感につながっている。それは、電力会社の経営問題が、原発消極論の実質的な根拠になっているともいえる[B-①]。

そして、さらに根本的な問題として、発送電を一体的に管理運営してきた電力会社のこれまでの経営姿勢が、原発の存在を前提とする電力の大量供給・大量消費の体制を構築維持することにつながってきたとの見方がある。それが、電力会社をめぐる競争構造を発送電分離の方向に抜本的に改革すれば原発依存から脱却できるとする議論[B-②]につながり、消極論と密接な関連を持つことになる。

もう一つの重要な原発消極論の論拠は、環境破壊の視点[C]である。その中心にあるのは、福島原発事故で現実化したように、原発が重大事故を起こした場合、放射性物質を拡散させ、甚大な環境汚染につながること[C-①]である。そして、より根本的な問題として、使用済み核燃料の処理が困難であることから、原発の活用を続けることは、地球史的レベルの環境破壊につながることを問題にする視点[C-②]がある。

もともと、環境破壊を問題視する視点は、原発の絶対安全の神話が定着する中で、福島原発事故以前は、原発を資本主義の下での経済成長優先の考え方の象徴とみなす反資本主義的イデオロギー[C-③]と結びつけて見られることが多く、それが、原発反対派を異端視する見方にもつながっていた。福島原発事故によって放射能汚染が現実化したことで、原発と環境保護の関係についての世の中の見方は大きく変わったが、それは、ただちに、イデオロギー的な原発反対論につながるかといえば、必ずしもそうではない。

原発積極論の論拠

一方の、原発の再稼働に賛成し、原発を廃止すべきではないとする原発への積極論の論拠について見てみよう。

まず、原発再稼働の最大の理由とされてきたのが、電力の逼迫の問題[X]である。今年の夏の大飯原発再稼働の理由とされたのも、再稼働を認めないと猛暑となった場合の電力使用のピーク時に大停電が起き、一時的にでも病院等への電力供給が停止すると、患者の命に直結するという話だった[X-①]。しかし、実際には、記録的な猛暑となった今年の夏でさえ、大飯原発が稼働しなかったとしても、電力不足による停電等は起きなかったとされている。

むしろ、電力の逼迫に関して需要なのは、中長期的な観点からの国家的なエネルギー需給の問題であろう。エネルギー資源を殆ど持たない日本の場合、万が一、国際情勢の変化によって他国から原油等のエネルギー源が調達できなくなった時には、国民生活に致命的な影響が生じることとなる。そのような事態への安全保障の観点から、最低限の原発を保有すべきという考え方[X-②]が出てくる。

次に、経済的な観点からは、原発が稼働できないことによって火力発電の燃料代が高騰し、電気料金が大幅に上昇すること[Y]が、原発の稼働や廃止を求める意見に対する反対論の重要な根拠とされている。

この電気料金に関する視点も二つに大別できる、一つは短期的かつミクロな問題であり、電気料金の上昇が電力使用量の多い中小企業の経営に大きな打撃を与える[Y-①]という点が中心である。もう一つは、エネルギーコストの上昇が経済成長を抑制するというマクロの問題[Y-②]である。

もう一つ、現在の原発をめぐる議論の中で表面化することは少ないが、原発維持論の背景にある最も根源的な視点は、国家の外交・安全保障上の理由[Z]だと思われる。

まず、資源を持たない日本にとって、エネルギー源としての原発を保持しておくことのエネルギー外交戦略上のメリットを重視する考え方[Z-①]である。それから、被爆国であるとともに、戦争放棄を規定する憲法9条との関係で表立って口にされることは殆どないが、究極的な原発保持の理由として、核利用技術を自国に温存しておくことによる軍事上のメリット[Z-②]も考えられる。

要するに、国家として「強い日本」をめざす上で、原発の存在は大きな意義を持つことになるのである。

各論拠の相互関係

では、このような積極論、消極論の理由・根拠が、各政党の、実際の原発の再稼働の是非、原発廃止をめぐる議論の中で、どのように論じられているであろうか。

まず、これまで原発再稼働をめぐる議論の中で、主として消極論の理由とされてきたのは原発の危険性の問題であり、その中でも、実際に起きた福島原発事故との関連を強調しやすい [A-①]の個別の原発における具体的な危険性の指摘が中心であった。これに対して、積極論の理由とされてきたのは、基本的に電力需給の逼迫の問題であり、その中でも、弱者保護的な意味合いも持つ[X-①]の短期的な電力の逼迫による生命・身体の危険が強調された。

「原発の危険性」も「電力の逼迫による生命・身体の危険」も、それぞれ国民に分かりやすい話であり、しかも、それを100%否定することはできず、反論を受ける余地が小さいからであろう。

しかし、実際には、原発の廃止を求める意見には、上記のような理由・視点、が、それぞれ複雑に交錯しているのであり、決して単純な理由ではない。それらが必ずしも明確に整理して説明されないのは、根本的理由・論拠を明確に示すことが、政治的に、そして、選挙対策的に、必ずしもプラスにならないと考えられるからであろう。

原発積極論の立場から、[Z]の外交・安全保障上の理由を持ち出すことは、外交という政策判断に絡む問題であるだけに微妙な面がある。とりわけ、[Z-②]の核武装との関連性を口にすることは、被爆国であり、なおかつ、福島原発事故という未曾有の原発災害を経験した我が国においては「タブー」と言っても良いであろう。このような原発積極論は、いかなる理由の脱原発論とも、根本的なところで相容れないのは当然だ。

一方、原発消極派の側においても、[C]のような抽象的な論拠を持ち出すことは、「理屈抜きの反原発論」と受け取られ、反発を招く恐れもある。特に、反資本主義的イデオロギーによる[C-③]はなおさらである。そのため、[C]の論拠に基づく意見においても現実的な政策論として、[A]、あるいは[B]の論拠の方が重視される傾向がある。

上記のような原発に関する積極論、消極論の論拠の整理に基づいて、各政党の原発に関する政策を比較することで、議論を客観化できるのではなかろうか。

 

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陸山会事件の構図自体を否定した控訴審判決とマスコミ・指定弁護士・小沢氏の対応

11月12日、東京高等裁判所において、陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件で、検察審査会の起訴議決に基づいて起訴された小沢一郎氏に対する控訴審判決が言い渡された。

検察官役の指定弁護士の証拠請求がすべて却下され、即日結審したことから、控訴棄却で一審の無罪判決が維持されるという判決結果自体は、想定されたことであった。しかし、その判決理由が、私の予想を超えたものであった。

政治資金収支報告書への虚偽記入についての小沢氏の故意を否定しただけでなく、更に踏み込んだ事実認定を行い、重要な事項について、実行行為者である秘書の石川知裕氏及び池田光智氏について虚偽記入の故意がなかったと認定した。そして、それ以上に重要なことは、りそな銀行からの4億円の銀行借入れと定期預金の担保設定に関する指定弁護士や検察の主張の根幹部分を正面から否定する認定をしたことだ。

控訴審判決は、一審判決が認定した「4億円の簿外処理」について、土地代金支払いと融資金の口座への振込みの時間を細かく認定し、僅かな時間のずれだけなので、「石川としては、実質的には本件土地の取得費にりそな4億円を充てたことになると思っていた可能性があり、所論がいうような虚偽の説明をしているという認識がないということもあり得ることといえる」と認定した。
この事件の捜査の段階で、検察は、4億円の借入れと定期預金の担保設定は、水谷建設からの裏献金を隠ぺいするための偽装工作として行われたとの構図を描き、マスコミも、その偽装・隠蔽を「水谷建設からの裏献金疑惑」に結び付け、それこそが事件の核心であるかのように報道した。しかし、今回の判決では、被告人がそれを「違法な処理」と認識していたことを否定しただけでなく、実行者の石川氏にも虚偽の説明をしているという認識自体がなかった可能性があると認定したのである(一審判決も、この「4億円簿外処理」の偽装・隠蔽の意図を否定し「その場しのぎ」と認定していたが、マスコミは、それを一切報じなかった)。

そして、この「4億円の簿外処理」については、「石川が、先輩秘書からの示唆を受けるなどしたことを契機に、マスメディア等からの追及的な取材や批判的な報道を避けるため、本件土地の取得費の出所を説明しやすくするという目的で考え出したスキーム」と認定しているだけで、それが、「違法な処理」だとの判断は示していない、ということすら何ら判示していない。

今回の控訴審判決では、検察と指定弁護士が事件の核心であると考えた、4億円をめぐる偽装・隠蔽そのものを否定したところに重大な意味がある。

秘書事件の一審判決(登石判決)は、4億円の虚偽記入とは全く関連性がないにもかかわらず、水谷建設からの裏献金についての検察官立証を認め、証拠に基づかない推認に推認を重ねて4億円の銀行借入れと定期預金設定が、水谷建設からの裏献金と小沢氏からの現金4億円を隠蔽する目的であったと認定した。しかし、小沢氏の一審、二審で偽装・隠蔽の目的自体が否定された。その判断を前提にすると、登石判決における水谷建設の裏献金の認定は、完全に宙に浮いてしまうことになる。今回の小沢事件の控訴審判決が、同じ東京高裁で本日から始まる秘書事件の控訴審に大きな影響を与えることは必至だ。

そして、検察にとって更に重大なことは、こうして陸山会事件の構図そのものが否定されたことによって、それを前提にしてきた検察捜査が暴走であったということと、虚偽の捜査報告書まで作成して検察審査会を起訴議決に誘導していたという、東京地検特捜部の行なった行為の不当性・重大性が一層明らかになったということである。
「検察崩壊」書籍表紙写真
この虚偽捜査報告書作成事件と関連事件については、市民団体「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」による告発が行われていたが、本年6月末に、検察は、すべての事件を不起訴とした。本年9月に公刊した拙著「検察崩壊 失われた正義」では、厳正捜査・処分に向けて法務大臣指揮権の発動を検討していたことを退任会見で明らかにした小川敏夫元法務大臣、虚偽捜査報告書の被害者の立場である石川知裕衆議院議員などとの対談を行い、不起訴理由に関する最高検報告書が、全くの「ごまかし」「詭弁」だらけであることを明らかしたところ、発売前からAmazonのランキングで高順位を続け、長期間在庫切れになるなど、このようなジャンルの本としては異常なまでの注目を集めた。相次ぐ不祥事による検察の信頼失墜に対して世の中の批判的注目が高まる中、東電女性社員殺害事件における再審無罪判決や、PC遠隔操作事件での全く事実に反する自白調書の作成などで更に厳しい批判を受け「検察崩壊」が現実のものとなっているだけに、今回の判決で、検察が打ち立てた陸山会事件の構図そのものが根底から否定されたことは、検察にとって計り知れない打撃になったはずだ。

ところが、この陸山会事件の捜査・公判という司法の動きを、小沢氏の「政治とカネ」問題の追及材料として最大限に利用してきたマスコミは、事件の根幹となる「4億円簿外処理」の偽装・隠蔽目的が否定されただけではなく、石川氏の虚偽性の認識についてまで消極的な司法判断が示されたことを 、殆ど報じない。一審無罪判決も「黒に近いグレーの判決」などと歪曲して報じていたが、控訴審判決については「二審も無罪」という結論と検察審査会の起訴議決制度の見直しの必要を報じるだけ。この判決が陸山会事件の構図そのものを否定する内容であることは一切無視している。

陸山会の政治資金問題を最初にスクープし、検察捜査を先導する役割を果たしてきた読売新聞に至っては、『判決は、「現金4億円を記載すべきだとした1審の判断は是認できる」と指摘。虚偽記入が成立するかどうか具体的な言及はなかったが、「マスコミの追及を避けるため、石川被告が代表の4億円を簿外処理するスキームを考えた」と明確に述べている』などと判決を引用した上、「この日の判決が、元秘書らの控訴審にマイナスに働くことはないだろう」などという匿名の検察幹部のコメントを引用している。

しかし、判決は、(小沢氏の)「4億円の収入計上の必要性の認識に関する原判決の判断」に関して「おおむね是認できる」と述べて、小沢氏の認識を否定する一審の判断を是認しているに過ぎない。「現金4億円を記載すべきだ」との判断を是認するとは、どこにも書いてない。それどころか、石川氏についても、「実質的には本件土地の取得費にりそな4億円を充てたことになると思っていた可能性」を認めており、むしろ、同氏の4億円の記載義務自体についても消極的な判断をしているのである。同記事は判決の趣旨を歪曲し、過少評価するものと言わざるを得ない。
今回の判決によって陸山会事件の構図自体が否定されたことを正面から受け止め、これまでの報道内容について検証し、反省しなければならないのに、今のところ、マスコミには、そのような動きは全くない。

検察官役の指定弁護士の言動にも、検察官役の法律家の対応として、甚だ疑問がある。一審で、指定弁護士は、4億円の銀行借入と定期預金の預入・担保設定という「簿外処理」が、「資金の動きを複雑にして、第三者の目からわかりにくくすることを意図して行った巧妙な隠ぺい、偽装工作」と主張したが、一審判決は、「本件預金担保貸付について短期間で巨額の返済をすればかえってその異例さが浮き彫りになるおそれもあり、隠ぺい、偽装工作として積極的な意味があるかには疑問がある」「『金額が大きいので、被告人を借入名義人とした方が借りやすいと考えた』旨の石川供述を否定することはできない」「その場しのぎの処理として行われたとみるのが相当である」「指定弁護士の主張は採用することができない」と述べて、その主張を明確に排斥した。

一審判決は、事件の性格に関する指定弁護士の主張の根幹を否定したものであり、マスコミが大合唱していたような「黒に近いグレーの判決」ではないことは、判決文を法律家の頭で虚心坦懐に読めば理解できたはずである。「元代表の共謀共同正犯の成立を疑うことは相応の根拠がある。」というような表現も「検察審査会の民意」に対するそれなりの配慮が働いたと見ることもできた。

ところが、指定弁護士は、本来、「検察官としての控訴」なのであるから、原判決破棄に向けての相当程度の見込みを持って行うべきであるのに、敢えて無謀な控訴を行った。それは、消費増税法案の審議を控え、政治的にも重要な局面にあった時期の小沢氏を、さらに被告人の立場におくことで重大な政治的影響を与え、小沢氏は、民主党内で復権を果たすどころか、小沢派議員とともに離党し新党を結成するという行動に至った。
その無謀な控訴の結末が今回の判決である。審理不尽の控訴理由に至っては、僅か9行で「所論に理由がないことは明らかといえる」と斬り捨てられ、事実誤認の主張についても、一審判決では若干は働いていた可能性がある「検審の民意への配慮」もすべてそぎ落とされ、石川氏ら秘書の故意も含めて指定弁護士の立証の構図そのものが否定されるという、まさに「惨敗」を喫したのである。

ところが、判決を受けて指定弁護士が行った会見での発言が、また信じ難いものであった。「判決が政治資金の処理は秘書に任せておけばよいというメッセージにつながらなければよいが」などと凡そ法律家とは思えないコメントをしたり(現行政治資金規正法が政治資金の処理を会計責任者・事務補佐者に委ねているのであり、そのことで裁判所を批判するのは全く的外れである)、検察の捜査資料の“不備”を敗訴の理由にしたりしたと報じられている。

確かに、検察の暴走捜査の末、虚偽の捜査報告書まで用いて誘導された検察審査会の起訴議決に基づいて選任され、公訴維持のみの役割を担わされた指定弁護士の立場には気の毒な面もある。その中で、一審において起訴事実の立証に最大限の努力が行われたことには敬意を表すべきであろう。しかし、一審判決後の対応は、検察官としての役割を担う法律家としてあるべき範囲を超えているように思える。事件の性格、判決の内容から考えてそもそも憲法違反、判例違反の上告理由などあろうはずもない。100%覆る可能性のない控訴審判決を謙虚に受け止め、すぐにも上告断念を表明すべきである。

もう一つ、全く不可解なのが、控訴審判決が、これだけの完全勝利に終わったのに、「指定弁護士が上告を断念し、事件が確定した段階でコメントする」ということで、何のコメントもしていない小沢氏本人の対応である。
無謀な控訴を行ったのと同じ弁護士であり、上告されたら政治的なダメージが大きいので、指定弁護士を刺激することは避けたい、という配慮もわからなくはない。しかし、判決を報じるのは、同日・翌日のニュース、記事であり、その後にコメントしても殆ど意味はない。上告理由もないのに上告するという暴挙を恐れて、判決に対する必要なコメントを行う機会を失するべきではない。まずは、裁判所の公正な判断を評価し、それまでの検察の不当捜査、虚偽捜査報告書による検審騙し疑惑についても、適切な批判を行うべきであろう。

小沢氏は、検察の陸山会事件の暴走捜査の被害者である。しかし、西松建設事件での秘書逮捕以来の小沢氏のこの問題への対応には、首を傾げざるを得ない点が多々あった。陸山会事件での秘書3人の逮捕に対しては、翌日の民主党大会で「民主主義の危機」と徹底批判した小沢氏が、その秘書3人が起訴され、自らが不起訴になったときに「公平・公正な検察捜査の結果と受け止める」とコメントしたことについては、朝日新聞「私の視点」で、「小沢氏の対決姿勢はどこへ」と題して厳しく批判した。そのような対応が、秘書を「人身御供」にして自らは助かろうとする姿勢のように受け取られたことが検審の素人の審査員の判断に影響した可能性もある。そして、その検審の議決を受けて起訴された第一回公判では、小沢氏は、「公正・公平」と持ち上げていたはずの検察を、一転して厳しく批判した。このような首尾一貫しない対応のために、検察の暴走、マスコミのバッシング報道に対して、適切な批判を行う機会を失った面があることは否定できない。
そして、信じがたいのは、小沢派議員の中には、この事件について「小沢潰しの陰謀論」が渦巻き、裁判所までもがその陰謀に加担しているかのような見方があったことだ。4月26日の小沢氏一審判決を前に、多くの小沢派議員が「有罪判決」を予想していたという信じられない話も聞いた。そのような極端な見方をすることが、逆に、小沢派議員を異端視する見方につながり、検察やマスコミを利することになることに思いを致すべきであろう。

今回の事件では、検察の暴走捜査、マスコミによる小沢バッシング、検察審査会の「民意」などによって、世の中に「小沢悪玉論」が蔓延する中で、一審、二審とも法と証拠に基づく冷静で客観的な判断が行われ、裁判所の司法判断の公正さが示されたことに敬意を表したい。
一方で、暴走捜査の結末が、裁判所に事件そのものの構図が否定されるという惨憺たる結果に終わった検察、暴走を煽り、一体化してきたマスコミ、そして、上訴の判断の冷静さを欠いた指定弁護士には猛省が必要である。一方の被害者である小沢氏の側にも、検察の暴走捜査への対応について率直に反省すべき点があると言わざるを得ない。

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法務大臣人事の怪

田中慶秋氏が、とうとう法務大臣を辞任した。
就任時の記者会見で、検察と警察の違いもわかっていないかのような、しどろもどろの答えを繰り返して、記者達を唖然とさせ、数日後に、外国人からの違法献金が指摘されても、過去の暴力団関係者との交際等の問題が次々と報じられても、「大臣の職責を果たしてまいりたい」と開き直り、法務大臣としての答弁を求められて国会の委員会に呼ばれると「公務」を無理やり作って欠席、翌日の閣議にも欠席して病院に入院、退院後も辞任を拒んでいたが、結局、「体調不良」を理由とする辞任コメントを出しただけで、記者会見も開かず辞任。就任後、僅か3週間だった。

そのような大臣を任命したことへの反省があれば、さすがに後任の大臣の人事は、十分に職責を全うできる、これ以上はないという人物が選ばれなければならないはずだ。

ところが、何と、そこで後任に選ばれたのは、前任の法務大臣の滝実氏だった。
滝実氏は、6月初めに野田首相から交代を言い渡され、辞任会見の場で、「陸山会事件をめぐる虚偽捜査報告書事件で、検察が国民の納得が得られない処分をすることに対して、指揮権発動を検討していた」と明らかにした小川敏夫氏の後任として法務大臣に就任したが、「僕自身はもう年なので、できるだけ外してもらった方がいい」と発言して、在任僅か4ヶ月で交代した。その後任として田中慶秋氏が登場し、法務大臣史上に残る醜態を晒す原因を作ったのも、滝氏の「年齢を理由とする退任希望」だったと言える。

滝氏はなぜ退任を希望したのか。僅か4ヶ月での自ら交代を希望するぐらいなら、最初から大臣就任を受諾しないのが普通だ。年齢の影響もあって、体力・気力がもたない、或いは体調が悪いので、到底大臣の職を続けられないという実質的なことが理由だと誰しも思ったはずだ。
野球で言えば、4回途中で、「もう年なので、これ以上投げられない」と言って自ら希望して降板したようなものだ。
その後に登板した投手は被安打と暴投の連続、1回ももたず、史上稀にみる大量失点を浴びて降板、すると、ついさっき降板した高齢投手が、またマウンドに。前日の試合で途中降板させられたのが不満で、再登板を命じられれば喜んで投げる投手がブルペンにいるのに。
なぜ、法務大臣を交代させられたことに強い不満を表明し、まさに「やる気満々」だった前々任者小川敏夫氏ではなく、自ら大臣降板を申し出た滝氏が選ばれなければならないのか。

現在、検察が直面している問題との関係で、法務大臣は、歴史上、かつてない程重要な職責を担うべき立場にある。その立場との関係で言えば、前任者滝氏と前々任者の小川氏との間には決定的な違いがある。

陸山会事件をめぐる虚偽報告書作成事件については、検察は、6月末に、田代検事、佐久間元特捜部長ら関係者すべてを不起訴処分にするという、「身内に大甘」の処分を行い、マスコミから厳しい批判を浴びた。まさに検察が行ったのは、小川氏が在任していたら、指揮権発動も辞さず、決して容認しないと言っていた「国民に納得できない処分」だった。そのような処分に対して、法務大臣として何らの対応もせず、容認したのが、後任の滝実氏だった。

「検察崩壊」書籍表紙写真その際、不起訴理由と調査・捜査結果としてとりまとめられた最高検報告書が、全くの「ごまかし」「詭弁」だらけであることを指摘、徹底的に追及したのが拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)。同書では、小川敏夫氏との対談も収録している。以下に、その一部を引用する。

小川 僕自身が指揮権を発動しようと考えていたのは、まさにそこに理由があります。こういう結果が出ることは、ほぼ間違いない状況だったからこそ、指揮権を発動することを考えた。法務大臣がそれを了承してしまえば、それでおしまいになる。しかし、検察は国民からすごい批判を受けますよね。検察の不正・腐敗を国民から隠すのが法務大臣の役割かというと、そうではない。国民の側に立って、事実を明らかにするのが役割です。
郷原 私も『組織の思考が止まるとき』(毎日新聞社 2011年)の中に書きましたけど、法務大臣の指揮権というのは、まさにそういう検察不祥事のときにこそ前面に出して、積極的に使わなければいけないものだと思います。
小川 僕もそう思ったし、今でもそれは自信を持っています。
郷原 もし小川さんが法務大臣だったときに、検察がこういう内容の報告書をまともにあげてきたとしたら、具体的にはどういう対応をされていたでしょうか。
小川 このような報告書が出るまえに、指揮権を発動してしまっていたはずなので、そういうことは起こらないですね。(笑)
郷原 具体的にはどのように指揮権を発動されたでしょう。
小川 僕もそこまでの証拠関係をにぎっているわけではないから、何が何でも刑事事件として立件しろ、とまでは言えない。だけど、万が一、結果が不起訴であったとしても、捜査、調査等について、国民が納得するだけのことはとことんやった上での判断でなければだめだ、ということです。だから納得できるだけの捜査をとことんやりなさい、と指示するでしょう。
郷原 もし検事総長に対してそういう指示をされても、なおかつ、同じような結果を持って来られたとしたら。
小川 納得できるまで質問します。
(中略)
郷原 要するに、小川法務大臣が考えられていた指揮権の発動というのは、国民が納得できるだけの十分な捜査を指示する。そして、大臣自身が納得するまでは、大臣として人事上の処分を了承しないということですね。そうすると、なかなか決着しないということになりますね。
小川 でも、今回の問題を、なにも急いで5月、6月に不十分な形で終わらせなきゃいけない客観事情はないんです。
郷原 そうですね。
小川 時間がかかっても、事実を徹底的に明らかにしたほうがいいわけだから。
郷原 それは結局、検察内部で、笠間治雄総長が退任して小津博司総長に引き継ぐ、という事情があるから・・・。
小川 人事の都合かなにかでこうなっている。
郷原 検察はそんなことを言っていられる場合じゃないと思うんですけどね。
小川 僕は、今回のようなことをやってしまったからには、もう今後50年は、検察は信頼回復できないと思います。
(中略)
郷原 検察がこんな報告書を出してしまったことは、もう今更どうにもならないんですが、一つ不思議なのは、それに対して滝法務大臣は何をしているのかということです。検察にとっても歴史上の汚点ですが、法務大臣にとってもそうです。しかも、滝法務大臣は、小川法務大臣が検察に対して厳しい方向で対応をされたときに副大臣だったわけですよね。
小川 そうです。
郷原 小川法務大臣が検察にどういう対応をされているのかを、政務三役として滝さんも基本的に理解していたのではないか、と思いますが。
小川 はい。やはり滝さんも、きちんとやらなければならないと言っていましたね。
郷原 それなのに、小川大臣が退任された後、滝法務大臣になってから最高検の処分や調査結果が出て、それに対して滝さんは何もやらないまま終わってしまった。これは、どういうことなんでしょうか。
小川 僕の場合は、法務省の役人の言うことではなく、自分自身で判断していましたから。でも、もし、最終的な処分や調査結果について、法務省の役人の話だけを聞いていれば、あ、そうかで終わってしまうのではないでしょうか。
郷原 ということは、法務・検察(法務省と検察庁)的には、やはり普通の法務大臣なら、こういう明らかにでたらめの処分や調査でもごまかせる。しかし、小川法務大臣だとどうしても具合が悪かった、ということでしょうか。
小川 まあ、物事が前に動かないってわけですよね。
郷原 小川法務大臣はしっかり原資料を見られているし、しかも検事・裁判官・弁護士の経験もある方。ちょっとごまかしがきかないということなんですかね。
小川 はい。結局、記憶違いなんかありえないのではないか、という僕の考え・姿勢は変わらないですよね。しかし、記憶違いでなければ困る、という検察の姿勢も変わらない。

就任後3週間で、法務大臣史上稀に見る醜態を晒したのが田中慶秋氏だが、その後任に選任された滝実氏は、検察の歴史上の汚点となった陸山会事件をめぐる虚偽報告書問題に関して、法務大臣としての職責を全く果たさなかったことで「法務大臣の歴史に汚点を残した人物」なのだ。

重要なことは、この陸山会事件をめぐる問題は、決して過去の問題ではないということだ。小沢氏の公判は11月12日に判決が予定されており、指定弁護士による無理筋の控訴に対する高等裁判所の判断が示される。
本来、検察が絶対に行ってはならない、無理筋の不当な捜査で政治に重大な影響を与えた陸山会事件に関して、東京地検特捜部が引き起こした「内容虚偽の報告書で、検察審査会の判断を誤らせる」という重大な問題に対して、裁判所がどのように判断するのかが注目される。

しかも、虚偽報告書作成事件等に関する検察の不起訴処分に対しては、告発を行っていた市民団体が、8月に検察審査会への審査を申し立てている。その議決も近く出されることになる。田代元検事等に対する検察の不起訴処分は、常識的にも到底納得できないものであり、起訴相当の議決が出される可能性が相当程度あるとみられている。

一回目の起訴相当議決が出ると検察が再捜査することになるが、その上で行う検察の処分がどうなるか、もし、検察が再度不起訴処分を行い、検察審査会で2度目の「起訴議決」が出された場合、検察の犯罪が、その検察自身ではなく、指定弁護士の手によって起訴され、立証されて裁判所で断罪されるという、検察にとって壊滅的な事態になる。
そのような事態を容認できるのか、検察の捜査・処分に対して指揮権を有する法務大臣が、どう対応するか、まさに、法務大臣にとって歴史上最も重要な判断が求められる場面がこれからやってくるのだ。

マスコミの多くが、小川敏夫元大臣の辞任会見時の指揮権発言を批判したが、その際、理由としたのが、検察の処分が不当であれば、法務大臣の指揮権ではなく、検察審査会の議決によって正すべきだ、という理屈だった。それが検察庁法の趣旨からしても通らないものであることは、上記拙著(207頁以下)でも詳しく指摘したが、仮に、そのようなマスコミの理屈を前提とするにしても、検察審査会で、検察の不起訴処分が不当で起訴すべきとの「民意」が示された後、なおも、検察が、不当な不起訴処分を維持するという「暴挙」に出たとき、それに対して法務大臣の指揮権発動が、「検察の信頼の全面的崩壊」を防止する唯一の手段であることは否定できないであろう。

他人のパソコン(PC)の遠隔操作による警察の誤認逮捕の問題でも、警察や検察の取調べで、不当な自白誘導が行われ、自白の信用性の必要な裏付け捜査も行われなかったことに関して、次々と新たな事実が明らかになるなど、検察官調書中心の立証という刑事司法のシステム自体に対しても、抜本的な見直しが必要になっている。

検察に対する国民の信頼が崩壊し、しかも、それが国民に対する重大な脅威になっていることが明らかな現状において、その検察に対する指揮監督者である法務大臣こそ、今、最も重要な職責を担う大臣だと言えよう。
そういう法務大臣に、醜態大臣の田中慶秋氏が全く不適任であったことは、あまりにも明白である。しかし、虚偽報告書作成問題に対して何の対応もせず、「法務大臣の歴史上の汚点」を残した後、年齢を理由に自ら降板を申し出た滝実氏に、この重責が担えるとは到底思えない。同じ直近の法務大臣経験者の中で、なぜ、小川敏夫氏ではなく、敢えて滝実氏を選任したのか、あまりにも不可解である。それでもあえて滝氏を法務大臣に選任するのであれば、野田首相には、極めて重い説明責任がある。

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孫崎亨著「戦後史の正体」への朝日書評の不可解

 本日(9月30日)の朝日新聞に、佐々木俊尚氏による孫崎亨著「戦後史の正体」の書評が掲載されている⇒http://bit.ly/V0wg4Z 私が読んだとは違う本の書評ではないかと思える不思議な書評だ。
孫崎氏自身もツイッターで批判しているように、同書では、「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などとは書いていない。同書が取り上げている、アメリカの意図によるとする検察による政界捜査は、昭電疑獄とロッキード事件だけであり、検察問題を専門にしている私にとっても、従来から指摘されている範囲を出ておらず、特に目新しいものではない。
 西松建設事件以降の小沢一郎氏に対する一連の検察捜査がアメリカの意向によって行われたものだという見方もあるが、私はそのような「陰謀論」には与しない。検察をめぐる問題は、そのような単純な話ではなく、むしろ検察の独善的かつ閉鎖的組織の特質にに根差す複雑な問題だ。私は、そのような検察に対する「アメリカの陰謀論」を基本的に否定してきたが、その私にとっても、同書の検察に関する記述には全く違和感がなかった。

 佐々木氏は、同書を「典型的な謀略史観」だというが、その「謀略」という言葉は、一体何を意味するのだろうか。
 日本の戦後史と米国との関係について、「米国の一挙手一投足に日本の政官界が縛られ、その顔色をつねにうかがいながら政策遂行してきた」と述べているが、それは、孫崎氏が同書で述べていることと何一つ変わらない。孫崎氏の著書は、アメリカ側の誰かと日本側の誰かとの間で、具体的な「謀議」があって、そのアメリカ側の指示に日本の政治や行政がそのまま動かされてきたというような「単純な支配従属の構図」だったと言っているわけではない。むしろ、孫崎氏の戦後史には、「謀略」という単純な構図ではなく、政治、行政、マスコミ等の複雑な関係が交錯して、アメリカの影響が日本の戦後史の基軸になっていく構図が、極めてロジカルに描かれている。従来の「陰謀論」とは一線を画した、具体的な資料に基づく、リアリティにあふれるものであるからこそ、多くの読者の共感を得ていると言うべきであろう。
 「戦後史の正体」を佐々木氏のように読む人がいるというのも驚きだが、あたかもそれが同書に対する標準的な見方であるように書評として掲載する朝日新聞の意図も私には全く理解できない。
 孫崎氏の「戦後史の正体」に関連して、拙著「検察崩壊 失われた正義」(毎日新聞社)が注目されたのも、これまで、秘密のベールに包まれてきた検察の組織の現状が、いかに惨憺たるものであるかを明らかにしたからだと思う。朝日新聞は、その拙著も、「検察の正義」をおとしめる「謀略」と捉えるのあろうか。

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